★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

腐乱する無常

2022-04-30 23:02:36 | 思想


峩々漆髪。縦横而為藪上之流芥。繊々素手。沈淪而作草中之腐敗。馥々蘭気。随八風以飛去。涓々臰液。従九竅而沸舉。


空海も修業時代に、腐乱する女性の死体をいくつも見てきたに違いない。無常観というのは、ゆく河の流れは絶えずして、のような茫洋とした感情ではなく、美人の髪が荒れ地に乱れちり、美しい手足が草むらに沈んで腐り果て、馥々とした匂いが風に紛れ、じくじくと体の穴から悪臭のする液体となって流れでる――こんな風景を見出すことだ。それは生をも死体によって意味づけてしまう残酷なものである。

これくらべると、平清盛が地獄の業火に焼かれて死んだり、義仲が田んぼでこけて射られたりするのはむしろ潔い美しい生としての死であるようにも思われる。われわれの討ち死にへの願望は、そういうところからも来ていたのかも知れない。戦争だってほとんどの死体は上の様な状態だったはずであって、まだ玉砕したイメージの方が耐えられる気がする。しかし、空海みたいなひとにとっては、かかるきれい事は、儒教や道教と同じく視野狭窄である。

巴御前は平家物語では、義仲が女をつれていると恥だからどこへともゆけと言ったことになっており、巴はそこらの敵の首をねじ切って捨ててんげりして落ち延びていった。巴は義仲の便女だったと言われている。とすれば、このエピソードも、おそらく、軍隊にくっついていた多くの便女たちの悲惨な生や腐乱死体を背景に置いておかなければ理解不能なのだろうと思う。だからこそ、巴は神秘的なものを伴った御前であり、実在というより死んでも生きている実在としての存在なのである。

経路未詳と交合

2022-04-29 23:49:14 | 思想


是以大臣文殊迦葉等。班芳檄於諸州。告即位於衆庶。是故。余忽承檄旨。秣馬。脂車。装束。取道。不論陰陽。向都史京。経途多艱。人烟瓊絶。康衢甚繁。径路未詳。一二従者。或沈溺泥中。抜出末期。或騁馬。奔車。先已発進。因茲。不棄微物。孑身負擔。糧絶。路迷。辱進門側。乞行路資。


経路は未詳である。未詳過ぎてわからないことを昔のひとはよく知っていた。最近は、未詳の他に道があると思う人が多い。すべてが未詳なのである。それを信じることが佛からの命令に従うことであった。

修行では、食べ物をもらわないと生きてゆけない。それが他人との縁をつくる――と同時に、自らの体が他人によって出来ていることを自覚させる。飽食の時代では、食べ物は他人との関係ではなく主観の問題となっている。

細は給食が楽しみでメニューをチェックして学校に行ってたらしいが、わたしは好き嫌い以前にあまり食欲がなく、給食のコッペパンもぜんぶ食べられたのは5年生の後半だった気がする。初めての給食の時間の衝撃をいまでも覚えている。目の前に70センチぐらいのコッペパンが置いてあったのだ。主観というのは怖ろしいもので、実際の3倍くらいに平気で物のサイズを変えるものなのである。

したがってわたしは、人々の小学校の記憶などというものをほとんど信用出来ない。勢い、そういうものに基づいて教育論をかたるなどおそろしくて出来ないのである。教育学部の学生は、こういう基礎からやりなおす必要があるが、そこに「生徒に寄り添う」とかいうジャーゴンが立ちはだかってしまう。寄り添う前に、認識の点検が必要なのである。

その点検なしにつらい人生を生きようとするから、たいがい前向きで生きてはいけない人間に限って前向きメンタルばっかりになりがちなのだ。昨日テレビを見ていたら、「魔女の宅急便」の紹介のせりふで「前向きに生きる少女」みたいなせりふがあって全部前向きにしてんじゃねえぞこら、と思わざるを得なかったわけである。けれども確かにそりゃ箒は後ろ向きには飛ばないのだ。キキの前向き?な行き方は、箒という物質にとらわれている。むろん、宮崎駿はよく分かっていて、最初に自信満々に町に乗り込んだキキが、交通事故やらをおこしそうになりながら箒の能力で切り抜ける場面がものすごい気合いで表現されているのである。

