★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

裸体とおかしさ

2020-03-31 23:30:03 | 文学


いみじう恐ろしうこそはべりしか。納殿にある御衣取り出でさせて、この人びとにたまふ。朔日の装束は盗らざりければ、さりげもなくてあれど、裸姿は忘られず、恐ろしきものから、をかしうとも言はず。

大晦日に宮中に強盗が入った。現場に紫さんがかけつけてみると、二人の女房がはだかで転がっている。恐ろしい出来事であった、しかし、中宮が衣装倉から衣装を取り出してあたえた。正月の服は盗られなかったから――「さりげもなくてあれ」(何事もなかったような顔でいた)そうである。ここらあたりでもう笑いの因子が動き出している。何か彼らの言葉でもあればそうでもないのだが、そのさりげない様子が逆に昨日の様子を呼び寄せる。で、「裸姿は忘られず、恐ろしきものから、をかしうとも言はず」なのである。おかしいとも言えないために余計「おかしい」わけである。

ここらで嗤うのをやめとけばいいのに、芥川龍之介「女体」なんかになると、虱になって女体を睥睨する世界が展開する。ほとんど志村けんの「バカ殿」の世界であるが、志村のものよりよほどいやらしい。そしてもっと馬鹿馬鹿しく真剣である。

おそらく我々の世界は行動の世界の幅を想起出来なくなっている。つまり自由がないと、泥酔したクズ親父やどうしようもなくヒステリックなおばさんとかというありえない「典型」に対する反省だけでなく、人間のちょっとしたいらいらみたいなものや悲しみに対する感度を失ってしまうのだ。ハラスメントに対する意識が向上したこと自体は進歩のようにみえるが、それは自由の増大とセットになっていなければならなかった。目を背けたくなる様々な人間の様態をみることをやめ、コミュニケートもしなくなっているのに、倫理だけを守れるというのは人間の場合幻想である。

――楊は、虱になって始めて、細君の肉体の美しさを、如実に観ずる事が出来たのである。
しかし、芸術の士にとって、虱の如く見る可きものは、独り女体の美しさばかりではない。(「女体」)


おもうにここは「しかし」で接続すべきところであったろうか?

「変なおじさん」考

2020-03-30 23:00:11 | 日記


志村けん氏が新コロナで亡くなって朝から(たぶん日本中に)動揺が走った。

わたくしはあまりドリフターズの頃の志村氏を知らない。その8時からやっているテレビをほとんど観ていないと思う。たぶん「すぐ頭をはたく」芸がけしからんということで、子どもには禁じられていたのではなかろうか。ホントはPTAとしては永井豪の場合と一緒で下ネタ芸が危険だったのかもしれないが……。わたくしは子どもの頃から欽ちゃんとかもあまり面白かった記憶がない。この種の「お笑い」から遠ざけられていたのか、わたくしのセンスがあまりにも超時代的であったかどちらかである。いまでも好きなのは、人生幸朗・生恵幸子なのであるからして……。

いま映像とかを見てみると、志村氏のやろうとしていたことは、日本の大人=いい子ちゃんな芸に、思春期=赤ちゃん芸を「自由」の発散として反抗的に導入することだったと思われる。思い切って言えば、音楽ではビートルズがやったことではなかろうか(デュークエリントンがたしかビートルズをガキの音楽と言っていたが、それは本当なのである)。例えば、ジョン&ヨーコが、ちょっと間違って志村けんと石野陽子の就寝コントになり、セックス・ピストルズがバカ殿様になり、――といった具合である。

そして、日本でビートルズや何やらをやろうとすると、それが艶笑という形態をとらざるをえないということは言えるんじゃないだろうか。マルクス兄弟の影響が強いとは言っても、その赤ちゃん的なところは異様である。

研究もなにもしていないので、印象であるが、――大衆芸能であり現実の相手のいることだ。結局、試行錯誤の結果「変なおじさん」や「バカ殿」みたいな、ちょっとジェンダーが混乱したセクハラ芸としてあらわれざるをえない何者かは、志村けんの問題というより我々の文化の問題ではなかろうか。白鳥の頭を股間にくっつけた姿、――これが我々の姿なのだ。志村けん氏は、これらを音楽的な瞬間芸として洗練させていった。面白かったのは、氏の芸が背景が描きこまれたコント(演劇)であって、漫才ではなかったことである。爆笑問題は後者で前者を拒否している。敢えて、文学の問題としてみると、小説(まさに小人之説だ)に近いのは志村けん氏の芸の方である。爆笑問題やダウンタウンは「評論」である。小説は、背景をとおして見る側の世界と繋がっていることが重要である。志村けん氏が、テレビとお茶の間の風景と繋がっていたスターであることはよく指摘されていることだが、氏の志向性自体が風景に向かっていた。これは氏の芸が何かの模倣(写実)芸であることと繋がっているはずである。

