★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

SDGsとか言うてるのは西洋かぶれ

2023-11-30 23:37:54 | 文学


老人は二た言目には「今の若い者は」を口にして、西洋かぶれのしたものは何に限らずダークのあやつりと同じように腰がきまらない、うすっぺらだと云ってしまう。尤も老人の言い草には常に多少の掛け値があって、一と昔前はそう云う御自身が歯の浮くようなハイカラ振りに身を窶していた時代もあるのだが、日本の楽器は単純だなどと云おうものなら躍起になって得意のお談義が始まるのである。そうなると要はつい面倒で好い加減に引き退ってしまうけれども、心のうちでは一概にうすっぺら扱いされるのに平らかでないものがあった。彼は自分のハイカラは、今の日本趣味の大部分を占めている徳川時代の趣味と云うものが何となく気に食わないで、その反感から来ていることは自分にはよく分っていながら、それを老人に納得させる段になると、何と説明したらいいか云い現わしように困るのであった。

――谷崎潤一郎「蓼喰う虫」


板東洋介氏の谷崎論を一気読みしたついでに、授業で「刺青」などを語ってみたわけだが、――勢い余って、今日の授業での問題発言:SDGsとかゆってるのは西洋かぶれ

来年度は、とりあえず、人生は短いので、現代短歌でも授業でやってみることにしたい。

無視・弾圧・恋愛

2023-11-29 23:37:54 | 文学


わたしは異国の人としてイギリスに滞在しており、友だちづきあいの炉がわたしのために燃えることもなく、歓待の扉も開かれず、また、友情のあたたかい握手が玄関でわたしを迎えてもくれない。だがそれでもわたしは、周囲のひとびとの愉しい顔から、クリスマスの感化力が輝きでて、わたしの心に光を注いでくれるような気がするのだ。たしかに幸福は反射しあうもので、あたかも天の光のようだ。どの顔も微笑に輝き、無垢な喜びに照り映えて、鏡のように、永久に輝く至高な仁愛の光をほかの人に反射する。仲間の人たちの幸福を考えようともせず、周囲が喜びにひたっているのに、孤独のなかに暗くじっと坐りこみ、愚痴をこぼしている卑劣な人も、あるいははげしく感激し、自己本位な満足を感じる瞬間があるかもしれない。しかし、こういう人は、愉しいクリスマスの魅力であるあのあたたかい同情のこもった、ひととの交わりはできないのである。

――アーヴィング「クリスマス」吉田甲子太郎訳


クリスマスが現実逃避かどうかは知らないが、「現実逃避」し「エヴァソゲリオン」や「進撃の巨人」や大江健三郎やらなにやらに嵌まってしまった試験に墜ちた、どうしてくれる、という人は多いのであろうが、自分を責めなくてもよいである。「現実逃避」が悪いのではなく、その現実とやらに付き合ってたらつまんない時にこれらが存在する。必要だから存在しているのである。こういう文化、ひいてはそれに対する研究を不必要だ役に立たんとか言うのは、すべて受験勉強・就職試験・奴隷労働だけが必要だとかいうど変態サイコパスの主張である。無視して陶然。

逆に、文化に狂いすぎるとある時期の保田與重郎のように、日本滅ぶとも和歌は死なず、みたいなことになり、これは上のサイコパスと同じ程度にサイコパス。実際、学者というより文部官僚なんかにもこういうのが案外いるもんだ。というわけで、案外、有閑階級のルサンチマンなしの文化活動がよいのはそのせいである。

偽の二項対立に巻き込まれると、すべての物事が、「自分が考えれば主観的で確実性がなく、他人が見ると客観的」みたいなものになってしまい、さすがに馬鹿すぎる事態である。超近代だか人新世だかの前にこういうのをやめないから近代ですらないとかいわれるのである。われわれも、いまも、枠小説だから客観性があるとか「言」ってしまってる論文もあるから、油断するとすごく危ない。

というわけで、虚心になって漱石をよんでると、書生・学生というものは、教員の寝床にバッタを入れたり、友人に思い人を譲ったり、猫を煮て食うなど獰悪な種族であるとおもわれてきたのだが、いまもそうであるに過ぎない。弾圧あるのみ。一方、本当に自分以外の物を忘れてしまうタイプもいないことはなく、いまの学者の一部がロケットパンチもだせない正義の味方になっているのは、そこそこ正しいことを折り目正しく書くしかなくなっているからである。学者であっても正しい書類ばかり書いている輩は、実際は役人であり、体制を支えているだけである。わたくしは、役人と結婚したからそれがよく分かるようになってきた気がする。

和歌がコミュニケーションとして政治的に機能していたときなんかが案外、理想的なのかもしれない。すなわち、恋愛の時には和歌を詠むという義務をつくれば少子化対策になるかも知れない。文化の迂遠な感じこそショートカットであって、性格の相性とか思いやりとか絆とかこそ勘違いが許されない反恋愛的なものである。コミュニケーションはいまや衝突ぐらいしかモノとしての実在感に欠けている。――「魔風恋風」にかぎらず、自転車で書生に追突みたいなのが恋愛であろう。交通整理は恋愛の敵である。

