★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「虚空蔵聞持の法」の現代的効用

2022-02-28 23:45:51 | 思想


余、年、志学にして外氏阿二千石文学の舅に就いて伏膺し鑚仰す。二九にして槐市に遊聴す。雪蛍を猶怠れるに拉ぎ、縄錐の勤めざるに怒る。爰に一の沙門有り。余に虚空蔵聞持の法を呈す。其の経に説かく、「若し人、法に依つて此の真言一百万遍を誦すれば、即ち一切の教法の文義諳記することを得」。

三教指帰の最初に出てくる、この虚空蔵聞持の法ってやっぱいいとこついてんだろう。暗唱を中心とする猛勉強は今も昔も一種の世界を把握する神秘体験であり、一度それ体験すると、もう娑婆には帰れないわけだ。勉強しないと死ぬような体になってしまうのである。

それにしても、空海は結局、勉強していたら抜けられなくなってしまった、と言っているにすぎないが――これに比べて、優先順位をつけてまずは一位のものからやって行くみたいなみみっちいやり方をしている我々が駄目なわけである。どうしてこんな世の中に、こんなひどい人たちがいるの、という歎きがけっこうあり、そりゃそうだと思うが、我々が仕事の優先順位とやらをつけて自分のことを優先したからだよな、どうみても。空海みたいな猛烈な勉強家だと、勉強即ち世界であり、目の前に現れるモノから片っ端から解く他はない。かくして、池でもうどんでもなんでもござれである。

哲学の方から来た「中動態」という観念がみんなすきである。責任論や主体性論の余りのくだらなさに辟易した結果出てきた概念であることはわかる。しかし、よのなか議論よりも人間の方がつねにくだらなく出来ており、「中道隊」の群れみたいな感じになっている。それは、極端な事例をさけて――なにもしない主体である。で、その實そのなにもしないというのは主観の方からみた場合であって、びっくりするようなことを想定外として片付ける評論家精神である。寺田寅彦がむかし問題にしようとしてた偶然性とは、日本人のある行動とロシア革命とか、日本人のある行動とウクライナ侵攻のようなものの繋がりである。シュルレアリスムもそうで、解剖台での出会いは、猫がピアノを弾くのとは違って、現実の世界のことである。

そんなものを眺めるときには、優先順位をつけることはできない。

end of

2022-02-27 23:23:40 | 大学


今日はヒュームの研究者の最終講義を拝聴してきたので、帰ってからヒュームと喧嘩したルソーの「告白」少し読み直したけど、やっぱり友達は選んだ方がいいし、容易に国境越えてくるやつにはいろいろいるから、と思った。人間は、余白の動物だ。越境するのではなく、余白を歩いてしまうのである。ルソーはそんな人だろうし、ヒュームだってそうだったにちがいなく、その余白で戦争や友情が行われる。革命は違う。


文の起こり必ず。。

2022-02-26 23:06:08 | 思想


文の起こり必ず由あり、天朗らかなる時は即ち象を垂る、人感ずるときは即ち筆を含む。是の故に、鱗卦・聃篇・周詩、楚賦、中に動いて紙に書す。凡聖貫殊に、古今時異なりと云うと雖も、人の憤りを写す。何ぞ志を言わざらん。


さすが空海、いまの大学生ぐらいの歳のくせに、感じる即ち書いてしまうぞ、と言っているばかりか、それを天の様子、垂象とおなじようなもんだといい、――よくわからんが、あたかも空海が「天朗らかなる」感じの人物に思えてきてしまう訳である。志を言うというのは、中国的というべきなのかわからないが、とにかく、今日は天気がいいよねとかいうてお散歩している我々とは全然迫力が違う。

