★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

米包転がる

2019-10-24 23:45:36 | 文学


十手を丁と受け留むる、信乃が刄は鍔際より、折れて遙かに飛び失せつ。見八得たり、と無手と組むを、そが随左手に引き著て、迭に利き腕しかと拿り、捻じ倒さん、と曳声合わして、もみつもまるゝちから足、此彼斉一踏み辷らして、河辺のかたへころころと、身を輾せし覆車の米包、坂より落とすに異ならず。

芳流閣の戦いは、名場面の一つであり、原文で読んでももはや現実離れしたスピードとリズムで描かれているのがわかる。ごつごつした漢字の使用が妙なリズム感と相俟って、独特なアニメーションを思わせる。やはり「平家物語」とは全く別次元の趣味的空間が展開しているのであった。それにしても、最後の「米包」は何事。このような虚実の落差みたいなものにおいて――もう近代への転落は始まっていたのだとわたくしは思うのだが、――米包というのがいい。

転落を物の運動としてではなく、強制力みたいなものとしてとらえる時代がまもなくやってきた。芥川龍之介はトロッコに乗ってどこまでもゆく。

塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………

やはり「トロッコ」には米包を一緒に乗っけてゆけば良いのであった。途中で炊いておにぎりでも食べるべし。



安部公房の「鞄」でもそうである。お腹が空いたら鞄からおにぎりを出して食べるべし。

奇異なことと勇気

2019-10-23 23:04:36 | 文学


忽地暁て莞尓と笑み、「此彼思ひあはすれば、彼犬山道節も、終にはわが同盟の人となるべき因縁あらん。さるにてもわが玉を、秘おきたりし護身嚢は、彼が腰刀にからみ取られつ、そが肉身より出たる玉は、思はずわが手に入りし事、竒異とやいはん、微妙とやせん、怪しといふもあまりあり。

ニヤニヤ笑ってんじゃないよ、と言いたいが、とにかく、額蔵と道節はたかが刀をめぐって激突。ここでどちらかが死んでは話にならないので、道節が火遁の術で逃げてしまう。その代わりに何故か玉を交換。確かに、「竒異とやいはん、微妙とやせん、怪しといふもあまりあり」である。がっ、あり得ないことではないから、大げさすぎる。たとえば、「たけくらべ」の美登利の初潮か何かの場面で「我を我とも思われ」ない様子を「竒異とやいはん、微妙とやせん、怪しといふもあまりあり」なんとか言ってしまったら、美登利の恋人?であり坊主の卵である信如までがキリスト教に改宗したりしかねない。焦って呆然としているのは美登利のほうであって、額蔵は本心では「へえ不思議なもんだ」ぐらいが関の山だ。物語というのはまったく嘘が混じることであるなあ。

凡ての職業を見渡した後、彼の眼は漂泊者の上に来て、そこで留まった。彼は明らかに自分の影を、犬と人の境を迷う乞食の群の中に見出した。生活の堕落は精神の自由を殺す点に於て彼の尤も苦痛とする所であった。彼は自分の肉体に、あらゆる醜穢を塗り付けた後、自分の心の状態が如何に落魄するだろうと考えて、ぞっと身振をした。

――漱石「それから」


代助は犬と人の間を発見した。そういえば、「尤」という字は、人にも犬にも似ている。漱石のなかには、八犬伝的な面白がりで喜ぶ心がかなりあったと思うが、漱石は文字の向こう側に心の不安定さをつねに観ていたようだ。そして肉体の向こう側にも心の不安定さがある。わたくしは、「肉体」に「あらゆる醜穢を塗り付け」るといった感覚が非常に趣味が悪いと同時になかなかだとおもうのである。われわれは、こんなことも出来ないほど勇気がなくなっているからである。

いやになってしまった活動写真を、おしまいまで、見ている勇気。

――太宰治「生きて行く力」(「碧眼托鉢――馬をさへ眺むる雪の朝かな――」)


我々の周辺にはこんな勇気ばっかり……

わが玉と一点異なることなし

2019-10-22 11:36:54 | 文学


額藏こゝろ歡ばず。数回嘆息し、「人面同じからざれども、他人にもよく似たるものあり。人心同じからざれども、又知己なしといふべからず。和君吾儕を疑ひ給ふや。吾聊も蔽すことなし。是を見給へ」といひかけて、膚なる護身嚢より、一顆の玉をとり出せば、信乃も又訝りて、これを掌に受つゝ見るに、わが玉と一点異なることなし。但その文字同じからで、義の字鮮に読れたり。