[#「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25]東綺譚

2023-11-28 23:43:13 | 文学


曇りがちであった十一月の天気も二三日前の雨と風とにすっかり定って、いよいよ「一年ノ好景君記取セヨ」と東坡の言ったような小春の好時節になったのである。今まで、どうかすると、一筋二筋と糸のように残って聞えた虫の音も全く絶えてしまった。耳にひびく物音は悉く昨日のものとは変って、今年の秋は名残りもなく過ぎ去ってしまったのだと思うと、寝苦しかった残暑の夜の夢も涼しい月の夜に眺めた景色も、何やら遠いむかしの事であったような気がして来る……年々見るところの景物に変りはない。年々変らない景物に対して、心に思うところの感懐もまた変りはないのである。花の散るが如く、葉の落るが如く、わたくしには親しかった彼の人々は一人一人相ついで逝ってしまった。わたくしもまた彼の人々と同じように、その後を追うべき時の既に甚しくおそくない事を知っている。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃いに行こう。落葉はわたくしの庭と同じように、かの人々の墓をも埋めつくしているのであろう

「濹東綺譚」の文章はすばらしいなあ。残念なのは、当記事の表題のような表記になってしまうことぐらいであろう。複雑怪奇な作であるから、これのほうが似合っている気がするのであるが。

進撃の巨人、アニメでも完結していたのか。長い間やってたから、ちょっと懐かしい感じがする作品になりましたね。懐かしい巨人になってからが勝負であろう。漱石の猫が言うように、死なないと太平は得られぬどころか、存在も許されないのが我々である。

漱石をよんでると書生・学生というものは、教員の寝床にバッタを入れたり、友人に思い人を譲ったり、猫を煮て食うなど獰悪な種族であるとおもわれるが、いまもそうである。弾圧あるのみ。

いまの学者の一部がロケットパンチもだせない正義の味方になっているのは、そこそこ正しいことを折り目正しく書くしかなくなっているからである。正しい書類ばかり書いている輩は、根本的に役人であり、体制を支えるだけである。書類とは体制そのものである。その書類に正義の脱植民地主義や女権運動のことを書き記しても、漱石が「私の個人主義」に書いているオイケンやベルグソンと同じだ。それどころか、平穏時に於ける道義上の個人主義に過ぎないのである。

2023-11-27 23:25:22 | 文学


 芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である。云わば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。この故に如何なる時代にも名声を失わない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色を具えている。しかし種々の鑑賞を可能にすると云う意味はアナトオル・フランスの云うように、何処か曖昧に出来ている為、どう云う解釈を加えるのもたやすいと云う意味ではあるまい。寧ろ廬山の峯々のように、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性を具えているのであろう。


――芥川龍之介「侏儒の言葉」


物事の多面性みたいなことを言う人は、驚くほど単純なファクトだけは指摘しなかったりするものであるが、それも当然で、その多とやらが誰でも分かることからの逃避である場合が「多」いからである。芥川龍之介さえそういうところがある。

多面性というのは、せめてピーラー・バリーの『文学理論講義』の各章を授業ごとに使いこなすとか、そういう感じであるべきではなかろうか。この書はなんかめんどくさそうな感じがして読まなかったんだが、最近ちょっと読んでみた。フェミニズムやレズビアン/ゲイ批評のあとにマルクス主義批評がきてるのが目につく。案外、この順で勉強するのがいいのかもしれない。マルクス主義のヴァリエーションがフェミニズムとかいう理解が出てくるのを防げる。

一方、「多」は、田んぼの中の蛙の卵とか、そういうイメージにもある。そういえば、親ガチャとか言うてる輩って、人間から人間が生まれるときのイメージを吉野弘の「I was born」の蜻蛉みたいに思ってるんじゃないだろうか。この詩でもちゃんと自分の体が母親の胸までふさいでいる自覚に到るわけだ。親ガチャどころのイメージじゃないだろが。

多く積み上げなければならないのは、業績だ。その結果、論文がちっこい単位の話題ごとにそろえないといけなくなったのがあれなのだ。話題だから問題にすら達しない場合が出てくる訳だ。そもそも博論のシステムは下手するとそういう事態を生み出すし、そのほかもいろいろと。作品論はその内部で掘るとでかいものに行き当たる場合があった、それよりもまずい場合が多多ある。

今日、「神秘的反獣主義」を朗読してて、ただでも意味不明なのはわかるんだけど、たぶん「煩悩即菩提」の「菩提」の意味が分からない学生が多かったんだろうとおもった。考えてみると、「即」で結んでいるのは、こういう単語の意味が分からない人々のためにというのもある気がするな。自己肯定感みたいなナルシシズムを避けるのもあるんだろうが。我々は「一即多」みたいな抽象性には慣れているのだ。煩悩そのものの頑強性と多様性みたいなものだ。しかし「即」「菩提」となれば、煩悩のあり方を精神のあり方として再構築する必要がどうしてもでてくる。

