★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

目に近く移れば変はる世の中を

2019-07-31 23:01:17 | 文学


目に近く移れば変はる世の中を行く末遠く頼みけるかな


朱雀院の娘・女三の宮が源氏に降嫁した。そのときの紫の上の歌。目に近く移りかわってしまう自分たちの仲は誰の目にも明らかであり、別に離婚するわけではないのだが、――だから、行く末はまだまだあるのであるが、末永くとあてにしていた時間はもう帰ってこない。目の前を流れる時間と、希望としての時間の明かな断絶を作りだしている、目の前の初老の男と、彼の着物に香を焚く女。男が

命こそ絶ゆとも絶えめ定めなき世の常ならぬ仲の契りを

とごまかしてももう遅い。

「いとかたはらいたきわざかな」


「行為というファウスト的な世界感情は浅薄化して労働の哲学となる。」と言ったのは、シュペングラーであるが、光源氏は朱雀院から与えられた労働をしているような状態である。感情は失われた。

今日は採点の合間に、1935年の『文化の擁護』会議の翻訳を少しめくってみたが、なるほど、文化はもう破壊され擁護するしかないことを、ヨーロッパの作家たちは知っていたのだな、という感じがした。

The Main Battleground

2019-07-30 22:40:19 | 映画


「主戦場」という映画がやっているのでこりゃ観ないわけにはいくまいというわけで観に行った。「従軍慰安婦」問題を扱った問題作である。

これはアメリカの若いユーチューバーが作ったドキュメンタリーである。情緒に流れず、ドライにぱんぱんと取材対象をモンタージュして行く様は、「客観的」というより、大学の課題レポートをスタイリッシュにやり遂げたみたいな感じであるが、これがなかなか面白い。若い監督を相手にして気が抜けたのか、特に「ナショナリスト」(映画でそう言ってた気がするからそう言っておくが……)=「慰安婦像」反対派の「歴史修正主義者?」たちが、ものすごく気さくに喋っているのが、まるで、いってみりゃ「マッドマックス」や「北斗の拳」みたいな感じである。日本の右派といってもかなりいろいろな人がいるので、わたくしは、言論の「主戦場」みたいな作りはあまり好きではないのだが、――たしかに、ネット上の罵りあいなんかをみていると、確かにこれは「戦場」になってしまっているという感じがするのだ。ただ、リアルな世界ではまだ市民的な常識に隠れているところがある(そうでもないかな?)このひとたちが、実に楽しそうに喋っている。

ある意味で、日本のある種の右派の行為とは、別にナショナリストとして青筋立てて日本の不遇を歎いているのではなく、――「癒やし」なのだ。非常に重要な点をこの監督は突き止めたのではないかと思う。

最後に、ある種ドキュメンタリーの構成上意図的にでてきたラスボスのKさんなど、日本が戦争に勝った、韓国はかわいい、とかなんとか言っていたが、わたくしはこの人は別に狂っている訳でも、おかしいことを言っているのでもないと思うのだ。だってさ、「日露戦争大勝利」、「アッツ島玉砕」、「一億総懺悔」や「神武景気」、などなど、日本は明治維新以来、すばらしい進撃をし続けているからであり、宇宙戦艦ヤマトも地球を救ったし、イチローは世界で活躍。日本食も大流行だ……し。クールジャパンだし――。えーと、もっとなんかあるだろう……。かわいさとか……。

というわけで、我が国で、特にそういう集団に属していれば、敗戦や戦争犯罪などなかった如く考えるのはある種簡単なわけである。だから、かかる言説がバトルに耐えられるわけはない。むろん主張することそのものはあり得るが、主張を続けていくためには論証と理論が必要だ。それは限りない勉強が必要で、ナショナリストを名乗ることが出来るのはこの後である。癒やされている人にナショナリズムはない。考えてみると、自分で自ら癒やされようとする右派はまだ寄り添って貰いたがる左派よりも潔いところがあるようだ。

いずれにせよそんなことは完全にどうでもいい。

何故なら、監督が出した結論は――、「The Main Battleground」は、韓国と日本の対立にはなく、アメリカとの関係に於いてある、であるからだ。日韓の条約や約束はいつもアメリカの都合で生じたり生じなかったりしているからだそうだ。監督がこの大げさなタイトルを掲げていたのは、この結論をだすためだ。こんな自明のことまで、アメリカ人の若者に教えてもらわなくてはならないのは屈辱的である。

