★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

穴と星

2019-06-30 23:07:39 | 漫画など


以前学生に教えてもらった『メイド・イン・アビス』という作品は、絵も綺麗だし話も面白そうである。第一巻しか読んでないので、何ともいえないけれども、こういうものを読んで育った若者たちは、きまじめにはなりそうである。

この話は、地の果てまで開いた穴に、穴の底まで行って帰らない母親を探しにいく少女が主人公であり、――普通に考えて、胎内回帰のお話みたいに思えるが、もう十分幼い主人公で、しかも少女なので、少女が胎内回帰することで死にかかりながら大人びるという、まあ、今はやりのマザコン的なものよりはましな感じになりそうである。

――という感じで期待したい。のであるが、穴に下降すると圧か何かで死を意味するという設定であるので、死ぬことが生きることでみたいな話にならなければいいなと思う。横に広がる外には「世界」がなく、自分が何故生まれてきたのかという垂直の穴が謎として「世界」なのである。しかし、本当は謎でもなんでもない。事実は既にあるからだ。

今日、食事をしながら「巨人の星」を観てみた。主人公は穴ではなく星を目指すことになっているが、それは本当の星ではなく、巨人のスターという意味であって、ある意味、巨人に対する滅私奉公の世界である。奉公する主体が異常に主体的なだけにそう見えないだけのことだ。(もっとも滅私奉公というのはそういうもんである)このスターになる道は、自分の出生を探る旅よりも本質的にどうなるか分からない世界である。穴に回帰することは自分とは何かという解答を探す旅であるが、星への旅はそうではない。前者は受験勉強的であり、後者は論文のようなものだ。「巨人の星」は、ナンセンスなお話として伝説になってしまっているが、そのナンセンスさはこれを観ているこどもたちにとって、解答がない世界を旅するみたいなニュアンスがあったに違いないのである。今日観たのは、花形が練習で打った場外ホームランを球場の外にいた左門豊作が打ち返す場面である。ありえないことのように思うが、確かに、現実というのは、そんな驚きをしょっちゅう経験する世界である。

と思っていたら、トランプが北朝鮮の土を踏んでいた。

文章としての絵

2019-06-29 23:10:00 | 漫画など


宮谷一彦の『性蝕記』はCOM増刊のものをどこかで買って持っているのであるが、読み終わるのに結構時間がかかった記憶がある。「太陽への狙撃」という当時の学生運動をネタに描いたものなんかも、『共犯幻想』などがスピードを持って読めるのに、宮谷氏を読むのは時間がかかる。漫画の世界を変えたといわれている宮谷氏の絵であるが、たぶん漫画を読む時間を変えてしまっているのである。一つ一つの絵を文章を読むスピードで読まなければならないのがこの人の絵なのである。いまよむと、せりふやト書き風のせりふに取り立ててすごく意味深なことが書いているわけではなく、どちらかという絵の方が文章なのである。

今読んでみると、蒸気機関車と自動車と老婆と女の世界を描きながら、自らのふわふわしたユーモアでそれらから身を引きはがしていこうとするあがきが見えなくはなく、それは氏なりの「生」きることだったように思えてならない。

それにしても、応援メッセージを寄せている田村泰次郎の文章は気の抜けた感じである。もっとも、この時期に田村泰次郎に頼めば、こんなことになるのは目に見えている。当時の若者たちは、戦中派のふがいなさに憤っていた面もあるのであった。


最終的に終わった(全てに傍点)

2019-06-28 23:14:33 | 思想


福冨正美氏の『共同体論争と所有の原理』という本のあとがきをたまたま読んで、氏が55年以前の、氏の言う「火炎びんおよび山村工作隊に象徴される」学生運動に関わっていたことを知ったが、その書きぶりはかなり悲しげである。この書がでたのは1970年であり、どちらかといえば、例の68年祭りの中で出版された本と言えるのだが、あとがきを見る限りでは、氏は55年、つまり六全協の挫折から立ち直っていない。共産党が武装路線から降りた六全協の55年は、「太陽の季節」の年でもあって、氏は、この小説について、

