地場・旬・自給

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ピュリツァー賞、受賞のブログ

2012-04-30 04:00:49 | Peace Cafe
アメリカで報道における最高賞ピュリツァー賞受賞がブログメディア「ハフィントン・ポスト」に与えられた。アメリカの報道の良心の賞であることは、歴代の受賞対象を見ればわかる。それが、何とブログ連載企画「戦場を越えて」に与えられたのである。ブログの時代が来ていることが、改めて分かる。このブログメディアには、多数の寄稿者が居て、何と大統領になる前のオバマ氏もそうだったという位の権威である。ブログと言っても何と、正社員が400名いるというから、報道機関がインターネットを利用していると考えた方がいい。月のアクセス数が5400万と書かれている。広告収入で運営されているらしい。最初のページの広告は1日10万から20万ドルと書かれていた。ブログの寄稿者には報酬はない。9000人以上のブロガーがハフポストに投稿している。この仕組みは次の時代の報道機関がどのようなものになるかを示している。

インターネットでは情報の発信に費用が要らないという点が優れている。自分の意見を発信したければ、どこの誰でも可能である。私のような知識も能力もごく普通の人間でもできる。そしてその意見が有用であれば、広がリ伝わって行く。情報というものを隠したり、独占したりできないという時代。情報に価値があるのでなく、情報の利用の仕方に意味が出てくる時代。稲作に関する新しい抑草法など、大多数の人にどうでもいい話である。しかし、ほんの少数の人にはとても重要な情報である。この経験の交換は研究所の実証実験以上に、大規模で大きく影響して行く。個人の経験的なことが、客観的な多数の視点から試され、改善され、発展する。これは人類にとって新しい時代である。記録を残し、伝えてゆくことが出来る。その記録に意味があれば、後の人に役立つものもあるかもしれない。私としては、自給農業の手法はそう言うものだと考えている。そしてそれは人間が、自立して生きることが出来るという事を証明している。つもりである。

10年足らずで、アメリカ最大の報道機関の一つが生まれたという驚き。一方日本のネット報道は何故、成長できないのか。分かる範囲で、一通りを探してみるが、大したものはない。既成報道機関にまさる、ニュース源は育っていない。あるとしたら、論表、批評である。情報が少ない。たまたま独自情報のものもあり、私も参加し投稿したが、記事が採用されることはなかった。私が広く情報を発信したかったのは、鳥インフルエンザの問題である。政府のとんでもないウイルス対策の手法が日本の養鶏業をダメにしている実態を知って欲しかった。鳥インフルエンザの世界的動向は、政府の予想とは異なり、むしろ私の当時の推測のように経過している。そしてこの間、小さな養鶏農家を追い詰め、何分の一かに減少させた。それは元凶足る大規模養鶏の問題を温存し、さらに悪い時代が予測されるということになる。

日本には信頼に足る報道というものがない。どちらかと言えば、鳥に触るなというような、非科学的な恐怖を煽る報道ばかりである。今さら期待もしていない。それで個人で細々続けることにした。それではなぜ、アメリカではと思うが、それがアメリカという国の可能性なのかもしれない。進取の精神というか、権威にしがみつかない所。日本では批判勢力がすぐ権威化する。普段批判勢力の仮面をかぶった報道が、原発事故報道では、住民の側に立たなかった。批判勢力的仮面をかぶることで安心をする。報道は批判精神を持ち、本当の議論を起こす必要がある。アメリカでは10年間で職業ジャーナリストの3分の1以上が解雇されている。過去3年間では1万1000人に上るそうだ。こうした新陳代謝こそ生きている証拠でもある。日本人が権威に弱い。保守的と言えばいいのか。そこに付け込む既存組織。それを打ち破らない限り、次の世界に出られない。

昨日の自給作業:トウモロコシ、トマト苗の植え付け。2時間 累計時間:22時間
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村田知章真鶴町議の辞職勧告決議

2012-04-29 04:40:27 | Peace Cafe
お隣の真鶴町の村田知章町議が、辞職勧告決議をされた。村田町議は以前からごみ問題には感心が深く、何度かお会いしたことがあった。まさかこんなことで、辞職勧告がなされるとは驚いたことである。理由は、少し複雑なので順番に整理してみる。真鶴町のごみは、湯河原町とごみ処理事務組合を作り、共同処理されている。2度見学に行かせていただいた。丁度両町の境にあたる高台の湯河原町にそびえるように焼却炉がある。観光客も訪れる風光明美な場所に、作ったことが残念な施設である。焼却場のそばの谷間に、12年に満杯になる焼却灰を埋める最終処分場がある。この最終処分場は規模としては小田原より広い場所に見える、上部からと下部からと作業車は入れるようになっている様に見えた。その谷の出口の絞り水のところに出てくる排水のチェックをしたのだと思う。

昨年の12月カドミュームが漏れ出たのが発端である。埋め立て処理を止めざる得なくなった。最終処分場自体満杯でもあり、閉鎖に近い。焼却灰はどこかに運び出さざる得ない。奈良県御所市の処理業者に埋め立て処理を依頼した。運搬は藤沢市内の業者が請け負い、大型トラックで週3回搬出している。焼却灰などは1日約8トン発生する。この灰は1キログラム当たり144~490ベクレルの放射性セシウムが検出された。奈良の業者が放射能の不安から埋め立てを拒否したのだ。はっきりはしないが、周辺の住民から関東の焼却灰には放射能があるから受け入れるなという抗議が元だとしているらしい。こうした状況の中、村田議員がすでに神奈川新聞で報道されていた事実を、ツイッターで書いたという事が問題化したらしい。問題の第一は、破損するような最終処分場のゴムシートである。次の問題は、灰の県外処理である。これは両方とも小田原でも似たような事情である。放射能の数値も似たようなものだ。放射能については、その次の問題だと考える。

