★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

今年読んだ本ベスト10(2021)

2021-12-31 23:26:28 | 思想


1、郡司ペギオ幸夫『やってくる』……わたしにはいろいろとやってこない

2、斎藤幸平『人新世の「資本論」』……進撃ラッパ再びというかんじである。マルクスは歴史のように反復する。

3、和辻哲郎『風土』……再読

4、東浩紀『ゲンロン戦記』……注意:ゲド戦記ではない

5、諫山創『進撃の巨人』……完結してくれてありがとう。

6、横道誠『みんな水の中』……アスペルガー症候群やカサンドラ症候群に関する本をことしは沢山読んだが、そのきっかけになった。とにかく、同業者が真剣に自分を語らないと反応しないのが我々である。若者達はしかし、自分よりも他人を真剣に語る方が難しい場合が多いことを自覚したほうがよい。それはこれからの話だが、、、、

7、宮台真司『崩壊を加速させよ』……加速しているのかも知れないが、あまりに加速していると新幹線からみえる風景のようになんだか世界が美しくなってくるので、わたくしはやはり「生きよ墜ちよ」のほうがよいような気がするのだ。

8、柳田国男『先祖の話』……ゼミ生と一緒に読んだ。柳田の文章というのは、いままで読んできた批評家よりも忖度に近い読解が必要なようだ。彼が官僚だったせいであろうか。

9、トリスタン・ガルシア『激しい生』……今日ものんびり生きてゆこう

10、小林秀雄『無常といふ事』……小林が扱った古典作品を読んだという方が正しい。清水高志氏や奥野克己氏のいうアニミズムを視野に入れながら似たような作品がこれからでてくるような気がする。

……今年はどちらかというと、読んだ年であって他にもいろいろおもしろかったが、いろいろ考えなければならない年でもあった。貧すれば鈍すというが、一言で「鈍す」といって片付けるのは簡単だが、実際はそのほころびは細部にわたりその都度修正が必要なのが世の中だ。双方向性やらコミュニケーションやらと適当なことを言っているから一人一人への教育がまったくできなくなってしまっている。

現在と歴史

2021-12-30 23:58:11 | 文学


ゆきて見むと思ひしほどに散りにけり あやなの花や風立たぬまに

曾禰好忠の「おきて見むと思ひしほどに枯れにけり露よりけなる朝顔の花」をふまえているようであるが、もとの歌の方がなんだかドラマチックのような気がする。実朝の歌からはいつもどこかしら腰が重い視点を感じる。これは、現在ではないものを見ている視点ではあるだろうが、過去でもないように思われる。和歌の伝統とはそういう感じがする。

佐藤雄基氏の「卒業論文題目からみた近代歴史学の歩み」という論文を読んだ。東大国史の卒業論文の研究である。戦前の国史のエリートたちの卒論の一覧表がおもしろく、まだ近代史がほぼ禁じられていた時代相がみえる。近代とは歴史ではなかったのである。第一期生の明治38年提出・中村護君の「予が仮想したる日本神代史概説」なんか読みたいもんだが、歴史というのは「予の仮想したる」ものであった。歴史はある意味で「仮想」である。現在は、何によって仮想であるところの歴史となるのか。

無論、幸か不幸か、我々にとってこのあとの殲滅戦の経験が仮想であるところの歴史を生じさせたのである。

昨日、キア・ミルバーンの『ジェネレーション・レフト』を加速主義的スピードで読んだが、ここに書かれているZ世代の現在的視点は、また現在を歴史とは見ない戦前的視点であると思った。左翼のメランコリーは欲望の構造とはよくいったものだ。左翼も右翼も歴史の想起によってそれとなるのである。最近のオルタナなんとかの人たちはそれを忘れているのではなかろうか。

メランコリーとは何か。もっと深く絶望せよ、ともっと激しく自虐せよ、の違いは大きいが別物ではない。いずれにせよ、歴史がない点でそれは虚無なのである。

わたくしも、現在に生きるものとして「進撃の巨人」くらい読んどくかと思い、さっき読了したのであるが、――この作品は普通に傑作であった。「エヴァンゲリオン」にとっての歴史が、旧約的なものの抽象的反復であるのに対し、「進撃の巨人」のテーマは、人類の殺戮の歴史そのものである。「デビルマン」が、人間に対する怒りの余り、人間を神の戦いの埒外に置いて疎外してしまったのに対し、この作品は神と人間の戦いを人間のなかだけに閉じ込めて政治小説化した。そして、歴史の想起の不可能性が現在への政治的閉塞を生み出すこと、想起によってしか現在の赦しもない事態を示唆している。