なんともいえないにがにがしい異和感(この異和感は一種のストイシズムとかさなりながら、わたしをながいあいだ支配してきた)をいだきながら、一つの時代が終わったことを思い知らされたのであった。

と述べている。わたくしは、「一つの時代が終わった」という風な言い方にはずっと反発を感じていて、それを言う人間も信用していないが、この場合はなんとなく不明瞭な福冨氏の言いように共感した。福冨氏はこのあと、

高度成長の開始と、ソ連邦共産党第二〇回大会におけるスターリン批判の衝撃とは、わたしたちの青春をとらえてきた学問体系が無残にも眼前で崩壊していくのを促進した。


という言い方をしている。まるで他人事になりそうな言い方であるように思うが、――要するに、学生運動の挫折以来、氏にとって世の中は影絵のように動いていっているだけなのであった。わたくしは、高校時代に、六全協をふくむ事態に巻き込まれた学生たちを描いた柴田翔の芥川賞受賞作を読んだとき、なんとも悲劇的なポーズが酷いと思ったものであるが、――かんがえてみると、わたくしは、68年挫折組と彼らを混同していたのである。無理もない、わたくしは、71年、「明治公園爆弾事件」の数日後に生まれたので……。福冨氏は高橋和巳の「憂鬱なる党派」に自分の青春を見ている。このぐらいの感傷は許されそうである。最近、叢生する68年論の「青春を懐かしむ」風に疑念が膨らむばかりであったので。福冨氏の、自分たちの時代が「最終的に終わった」(全てに傍点)と歎く感情の方が理解できる。

確かに、時代は常に終わってもいないし、運動は消えてもいないのであろう。総括すりゃいいってもんでもないのは、総括であんな事件が起こればそれ自体を反省するのもわかるのであるが、厳しい総括が必要なのは自明なのだ。

福冨氏の場合、既に終わった、という風な感情を抱きながらのその後をこの本で総括している。しかし、世の中に多いのは、終わった後の40年ぐらいの総括抜きに、40年前の話をしはじめる体裁である。あのとき何をしたのかは、そのあと何をしたのかによって裁かれるべきである。わたくしもこのことを良く覚えておきたいと思うのであった。

Der Untergang des Abendlandes

2019-06-27 23:41:56 | 思想


今日は、授業でシュペングラーとかニック・ランドとかゲーテとか、ビートルズとか……とりとめもなく展開……。

わたくしは、シュペングラーの「思想家には選択の自由がない」という言葉が好きである。すごい自信だと思うし、そしてこの自信が確かに妙なことを言わせているとは思うけれども、確かに自分の中から時代を抉り出してきたのである。この迫力は、日本でもいくらか書かれた他の文化形態学みたいな本にはないような気がする。

僕が読んだドイツの哲学者たち、カント、フィヒテ、ヘーゲル、ショーペンハウエル、あるいはシュペングラーが話しをする時の顔つきは、俗悪なほど深刻である。
「ねばならぬ」と言い切ることは確かに男らしいことである。しかし、たいていの場合、それは脳髄の粗漏と、田舎君子の本能的な狡さを証明するに役立つだけだ。
 さて、気の利いた悪口は、僕の中に政治家にまかせておくこと。
 僕は、ドイツ人の太い地声に、「明晳ならざる」ものを嗅いだのである。


――原口統三「二十歳のエチュード」


そりゃそうなんだろうが、それでも長い思索に堪えるのは大したことで、自分に対する怯懦を排さなければなるまい。逆に、原口は明晰すぎるところを狙ってやせ細っている。

捕物帖とハイウェイ

2019-06-26 23:51:35 | 漫画など


石ノ森章太郎の『佐竹と市捕物控』は、傑作として知られているが、読んだことがなかったのでこの前「闇の片足」という短篇が入っている本を読んでみた。流れるようなカメラワークですごかった。