議会の辞職勧告決議は憲法21条で保障された、表現の自由を制限したものである。この決議は取り消さないと、人権侵害になる可能性が高い。議会の様子を傍聴した二宮町の議員小笠原氏のブログがある。友人のブログにも詳しくいきさつが書かれている。何故、神奈川新聞に対して、真鶴議会は抗議をしないのであろうか。真鶴町の議員の多くは、「黙っていて埋めてもらえば賢いのに。」と考えているということなのか。もしそうなら、恥ずかしい事だが。村田氏の弁明はブログにか書かれている。村田氏は徹底的に抗議すべきだ。それをしないと、不当な議会を認めることになる。あえて言えば、村田氏はこの灰をどうすればいいと考えているのかも述べるべきだろう。残念ながらこの事には触れていない。この姿勢が他の町議を怒らせることになったのではないか。文句だけ言うなら、簡単なのだ。

又、弁明の中で、「奈良県住民、特に焼却灰の持ち込みによる土壌汚染を心配する奈良県の農家の方たちからの真鶴町に対する、損害賠償請求の危険も生じることもありうるのではないか」と言及している。放射能を恐れる余りの発言が、風評被害に繋がるのでこうした発言も気おつけるべきだ。こんな一言から野菜が売れなくなるという馬鹿げたこともないとは言えない状況である。ごみ処理は将来小田原をも含め、広域処理をするということが検討されている。焼却灰も県内処理ということが神奈川県の方針としてある。ごみは生活すれば、必ず出る。これをどうすべきかは地方政治の根本的要件である。何でも燃やしてしまえばいいという東京都方式は、地球の消耗を早める。出来る限りごみは出さない。そして、排出源に出来るだけ近い所で、つまり出来る限り家庭で処理する。焼却灰はすでに埋めたものも含め掘り起こし、灰溶融炉に持ち込み小さくする。小さくしたうえで、排出自治体の責任で処理をする。
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検察審査会の強制起訴

2012-04-28 04:36:18 | Peace Cafe
衆寓裁判時代が始まっている。裁判員制度による司法の素人化。そして、検察審査会による素人判断の検察導入。小沢氏を裁判にかけることでの、マスメディアと連動したうっぷん晴らし的社会的制裁。検察は素人の力まで借りて、政治介入をしたと考えて来た。検察は何を思い込んだのか。自民党との歴史的つながりか。官僚との結託か。司法内部の手柄主義化。松下政経塾出身の前原氏は、まだ控訴審がある等先走った発言までしている。これでまた、イジメ政治が盛り上がり、肝心の震災後の対策や政策論議は、吹っ飛んでしまう。小沢氏は無罪であった。しかし、充分疑わしき印象は定着した灰色判決。理解できない判決文である。いずれ総理大臣にはなれないように引きずり下ろしは、成功だとすれば誰が作り出した筋書きなのだろうか。それは一番得をする人間が仕組んだとするのが、ミステリーの常道であるが。

素人を訴追の責任者にすることで、何か政治的意図を隠そうとしていないか。小沢氏を政治的に抹殺する策動が動いていないか。どうしても状況証拠からそう思えてしまう。私も、4億円も出してすぐには使わない土地を購入するような政治家を好きではない。何か怪しげなことが小沢氏の政治活動の裏にありそうだ。そこに利権政治が蠢いていそうだ。そう言うことは、日本の政治家のかなりの部分に巣食っていると考えて間違いはない。と言って裁判は別だ。今回のやり方を認める訳ではない。官僚を追い詰めると、どこかで逆襲が起こる。日本の政治家がこうして次々に失脚させられてきた。これは想像である。何の根拠もない。しかし、こういう事が起こる理由が怖くなる。検察審査会制度の素人の判断が間違う方向に導かれた。提出された証拠が、本裁判では証拠として採用されない決定がされている。

今回の小沢裁判において、検察審査会の強制起訴は法に従えば、審査をやりなおすべきものだ。裁判において証拠として否定された証拠が、検察審再開の判断材料になっている。これでは判断が正確に行われたとは言い難い。そうした検察の意図による材料に基づき、素人がマスメディアで作り出されたイメージに影響され判断を下す事が、厳正かつ公正な司法と言えるとは思えない。小沢氏はこのことで政治生命を断たれたことは現実である。司法に、セコンドオピニオンが必要という考え方は良い。しかし、それが素人市民であるというのは、アメリカ的思想である。社会に民主主義的市民が存在し、健全な社会正義が成立しているという前提である。果たして日本社会をそうした市民社会が成熟しているのか。むしろ、異なる立ち位置にある専門家集団のセコンドオピニオンを求める方が客観性があっていい。

「事実に反する内容の捜査報告書を作成した上で、検察審査会に送付することがあってはならない」と裁判長は述べた。であるなら、裁判は成立していない。自己矛盾である。社会的に重要な位置にいる政治家を、裁判にかけるという形で、追い落とす手法はきわめて危険で不健全である。検察が正義の行使者になって、政治介入するのは間違っている。政治家の取り調べは完全なる可視化が必要。石川被告が隠し録音をしていなければ、間違った証拠が採用され、誰にもわからなかったのだ。検察審査会が不要なのではない、こんなひどい検察だから、審査機関の必要性は高まっている。第3者機関が検察を監視する必要がある。本来起訴すべき権力に関する案件を、市民的な目線で監視するという制度は必要である。それが無ければ、検察の自浄作用が機能しない。中立的審査判断は、裁判だけでない。あらゆる分野でセカンドオピニオンが必要になっている。
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関西電力に聞きたいこと。

2012-04-27 04:21:34 | 暮らし
関西電力によると、今年が猛暑で夏のピーク電力で16、3%の電力不足になるという事だ。日本全国で言えば、3%の電力不足になると政府は発表した。原発をすべて止めて、この程度の不足なら、何とかなりそうで良かったと思う。要するにピーク電力をどう下げるかが目標だろう。そして蓄電の方法と節電の対応になる。どうせ、暑い盛りの何日の事でもない。その為に慌てて原発の再開に飛びつくほどのことではない。今の政府と電力会社の作戦は、なし崩し的に原発を再開して、国民を慣れさせようという、戦略が丸見えである。だから、暑い夏に電力不足は人間の生死にかかわる、とまで官房長官は主張しているのだ。ついこの前までは冷房がない時代だった事を忘れたのか。何故、政府や経団連はこのように愚かに、杜撰に原発再開に持ち込もうとするのか。それは、安全というものをとことんやれば、手立てがない事を知っているからである。