反「審賞行罰」論

2023-11-26 23:35:14 | 思想


わしの庭を占拠していた百日草の大群を人間様の私が殲滅したら、蛙や芋虫や蝗虫の皆様が日が当たるようになりましたありがとうみたいな態度であった。

城上繁下矢石沙炭以雨之薪火水湯以濟之。審賞行罰以静爲故從之以急毋使生慮。若此則雲梯之攻敗矣。


墨子は防御の仕方をいろいろと書いているが、そのなかで「賞罰を厳正にせよ」というのがある。これを容易にふつうの現実に当てはめて賞罰をはっきりさせることが組織をきちんとすることだと信じている馬鹿があとを絶たない。これは戦争の防御の話なのだ。

江藤淳を演習で分析しはじめて3年になるが、このひとは「自民党の社会党化」みたいなことを指摘しながら、それが本当はどのような事態なのかをあまり言えない――こういうことが多いというのが実感である。一部の保守勢力における「攻撃的な皮肉言うだけ」化を作り出した一人だと思う。こういう皮肉がある種の攻撃と信じられるというのは、賞罰の厳正化に似ている。その原因まで考えないからだ。文化論を抜いた吉本隆明みたいなものだ。――球が飛んでくるのを防ぐみたいな状況においては合理的な作戦を作戦通りにやることが必要だから、ヨシとダメを分けて戦闘員達の戦闘員化を邪魔しないように、判断してもよいのかもしれないが、たいがいの日常的な組織においては、たぶん軍隊ですら、ヨシと判断される行動を最大化するためにダメな行動を隠蔽しながら生きるクズが叢生するに決まっている。そういう輩に静かにしておいてもらうためには、その実、コミュニティの人間としての圧力(同調圧力)しかないのだ。しかしこの圧力の主導権をクズにわたしかねないのが、賞罰の厳正化なのである。隠蔽の正当化を行うからである。

総力戦においては、それが空想である点が忘却されるため、かならずこういう隠蔽を更に覆い隠すために、旗を振っている側がモラリッシュエネルギーとか言い始める。実際に、戦時中に起こったことであり、いま全国のそこここの組織で起こっていることである。

そういえば、白洲正子というと思い出すのが、元海軍大臣かなにかの祖父の膝に乗っかった写真で、これほど反軍的な写真をみたことがない。5歳のくせに完全に写真の全面を支配している。この人の文章は、大学の頃だいぶ読んだが、なんか衒学性の俗的使用みたいなかんじがしてあまり好きではなかった。いまよんでみると、素直な勉強家なだけではないかと思った。なんかこの人の文章を妙に褒める文章がだめなだけではなかろうか。何よりもこの人は素朴さの困難を主張していたし、文章も素朴である。支配層に生まれた彼女は、上のような隠蔽に隠蔽を重ねる精神をよく知っていただろうと思う。だから、その素朴は抵抗の精神にみえる。

しかし、お面を探して山奥の隠れ里?の農家まで追いかけて行く白洲正子と、未熟な愛国青年を追いかけてゆくような三島由紀夫とどちらがプロレタリアートの味方なのか、と比べてみると――まあ文章をみても三島氏の方がやはり万国のプロレタリアートの味方であることは明らかである。三島ばかり読んでいるとそれがわからなくなるだけだ。

レジャーランドと健康ランド――ミッションの再定義を中心に

2023-11-25 23:23:14 | 大学


誰がそのもっともらしいことを言っているか注意せよというのは、大人の常識であるが、肝心なときにその常識を思い出さずに、そこはそういうことにしとけよみたいなことに対してだけ思い出す。――そういう人間が社会の空気を制圧するといまみたいな感じになる。

かかる人間的空気のおかげかしらないが、――結局実現したのは脱近代じゃなくて脱温暖湿潤気候だった。

コミュニケーション能力を観察できなにか人間性を判断できると考えるのは、そもそもコミュニケーションを舐めてる。もっと言えば人間を舐めている。その結果がこの有様である。

ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ
――中澤系『uta 0001.txt』


大学はレジャーランドか、みたいな議論は定期的に催される。そろそろ入試の季節だからであろうか。管見では、――苦労して入った割にはずっと出られない人たちがおり(ここにいる)、もすかして遊園地に見せかけた監獄なのではないだろうか。そして、やっと娑婆に帰ってきたら白髪の老人になってましたとか、どっかできいたことある話だ。最近は竜宮城にもミッションの再定義などの地上の何かがながれてくるのであるが。酒池肉林ではないから、竜宮城でも監獄でもどっちでもかまわない。もっといえば、レジャーランドでも健康ランドでも解放区でも植民地でもなんでもいいけれども、――従業員の給料、とくに事務の給料をあげてほしい。あとレポートには自分の名前を書け。