Hopeless

2019-07-29 23:41:56 | 思想


最近は、我慢の限界ださあ断固決断だ、みたいなアホが増えているが、――確かに、だれにもそういうことはある気がしないでもない。そういう時には、あいみょんとか頑張って聴くと頑張る気が起きてしまうかもしれないので、シマノフスキの練習曲なんかが良いと思う。そして、

よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを
善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり


とか親鸞のまねごとでもしてみればいいと思う。わたくしの経験では、このまねごとも余りやりすぎると、「しりがお」みたいなものへの憎しみが出てきてしまうので危険である。高史明の「歎異抄との出会い」という短文なんかはその点、すっきりしていて良かった。

罪を自覚した人間というのは、あまり書きすぎ喋りすぎというのはよくないのである。

Hopeless

という言葉は、日本語の「絶望的」というなんだか元気がいい語調と比べて好きだ。

さまざま憂き身と思ひ屈しつる命も延べまほしう

2019-07-28 23:18:48 | 文学


いとうつくしげに、雛のやうなる御ありさまを、夢の心地して見たてまつるにも、涙のみとどまらぬは、一つものとぞ見えざりける。年ごろよろづに嘆き沈み、さまざま憂き身と思ひ屈しつる命も延べまほしう、はればれしきにつけて、まことに住吉の神もおろかならず思ひ知らる。

考えてみると、こういうところが、源氏物語より平家物語の方が、という人がいる原因かもしれない。結局は、源氏が権力の頂点に上り詰める直前に、紫の上と明石の君の対面があり、紫の上の美と身分上の上位が明石の君によって確認され、明石の君の涙の意味まで変えてしまう。住吉の神まででてきてそれを権威づける。

これに比べて、平家の方は、なんだかよく分からんが、alea iacta est(賽は投げられた)みたいな感情ばかりがあって、それゆえまっさかさまに転落して行く人物たちも多いが、学んだことも多いはずであった。大概学ぶ前に死んでいる所が残念だ。だから戦争よりも民主主義がいいというわけである。やはり左翼運動が戦争に向かったのはよくなかったのではないか。

勝ったままでいるような人間が多すぎるのは、乱世の混沌の特徴であるとはいえ、ファシズム的沸騰を通過しないと反省しないようではどうも問題だと思う。福本和夫みたいなやり方はなんだかよく分からんが反発を喰う。必要であると分かっていながら、それがいやであるんなら、学ぶカリスマを理想型とするしかあるまい。光源氏みたいな最初からすごいものを想定すると、安倍やレーニンみたいなものを夢想してしまうことがあるかもしれない。

確かに、「さまざま憂き身と思ひ屈しつる命も延べまほしう、はればれしき……」などという感慨は、自分のなかからひねり出そうとしても難しい。下手すると「勝利だよ勝利だよ」と自らに呟きながら、自らについて浪花節を歌いだしかねない。こういう人たちは案外多く、積極的なファシストではないが、やっていることは結局弱い者いじめみたいな――ことになりかねない。負けることをいやがっているのだからしょうがない。勉強が必要なのは、勉強すれば負け続けなければならないからだ。

酷暑過ぎて奇跡

2019-07-28 18:45:31 | ニュース
昨日はわたくしの書斎が38度ぐらいになっていたので、わたくしはエアコンを全力運転させながら、

【BEYOND THE STANDARD vol.2】バッティストーニ&東京フィル/のん(語り)「武満徹:系図」


能年さんの語りの武満徹を聴いて心を静めていたのである。昔、遠野凪子さんの語りの名演があるこの曲であるが、能年さんのやつもいい。

で、今日も35度ぐらいで、県立図書館に行ったら人民のみなさんが大量に涼みにいらしていて勉強に来ていて、わたくしもマリー・ロール・ライアンの『可能世界』などを読むことにして自宅に帰ってきたのであるが、細君とお茶を啜りながらテレビをみていると、

【(スロー映像あり)2019夏☆香川大会決勝/土壇場の同点スリーバントスクイズ!】2019/07/28英明高2年生・前田 大(丸亀西中)


