★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

EAF#m G# C#m G# C#mAEAF#B

2012-11-30 23:22:57 | 音楽


コンビニで森高千里の「ジン ジン ジングルベル」が流れていた。じつにちゃらちゃらした名曲である。森高千里はセンスの塊だなあ。学校に行くまでの脳内放送は、「ロックン・ルージュ」(松田聖子ユーミン)と「すばらしい日々」(ユニコーン)でした。むかし、音楽の先生がコード進行の説明に使っていた曲なので、これらはよく覚えている。

逆行

2012-11-28 19:20:36 | 思想


原作は読んでないので映画をみた感想であるが、私が興味深かったのは、老人として生まれだんだん若返ってゆくベンジャミンが、容姿が老人に近い思春期と容姿が思春期の思春期という、二つの思春期を送っていることであった。このあいだに挟まれた心身共に充実した時代に、ちょうど生涯の思い人と年齢的にも幸福な時期が重なりそれが黄金時代である(丁度ビートルズやアポロの頃)が故に、映画をみた(特に中高年の)方々は、結局この逆行の人生も大して現実の我々のものとかわらんなあ、あああの頃はよかったよ、と想ってしまうのであろう。若くても老いていてもそこには何かが欠けている、人生を山のようなものと考えるならばそうなるであろう。

考えてみると、老いた体が精神的成長とともに若返りつづけるなんぞ、不幸でも何でもなく理想の人生である。(普通は、体が丈夫な頃は精神が未熟で、やっとものの道理が見え始めたら体が動かなくなってしまう。最悪である。)とはいえ、この映画が訴えていることは、そういう軌道に乗った段階を挟み込む、人事不省の赤ん坊時代と死の直前にどのような状態があり得るかと云うことで……、その点、主人公はきわめて恵まれていた。はじめは捨てられていたが養老員の人に拾われ大事に育てられ(介護され)る、最後も認知症の子どもとして児童福祉局の人に拾われて愛する人の中で赤ん坊として死に至る。だから、結局、こりゃ社会的セフティーネットの自慢ばなしかよ、という感じもしなくはないのであって……というのは冗談だが、私は、最初の救済はともかく、最後は、主人公をのたれ死にさせるべきではなかったかと思った。

それはともかく、私が思ったのは、二つの思春期があるというのは、我々普通の人間もそうなのではないかということである。むしろ迷うのは二回目の方である。ベンジャミンは妻と子どもから離れバイクに乗って世界を旅していたらしい。この場面、突然ブラピのイメージビデオになっていて、「セブンイヤーズ・イン・チベット」を思い出させた。この映画、彼が遺した日記を彼を看取った最愛の人が臨終にあたってそれを娘(彼との間に出来た子どもである)に朗読させながら思い出す体裁になっているので、どっちかというと彼女の視点で描かれていると言っても良いのであるが、手紙に書かれていないところのブラピベンジャミンの世界遍歴もまたこれは大変なものであったはずである。成就する見込みのない人生を生きながら、世界の雑多さとでたらめさを吸収し続ける毎日である。自分探しどころじゃない。……しかし、この点も我々の日常と変わらない。