原発事故以来、13か月半が過ぎた。関西電力には、今までに電力増強の為に、「どんな手を打ったのか聞きたい。」どれほ先の見通しのない経営者でも、簡単に原発の再開が出来るとは考えないだろう。代替発電対策を考えるのが、普通の経営感覚である。火力発電所を作るとか、大規模のソーラー発電所を作るとか、あるいは、社会全体に対してピーク電力対策に対する、電力の削減を投げかける。こうした事を何もしてこなかったと思えるのは何故だ。和歌山の火力発電所がまた故障である。昨年も何度もあった。わざとやっている気がしてくる。せめてこうしたことの対策ぐらいきちっと出来ないのか。小中水力発電所の新規の建設等、少しは考えたのだろうか。大型ビルや工場の非常用発電装置の活用など、徹底して当たっているのだろうか。昨年の夏は国民を脅かし、原発再開に道を開くための「広告節電」の傾向が強かった。炎天下に冷蔵の自動販売機が置かれている間は、節電など本気とは思われない。あんなものを認めておいて、国民に節電を呼び掛けるなど詐欺行為だ。

関西電力のホームページに供給力確保の取り組みというページがある。これを読んで、それなりにやってはいるのだと納得できる人が居るだろうか。私には何もしていないということが読める。指をくわえて、原発の再稼働を願っていたというだけのことである。それは安全を軽視して原発を運転することが唯一採算性に優れていると、思い込んでいたのではないかという事だ。自然エネルギーへの転換など、どこを見てもない。敦賀原発では、早急に廃炉に向けて進めなければならない。42年経過した一号機は耐用年数が過ぎたので再開しないのが基本。今度は2号機は活断層の上に建てられているかもしれないという事だ。今まで活断層が動かなかったことを幸運だったとしなければならない。浜岡原発だって条件は同じである。日本の国土で原発を作れる条件は、殆どないと言っても良い。敦賀の活断層を指摘しても、今まで聞く耳がなかっただけだ。地震国日本、津波国日本。この条件の中で、日本人は生きて行くしかない。

電力会社はこの1年を無駄に過ごした。競争のない会社だから安穏としているのだ。これが、競争があり、新しい自然エネルギーの電力会社に、負けてしまうとなれば少しは努力をする。何もしないでぼーとしていて、夏は電気が足りないので、原発の再稼働をお願いします。責任は私どもにはありません。と言っていれば済むと考えている。競争のない電力会社に自浄作用は期待できない。本来であれば、「一年間このような十分努力をしています。それでもこれだけ足りません。来年は必ずご迷惑をかけないので、夏のピーク電力の間だけ我慢して下さい。」これが、本来の企業としての電力会社の取るべき態度である。まるで、電気が足りない事を自分の会社の能力不足の為だという理解がない。
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久野川のセシューム測定

2012-04-26 04:09:06 | 暮らし
久野川の水にはセシュームが含まれている。この事を確認した。正確に言えば、日本中の河川はいくらかのセシュームを含んでいるはずだ。それは、福島第一のものとは限らない。箱根山麓では、公的測定でもわかるように、土壌や樹木に平均的に100ベクレル降り注いだのだから、必ず川の水に流れ出ている。案外に早く流れ出て海に大半が出てしまうと考えている。すでに流れでた量の方が多いいかもしれない。濃度の濃い福島の河川では、そういう下流域の変化が出てきている。福島の河川の水の測定は森林総合研究所が調査を続けている。1リットルの水を採取して、その水をセシューム測定をしている。この方法は、ある意味で不検出の証明である。私が知りたいのは、1トンの水に1べクレルのセシュウムがあるかどうかである。つまり、1リットル当たりで言えば、0,001ベクレルの問題である。そうした微量なものでも、稲作には影響があるかもしれないと想像しているからである。しかし、それをどのように計測すれば可能なのかである。まずは、ゼオライトに1トンの水を流しいれてみた。これでは不検出であった。

改めて試みてみた。Kさんの提案で、Yさんが実際にやってくれた方法では、塩ビ管の中にゼオライトを袋状にして、2段に入れて、川の中に入れておく方法である。この塩ビ管の出口から出る水の流量測定を何度か繰り返し、1週間の間の塩ビ管の中を通過した水量を計算した。そして、一段目のゼオライト、2段目のゼオライト、をそれぞれ測定した。この実験では1段目と2段目では違う数字が現れた。確かに川の水にはわずかなセシュームが現時点でも存在する。(数値は一人歩きするので、ブログには書けない。)それは流域面積に対して、100ベクレルをかけて、流量とそこに含まれるセシュームの推定量で、流出の時間計算ができる。我々の問題はその水を利用する田んぼで何が起こるかである。着目点は、今後増えて行くのか、減少して行くのかの測定である。

1反田んぼに1日で5㎥の水を平均で入れるとする。玄米にセシュームを貯める期間を50日とすれば、250㎥の水が入る。もし1立方メートルの水に、1ベクレルのセシュウムが混入していれば、250ベクレルのセシュームが一反に入ることになる。500キロのお米が取れたとして、水からの吸着をかなり高く考えて、極端に半分あるとすれば、キロあたり0,25ベクレルということになる。久野川の水は、不正確ではあるが、これよりさらに低いようだ。しかし、玄米に0,1ベクレルでもあることが分かれば、食べない人は食べない。川崎では、3,8ベクレルのみかんを給食に出したというので問題化している。食べる側は、低ければ低いほどよいということになり、最後は0でなければ厭だということになっている。間違っているとは言わないが、生産者として物を販売するのが耐え難い。削減努力は出来る限りのことをする。その上で一定量以下であれば、喜んで食べてもらいたい。それでも駄目だというなら、道がなく、何とも言いようがない。