こんな場面があって、――さすがに暑さで目の錯覚かと思ったのであるが、スクイズ成功である。英明高校は大学の近所なのでいつも生徒さんとすれちがうのであるが、とりあえず理由は何もないが頑張って欲しい。

10分後、英明高校サヨナラ負け。


男シューマン

2019-07-27 23:49:19 | 音楽
Richter - Schumann - Humoresque Op.20 with Score


今日は起きてから何故かシューマンのWikipediaを読みふけってしまい、改めて Humoresque op.20 の楽譜を見てみたら、ちょっと弾いてみたくなってきたが、わたくしにはもう一小節目からつっかえる自信がある。

ブラームスは第1ソナタをシューマンの前で演奏したらしいのだが、シューマンは仰天して急いでクララを呼び一緒に聴いたという。ブラームスのそれは、恐ろしく明晰なロックンロールみたいなものであったと思う。シューマンがフォークの世界を彷徨してたところ、若者がやってきてジャーンとやったのである。

わたくしは、深沢七郎がいう「ヤクザの涙は女性的」という言葉を思い出した。ヤクザは恩を売ったり買ったりして他人のために泣くことになる、依存的な涙を流すことになるが、男は違う、男は自分のためにだけ泣くというのだ。確かにそうである、最近のめそめそしている輩はみんな根がヤクザなのだ。

シューマンは、自分のために泣く奴ではなかろうか。だから、ちょっと取っつきにくいのだ。Humoresque の最後なんか、なんで急に盛り上がるのか分からんがそんなもんなんだろう。左手がグルングルンと波を打つ。これは男の涙である。


すべてを引き受ける?

2019-07-26 23:11:09 | 思想


茂木健一郎が晩年の吉本隆明と対談した本で『「すべてを引き受ける」という思想』というのがある。そのなかで吉本が、易しく表現しながら程度が低くならないような文体を追求している、しかしそれは難しく、なぜかというと「言葉を易しくすると、なんとなく啓蒙的な感じが出てきてしまうから」と言っていた。これ以降、日本語はウェットだとかフランス語が案外論理的とか、よくありそうな内容でつまらなかったが、――言葉を易しくすると啓蒙的な感じがするというのは、全く同感である。

わたくしも論文の文体でいろいろ言われたもんであるが、易しくすると読者に失礼な気がするという感じがいつもしていた。「分かって貰ってなんぼだ」と力説している院生は昔から多かったが、だいたい非常に思い上がりが激しいタイプで、そうでない人はそういうことは言わないのである。

吉本の文体だって、そんなに晦渋だとは思わないのである。リズムによって表記が変わったり言葉が変わったりするからそこに論理と論証を読もうとする人は混乱するであろうが、談話を聞いているつもりになれば、気分はわかりやすい文章である。あと、結論が出ていないことを怖れないことが必要であり、とりあえず不満があって文句を言ってくる家族だと思えば良い。「だから何が言いたいのだ」と言ってはいけない。吉本だって考え中なんだから。

吉本氏は文体の心配なんかする必要は実際のところあまりない。問題はそれよりも、ファクトに対する関心が途切れてはいけないところで途切れる癖の方である。上のように、家族のケンカみたいなところがある人だからいいのかもしれないが、吉本にかぶれた多く人たちが似たような態度でファクトを軽視しでかい空想ばかりしている。それは吉本の非常にゆっくりな(何年もかかる)論証と膂力あっての作法なのだ。

深沢七郎の『生きているのはひまつぶし』には、三島由紀夫の文学は少年文学だとあって、それに気づいたからやつは政治に行った、あの死は「自然淘汰」だとあった。そうかもしれない。本当のところをいえば、吉本も詩から逃げて評論をやっていた風はあると思う。

檄!インテリ大戦

2019-07-25 23:13:29 | 文学


呉智英氏の本は漫画評論と吉本隆明論他いくつか読んだだけであるが、こんど古本屋で『インテリ大戦争』を買ってきたので読んでみた。

昔、このゴチエイ氏と浅羽通明氏が好きだという青年が、実にスカシタいやな奴だったので、BSマンガ夜話の西原理恵子の回にゴチエイさんがでると知ったときにいやな感じがしたのであるが、見てみるといい人っぽかった。わたくしは、ポストモダンな書物を勉強して粋がってた頃も、所謂保守的な「封建主義者」(違うか)みたいな人と馬があっていた。今でも、萬葉集とか中国古典学、日本の哲学でも西田や鈴木をやっている人とは友だちになれそうな気がするのである。