わたくしは、もう次の世代のダウンタウンすら落ち目になってきている2000年代の「志村通」あたりから直接テレビでコントをみることになったが、それはノスタルジーのパロデイであるように思えた。昭和みたいな風景を意図的に作り出し、ノスタルジーを発散させながら、そこに小説としての笑いは可能かと探っていたようにわたくしには思えた。そこには反時代的な意識があって、まだまだ思春期をやっていたと思う。ダウンタウンが虚の大人に向かっていた時代である。現在の松本氏なんか、もう実質、評論家である。

志村けん氏はコロナで死んだが、評論の時代にも殺されたなというのがわたくしの印象である。最後は、動物の番組をやっていたというし(一回も見ていないが)、――評論をやりきれない庶民が動物と戯れていることを思わせる。動物的な動きに、最後の自由をみるのであって――自粛要請?の空気を破ってしまう嗅覚は健在であったのかもしれない。我々は、これからますます空疎な言葉で自分を縛るようになるだろう。たぶんそれに従って、志村氏のような身体も失う。氏はいろいろと崩壊した老人を模倣した。――つまり我々が失うのは老いでもある。

心の中のすさまじきかな

2020-03-29 19:14:53 | 文学


「内裏わたりはなほいと気配異なりけり。里にては、いまは寝なましものを、さもいざとき履のしげさかな」
と色めかしく言ひゐたるを聞く
  年暮れてわがよふけゆく風の音に心の中のすさまじきかな
とぞ独りごたれし


田山花袋の「蒲団」の末尾まであと一歩かとも思われる(違うか……)歌である。紫式部だってそれほど老いているわけではないのだが、我々はたいがい老いの内面というものをやや舐めており、これからはちゃんと老人のための文学が書かれる必要があるのではないかと思うのである。文学はやっぱり青春に寄りかかりすぎていたのである。

すさまじや雲を蹴て飛ぶいなづまの
    空に鬼神やつどふらむ。
寄せ來るひゞき怖ろし鳴雷の
    何を怒りて騷ぐらむ。
鳴雷は髑髏厭ふて哮るかや、
    どくろとてあざけり玉ひそよ。

――北村透谷「髑髏舞」


よくわからんが、「すさまじさ」は、こんなに元気のよいものとは限らないとおもうのだ。力がないからからこそそれ自体の「すさまじさ」というものがある。これを認められなかった昭和の大衆たちは空元気というかロボットみたいな元気に惹かれるようになってしまった。これからはそうはいかない。病と老いがこの世の真ん中に居座るテーマである。

おそらく、コロナ騒ぎの後の世界は、われわれの生活環境や生活の作法が変化させられる。こんなときに黙ってはいないのが精神であり、文学の出番である。

日陰に向かって

2020-03-28 23:03:55 | 文学


筥の蓋にひろげて、日蔭をまろめて、反らいたる櫛ども、白き物忌みして、つまづまを結ひ添へたり。
「すこしさだ過ぎたまひにたるわたりにて、櫛の反りざまなむ、なほなほしき。」
と、君達のたまへば、今様のさま悪しきまでつまもあはせたる反らしざまして、黒方をおしまろがして、ふつつかにしりさき切りて、白き紙一重ねに、立文にしたり。大輔のおもとして書きつけさす。
 おほかりし豊の宮人さしわきてしるき日蔭をあはれとぞ見し


繊細な心を持っていれば、あるいは人の気持ちが分かるようになれば、いじめなんかはできないはず、――とか言っている教員が時々居るけれども端的に間違っている。まず、心というのは繊細にはなりようがなく、論理で御すしかないものである。また、人の気持ちというものは基本的に分からないものである。だから、上のような方針で教育すると、柔らかい口調で分かったような口をきく人間が出来上がる。マルクス主義者にもフェミニストにもこういう傾向はまだまだあって、潜在的な反発を生んでいる。

いまどきの政治家は首相をはじめ内容が全くない文章をぺらぺらとよく喋るが、この輩の存在を許しているのは、我々である。政治家を許せないなら、我々は空疎なスピーチをする学生など、未来のために、もっと許すべきではない。――ここ20年間もそんな感じで頑張っているのに疲れた人々は多い。ここまでやる気をなくさせた人間たちの罪は重いと言わざるを得ぬ。