寒くなってきました

2023-11-24 23:02:47 | 文学


僕はいつか苛立たしさを感じ、従姉に後ろを向けたまま、窓の前へ歩いて行った。窓の下の人々は不相変万歳の声を挙げていた。それはまた「万歳、万歳」と三度繰り返して唱えるものだった。従兄の弟は玄関の前へ出、手ん手に提灯をさし上げた大勢の人々にお時宜をしていた。のみならず彼の左右には小さい従兄の娘たちも二人、彼に手をひかれたまま、時々取ってつけたようにちょっとお下げの頭を下げたりしていた。………
 それからもう何年かたった、ある寒さの厳しい夜、僕は従兄の家の茶の間に近頃始めた薄荷パイプを啣え、従姉と差し向いに話していた。初七日を越した家の中は気味の悪いほどもの静かだった。従兄の白木の位牌の前には燈心が一本火を澄ましていた。そのまた位牌を据えた机の前には娘たちが二人夜着をかぶっていた。僕はめっきり年をとった従姉の顔を眺めながら、ふとあの僕を苦しめた一日の出来事を思い出した。しかし僕の口に出したのはこう云う当り前の言葉だけだった。
「薄荷パイプを吸っていると、余計寒さも身にしみるようだね。」
「そうお、あたしも手足が冷えてね。」
 従姉は余り気のないように長火鉢の炭などを直していた。………


――芥川龍之介「冬」


まあくどいほど言われていることだと思うが、いまの戦争についてはウルトラセブンの「ノンマルトの使者」を用いて教育できる。教育というのは、感情を教えるもので、中立性を教えるものではない。正しい感情というものが正しい論理をつくるにすぎない。

グレングールドの弾いた、ショスタコービチのピアノ五重奏曲はすごくメランコリックな感じがする。もしかしたら、こういう解釈がよいのかもしれない。ショスタコービチ本人の演奏はなんか羞恥心があってぶっきらぼうなのかもしれない。メカニックなショスタコビチというのは、上の中立性というものと一緒かもしれない。

この中立性こそが、無駄な二項対立を生じさせる。例えば、ゴジラ映画に人間ドラマがないとか人間の把握が幼稚だとか言うのは、浮城物語論争からまったく我々が進歩していないことを示している。こういうときにSFも文学だとかいう論陣を鷗外先生のようなインテリがこれみよがしに言ってくるのもゴジラ映画並みに反復されている。このフィクションはついにわれわれの見かけの中立性とやらを支えるようにもなってしまった。

長い呼吸

2023-11-23 23:00:44 | 文学


世継『よしなきことよりは、まめやかなることを申しはてむ。よくよく、たれもたれも聞こし召せ。今日の講師の説法菩提のためと思し、翁らが説くことをば、日本紀聞くと思すばかりぞかし』と言へば、僧俗、『げに説経・説法多くうけたまはれど、かく珍しきことのたまふ人は、さらにおはせぬなり』とて、年老いたる尼・法師ども、額に手をあてて、信をなしつつ聞きゐたり。

現代語に訳すと、くどくどしくなるのだが、「たれもたれも聞こし召せ。今日の講師の説法菩提のためと思し、翁らが説くことをば、日本紀聞くと思すばかりぞかし」なんか、一息でいう感じであって、説法菩提と日本紀はひとつの呼吸のなかにあって別々のものではないのであろう。だから、「年老いたる尼・法師ども、額に手をあてて、信をなしつつ聞きゐたり」となる。

むかし音楽をやっていたころも、音楽の呼吸を長く考えろ、みたいなことをよく言われた。音楽でさえ、われわれはぶつぶつに切って把握してしまう。聞くときでさえそうだが、演奏するときには体が苦しいということもあって、案外近視眼的になる。音楽の呼吸はワーグナーでなくても、長いものなのである。

最近の大学教員が疲れるのはいろんな理由があるが、明日は休日だと思っていたらなぜか授業があったりした経験から、休日前の酒飲みとか読書に気が入らないというのもひとつの原因だとおもうのである。これも、長い呼吸を寸断される現象である。ちょこちょこ休んでいてもだめなので、仕事は長い呼吸が必要だ。労働時間は自然にきまるのがよく、機械的に短く区切ればよいというものではない。これは我々みたいな仕事ではなくてもそうなのである。

歳をとったら古典に回帰するよ君たち、と学部時代に古典の先生によく言われたものだが、実際回帰すると回帰した理由とそのあとに興味が繋がって結局は今に帰ってくる。しかし、それは時間があればの話で、この円環する時間はのんびりした時間が存在していることが前提の話なのである。たしかに、古典に帰れば、ある程度その悠長な時間が強制されるのはあると思う。そうでないと、ある種の文士のように、永遠に現在にツッコミを入れるだけの存在になってしまうのだ。

大学のころ、九〇年代の半ばだったと思うが、――廣松渉「東北アジアを歴史の主役に」というのが、『朝日新聞』に載ったときのことを覚えている。「物質的福祉中心主義からエコロジカルな価値観へ」みたいなせりふにヘッと思った記憶があるが、いまよんでみるとこれは「当座のコミュニケーション」のためのせりふで過剰反応すべきではなかった。廣松の文章が、ああいう漢語を連発してなかなか読み進められないのも、問題はかれの文章を読む時間の恢復なのである。物から事への転換はかくして起こる必要があるわけである。