一番友だちになれそうもないのは、すぐフーコーとかいう人とか、夏目漱石とかやってるひと

今度手に入れた本で一番良かったと思うのは、五木寛之の『戒厳令の夜』の評論で、まったく同感である。

それにしても、ゴチエイ氏は教養がありすぎるせいかちょっと切れ味が良すぎるのではないか。ときどき理系の一年生のレポートみたいな切れ味の文章がある。題名の『インテリ大戦争』もあんまり良くないと思う。この本は、ちょうど80年近辺の文章をあつめた本なのであるが、この本に流れる躁的ななにかは確かにあの時代にあった「いじめ」の雰囲気であり、果たしてゴチエイ氏が正義の味方なのか、いじめっ子なのかは分からない、というのがわたくしの実感である。

とりあえず言えるのは、ゴチエイ氏の文章は、無智を笑ったりする時にでてしまう不快感を与えない代わりに、読者が勉強しなければならないというオーラをあまりだすことがないような気がする。たぶん読者にすごく優しい人なのであろう。案外教員に向いているのかもしれない。特に、いまどきの教員に。

鏡よ鏡

2019-07-24 23:41:08 | 文学


「『この鏡を、こなたにうつれるかげを見よ。これ見れば、あはれにかなしきぞ』とて、さめざめと泣き給ふを見れば、ふしまろび、泣きなげきたるかげうつれり。『このかげを見れば、いみじうかなしな。これ見よ』とて、いま片つかたにうつれるかげを見せたまへば、御簾どもあおやかに、木帳おしいでたる下より、いろいろの衣こぼれいで、梅、桜さきたるに、うぐひす木伝ひなきたるを見せて、『これを見るはうれしな』と、のたまふとなむ見えし」
と語るなり。いかに見えけるぞ、とだに耳もとめず。


いまも、夢というのは結構実現したりするものである。つい最近、神式のお葬式の写真をみたが、ちゃんと鏡がおいてあるのであった。いまだって、鏡には神秘性がつきまとっているので、少し覗いたりするのは恐いもんである。柄谷氏みたいに、鏡には自分が映っても他者が映っているとは思えないが、自分の恐ろしさを知るのはやはり鏡である。若者が自撮り写真をしょっちゅう撮っているのは、何か不安だからではなかろうか。

わたくしは肖像画というのはいまだに転形期を彩る哲学的なテーマだと思う。

ある折は、水をのんだコツプにうつる生々した愉快な顏――切子の壺に種々な角度からうつるのも面白い。さし出された給仕盆にうつることもあり、水面にうつして妙な顏をして見ることもある。食べものを運ぶホークに、二本の筋のある斷片的な鼻と口とがうつり、齒が光ることがある。それより面白いのは小さな匙に、透明な液體とともに掬ひあげた小人の自分の顏。どれもあんまり美しいものではない。しかし、ものを書きつづけた夜の顏が、朝の光りに、机や窓硝子にうつつた時のあじきなさは、シヨーウインドに突然くたびれた全身を映照しだされたをりの物恥と匹敵する。
 私もよい鏡を持ちたいと思つた事もあつたが、それは趣味の時もあり、心の守りといふふうに思つたをりもある。今日の考へでは、脂粉のいらぬ年齡になつても、正しく恥ない日日を送るために入用だと思つてゐる。我心の正邪を、はつきりと、心の窓の眼から覗くことが出來るのは、凡人には鏡が手近だから――


――長谷川時雨「鏡二題」


長谷川は「我が心の正邪」と言っているけれども、邪はわかるが正が分からん……。古典世界の娘がみたのは悲しみの姿と喜びの姿であった。不幸と幸福と言ってもよいかもしれない。しかし、近代の正邪とは何か?