イの勝利に就て

2012-11-24 21:37:29 | 文学


ドラマ「三国志」終了。最後の「危急存亡」のセクションは、劉備死後、孔明の北伐と死を駆け足で、司馬懿の魏でのクーデターと司馬氏の天下平定を駆け足(というか、司馬懿死後の事情はナレーターの説明だけ……)でみせた。三国の鼎立のために頑張ったみなさんが悲劇的に死んでいったあと、深く野心を秘めていた老・司馬懿がすべてをかっさらう様は、さまざまな権力闘争をながめ、その中で生きている中国の皆さんの感慨か何かであろうか……。映画「ゴッドファーザー」シリーズはちゃんとアル・パチーノの死で終わってた。しかし、このドラマは、曹操、関羽、張飛、劉備、孔明などなどの死は前座に過ぎず、司馬懿の大往生でドラマは締めくくられたのである。最後の数話など、呉のみなさんがいたかどうかも分からない状態。たしか司馬懿には呉の軍隊と戦った過去もあるというに、それは触れられなかった(途中で寝てしまったからわからんが……)し。最後の方で、いままでの戦乱の原因の一つであった何進の暗殺を振り返る場面があったが、愛妾の静姝(実は司馬懿へ送り込まれたスパイ)は何進の孫であって(ここらへん眠かったのでよく覚えてない)、どうも最後は司馬イ(←コピペ疲れた)の頭の中にしたがってドラマが進行しているようであった。最後にエピソードをはしょりすぎなのは、それが彼の記憶のありようだからではなかろうか……。静姝は司馬イの子の出産で死亡、ショックで卒倒の司馬イ……この様子をみて調子こいてしまった政敵・曹爽は、油断して仮病男司馬イのクーデターを許す。静姝の墓の前である宦官にスパイである彼女を毒殺したことを白状する司馬イ。果たして司馬イの愛していたのは野望なのか静姝なのか……と宦官は問いかける。(ここらで睡魔が襲い、よく覚えていない)司馬イはそんな「二者択一」では悩んだこともなかったであろう。権力掌握はそれが第一目的でなければならず、他の要素はその前では優先順位が下がる。しかしそれは優先順位の問題であって、はじめから排除されるのではない。イ(←疲れてきた)はそういうことを文武両道の曹操殿から学んだに違いない。どうも、劉備も孔明もその点、目標以外を排除する人間として描かれていたようだ。彼らは目標に挫折した場合、恐ろしいショックで突然死してしまうのである。死にかけのイが言っていたではないか「常に逃げ道を作っておかなくてはならぬ」と。

とはいえ、こういう見方は天下をとったイに対して他の連中を、あまりにも引き算的に矮小化するものでもあろう。陳腐な結論であるが、人それぞれのあまりに複雑な人生があるのである。それを描くことはできない。

反省と品性

2012-11-23 23:08:34 | 思想


猪木武徳氏の『経済学に何ができるか』は読み始めたばかりだがなかなかおもしろそうである。氏の『大学の反省』はあまり好きでなかった。それは、そのころ私が「反省」を嫌っていたからであろう…。同じような浅はかさで、今の私は、「経済の論理だけをいいつのらない品性が必要」と書いている本書が好きになりそうである…。


ねえ、先生、馬はどこ

2012-11-21 23:05:26 | 思想
三島由紀夫が「自分はペテロニウスのようなもの」と死の直前のインタビューで語っていた。『サチュリコン』の作者である。もっとも、どうも三島と『サチュリコン』は似合わないというのが私の感想である。仮に「仮面の告白」を『サチュリコン』のように読めと言われたらどうしよう……果たしてそんなことが可能であろうか。

『サチュリコン』といえばなぜか「ねえ、先生、馬はどこ」というせりふが頭の中に浮かび上がってくる。故に、というかなんというか、人間くささには動物が必要という観念を私に植え付けたのが『サチュリコン』である。



上の金森氏の著作は啓蒙的なものであるが、繊細な書物であった。「動物霊魂論」を追いかけた内容であったが、結論に近づくにつれ、金森氏の口調がくだけてゆるゆるになってゆくのが面白かった。動物を論じること自体に潜むモチーフに触れようとする我々が相好を崩すことが屡々であるのは、結局問題にしようとしているのが、本当は動物じゃなくて人間の魂の問題だからである。そういや、柄谷行人が最近『狼の群れと暮らした男』を評して、柳田國男を引きながら、狼と暮らそうとする男に潜む「カミ」への接近への欲望をみていたが、いかにも柄谷的な興味の有り様を示しているといえよう……。

(告知)「第一次戦後派文学」を読む-埴谷雄高篇

2012-11-20 23:17:07 | 文学
http://www.kagawa-u.ac.jp/lifelong/
香川大学生涯学習教育研究センターで今年度も公開講座をします。1月8日から2月5日にかけてです。

