★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

親譲りと模倣

2024-04-27 23:52:15 | 文学


親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。

春秋左氏伝には、呉の季札の譲国の話が出てくる。あまりに優秀な、しかし末っ子であった季札に次の君子になってほしい兄弟たちがいろいろはかったが、本人は、曹の宣公の話を持ち出して、辞退し、農民になってしまった。思うに、上の坊っちゃんは、その素質がどういうものなのかもわからんくせに「親譲り」なのがいかん。当の親は自分を自覚してタノか、女形になりたいみたいな兄をかわいがっていたのだ。

思うに、坊っちゃんの親に対する執着はけっこうすごく、意図的に模倣しようと思っていたのではないだろうか。たぶん、坊っちゃんはこんな体たらくだから、文学に対する関心がないのだ。試験勉強を暗記そのものとしたい連中などそのたぐいである。確かに思ったよりも暗記なのだが、暗記だけではない。四書五経の素読だって、そのまま覚えなきゃ切腹だみたいなものではなかったはずである。こういう問題の非常に困難な案配を知らない教育者は何をやってもだめである。

たとえば、作文教育は半端にやると文章をかくことがそもそもものすごく難しいということが忘れられるものである。文字文化は呪なのであって、取り扱い危険物である。こんなことは昔の人だって知ってたがいまはコミュニケーションの手段だと思われている。しかしコミュニケーションはむしろ喋ったほうがよいのだ。だいたい、メールのやりとりは難しいからしゃべったほうがよいというのは、一昔前まで共有されていたはずなのに、むしろメールや文書を出せみたいなかんじになっている。で、そもそもうまくいってないことさえわからなくなる。で、メールその他も、角が立たないように妙に格式張ったAIみたいなかんじになり、それを喋る際に模倣する逆転がおこりどこもかしこもAIに。

個人と消滅可能性

2024-04-26 23:22:19 | 文学


高い家根の上で猫が寢てゐる
猫の尻尾から月が顏を出し
月が青白い眼鏡をかけて見てゐる
だが泥棒はそれを知らないから
近所の家根へひよつこりとび出し
なにかまつくろの衣裝をきこんで
煙突の窓から忍びこまうとするところ。


――荻原朔太郎「夜景」


泥棒がいるということは、案外田舎であることを示すのであろうか、都会であることを示すのであろうか。いまは、ネットや電話などが犯罪の道具として使用されてしまうのであまり関係ないのであろうが、――結局物理的にかくれようとおもえば群衆のいるところに越したことはないのは今でも同じだろうと思ったが、正直なところわからない。

むかし、「羊たちの沈黙」をみたときに驚いたのは、小田舎に昆虫マニアの犯人がいて、自らが「変態」する日を待ちづけているみたいな結末だったことだ。主人公のFBIの卵である女性は、都会に出て変身しようとしていた。犯人と同じようなものであった。そして、本当のやばい奴は、もともとの素質に忠実に犯罪を重ねるインテリ人食いである。わたくしは大学生でばかだったから、アメリカはさすが個人主義が進んでると思ったが、我が国でも、自己肯定感とか言っているから、こういう犯罪に出会うことが少なからずでてきたように思う。

「個人」は生きてゆくのに可能なインフラがあれば、なんでもやってのける可能性があるのだ。菊池寛の「恩讐の彼方に」だって、案外こういう「個人」の帰趨の話かも知れない。木曽の鳥居峠で追いはぎをやっている夫婦はたぶん「個人」なのである。木曽の人口は大したことはなかったはずだが、中山道だったので人が通った。

そういえば、木曽全域が自治体として消滅可能性があるという記事が載っていた。それは数字上の可能性としてはそうであろうが、人間は移動する種族なので、移動に存在している地域というのは常に存在している。木曽だってもともとそういう地域であったかもしれない。

あまり食べたことはないのだが、山賊焼は世界一美味いと食べ物の一つであると思っている。母が、高松市というのは、塩尻や松本に似ていると言っていたが、これはすごく勘が良くて、骨付き鶏という似たやつまで高松にはある。あとは、讃岐うどんとかいう硬い麺が蕎麦に入れ替われば完璧である。香川県はだいたい木曽と同じくらいの面積しかないわけであるから木曽の自治体が消滅したら、責任をとって、香川県丸ごと木曽に移せば良い。さすれば、長野県にも海が出来るし、――思い切って、水をくれてやってるのに感謝の一言もない愛知県とは瀬戸内海によって国交断絶で良い。だいたい香川県というのは、四国のなかでも歴史的にどこかしら浮いているわけで、水を他県からもらっている罪悪感もなくなるしいいと思う。

ほんとうはごめんとかないむしろ敬え

2024-04-25 23:40:41 | 文学


王使謂子反曰「先大夫之覆師徒者、君不在、子無以為過、不穀之罪也」。子反再拝稽首曰「君賜臣死、死且不朽、臣之卒 実奔、臣之罪也」。子重使謂子反曰「初隕師徒者、而亦聞之矣、盍図之」。対曰「雖微先大夫有之、大夫命側、側敢不義、側亡君師、敢忘其死」。王使止之、弗及而卒。