わたくし自身は、あまり時代物を好まない。そこにあるナルシシズムが何かを納得するまでは心置きなく楽しめない気がする。鷗外の作品にすら感じるそれは何だろう。芥川龍之介はそこを許さず、時代小説から保吉ものに至るプロセスで――一生をかけて問題を近代に戻そうとしていたのではないかと思う。

「蒲団」以来、どことなく隠語的にものを語る現代小説に対して、確かに作家たちは時代物では生き生きとしている面がある。これはどういうことであろう?「蒲団」が抑圧していたのは、我々の内面そのものなのだ。思うに、佐竹や市といった、秘密警察的なもの(でも半数は案外大概公務員)が我々の内面の役割をしており、現代では、ウルトラマンとか仮面ライダーでない限りはそれが許されないというのはあるであろう。芥川龍之介は古典の世界を使って執筆する自らにそういう内省を仕掛けていたのだろうと思う。「羅生門」上の内省はそういうものではあるまいか。

芥川龍之介の見たものは、想像以上に動物みたいな我々の姿であった。それを人間と見るためには、世の中を見方を変えれば変わる影のようにみることが必要に思われた。

トム・ハーディでがでていた『Locke』(オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分)は、極めて知的な作品であった。自分を捨てた父親を反復しまいとして、浮気相手の出産に立ち会おうと、仕事と家庭をほっぽり出して高速道路を走る男が、車中でいろいろと電話するそれだけの話であるが、話がでかい。棄て子を行った父親の反復が問題になっているから、どう見ても「オイディプス」の話で、反復を避けようとしても、結局男は父親を反復してしまうのであった。彼は仕事の上でかなり有能な男で、次の日に迫った仕事を放り出して会社から首を宣告されるが、代わりの人間が来る前に、車の中からちゃんと部下に仕事の指示を送り、段取りをなんとかしてしまう。裏切ってしまった妻やこどもたちへの対応も合理的にやりおえて、もとの日常に帰れるはずである。心理的に不安定な浮気相手を説得し帝王切開を認めさせる。しかし、

――結局、妻は彼の一回の過ちを許さない。そうすると、彼は子どもたちを事実上棄てたことになり、現場を放り出し次の人間の仕事を妨害した彼を会社の上層部は想像以上に激怒している事態に直面する。全てが崩壊する。結局、浮気相手は無事に出産。これは希望でも僥倖でもない、しかし、父親の反復であるから不条理でもないが……。我々は自分の意思で人生を生きているつもりであるが、そうではない。しかし、全てが滅茶苦茶ではなく、きちんと自分の行動に原因がある。ただ、それを認識しながら生きることはできない。この映画は、その困難を知っている者がつくっている。作品のなかに少し規則正しくあらわれては消えるハイウェイのライトの描写はそんなことを思わせた。

石ノ森の作品は、闇が多いが、わりと人生は明瞭のように思われた。これが我々の労働の世界である。闇の中からぴょこっと人生が出る。

水棲人と自転車

2019-06-25 22:34:46 | 漫画など


星野之宣の『ブルーシティ』の水棲人は、「第四間氷期」のそれに比べてガーゴイルのような容貌をしている。「マンガ夜話」で岡田斗司夫が言っていたが、SFには根本的に選民思想的なものがあるということだ。確かにそうかもしれない。安部公房のそれが選民思想への批判を意図しているかぎり、水棲人は悪魔のような感じにはなりえなかっただろう。わたくしは、安部真知の挿画にだまされているのかもしれないが。――しかし、まあそのSF的なるものは、結局は近代的?な「制度」の延長である。