お米のセシュームの吸着は土壌からは少なく、お米を形成する時期の水からの吸着ではないかと考えている。あくまで素人考えの推論である。耕作法における対策は、水を半分に減らせば、セシュウムも半分になる。節水方式で行う。また、流入する水をゼオライトや、もみ殻によって吸着させれば、その分減らす事が出来る。水の取り入れ口付近に水路や溜池を作る必要がある。そこに玄米が出来始める時期から水を切るまでの時期を中心に対策をとる。もみ殻やゼオライトは袋に入れて、後で取り出せるようにしておく。取り出したら測定する。又、根が水根になり、表土を張っていると、水からの直接の吸収が起きやすくなるので、根は地中に深く入るように深く耕し、節水方式で管理した方がいいと思われる。後半、水漏れが起きた田んぼで、殆ど玄米にセシュームがないということが分かっている。特に穂ばらみ期以降の水の必要な時期でも、今年は節水した方がいいと考えている。良い方法を考えられる人は教えて欲しい。
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トキのヒナ誕生

2012-04-25 04:45:35 | 環境関連
放鳥されたトキがヒナを3羽産んだ。無事育つように祈るばかりである。鳥好きとして、最近の嬉しいニュースが相次いだ。一つは、「絶滅したと思われていたミズナギドリの希少種を小笠原諸島で再発見」があった。アホウ鳥の再発見を思い出す。アホードリついては当時の記録が、面白い記事山階鳥類研究所の案内に出ている。戦後間もなくのことである。気象庁の観測員が捕まえて檻に入れたというところがすごい。ミズナギドリは世界各国で起きている再発見同様、鳥への関心が変わってきているからだろう。標本だけの鳥が生きていたのだから、すごい。小笠原の世界自然遺産記念となる。そして、トキである。多くの佐渡の農家が苦労をしてきたかいがあるというものだ。早く自然に戻り、檻で飼うような状態が終わることを期待する。自然状態のトキが産卵し、孵化したということは、トキが暮らしてゆける水田環境が、戻ってきたということである。

田んぼがあり、カエルやドジョウやタニシや沢ガニが沢山いるということだ。それは佐渡には自然状態の田んぼがあるということだ。コンクリート化したような田んぼでないという事だ。この事は、「トキと共生する島」佐渡の農業農村整備 -“餌場づくり”から“トキと暮らす水田”へ -宮里 圭一 に詳しく記載されている。トキが野生に戻るためには、トキが暮らせなくなった田んぼを変えなければならないという、大事業がある。コウノトリの戻った田んぼでも、そうであった。コウノトリが米作りの邪魔をする鳥と、近代農業は誤解していた。これを詳しく調査して行ったら、コウノトリは苗を踏み荒らしていなかった。そして、コウノトリ米として、付加価値が付いて、お米が売れるようになる。トキもそうなのだが、トキが居るということは、素晴らしい環境のお米だということになる。トキのお米が付加価値を付けて販売されるということが農業との関係で重要な事だ。今のところ、販売は順調らしい。

このお米の認証制度の要件は、
1.佐渡市で栽培された米であること(一島一市)
2.栽培者がエコファーマーの認定を受けていること
3.栽培期間中化学農薬、化学肥料の使用を佐渡地域慣行基準比5割以下に削減したもの(新潟県特別栽培農産物認証制度に該当)
4.「生き物を育む農法」により栽培されたもの
ここで、「生き物を育む農法」とは、 ◦冬期湛水◦江(水田内)の設置◦魚道の設置◦ビオトープの設置等また、販売金額の一部(1kgにつき1円)は朱鷺募金へ寄付されている。

トキは江戸時代には日本中に居た鳥である。つまり、江戸時代、日本全体の田んぼの広がりがわかる。コウノトリ、タンチョウヅル。そしてトキ。大型の水辺の鳥が日本中にいたということは、日本中に大型の野鳥を排除しない田んぼが存在したということになる。そして冬の間も、それだけの鳥が生き続ける水辺があったということになる。田んぼは、これらの鳥の餌を生産していたということになる。農村が飢餓ばかりが続いていたなら、こんな状態にはならない。人間のすぐそばに、こうした鳥が遊んでいた記録がある。江戸時代が弱者を虐げる、悲惨な時代というイメージは違っている事を暗示している。農村には今とは異なる、豊かな生産力があった。里地里山の中で日本人は、緩やかに、ある意味豊かに暮らしていた。自給自足的な暮らしは、案外にのんびりしていたのである。トキが野生化できる環境は、人間の暮らしにとってもすばらしいということを大切にしたい。
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ツイッター、ブログ自粛令

2012-04-24 04:22:24 | Peace Cafe
民主党で「ツイッター、ブログ自粛令」がでた。「個人的見解が内閣、与党の見解のように誤解され、野党の攻撃材料になる恐れもあることに十分に留意ください。」政調会長代理から文章で出されたものだ。ブログや、ツイッターの政治での役割の捉え方である。小田原の市政の内容は、市長のブログで初めて知った事が多い。今朝見ると「車窓の会」への現場訪問の事が出ている。この会の活動は感動的である。市長が紹介してくれて知る人もあるだろう。読んで冗談じゃない。と腹の立つこともままある。しかし、こうしてほぼ毎日市政の様子を市長の目から書いてくれることは、有難いことである。同時に一通り市議のブログを読んでみる。これまた様々であるが、大いに参考になる。当然見解は様々である。本会議の質問より参考になる。市会議員には、その日の勤務報告として、毎日書きこむことを仕事にすべきだと考えている。T議員は母の送迎とか。だらだら過ごしたとか毎日書いている。これをすごいと評価している。

