★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

『風雲児たち』を怖くて読み進められないわたくし

2012-08-31 05:21:14 | 漫画など


みなもと太郎の『風雲児たち』は、幕末編がたぶん継続中であるが、5巻あたりまで読んで最近読んでいない。というのも、どうも坂本龍馬が出始めるとこの漫画はつまらなくなるのではないかという予感がしたからである。源内や蘭学者達の描写が非常に感動的だったので、龍馬のような少年ジャンプ的なアホ(司馬遼太郎のあれなんか、完全に「努力友情勝利」だと思ったが……どうなのであろう)無骨な人物が、いきなり自由や人権や階級意識に目覚めて突進した暁には、世の中は結局地道な翻訳や発明が動かすという殊勝な話が、多少馬鹿でもエネルギーと自己愛が激しいやつがいないとだめという(──最近よくいる、自分に下された成績に納得行かずに教員や管理職に自分をもっと高く評価するように頑張るタイプの跋扈を許す)陳腐なイデオロギーに流れるのが怖かったのである。『風雲児たち』は、基本的に、『ホモホモ7』というより『レ・ミゼラブル』や『ハムレット』路線のように感じたので、作者が本来の真面目さでつい感動的にやってしまうのではないかと思われたし……。

私は、司馬遼太郎が──大して読んでもない癖に嫌いで、みなもと氏が勉強した資料もほとんど知らない。私にとっての幕末維新史は、下手するとみなもと太郎ベースの知識で成り立っているから、今後の展開が怖かったのである。あれです、近代文学を研究していると、明治維新については、いろいろ知らなくても複雑感情があるのですよ……それも関係あります。

とまれ、『風雲児たち』の功績は、維新が、誰かが起こした暴発した革命ではなく、恐ろしく長い時間がかかっている運動であったことを啓蒙した点にあるのであろう。しかし、こういう作品の例に漏れず、明治維新以降の価値に対して判断を迫られることになる。歴史物はこの時点でもう純粋に歴史物ではなくなる。

上の『冗談新撰組』は、作者にとっては幕末を描いた最初の作品らしい。新撰組の盛衰がたった70頁たらずで語られているが、面白い。新撰組は徹底的にギャグになっており、土方近藤の心理はまったく描かれていない、私は別にこれでいいと思うのである。だいたい新撰組なんぞ、連合赤軍が政府に雇われていたようなものではなかろうか。

1900年と……

2012-08-30 08:54:52 | 思想


上は、ゲープハルトの『スピノザ概説』の一部

例えば、6時間近くもかかるベルトリッチ監督の『1900年』は、地主制度と資本主義の関係とか、ファシズムと社会主義の関係とかが問題になっている割に、その具体はよくわからない。ながらく見直してないので良く思い出せないのだが……、私はドナルド・サザーランド演じるファシストを地主(デニーロ)が屋敷の管理人としてこき使っているうちはまだよかったが、悪行にキレてしまった地主が解雇したら、ファシストを野に放つことになってしまい余計酷いことになったように見えた。つまり、地主は確かに搾取している訳であり、小作人がコミュニスト化するのを抑圧していると同時に、ファシスト化するのも抑圧しているように見えるのである。この観点はもっと考えてみたいところである。しかし映画は、地主がファシストとともに抑圧者として葬られる意味について問うことになっている。戦後、ファシストをリンチする小作人達はパルチザンにより武器を取り上げられて新たな「主人」に従うことになる。だから人民裁判で「(生きながら)死んだことにされた」元地主のデニーロが「地主は死んでないぜ」と呟くのである。武器を取り上げられた子どもとともに残されたデニーロと小作人のリーダー格だった竹馬の友・ドバルディは、ひたすらとっくみあいというかじゃれ合いを続けるのであった……。階級関係の重荷が彼らから移動したとたんに、彼らは友だちに戻った。

この竹馬の友は、幼少の頃より、おちんちんを見せ合ったり、戦争から帰ってきたらふたりで抱き合ってキスしたり、売春に行っても三人でしたがったり、どうみてもゲイだったとしか思えぬ。それを抑圧することで、結局、地主と小作人の対立を生きることになってしまった訳であった。階級闘争にも抑圧があったが、こちらにもある意味抑圧があったのである。