安部公房には、なにか、おぞましさからの逃走があるような気がしてならない。それは、優しさにもなるし、変形譚への道をたどることにもなる。

映画「自転車で行こう」はとても良く出来ている映画である。登場人物の知的障害者の乗る自転車は、彼の能力を少しだけ余分に力づける。我々は、近代的モラルや生活習慣をある種のSF的呪文として用いていることがあきらかだ。我々が社会的な人間になるために実装するそれらは、自らが出来ることを他人も出来るような想定を自明とすることであり、スイッチで電気がつくであろう、ロケットが月に着くであろう、ロケットが怪獣を爆発させるだろう――といったことと似ている。そんな世界では、障がい者はなかったことにされてしまう。

だからこの映画はせいぜいわれわれが自分の力を行使できる本当の範囲を「自転車で行」けるものに狭めている。近代では、文学にしても科学にしても、あまりにも巨大なものに対決して操作できるかのような錯覚に陥らせる。それはそれで人間のなすことではあったが、錯覚は錯覚である。だからといって錯覚をただせるというのも錯覚なのであろうが……。

教員の仕事は大変だ……

執行猶予

2019-06-24 23:10:50 | 文学


長谷川如是閑が昭和21年の『人間』に「戦争と文学者の責任」というのを書いているのであるが、――こういう穏当なことをいうおじさんをどういう風に扱うか我々の社会はよく分からないのではあるまいか。

如是閑が言っていることは、文学は、社会に対する認識を「個性的に」把握して具体的なかたちで表現するものであって――、その個性に我が国特有の傾向はやはりある。その点、戦争での抑圧はあったが、まあ、それなりの我が国の傾向を示しておった。「傾向文学」をものしていた人の我慢強さもわれわれのものだ。そういうわけで、個性の力による反抗もユーモアも出てくるわけはなかった。というわけで「酌量の余地がないではない」、「執行猶予」が穏当だ、というのである。

教科書的な把握だとは思うし、そりゃ犯人の身内が「執行猶予」と叫んでも裁く方はそんな事情は関係なく裁くべきだと思う――けれども、確かに如是閑みたいに伊勢や源氏に触れているというこんなかんじにみえてこなくはないのかもしれない。戦後文学者たちや国文学・民俗学者たちのがんばりのあとではこんなところで留まっていてはいけないのであるが、如是閑が言うように、speculative な態度というのはこの時期に限らず多く見られ、さまざまな輸入物の概念で盛り上がっている。とりあえず、彼のような把握は大事だと思うのである。文学の教育が必要なのはそういうこともある。例えば戦争の計画は、机上では合理的にやっていた面がある。しかし、人々が実際にどのように動くかというところでかなり勘違いがあったのではなかろうか(それは所謂インパール云々の現実からの遊離のことではなく、竹槍訓練で協同性が高まるとかいう勘違いのことである)。戦後いろいろあって、左翼の勘違いについてはかなり言われてきているのであるが、わたくしが注目しているのは右側の勘違いについてである。これをきちんと矯正しないと、国際関係上、ナショナリスティックにならざるを得ないときにまた大ファールを打ってしまう可能性がある。とにかく、我々は自分に対する把握に異常な勘違いがあり……これでは、国際上、「強い」訳がない。

確かに長谷川如是閑の言ったとおり東京裁判でも日本は根本的には「執行猶予」であった。しかし、次はどうかな……

裏返った世界

2019-06-23 22:39:16 | 文学


2010年の映画「ノルウェイの森」は、確か内田樹も言っていたように思うが、松山ケンイチがぼそぼそ呟きながら声がうらがえって、もう少しでヘリウム史郎になりかけるところなど、原作から出てくる「裏返った」感じが良く出ているように思う。松山ケンイチが演じているのは無論「ワタナベくん」なのだ。高校の時に、この小説を読んだわたくし渡邊がどれだけ精神的傷を負ったか、村上春樹は知るまい。

村上龍の世界が、現実に油絵の絵の具をぬりたくったかんじだとすれば、村上春樹のそれは、現実を反転させて「裏返った」世界である。現実とは違うが、確かに似ている。感情は似たようなのがあるが、原因や結果が違う。この小説は、キズキという親友が自殺して、その恋人(直子)と大学生になったワタナベ君がついベッドインしてしまい、なんだかんだあってワタナベ君は同じ大学の綠とも恋愛関係になり、なんだかんだで直子は自殺……といった話である。つまりやたらベッドインや性のことが語られているが、これは現実では違うことを指し示していると見た方が良いように思う。