ここまでやる気のない口先だけの国民になってみると、負けた責任とって自殺するみたいな者が潔い感じにもみえてきてしまうわけで、非常に危険である。実際失敗しているのに、うまく言っているはずだという強弁、不気味な作り笑顔なんかは昔からあったはずで、これを粉砕するために様々な人たちが知恵を絞った。

いまならたくさんの著者が並んでいる研究本なんかが、不気味な作り笑いに属する。

最近、裁判か何かで「頂き女子」(頂点に立った女子という意味ではない、ある意味宋だと思うが――)というのが話題になっていた。なにかたくさん男性から搾取したそうである。こういう人たちはむかしからたくさんいて、特別に珍しいわけではない。こういうのは親族殺人と同じでありふれた人間的な出来事である。まったく、坂口安吾ではないが、様々な事件をふつうに人間的かどうかで考えて心を静めるみたいな時代になってしまった。安吾も戦時中か戦後、殺人犯を愛でていた。

実際は、人間的かどうかではなく、人間の一生の変転というものもよほど危険なのである。安吾はどこか人間的なものを元気な青春期に置きすぎている。――我々は、中年になると、自分の人生が常軌を逸していたのかどうか、虫の一生と比べてどうだったのかみたいなことを考えはじめる。前にもいったけどこれは第二のアドレッセンスみたいなもので、力を持っているやつは自分の扱いに気を付けるべきなのだ。第一回目はただの猿だったがいまはちがう。心を静めるためにここで文学の登場である。

おばさんでごめんねというほんとうはごめんとかないむしろ敬え
――岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』

戦争はもともと自分以上の物を使用しすぎる傾向のあるものだが、その意味で推し活も戦争である。推し活みたいなものは、いつ力の行使に反転するかわからない。はたしてそれは安吾の謂うように思春期の暴走や恋愛で抑制できるようなちゃちなものであろうか。授業の予習で「推しに認知してもらうためにアイドル始めました」を少し読んだが、推しというのは、こういう作品の雰囲気――つまり「ちゃお」だか「なかよし」だかのセンスに合っていて、思春期的なものと対立させるのはそもそも違うかもしれない。

呂錡夢射月――戦争

2024-04-24 23:51:22 | 文学


呂錡夢射月。中之。退入於泥。占之曰。姬姓。日也。異姓。月也。必楚王也。射而中之。退入於泥。亦必死矣。及戰。射共王中目。王召養由基。與之兩矢。使射呂錡。中項伏弢。以一矢復命。

月を弓で射ながら自分は泥に嵌まるみたいな挿話はとてもリアリティがある。戦争の描写はたぶん名文的なものの成立に寄与している。いまだってそうなのだ。その意味では、我々は文化の萌芽を戦争によって得ている。

近代文学の小説家や批評家がみずから編集者であったことはさんざいわれてきたことではあったがほんと重要なことであった。本を作るというのは、文章を書くのと違って戦争なのであろう。これを一人でやろうとした吉本隆明は確かに彼らしかったといへよう。

わたしが育った田舎は、いまでも景観がほぼ50年前と変わらない気がする。これは異常に見えるけれども、人類はほとんどそういうことしか経験していなかったはずだ。朽ちるのは人間の方で自然は朽ちたようにみえてそうではないのが普通なんで、人間も案外そうであると普通に考えたに違いない。しかしそれはいくらか不自然なのだ。死と戦うのは人間であって、戦いこそ人間としてのリズムをつくるのだ。

とりあえずだいたい他人は自分よりも頭が良いというのは、人間は戦うということを意味している。

高校生だったころ、「文学論」を読んで漱石は頭いいなとおもったのが、政治と文学について述べている後半のある箇所で、フランス革命は「本来の自由と平等とを享楽せんとする」と書いてあるのだ。さらっと「享楽」と言っているけど、これ重要なところだ。戦いにおいては理念は享楽されるものだ。それをわすれた国民はかならず理念を観念だと思い他の享楽へ自らを埋めて行く。

その堕落した享楽は、文学にもあったであろう。そもそも青年や文学少年が「いた」ということに対して疑念が私にはある。一部を除き文章が読めるようになってくるのは結構遅いから、劣等感になどに苦しむ文学青年みたいなものは、文章ではない別のものにとらわれていたにすぎなかったしれないわけだ。文章に集中する程能力も状況もみたされていない現実があったはずで、それは文学青年でも何でもなく、精神の敗北の過程に過ぎなかった。

マルクスたちは、それでも世の中には意外なことが起こると見做していた。量の質への転化というものは、ハイドンの交響曲が100曲以上書かれた結果、ベートーベンが9曲の傑作を生んだみたいに生じるのだ。民衆の数には頼れない。

死生観と世紀末、その後

2024-04-23 23:23:47 | 文学


「死の旅にも同時に出るのがわれわれ二人であるとあなたも約束したのだから、私を置いて家へ行ってしまうことはできないはずだ」
 と、帝がお言いになると、そのお心持ちのよくわかる女も、非常に悲しそうにお顔を見て、