……と思い出すまでもなく、この映画は、老人の性、糞尿趣味、変態殺人、家畜解体、動物虐待……などなどが描かれ、社会主義とファシズムの問題が軽く吹き飛ぶ内容である。ただ、たぶん監督としては、上のファシストは何故ファシストなのか、社会主義はなぜ暴力を伴うのか、地主の生きる力の無さは何か、といった問題を性や食の様態からから追求するつもり──たぶん比喩として追求するつもりではなくリアリズムとして──なのであろう。ファシストが猫を虐待したり男子に性的意地悪をした後殺すとか、すさまじい勢いだ。マルクスが商品の物神崇拝(フェティシズム)とかいうから……、みんなその気になって、いろんんなフェティシズムを描きたがる。

かくて、上のゲープハルト(豊川昇訳)も宗教について論じている最中に「呪物崇拝(フェチシズム)」とか言い出すのである。

ジャカランダ 対 ホテル・ルワンダ

2012-08-29 09:11:27 | 思想


いま研究していることに関係する事象を扱っているので、考えさせられた作品。私が考えているのは、この破壊のみ(最後にちょっと妙に明るい場面があるが……)の物語が、なぜ植物によって引き起こされているのか、である。

そんなことを考えていたら「ホテル・ルワンダ」のことを思い出した。100万人が殺されたとも言われるルワンダ虐殺のさなか、1200人の難民をホテルに匿ったホテルマンの話である。ルワンダ虐殺が起こった歴史的背景などの説明がまるでない映画なので、これはむしろ、ホテルマンの生き方に焦点を当てた「こんな時あなたはどうするか」という一般的なメッセージを発している映画であると思う。……といっても、それは「どんな時なのだ?」と言われると困る問題ではあろう。わたしはルワンダ虐殺についてはほとんど何も知らないが、フツ族とツチ族の対立がベルギーの支配下で創作された対立であったことは確かでも、その後の虐殺に至るプロセスについては謎の部分が多いはずだからである。昔みたNHKのドキュメンタリーでは、当時ルワンダに入ってほとんど何も出来ずにノイローゼになってしまった国連軍の司令官が「人間の顔じゃなかった、悪魔の顔があった」とか、当時の虐殺を振り返っていたが、要するに、その宗教的な観念をとり去ってみれば、彼は当時も今も何のことやらさっぱり分からなかったと見るべきではなかろうか。ウィキペディアにも書いてあったように思うが、この虐殺が、プロパガンダによる興奮状態によって引き起こされたものではなく、組織的、計画的な虐殺でもあったことは、十分あり得る。が、なぜそうなったのかはよく分からないのではなかろうか。そんな訳のわからなさを人間の「自然」だと言うのは自由であるが、よく分からないことにはかわりはない。

これに対して、主人公のホテルマンの手段を選ばない行動は分からないではない。ホテルにいる難民(というか、彼にとっては「お客様」である)のためなら、フツ族に頼んで食料調達、軍のお偉方をビールや金銀で買収、とかなんでもやってのける。そもそも、彼は、一目惚れした女の子に近づきたくて、大臣に賄賂を送って彼女の配置換えをさせたような男なのだ。(この女の子が後の彼の奥さんである。彼女を守るために彼はこの映画で奮闘する。)ここまでくると、彼は常に公私混同しており、もはや、国家の一大事に際しても、家族を守るという私事が私事に見えないのではなかろうか。……というのは冗談だが、もしかしたら、フツ族の大義に燃えて、ツチ族を殺しまくっている民兵の方が、私的感情を交えず大まじめに純粋に天下のことを考えていたかもしれないからである。確かに、小物というのは、そうなりがちであろう。外国との接点や国内での様々なコネクションを持つホテルマンの方は、その履歴はもはやいろいろな意味でクリーンではあり得ない。が、それを気にするほど「個人的」な人間ではなくなっていたのではないか。大物はそんなもんかもしれない……(と私のような小物が言ってみよう……)