この映画で描かれていたように、その「裏返った」世界とは、学生運動の雑踏や寒山で生じる熱っぽい柔らかな恐怖みたいなもので、大学生が下宿でみているロマンとは又違ったものである。しかし、村上は、それを大学生のロマンのように描いている。

「はあ、来るな」と思っているとえたいの知れない気持が起こって来る。――これはこの頃眠れない夜のお極りのコースであった。
 変な気持は、電燈を消し眼をつぶっている彼の眼の前へ、物が盛んに運動する気配を感じさせた。厖大なものの気配が見るうちに裏返って微塵ほどになる。確かどこかで触ったことのあるような、口へ含んだことのあるような運動である。廻転機のように絶えず廻っているようで、寝ている自分の足の先あたりを想像すれば、途方もなく遠方にあるような気持にすぐそれが捲き込まれてしまう。本などを読んでいると時とすると字が小さく見えて来ることがあるが、その時の気持にすこし似ている。ひどくなると一種の恐怖さえ伴って来て眼を閉いではいられなくなる。


――梶井基次郎「城のある町にて」


村上春樹に比べると梶井基次郎の方が、ユーモアがあるように思う。村上春樹は健康なのだ。健康だと、近代文学が超克しようともがいていた部分さえマラソンのように持続させることが出来るのだ。病気も健康的に持続できる。これは確かに日本の社会を鋭く描いていると言えないことはないと思う。

Norwegian Wood

2019-06-22 23:34:04 | 文学


村上春樹の「ノルウェイの森」の映画版を見たので、小説を読み直してみようかと思った。思っただけ……。十代のわたくしの読書は誤読の山だ。村上春樹もどうせ滅茶苦茶に読んでいたに違いない。

形態形成の力学理論

2019-06-21 23:02:19 | 思想


ルネ・トムの『形態と構造』のなかで、カタストロフの曲面に対応する代数的モデルの一覧が興奮させる(文学的に)。

折目
しわ(カスプ)
燕の尻尾、またはクルノード

双曲型へそ
楕円型へそ
放物型へそ

ロマン的加速主義

2019-06-20 23:20:21 | 文学


今日は、講義で加速主義とロマン主義の話をする。啓蒙主義が形式主義的になり、その形式を用いた浪漫主義が啓蒙への反発として起こることの繰り返しが近代社会の歴史である、というのは、わたくしが高校一年生の時に、偉そうに友に語ったご高説であるが、今日の説明もあまり変わってなくて絶望した。

変わったのは、フルトヴェングラーやミンシュの具体的な演奏の「加速」例を紹介することが思いつきで出来たことぐらいである。

ところで、最近、風邪であまり声が出なくなった状態で、《ヘリウム史郎》の如き教師になっておったのであるが、――そのテンションで、所謂「PDCAサイクル」を、加速主義ですらないユープケッチャ的糞虫として説明し、声がでないので、「資本主義を死ぬまでぐるぐる回すぜ」と腕をぐるんぐるん教壇で回していたのであるが、下の動画では、チェリビダッケが「ローマの松」のクライマックスで、両腕をぐるぐる回しているのが印象的である。(今日はついにヘリウム史郎からは脱却したので、つい「PDCAサイクル」とか言っているやつは大概馬鹿、とパフォーマティブな言語を放棄して堕落してしまった。反省である

Celibidache Ottorino Respighi Pini di Roma


まさに谷川俊太郎の言うように、「かっこよすぎるカラヤン」のおかげで、クラシックの世界も消費活動の一環に吸収されてしまったが、本来は、こんなぐるんぐるんな感じの芸術だったのである。