AIによって、過去の作家の作品をつくるなんて仕事は、過去を過去の儘で延長させるような企みで賛成できない。手塚は死んだから、我々によって円環の時間のなかで生きられるようになったのである。手塚のダミーによって生み出された作品はまた手塚を死に追いやることだ。わたしは子供時代にマンガをほぼ読んでいない。手塚治虫も「グリンゴ」を『ビックコミック』で少し読んだのが最初で、すごくおもしろかったのを覚えている。これに比べると、後に読んだ「ブラックジャック」なんかまだ自意識過剰なところがある作であって、金太郎飴みたいなところがある。AI新作だって似せれば似せるほどそうなる。手塚は、この作が傑作であるのも手伝って、時間よとまれ、と言っていると思うのである。これは手塚の現実の――リニアな時間における死であった。「グリンゴ」こそ続きが読みたいのでAI様がんばってくれたまへ。

大げさなものと構造

2023-11-22 21:39:21 | 文学


今有一人、入人園圃、竊其桃李、衆聞則非之、上為政者得則罰之。此何也。以虧人自利也。至攘人犬豕雞豚者、其不義又甚入人園圃竊桃李。是何故也。以虧人愈多、其不仁茲甚、罪益厚。至入人欄厩、取人馬牛者、其不仁義又甚攘人犬豕雞豚。此何故也。以其虧人愈多。苟虧人愈多、其不仁茲甚、罪益厚。至殺不辜人也、扡其衣裘、取戈剣者、其不義又甚入人欄厩取人馬牛。此何故也。以其虧人愈多。苟虧人愈多、其不仁茲甚矣、罪益厚。當此、天下之君子皆知而非之、謂之不義。今至大為攻國、則弗知非、従而誉之、謂之義。此可謂知義與不義之別乎。

他国を攻めることは、他人の畑に入って桃を盗むことと一緒なんだと言うのはたやすいが、ここまで順番に徐々に大きいものを盗むのは悪いですよとたたみかけてゆくところがいいと思う。墨子の倫理は、世界をボレロのような構造で説明しようとするもののようだ。みんながやってるから道徳にせよではなく、小さいものから大きなものに到る構造には、責任の大きさが対応しているということだ。

かように案外想像力を必要とする倫理なので、普通の人には通じない。普通は、でかい責任だけをでかい責任者がとりゃいいと思っているのが庶民である。だから、政治家や官庁のエライ人々は、普通のひとたちが、屡々いきなりトップに直訴してくるのを懼れている(実際に結構あるのである)。田中正造は決死の大ジャンプだったが、案外庶民はお代官様とか上様に訴えることが可能と思っているふしもあるのだ。わたくしは、巨大掲示板とかXとかの書き込みもそんなメンタリティに裏打ちされているところがあると思う。言うまでもなく、公務員を馬鹿にするのはそのせいなのだ。公務員は構造を成り立たせる人だからである。

だから、我々には定期的にゴジラが必要なのである。ゴジラはいきなりでかい責任を示唆できるのだ。好物を食べて静かにくらしていたのに、被爆して裸で近くの島に上陸したらちっちぇえヤリとかでちくちく撃たれたり皇居を避けるのかとか文句をつけられたり、一匹とは思えないとか興行成績が~とかなんかおもちゃにされている彼である、ポルノ映画でも最初から裸でださんだろ――とわたくしがちゃちゃを入れたくなるのも理由があるのである。

我々の意識は、墨子的な迂遠な構造を嫌い、大時代的なものを好む。わたくしも、昨日のJアラートの画面に、なんかナチス風味を感じて少し興奮した。わたくしはそのせいか?、ル・クレジオみたいな作家の良さがどこかしらわからない。今日も『物質的恍惚』を少しよんだが、なんだか大げさだなと思った。

この大げささを藝に変えていた人が、例えば、哲学者の土屋賢二氏である。そういえば、最近のニュースでなんかウケたのは土屋賢二氏がなんか勲章をもらっていたことである。たぶん氏のエッセイのせいで、お名前と勲章の名前だけでなんかウケた。

――故に、その大げさなものから構造的なものに目をうつす手段のひとつが、文章を読むということである。学校の国語の先生が教材の精読というただでも実力に左右される危険な行為をやっている理由は、教科書に縛られているということもあるが、近代の作家の他の作品とか、古典だったら、教科書に載っている部分の続きとかをきちんと読んでないことにある。さすがにそれまずい事態なのである。文章が読めるというのは、いくらかは、その文章以外のことを読んだことがある、知ったという要素に左右される。毀誉褒貶あるところだろうが、文学に狂った思春期の人たちが文章を読めるとは限らないのであるが、だからといって作品をきちんと読めば抽象的に論理構造が読み取れるからそうするべきだというわけにはいかない。その点もある程度は正しいが、ある程度だけだし、興味が持続することのほうが大事だというのがあるからな。。読書は様々な作品の読書によって構造となっているときにのみ、興味の持続が生じるのである。そういう興味は国語の教師の態度になって現れる。作品は教師がある学がある生意気な態度じゃないと、生徒や児童が正しく教師を見捨てられないのである。学校の勉強なんかにかまけてる暇はない。はやく見捨てなきゃだめなのに。見捨てるというのは、読書とおなじく、様々なものとの接触で構造をつくるということである。学校のなかでは、かならずものごとは大げさなものに止まってしまう。