子ども向き?の作品の「夢を与える」みたいな性格は、主人公の真似を一応出来る、性質とセットであって、大ヒットする作品というのはそういうのが多い。ウルトラマンや孫悟空の真似は一応出来る、そして光線の部分は夢である。そして子どもは、手から光線が出ないことに気付いて自分の主観が身体的に限界づけられていることを知って行くのである。

そういえば「上を向いて歩こう」について、前向きな姿勢が感じられますよねと、以前、テレビのコメンテーターがまじめに言っていたが、もちろんちょっと気の利いたこととして言っていたのであろう――とは全く思えない御時世だ。歌詞の解釈ではなく、上を向く身体が問題だと自覚されていれば、言葉はどうでもよいことが分かるはずであるのに。

谷川俊太郎の詩に三善晃が曲をいくつか付けててそれを歌ったこともある。もっとも、なんとなくこの組み合わせは一体なんだろうと思っていたが、最近はやっぱりこの人たちはシティボーイで、馬糞の匂いがしないからだ、と思うようになった。吉本隆明がたしか評価してた、谷川俊太郎の「交合」を読み直したが、やっぱりなにかしっくりこない。

どのくらいの時間がたったのか分からない。めくるめくような感覚の流れはやんでいた。身を起こすと下腹にべったりと落葉がはりついて来た。私の羊歯は、私の身体の下敷になって押しつぶされ、その緑は以前よりずっと濃くそして濁っていた。葉先の細かい線が鋭さを失い、内側へめくれ始めている。同じ生命でありながら私たちは異種なのだ。胸の皮膚に不快なかゆみがひろがった。

谷川はゲーテとは違う。ゲーテは植物に主観的に入り込み、自分の詩神を見出したが、谷川は結局最後に羊歯と自分は違うということに気付く。そもそも羊歯と単独で性交しようというのが、ピグマリオンより更に慰撫的なのである。羊歯植物と交合するためには、周りに居るであろう虫やミミズや馬糞とも複合的に交合する覚悟が必要ではないのかっ。ちなみに吉本もシティボーイだ。彼の育った下町もむろんシティである。

2022-04-28 23:49:14 | 文学


私は、私の見たがらないいろんなきたないまわりのものをなるたけ目に入れないようにと両手で頬をおさえて左と右に見えるほしもの台やそこにかかって居る着物の色なんかを見えなくした。
 そして、ひろく、はてしもなくある内海の青い色と御台場の草のみどりと白い山のような雲と、そうした気持の好いものばかりを一生県命に見つめて居る。私の目の力がいつにもまして強くなったように、向ーに、ちょっピリとうかんで居る白帆から御台場の端に人間が立って居るのまで見える。涼しい風は夕暮の色をはらんで沖から流れる潮にのって来る。「何ていいきもちなんだろう」私は大きい声で云ったら、このおだやかさとしずかさのいい気持がとんで行っちまわないかと思われた。それで小さい自分にだけきこえる声で云った。
 まっさおの海の中に謎のようにある御台場のあの青草の中には蕾をもってるのも有るだろうし小っぽけな花のあるのも有るんだろう、キット。行って見たい事、前にもやしてある小舟を見てそう思いながらあのはじっこに坐って波のささやきと草の香りにつつまれて歌でもうたったらまあどんなに。


――宮本百合子「つぼみ」

再び見るべからざるものを

2022-04-27 23:20:59 | 文学


巴里は再度兵乱に遭ったが依然として恙なく存在している。春ともなればリラの花も薫るであろう。しかしわが東京、わが生れた孤島の都市は全く滅びて灰となった。郷愁は在るものを思慕する情をいうのである。再び見るべからざるものを見ようとする心は、これを名づけてそも何と言うべき歟。