露木元開成町長のことも、ブログで知った。内容が豊かですごい人だと思った。小田原市議で現在、内容が一番は新人のI議員のブログである。この人の力量が見える。それで今度の補選に出る人をブログで、探したが一人しか見つからない。原発反対という点で評価できる。選挙に出る位なら全員ブログぐらいきちっと書いてもらいたい。それがその人を知る一番良い方法だと思う。まあ、そんなもの書く気にならないというのも表現ではあるのだが。個人的には市会議員がそれでは困ると思うのだが。しかし、大野しんいち氏のホームページを探したが、見つけられず間違ってしまい失礼をした。しんいちを真一で探していたのが失敗だった。正確には後援会のホームページである。補選の候補のブログをご存じの方は教えて欲しい。原発賛成か反対かだけでも知りたい。民主党では、議員の意見表面を嫌う傾向が出てきたのは、まさに末期現象である。

河野太郎氏のごまめの歯ぎしりは議員ブログで一番だと思う。良く勉強している。議員ブログの多くに出て来るが東北の震災ボランティア報告で、議員の仕事が何かを分かっているのかと思ってしまう。そう言えば、次の衆院選にこの地域から出る人のブログはそろっている。現職神山洋介氏露木順一氏牧島かれん井上よしゆき氏。国会議員というのは地元ととの関係は薄くなって当然である。活動が見えなくなりがちである。せめて活動を選挙民にブログやツイッターで伝えるというのは必要なことだ。それを禁止というのだから視野が狭くなっている。実は農の会でも私のブログが迷惑だという意見があった。それで農の会のホームページとのリンクを止めた。個人の考えと、会の考えを混同する人が居る。意見の違いというものを理解できないということは、民主主義が理解されていない。

私がブログを書いているのは、憲法9条を日々高く掲げるためである。憲法前文は以下のように終わっている。「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」憲法で誓う以上行動しなければならない。それがこのブログである。このブログを書いている間は、9条は守れると考えている。9条の平和の精神が世界を滅亡から救う。現実世界がより悲惨な状況に進んでいる。理不尽さを高めるとき。憲法9条はいよいよ、現実離れしているように見える。しかし、この平和の精神以外に人類に未来がないことも事実である。ますます細くなる平和の道に見えようとも、信じて進むほかない。その平和の方角を探ることがこのブログの目的である。議員たるもの、自分の意見がないはずがない。是非とも全員がブログを業務日誌として、書いてもらいたい。
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つつじの奥和留沢見晴らしコース・明星岳登山道

2012-04-23 04:35:01 | 暮らし
「うつくしい久野・里地里山協議会」では、4回目のつつじの植樹を行った。毎回100本ずつ植えているのだから、400本のつつじが山に戻されたことになる。今年もすでに最初に植えたものはつぼみを持っている。連休の頃にはミツバツツジと山つつじが見ごろになるだろう。下の育成している舟原の畑では、すでに花が咲き始めている。奥和留沢見晴らしコース・明星岳登山道は協議会が事業として作った登山道である。この道を沢山の人に楽しんでほしいと思う。昔は5月になると、山のあちこちが燃え立つように、ミツバツツジが咲いていたそうだ。そのはっとするような美しさを地元のお年寄りは必ず話される。子供の頃の境川の金毘羅さんの山麓もそうだった。突然降ってわいたようにその季節だけ、ここにいましたよと知らせてくれる。植林が始まる前の里山の初夏の景色だ。

4月21日のハイキング植樹は、新しい参加者も加えて、例年通りの充実した楽しい時間であった。雨の予報もあって、準備していただいたつつじの苗が植えなければまずいし、少しやきもきした。それでも当日は、雨は降らずで、植樹には最適な天候だった。秋に又予定しているので、興味のある人は是非参加して下さい。楽しいのは、皆さん山の植物に詳しくて、話を聞いているだけで楽しくなる。里山自然教室をしながらのハイキングとなる。私など何一れ知らないし、又前回聞いたことを忘れてしまうのだが、それでも、植物の性格とか有用性など、何度聞いても新鮮な楽しさがある。枯れているつつじを、3株見た。取られたものは多分10くらいはあるかんじだ。確か植えたと思う当たりが無くなっていた。枯れたものは、スギの日蔭のせいだ。杉檜の植林地であっても、わずかでも光の当たる場所であればつつじは枯れない。枯れている3か所は、全く日のはいらない場所であった。しかし、養成している畑でも枯れるものはあるので、山に戻してやれば枯れないという感じだ。

10年この植樹を続けたら、山には1000本のツツジが戻る。こうなればちょっと注目の登山道になる。人が歩くということは登山道を踏み固めるということにもなるので、つつじの植樹は一挙両得を狙っている。簡単に里山が戻るとは思えない。山と暮らしが切り離れてしまった状態で新しい、里山と暮らしの関係を見つけ出すことは、しばらくは無理だろう。今は箱根駅伝の1区のスタート地点を走る選手である。先は長いがタスキを渡して行けば、次の中継所も見えてくる。昔の人は、ご先祖が見てくれていると思いながら、故郷の山を手入れをしていたのだろう。樹を植える。それは自分一代の時間で考えたら出来ないことである。結果を見れない仕事である。それでも誰かが始め、繋いでゆかなければ何も始まらない。この時大切なのは、方角である。原発を作った人も良いと考えて必死に進めたのだろう。

次に取り組むべきことは久野川の両岸の自然植生の再生である。これは市役所の担当Y氏が、所有者を調べる役目でありながらついにやらなかった事である。やれないならやれないと言えばいいものを、やるやると言いながら、手も付けなかった。ひどいものである。やっと担当が変わったので今度の人には、地主調査からやってもらいたい。これは役所の仕事である。市民の役割は木を育てて、山に戻すことである。久野川の両側10メートルだけでも舟原から上流を自然林にする。そして散策道を付ける。これが実現できれば、関東で一番の景観の久野川になる。ヤマメ釣りも復活する。川が豊かになるということは、海も豊かになるという事だ。ブリの森の再現。切り出した木は、ボイラーの燃料にする。

昨日の自給作業:ヤマイモの植え付け。ゴボウの播種。1時間 累計時間:20時間
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稲の苗の発芽について