日本の戦後文学は、あとからふりかえってみりゃ平家物語みたいなあつかいになるかもしれない。しかも代表作が「ガンダム」と「進撃の巨人」になってて。戦争大変だったんだねえ、宗教全盛の時代で大した作品はなくなったみたいだけど、みたいに言われてさ――。

私見では、「平家物語」も源氏と平家の現在にとらわれ、過去の想起には失敗しているところがある。それを宗教的に埋めてしまったからである。

山桜・生・性

2021-12-29 23:59:30 | 文学


山桜今はの頃の花の枝に 夕べの雨の露ぞこぼるる

この歌は、金槐集では「山桜あだに散りにし花の枝に夕べの雨の露の残れる」とセットで、散ってしまった桜への恨みを「今は」、「あだに散る」と連続させて涙を誘っているのであろうが、――涙を誘われている人間が実際に泣いているとは限らないだけでなく、これ以上なにかが問いとして浮かんでくることはないように思われるのだ。

たしか瀬戸内晴美の文章に、下ネタはおもしろいが、テレビではそれを喋っている本人の顔が映っているのでだめだ、と書いてあった。たしかに我々の生にはそういうところがある。瀬戸内晴美の小説や出家はたいがいこういう問題に関わっている。瀬戸内晴美の文学は、鏡を覗き込むことににて常に問いが生じてくる不思議さから発している。鏡は、相手の男でもあったし出家した自分でもあった。同時にそれは自分自身でもある。常に彼女の前には自分が二つある。これは二重身とかピグマリオンとかの問題とは少し違う。それらは性が介在するとは限らないが、瀬戸内晴美の場合問題は性だからであった。


作品を彩る人生

2021-12-25 23:52:25 | 文学


山桜のさくら吹きまく音すなり 吉野の瀧の岩もとどろに

実朝が独特な人生を送ったことと和歌はさしあたり関係はない。むしろ、人生の方が作品を彩るのが文学であって、そのことを忘れた理論は信用できないものである。

本質的には、歌が本歌取りを行うのも似たようなところがあって、そこで詠まれる歌は人生のようなものである。作品に人生を付け加えることをあとに続く芸術家たちはやめる事ができない。いまも大量にいる素人の作り手たちはもっとそうだ。それをパロディだとか、気分の解放みたいなかんじで捉えているから、精神が死んでしまうのである。これでも婉曲的だというなら、端的に魂が悪いと言ってもいいかもしれない。

「強い嵐が来たものだ。」
 と、私は考えた。
「とうさん――家はありそうで、なかなかないよ。僕と三ちゃんとで毎日のように歩いて見た。二人ですっかりさがして見た。この麻布から青山へんへかけて、もう僕らの歩かないところはない……」
 と、次郎が言うころは、私たちの借家さがしもひと休みの時だった。なるべく末子の学校へ遠くないところに、そんな注文があった上に、よさそうな貸し家も容易に見当たらなかったのである。あれからまた一軒あるにはあって、借り手のつかないうちにと大急ぎで見に行って来た家は、すでに約束ができていた。今の住居の南隣に三年ばかりも住んだ家族が、私たちよりも先に郊外のほうへ引っ越して行ってしまってからは、いっそう周囲もひっそりとして、私たちの庭へ来る春もおそかった


――島崎藤村「嵐」


近代文学は、人生によって文芸を上書きまでしてしまおうとした傾向があった。その結果、くだらない人生の跋扈まで許す事になった。人生ではなく人間も、である。

ウロボロスを生きる

2021-12-24 23:58:44 | 文学


ながめつつ思ふもかなし帰る雁 ゆくらんかたの夕暮の空

和歌の読み方でいつも難しいなと思うのは、「思うもかなし」が「ながめつつ」ある以上は雁と夕暮れの空のあとにくる感情であるにもかかわらず、その雁の風景が既に「思ふもかなし」に影響を受けざる得ないということである。ウロボロスの蛇みたいになっているのである。

考えてみりゃ、和歌を作っている時間は、見たり思ったりする時間とは別のものなのだから、ほんとはウロボロスではないとはいえるであろうが、――作者がウロボロスを生きているとは言えると思うのだ。

そこには、生を生き直す代わりに、生を再現しながら逃避する我々の創作の世界がある。よのなかには、作品の言葉を、作者と作品の文脈がつくる感情から切り離して平気な品性下劣な連中が沢山いる。古典和歌を生き直そうと思った実朝はそんなことも考えて、作品をもう一回生きようと思ったのかもしれない。