日陰者といってかつての女房、左京の馬(女御・義子――皇子を埋めなかった――に仕えていた)に嫌がらせをする紫式部に、単に差別心があったのではない。自分がいつそうなるかもわからない自虐すれすれの心理とそんな歌を詠んでしまう心理とは大して違っていないのである。教育でいえば、一ついいところを褒めるという方針は他の悪いところを決めつけているに等しい。確かなことは、周りに調子を合わせているつもりで皇子を出産出来た彰子の女房というブランドにしがみついている紫式部はただ単にクズだということだ。クズが源氏物語を書けることとは全く矛盾しない。というか、それは「矛盾」ではなく単なるファクトであろう。論理は人を価値づけられない。しかし論理だけが感情に対立出来る。いじめをいつまでも感情の改造によって対処しているから、馬鹿みたいな寄り添い作戦ばかりになってしまうのである。クズに寄り添ってどうするんだよ。

遠い山々からわけ出て来た二つの溪が私達の眼の下で落ち合っていた。溪にせまっている山々はもう傾いた陽の下で深い陰と日表にわかたれてしまっていた。日表にことさら明るんで見えるのは季節を染め出した雑木山枯茅山であった。山のおおかたを被っている杉林はむしろ日陰を誇張していた。蔭になった溪に死のような静寂を与えていた。

――梶井基次郎「闇の書」


日陰が日陰ですまなくなった時代。風景を見ているうちに風景には我々と同じような生と死があることに気付かされるのだが、まだそれだけでは、「明けない夜はない」とかいってしまうこともあるであろう(最近、元芸大学長の長官だかが、そういう言葉を吐いて、芸術家たちの憤激を買った。マクベスの"The night is long that never finds the day"ではなかったことは確実であろうし……)近代文学の表現者たちが、案外生き急いでしまったのは、風景や自然に対抗しているというのは確実にある。

もっとも、病気への闘いと人間の制度への闘いをうまく納得しながら表現し得た者はあまりいなかったのかも知れなかった。

かたくなしきや――童女と狂気

2020-03-27 23:33:07 | 文学


かからぬ年だに御覧の日の童女の心地どもは、おろかならざるものを、ましていかならむなど、心もとなくゆかしきに、歩み並びつつ出で来たるは、あいなく胸つぶれて、いとほしくこそあれ。さるは、とりわきて深う心寄すべきあたりもなしかし。われもわれもと、さばかり人の思ひてさし出でたることなればにや、目移りつつ、劣りまさりけざやかにも見え分かず。今めかしき人の目にこそ、ふともののけぢめも見とるべかめれ。ただかく曇りなき昼中に、扇もはかばかしくも持たせず、そこらの君達のたちまじりたるに、さてもありぬべき身のほど、心もちゐといひながら、人に劣らじとあらそふ心地も、いかに臆すらむと、あいなくかたはらいたきぞ、かたくなしきや。

「ありぬべき身のほど、心もちゐといひながら、人に劣らじとあらそふ心地も、いかに臆すらむ」というのは、童女たちの心を推測したものというより、見られる女への推測である。子どもの場合、見世物になるというときにも、大人とは違った心持ちだろうということは分かっているが、彼らを大人として推測せざるを得ない。だから「かたくなしきや」(偏屈だなあ)と自分を思うのである。紫さんは女房としての自分を童女たちに投影しているというわけだ。

最近はもう下火になったのかも知れないが、例の選抜少女踊り隊たちに異常に感情移入している人々がいた。これは、少女小説他の少女文化とは違って、「さらされている人間」を応援しているところにポイントがあったのかも知れない。上の紫さんと同じだというわけになろうが、――本当にそうなのか?我々は本当に「さらされている人間」としての職業人であろうか。

わたくしは大学の教員なので、「さらされている人間」である。しかし、こういう人間に踊り隊のファンが多く居たとは思えない。(居たらごめん)