2012-04-22 04:26:37 | 稲作
昨日、苗代の種が発芽した。毎年、種については実験を重ねている。一年1回の事だから、遅々と進まないのだが、稲の種がどのように発芽して行くかということである。確かに、多くの農家の人にとって稲の苗は、箱苗になった。田植えが機械になったから、当然のことである。箱苗を作る技術は、良く整理されていて、機械植えに向いた稚苗である。葉が2,5ぐらいの苗である。一ミリ位の太さである。これはよく出来た技術体系があるようだが、自給農業とは別世界である。昔ながらの手植え苗の作り方を探求している。普通の農家の人には、意味のない技術であるが、自給的な農業をやる人には必要な技術だと考えている。もちろん直播でやるというのもある。これもいろいろやっては見たが、面白いのだが、実践的にという意味でもう一つであった。昔ながらの苗代をつくって、蒔いていたことも5年くらいはあった。しかし、苗取りの作業で行き詰まった。

その後2007年から始めたのが、288穴のセルトレーを使う方式である。反当たり50から80枚使う。まだ全体が完成している訳ではない。セルトレーを使う機械田植えの場合。多分1枚に1000近い穴のあるセルトレーを使う。この方法も、昔のような5葉期の分ゲツしたような苗を使う訳ではない。どうやれば、苗代で作るような5葉期苗を、合理的に作るかの研究である。良い稲作は、苗に始まると考えるからである。農の会の稲作は多様ではあるが、自然農法的に行われていて、収量的には周辺農家並みである。10俵を越える田んぼもあるのは、苗が良いということもある。どう違うかと言えば、ハウスで育てるような甘やかした苗にしない。自然環境の中で、厳しい環境に合わせながら生育する苗の方がいいと考えているからである。この厳しさは、すんなりした生育で停滞しないという矛盾したものである。

野生種の稲を考えると、稲は水位の増減する河原にある。寒い冬は渇き気味に地表にある。時には水没することもある。そして春温度が上がる頃には水位が上がってくる。そして、発芽する。この生理に合わせることがいいと思っている。水は初期は畑苗状態。そして発芽して一葉期になれば水やりの回数を増やす。3葉期になれば、周囲には水がある位になる。もう鳥の害も無くなるので、シートやカバーは外す。外気が10℃より下がらなくなっていることが望ましい。苗はこのころになると、つまり生育するに従って、寒気の影響を受けやすくなる。苗は根をセルの底穴から、苗床に伸ばす。その後は、セルの上まで水が来るようになる。根は苗床全体に広がり、切らなければ剥がせないようなものになるのが目標。今年苗土を改良した。この苗土で行けば、もしかしたら普通の苗箱でも5葉期の苗が出来るかもしれない。こう考えて実験している。

苗箱の底穴が大きなものを以前、ブログを読んだ岡山の方からいただいた。前回は失敗しているのだが、もう一度挑戦している。2葉期までハウスで生育させて、田んぼに持ち出す。底穴によってどの程度違ってくるか。種の播種量では違うか。60グラム蒔き程度かと考えている。それでも成功すれば、反30枚で済むことになる。土量を増やした、普通の野菜苗箱播種も試みている。こうした方法なら、後の洗う作業などもだいぶ楽になる。もちろん種まきも楽になる。すでにこの方法を試みている田んぼはある。しかし、苗の様子が今一つで、それがあと後まで影響している。苗床を代かきをして、セルトレーを並べた田んぼもある。広くない苗床なら、可能かもしれない。当然代かきをすれば密着性も良く、水平も採れるので望ましい。子供や女性が中に入り足を取られるという問題がある。来年こそ、実験の結果を生かして、良い苗作りをさらに深めて行きたい。

昨日の自給作業:夏野菜の25トレーへの種まき、島村インゲン、さくさく王子、マクワ瓜、おくら、麗夏とまと、夕顔、朝顔、2時間 累計時間:19時間
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人口減少の逆転

2012-04-21 05:05:09 | 自給
市長選挙に立候補した大野氏がホームページで、30万都市小田原を主張されている。刺激をされて、人口のことを改めて考えてみた。「人口の自然増減」が過去最大の18万人減となり、少子高齢化が進んでいる。 また、入国者数から出国者数を引いた「社会増減」も7万9千人減り、このうち外国人がこれまでで最も多い5万1千人を占めた。残りの2万8千人は日本人だった。日本人が日本を見捨てたのか。確かに急激な減少が、社会的な不均衡を作り出す。それは人口が急増してきた、戦後の社会が、ゆがみが生じたことにと同じことである。江戸時代が安定社会であったのは、人口を安定させたからである。日本という国土に適正な人口を想定して行くことが、一番適切な社会目標であろう。日本列島という国土から考えた場合、水よりも、農地と食糧生産という観点から適正人口を考えることが、もっともふさわしい視点だと思う。

日本の食糧生産の最大値は、1960年前後である。その後農業生産は減少に向かい、農地も拡大もあったのだが、全体では優良農地の転用が続き減少した。それは農業者人口の減少にもつながり、食糧は半分以上が輸入という、日本という国の成り立ち自体を、危うく変えている要因となっている。本来その土地で生きて行くということは、その土地の生産に合わせて生きるということが望ましい。様々な文明繁栄と衰退は、食糧生産の過剰と不足によって起こっている。日本という島国に暮らした人々は、この点でとても良い永続性のある、循環型社会を3000万人規模で作りだした。日本人がいかに優れた民族であったのかは、この点で光っている。それは『手入れの思想』である。自然を出来得る限り改変せず、そこに暮らしを織り込んでゆく工夫をした。農地ですら、準自然という形で、循環永続性のある生産を織り込んでいった。だから、人口は自然一定レベルに安定せざる得ないものであった。

明治以降の富国強兵の帝国主義的日本は、外国に対抗し、凌駕することを目的としたため、人口の拡大すら「産めよ、増やせよ。」の国家戦略に位置付けられた。まるで現代の企業利潤論理に似ている。拡大再生産こそ、善とする思想。その思想としての方角が、やっと一人ひとりの危機意識から、もう拡大より、縮小であるという形で、減少に向かい始めた、民族として健全な反応であろう。これを少子高齢化というくくりで、考えても駄目だ。何らかの仕事に勤務する人が86%といるそうである。小さく独立して起業する。そんなに大げさでなく、小さな中小企業をやる。農業をやるでもいい。こういう独立して生きて行こうという人が極めて少数派になった時代である。ならざる得ない時代かもしれない。だから、大学生が就職難と言うことである。学生であった頃、就職しようなど考えもしなかった。充分に生きるためには、就職するという選択がなかった。それでやって行けるとも、危ないとも考えなかった。62歳を過ぎた今でも、学生のころとたいして変わらない明日をもしれずである。