大鏡なんか、花山院の出家の所だけ読んですましたんじゃ面白さが伝わってないと言わざるをえない。

2023-11-21 23:23:23 | 文学


 大犬丸をとこ、『いで、聞きたまふや。歌一首つくりてはべり』と言ふめれば、世継、『いと感あることなり』とて、世継『うけたまはらむ』と言へば、重木、いとやさしげにいひ出づ。『あきらけに鏡にあへば過ぎにしも今ゆく末のことも見えけり』と言ふめれば、世継いたく感じて、あまた度誦して、うめきて、返し、『すべらぎのあともつぎつぎかくれなくあらたに見ゆる古鏡かも今様の葵八花がたの鏡、螺鈿の筥に入れたるに向ひたる心地したまふや。いでや、それは、さきらめけど、曇りやすくぞあるや。いかにいにしへの古体の鏡は、かね白くて、人手ふれねど、かくぞあかき』など、したり顔に笑ふ顔つき、絵にかかまほしく見ゆ。あやしながら、さすがなる気つきて、をかしく、まことにめづらかになむ。

古い鏡がいまどきのやつよりも明るい、みたいなせりふはそれほど珍しいとも思えないが、これを「したり顔に笑ふ顔つき、絵にかかまほしく見ゆ」と思った語り手が、爺の得意顔を反映しておかしい。彼らの話は鏡である。聞いている人間が喜べば話はおもしろいものということになるであろう。平安時代にはおもしろい話が多すぎたのか、読者の喜びが文章の世界を覆ってしまっていたのかもしれない。むろん、これは捨て去るものが多いということであり、暗黒時代の始まりなのである。

例えば、バーンスタインのチャイコフスキー管弦楽集、あまりに勢いがあり過ぎて、ソ連と米国に挟撃された大日本帝国万歳みたいな気分にさせる。この感想は、私の形式的妄想に過ぎない。しかし音楽は、そんな関係なさそうな「意味」を持つことすらあり得る。人間のやることである、どこかに通じ合って、つまり鏡に映ってしまうのである。

さきほど、Jアラートがなった。将軍様の國がなにか飛翔体をとばしたそうである。テレビの画面は、どことなくナチス風味を感じさせた。

愛とマイナー性

2023-11-20 23:16:41 | 思想


雖至天下之為盜賊者亦然、盜愛其室不愛其異室、故竊異室以利其室。賊愛其身不愛人、故賊人以利其身。此何也。皆起不相愛。

なんじの敵を愛せよ、どころではなく、盗賊に他人の家を愛せよと述べるのが墨子である。しかし、盗賊としては他人の家も自分も家も好きだから盗んでしまうのかも知れん。何故に、汝の敵を嫌う前に自分も嫌えとならないのであろう。わたくしの表面的経験に拠れば、よのなか、自分を愛しているから他人が嫌いみたいな奴ばかりであった。まず、愛することをやめねばならぬ。さすれば我々は案外ガンバル。

わたくしの好きな高峰秀子なんか明らかに表情からして「だめな男ね」と私に言っている。言われたつもりで今日もがんばるもう1時かよ(お昼休みの感想)

だいたい、われわれは自分以外が自分を好いていると大いに勘違いしているのである。わしの小さい頃、夏服だと男子がすごく短い半ズボンをはいていたのだが、そこから推測するに、当時昼間は夏は45度を平気で超えていたのではなかろうか。実際は木曽だから18度ぐらいだ。18度で寒い寒いいいながら運動場を暴れ回っているから、お天道様が怒ったのである。本当に暑くなってしまったではないか。かくして、香川県民は30度が15度になったぐらいで、急に夏から冬になったシヌーとかいっているが、木曽は急に25度が氷点下になってるのだ。秋がなくなったと言っているが、今の気温が秋じゃねえか。木曽の山のほうが秋が消滅しとるわ。

昼間から、銭清弘氏の「制度は意図に取って代われるのか」を紹介しつつ授業の資料をつくっていたらいらいらしてきたのだが、坪内さんに倣い「統制書生気質」を執筆したくなった。わたくしは仕事柄明治生まれぐらいにシンクロしているので、三島・安部・吉本……ヤンガージェネレション、大江・石原……赤ん坊、W村上……単細胞、最近の若手……水、ぐらいに思っている。とても雰囲気が出ていると思う。

われわれは、二葉亭が心理模写をしているうちに見失った批評主体をしゃれでもよいから思い出す必要がある。けっこうなインテリゲンチャであるところの私の親でも、わたくしのテキスト評釈的な論文はワケワカメなのに、教育を論じたものはワケワカル。つまり、文章というものは論じられているものであっても、論じられるものではないという大きな壁があることを、ついわれわれは忘れがちである。大学入試の国語の試験でさえ、そういう論じられているものを論じるみたいな感覚が働かないと解けない問題は、「昔から」あった。しかしそもそも壁が解除されていない場合は、急に批判的読解なんかを要求されたりすると、真意をすっとばして部分をけなしたりして、そもそも現代文イラネみたいな心理が出てくる始末だ。