僕は石原の目を掠めるように、女の顔と岡田の顔とを見較べた。いつも薄紅に匀っている岡田の顔は、確に一入赤く染まった。そして彼は偶然帽を動かすらしく粧って、帽の庇に手を掛けた。女の顔は石のように凝っていた。そして美しく睜った目の底には、無限の残惜しさが含まれているようであった。
 この時石原の僕に答えた詞は、その響が耳に入っただけで、その意は心に通ぜなかった。多分岡田の外套が下ぶくれになっていて、円錐形に見える処から思い附いて、円錐の立方積と云うことを言い出したのだと、弁明したのであろう。
 石原も女を見ることは見たが、只美しい女だと思っただけで意に介せずにしまったらしかった。石原はまだ饒舌り続けている。「僕は君達に不動の秘訣を説いて聞かせたが、君達は修養が無いから、急場に臨んでそれを実行することが出来そうでなかった。そこで僕は君達の心を外へ転ぜさせる工夫をしたのだ。問題は何を出しても好かったのだが、今云ったようなわけで円錐の公式が出たのさ。とにかく僕の工夫は好かったね。君達は円錐の公式のお蔭で、unbefangen な態度を保って巡査の前を通過することが出来たのだ」
 三人は岩崎邸に附いて東へ曲る処に来た。一人乗の人力車が行き違うことの出来ぬ横町に這入るのだから、危険はもう全く無いと云っても好い。石原は岡田の側を離れて、案内者のように前に立った。僕は今一度振り返って見たが、もう女の姿は見えなかった。


――鷗外「雁」


鷗外になると、ウロボロスにしなくない意識が、円錐だとかニーチェだとかの言葉の鎗を使わせる。そのあとに情調が流れる。

風景の生成と消滅

2021-12-23 23:13:50 | 文学


みふゆつぎ春し来ぬれば 青柳の葛城山に霞たなびく


西行も苦手だが、実朝も苦手なわたくしであり、ここにはスケールだけがあって読み手の動きがない気がするからであった。

思うに、日本の街道の飛脚とか新幹線とかリニアとか、日本武尊の恨みをはらすがごとく我々にはどこまでもはやく縦断したい夢でもあるんじゃねえか。最後はやはり白鳥でひとっ飛び、生死を飛び越えるのだ。風景の発生には、なにか生死を超えたものの存在が不可欠である。

その存在が霊魂であった時代は、科学時代によって粉砕された。新幹線に初めて乗ったのは、中学生の時だったが、自分ではなく風景の方が動くのでビックリした。中央西線の普通列車ではどこまでも動いているのは自分としか思えなかったからである。さんざ言われていることだが、明治文学の風景にはあたかも車窓の風景から発想されたかのような感覚がある。自分が動いている事が重要である。風景は連動して動き出す。「破戒」の最終場面がその象徴だ。

蕭条とした岸の柳の枯枝を経てゝ、飯山の町の眺望は右側に展けて居た。対岸に並び接く家々の屋根、ところどころに高い寺院の建築物、今は丘陵のみ残る古城の跡、いづれも雪に包まれて幽かに白く見渡される。天気の好い日には、斯の岸からも望まれる小学校の白壁、蓮華寺の鐘楼、それも霙の空に形を隠した。丑松は二度も三度も振向いて見て、ホツと深い大溜息を吐いた時は、思はず熱い涙が頬を伝つて流れ落ちたのである。橇は雪の上を滑り始めた。


だからいまだ人間を動かす何かの登場による、あらたな風景の可能性はあると思われる。

いま考えると、わたしの関心を近代に留まらせているのは、荻原碌山の作品、というか生涯を中学校の頃に聞かされたからかも知れない。碌山は病気の人であったが、移動の人で、ロダンに逢いにいっていることは重要であった。そして結果見えてきたのは不幸な人々であった。

いまや、役に立つという観点すらも失われ、生き残りみたいな観点が人を強迫するようになっていて、このなかで、人のためにだけに発言するのは難しい事だ。そこには自分という風景だけがある。なにか組織の中で議論をしてみると、いまの世の中が完璧にマイノリティ排除の方向を向いていることが判明することが多い。普段の生活では感じにくい場合も議論をしてみると分かることがある。議論は組織の構造に規定される。差別は意識というより構造に強いられて、そこに従うマジョリティの自由と仕事の低減のために行われるのである。マイノリティとは戒めを破った人間においてそれがまずは風景として現れる。構造によって生き残りをかけた人間には風景は見えない。