こんな逡巡すらなく、破滅と再生とかいっている、しりあがり寿や我々は、ほとんど人間ではなく、植物なのかもしれない。

主なき滅亡

2012-08-26 23:33:34 | 思想


しりあがり寿は好きな作品を書いてくれる作家であるが、なんとなく懐かしい感じがする。『方舟』は、数ある世界滅亡もの?のなかでもすごく叙情的な気持ちのいい作であるが、各話の最初に掲げられる旧約聖書の引用には「主」がいるのに、降り続く雨によって水没する人類の日本の世界には主がいない感じが濃厚である。したがって方舟つくったのに、ノアもいなけりゃ動物も乗せない。パニックになった市民が乗り込んで死んでゆくだけである。そりゃ、日本を描いてるから、そうなるのであろうが、たぶん作者は、主をいただいていない癖に滅亡してリセットしたがる我々──という問題を強く意識しているにちがいない。日本で最後の?山村の一軒家で、ラジオかテレビから君が代が流れているのは、その証拠であろう。最近も、パンドラの匣の希望やらうんたらかんたらを引用して、顰蹙を買っていた東北復興関係の文書があったけれども──我々はそんななんの内的必然性もない生とその説明に対して、いかにして制裁を下せるのか分からない。だからめんどうくさいので全員しんじまえ、となる。我々がそう思うのは単に我々が中学生的だからではないと思う。大の大人が「エヴァンゲリオン」とか「ドラゴンヘッド」とか創作して、なぜかそこに力がこもるのはどうみてもおかしいのである。「真夜中の水戸黄門」も、その線の作品ではなかろうか。テレビドラマの水戸黄門のやってることは、(ちょっと暴力を含んだ)調停であるが、しりあがりの水戸黄門は、悪代官集団を超能力で皆殺しにする、印籠から電波が出て、江戸幕府のロケット艦隊がやってきて絨毯爆撃をする。最後の場面、黄門が拝謁するのは、将軍というよりベールの向こう側にいる天皇のイメージに対してであるかのようだ。しかしこの天皇は、虐殺の罰として黄門にショコクマンユーを与える絶対神である。水戸黄門が庶民に受けてきた理由に潜む欺瞞?をある意味描いているのであろうが……。

いずれにせよ、こういう寓話的な描き方が何となく懐かしさを覚える理由でもある。いまの若者達は、寓話でも日本はどうにもならないのを知っており、みずから寓話的な人物になろうとする傾向があるのではなかろうか。しかし……

『ヨブ記』のような恐ろしい神との対話は我々にはありえない。どうもがいても自分と似た他者との対話になってしまうような気がする。

ところで、上のような問題に加えて、江藤淳など読み返して、われわれの父母─子問題を考えてみたかったのだが、どうも私は、そういう問題が苦手である。

秋の悪寒

2012-08-26 06:04:40 | 日記


秋が来ると、原稿の締め切りやら会議やら授業やら、ろくな事がないのである。食欲の秋とか秋の夜長とかいっている人間は馬鹿だからしょうがないけれども、こちらの足だけは引っぱって欲しくないものである。無駄な会食は願い下げである。勝手に人の人生を設計する馬鹿は、細かい事実関係や段取りぐらいには眼が行き届くが、根本的なところでは全部まちがうからやっかいである。言うことを聞いて何か良いことがあった試しはない。若い頃、旧弊を打ち壊そうと思って生きている(と自称している)タイプもいい年歳になってくるとほとんどそんな事務屋もどきになっている。

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top-spinning

2012-08-24 04:03:20 | 日記
メタボリック裁判健康診断の季節である。身長体重(なぜか、どちらも毎年変動している)を確認させられ、血液や尿をとられる。肺の写真を撮られ、心臓の鼓動を聴かれる。ここまでやられていると言うことは、密かにわたくしの思想まで調べられているにちがいない。数年前から、メタボ検査ということで、胴囲を測られるのであるが、どうみても見た目で分かるでしょうが……。



