★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ちゃらちゃらお花見にゆく2

2013-03-31 19:50:48 | 日記

桜の木の下には姿態が



 

あしひきの、山桜花、一目だに、君とし見てば、我れ恋ひめやも

 

春たてば 花とや見らむ 白雪の かかれる枝に うぐひすの鳴く

…結構大量に鶯がいたのでびっくり

      

これでもかという桜花


一休み


一休み




こちらこそ

我が家にお掃除奴隷がやってきた

2013-03-31 19:39:10 | 日記
ルンバを買いに行ったところ、家電屋のおじさんの強い要請により、ルンバみたいな日本製のロボットがやってきました。主人と日本語でコミュケーションをとれるらしいのである。


電源を入れるといきなり「元気~?」とか「はいはい」(←二回言うな)とか、くそ生意気な態度なのである。人権意識がすでに芽生えているらしい。奴隷にするのが遅かった。明日は革命かもしれない。

どうみても、働かないうちから不満たらたらである。



かかる輩を働かせるためには、センター試験の監督とか会議とかに参加させ、「改革」という呪文をすり込むのがベストである。さすれば上のような表情であるのは表面上で、一生懸命に給料分だけ働くようになる。

わたくしの義弟は、実は、ボーカ×イドとかボ×スロイド開発の第一人者の一人らしいのであるが、――最近、震災復興にひっかけたボイスロイドを作ったらしい。もはや人間の方が革命意識がないので、今度は、こちらで何を指示しようと「インターナショナル」を歌い出すようなソフトを希望!昔からよく言われるように、我々の人間的なものは革命には邪魔である。

バットマンはなぜあんなにモテるのかという…

2013-03-30 19:44:00 | 映画


チボー家の人々と架空対話を行う田舎少女のお話。この後が問題なのだ…。本を読んだ後が…。という読後感も含めてたぶんリアリティに徹している。



「ダークナイト・ライジング」をようやく観たが、いろいろ詰め込んでこんがらがった感じの映画だった。元になっている「二都物語」には作品そのもので完結した意図が、「バットマン」にはそれそのものの意図があるはずである。前作「ダークナイト」は、アメリカ人のこの100年の苦労(暴力と正義と人倫との組み合わせのそれ)がにじみ出た物語でよかったが、その苦労は、貴族の苦悩や革命後の苦悩を描くものとは質が異なっているのではないか。そりゃ匿名大衆の暴力の問題が存在することは現代人なら誰でも知ってるだろうけれども、それが革命になるかウォール街の騒動で終わるのかでは、天と地の差がある。その問題と関わりなく敵を倒すことに邁進するバットマンやキャットウーマンはちゃんと最後肉体的にも思想的にも死ぬべきであった。が、死なない――主人公はバットマンとしてもお金持ちとしてもその「仮面」を捨てどこかで幸福に暮らしているらしいのだ。しかもアン・ハサウェイキャットウーマンと異種交配している可能性が高い。それこそ「ミンナガバットマンニナレル」という話ではなく、「ミンナガバットマンヲユメミナガラナニモシナイトクメイノタイシューデース。バットマンデサエソウナリマシタデース。」という話になっているではないか。好意的に見て、主人公は思想的に行き詰まったのでプライベートに逃げました、という感じか…。映画の「Xファイル」の最後に、捜査官の男女が疲れてどこかでバカンスしているのは、まあ許せる。10年エイリアンと戦ってオツカレという感じだからだ。しかし、バットマンは、八年間も引退して豪邸に引きこもってたはずだろう。にしては全然勉強してないじゃないかっ!たぶん昔の彼女の思い出に浸りながらアイドルグループ関係でネットサーフィンでもしてたな。まあ、そういう我々の生態――整合性抜きの情報の連鎖で日々が過ぎてゆく――を示すがごとき整合性のない行き詰まった心理的展開をしている作品の仕上がりなので、最後まで飽きさせない。そういう意味で、実は、思想が疎外されている我々の心理に対してのみ癒やしの映画であるという感じであるなあ。従って、許せないのは、相変わらずの点であった。……核爆発は宇宙とかでさせなきゃだめだよ、アメリカ人。沖で爆発させちゃあ、だめだよ。そこんとこだけは、はやく夢から覚めていただかないと困る。映画のなかで、ゴッサムシティを乗っ取った軍団は民衆に政治を取り戻すとか何とか言いながら何の理念もなかった…というより愛と私怨しかなかった。すなわち左翼のエゴに対しては過剰に目が覚めてるくせに、なぜキノコ雲に対しては…

恍惚の鳥

2013-03-28 23:16:39 | 映画


友人にもらったのを機に観ました。
ラストシーン、私は、やはり独歩の「春の鳥」を想起せざるを得なかった。
今とは痴呆、いや認知症への理解が違っているので、現在このような話をつくろうと思えば、そもそも「恍惚」という観念が入ってくるかはわからない…。現在では介護のあり方(というより介護への義務観念の違いか…)も違うから、ほとんど苦行の恍惚感を思わせる介護のシーンが、そもそも成り立ちにくいかもしれないが。しかし、この映画の「予告編」で、「ひとすじの絆」とかいう言葉が使われていて、たぶん現在でも介護の現場でもこの観念だけはかろうじて使用されている。そうすると、苦行と恍惚のロマンが消失した現在の方が、より状況はシビア――つまり「絆」が現場では単なる桎梏であり続けるということである――なのであろう。しかも、現在は、自ら進んで介護を受けたがる人間が、若者にも大量におり、そのくせ、介護を「支援」とかいうレベルでやり過ごそうというメンタリティも繁茂している。それはそれでよいのであろうが、それだけではやはり…。