たしか島崎藤村が「緑葉集」のなかで「人生は大いなる戦いである」と言っていたが、なにか師匠の透谷と違い、この人の戦いは「人生」という枠がはまっている気がする。それはそれで実験的であると思うのだが、上の空海みたいなとんでもない思い上がりは消えている。芥川龍之介も「或る阿呆の一生」と言っていて、そこにも人生があった。芥川龍之介がそれを戦いだと思っていたことは、その「刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら」という末尾に現れている。

人生が戦いなら、負けるしかない。勝てば、生き続けなければならなくなり、それはもはや今も生きてる空海以外にはありえない。人間ではなくなる。

戦争は人生ではないし、人生は戦争ではないのである。

戦時中の小林秀雄が神皇正統記ほめてたんで、昨日から大急ぎで読み直しているのだが、――私の机の近くにあったのが、小林一郎講述の昭和一七年の皇国精神講座のやつだったんで、一郎氏の丁寧なんだか高圧的なんだかわかんない口調が面白くて本文が頭に入らない。。。とはいえ、このような口調はまさに私を滅したところにあったわけで、人生も無けりゃ私もない、というところが、――我々が危機に瀕すると、こういう滅私奉公か、右顧左眄的計画的撤退しかなくなるのはいつものことであると言わざるを得ない。そもそも、空海の言う「文の起こり必ず由あり」とは本当であろうか。むかしはそうだったかもしれないが、いまや別に何も由が無いからこそ文が起こっているやつがほとんどではないか。

戦争と平和

2022-02-25 23:05:19 | 文学



戦争はお愛想じゃなくて、人生における最大な醜悪事だ。われわれはこの点をよく理解して、戦争をもてあそばないようにしなきゃならん。

――トルストイ「戦争と平和」


トルストイのこの長編は、長すぎるとか、形式論理だとか、いろんな批判にさらされてきましたが、――戦争というものは、複雑な要因から起こる割には、形式主義的で長いのである。むかし、戦争における直線的な時間の発生について書いたことがあるが、我々はそういうことを望むことがある。

露西亜、ウクライナに侵攻

2022-02-24 23:18:55 | 文学


出でて去なば主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ春を忘るな

たしか小林秀雄や吉本隆明がこの歌を他人が作ったんだろうと言っていたような気がするが、実朝自身の歌が他人の歌から出でてともにあったことだし、まあ他人の作でも良い気がする。ちょっとセンチメンタルに流れすぎている気がするのは、道真の歌「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」に比べても、なにか梅に対するパワハラ度が薄い気がするからだ。道真は、太宰府まで匂いを届けろみたいな、ほぼ梅に死ねと言っているに等しい勢いであるが、上の歌は、梅の自主性に対する信頼がある。そんなに頼まなくても梅は咲く。それを歌い手は、軒端を眺めながらぼやっとしているのだ。

ゴーゴリ、スクリアビン、プロコフィエフ、ホロヴィッツ、リヒテル、ロシアの文化はかくもウクライナ

確かに、世の中は文化が帝国によって庇護されて開花しても帝国を愛でるし、戦争になっても戦場にそこに文化の担い手が生まれたことを懐しく歎いたりするものである。実朝だって、歌を詠んでいる場合ではなかったことも多いはずであったし、歌は趣味だったのかも知れないが、数々の戦の後でもわたくしたちに梅よ春を忘るな、と言っているだけでもいいではないか。まあ実朝でなくてもいいではないか。

若い頃のわたくしも馬鹿すぎて湾岸戦争はおれの卒業にあわせておこったなどと軽口をたたいていたが、年取ってくると、もうだめだとしか思えない。道真は若かったのだ。実朝はそれに比べて若くして老人のように生きることを強制されていたのではなかろうか。無論、戦争が起こると我々は死を思うだけでなくたぶん、精神的に老人になり死ぬ準備をはじめているのである。