独楽遊びに似ているメタボ検査

でも、いつも問診のときにでてくるお医者さんもメタボが多いので癒されるのである。

我々に『Das Leben der Anderen』は存在するか

2012-08-23 04:17:19 | 文学


菅谷規矩雄氏の『死をめぐるトリロジイ』を読んでいたら、映画『Das Leben der Anderen』を思い出した。この映画は邦題が「善き人のためのソナタ」となっていた。ベルリンの壁崩壊以前の東ドイツの監視社会をえがいたもので、主人公ヴィースラーは国家保安省Stasiの忠実なエージェントである。シュタージのものすごさは、ゲシュタポやKGBをしのぐものだったという。Inoffizieller Mitarbeiter 非正規協力者(密告者)を含むと一説には190万もいたというから、驚きである。これでは、他人はすべて密告者と考えた方がよい。主演のウルリッヒ・ミューエも女優である妻に監視されていて、200頁を超えるファイルが残っているそうである。物語は、反国家分子と疑われる劇作家ドライマンとその恋人(女優)の私生活を徹底的に盗聴するヴィースラー大尉が、二人の性生活を含んだプライベートを記述し報告しているうちに、だんだんと妙な気になってきてしまう物語である。劇作家の部屋に置いてあったブレヒトを失敬、読んでいるうちになんだか感激、自殺に追い込まれている老劇作家の送った「善き人のためのソナタ」という曲をドライマンが弾くのを聴いているうちに涙が出てきてしまう。老劇作家曰く「レーニンはいってるぜ、ベートーベンの熱情ソナタを真に聴いてしまったものは善い人となり、革命は出来ないと。」それも真に受けたらしいヴィースラー。彼は、ついに政府高官と密通する劇作家の恋人をたしなめたり、西側に危険な記事を送るのを黙殺したり、最後には、国家反逆の証拠になるタイプライターを隠してあげたりする。

「シンドラーのリスト」といい「グッバイ・レーニン」(ちょっと違うか)といい、「99パーセントは酷いことしてましたが、少しはいいことやりました」的な映画が作られるということは、現実には、その99パーセントの罪深さの酷さが想像されるところだ。

確か以前、宮×真司が、この映画について語った時に、ヴィースラーの翻身がブレヒトやソナタからのロマン的「感染」によって起こっていることを重視し、そのロマン主義的な危険性と希望を言っていたような気がする。ようするに、世界観を変えてしまうような体験は、ファシズムにもヴィースラーのような翻身のきっかけにもなるというわけである。

私は、むしろ、翻身のきっかけになるものが、ブレヒトや「善き人のためのソナタ」とされているところをもっと突っ込んで考えたいところである。確かに、ドイツ社会の酷さにドイツ芸術を対比させる、ドイツにありがちなナルシズムとして片づけることも出来よう。ブレヒトやピアノソナタを生んだのもドイツかもしれないが、マルクスを生み出したのもドイツであり、ナチズムを生み出したのもドイツである。この映画の背後には、「我らはなぜこんなに問題物ばかり生み出してしまう(我らはもしかしてすごいかも)のか」という葛藤があるに違いない。彼らは我々の社会みたいに「天皇制文化でーす」という言い訳が許されていないから大変である。……それは、ともかく、私が重大だと思うのは、この「監視」を支えているであろう「事実を正確に記述する」ことへの偏執である。おそらく、ブレヒトやソナタは、それを破壊するからこそ転向を促すのである、ヴィースラーのような芸術素人に対してさえ。

翻って考えてみると……、我々の社会には、これほどの「事実を正確に記述する」エネルギーが存在しているであろうか。大学やいろいろなところで、私は、ビューロクラシーが本当に日本に存在しているか、疑問に思わざるを得ない出来事に日々ぶつかる。事実を隠しているのではなく、単純に、会議の内容を書記が書き留められなかったり、悪意の誤解ではなく、単なる理解不足だったり……、そんな出来事の集積ばかりである。「報告書」の類をみても、その幼稚な(文学的)曖昧さはとても隠蔽工作の意図があるとは思えないものが多すぎる。そしてそのなかを、本当に曖昧さを装った隠蔽を出来る非常に有能な人物達が泳ぎ回っている。

私は、特に戦時下の日本には、特別高等警察への密告者が相当いたと思っているけれども、上記の能力問題により、事情はもっとやっかいだと思っている。

日本で、ヴィースラーが盗聴をしていたら、反国家的発言がいろいろ聞こえてきたとしてもいつも「みんな言ってるし……」という付言があるので、どうしようもないのではなかろうか。その証拠に、戦争に負けた途端に、一億人のほとんどが擬装転向していただけであったことが判明したのである。ヴィースラーには翻身が必要なほどであったのに、この国民にはその必要さえない。確かにヴィースラーが社会主義をまじめに信仰する人であったのに対し、ヴィースラーの上司の興味は出世だった訳だから、どの国も、翻身やら転向が必要な人は僅かであると言うべきかもしれない。文学者や芸術家の戦争責任の議論をみるたびに、「みなさんは罪の意識があるから、仲間意識があるんですね。もっと酷い奴を批判することの方が大変だから、転向論に逃げているんだね」と思うことも屡々である。

菅谷氏の著作はいつも難解であるが、どうも本当に語りたいことは他にあり、心優しい?氏はそれを言えずに、死とか虚無とかを語りつづけたのではなかろうか、と思った。恐ろしいことである。