やはり童女が集団であるということが重要ではなかろうか。比較される人間たちということだ。これは狂気があらわれ出やすい場所である。

少女は西原氏の詩の微吟に表情の微動さへ見せず、袂のなかを、しきりに掻き廻し始めたが、やがて何物か取り出して、西原氏の鼻先へ突き出した。
――これ先生に上げようと思つていつかから取つといたのよ。
 それは干からびた柿のへただつた。それから少女はきやらきやら笑ひ出し、まつたく氣狂ひの樣子を現し出した。母親はそれを見て
――ご覽のとほりです。
 と遂々聲を立てゝ泣き出して仕舞つた。
 西原氏は、そろそろ襲ひかゝつて來る醉ひのみだれを追ひ拂ふやうにしながら、そのはなしの最後をわれわれにした。
――その少女はそれから間もなく死にました。


――岡本かの子「狂童女の戀」


狂気への興味は、人間に対する等し並みな見方と裏腹なのだ。わたくしは、まだここらあたりの事情を赤裸々に書いたものを読んだことはないが無理もない気もするのだった。

魂・疫病

2020-03-25 23:49:51 | 文学


 御輿には、宮の宣旨のる。糸毛の御車に、殿の上・少輔の乳母、若宮いだきたてまつりて乗る。大納言・宰相の君、黄金づくりに、次の車に、小少将・宮の内侍、次に、馬の中将と乗りたるを、「わろき人と乗りたり」と思ひたりしこそ、「あなことごとし」と、いとどかかるありさまむつかしう思ひ侍りしか。

いまもそうだが、どの車にどのような席順で乗るかみたいなのに気を遣うというのはある。ただ、こんなのはだれかが理不尽に威張っているとか卑屈になっているということがなければそうは問題にならない。とにかくしっかり仕事仲間を選定することが重要であり、ちょっとでも手続きを省いて手抜きをするとだいたい失敗する。昔も大変だったのだ。

月のくまなきに、「いみじのわざや」と思ひつつ、足を空なり。馬の中将の君をさきにたてたれば、ゆくへもしらずたどたどしきさまこそ、我がうしろを見る人はづかしくも思ひしらるれ。

月の中を足が宙を踏むように進む。確かに、宮仕えというのはこんなときがある。ただ、どんなに魂が宙に浮くようでも、紫式部の自我ははっきりしているようにみえる。彼女は文章の仕事があったし、――自分は気晴らしでやっと生きているみたいな弱々しいことを言っていても、源氏物語を書ける魂が根本的に弱いわけはない。勝手に妄想するに、樋口一葉の百倍ぐらい強いと思われる。

疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
 老婆は、大体こんな意味の事を云った。[…]
下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか。」


――芥川龍之介「羅生門」


疫病で荒れ果てた世界では、自我はこういう風になってしまうのである。意識はもはや伝染する何者かとなりはてており、「事」が「考えることさえ出来ないほど、意識の外に追い出される」ような現象的なものになっている。散りばめられている動物の表現からして動物的といってもいいが、むしろ、比喩としての動物の撞着現象であるといってよい。

「意味という病」とか「病という意味」とかいろいろと論じられてきたわけだが、病こそが意味を現象に変えると言ってよいであろう。われわれの世界はついにこういう世界に突入しはじめた。

残ることなく思ひ知る

2020-03-24 22:37:38 | 文学


年ごろつれづれに眺め明かし暮らしつつ、花鳥の色をも音をも、春秋に行き交ふ空のけしき、月の影、霜雪を見て、そのとき来にけりとばかり思ひわきつつ、「いかにやいかに」とばかり、行く末の心細さはやるかたなきものから、はかなき物語などにつけてうち語らふ人、同じ心なるは、あはれに書きかはし、すこしけ遠き、便りどもを尋ねても言ひけるを、ただこれを様々にあへしらひ、そぞろごとにつれづれを慰めつつ、世にあるべき人かずとは思はずながら、さしあたりて、恥づかし、いみじと思ひ知るかたばかり逃れたりしを、さも残ることなく思ひ知る身の憂さかな。


「源氏物語」のうねうねとうねる文章の秘密がこんなところにあったのかと読者に思わせる名文だ。感情が風景のように広がって最後の「残ることなく思ひ知る身の憂さ」に雪崩れ込んでゆく。まさに「残ることなく」それまでの感情が「身」に直撃するのである。文意では、最初の夫を亡くした頃の悲しさが宮中に行くようになって帰ってもともとの悲しみを「残ることなく」思い知ったということであろうが、文章を読む人は、そうはとらなくて、これまでの心情をすべて覚えている。紫さんにとっては、夫を亡くした自宅で物語をねたに小さい仲間のつきあいで憂さを晴らしていたことが逆に重荷になっている。彼女はその物語の才能を宮中に売り渡しているのであって、その自宅は、憂さ晴らしを引かれ、宮中の華やかさとも比較された、よりひどい悲しみだけが残る空間となりはてている。