「絆」とか連呼している人間が昔から阿呆であることは言うまでもないけれども、現実の社会を冷笑できないのは、我々が危機に臨むときに、一番阿呆が使う言葉に引き寄せられる可能性があるからである。

歩行

2013-03-26 12:42:05 | 文学


 すべての肉体的運動のうち、大地を両脚で蹴つて進む歩行ほど、全身の筋肉を平等に働かせるものはないであらう。錬成の基本となる運動は歩行である。その歩行も駈足でなく、スタスタとあるく歩行である。
 歩行は脚部だけの運動ではない、腰部は云ふ迄もなく、腹筋も背筋も、進んではうなじの諸筋肉に到る迄、相当の活動をしなくてはならぬのである。唯強ゐて云へば、手の筋肉の活動が比較的少いだけである。幸にも釣人は一日中竿をふつて居なくてはならぬので、肩から手先の筋肉まで活動する事になるのである。
 溪谷に沿つて釣り登る場合には、全身の筋肉の活動の程度は一層強いのである。

──正木不如丘「健康を釣る」

最近悪夢しか見ないが……

2013-03-25 16:48:58 | 文学


私は河田がなんと答へたか記憶してゐない。場面は突如一変して私は河田と肩を並べて美くしいブルバルを歩いてゐた。あんな美くしい道は日本には実在しない。絵ハガキで見たニースの海岸か、そのへんであらう。そこへ、私達の後から立派なタクシーが来たので河田はだしぬけに呼びとめた。
「ニコライ堂まで三十銭」
 あの男はよく三十銭に自動車をねぎつたものであつた。大概の運転手は返事もせずに行き過ぎてしまふのが普通であつた。ところが夢の中の車もまさにその通りであつた。否とも言はずに駆けぬけたのである。しかるところ十間と走らないうちに自動車は急停車した。動かなくなつたのである。ところが驚いたことには、置き残された筈の私達はちやんと自動車に腰かけてゐたのだ。
「ははん」
 河田は変にニヤニヤと咳ばらひしながら扉をあけて事の外へ出た。私もつづいて出た。運転手の驚愕の顔、恐怖の表情といつたらない。私達が降りると車は走りだした。
「面白い? 素晴らしい?」
 私は有頂天に絶叫した。
「河田! もつともつとこの道のつきるところまで、この遊びをつづけさせてくれ!」
 それから私達は、同じ悪戯をくりかへして無我夢中の有頂天の中を歩いてゐたのだつた。夢はそこで終る。毎日の悪夢とはまるで別な、私には稀な楽しい夢であつた。

──坂口安吾「愉しい夢の中にて」

ラッキー嬢ちゃんの時間論

2013-03-24 23:51:57 | 思想


作者の否定的評価を根拠にしてか、テンポ感が悪いともいわれる『ラッキー嬢ちゃんの新しい仕事』である(別に悪いとも思えなかったが…)が、これを読む前に、里見の「かね」を読んでいたので、考えることが多かった。

我々が苦しめられているものの一つに、未来へと続く時間が長く感じられないというのがある。不信感を基礎としたコミュケーションにおいてはそうなりがちなのだが、…要するに、なんらかの信頼が回復されたり他者から承認されたりといった物語が我々の脳裏で支配的となった事情とも関係があるということだ。そもそも、コミュニケーションは(本来はそうでないかもしれんが、その語感が…)やはり長時間には耐えられない形式のように思われる。体罰問題も、そんな時間意識が関係しているであろう。…と、抽象的に言えばそんなものだが、もっと具体的に言えば「脅しにはさしあたりの対処をするほかない」ということである。教育現場的に言えば「根本的に教育が不可能であると感じられたときには、対処療法しかない」ということだ。教壇に立ったものなら誰でも感じることだが、教壇に立つことは端的に暴力に身をさらす経験である。体罰に限らないが、他人に対する暴力の原因には、自らに対する有形無形の暴力に対するどうしようもない恐怖や絶望感というものが存在していると思われる。それは生徒であることもあるし、同僚や上司や社会であることもあるが、そんな自らに向けられている暴力性に対して反撃が禁じられているときに、必ずそのエネルギーが他に向くものであって、それは絶対的に不可避であると考えた方がよいと思う。重要なのは、暴力というのがさしあたりの対処を迫る、きわめて近い未来における決断を迫るものだということである。体罰も自殺もその現れだと思う。その対処を迫った本当の責任者が、表面上の加害者および被害者の他に必ずいる。最近の日本社会の特徴は、その責任者が「必ず」免責されているということであろう。

で、高野文子に戻ると、「ラッキー嬢ちゃん」の過去も未来も語られないことは重要であろう。事件が解決されればOKの世界であるが、それは主人公の境遇としては「ラッキー」が続く限りの世界だということでもあった。つまり失業せずにすんだという…。その世界は、一冊をかけてゆっくりと語られる。(事件はスピーディだが。その時間の分節性こそ「ゆっくり」という証である)これが、生きることに必死だが必死になれるほどナルシスティックにもなれない主人公の、里見の「かね」の世界になるとそうはいかない。未来は、スピーディに餅のように引き延ばされてゆく。主人公は、自らの境遇に一喜一憂している暇がない。読者も一喜一憂している暇がない。高野の世界は、その時間性が変わらずに主人公のラッキーが続かずに対処を迫られるようになれば、岡崎京子の世界になってしまうだろうし、体罰や脅迫が横行する我々の世界にもなり得る。…しかし、里見の描く世界が本当にそうではなかったのかは、よく考えてみなければならない、とわたくしは思った。近代文学の世界は「我慢」の世界であり、ほんとうのことだけは言っていない可能性が高いからだ……