「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり

 死がそれほど私に迫って来ておりませんのでしたら」
 これだけのことを息も絶え絶えに言って、なお帝にお言いしたいことがありそうであるが、まったく気力はなくなってしまった。死ぬのであったらこのまま自分のそばで死なせたいと帝は思召したが、今日から始めるはずの祈祷も高僧たちが承っていて、それもぜひ今夜から始めねばなりませぬというようなことも申し上げて方々から更衣の退出を促すので、別れがたく思召しながらお帰しになった。

――「源氏物語」(與謝野晶子訳)


日曜日の大河ドラマは、病気で倒れたお姫様を王子様がだっこして看病という少女漫画シーンがすごかったが、その前の、子どもがばたばたしんでゆく場面が悲しかった。我々の感情移入は自分の体験に大きく左右される。我々は虚構に慣れたということもあるが、子どもの死に滅多に出会わない。これが我々の心体に何らかの影響を与えないはずがない。前にも書いた様に思うが――、戦前までの昔の人と我々の違いは、年寄りの死に対するよりも、弱い子どもが死んでゆくのをどれだけ目の前にしたかで大きく違っている。而して、我々は死をはじめとする否定性から遠ざかり、否定性を通さずに生が成立していると思い込む。

それは医学の発展のせいだけではない。そういえば、定期的にKO大学関係者の不規則発言やら悪事がでてくるが、学問のすすめよんでみりゃ、すべての悪事の萌芽が書かれているのだ。古文や和歌は楽しみで学問じゃねえ的なのもこいつからだし。勝手に日用の学問でもしてろよ。文学が否定性の坩堝であり、これを元に我々がその都度生き返っているのを知らないのか。

月曜日は、「推し」現象研究に作品論的なものは有効かみたいな講義をして、その先祖の一部かもしれない、東浩紀氏の『動物化とポストモダン』は倫理学にどれだけ接近しているのかをただひたすら喋った。わたくしが気になっているのは、「推し」という行為のあまりにも楽天的な肯定性であって、これがかえって、必要でない否定性=死を招くということだ。「推しの子」なんか、死ななくてもよい主役を殺すところから始まっている。

身軽になると言うことは、ただひとりの自分になることだ。それは言うまでもなく、余りにつらすぎる。

――梅崎春生「無名颱風」


戦後がまだましだったのは、あまりに死を経験すると生どころじゃなくなる絶望から出発したからだ。これがただ生きること、堕落を生きるということであった。

不思議なことに、大戦争を経験しなくなっても、われわれには何か末世や「世紀末」を待望する観念的なバイオリズムが備わっている。オウム真理教はその意味真面目すぎてバカをやったが、同時代の「エヴァンゲリオン」とかそれに影響されたSFっていうのは、「世紀末芸術」だったのである。だから新世紀にならんとそれを作った作者は新しく出発できなかった。そして、これもさんざ言われているんだろうが、最近は「失われた時をもとめて」の時代である。プルーストのこの作はちょうど百年前ぐらいなのである。「葬送のフリーレン」とか「推しの子」とかみんな失われた時を求めて、である。いままで山田玲司氏のラブコメはスポコンだと思って読んでいたが、最近の「CICADA」は、我々の漫画文化が死んだ後のディストピアを描き、時代に巻き込まれている。たぶん作者としては、まだ終わっていない漫画家としての抵抗なんだと思うが。。

――我々の観念的な生理である100年の前半は回想から始まるのであった。

間隔法

2024-04-22 23:39:28 | 文学


鄢陵の戦は左氏の文中白眉なるものとして、讀書子の推賞措かざる所なり。文に曰く
楚子登巢車以望晉軍。 子重使大宰伯州犂侍于王後。王日。而左右。何也。日召軍吏也。 皆聚于中
軍矣。曰合謀也。張幕矣。曰虔卜於先君也。徹幕矣。日將發命也。甚躑且塵上矣。日將塞井夷竈而
爲行也。皆乘矣。左右執兵而下矣。 日聽誓也。 戰乎。 日未可知也。 乘而左右皆下矣。日戰禱也。
此章を讀むものは一見して其間隔法に於て Ivanhoe と暗合するを知るべし。もし間隔法を度外にして、此文の妙を稱せんとせば、稱する事日夜を舍てずと雖ども、遂に其妙所を道破し得ざるべし。Rebecca の記述せるは眼前の戦なり。楚子の説明を求めたるも眼前の事なり。眼前とは咫尺の距離を意味するのみならず、又現在を意味す。是に於てか先に陳腐にして顧みるに足らずとせる歴史的現在法も、ある變形を以て、ある敘述に包含せらるゝときは、有力なる幻惑の要素を構成すべきかの問題に入る。之を解釋せんには、先に繋げたる二例のうち、幻惑を生ずる上に於て、時の間隔が擔任せる比例は若干に値するかを發見すれば足る。此比例を見せんには此間隔法を含有せざる作例を檢して其效果を明かにするを以て捷徑なりと信ず。


――漱石「文学論」


そろそろ「文学論」を講義にかけるか。。。

分身・感染

2024-04-20 23:37:27 | 文学


Le Faune

Ces nymphes, je les veux perpétuer.