――永井荷風「草紅葉」

復活と自由

2022-04-24 23:57:39 | 思想


隠士大驚曰。何謂地獄天堂乎。何為煩持衆物乎。仮名曰。作業不善。牛頭馬頭。自然涌出。報以辛苦。用心苟善。金閣銀閣。倏忽翔聚。授以甘薬。改心已難耳。何有決定天獄乎。余前。如汝迷疑。但頃日間。適遇良師之教。既醒前生之醉。

行いが悪い場合、自然に出現するのは牛の頭や馬の頭をした鬼であり、苦しみを与える。が、心の用い方が良ければ金や銀の宮殿が飛んでくるのであり、甘露を授けてくれる。心を改めることだけが重要であり、天国とか地獄とかがきまっている訳じゃない。むしろ心に沿って招来するものだ。自分もあなた方と同じく天国や地獄を外部にあるものとして右往左往していたのだが、良い先生に出会って酔いを覚ましたのである。

だからといって、天国や地獄は気分の問題なのではない。実際、牛や馬の頭の鬼が飛んできたり、金閣銀閣が降ってくる勢いの実在物である。

この心がけやら心の用い方というのは、一種の復活信仰であると思うのである。今日、大河ドラマで木曽義仲が討ち死にしていたが、巴御前とともに、「平家物語」で明らかに気合いを入れて描かれている二人である。この気合いも心の用い方であって、これが何回も義仲と巴御前を復活させることになるのである。この二人の話は、全国津々浦々にひろがり、よくわからんがいろいろなところに義仲や巴の伝説が出現することになる。義仲が育ったのはほんとうに日義村だったのかはわからない。小木曽の方だったのかも知れないし、もっと松本寄りの地域だったのかも知れない。しかし、彼が木曽を名乗る限り、日義村は明治になってから実在してしまったし、巴淵なんかもいつ頃からか実在している。富山にも巴が死んだところが残っている。そもそも巴は御前という単語まで引き寄せてしまうわけで、こうなると全国にいたであろう御前(ごぜ)たちもみんな巴御前みたいなものである。

賴朝が冷血漢、義経がサイコパス、みたいな認識はもう平家物語にあるわけで、それが今日の大河ドラマまで繰り返されている。これは復活である。これはよくわからんが日本武尊のエピソードから繰り返されている、激しく飛び出したやつが跳ね返って死ぬパターンで、神話みたいなものである。吾々はこのパターンからいまも心理的に出られない、輪廻のなかにある。

これに対して、この時代にひたすら日記をつけていた九条兼実は、なにかこういう輪廻に抵抗していた様な気がする。輪廻は渦でありそこに流されて行くものも多様で一見歴史に見える。これに対して、玉葉に書かれている有職故実なんかは、そういうあいまいな渦を許さない。正確な反復を要求する。これはある種の自由への道である。

幾千幾万。この反復に於て彼の手は全き自由をかち得る。その自由さから生れ出づる凡ての創造。私は胸を躍らせつつ、その不思議な業を眺める。彼は彼の手に信じ入つてゐるではないか。そこには少しの狐疑だにない。あの驚くべき筆の走り、形の勢ひ、あの自然な奔放な味はひ。既に彼が手を用ゐてゐるのではなく、何者かがそれを動かしてゐるのである。だから自然の美が生れないわけにはゆかぬ。多量な製作は必然、美しき器たる運命を受ける。

――柳宗悦「雑器の美」

安有定数

2022-04-23 22:36:57 | 思想


三界無家。六趣不定。或天堂為国。或地獄為家。或為汝妻子。或為汝父母。有波旬為。師有外道為友。餓鬼。禽獣。皆是吾汝。父母妻孥。自始至今。曽無端首。従今至始。安有定数。如環擾々於四生。似輪轟々於六道。汝鬢如雪。未必為兄。吾髪如雲。而亦非弟。是汝与吾。従無始来。更生代死。転変無常。何有決定州県親等。

「或天堂為国。或地獄為家。或為汝妻子。或為汝父母。有波旬為。師有外道為友。餓鬼。禽獣。皆是吾汝。父母妻孥」――あるときは天国が家であり、あるときには地獄が家出ある。あるときにはあなたの妻となり父や母にもなる。魔王を師とし外道も友達となる。ガキや禽獣も我にとってもあなたにとってもこれみな父母であり子である。