Wille ohne Gegenstand

2019-07-23 23:22:08 | 思想


やっと公開講座が終わったので一息ついたら、明日はサテライトセミナーで出張である。

西田幾多郎の長女(上田彌生)が書いた「あの頃の父」を読んでみると、「善の研究」が筆で書かれ和綴じされた冊子が次々に増えていった様子が追憶されている。考えてみると、西田の文章は、我々が普段やっているよりもゆっくり読むべきものなのかもしれない。「善の研究」の最後の章で、「対象なき意志」 Wille ohne Gegenstand というのがでてくるけれども、これを西田は「一種崇高にして不可思議の感に打たれる」と言っているのをみて若い私は馬鹿にしていたが、それが「深く自己の意識の奥底を反省してみる時」に生じるという意味を読み落としていた。意識の奥底があるかは分からんが、反省は行為だから虚無ではなくていろいろなものが去来しているのである。それがゆっくりと意識の中を西田の心を責めながらながれてゆく。

矛盾的自己同一とかいうものも、そのブルックナーのアダージョ100曲分みたいな西田の記述全体がそうなのであって、考えることが人生と化したような時空間を考えて読む必要があるのであろう。いまみたいに、くるりんくるりんと改善マシンが廻転したり、改革が加速したりする人の澱んだ思考に比べて本質的に頭がよい。

苦悩するにしてもそれが澱んでいる世の中というのはつまらない。

今日の公開講座は、ちょっと柄谷行人の「建築への意志」にひっぱられた話になってしまった。喋っていて講師がそのおしゃべりの中で何かを発見することがない講座というのはやや失敗である。講義は思索でなければならない、と思う。「対象なき意志」がそこには必要である。

弱き者よ汝の名はポピュリズム?

2019-07-22 23:56:15 | 思想


わたくしは選挙は余り票に入りそうのないひとに入れる方針で、徹底して少数者の味方なのである。というわけで、もう選挙権をもろうてかなりの年月がたつのであるが、いままでわたくしの入れた候補が当選したことがなかった。ここまで負け続けると、坂口安吾の所謂「いったい何に勝つつもりなんだ」と言ってもいい気分である。

つまりわたくしの票はいつもある意味死んでいて、外★◎一の所謂選挙殲滅運動に気分的に近かったことになる。実は、★山の主張は選挙にいかない国民がテレビでいつも言っている「選挙をしても余り変わらない」をラディカルに言い換えたものである。

わたくしのやり方は立憲民主党とか自民党に入れている人みたいな、多数派はおれのとこかお前のところかみたいな、多数派のご機嫌を伺う必要がなく、どうみても負けそうな人に入れれば良いのだから簡単である。町議会選挙とか、市議会選挙の場合は、気をつけないと、「おい当選してんじゃねえよ」みたいな人に入れてしまいかねないので、選挙公報などをちゃんと読み、「明らかにやばい」人を選ぶ。すごい人がいますからね、地方の選挙には……。そうするとやっぱりおちている。リベラルが見落としていることの一つに、とんでもない人たちをきちんと自民党支持者を含めた国民が落とし続けているということがある。

だいたい、国政選挙はしっかり勉強すると誰に入れるかかなり迷うことは確かなのだ。よく県知事とか市長が「主権者教育」みたいなことを簡単に言ってくれるが、選挙で人を選ぶというのは実はかなり難しいことなのである。中立を確保しながら主権者教育だ?そんな都合のいいものがあるかっ。現実の党名をだしながらの討論会を学校の中でがんがんやるしかないんだよ。それを抑圧しといて、何を言ってんだよ、という感じである。が、そういう勉強をしたとしても難しいであろう。確かに下手すると、小学生なんか、政治はAIや米国に任せようという決議を学級会で行うかもしれない。

なぜなら、「政治」というものが何なのか我々にはよく分からなくなってしまっているからである。例の吉本の事件も、そこで話されているのは、経済的な関係であって、パワハラだとか言われているものは、経済関係のそれなのである。こういうときには、吉本のかわいそうな芸人も、たぶん普段荒っぽい口調で周囲を圧している社長も、ちゃんとするのかしないのかみたいな話をしているだけで、――そしてそのちゃんとする誠実さをあらわすために泣いてしまったりするわけで、何故に、自分の「意見」を言わないのか理解に苦しむ。その「意見」が出てこない限り、雇用関係の理不尽さは――優しくパワハラか、厳しくパワハラか、しかないのである。「寄り添い」関係はヤクザな資本主義の振りまく暴力を止めることなど出来ない。