                    Si clair,
Leur incarnat léger, qu’il voltige dans l’air
Assoupi de sommeils touffus.

              Aimai-je un rêve ?


牧神の午後への前奏曲は、この詩から生まれた。こういう文化の生じ方を観察するのが日常の我々からすると、米タイムの「世界の100人」みたいな自閉性は、友達100人できるかな、みたいな自閉性とよく似ている。半獣神が何人いようとどうでもいい。

しかし、われわれは屡々、ひとつとひとつの出会いを群衆として描き出す。それらがなぜ繋がってしまうかは分からないが、たぶん時間が関係あるのではなかろうか。時間が経つにつれて、我々の記憶は分身する。宇佐見りんの小説で、仏像に欲情したみたいな場面があったと思うが、確かに、お寺の仏像は何か冷たくて夏なんか昼寝には最高の椅子みたいに見えてくることはたしかである。しかし、そんなことをせずにわれわれは、100体仏像を並べてみた、みたいなことをする。

そういえば、フロイトのいっているとは別の意味で、我々の言い間違えというものがあり、これも一種の分身である。そういえば、あるひとは、デブ専という単語を知らなかった、で、つい豚専と間違えて覚えて使ってしまったことがあるらしいのだが、人間て怖いよな、、と思うのと同時に、こんなことは日常茶飯事なのだと思うべきなのである。

こういう分身は例えば、感染みたいなものとして意識されており、何かを隠蔽していることはたしかだ。ネモフィラが流行っているので、わが庭に植えてみたことがあるのだが、なんか他の雑草に負けて絶滅した。つい我々は、「朱に交われば赤くなる」とか言いがちであるが、それ以前にだいたい誰かが殺されているのである。

似たひと

2024-04-16 23:27:23 | 文学


陳霊公与孔寧・儀行父飲酒於夏氏。公謂行父曰、「徴舒似女」。対曰、「亦似君」。徵舒病之。公出。自其廏射而殺之。二子奔楚。

お前は**に似ているという言葉はひどく呪いになる。小学生でも知っていることだ。たとえば、君は親に似ている、とかいうのは強烈な呪いとなりうるのである。子どもの頃は誇りに思えるものでもそれがそのままであることはほぼあり得ない。

 お茶をいれている私のそばである友達が栗の皮をむきながら、
「あなた、染物屋の横にあるお風呂へよく行くの」
ときいた。
「行かないわ」
「ほんと? じゃどうしたんだろう、始終あすこで見かけるって云っていた人があってよ」
 ふき出しながら、私は、
「お気の毒だわ、間違えられた人――」
と云った。
「こんな、ちょうろぎのようなの、やっぱりあるのかしら……」

 それから程もない或る夕方、ガラリと格子をあけて紙包をかかえた妹が入って来た。立ったまま、
「きょうお姉様に上野の広小路と山下の間で会った」
とハアハア笑った。
「いやよ、何云ってるのさ」
「だって、バスにのっているすぐとなりの男のひとが、ほらあれって云ってるんだもの」
「見たの?」
「ううん、こんでいてそっちは見えなかった。フフフフ」
 私があんまり丸まっちいので、いくらか丸い、或は相当に丸いひとがみんなその一つの概念にあてはめて間違われるのはなかなか愉快だと思う。

――宮本百合子「似たひと」


なんでもかんでも自分に見えてしまう病に罹っていた芥川の自殺から一〇年、宮本百合子のこのおおらかさは抵抗でもあった。労働者という言葉を合い言葉とするのはこういうおおらかさが必要なのである。

民之多辟、無自立辟

2024-04-15 23:31:59 | 文学


陳霊公与孔寧・儀行父通於夏姫。皆衷其祖服以戯于朝。洩冶諫日、「公卿宣淫、民無効焉。且聞不令。君其納之」。公日、「吾能改矣」。公告二子。二子請殺之。公弗禁。遂殺洩治。孔子曰、「詩云、『民之多辟、無自立辟』。其洩冶之謂乎」。

政治家達がこういう分かりやすいクズであったら話は簡単である、現実はちがうなどと昔はよく考えたものだが、やはり、このようなカスを歴史上に晒しあげておくことは、現実の複雑さ以上に意義がある。そうでないと、現実の複雑さという自明の理を濫用して自分を許す輩が現れるからである。

我々のような文弱が想像する体育会というのは「魁男塾」の男共が陰湿ないじめをやってるイメージがあるかもしれないし、実際そういうこともあるであろう。が、youtubeにあがっているむかしの一流?野球選手たちの座談会とかみてると、むしろ学会の懇親会みたいな感じなのだ。したがって、どの分野でもカスな飲み会はメンバーの実力によると言える気もするのだ。しかし、だからといって我々はだいたいの格率でうごくべきときもある。一見して、だめな奴らは存在する。我々は「一見して」と言っているが、それがほんとは一見ではないからだ。「直観」の大事さは、西田先生もおっしゃっておるぞ。