三界に家がないみたいなことは、孤独感を合理化するせりふではない。むしろ、ドゥルーズもびっくりの生成変化の様相なのである。輪廻転生は、歴史を見る視点とは違い、もうすでに現在において吾々はいかように関係づけられ名づけられ得る輪廻転生的な実態である。空海が「従今至始。安有定数」といってるのはすごくいいかんじである。われわれは認識を数によって安定させている。自分を一と認識しているから何とかなっているが、二以上と考えると変化などの一を持ってこないと安定出来ない。しかしその変化ですらひとつのものとして認識できるかわからない。われわれは一でもあり多でもあるなかを進んでいる(たぶん)だけなのである。

例えば或聴覚についてこれを鐘声と判じた時は、ただ過去の経験中においてこれが位置を定めたのである。それで、いかなる意識があっても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験である、即ち単に事実である。これに反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生ずるのである。我々に直接に現われ来る純粋経験に対し、すぐ過去の意識が働いて来るので、これが現在意識の一部と結合し一部と衝突し、ここに純粋経験の状態が分析せられ破壊せられるようになる。

――「善の研究」


いま気付いたのであるが、西田幾多郎の名前のなかにすでに一則多みたいなニュアンスが統一されている。

学びの迷い道

2022-04-21 23:12:13 | 思想


吾当為汝等。略述綱目。宜鑒秦王顕偽之鏡。早改葉公。懼真之迷。倶醒触象之醉。並学師吼之道。儒童迦葉。並此吾朋。愍汝冥昧。吾師先遣。然依機劣。浅示二儀之膚。未談十世之理。而各執殊途。争挙旗皷。豈不迷哉。

曰く、始皇帝が持っていた嘘をついている人間を映し出す鏡のこと、龍の絵を好んで描いていた葉公が実際の龍に仰天して逃げたことを思え、と。こういうエピソードは真実に向き合わずに迷っている人間を戒めるからであろう。われわれは屡々自らの真実の姿から遁走するのだが、思想や芸術のかたちでもその遁走を表現して糊塗してしまうことがある。それは盲人が象にふれてあれこれ言うようなものである。佛陀の教えはむしろ獅子の吠える声のようなもので、遁走としての虚偽を許さないのである。

ここまででも十分であるようなきがするが、このあとが問題である。曰く、佛陀が東につかわした儒童と迦葉は、東の人々が愚かだったので、二儀(陰と陽)の教えを仮に説いたが、十世之理を教えなかっただけである。であるから、未修のおまえたちが争ってもしかたがない。お前たちは単に迷ってるだけだ、と。

確かに、ここで空海はある種の「勉強の哲学」を述べている。勉強においてはいろいろな矛盾や葛藤に苛まれ、吾々は勉強のせいで迷った様に感じる。しかしそれを、メンタルとかなにやらで説明しているうちはだめで、勉強そのものによって解決するのが一番近道なのである。

われわれは、中途半端な学びの途中で「社会」とやらにでてしまうので、矛盾や葛藤を社会や自分の弱さのせいにする癖を大きく太らせてしまう。ますます迷いの道に入るだけである。そこででてくるのが社会道徳などである。