信乃と額蔵の出会いの場面で、ここは名文だと思う。「わが玉と一点異なることなし。但その文字同じからで、義の字鮮に読れたり。」でなかなか昂揚させられる。それは「人面同じからざれども、他人にもよく似たるものあり。人心同じからざれども、又知己なしといふべからず」という不安定さを昇華させ、「和君吾儕を疑ひ給ふや」に答えさせるのである。

とにかく、俺さえ吃驚する程、労働者が戦ってくれている。めずらしいことだ。――やっぱり労働者と百姓は、底の底では同じ血が通っているんだ。

――小林多喜二「不在地主」


プロレタリア文学は、労働の価値を玉として扱ったが、ただ扱えと呼びかけているだけで、はっきり実感されるものではなかった。だから「底の底では同じ血が」といった形で言明するほかはない(あるいは、ハンマーとか筋肉とかを絵で描いたこともあった)。それがはっきり実感されたのは自分たちが「アカ」と呼ばれ差別されているときであった。『デビルマン』とか『北斗の拳』で言われているように、悪党に違う血が流れていることは言いやすいが、同じ血が流れているということは案外実感をもって言うことが出来ない。「わが玉と一点異なることなし」、「義の字鮮に読まれたり」にはかなわないのである。

天皇の血筋なんかも確かめることはできないが、――貢納儀式化された天皇制は案外簡単に社会的効力を持っている。せっかく古典文学を学んでいるのに、天皇に仏教色がなくなっていることに疑問をいだかせないような学校教育を責めても仕方がない。知識教育なんていうのはその程度のものだと覚悟しておいた方がよい。早川二郎がむかし言っていたように、問題は物を運んで納めるという貢納制の方なのである。八犬伝では、玉がばらまかれてそれが再度集結する。これもある種の貢納である。

こういう贈与みたいな貢納が一般的なときには、ある種の設定を混ぜることでその呪縛から一瞬逃れることが可能かもしれない。

「困ったわ、わたし、どうしてもないわ。ほんたうにわたしどうしませう。」
「わたしと二人で行きませうよ。わたしのを時々貸してあげるわ。凍えたら一緒に死にませうよ。」


――宮澤賢治「いてふの実」


二人で時々貸してあげる、凍えたら死ぬ。――反天皇制的ないいぶりである。恋愛が、逃避行が疎んじられるのはこの国の現状では不可避である。

豆二つ

2019-10-21 23:05:47 | 文学


犬の頭は撲地と落、さと濆る鮮血の勢ひ、五尺の紅絹を掛たるごとく、激然としてその声あり、聳然として立冲る、中に晃く物こそあれ、と左手を伸して受留れば、鮮血の勢ひ衰へて、遂に再び濆らず。信乃は霤る刃の水氣を、袖に拭ふて、遽しく、鞘に納めて腰に帶、彼切口より出たる物を、濃血拊除てつらつら見るに、是なん一顆の白玉也。その大さ豆に倍して、紐融の孔さへあり。

犬の頭を切り落とすと、さ、と血潮が迸る。五尺の赤布を掛けたような勢いで、激しい吹き出す音と高くたちあがるそのなかに光り輝く物があった。受け止めると血が止まる。

――なんじゃそりゃ?数珠の玉は蛇口かっ。それにしてもすごい血潮である。もはやタランティーノの映画の血潮のごとし。馬琴のセンスが面白いのは、ここまで気合いの入った描写をしておきながら、その玉は「豆に倍して」と、ここでお豆さんがでてくるところがなんかかわいい。というか、馬琴の文章のなかには案外我々の小世界が突然紛れ込むのである。

寺田寅彦は、ディオゲネスの『哲学者列伝』を引いて、ピタゴラスが守っていた「豆を食べちゃだめ」という戒律について紹介している。

またアリストテレスの書物を引用して、「豆は生殖器に似ているから、あるいはまた地獄の門のように、ひとりでつがい目が離れて開くから」ともある。何のことかやはりよく分らない。それからまた「宇宙の形をしているから」とか「選挙のときの籤に使われる、従って寡頭政治を代表するものだから」ともある。

――「ピタゴラスと豆」


よくわからんが、恐ろしい博覧強記にもかかわらず、八犬伝というのはある種の行き詰まりを見せている書物なのかもしれなかった。やはり近代の衝撃で馬琴の世界は、上のような滅茶苦茶な世界に直面したのであった。狂気は明らかに後者にある。

今日、日本を代表する漫画家であろう吾妻ひでお氏が亡くなったが、氏の漫画の所謂「シュール」なものは、一体いかなる想像力だったのであろう?わたしはあまり読んでないので、はっきりとは言えないが、吉田戦車みたいな狂気を相対化するようなやり方の一歩手前で、立ち止まっていたような気がする。吉田戦車の向こうには松本人志とか、もっと向こうには「すごいよ!マサルさん」みたいな日常への帰還までがあるのだが、それはある意味、漫画にあった暖かく狂った「世界」を棄てることであった。それを棄てずにやれるとれば……、これは非常に難しい道だったに違いない。