ローコストなんちゃらという広告がホロコーストに見えたわたしは疲れてる。

落ちこぼれた経験がない人が危険なのは、落ちこぼれは精神的な混乱と衰弱の非常に良くある原因であることが分からないからだ。かくして、落ちこぼれは勉強が嫌だからむしろ元気で暴れていると思ったり、精神的な問題をすべてなにか「物質的」な疾患だと思い込んだりするのである。合理的配慮が言われるようになったことで救われる人もいるのはたしかだが、それで様々な人間的なこころの欺瞞的なからくりが消滅するわけではなく、配慮が問題になった時点で、いろいろな原因を無視しなければならないことにもなりかねない。よくいわれていることなんだろうが、「合理的」という言い方も、何かが様々な原因が整斉され解決するかのような語感でよくない。結局、コロナの件と同じで、すべてをコロナのせいにしたり、障害のせいにしたりというのは、人間の観察の放棄と一部の分野の横暴なのである。もちろんそうなる必然性は科学の進捗上あったわけだが、――われわれはすぐあたらしく発見されたみたいなその原因をすべての原因に置き換えて快を得ているにすぎない。近代とは論理がマッサージ化した時代である。

そういえば、少しの進歩を褒めた方が結果を求めることよりも大事だという考えがよくある。確かにそういう場合もあるんだろうが、そういうことを主張しがちな人が「結果」から逃げがちな人間であることもよくあることであって、こういう逃走癖こそが子どもに感染したりするわけである。

こういう混乱は、すべて人間の自明の理を忘却する頭の悪さからくるのである。むかしからよく言われているように、論理によって我々は狂う。

むろん、自明の理を現実に当てはめすぎるとだめなのも自明の理である。例えば、精神的に追いつめられる大学生がだいたい落ちこぼれでみたいな簡単なことになりゃいいのだが、そして確かにそういう事態は多々あるのであろうが、それ以上に教育自体がやべえことになっている場合がある。そりゃ病む方が正解じゃねえかという。

だから、我々の処世は、一定の正義を体現していれば良いというものではない。つねに、多面的な分析が必要である。最近の管理職の世代は、ものすごくニヒリズムをかんじる人がいて、ほんとに教育を演技だと割り切っている人もすくなくない。でもそれは完全に誤っている。演技だということがものすごく伝わっていることを軽視しているからだけではない。演技は演技としての転向が難しい。一定の方針をもってやりはじめると平気で三〇年はやってしまう。最近はやっているのは、現実的な対処という演技である。これはストレスフルであるので、いずれそれを辞めるときがくる。で、演技を辞めたほうがよいときに、急に本音主義になり、そもそも本音とやらが演技みたいなもので出来上がっている可能性、小学生でも知っている可能性を忘れている。社会に馴致するのはこんな頭の悪い事ではないはずであった。

社会を改革しようとする人間が、制度の悪用・濫用に対してはだいたい及び腰になるのが信用されない原因である。憲法に限らず、不断の努力というのは、そういうことを含めての難しい努力であったはずである。

――民之多辟、無自立辟。(民が邪だからといって自分だけで法を立てるべきじゃない。)

国境を越えない人、愛する人

2024-04-14 23:12:52 | 文学


大史書日「趙盾弑其君」、以示於. 朝。宣子曰「不」然。」対日「子為正卿、亡不越竟、反不. 討賊、非子而誰。」

趙盾は主君の霊公と対立し、霊公は刺客を送ったが二度失敗。で、逆に霊公がクーデターで殺された時に、趙盾は国境を越えられなかった。で、あなたは立場上賊を撃たなければならなかったのだ主君を殺したのと一緒だ、と言われたのである。国境を越えてしまえばよかったが。というわけである。孔子もこれを教訓としてお話ししている。

しかしまあ、このひとが国境を越えられなかったのもわかる気がするのである。そして罪をオワせられるのを知ってて止まった気がする。そもそも自分が主君を諫められなかったのが原因なのだ。主君が嫌いでも好きでも政治家は職務を全うすべきなのである。いまの自民党がだめなのはそういうことだ。立派でないひとは、誰が正義を貫いたかだけで自分を判断するので、いざというときに逃げ出すものである。比較しか頭にないから、こっちがだめならあっちに飛び移る。

夫婦で働けば外での労働に対する理解が進み夫婦で相互理解が、という議論が昔あったと思うが、なぜどういうときだけ同じような体験をした奴が同じ認識に至るという夢を見るのかわからない。だいたい自分の仕事から類推して誤解が進むというのが自然のながれではないだろうか。これも、結局、男女平等の観念を武器として使う局面で必要だった男女の比較で頭がストップしたためである。

そういえば、文理融合みたいな白昼夢が流行るというのは、なにか頭の悪い私にはおもいつかない深い理由があるのかもしれないと思っていたのだが、もしかして旗を振ってる奴が、センター試験みんなできたし、と思ってるからみたいな理由だったらどうしようと震える。

文理融合どころではなく、文武両道みたいになってるのが教☆学部である。


なんでも読むぜみたいなことを実行しているひとはなかなかの者であるが、なにか越境とか融合とか協同とかなんとか言っているやつにまともな奴はいない。たいがい業績を作るための窃盗が目的である。