話がそれてしまったが、人口は減少すべきだ。6000万と言いたいところだが、2060年8000万人という推計があるので、そのくらいを目標に国づくりのプランを立てるべきだ。江戸時代より農業技術も進歩はした。私ですら、江戸時代の倍の収穫をしている。品種改良や農具の進歩もある。もちろん農業技術もすすんだ。循環する農業に戻ったとしても、8000万人は食べられるかもしれない。世界中が少子高齢化社会になる。又そうならなければ地球は破滅する。その先進事例の国に日本がなるつもりで行かなければならない。小田原は20万人でも多い。15万人くらいになってどう暮らすかを想定した方がいい。空き家の増加がこれからの問題になる。建設業者の無理な家づくりが空き家を増加させてゆく。今さら30万人を考えて、農地の宅地転用など進めるなどあってはならない。
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枝野大臣の煮え切らなさ

2012-04-20 04:35:17 | Peace Cafe
東電の改革は一向に進まない。東日本大震災以降、東京電力の顧問を務めたのは延べ29人に上り、報酬は平均月約90万円で、報酬総額は約1億5600万円だったことが17日、明らかになった。河野太郎衆院議員(自民)の質問主意書に対する答弁書で分かった。顧問のうち7人は官僚OB。内訳は経済産業省(旧通商産業省含む)と国土交通省(旧建設省含む)が各2人で、外務省、財務省、警察庁が各1人。電気料金を値上げしているが、以前は電気料金から、こんな費用まで東電は払っていたという事だ。もちろん、原発の安全コマーシャルも電気代からである。心底ふざけた会社である。にもかかわらず、相変わらず農の会の農作物被害に対する賠償も払わない。払わないどころか、「もう交渉すらしない」と東電の保障センターの花里課長は一方的に打ち切った。一応、東電を監督することになっている、経産省はこの13ヶ月間何かしていたのだろうか。影の薄い事この上ない。

枝野大臣は東電に対して電気料金の事や、改革案に対して、強い口調で非難はしている。この人は、原発廃止方針の気がするときがある。ところが経産省は推進する役所である。結局電気料金はそのまま値上げされた。東電役員の告発も行われていない。送電分離もまだはっきりしない。再稼働もそのまま既定路線のように進んでいる。政府も東電も一蓮托生と考えるしかないのか。野党の自民党は本来原発推進党だから、選挙をやっても駄目だ。原発事故から13か月が過ぎた。この年月を無駄に過ごした。2年目の夏に向けて、原発を稼働しない場合の対策を何もしていない。再生可能エネルギーの推進はどうなったのだろう。太陽光パネルの普及は、ピーク電力対策にはもってこいである。総量として小さくても力を発揮する。晴れて暑いのだから太陽光発電もフル稼働である。日本の屋根にすべて太陽光パネルがつけられれば、原発などいらない。これは、10年前我が家に設置した時の主張である。10年前に素人には分かっていた事を経産省が生かしていれば原発事故はなかった。

各地方政府の対応が明確で、普通である。大阪、京都、滋賀では、知事や市長が大飯原発の再稼働を当事者として、条件を付けを主張している。地方議会は暮らしに近いから、原発再稼働など理解を得られないことを実感している。小田原市では、市長選が近いが現職の加藤市長は、明確に反原発を主張している。実行力がないなど、批判も多いが原発に関して言えば、明確な姿勢だ。この点本当に有難い。もう一人の候補者の大野氏は選挙のビラでは、エネルギー問題に全く触れていない。大野氏のホームページを荻窪氏に教えていただきよく読ませてもらいました。エネルギー政策については、やはり触れておりません。その他の政策につては、具体性がありよく語られています。しかし、30万都市小田原。認識がだいぶずれているようです。いずれにしても今回の選挙は、原発事故後初めての選挙です。争点は原発です。これに触れていないということは、市長になったらばどうなるか不安があります。

それにしても原発を推進してきた経産省は煮え切らない。原発にも責任者が居て、事故を起こせば責任が問われるのが当たり前のことだ。何故か、福島の大事故の責任者が逮捕されたという話を聞かない。13カ月が過ぎて、事故の原因究明すらできない。今後のエネルギー政策も建てられない。政治は逃げ回ってばかりいる。原発技術についての素人の4閣僚が、充分時間をかけて、安全について検討したそうだ。無駄な時間である。素人が分かるような安全では不十分なのだ。原子力規制庁の専門家がすべてを再検討しなければならない。消費税に逃げん込んでも駄目だ。枝野通産大臣もここは覚悟を決めて、原発のない日本の姿を経産省に作らせてもらいたい。もしその過程で電気がこの夏足りないというなら、一切暑い時間電気を使わないで協力するつもりだ。
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原発動ないと集団自殺

2012-04-19 04:37:43 | 暮らし
民主党の仙石氏の発言である。なるほどこういう考えの人が、民主党の中核の国会議員なのだ。原発が無ければやって行けない経済の状況と認識しているのだ。日本経済は原発が無ければ倒産する。それは、日本人が集団自殺する事だと。すごい認識である。集団自殺するぐらいなら、原発を運転して、次の事故まで生き延びた方がましである、と主張しているのだろう。贅沢に慣れてしまい、貧乏生活をする位なら、死んだ方がましだという、考えなのだろう。しかし、自殺する人の数は、原発を運転していた頃の日本が多かった。どうしても1万人を越えていた。原発があれば確かに、随分不便な所でも、冷たいコカコーラ―が買える。ペプシのネクストが買えるかもしれない。確かにそういうものがいつでも買えないような社会になる位なら、死んだ方がましだという人もいるかもしれない。わたしなら、沢からの冷たい絞り水が飲める国の方が幸せだと思う。