あまりに実在的な

2022-02-23 23:45:10 | 文学


山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

山が裂け海が干上がるような世になっても後鳥羽院に対して二心を持つことがありましょうか。――山が裂け海が干上がったりしたら、死んでしまう。死んでも院に対しては二心なしと言い放つ実朝には、もう二心どころか、心もなく、もはや人間とは言えない。しかし、もともと天変地異みたいなはじまり方をしている我が国であり、それでも天から天皇が降りてきたとかんがえたし、天変地異を見据えながら天皇のことを考える習慣をやめていないという意味では、いまでも大して我々は違う世界にいるわけではない。山も海も水平に広がるものに過ぎない。しかし天皇は上から来る。それだけで違うものである。

実在していないものこそ「でなければならぬ」と言わなければならないことで実在するのであり、外部の実在に頼らないが故にはっきり実在するといえるわけである。西田幾多郎が虚空に想起していたのはそんなものである。でなければならない、でなければならない、と繰り返した西田はとりあえず虚空に場所を描く他はなかった。しかし、これはカルトではないし、戦争の遂行に役立ったわけではない。

研究報告書というのは、見通しをつけられた気をおこさせるけれども、研究の過程ではその見通しは存在しない場合があって、つまり研究上ではおこらない嘘によって進行させられている感がある。こうやってかえって研究の妨げになる訳よ。教育の報告書だってだいたいそうなのである。教育が進歩しないのは反省文的な報告書をいちいち書いて嘘をつき続けているからだ。よく、戦争がありえない目標が暴走したみたいにいうが、目標自体を暴走させるためには、嘘のエビデンスを提出できるやつこそが必要で、目標自体を自ら暴走させるタイプはかえって反時代的な存在であることが多いのだ。

民間に伝承されてつひに滅びなかつた口碑物語には、我々が代々の血で洗つてきたやうな真実と希望が、全然の嘘の中にさへ生きてゐるのである。

――保田與重郎「木曾冠者」


保田與重郎は、「嘘の中にさへ」と言っているが、私は、「嘘の中に」でいいと思うのである。

普通学校秀才は、試験の結果そのもののほうを自分のガンバッタ気持ちより上位に位置づけて考えているから結果が出るまで頑張る癖がついてしまうけれども、ふつう、自分の「思い」だけが問題で結果は関係ない人というのは多く存在している。この「思い」と上の「嘘」のほとんど同じモノなのである。真実が「結果」だと思っている秀才たちと、そこらがいつも意思疎通がうまくいかないところではあるんだが。。しかし、その学校秀才も自分が出した結果に対する「思い」だけの存在だけになりがちなので、まあ大して違いはない。やっかいなのは、結果も出すことは分かるし「思い」もわかるみたいな両方に媚びを売ろうとする人たちで、教育制度がこの心理的弱者に自己正当化を与えている。自分もそうだからこんなことを言うのはいやなんだが、だから教員というのは駄目なのである。

吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。それでも主人に云わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度に何とかかんとか不平を鳴らしている。


漱石は、教師の自意識を持ちすぎている。だから教師に人気がある。確かに教師をやった人の中にも、昔は文学者はいた。漱石は、そのまま文章の世界にい続けたから最後まで教師の匂いが抜けなかった。私は、その点、宮澤賢治も似ていると思う。しかし、宮口しづえあたりが違うようにみえる。わたしは宮口しづえの孫弟子みたいな人間だし、宮澤賢治の方じゃなくて藤村の方で考えてみたいわけだ。リアリズムを還元主義みたいなものから解放することが重要だと思う。

君が代に、上を向いて月を見る

2022-02-22 23:56:45 | 文学


君が代になほ永らへて月清み秋のみ空の影を待たなむ


後鳥羽院の御代、それがこれからも永らえてゆくから、月の清らかな秋空のの光のようなそれを待とうじゃないか、という。この月はどのように見えていたのであろう。我々はつい比喩とか簡単にいってしまうが、実際に月が見えているその見え方が問題だ。

今写真やテレビがすごく細かくきれいに映ってるために、われわれまでなんか物の見え方が細かくなってるんじゃないかな。なんかもっとおおざっぱな見え方してたと思うんだが。わからない。

