★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ペットと怪獣

2021-07-05 23:04:35 | 文学


「奧山に、猫またといふものありて、人を食ふなる」と、人の言ひけるに、「山ならねども、これらにも、猫の経あがりて、猫またに成りて、人とる事はあなるものを」と言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏とかや、連歌しける法師の、行願寺の辺にありけるが聞きて、ひとり歩かん身は、心すべきことにこそと思ひける比しも、ある所にて夜ふくるまで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川のはたにて、音に聞きし猫また、あやまたず足許へふと寄り来て、やがてかきつくままに、頸のほどを食はんとす。胆心も失せて、防がんとするに、力もなく足も立たず、小川へ転び入りて、「助けよや、猫また、よやよや」と叫べば、家々より松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。「かは如何に」とて、川の中より抱き起したれば、連歌の賭物取りて、扇・小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、はふはふ家に入りにけり。飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛び付きたりけるとぞ。

おかしい話にように思えるが、猫また怪獣ではなく、自分の飼い犬だったというところがかわいい話である。この話で大笑いする人間はなんか非人情な気がする。

飼い猫や飼い犬が自分を食う空想をしたことがない人はいないはずである。我々は周囲の動物にも一部は常に食われる。刺されたり、世話を焼かせられたりしているではないか。兼好法師の眼には、低いプライドを傷つけられる愚かな人間達ばかりが映っている。連歌で食っていたっていいではないか。

(四月の夜、とし老った猫が)
友達のうちのあまり明るくない電燈の向ふにその年老った猫がしづかに顔を出した。
(アンデルゼンの猫を知ってゐますか。
 暗闇で毛を逆立てゝパチパチ火花を出すアンデルゼンの猫を。)
実になめらかによるの気圏の底を猫が滑ってやって来る。
(私は猫は大嫌ひです。猫のからだの中を考へると吐き出しさうになります。)
猫は停ってすわって前あしでからだをこする。見てゐるとつめたいそして底知れない変なものが猫の毛皮を網になって覆ひ、猫はその網糸を延ばして毛皮一面に張ってゐるのだ。
(毛皮といふものは厭なもんだ。毛皮を考へると私は変に苦笑ひがしたくなる。陰電気のためかも知れない。)
猫は立ちあがりからだをうんと延ばしかすかにかすかにミウと鳴きするりと暗の中へ流れて行った。
(どう考へても私は猫は厭ですよ。)


――宮澤賢治「猫」


近代では、怪獣は、化学反応の現象の中から現れる。これで、我々との物的つながりが明らかになった。そのことで逆に、ペットに対しては、スピリチュアルな何かを見出さなくてはならなくなったのである。

結論:キングコング対ゴジラをはやく観たい