試みに、物語をとりて見れど、見しやうにもおぼえず、あさましく、あはれなりし人の語らひしあたりも、われをいかに面なく心浅きものと思ひ落とすらむと推し量るに、それさへいと恥づかしくて、えおとづれやらず。

そりゃこうなりますよね……。

物語には目的があって、――広い意味で何かの感情の慰めを試みていることは確かである。それが自分のためのものなのか、友だちとの共有のためのものなのか、彰子たちのためのものなのか、――そのすべてを網羅することは難しい。もしかしたら、そんなこともあって、源氏物語は悲しみを基調とした物語になっていったのかもしれない。悲しみならすべての人に分かるだろうということで……。

サブカルチャーのある種のものが何故普遍性を持たないかというと、たぶん基調が喜びとかおかしさに寄っているからではなかろうか。言うとくが、その悲しみとは、親や友人に捨てられたとかいうレベルのものではない。理不尽さのことなのである。その意味で、ほとんどが思春期の男子か赤ん坊の呻きみたいなものだとしても、「エヴァンゲリオン」はちょっとましな作品であった。最後あたりで、婦女子用につくられたキャラクターである「カヲル」君が

人の宿命か…人の希望は悲しみに綴られている

と言いながら、ATフィールドを増大させ轟音を轟かせる――、にも関わらず、ただの童貞マザコン少年のロボットにひねり潰されてしまう。

作者の多くの女性嫌悪と悲しみがナルシスティックにしかも露悪的にでてきた場面であった。せめて、作品というのは、このぐらいはやらねばならぬ。

結論:オリンピックまだやるつもりかよ。一年でこのコロナが収まるわけないだろ、恐ろしく微妙な空気の大会になるぞ。中止だ中止!

仕事の才

2020-03-23 23:49:32 | 文学


恐ろしかるべき夜の御酔ひなめりと見て、事果つるままに、宰相の君に言ひ合はせて、隠れなむとするに、東面に殿の君達、宰相中将など入りて、騒がしければ、二人御帳の後ろにゐ隠れたるを、取り払はせたまひて、二人ながら捉へ据ゑさせたまへり。
 「和歌一つ仕うまつれ。さらば許さむ。」


完全にパワハラです。酔っ払った権力者ってどうしようもないですね、早く消滅することを望みます。あと、「殿の君達、宰相中将」などがいけません。馬鹿殿に群がる蠅みたいな連中です。いまも居ますね、こういうゴミクズが。

と、のたまはす。いとわびしく恐ろしければ聞こゆ。


ちゃんと紫式部は「恐ろしかるべき」、「いとわびしく恐ろしければ」と「恐ろし」を二回繰り返している。これは本当に恐かったのだ。二回目なんか「わびし」をくっつけている。恐ろしすぎて心細い、本当に恐ろしいときには心が縮みあがって「細い」感じになる。これは分かる。しかし、こういうときには心は消滅しているけれども、才は働くのである。我々は危機に陥ると案外もともと持っていた論理的な才だけが働くのだ。花田×輝が戦時下に述べていたことでもある。彼はそれをよいことのように書いていたが、分からないと思うのだ。

いかにいかがかぞへやるべき八千歳のあまり久しき君が御代をば 
「あはれ、仕うまつれるかな。」


紫式部は公務員だ。心が縮んでもこのぐらいは詠めるのだ。清少納言は少し苦戦したようだけれども、要するにこれは仕事上必要なものなのである。

と、二たびばかり誦ぜさせたまひて、いと疾うのたまはせたる、
あしたづの齢しあらば君が代の千歳の数もかぞへとりてむ
さばかり酔ひたまへる御心地にも、おぼしけることのさまなれば、いとあはれにことわりなり。げにかくもてはやしきこえたまふにこそは、よろづのかざりもまさらせたまふめれ。千代もあくまじき御ゆくすゑの、数ならぬ心地にだに思ひ続けらる。


よく分からんが、道長が泥酔しているのにここでささっと歌を詠めるということは、紫さんが言うように、「おぼしけることのさま」だったからであろうか。紫さんは恐怖に縮みあがっているが、道長も酔いすぎて心を失っている。本当のところ、道長も紫さんのように、よいしょ歌をこれまで詠んできたからではなかったろうか。歌は仮名序ではごまかされているが、生きとし生けるものが詠めるものではなく、練習した者だけが詠めるからである。