下村寅太郎編の『西田幾多郎――同時代の記録』はなんか癒し系?なので、寝床の横に置いてあるんだが、娘の梅子さんとその夫金子武蔵の文章が好きだ。武蔵は、西田は漱石が嫌いだった、話すとまわりの悪口ばっかり言うてた、など言いたい放題だし、――梅子さんも父の文章は見ただけで頭が痛くなるみんな応接間の飾りにしてるんだろう、父は猫とは話すが私と話さない、内村鑑三の弟子に心酔していると「女の子にちやほやされるものにろくなものはおらん」と言い腐ったなどと、言っている。つまり何が言いたいかというと、ある意味、身内というのは悪口が言えるのであって、信者や弟子だけに立派な追悼されている人は駄目だなあということだ。いま梅子さんの文章読み直したら、自分の結婚についてさらっと「風采の上がらない金子に私が飛びつくはずはなく」、父が喜んでるんで同意したんだ、と書いてあった。西田だけでなく夫の悪口まで書いてしまう梅子様。

人間の見え方は、やはり――近くでないとその性格は自覚されない。言語がとびかいそれがパワーを持っている様な幻想が広がっている現代では、人間結局接近して見ないと分からない、という自明の理を忘れがちになるのである。

もちろん、本は人間より長生きだ。人間が書いたから忘れがちであるが、こいつは物体であり、土とか空気に近いものなのである。自分の部屋の本の中身をほとんど記憶していたような20代の前半の大青春に比べて、おれが死んだとき本どうしよみたいな心配がでてきた最近は、大蒼然みたいなかんじだ。希望は本はおれよりも長持ちしそうなことだけだ、そんなおれの思いと関係なく本は生きてゆくのである。

結局、そんな人間で無いモノに対しては、それを認識するのがかえって人間を捉えるよりも難しいというのは、人文学者なら知っていることだ。我々は脳が発達しすぎたせいで、その人間ないモノからの認識を狂わせると大変なことになる。

須藤詩登美の『マルクス主義討伐論』は「信濃毎日」に連載されていた。最後は、都市を否定せよ、みたいな主張を展開してる。ほんと、当時のマルクス主義の「転向」とは、思想的転回じゃなくて、こういう違うグループにうつったんだなと思わせる。須藤も自分は解放運動をやってるみたいな口調だし、戦前のいろいろなものを流れる基調は「解放」なんだな。抵抗とかではない。それはともかく、いろいろと調べると、マルクス主義に対する反論を掲げた本は昭和初期にはけっこう出ている。単に官憲が弾圧したんじゃないことは明らかである。

そういう認識の微調整をしながら学徒たちは生きてゆくのだが、――人間に対する認識はお互いに素手で創る彫刻のようなものだ。相手の知能ではなくへたくそな手つきにいらいらしてしまう者である。

というわけで、つい君が代よ、月よ、という風に上を向いてしまうのも人間である。

砕けて裂けて散るかも

2022-02-21 23:08:47 | 文学


大海の磯もとどろによする浪われて砕けて裂けて散るかも

われわれの中には、のんびりとした怠惰なものと、乱暴にものをたたき割る欲望が同居しているような気がするが、後者の欲望はなかなか満足されない。しかし自然の中にはけっこう砕けて裂けて散るものがある。波や河もそうだし、植物もゆっくりだが裂けて散る。虫たちもそこらでひっくり返って体がもげている。

私は、北斎の波と、古事記の英雄たちの破壊を別物だとは思わない。そして、そういうことを知っている芭蕉は、蛙がいたずら坊主に殺されるより池に落ちることを以て気を静めているだけのような気がする。我々の無常観は、そういう欺瞞と隣り合わせである。