ある意味で、吾妻氏のマンガは、八犬伝の豆を否定した「ピタゴラスの豆」だったような気がする。

赫奕たる光景は、流るゝ星に異ならず

2019-10-20 23:23:18 | 文学


虚空に升ると見えし、珠数は忽地弗と断離れて、その一百は連ねしまゝに、地上へ戛と落とゞまり、空に遺れる八の珠は、粲然として光明をはなち、飛遶り入紊れて、赫奕たる光景は、流るゝ星に異ならず。

犬の子を宿しているのではないかという疑惑を晴らすために伏姫はいきなり自分のお腹を帝王切開。出てきたのは犬どころではなくもっとものすごいものであって、サンゼンだかカクヤクだかしらないが、とにかく数珠と合体して星になったのである。「つかもうぜっ、ドラゴンボールっ」とかいうアニメの方がよほど非現実感がない。鳥山明は、決してブルマのお腹からドラゴンボールが飛び出すなどというグロテスクな場面は描いていない。お子様向けのマンガなので、悟空やフリーザがどんなに恐ろしい虐殺をやらかしても非常に清潔なのだ。この高度なテクニックがそれ以来の戦闘ゲームなどに影響を与えているのであろう。

主従は今さらに、姫の自殺を禁めあへず、われにもあらで蒼天を、うち仰ぎつゝ目も黒白に、あれよあれよ、と見る程に、颯と音し來る山おろしの風のまにまに八の霊光は、八方に散失て、跡は東の山の端に、夕月のみぞさし昇る。

主従たちが目を白黒とさせている光、山からの風音とともに八つのひかりが山の方に散ってゆき、月のみの静閑に落ち着く描写はいかにも美的に造られているが、おまけに、馬琴はこのあと、これは「八犬士の起こりだよ」と解説しているのだからすごい。彼にとっては説明と美的な描写はほとんど同じ位相にあるのだ。この前、マンガの『攻殻機動隊2』を眺め直したが、これもそうであった。

「歡しやわが腹に、物がましきはなかりけり。神の結びし腹帶も、疑ひも稍觧たれは、心にかゝる雲もなし。浮世の月を見殘して、いそぐは西の天にこそ。導き給へ弥陀仏」

「物がましき」ものはなかったかもしれませんが、今、ものすごい物が飛んでいきましたけど……。自分も西の天に急ぐらしいので、まあどうでもいいんでしょうが……。『GODZILLA 怪獣惑星』というのを観ましたが、サンゼンとかカクヤクみたいな映像に加えて、妙に難しい用語が飛び交っているある種のSFでしたが、案外ゴジラそのものが動きが悪く描き込みもしていないのが印象的であった。『シン・ゴジラ』もそうであった。アメリカのゴジラはその点、動く。我が国のゴジラは、それを動物にしてしまう(つまり人間に近づける)勇気がちょっとないのである。たぶん人間を人間(動物)みたいなものとして描くと、『エヴァンゲリオン』みたいになってしまい、その後の展開が難しく結論がでなくなってしまうからである。我々はまだ「カミサマみたいなことってあるよね、しょうがないことってあるよね」と言い続けていたいのだ。まさに「赫奕たる光景は、流るゝ星に異ならず」だけをみていたいのだ。庵野監督は、人間を人間たらしめるための試みをまだやめていないとおもうが、『シン・ゴジラ』では、ゴジラという意味の物体を扱いかねており、結局、苦し紛れに「君たちも好きしろ」と説教する親みたいな意味にゴジラを変換しただけであった。すなわち、この映画は、『エヴァンゲリオン』と同じく、親から自立するきっかけを示したところで終了している。

しかし、人生、それからの方が長いのではないのか?

そうでもないのだ、現代においては、親はなかなか「ゴジラ」のような存在感をなくすことはない。

その点、八犬士は実際はただの人間(犬野郎)であるので、見込みがあるのであった。ごちゃごちゃと言うてきたが、これは宮台真司が「ウヨ豚」とか言っている真意を謙抑的に説明にしているに過ぎない。

あはれに犬の

2019-10-19 19:35:14 | 文学


犬は近代文学においても人間の思い上がりによってもたらされる悲惨そのものなのだが、それは人間にかなり接近していると言わざるをえず、作家たちは自縄自縛だと言えなくはないのだ。動物という観念のもとでは、比喩的表現は自由を失う。だから、今度は人間が動物のふりをし始める。どうでもいいとはいえ、更に悲惨である。基本的人権は基本的に人に対してしか使用する気は起こらないものである。