 木村の心持には真剣も木刀もないのであるが、あらゆる為事に対する「遊び」の心持が、ノラでない細君にも、人形にせられ、おもちゃにせられる不愉快を感じさせたのであろう。
 木村のためには、この遊びの心持は「与えられたる事実」である。木村と往来しているある青年文士は、「どうも先生には現代人の大事な性質が闕けています、それは nervositéです」と云った。しかし木村は格別それを不幸にも感じていないらしい。


――森鷗外「あそび」


大学以来、この「あそび」の境地を目指してきたところがあったが、果たして……。本当は、遊びすぎ、即ち働き過ぎみたいな状態に木村はなっていないであろうか?紫式部のいた職場は色好みの文化が仕事になってしまうところであって、後から見れば、こういうところにしか文化はなかったとも言えるのかも知れないが、労働は労働である。

二項対立と山の中

2020-03-22 23:18:46 | 文学


左衛門の督
「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」とうかがひたまふ。源氏にかかるべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむと聞きゐたり。


藤原公任(左衛門の督)は当時最高のインテリの一人であり、彼に「源氏物語」を褒められたに等しく、その喜びをぐっと隠してやり過ごした場面として有名である。もっとも、例えば森鷗外が、突然漱石のいる前で「この部屋に坊っちゃんはおるかいね」と言ったらどうであろうか。鷗外はただの馬鹿であろう。ここでの公任の振る舞いもそれほど知性の感じられるものであろうか。紫式部は、もしかしたら「公任も大したことねえな」と言いたかったのかも知れないのである。当時も物語は漢詩に比べると地位は低かったのかも知れず――というより、物語というものは社会のなかで戯作的なポジションから逃れられないところがあると思うんだが、――作者が心から卑屈になっていることは希である。紫式部だってそうだったんじゃないかなとわたくしは思う。

『和漢朗詠集』はいわば紅白歌合戦みたいなものだという気がする。しかし、これは本当の「合戦」ではなく、幕の内弁当のなかで、どの食べ物が隣り合わせに置いてあるか、みたいな美学である。公任は、自らと紫式部をそんな隣り合わせの物体としてみているのではなかろうか。

そんな気持ちで、『夜明け前』の最初あたりをよんでみると、藤村が上の美学に抵抗しているということがわかるような気がするのだった。二項対立的な試行がある限り、それを「和魂洋才」と言っても「和漢の境をまたぐ」と言っても「準え」と言っても同じようなもんだ。藤村は、意外と短い章をエッセイ風に積み重ねて行くが、あまりにもそれが平板にみえるとしたら、二項がないからである。

木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。

この冒頭部は、後の人物たちの運命を示すようでもあるが、「木曾路はすべて山の中にある」ではなく「木曾路はすべて山の中である」なのであった。木曾路は山の中に存在しているのではなく、山の中そのものが木曾路なのである。客観的にみれば、「一筋の街道」は確かに森林地帯を貫いてはいるのだが、中を通る人間にとっては、「岨づたいに行く崖の道」、「数十間の深さに臨む木曾川の岸」、「山の尾をめぐる谷の入り口」という危険な不安定なものである。油断したら墜落する。しかも他に行く道はない。それが「山の中」である。ここには、容易に対比したり跨いだりする余地はないのである。

日本の中心にいるやつは、日本が海の中にみえる。しかし、山の中というものもあるのだ。

三月も後半ですね

2020-03-21 22:52:35 | 日記


『辛酸なめ子の現代社会学』を一生懸命読了してしまったので頭がほんわりと暖かい……

筑波大附属小学校の帽子にぼんぼんがついていることを上の本で教えられた。ぼんぼんといえば、わたくしも結婚式でなんだか胸のあたりにでかいぼんぼんみたいなものをくっつけていたが、そこはかとなく似合うということであった。やはり小さい物ににくっついた揺れるまるい物体は可愛いということであろう。ひいてはくっついた小さい物体は可愛いということであろう。

もしかしたら、へその緒で繋がっている赤ん坊を連想させるのであろうか?