「「第一次戦後派文学」を読む──埴谷雄高篇」です。

http://www.kagawa-u.ac.jp/lifelong/lecture/2012/23.pdf

昨年は梅崎春生をやったんで今年は埴谷。(理由は、特になし)
昨年はこの公開講座のために鹿児島に旅行してきたわけだが、今年は旅行するところが思い浮かばない。「虚空」とやらに旅行するしかあるまい。

深さと秋空に

2012-11-19 23:35:18 | 文学


田島正樹氏の「『神聖喜劇』論」を読み直してみたのだが、私は、『神聖喜劇』の日本浪曼派についての批評は不徹底であり、だからこそ田島氏の示唆する公共的な「政治」が生じたりもするのだと以前考えていた。しかし、どうも最近、その不徹底にはそれなりの意味があるようにも感じられる。ついロマン派の道程にはなにかそれこそ浪漫的な「深さ」を見てしまいがちであるが、深さは表現されなければ「ない」可能性が常にある。三島由紀夫が『きけわだつみのこえ』を「嘘だ」と批判するのも気になるね。確かに嘘はあるだろうが、深さがないが故の虚無としての深さだってありうるのだ。

とか考えながら、『神聖喜劇』をめくった後に、アルンダティ・ロイの『民主主義のあとに生き残るものは』をめくる。なぜか、昔吹奏楽で吹いた「秋空に」を思い出しました。

神々の微笑──クリスマス編

2012-11-18 21:16:14 | 思想
もう少しでクリスマスということで、サンタさんを口実に何かをくだらない玩具などを親に要求しようとしている成績いまいちのよい子の皆さん、社内政治の年末総仕上げを画策する腹黒管理職の皆さん、意中の女の子にサンタの衣装などを着せようとして殴られる妄想をしつつ「今年もユーチューブかニコニコ動画でクリスマスか~」と考えている日本の誠実なもてない青少年のみなさんこんばんは。

現実は決して忘れられるものではありませんし、私やあなたも含めてどうしようもないこの世の中ですが、成仏しちゃえばこっちのものです。今夜は下の動画で成仏しましょう。日本に生まれてよかったね……


非ゲーム脳によるバイオハザード

2012-11-18 08:01:43 | 映画


「バイオハザード」は全部みてないが、ゾンビ映画であることはわかる。惜しいのは、ゾンビの動きが昔のままだということである。よくわからんが、脳みそが死んでいて体が腐っていて食欲だけあるような生物が、果たしてああいう動きをするものであろうか?思い切ってキョンシーみたいな動きにしたらどうであろう。そういう動きの生物をやたらには殺せまい。西洋文明に命の大切さを説くチャンスである。ゾンビにも人権はある。「メメント・モリ」とかいってる暇があったら現実の死者を減らす努力をしていただきたい。

とはいえ、この話はゲームがもとになっているらしく、非ゲーム脳のわたくしには、どこがゲーム的なのかさっぱりである。

おもしろいと思うのは、クローン?である主人公のアリスがクローンであるが故にたくさんおり、同じ顔をしているのに対し、ゾンビの方は同じ顔をしていないということである。多様性は正義より悪の方に移っている。「イノセンス」やらではまだ同じ顔をした連中(人形軍団)は気持ち悪かった、そして彼らが悪の側であるような話だと思いきや、最後に生身の人間の子どもがいかに不細工なのかが示されていたところからすると(あれは犬とくらべて不細工だという話だったか、まあ似たようなもんだ)、どうも「エヴァンゲリオン」の綾波ではないが、能面が一ヶ月に一回笑ったりするとなにかレーゾンデートルを感じてしまうような感性に我々が近づきつつあるのかもしれない、とも思うのである。これはゲーム云々の問題ではないだろう。そもそも自己同一性という観念の中に、「同一性」への憧憬が混じっているどころか、そういう憧憬そのものである、というのが私の実感である。