幹と花

2021-12-19 21:07:40 | 文学


この寝ぬる朝明の風にかをるなり 軒端の梅の春の初花

「梅の花、風に匂ふといふことを、人々によませ侍りしついでに」と詞書にある。詞書というのは、なんとなく邪魔に感じられてくるものであるのだが、やっぱり詞書が排除されなかった事を軽視するわけにはいかないのであろう。詞書はいわば幹であり、歌が花なのである。幹がなければ、現実の養分を吸うことはありえない。

作品と現実との関係は、その作り手との関係に限らない。鑑賞する側も現実である。例えば、ウルトラマンやゴジラが公開される前に誠実な愛好者たちがその物語やなにやらを予想して胸を膨らませているのはいつものことで、わたくしも小学年低学年の頃だったか、新作ウルトラマン(80か?)の話を放映前に悪友たちに自慢げに妄想を語ってたもんだが、考えてみると、源氏物語やなにやらにもそういうことはあったのかもしれないのだ。その点、更級日記のお嬢さんは前半で、なにかひたすらまだみぬ源氏の本文をありがたがっている点があやしく、もしかしたら更級日記自体が、源氏の本文を読む前に妄想していた話自体なのかもしれない。

ヴィトゲンシュタインがどこかで、「どんなに洗練された”趣味でも、創造力とは無関係である」といっていたが、関係がない事もないのだ。弱い関係がそこにはあって、そのために創造力が生じる事もある。

しかし、この作品に対する弱い繋がりを、鑑賞者たちはしばしばその弱さを忘れる。それが作品でなく、何かの事件でもよい。その際に、勝手に当事者たる他人の気持ち想像する危険性を思い知りつつなお想像せざるを得ないのが社会ではあるのだが、――確かに大塚英志氏の言う「お気持ち」社会というのはそういう緊張感を解除してしまうわけである。かくしてハラスメントが止まらないわけだ。

インターネットの登場とともにハラスメントが激しくなったのは、作品や事件に対する距離が短くなり、上記の弱さを強さとして「見える化」したのに喜んだ人でなしが大量に出現したためである。

放火と放下

2021-12-17 23:46:02 | 文学


けさ見れば山もかすみて 久方の天の原より春は来にけり

これは好きな歌である。霞は春の象徴だということはわかっているが、もっと天の原に繋がる大きなものの降下を感じさせる。この歌に於いては、春は季節ではなく、世の中のはじまりのようなものなのだと思う。久方の、も枕以上の象を持っているのではあるまいか。良経の新古今集冒頭の歌がなくてもよい歌だと思う。

むろん、こういう感性は修辞的なもので、落合陽一のいわゆる「デジタルネイチャー」(笑)みたいなものである。私くらいの狂人になると、ふだん文学のレトリックの問題ばかり考えているせいか、放火と放下は案外近いのではと思ってしまう。今日も大阪で放火事件があった。私の中で、中上健次の主人公の放火や、ハイデガーの放下、また仏教の放下がぐるぐるとまわりだす。

果たして、ネット上の炎上は、仏教の放下のような離脱的なものであろうか、それとも執着にみえて放置するようなものであろうか。

私共は次のことをなし得るのであります。すなわちそのこととは、私共は諸々の技術的な対象物を使用しますものの、それらを事柄に適わしく使用しつつもなお且同時に、それらに依って私共自身を塞がれないように保ち、何時でもそれらを放置する、ということであります。私共は諸々の技術的な対象物を、それらが使用されざるを得ない仕方で、使用することが出来ます。併し、それと同時に、私共はそれらの対象物を、最も内奥の点と本来の点とに於ては私共に些かも関わるところのない或るものとして、それ等自身の上に置き放つことが出来ます。

――ハイデガー「放下」


ハイデガーは核兵器の扱いについて言っているようなのだが、核兵器のように放置するではすまないのが普通のものであって、普通は燃やさなければならない。世界は狭いのである。しかし現代には燃えないものが多すぎる。我々のなかには毎日焚き火をする欲望が残っているので、スクラップアンドビルドや断捨離を超えてそれは言葉を燃やす方向に向かうのではあるまいか。そしてそれは常に、過剰な兵器の配備(overkill)に流れてしまうのであった。その流れに注目しているのが、中上や大江であった。わたくしとしては、どっちかというと、岩野ホウメイのような耽溺のような消尽をつねにしていることが重要であるような気がする。中上や大江は禁欲的過ぎる意味で我々に近い。