芭蕉のような気の沈め方を、明治のインテリたちはショーペンハウアーなどで粉飾し「厭世観」と名づけたが、別にそれでなにかが解決したわけでもない。この程度のことで文学や研究やってりゃ、明治に新たに脱構築して強力になったところの、根っからの幇間や兵隊に根性の座り方において勝てるはずないし、ちょっと世の中に愛されただけでその動機がふっとぶのは当たり前であった。彼らには本質的にハイデガー的決断も「転向」もありえない。

昨今、そういう近代のにニヒリズムに対して、男の友情とか決死の何かを復活させようとする動きも、世の中にはあるわけである。しかし、大戦の記憶がわれわれを止まらせるだろうし、なにか友情というものには、うさんくささが漂っている。そこをあまりジェンダー的な議論にもってゆかずに、うまいこと言うみたいな手もあるような気がする。例えば、田辺聖子氏は『文車日記』中の「男の友情」を、男の友情は死に向かうもののため、男と女の友情は生きるためもの、みたいに結んでいた。義仲と今井四郎と巴御前と並べるとそういうことを考えると。ほとんど「木曽の最期」紹介しているだけなんだが、なんとなくいいこと言ってるエッセイでさすが人気作家ではある。戦争が、死の欲動のものとすれば、われわれはそれへの忌避から、「なるべく生きるか」、みたいな境地に達しつつある。我々の周囲では、もはや男女の結びつきの最高位に、友情が浮上しているのではあるまいか。

うみやそらとも見えわかぬ

2022-02-20 23:51:54 | 文学


空や海うみやそらとも見えわかぬ 霞も波も立ち満ちにつつ

こういう歌は一見深いように見えるが、実際は波も霞も空や海が区別つかないとしたらアホとしかいいようがない。区別がついているから区別がつかないと言っているに過ぎない。しかし、こういう事情も含めてまったく普通の出来事である。

根本的な区別の感覚というのは、もっと別の感覚である。例えば、朝、目の前に10本の気持ち悪いものがもにょもにょうごいてたのだが、自分の指だった。こういうことは定期的にあるよな、5歳ぐらいからあったように記憶している。ある種の乖離の感覚である。わたしはわりと怪獣映画が好きなんだが、なぜかというに、彼らには尻尾があり、彼らが尻尾をどう意識しているのか見ててすごく面白いわけだ。シン・ゴジラなんか尻尾がほぼ別の生き物みたいだったわけだし、さすがだ。

怪獣映画は、乖離的な感覚によくあっている。

この乖離の感覚は、結局、そのあと元に戻った感覚にも違和感が残るから、わたしのようなタイプは物事の同一性とか、言行一致みたいなものにこだわるようになるような気がする。最近は、SDGズとかグローバルサステナビリティとかマルチスピーシーズとか言いたい方は多いわけだが、わたしなんか、そういう主張とおしゃれな食事の乖離を許せない。まずは虫を食えと

そろそろわたくしもうどんに蝗のトッピングを試してみようかしらん。

結局は、田舎の感覚は一則多のようなものを要求するのだ。宮澤賢治は農業のことも鉱物のことも岩手のこともイーハトーヴのことも仏教のことも考えていてマルチだ何だといわれるが、わたくしの祖父だって小学校の国語の先生やりながら農家をやり、後年は地元の蚕産業?の経営の研究所やってたし、こういうタイプは田舎には多いんだよ。宮澤賢治はそのなかである種「出世」した人なのである。

安部公房は宮澤賢治を評価していた。で、箱男とか棒とかユープケッチャの話はもはやマルチスピーシズ的な世界に近づいているわけである。「カンガルーノート」なんか、彼の「銀河鉄道の夜」なのである。彼は農村的なものを嫌っていて、自分が〈都市的〉な人間として育ったと言っているが、怪しい。やはり彼は「田舎」もんなのではなかろうか。