そろそろ首都圏や大きな都市では爆発的感染が起こりそうな気がする。4月からが心配である。

松岡正剛氏の『日本文化の核心』も少し読んだが、最初にコム・デ・ギャルソンや桑田佳祐が出てきたころ、これなら日本は大丈夫、と思ったと前書きにあった。わたくしはその頃思春期に入りかけであったせいか、もう日本はオシマイだと思っていた。どうも、わたくしにとってその気分は研究の内容と方向性にも大きく影響を与えている気がする。

情景のある宮中

2020-03-20 23:04:32 | 文学


いとよく払らはれたる遣水の心地ゆきたる気色して、池の水波たちさわぎ、そぞろ寒きに、主上の御袙ただ二つたてまつりたり。左京の命婦のおのが寒かめるままに、いとほしがりきこえさするを、人びとはしのびて笑ふ。

このあと泣き上戸になっている道長とか祝いの舞とかがこれでもかと書かれているのに比べると、肌寒さのなかの天皇の質素な姿が妙に印象に残る。しかもこれを心配する年がいった女房をみんなで笑っているのだ。よく言われていることであろうが、紫式部はこういうところよく見ている。見れば分かることなのだが、天皇と左京の命婦の姿の前に、埃一つない遣り水の流れが、風で立ち騒ぐ様など、もうすでに「情景」である。風景のなかにすでに物語が始まっている。

げに我らは、
暖かなる日光に浴し、
空気をも(その清新なるものを)呼吸し能わず。


――西村陽吉「遙かなる情景」


桎梏が桎梏であるのは、「情景」が動かず物語が始まらないからだ。プロレタリアでもマルチチュードでもなんでもいいが、物語が動かないうちは、人との繋がりは同一性を確認しただけに終わる。同一性において、紫式部と他の女房はなんの違いもなかったし、天皇と道長だって同じだったのだ。我々の相対主義は、違いではなく、同一性の確認に向いがちなのだ。自分と同じ違いを求めて敵を捜すのが相対主義だ。――で、コロナ処理で各国の特徴がでてきたところで、さて、我々は一九世紀から物語を始めつつあるのか?

たゆき心どもはたゆたひて

2020-03-19 23:35:27 | 文学


暁に少将の君参りたまへり。もろともに頭けづりなどす。例の、さいふとも日たけなむと、たゆき心どもはたゆたひて、扇のいとなほなほしきを、また人にいひたる、持て来なむと待ちゐたるに、鼓の音を聞きつけて急ぎ参る、さま悪しき。
御輿迎へたてまつる船楽いとおもしろし。寄するを見れば、駕輿丁のさる身のほどながら、階より昇りて、いと苦しげにうつぶし伏せる、なにのことごとなる、高きまじらひも、身のほどかぎりあるに、いと安げなしかしと見る。


前半、現代語訳ではなんか説明的に調子が出ないところで、「さいふとも日たけなむと、たゆき心どもはたゆたひて」とか、ほんと怠そうです。帝の行幸の日の描写なのである。出来ない子の特徴で、勝手に逆算して大丈夫大丈夫とのんびりしているが、様々な可能性を考えたらのんびりしすぎなのであり、結局仕事したくないことを推測のかたちで合理化しているだけなのである。更に不安なので、「私の扇は普通すぎる、人に頼んでいるんだけど早く持ってこないのよ、なんなのよ~」とか言っているのだが、本当は扇なんかどうでもよいのだ、すべてが面倒なだけなのである。――出来ないやつほど「悩む」、これである。

こういう人は、人が苦しんでいるところには非常に同情する。自分の内省は不得意でも、それを他人の姿に見てとる心の習慣は昔も今も同じである。ここで同情されているのは、神輿を担いでいる人達である。近代であれば、

おやじさん、云うとったるがのう、あんたは初めからわしらが担いでる神輿じゃないの。組がここまでなるのに、誰が血流しとるんの。神輿が勝手に歩けるいうんなら、歩いてみいや、 お?(「仁義なき戦い」)

みたいになってしまうであろうが、さすがに紫式部はこうは考えていないであろう。むしろ、我々がお祭りで神輿を担ぐのは大変だよねえ、みたいな感覚であろう。天皇というのは、あるいは、いまの神社みたいな感じなのかもしれない。天皇制が神社に具現化しているのではなく、神社みたいなものが天皇に具現化されている感覚である。

大切なことは祭の準備、即ち古来定まつた手続き規則が、少しもぬかり無く守られてゐたといふ自信さへあれば、神様は必ず来て下さるものと安心してゐられたのである。皆さんにはちとむつかしい言葉かも知らぬが、昔の人はこの用意を、ものいみ(物忌)と謂つてゐた。後には仏教の方の精進といふ言葉を、おもあひに使つてもゐたが、祭の精進は身を清潔に保つことが主であつて、魚や鳥などは食べてもよかつた。たゞそれを煮る火を穢れさせぬことが大切であつたのみである。