今日、大河ドラマで、中宮定子と清少納言が初対面を果たし、「清少納言」と名づけられたその人が「推し発見」みたいに夢心地になっている場面があった。これにたいし、ネットで「清少納言爆誕」とか言っている人たちは当然「枕草子」ぐらいは読んでいるであろうから自覚しているのであろうが、人生で推しを発見してしまうタイプは下手すると、そこそこの智慧を振り回して愚痴をいう差別的人間になるのである。大河は、紫式部の「愛」と清少納言の「推し」の対立の話になるではなかろうか。しらんけど。

限界点へのロックンロール

2024-04-13 18:39:47 | 文学


 黒人のヒットを白人がうたいなおす作業は、この頃、さかんにおこなわれた。白人社会のラジオに彼らが登場できずにいた事情があり、また、黒人のオリジナル版は、あまりにも強烈で新鮮すぎたこともある。白人による水ましのつくりなおしロックンロールが多すぎるので、ラヴァーン・ベイカーが一九五五年、法的な規制を求めて訴えて出た。

――片岡義男「エルヴィスから始まった」


自分の限界がどのように生じるかを知る教育を若い頃うけてねえと、やる前の仕事そのものが恐怖の物体と化しプレッシャーとなってしまう。で、そこで、5時に帰る権利が都合良くあるもんだからそういう自分の心理的カラクリを積極的に忘却する。合理的に時間までにきちんとやるみたいな心構えは「仕事」を得て体を長く持たして家族を養う「労働者」になってからでよい。しかしいずれにせよ、我々は自分の身体と心を合理的に管理できない。できると思っているのは、人に尻を拭かせている馬鹿だけだ。普通の才能の人は自分の限界をパッションの限界点に於いて知らなきゃならない。最初から仕事をできるふりをしてもしょうがない。即戦力を求められているからといって、自分が即戦力かどうかはわからない。どうせ違う。

これは、まじめな人の話で、はじめからさぼろうとしているカスにとっては、権利は、為政者における法律のように、いつも濫用にしかならない。こういうのと戦うのは、法律に則しているだけではだめだというのは当たり前である。

考えてみると、自分の骨盤からパッションと音が出てくるみたいなロックンロールは、そういう限界点を知る物語をそこここで生産していた。不良の音楽と言われながら、正しい働き方の準備をなしていたわけである。

むかし不良女学生のロックバンドで「ザ・ランナウェイズ」というのがあると聞き、聴く前から赤面しながらきいてみたらコーラスがきれいなちゃんとした音楽であったのでほんと恥ずかしかったが、おれのせいじゃねえのである。「THE RUNAWAYS」を「悩殺爆弾〜禁断のロックン・ロール・クイーン」と訳した誰かのせいである。なんなんだよこの訳わ。

映画「ランナウェイズ」というのは一〇年ぐらい前に上映されていた。天才子役のダコダ・ファニングが、クスリのやり過ぎで自己崩壊したボーカリストをやっていた。しかし、彼女の限界点の管理――自己管理の失敗だけではない、物語の上では、バンドの崩壊は日本公演と日本の写真家(S氏か?)によるボーカルの性的な写真だった。日本でのロックンロールの熱狂の仕方にはなにか独特なものがある。やっぱ盆踊りなのであろうか。

ボーカルが下着同然のかっこでステージにあがったのは、日本人の写真家に性的写真をとられたあとのような物語になっていたから、なんというか、日本人が望むかっこでやったったみたいな感じに思えた。「アーロン収容所」で、西洋人は東洋人の前では性的な行為をやっても大丈夫というような記述があった気がするが、そういうものを想起した。

一方、――もう研究がたくさんなあるのだと思うんだが、白人のロック、ビートルズや何やらが東洋人の観客にふれた結果どういう変容があったのかなかったのか。。案外、人類学者みたいにその音楽の原始的なものを勝手に感じてる可能性もあるとおもう。

中高年口承文芸宣言

2024-04-12 23:39:54 | 文学


山姥・山姫は里に住む人々が、もと若干の尊敬をもって付与したる美称であって、或いはそう呼ばれてもよい不思議なる女性が、かつて諸処の深山にいたことだけは、ほぼ疑いを容れざる日本の現実であった。ただしこれに関する近世の記録と口承とは、甚だしく不精確であった故に最も細心の注意をもって、その誤解誇張を弁別する必要があるのはもちろんである。自分が前に列記したいくつかの見聞談のごとく、女が中年から親の家を去って、彼らの仲間に加わったという例のほかに、別に最初から山で生まれたかと思われる山女も往々にして人の目に触れた。

――柳田國男「山の人生」


としをとると書くより先に口にだして喋ってしまうという現象が学者でもある。書き物上位のこの世の中では没落にみえても、それを口承文芸として捉えれば中高年はエライといえるのではなかろうか。また、マニュアル作ってるだけじゃだめだという感覚は、口承文芸を舐めてるからだという理屈が成立する。コミュニケーション能力とか言うから、頭が悪そうに見えるのであって、口承文芸性とかいえばよいのだ。