いわゆる「読める」ようになるというのは、文章にいろいろ突っ込みをいれつつ、他のテキストも想起しつつ、相手を真意を推測しつつ、意味がよく分からないところをえいやっと解釈しつつ、対象となる文章に慣れつつ、みたいなプロセスで、――文章に寄り添ったり人物に感情移入したり主張に共感したりするような、おれの庭でおれの体を狙う藪蚊レベルのことではない。繰り返す、文章に寄り添ったり人物に感情移入したり主張に共感したりする藪蚊レベルのことではない、ムヒ塗ろう

佐藤卓己氏の『池崎忠孝の明暗』は、わし、引退したらやるつもりの仕事だったのだ。私のかわりに私の仕事を偉大な書き手が成し遂げて行く。あたかも、意図は私にあり、作品が他人にあるような気がする。――わたくしは読者の気持ちを思いだした気がする。

そもそも意図と作品を結びつけて考えすぎているから、AIと一緒に手塚治虫の新作をつくるとかいう発想が出てくるのだ。手塚は意図から作品をひねり出したわけではない。少なくとも彼が置かれた環境および、彼が形作った彼のなかでの環境を再現しなければならない。手塚治虫の新作とかいっても、あれだろ、ブラックジャクがピノコに子供産ませてそいつがナチスになってみたいな話にはせんのだろ?手塚治虫ってあんなに天才なのにどこかしら親しまれすぎて舐められてるところがある。手塚自身が晩年、手塚治虫っぽい絵になっていったところも関係ありそうだ。マイナーであるしかないおもしろさを持ってるかどうかみたいな観点は非常に重要だったはずだが、まあ形式的な審査ばっかりやってりゃ消滅する。手塚には、どことなくマイナー性が最後までつきまとっていたと思う。わたくしがそう思うのは、彼が死ぬ間際に書いていた「グリンゴ」が印象的だったからかも知れない。彼は日本人のマイナー性に接近しようとしていたと思う。

昔の儒教やら仏教やらが人間の多様性を無視した乱暴なことになっているのはある側面についてはそうかもしれないが、人間をそうバカにしたものではなく、差別や性の様々な面なんかにも気づいた上で練られ社会性に向かっていた面もあると思う。批判的知性がすぐ蔑視にスライドする、これこそメジャーというやつである。マイナーはその反対である。

視点と視線

2023-11-19 22:52:43 | 文学
『いでいで、いといみじうめでたしや。ここらのすべらぎの御有様をだに鏡をかけたまへるに、まして大臣などの御ことは、年頃闇に向ひたるに、朝日のうららかにさし出でたるにあへらむ心地もするかな。また、翁が家の女どものもとなる櫛笥鏡の、影見えがたく、とぐわきも知らず、うち挟めて置きたるにならひて、あかく磨ける鏡に向ひて、わが身の顔を見るに、かつは影はづかしく、また、いとめづらしきにも似たまへりや。いで興ありのわざや。さらに翁、いま十二十年の命は、今日延びぬる心地しはべり』と、いたく遊戯するを、見聞く人々、をこがましくをかしけれども、言ひつづくることどもおろかならず、おそろしければ、ものも言はで、皆聞きゐたり。

磨いた鏡には恥ずかしい自分の姿と同時にとても珍しい姿も映るものであるという。ここに、大鏡の作者の、現代の所謂「プラス面とマイナス面ガー」みたいなアホみたいな観点とは違う自然さがある。

たしかに近代になると、映る鏡自体が信用できなくなり、つい汚れたどぶ川なんかを見てしまうから余計醜いものがみえてくる。これは別に変形された醜さではない。ひさしぶりに「にごりえ」読んだらその出来のすさまじさに圧倒されて微熱が出てきた。そういうところまで読み手に跳ね返るのが近代の鏡の威力である。

したがって、我々は深淵を覗きすぎて、もう人間を聖なるものに喩えたりはしない。すなわち、アイドルをキリストに喩えるよりも勝新太郎に喩える人の方がぎりぎりヒューマニストなのである。そういう点で中森明夫は正気を保っているといへよう(「推しの力」2023)



我々はおそらく後鳥羽院や西行、芭蕉の時代より、対象とする作品にある視点を共有することに欲望を持つことになった。単にそれは真似ではない。より表現が映像化したからだ。もはやわれわれは大鏡にうつる天皇たちに視点を共有しようとは思わない。同情はするのだが。山口誠氏の旅行論なんかをよむと、旅を追体験と言うより真似と結びつけている。現代のアニメの聖地巡礼なんかも真似なんだろう。風景を見たいんじゃなくて視線を真似したいという。これは視点よりも視線である。視点自体が映像に沿ったものに変形したのだ。