我が越えくれば

2022-02-19 23:15:56 | 文学


箱根路を我が越えくれば  伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ

箱根の山路はさぞかし辛かったのであろう。確かに、そんな人間の眼前にこそ「風景」が現れる。なにしろ、山道をふらふら歩いたり這い上ったりすることは、まずもって視界が揺れているのである。わたしも登山を何回か経験してそう思った。

Strauss: Eine Alpensinfonie / Bychkov · Berliner Philharmoniker


シュトラウスの「アルプス交響曲」もそんな「風景」の出現から振り返って、登山の一部始終を気分の時間として描いている。

ふたくにかけてなかにたゆたふ――same space ヲoccupy スル

2022-02-18 23:36:58 | 文学


たまくしげ箱根のみうみけけれあれや ふたくにかけてなかにたゆたふ

枕詞の研究というのはしっかり勉強したことがないが、言葉を自動的に引き出す言葉とは、言葉による自然な繋がりを切断することでもあると思う。よく枕詞が邪魔じゃないな、とわたしなんかは思ってしまう。

あたかも、たまくしげと箱の関係のようなものは「ふたくにかけてなかにたゆたふ」と言っているようだ。それは「けけれ」(こころ)がそうさせているのである。この「心」というやつは、異物の間を調停するのではなく、「湖(うみ)」が「二国にかけてたゆたふ」ように跨がっている。漱石が、

二個の者が same space ヲ occupy スル訳には行かぬ。甲が乙を追い払うか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみじゃ

とか言うてるのも、ほんとは二個の有り様をなんとかする心の有り様を知っていたからではなかろうか。漱石は漱石なりに、それをわすれた社会をかわいそうに思っていたに違いない。same space ヲoccupyスル とか、わざわざこんな不自然な書き方をして、こんな不自然さがわれわれの社会なのであるといっているような気がする。

謝恩会

2022-02-17 23:26:00 | 大学


謝恩会。

町のものもみんな笑いました。署長もすっかり怒ってしまいある朝役所へ出るとすぐいきなりバキチを呼び出して斯う申し渡したと云います。バキチ、きさまもだめなやつだ、よくよくだめなやつなんだ。もう少し見所があると思ったのに牛につっかかれたくらいで職務も忘れて遁げるなんてもう今日限り免官だ。すぐ服をぬげ。と来たでしょう。バキチのほうでももう大抵巡査があきていたんです。へえ、そうですか、やめましょう。永々お世話になりましたって斯う云うんです。そしてすぐ服をぬいだはいいんですが実はみじめなもんでした。着物もシャツとずぼんだけ、もちろん財布もありません。小使室から出されては寝む家さえないんです。その昼間のうちはシャツとズボン下だけで頭をかかえて一日小使室に居ましたが夜になってからとうとう警部補にたたき出されてしまいました。バキチはすっかり悄気切ってぶらぶら町を歩きまわってとうとう夜中の十二時にタスケの厩にもぐり込んだって云うんです。
 馬もびっくりしましたぁね、(おいどいつだい、何の用だい。)おどおどしながらはね起きて身構えをして斯うバキチに訊いたってんです。
(誰でもないよ、バキチだよ、もと巡査だよ、知らんかい。)バキチが横木の下の所で腹這いのまま云いました。(さあ、知らないよ、バキチだなんて。おれは一向知らないよ。)と馬が云いました。」「馬がそう云ったんですか。」「馬がそう云ったそうですよ。わっしゃ馬から聞きやした。


――宮沢賢治「バキチの仕事」


大学に限らず教師というのは、宮沢賢治の未完の小説の展開を眺めているような仕事である。上のやつもたしか未完である。バキチは確かに何をやってもだめなやつであった。まったく同情の余地もない男である。しかしよくわからないが、馬と会話ができたというのだ。しかも、それをバキチではなく語り手が認識する。バキチは自己認識ができない。大学生も似たようなもので、それを青春と言ったり、馬鹿といったりするわけであるが、――文学でも成績表でもその或る一部分の評価しかされない。しかし、だから、本質が他や彼らの全体性にあるのではなく、かように人間世界は豊かに混乱せざるを得ないというに過ぎない。だめなやつが何をやってもだめなのはただの貧しい真実である。

I hear music.