直系継承性

2024-04-06 23:44:48 | 文学


宋宣公可謂知人矣 。立穆公其子饗之 、命以義夫。
商頌日 「殷受命咸宜、百禄是荷。」其是之謂乎。


穆公は自分の兄の子を後継者に指名した。義にかなうやり方におもえたからであるが、こんなエピソードがあるために、弟のあとつぎは兄であるおれの子どもだと何の理由もなく主張するボンクラがあとをたたない。穆公の方法は、しかし、直系継承制のやりかたとしてもだれでもおもいつくやり方であろう、しかしその長い時間のなかで、人間の心はそう簡単に納得してくれない。すなわち、兄妹や子どもがいたらいたで大変だから、一人で人しれず死んで行くのがよいと考えている人も多いのだが、最近こういう事件があった。

「誰が火葬のOK出したんや」兄はどこへ消えたのか?https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240404/k10014411941000.html

本人は119番で緊急搬送されたがすぐなくなり、火葬もされたのだが、――友人が連絡がないなと思って家に訪ねていってなくなっていたことを知った。近くに住んでいた弟夫婦も亡くなっていたことを知らなかった。京都の独り者の学者の話である。

誰かと思ったら、「遊女の社会史」の今西一先生じゃないか。。なにかすごいな、死に様でも学問の内容を貫いている気がしてしまうな。

今西先生には研究仲間がいた。まだ、学者同士の同志的友人関係がなりたっていたのだ。しかし最近は学者同士だけではなく、極端に他の学生との接触を嫌う学生がいる。気持ちは分かるけどその生き方は甘くもあると言うのは簡単だ。しかし、現実には彼らの周囲には群れ化したやばい堪え難い集団がたくさんあって、ちょっと今の中高年の青春時代とは状況が違うと思わざるを得ない。彼らの学校への拒否感はものすごい。教員の仕事は戦いの側面が大きい筈で、誰も取りこぼさないとか言って、実際は、ちゃらちゃらしたいつもの勝ち組を甘やかしいつもの仲間はずれをもっと仲間はずれにしているだけになりがちだ。しかしこれをきちんと認識するのにも勇気が必要で、それをなくした多くの教員が今日もマジョリティの「正しい」路を歩む。

どこぞの県の附属学校の件が、前にもニュースになってたが、それをみると――毛筆の教育と自ら考える活動が対立物になってたり、附属の子どもが附属の実験的人間的活動をしながら夜は塾で偏差値競争をしてたりといった普通の話があいかわらずなかったりと、とにかく教育にかんする報道は事実を描写する力もなくなっている、と感じた。もちろん、報道は、取材する側に対してほんとのことが見えて語る人間がいてはじめて成立する。この学校に限らず、大学もそうであるが、ハラスメントとかいじめみたいな事象で語るのは無理であって、その無理さは職員みんなに共有されているので、無力感だけが繁茂し、いざというときに体が動かなくなっていのである。

発達障害かそうでないかみたいな二項対立が繁茂するなかで忘れられがちなことが多すぎる昨今であるが、何か二項対立で自分を救おうとした場合にでてくる「個」のイメージはあいかわらず信仰されている。歌声よ起これ、ではないが、人間の声というのは我々の卑小さに比べてすごく大きく、――体の大きいプロの歌手だというのはあるが、オペラや交響曲でソロの歌唱が100人の管弦楽に埋もれないみたいなものを見せつけられると、人間は一人でまだやれるみたいな気分になってくるわけであるが、たいがいそれは間違いである。ピアノ協奏曲みたいなものもいかんよな、熟練の兵士がでかいピストル操っているようなもんで、ヤレルみたいな気分にさせられる。実際の個人は、マーラーの第8番の合唱隊の一人が風邪で休んでもわからないみたいな感じなんだが。。。

わかりにくいクラシック音楽の比喩で分からなければ、大谷君が(通訳の奉仕で)個人に見えていたことが、在る事件をきっかけに通訳との複雑な関係性にみえてしまうことに喩えても良い。音楽とスポーツはなんにせよ、近代社会のイメージを裏で支える。

昔はコンティキ号の冒険の映画(たしか五〇年代の)が好きだったのだが、このまえ新しいコンティキの映画見たらそれほどでもなくわたしは「鮫映画か」とツッコんでいる中年親父になっていた。冒険者の英雄譚の迷妄から覚めるのに我々は時間がかかりすぎる。

わたしも昔は、リラダンのようなのが政治家できたりするみたいなのが理想だと妄想していた時期もあった。リラダンのウィキペディアみると、すったもんだのあげく同棲した相手に対して「無教養な女性」とか書いてある。リラダンも「生活を召使いに任せる」んだから結婚も任せるべきだったのだ。むろん、自分で自覚していたのである。で、自分が死ぬ間際に彼女と籍を入れて子どもを私生児にするのを阻止した。かんがえてみると、これも直系継承性の一種かもしれない。

巫女としての主婦とブルジョアジー

2024-04-05 21:46:31 | 文学


于以采蘩 于沼于沚
于以用之 公侯之事
于以采蘩 于㵎之中
于以用之 公侯之宮
被之僮僮 夙夜在公
被之祁祁 薄言還歸


「采蘩」の一部である。いろんな解釈があるんだろうけど、家の中でどことなく母親というのが巫女の役割を果たすというのはあった気がし、戦後もまだそういう家は残ってたんだろうと思う。主婦の新興宗教への傾倒みたいなこともどこかしら関係あるんじゃないかと思ったこともある。