思ひぐまの 人はなかなか なきものを あはれに犬の ぬしをしりぬる


確かに人に対する細やかな心を人間は簡単に棄ててしまう。却って犬の方が……という訳だが、そんなことはない。こういう「忖度はオモテナシ」みたいな奴隷根性で生きていると、他人にもそれを要求するようになるのである。こういう輩は『平家物語』の皆々様のようにさっさと討ち死にした方がよいが、『南総里見八犬伝』の作者の如く粘っこい生への執着があると、人の死に方も手が込んでくる。

痩せた犬に対し、「戦功をあげたら魚肉食べ放題だよ」「職をあげようか、領地をあげようか、そんなつまらんものじゃなく、娘の伏姫をあげようか」と調子に乗った里見義実が言うのだが、この犬は職や領地みたいな観念はわからんが、女の子は分かるのだ。

このときにこそ八房は、尾を振り、頭をもたげつつ、瞬きもせず主の顔を、熟視てわわと吠えしかば、義実ほほ、とうち笑ひ、「げに伏姫は予に等しく、汝を愛するものなれば、得まほしとこそ思うらめ。こと成るときは女婿にせん」と宣はす。

実際、ムツゴロウさんは、熊に惚れられて交尾を迫られたことがあったらしいし、犬が屡々人間に迫っているのを見た人も多いことであろう。なぜこういう風景が我々には必要であるかというと、藤村みたいな自意識が生じる可能性があるからである。

急に日が濃く窓から射して来た。何となく部屋の板敷の日蔭に成つたところは寒く感ぜられた。私は耳が鳴つたり腰が痛んだりする自分に返つて、それが身に附き纏ふ持病のやうに離れないことを思つて見た時は、一種の悪寒を覚えた。洋食の出前持は堅い靴の音をさせながら溝板のところを出たり入つたりして居た。私は食卓の布の上に爪の延びた手を置いて、あの前垂掛で雑巾を手にしたやうな無智な下婢達と犬とから、斯うした自分を先づ教育されたことを考へて、思はず微笑まずには居られなかつた。
 ボーイは熱くした紅茶をこぼさないやうにと用心しながら私の前へ持ち運んで来た。うるさい二匹の犬は私がそれを飲み終るまでも側に附いて眺めて居た。


――島崎藤村「犬」


これが太宰治になると、女中が自分よりも幸福なのが許せんとかいって棒で草むらを虐待したりするのであるが、考えてみると、藤村は自分の悲惨を望遠鏡みたいなものから外側から眺めているところがある。「うるさい犬」こそが藤村そのものなのだ。思い上がっているとはいえ、こういう人間は何かをちゃんと見ている可能性がある。太宰はその点、自分、つまり読者に引きこもっているので肝心なところがみえない、というより、見えないふりをしてしまうのである。だから「犬」が嫌いだったり、動物の交尾をみて人間失格したり、といったことをフィクション上に書いてしまうわけである。我々はつねに犬に娘を掠われていると思っていた方がいいのである。

豊玉姫神社を訪ねる(香川の神社206)

2019-10-19 18:09:14 | 神社仏閣


豊玉姫神社は男木島。最近は猫と風景でちょっとした観光スポットになっているようである。



神社は山の急斜面にある。もっとも、この島の家はみんな急斜面にあるのだが……。参道を登ってゆくと、左手に落下しないように縛り付けられた「出征紀念」の碑がある。助役の名前が最後にあって、彼が世話人になって建てたのかと推察される。



その上には、鐘楼。神社に鐘楼はおかしいとかもう思わなくなりましたね。もともと神社が仏堂を真似てんのかもしれんしね。『神社誌』をみたら、この神社について「別当長寿院神職三宅云々……」という記述が『玉藻集』にあるらしいですね――



拝殿。拝殿の正面には、男木中生徒会による「豊玉姫神社」の説明が掲げてありました。これによると、山幸が針を落っことしたのが大槌と小槌の両島の間だそうである。つまり……あそこあたりか



鳥居の向こうに二つ小さい▲の島が二つありましょう。あれが鳥居扱いにもなってるらしくて、山幸が針を落っことした海の地点から境内までが参道なのである。長いなあ……。というか、山幸は慣れないのに、沖まで出てんじゃないよ。ともかく、困っている山幸に竜神が「東に島があってそこに釣り針があるよ」と言ったので、男木島に上陸したのです。そりゃあるだろう、島なんだから。――それはともかく、すなわち、――間違えました。山幸は男木島から沖にでたのではありません。どこか遠くから漂流してきていたのです。どこから来たのか知りませんが、さすが海のでかさを知らない山幸です。川だと思って油断したのではないでしょうか。

 

狛犬さん。



本殿。



境内社。



名物猫。スフィンクスのごとし。