わたくしも、たいして違いはないので、一番分かりやすい政治――かわいそうなマイノリティに同情することにしてきたわけである。が、わたくしみたいな人は案外多くて、立憲民主とかれいわ新撰組の主張はかなりそんなかんじである。わたくしは迷った。もはや、マイノリティはマジョリティになりつつあるのであろうか。そんなわけはないのだが、この人たちは案外勝つのではないかと思ったのである。で、視線を彷徨わせていると、N国というものがあり、かなりいかがわしい感じである。普段のわたくしだったら、このN国に入れてしまうところだったのであるが、わたくしの教師としての勘で、この人たちは真のマイノリティにあらず、とひらめき、結局、出来心である政党に入れてしまったのだが、その政党から数人当選してしまったのである。

わたくしの連敗記録もここに終焉を迎えた。わたくしみたいな勝利の味を覚えた国民は危険である。これから、勝ちそうな自民党に入れたりする可能性があるからだ。負けることに堪えることを覚えないと、簡単にポピュリズムには負けてしまう。これは、国民の精神的な位相の問題なのであるが、政治がいつまでも発生しないのはそのせいもあるのであるとわたくしは思う。選挙は民主主義の言い訳みたいなもので、本当に重要なのは、選挙なんかより議員たちをはじめとする日常的な議論である。リーダーを選んでるつもりなら、即刻選挙を中止すべし。

リーダーがわれわれとともに学びあう可能性がほとんど感じられないときが一番危険である。乱世ではトランプや何やらに混じって弁証法への萌芽があるはずだ。

なんのために、叫ぶのさ

2019-07-21 23:28:54 | 文学
Maroussia Gentet plays K. Szymanowski, L. Berio and H. Parra - Théâtre des Bouffes du Nord


三高氏はそもそも選挙演説のヘキ頭から、自分がジャンバルジャンであることを語っているのです。それ、メモをごらんなさい。よろしいですか。ワタクシはこのたび立候補いたしました三高吉太郎。三高吉太郎でございます。よーく、この顔をごらん下さい。これが三高吉太郎であります。とね。つまり、三高吉太郎という顔のほかにも、誰かの顔であることを悲痛にも叫んでいるのですよ。その誰かとは、ジャンバルジャン。即ち、マドレーヌ市長の前身たるジャンバルジャン。つまり三高吉太郎氏の前身たる何者かですよ。それはたぶん懲役人かも知れません。ジャンバルジャンのように、脱獄者かも知れません。そして、たぶん、そのときの相棒が江村という人相のわるい男なのでしょう」
「なんのために、叫ぶのさ」


――坂口安吾「選挙殺人事件」


坂口安吾というのは、こういう小説を書いてしまうときがあるひとで、なんだかよくわかんない人である。わたくしは、安吾の視野にないのは、例えば松下政経塾に行ってしまうような連中であるような気がするが、そりゃそうだ。安吾のみたいのはもっと遠大な何かなので……。で、懲役人で立候補と言えば、たとえばファシストの外山氏とかであるが、案外彼が都議会?のときにやらかしたシャープな政見放送の悪いパロディのような滅茶苦茶なものを放送してしまう者が、れいわ新撰組のようなわりと勢いがあって上品な連中とともに存在し始めたのが今回の特徴のような気がした。中年より上の世代は、下品な滅茶苦茶な連中を嫌うであろうが、これも大衆の乱世の振る舞いの一つで、安倍首相ですら、そういうものに感染している可能性がある。いまは、旧社会党を裏切ったような卑怯者と、昔ながらの自民党を裏切った卑怯者との戦いで、まあどうしようもない。わたくしは、リベラルたちがマイノリティの擁護をことさらに唱えたりすることにあまり共感できない部分もあるが、それは一方で、れいわ新撰組の一部にみられたように自分自身を語る人が出てくることに対する反応ではあり、もう政治を支配するパッションが変わりつつあることの予感があるのである。政治は、やっぱり、本気であるやつだけが何かを支配できる、良くも悪くも。誰も本気でやってない環境では、そもそも民主主義以前に政治の次元が存在しないのであろう。

ただ、その本気を裏で支えまともな行動に牽制するのは、柄谷行人ではないが、文学者や思想家の「建築への意志」みたいなものである。それがないと、その本気はテロになってしまうかもしれない。