そういえば、ドラゴンボールのブルマって、ちょっと巫女的だ。ドラゴンボールのこと知ってたり、魔法(科学)使ったり。悟空と夫婦にならなかったのは、さすがにそれだと古代中国かよみたいな感じになってしまうから、現代的な専業主婦・教育ママモードのチチが選ばれたんじゃねえか。

いまやってる朝ドラ面白そうだから見ているが、――いまのところあれは、林芙美子の放浪記や佐藤こうろくやら何やらが娘の個室においてあるような大ブルジョアジーの家庭の話で、主婦のあり方もそれなりなのだ。そうでなければ、じいちゃん(ばあちゃん)の権力がまた上にあって、ドラマのように母が家庭の主導権を握ることはない。主人公のお見合いの相手なんか全員帝大出身とかすごいかんじだけど、そもそもお見合いが個人の決定にある程度依存する形できちんと行われているのはすべての家庭においてではない。戦前のプロレタリアートの習慣ではないのである。彼らにとってはまずは自分の意思表示が出来るお見合いなんかは「自由」の範疇だったし、ああいうキレイな着物が着てみたかった娘達が多かった。そもそも嫁に出してもらえないものだっていたわけだ。しかし、考え方はいまのリベラルなんかよりもよほど合理的で保守的ではない場合があるのである。

そういえば、主人公の母は旅館の娘で、一目惚れした帝大生?が指導教官の努力で結婚したみたいな事になってたと思う。明治維新の志士たちが「水商売」の人と結婚したりするのとはちがうけど、わたくしの祖父の世代のある層の男にとっては夢みたいな話だ。そういえば、祖父祖母の世代のある人が「おしん」をみて「まだ泣いたりするのが許されているだけましじゃないか」と言ってた。それが、いまや大ブルジョアジーの話に勝手に感情移入する体たらくだ。

黄泉の母はいつも生きている

2024-04-03 23:35:34 | 文学


遂寘姜氏于城潁,而誓之曰「不及黃泉,無相見也!」既而悔之。潁考叔為潁谷封人、聞之、有獻於公。公賜之食。食舍肉、公問之。對曰「小人有母、皆嘗小人之食矣、未嘗君之羹。請以遺之」公曰「爾有母遺、繄我獨無!」潁考叔曰「敢問何謂也?」公語之故、且告之悔。對曰「君何患焉?若闕地及泉、隧而相見、其誰曰不然?」公從之。公入而賦「大隧之中、其樂也融融」姜出而賦「大隧之外、其樂也洩洩」遂為母子如初。


イザナギのはなしと違って母は死んでない。もちろん、ほんとはイザナギも死んでいない。昔から人は、このように死んだけど死んでないという事柄の生起に対して心を砕いた。そういえば、マーラーのすごさは、死への行進曲ともいえる第6番のあとに夜の歌第7番、第5楽章で派手な昼間を描くというところにある。しかし、これは彼のいつもの復活劇であり、死によって生きるというイザナギをやっているのである。

我々の世界は、電灯の発明以降、昼間の世界がすべてであると勘違いしている。だから、24時間を計画のなかに組み込んでしまうんだが、むかしのように、日が暮れたら一端すべてを終わりにしてしまう、死んでしまうべきなのである。まだ学生の頃、問題は問題を組み合わせて出てくるみたいなことを仲間や先生から言われた気がするので、そういうことを意識してやってきたつもりであるが、つまり問題は一度死ななければならないということである。最近は、多くの人にとって問題を分割して研究計画をたてるとか論文に分割するということが起きがちであり、つまり死を通過せずに生を並べたてることばかりやっている。もちろん、原因は言うまでもないんだが、たくさん研究をしている割に進捗がわるいきがするのはそのせいだ。誰かの論文でも、5か年計画はかえって効率がわるいにも関わらず、そういうことがわからない頭の☆い奴が国の中枢にいるととんでもないことになると言っていた。あたり前である。

運動でもそうだ。68年は開けていたが以降閉じたとかいうのが運動族のあれとしてあるが、そのイメージが昼的で間違っている。閉じていないと、すなわちじぶん達の周囲が死で満ちていないと、シンクロニシティというか同時多発なんてのは起きないのだ。

午後は疲れて昼寝してしまったから、柏木俊秋の『天皇制打倒論』などめくって目を覚ます。打倒というのは、生かす意味であろうか、死の意味であろうか。

キリスト教の棚を探ってたら、いつのまにかアーマンも昔買ってたことが判明したが、聖書の捏造というのは、一応死を通過した生なのであろう。

「目線」て、死んだ鈴木健二アナの造語だとウィキペディアに書いてあったけど本当なのだろうか。学生のレポートからはいつも殲滅しているのでわたくしにとっては関係ないが、死の視線というのはありえても、死の目線というのはなんというかゾンビ映画みたいなものである。だから現代人はだめなのである。