「真実の母さんてば……二郎さん、お前さんはどうかしていますね、きっと狐にばかされて此処へ来たのですよ。」
と、後は何かぶつぶつと口の中で独言をいうて、草藪の中を分けて行きます。二郎は悲しくなって、涙ぐんで黙って後についてまいりました。夜嵐は杉の木の梢に鳴り渡って、泣くように悲しい音を出す胡弓は、たえだえに聞かれるのであります。
「二郎ちゃん!」と一声何処かで声がする。二郎は歩みを止めて佇ずみました。誰れか自分の名を呼んだなと思いましたけれど、それっきり聞こえませんでした。余程来たかと思う時分に杉林の奥の方で太鼓の音がまたしても聞こえます。振り向くと、またしても、紅、青、紫の燈火が美しう輝やいていて、お祭りの賑かな景色が見えて、人通りの混雑ている中に此方を向いて手招きをする女はたしかに自分の死んだ母親の顔であります。
「お母さん!」と、思い存分に叫きますと、その声は木精にひびいて確かに母さんの耳にも聞えたのです。乞食は不意に後を向いて「やかましい。」と言いざまに持っている胡弓で二郎を力存分に打ちました。胡弓の柄はぽっきりと三つばかりに折れたかと思うと、物凄い夜嵐の音も、怒れる乞食の姿も美しいお祭の景色も総べて消えてしまって、いつしか二郎は月明の下に我が家の前に立っていたのであります。
 太郎は途中からよして、自分よりは疾くに家に帰っていて、二郎の帰るのを待ちつつ母や妹と心配しながら、果物などを食べていたところであります。母親だけは果物も何も食べんで寂しそうな顔付をしていました。
 これから兄弟とも今の母親の言うことをきいて孝行を尽しまして、母も益々二人を愛したそうであります。


――小川未明「迷い路」


わたしは、二郎は自らがなぜ母親を見たのか、もう少し考えるべきだったと思う。「真実の母さん」はほんとにあるのかも知れない。儒教は、――孝行はそれを断念するところに生じている。

暴言よりも紋切り型

2022-04-20 23:37:38 | 思想


夫挙鰭濫觴。不曽見千里之鯤。翥翮籓籬。何能知有九萬之鵬。是故。海上頑人。疑如魚木。山頭愚士。恠如木魚。則知。非難朱明。無人見豪末。非子野聡。何能別鍾響。咨乎。見与不見。愚与不愚。何其遙隔哉。吾聞汝等論。譬如鏤氷書水。有労無益。何其劣哉。


吉野家のお偉いさんが、早稲田でなにか不適切な比喩表現をしたとかで騒ぎになっていたが、――むかしからの古典の教養はこういう下品な比喩表現を禁ずるためにも必要なのかも知れなかった。一方では、表現に対する過剰な「紋切り型」への要求があり、従業員たちや学生や教員たちが何の味も閃きもない言葉を吐くことを要求され、他方で、下品なエネルギッシュな人間たちが怖ろしい表現で人を喜ばしたり脅迫し続けているのは興味深い現象である。そこには「文化的な紋切り型」の消滅がある。そう言っておけば、適切に説得的でありややつまらなくはあるが人から文句はでないそれが、「文化的な紋切り型」である。これが消滅すると、動物的なバカが弱い者に吠え続け、弱い者はなんのパッションもない言葉しか許されないのである。

プロレタリア文学あたりは、下品なパッションを支配階級から奪うために過剰とわかる比喩表現を用いた。

二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹をすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。
 赤い太鼓腹を巾広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接に響いてきた。


――「蟹工船」


ただ、大衆社会の中では、こういうパッションは、つねに権力のそれとしてすり替わってしまう。吉野家のお偉いさんを、支配階級だと思っている人間など居ない。われわれとおなじく閉じた大衆である。それが自分を強者と認識すると吠えてしまうだけである。

上の仮名乞児なんか、涙を流し悲しみを含んで諭しているせりふが上の様なのだ。つまり下品に簡単に言うと、視野の狭い者と愚者は、視野の広いものと愚かでない者と何の共通点もないのでどうしようもないです、と言っているだけなのである。昭和風に言うと、「馬鹿は死ななきゃ治らない」である。それを、小魚は大魚を見ることはない、小鳥は鵬を理解出来ない、漁師は山にある大魚の様な大樹を知らぬ、樵はその大樹の様な魚を知らぬ、となかなかしゃれている。のみならず、あなたたちは氷に彫刻をしたり、水面に絵を描く様なことをしているようにみえますね、ともはや「馬鹿は死ななきゃ治らない」どころではなく、ちょいと目を覚ませばよいかも、と思わせるところがある。

もっとも、仮名乞児が説得しているのは、儒教先生と道教先生であって、――今風にいえば、学校の先生と貧乏アーチストみたいな人たちなのである。それ以下の早稲田で滑り散らかした人に言っているのではなかった。

