★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

○○獣

2021-07-25 21:57:46 | 文学


走る獣は、檻にこめ、鎖をさゝれ、飛ぶ鳥は、翅を切り、籠に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁、止む時なし。その思ひ、我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを楽しまんや。生を苦しめて目を喜ばしむるは、桀・紂が心なり。王子猷が鳥を愛せし、林に楽しぶを見て、逍遙の友としき。捕へ苦しめたるにあらず。凡そ、「珍らしき禽、あやしき獣、国に育はず」とこそ、文にも侍るなれ

清原氏のyoutubeをみていたら、清原氏が犬を檻に閉じ込めるのは檻に入ったことがある自分としては。。と言っていたのに対し、犬のトレーナーの人が「檻ではない、個室です」と言っていて、ナルホドと思ったが、――確かに、そうも言えるが、結局檻が個室となり、個室が檻となっている人が多いわけで、すべては社会との関係によって決まるのである。

我々の世代は、動物を教室の中で飼うみたいな「情操教育」を施されていたが、これは自分が相手を檻に閉じ込めるときにどのような人間であるべきか自問自答させようとしたのであろうか?

確かに、それが珍しい獣の場合、なにか檻と外と内の対話が崩れるのはわかる。国に珍しい獣を入れてはいけないとの古書の教えはその機微を教えている。我々は、相手を平凡な物として対象化できなければ、相手と対話をしようとしない。日本人がいっこうに神との対話をせず、自然だかコンビニみたいな扱いにしているのはそのせいだ。こんな感じである。

「ははア、そういうことなら分ったよ。つまりそのグルグル鬼ごっこをする大怪球――どうも大怪球なんて云いにくい言葉だネ、○○獣といおうじゃないか。――その○○獣を見たのは、お前一人なんだ。新聞記者も知らないんだ。もちろん何とかいった髯博士も知らないんだ。これはつまり特ダネ記事になるよ。特ダネは売れるんだ。よオし、おれに委せろよ。○○獣の特ダネを何処かの新聞記者に売りつけて、お金儲けをしようや」
[…]
「私は昨夜この眼で不思議なけだもの○○獣を見ました。これは雪達磨を十個合わせたぐらいの丸い大きな目をもった恐ろしい怪物です。そいつは空からフワリフワリと下りて来て、私を睨みつけたのです。私は日本男子ですから、勇敢にも○○獣を睨みかえしてやりましたが、その○○獣の身体というのは、狐のように胴中が細く、そして長い尻尾を持っていまして、身体の全長は五十メートルぐらいもありました。しかし不思議なのはその身体です。これはまるで水母のように透きとおっていて、よほど傍へよらないと見えません。とにかく恐ろしい獣で、私の考えでは、あれはフライにして喰べるのがいちばんおいしいだろうと思いました。云々」
 敬二はそこまで読むと、ドン助の大法螺にブッとふきだした。ドン助はいうことが無いのに困って、こんな出鱈目をいったのだろうが、フライにして喰べるといいなどとはコックだというお里を丸だしにしていて笑わせる。


――海野十三「○○獣」


そういえば、海野十三の全集をせっかく買ったのに、まだちゃんと読んでいない。