加速主義の連中は、まあ勝手に妄想の上で加速してりゃいいのであろう。それはチェリビダッケの指揮よりは簡単だし――、のみならず、まずはハノンを速く弾くのは唯の庶民には非常に大変なことだ。

いつまでもいつまでもその国はさかえたと

2019-06-18 23:29:56 | 文学


1942年の映画「アラビンナ・ナイト」はユニバーサル初のカラー映画らしい。楽しい映画である。不勉強で良くわからんが、砂漠の印象とかも手伝って、なんだか「スターウォーズ」なんかにも影響を与えているような気がした。そういえば、アメリカ映画「スターウォーズ」は、イスラム世界を思わせる舞台での話――異国ものである。アメリカにとって、西部劇は、日本でのチャンバラみたいなもので決して「聖戦」を描くところまでいけない。当然である。国内の殺しあいだからである。帝国主義は、資本主義と同じく外部と必要とする。イスラム世界は文化的表象として、帝国主義にも一定の影響があるのかもしれない。それはわたくしの妄想だとして――、映画「アラビアン・ナイト」でいいのは音楽と馬の演技で、もうハリウッド映画って、ここらで完成しているんだな、と思われた。

それにしても、水木しげるの『総員玉砕せよ!』なんかを読むと、異国に来ているのに、楠木正成のまねをして決死の戦いとか玉砕とかを敢行する我が国の軍隊が描かれており――我々には何か恐ろしく狂ったところがあるように思われてくる。確かに、聖戦とか美女をおっかけまわすのも大したことのように思えないが、精神が死んでいるよりましであるような気がする訳である。

アラジンとお姫さまは、長い間たのしくくらしました。そして、王さまがおかくれになった時、二人はとうとう、王さまとおきさきさまになりました。そして国をよくおさめました。いつまでもいつまでもその国はさかえたということであります。

「アラビヤンナイト――一、アラジンとふしぎなランプ」(菊池寛)


こういうハッピーエンドをきちんと作ったことがない国というのはあまりよくないと思うのである。素朴なものの輝きが分からない訳で。改元の時だけ帝国ごっこをやって日常に帰り着く我々は根本的にアイロニカルでいじけている。

見たてまつるわが顔にも移り来る

2019-06-17 23:34:22 | 文学


気高くきよらに、さとにほふ心地して、 春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す。


ここの描写はむしろ平凡と言うべきだと思うが、

あぢきなく、見たてまつるわが顔にも移り来るやうに、愛敬はにほひ散りて、またなくめづらしき人の御さまなり。

ここがいい。紫の上というのは、樺桜の咲き乱れる様が、どうしようもないほどに、見ているこちらの顔にも降り移ってきそうな程に、愛嬌が匂い散っている。のぞき見ているこちらがまさに心が動かされ(――どこかに心が行ってしまう)という感じである。控えめに言っても、確かに、美女というのはこちらまで何かが移ってきそうなのであって、恥ずかしくなるものである。普通こうなると「すみません、わたくし普通の人で申し訳ございません」となるのが普通の男なのであるが、さすが夕霧、親父の血を受け継いでいる。そして親父はそのことにも敏感であった。

御簾の吹き上げらるるを、人びと押へて、 いかにしたるにかあらむ、うち笑ひたまへる、いといみじく見ゆ。

このあとに「御簾の吹き上げらるる」というのも、夕霧の心の勢いを示しているようで面白いが、その遠くに行ってしまいそうな心の動きを押しとどめるように「いといみじく見」ようと頑張る夕霧であった。

そういえば、1942年の『アランビアンナイト』という映画の中で、瀕死の重傷を負った王子が、シェヘラザードを見て息も絶え絶え「確かに美女だな」とかなんとか言う場面があるが、本当にこういうことが起こるのであろうか。何か、生命に対するセンスの違いみたいなものを、この映画からは感じる。

いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 あせぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを


なにか、本当に切羽詰まっていはいないような気がしてならないが、曲調のせいかもしれない。