2022-02-16 23:05:55 | 音楽


ラウル・デュフィの絵からは音が聞こえる。オーケストラの絵だけでなく、「電気の精」みたいな作品からも音が聞こえる。音楽からも音が聞こえるとは限らない訳でね、文学からも言葉が聞こえるとは限らない。

以前、モーツアルトのあとにメンデルスゾーンを演奏会で聞いたとき、逆の感想を持った。音が聞こえなくなり、心が聞こえると思ったのである。

相撲をして相撲たらしめてゐたところのものは飽くまでも土俵の形式であり、そのやうな古来の伝統を支える時代的な雰囲気が、力士の生活する環境だけを特殊なものとしてその存立をゆるしたことが、民族の伝統につながる美くしさに永遠性を賦与したのである。

――尾崎士郎「土俵の夢」


こういう誇大妄想だって、なにかそのものの固有性を聞き取ろうとした結果でないことはない。それを永遠性とか言ってしまったので別のものに化けただけだ。

〈心〉

2022-02-15 23:34:12 | 文学


くれなゐの千入のまふり 山の端に日の入るときの空にぞありける

これは、吉本隆明が実朝論で評価している歌で、萬葉集の「くれなゐの濃染のころも色深く染みにしかばか忘れかねつる」の本歌取りとみなしている。

本歌とくらべて特色がはっきりと出ていて、しかもみくらべて劣るところはない。山の端に入りかける真赤な濃い夕日の色をみて、古代のくれない染めの、繰返し浸しては振った千入染めの色のようだな、とおもったそれだけのことであるが、「日の入るときの空にぞありける」という表現は、ただ<そういう空だな>といっているだけで、しかも無限に浸みこんでゆく<心>を写しとっている。この<心>は、けっして<忘れかねつる>という『万葉』の恋歌の恋しさの単純さとは似ていない。<事実>を叙景しているだけの実朝の歌のほうが、複雑なこころの動きを<事実>として採りだしている孤独な心が、浸みとおっているようにみえる。これが実朝のおかれた環境であったといえばいえるのである。

いいたいことは分かるんだが、吉本の常で、「無限に浸みこんでゆく〈心〉」というのが、何がどこに、ということを書いていないところに含蓄がある。吉本の〈心〉は、叙景にも孤独な心にも属していないのである。その両方に染みこんで相渉っているのがそれであって、その区別がつかなさを「無限」と言っており、だからそれを吉本はかえって漠然と「実朝の置かれた環境」と言うことが出来る。

ただし、わたしはここに「孤独」を読むのはある種の常識的見解に過ぎないような気がする。吉本に対する隔靴掻痒なところは、その常識の根拠を吉本の理由として探すしかないところである。だったら、むしろ万葉の歌の方がはっきり気持ちを言ってくれて他人としては助かるのであった。あるいは、〈心〉といわずに歌ったほうがよいかもしれない。音楽として。

Heiner Goebbels - Surrogate for Piano,Percussion & Voice

アイスダンスすごい

2022-02-14 23:27:41 | ニュース


酢を飲みながら、アイスダンス決勝をみた。なんだか分からんがとにかくすごかった。

やっぱオリンピックは冬だな。すごいレベルだと素人でも分かる。冬の競技が盛んな土地柄で育ったせいもあるけど、冬の競技はとにかく地上から飛んだり浮き上がって踊る競技がおおいわけよ。夏みたいに地べたをどたどたやってねえわけよ。

雪と氷が我々をして天に昇らしむる。

雪降れば冬籠りせる草も木も 春に知られぬ花ぞ咲きける

紀貫之に欠けているのは、その花に合わせて踊る人間や犬であった。