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一人では何もできない性格

2024-04-30 04:03:06 | 自給


 一人では何もできない性格にちがいない。今でも畑仕事をコツコツ一人でやり切るような気力がない。生産者としての農業者には向いていないのだろう。このようにブログを何年も続けるような、ひつこいところはあるが、今は畑仕事は誰かが来ないと始める気になれない。

 みんなでやるとなると、俄然やる気が出てくる。みんなでやるなら、結構頑張れる方だと思う。ダメでもいいジャン。が座右の銘なのだが、どうも「ダメだからいいジャン」だったようだ。一人ではやれない性格なので、みんなの力を借りる。それで、協働で取り組むことが出来たのだと思う。

 人目を気にするとか、人の役に立ちたいとか、そういうものとも違う、一緒なら頑張る気力が湧いて来る。みんなでやる農業を目指ざしてきたのだと思う。一人ではやる気が出ないから、みんなを誘って、楽しいグループ自給をやってきた気がする。一人ではやれない事が良かった。

 今でも小田原で一緒に、ジャガイモを作り、タマネギを作り、小麦を作り、お米を作っている。足手まといにならない内は続けた。石垣島でもみんなで「のぼたん農園」を作っている。一人では始めたはずもない。みんなでやるのが楽しいから、やらないつもりだった石垣島の農業も始めたに違いない。

 なぜみんなでやると、出来るのかと思うが、石垣島の暑いときに農作業をやるのは、危険なほど厳しい。それでも、年寄りが汗をかきかきやり切ろることが出来るのは、一人ではないからに違いない。一人ならまず始められない。先日の水源の森づくりも、大勢が来てくれたから、やり切ることができた。一人では始めることさえできなかっただろう。

 人間という動物は、太古から群れで暮して来たのだ。みんなで力を合わせて、逃げ回りながら、ずる賢く協力をして餌を探し、生き抜いてきた。力を合わせることが出来たから、今まで生き抜くことができたに違いない。そうでなければ、非力な人類はどこかで死に絶えただろう。最近みんなで出来なくなって、生存が危うくなってきた。

 そう考えてみれば、人間は群れでなければ、気力が出ない方が、普通なのかもしれない。世間では一人でやり切ることが普通のような立派な人もいる。「私は一人でも農業ができる」とえばった人がいた。そういうけた外れの人もいるが、普通の人はみんなで力を合わせる道の方が、力を出し尽くせる気がする。一人で出来たら、今度はみんなでね。

 確かに、自給自足に入ったのは一人でやる自給だった。これは切羽詰まった自分の建て直しのようなものだったから、一人でやる以外になかった。回りにいた人も、協力はしてくれたのだが、自分としては、協力者がいるとかいないとかは、自分が自給農業をやり切ることとは関係がなかった。

 人間一人が、自分の体力だけで自給自足に生きることが出来るのかを試すことが目的なのだから、協力者はその人自身の自給の為にやっているのだろう。と思うばかりだった。ともかくわき目を振る余裕もなく、一人の自給を目指した。そして3年、4年、5年が経過したときに、何とか自給が出来ていた。その時の安心は忘れることができない。

 田んぼは2畝に広げた。田んぼで麦も作った。大豆も畔に作った。他に畑が5畝ぐらいあった。そして養鶏業をやった。この形が、今石垣島でやっている「のぼたん農園」原型である。ここで家族4人で暮したのだ。自白すれば、4人分の自給は出来なかったと思う。厳密に言えば、3人分ぐらいだ。

 山の中に行ったら、また鶏を飼う事だけは決めていた。趣味で飼い始めた日本鶏がだんだん養鶏業になり、なんとそれで生計を賄うようになった。まさか養鶏を生業にするなど思いもしなかったことなのだ。これこそ、家族4人だからできたことだと思う。

 実はここからが今日書こうと思った主題だ。絵を描くことも一人ではできないと考えている。ゴッホだってそうだったのだ。絵は究極の一人の芸術のように見える。どうやってみんなで絵を描くのかという事になるが、そういう事を本当に大学の時にはやっていた。絵を描き継ぐという俳諧連画である。

 180㎝角のキャンバスを置いて置き、それを自由に描き継いでゆく。その過程が芸術行為だと考えたものだ。4月1日に死んだ。何かが身に染みてきた。坪田紳二さんが考えたことだ。彼はコンセプチュアル・アート を追求した。日本でもいわゆる概念藝術が流行していた時代があった。新しい動きを彼から教えてもらった。

 坪田さんは理屈っぽい人で、絵を描くのでも絵を描く意味論を常に口にしていた。実際には抽象表現主義的な絵を描いたのだが、かなり達者な絵を描く人だった。どういう絵が見栄えがするかという事を良く分かっていて、そういうものを描こうとすれば幾らでも描けたが、絵はそういうものではないと、何かグルグル考えていた。

 その考えていることを語り続けるのだが、私には正直よくわからなかった。分からないなりに、ずいぶん教えられた。家は金沢にあるにもかかわらず、私の下宿に転がり込んできて、一緒に暮らしていたので、一晩中訳の分からない絵画の概念の話を聞かされていた、ということになる。

 そう難解な本の解釈を、彼から随分聞かされた。九鬼周造「「いき」の構造」などという本を読んでいた。彼は凄い自信家であり、またすごい臆病な、優柔不断なところのある人間でもあったと思う。彼は自分というものを持て余していたのかもしれない。

 大学を出てからも、横浜のBゼミに通うので、東京の私の家にいたこともある。そして京都に行き、いろいろやっていたので、時々京都にゆき、京都の美術関係の人など紹介してくれた。それはたぶん、フランスから帰ってからの事になる訳だ。

 そのうち版画の仕事を始めて、東京の作家の作品を作る仕事を紹介してあげたりした。しかし、なかなか気難しい性格なので、仕事としてやるのは難しい感じだった。そうして少し縁遠くなった。それには理由があるのだが、そのことはここには書けない。

 そして金沢の自分の家の場所で、現代美術の画廊を始めた。それでも時には訪ねた。いよいよ気難しくなっていて、話していることを理解するのが、昔以上に難しくなった。声が小さいから、耳が遠くなってきている私には、半分くらいしか聞き取れないのでなおさらである。
 
 一度共同制作のことの意味を、もっと私なりに話しておくべきだった。あの考え方は面白いと今でも思う。描き継ぐという事はそこまでの制作を理解しなければできない。その上で自分の絵を描く。そこに、ほかの人が描き継ぐ。コンセプチュアル・アート的に考えた場合、どんな意味があったのかと思う。

 あれから、結局のところ、水彩人で絵を描くことは一人ではできないということを、継続している。私絵画を標榜しながら、ある意味の自己矛盾である。結局は一人ではやれないという、弱い性格からみんなでやろうとしているのだろう。ダメでもいいジャン。という事になる。

 一人では何もできない人間にとって、坪田さんとの金沢大学の美術部での出会いは、大きな意味があったことだった。彼から得たものが何であったかは分からないが、いま『私絵画』に出会った一つの要因なのだろう。冥福を祈るという事も坪田さんには似合わない。ジャーまた。というぐらいの別れだろう。


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