文学上の「1987年境界説」みたいなものがあるが、「サラダ記念日」や「ノルウェイの森」の年である。このとき文学を囓ってごく初期だったか、ある程度読みあさった後だったかによって、人としてなにか違っているように確かに思えるのは、上の問題に関わっている。

御目を御覧でざりしこそいといみじかりし

2023-11-18 23:13:30 | 文学


院にならせたまひて、御目を御覧でざりしこそいといみじかりしか。こと人の見奉るには、いささか 変らせたまふ事おはしまさざりければ、そらごとのやうにぞおはしましける。御まなこなども、いと きよらかにおはしましける。いかなるをりにか、時々は御覧ずる時もありけり。「御簾のあみ緒の見ゆる」 なども仰せられて、一品の宮ののぼらせたまひけるに、弁の乳母の御供の候ふが、さしぐしを左 にさされたりければ、「あゆを、など櫛はあしくさしたるぞ」とこそ仰せられけれ。この宮をことのほかに かなしうし奉らせたまひて、御ぐしのいとをかしげにおはしますを、さぐり申させたまひて、「かく美しく おはする御かみを、え見ぬこそ、心うくくちをしけれ」とて、ほろほろと泣かせたまひけるこそ、あはれにはべれ。

「大鏡」の前の「栄華物語」が「源氏物語」の影響下にあるのはみんな習うことなんだが、これはほんと含蓄ある事態である。歴史こそ物語のパロディになることがある。イスラエルが行っていることは、現実の行為の反復であるが、物語の真面目な戯画化であって、それが自然に感じられてしまう教育によって成立しているに違いない。「源氏物語」が用いられた教育だって行われたのかも知れない。「源氏物語」が時代を終わらせたのかも知れないのは、そういう意味である。そしてその終わりが現実となっている段階では、その反復である物語はおもしろくなくてよい。実際、「大鏡」となるとあまり作品としてはおもしろくなくなっているような気がする。おそらくその必要がなかったのだ。

昨日と今日、空をみあげていると、下手なSF映画よりもすごく終末感が出ていた。わたしも映画を見過ぎているようだ。われわれはいつも自らが見ている世界に不信感があり、眼が見えないほうがよく見えるなどと考えるひともでてくる。「大鏡」の作者は、陰謀を目で見たわけではない。その意味で、みえない陰謀とそれによって出家させられた院は同じ闇に沈んでいる。

雨蕭蕭

2023-11-17 23:17:04 | 文学
 雨は歇まない。
 初め家へ上った時には、少し声を高くしなければ話が聞きとれない程の降り方であったが、今では戸口へ吹きつける風の音も雷の響も歇んで、亜鉛葺の屋根を撲つ雨の音と、雨だれの落ちる声ばかりになっている。路地には久しく人の声も跫音も途絶えていたが、突然、
「アラアラ大変だ。きいちゃん。鰌が泳いでるよ。」という黄いろい声につれて下駄の音がしだした。


「濹東綺譚」を読みたい気分だったのでつい徹夜して読んでしまいましたが、今日は雨であった。

坂出の大橋記念図書館で会議があったのでてこてこと出かけていった。風が強く、高松駅の前の交差点で傘がへしゃげる。

一昨日、ある古本をよんでたら、ある箇所からすごい量の傍線がひいてあって、なんとも引き方に統一性がないのでフシギだったのだが、文章の最後に赤で「古くさい言葉遣い」と書いてあった。なるほどと思ったが、これ明治の小説集だから仕方がないのではないだろうか――と思ったが、まあ、傍線がひかれたことばをみたら確かに古い言葉であった。優秀な読者であったかもしれない。

古い言葉が廃棄されて行くのにはいろいろな理由があるんだろうが、なにか事態をうまく換言できる言葉に負けてしまう現象もなかにはあると思う。三島由紀夫はたしか谷崎の「刺青」を、あとは技巧などを頑張れば良い「永久機関」の発明だとか言っていたと思う。これはうまく言いすぎの例だと思う。うまく言えばイイというものではないわけだ。三島由紀夫の言葉というのは、案外そういう新語を弄ぶみたいなところがある。そんなところは、蓮田善明なんかとはちがうようだ。



晴れていると、香風園も非常に明るい庭園にみえるのだが、雨の庭園もなかなか迫力がある。黒々とした物体が空に移って行くような気がする。「濹東綺譚」の岩波文庫の挿絵は黒々としていたから、こういう風景は好きであった。文化は風景に宿るのであるのであるが、結局、こういうお金がかかっているものがつくられることと関係がある。資本主義は、破壊もし創りもする。そのなかで人しれず恐ろしい差別や殺人が行われる。

雨の和霊神社を訪ねる――香川の神社(43-2)

2023-11-17 23:14:14 | 神社仏閣


坂出で仕事があったので帰りに和霊神社に寄ってみた。雨が降っていた。



神社には全てではないが、いろんなものに屋根がついている。雨が降っていると、たしかに雨からいろいろ守られているのが分かるのであった。



鳥居は雨が降っていると雨宿りもさせてくれない。これは晴天用だ。