圧勝の謎

2022-04-17 23:19:36 | 思想


遂乃砥智慧刀。涌辨才泉。被忍辱介。駕慈悲驥。非疾非徐。入亀毛之陣。不驚不憚。対隠士之旅。於焉。出壘盤桓。入壁跋扈。因茲。先以孔璋檄。示以魯陽書。将帥悚慴。軍士失気。面縛降服。無労血刃。

議論よりも先に文章によってあっさりと儒教先生・道教先生は敗れ去ってしまった。これはとても重要なことだ。議論は人を説得出来ないのである。まずは、文章で一気に勝敗をつけておかなくてはならない。勝敗がついた理由を記述することはできない。その理由が存在しない勢いで行われてしまった決着だからである。思想上の決着は、吾々の下界の因果の世界とは異なる。

いま大河ドラマで鎌倉幕府の成立をやっているが、天皇・平家・源氏ら――すなわち下々の世界は、心理的因果性によってあっちゃこっちゃと動いていると認識する他はなくなっており、そこに世の中の謎はない。謎は、かえってイメージのみを示されることで生じる。仮名乞児は、そのみすぼらしさのイメージを捨て敵陣に堂々と入ってそのまま陣地を制圧するのである。この前の部分にあった様に、悟りの真実智を刀とし、弁舌の泉を沸かしながら、忍辱の鎧を纏い、慈悲の心を早馬としていること事こそが原因であるに過ぎない。それは不思議な謎であるが確実に起こっている事である。

この事は、吾々の心の中にはなく、「孔璋檄。示以魯陽書。将帥悚慴。軍士失気。面縛降服。無労血刃。」といった、書を以て乱暴者を制圧出来た過去の事柄であり、それに反応してしまったわれわれが、仏教の力にそこまでの力を想像してしまう順序によってなりたつ。

もともと吾々の心は、自然に個人の範囲を超える様にはできていないので、外にある主体(オブジェ)に反応するしかないのである。

「諸君、私は誤っていた。私は迷っていたのです。私は今日からビジテリアンになります。いや私は前からビジテリアンだったような気がします。どうもさっきまちがえて異教徒席に座りそのためにあんな反対演説をしたらしいのです。諸君許したまえ。且つ私考えるに本日異教徒席に座った方はみんな私のように席をちがえたのだろうと思う。どうもそうらしい。その証拠には今はみんな信者席に座っている。どうです、前異教徒諸氏そうでしょう。」
 私の愕いたことは神学博士をはじめみんな一ぺんに立ちあがって
「そうです。」と答えたことです。
「そうでしょう。して見ると私はいよいよ本心に立ち帰らなければならない。私は或はご承知でしょう、ニュウヨウク座のヒルガードです。今日は私はこのお祭を賑やかにする為に祭司次長から頼まれて一つしばいをやったのです。このわれわれのやった大しばいについて不愉快なお方はどうか祭司次長にその攻撃の矢を向けて下さい。私はごく気の弱い一信者ですから。」
 ヒルガードは一礼して脱兎のように壇を下りただ一つあいた席にぴたっと座ってしまいました。
「やられたな、すっかりやられた。」陳氏は笑いころげ哄笑歓呼拍手は祭場も破れるばかりでした。けれども私はあんまりこのあっけなさにぼんやりしてしまいました。あんまりぼんやりしましたので愉快なビジテリアン大祭の幻想はもうこわれました。どうかあとの所はみなさんで活動写真のおしまいのありふれた舞踏か何かを使ってご勝手にご完成をねがうしだいであります。


――宮澤賢治「ビジテリアン大祭」


宮澤賢治の最高傑作ではないかと思われるこの作品、結末は謎である。近代人たる宮澤賢治は、仏教だぞさあえらいんだぞ、と言っただけでは誰も言うことを聞かないことを知っていたが、如何したらいいのかはよくわからなかったちがいない。宮澤賢治自身も自分が結末にしてしまった「哄笑歓呼拍手」にどう反応していいいのかわからないのではないのか?