――柳田國男「祭りのさまざま」


この手続き主義みたいなものはいまでも我々の心の中に残っている。我々の仕事観にはそういうものとの葛藤が含まれているのであろう。いまのように、時間だけ減らして仕事の合理化をしようとすると、本当に必要な仕事がむしろ脱落し、上のような手続きみたいなものだけ残る傾向がある。大学内の仕事をみていても本当にそうなのだからびっくりする。

「浮世」とは何か

2020-03-18 23:35:27 | 文学


まして、思ふことの少しもなのめなる身ならましかば、すきずきしくももてなし、若やぎて、常なき世も過ぐしてまし。めでたきこと、おもしろきことを見聞くにつけても、ただ、思ひかけたりし心の引く方のみ強くて物憂く、思はずに、嘆かしきことの増さるぞ、いと苦しき。「いかで今は物忘れしなむ。思ふ甲斐もなし。罪も深かるなり」など、明けたてばうちながめて、水鳥どもの思ふこと無げに遊び合へるを見る。
 水鳥を水の上とやよそに見む我も浮きたる世を過ぐしつつ
「彼もさこそ心をやりて遊ぶと見ゆれど、身はいと苦しかるなり」と思ひよそへらる。


仏教の影響もあって現世は憂き世になってしまうわけでもあろうが、それは同時に浮き世でもある。これは洒落である以上に本質的なのであろう。水鳥が水上で水をこぐ感じ、この足が重たいくせに浮いている感じ、これが我々の憂鬱を形作る。いまでもそうであるが、放浪者になってしまうのではないかという恐怖は我々にはどうも歴史的にあるような気がする。この恐怖はしかし文学的快楽につねに昇華されてきた。ヤマトタケル、伊勢物語、源氏物語、土佐日記、などなど……。これは常に都とへその緒で繋がれている感じを持たされているので、その快楽はある種の甘さと同居していて、ふわふわとした感じを伴っている。紫式部も宮中に放浪しに来ているのであった。何かトラウマがあって鬱になっているのではなく、放浪自体が鬱的なのである。そういえば、芭蕉はもっと自由な存在として思われていたのに、いつからか忍者説がでてきた。芭蕉にもへその緒を期待する心性が我々に残っているのではなかろか……。

しかも、上にあるように、執着の罪というものがあるからよけい動く必要がでてくるのだ。 我々は家に対する執着に対していまでも少し恥ずかしさを感じる。昭和の初期まではかなりあったが――わたくしの祖母なんか、ほぼ外婚みたいな結婚をしている。これが可能であるためには、家に執着することが禁じられていなくてはならない。

ヤマトタケルなんて、なんだかエディプス的な人生を地で行ったあげく白鳥になって飛んで行かざるをえない。三島由紀夫は「日本文学小史」で、天皇の気持ちを過剰に忖度しすぎて兄を殺したヤマトタケルに、感情的な過剰さが文化的意志となり、しかもそれが天皇の存在を根拠としていたことに注目した、というか、かように強弁している。たぶん事実としてはあやしい推測だと思うが、我々が何かを忖度しながらそれに向かって行動するパッションに自然さを感じていることはあり得る。三島としては、崇高さに通じる道は自然さに裏打ちされている必要があった。そうでないと、全共闘みたいに自由のために人を不自由にするような、不自然な感じになるからだ。

三島由紀夫ができなかったのは、ヤマトタケルみたいなものが不能になった事態を、出家という形でみたすようなやり方だ。どうも三島はそんな風に世の中から消えてしまうのは何もしないことと同じようにおもったのではなかろうか。

大正十一年の十一月、酉の市で、人混みのなかをぼくについてきた小物の雑種の迷子犬に、買った八つ頭の芋をやって、本所太平町まで犬がいるので電車へも乗れずに連れて歩いて帰ってきたことがある。
 俗に「犬猿の間柄」というが、明治、大正時代まで猿廻しが犬を馬のかわりにして、犬の背に乗って往来を猿が廻っていたこともあるし、縁日の猿芝居で犬と猿がお軽勘平の道行なぞを演っていた。犬の乳を猫が飲み、猫の乳を子犬が飲んで育つこともある。
 本所押上の普賢横丁の小鳥屋の隠居所の六帖と四帖半の二間の家を借りて、ここへ引越してからもこの犬を寿限無と名づけて可愛がっていた。


――三代目 三遊亭金馬「犬」


われわれにとって浮世の人生とは、このような犬であるところがある。