人工的な贅沢に慣れてしまった人間が、貧乏生活を楽しむことは難しいかもしれない。しかし、自給生活を始めてみると、1個のじゃがいもでも充分美味しい。幸せだとまで感じる事が出来る。スーパーで買ったじゃがいもを山ほど食べてもこんな嬉しさはない。5つ星のレストランの豪華料理以上の満足感がじゃがいもにある。この幸せを知ることが出来ただけでも、生きる喜びである。それが、毎日のお米が作れるのだ。食べ物の自給は1日1時間の労働で可能なのだ。何も集団自殺する必要などまったくない。こんな簡単なことが、贅沢の中に暮らしている人には、見えなくなる。そう思い込ませないと、資本主義社会が回らないという、洗脳の世界だ。美味ししい食べ物だけでない。絵だって同じだと思う。マチスの絵を手元に置いて、自分の描くものと比べてみたいと思う。それはすごい贅沢だけど、そう言う絵が美術館にあり、生涯に何度か見れば十分である。

逆説的な言い方だが、仙石氏は原発がなくても大丈夫な人ではないかと思う。仙石氏が主張しているのは、日本人の全体のあり方を見ると垂れ流し生活に浸り、脆弱になっており。少し辛ければ、自殺を考えるような日本人が見えてくるのだろう。これが国を運営している人の実感に成っているのではないか。確かに何かとそんな反応が見られる。だから、原発を止めるという事自体が経済の自殺行為だ。これが本当は言いたかったことだろう。それは原発は安い電力を生み出すという、核廃棄物の処理を考えない、目先の経済論である。将来核廃棄物をどう管理するか。この方法とコストが見えないにもかかわらず、当面は安いということに追われているのが、今の日本の資本主義を支える企業理念ということになる。日本の電力が高いから、韓国に移ろうというような話が又出て来る。そんな風に利益だけを考えるものは早くそうしてもらいたい。

大飯原発の再稼働について、滋賀県と京都府の知事はとても良い提案を政府にした。1、脱原発依存に向けた工程表の提示。2、電力需給状況を検証する電力検証第三者委設置。3、原子力規制庁の早期設置。4、使用済み核燃料の最終処理体制の確立。当事者として当たり前の責任感である。福島第一の事故検証すら終わらない内に再稼働するのだ。当然やらなければならないことである。しかし、政府は夏の電力不足に焦っている。猛暑に20%不足するとして、夏の暑い時期何が要らないかである。まず、野外の自動販売機は禁止。これが出来ないで原発再稼働などとんでもない。小田原市長も「脱原発をめざす首長会議」に名を連ねている。それなら、小田原市関連施設の夏の間の自動販売機はまずやめるべきだ。具体的に何をするかが重要だ。さらに言えば小田原電力の検討会議は、2回の審議内容をみると何とも遅すぎる。5月に3回目らしい。毎週1回程度は審議をして当たり前だ。一般市民を入れなかったのは、電力会社を立ち上げるのに急ぐという話ではなかったか。
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死のこと

2012-04-18 04:33:26 | 身辺雑記
一度死のことを書いてみる。死を考えて見ると、今日どう生きるのかの解答がある。死と言うものほど怖ろしいものはない。小学校3年生の時に自分が死ぬということに気づいて、半年ほど恐怖の中で暮らした。死んだらどうなるのか。これを大人たちに聞いたが、眠ったようなものだと言う人がいた。これが一番想像しやすかったのだが、さらに眠ることの恐怖につりつかれた。眠った状態で永遠にいなければならないほどつらいことはないだろうと考えた訳だ。3月11日の大震災以来、自分の死と言うことに、リアルに向かい合うことになった。さすがに、子供の頃のような恐怖感はないが、こんな風に生まれて、生きて、死ぬのかということが、自分の身の上で生に想像できる状況はなかった。まあ、63年5体満足で、大病もせず、有難かったということである。やりたいようにやりたいことをさせてもらったのだから、これで良しとすることしかない。その点はだいぶ諦めがついたな、と言うことである。津波の映像がテレビで流れると、今も、ああ―と声が出てしまう。

人の命が千切れるように去ってゆくということは、どれほど無念で、悲しいことか。どうにも受け止めきれない日が続いている。腕千里の湿疹は、だいぶ良くなったが、治ったと思うと再発してくる。今年の桜も以前の様な目では見れなかった。降り注ぐ花びらだけが、美の違った形を感じさせた。原発によって絶望的な気分にはまりこむ、空しい繰り返しなる。全部嘘だったのだ。死を調べてみると、日本人の死はご先祖の元に戻って行くという感じ方が、本来であった様である。死んでも生きた場所から遠くない所にいる。ご先祖に見守られて精一杯生き、ご先祖とその共同体の中に、戻って行く様な死生観。これが日本人の安心ではなかったのか。しかし、江戸幕府が行った死が寺院に所属する檀家制度の強制。明治政府の行った仏教や民俗的伝統の否定。そして今や、とむらいも、営業としての葬儀社にゆだねられる「おくりびと」の世界。

こうやって生きるという事をごまかし、ながら死んでゆく。ここに到り、情けなく何も出来ずに死んでゆくのか。と安心立命は遠ざかった。黒沢監督の「生きる」を思い出す。死を知って、生きると言うことに直面する。直面したくないから、逃げると言うことも当たり前だ。ただ、死から逃げることのできないものはどうするのかということである。実はどこまで逃げた所で、人間は死ぬ。この事を明らめるのが、道元の仏教の原点。社会とか、人間とか、そう言うものは一切関係なく、ただ自己の悟りである。反社会的なひどい教えであるが、いざ死んでゆくとなればそれしかない。子供だった私が、死の恐怖の中で生きている事を良く知っていたのが、父と母である。父も、母も、死んでゆくことは何でもない事だと言い残して死んだ。これが一番の安心材料である。歳を取ると、ボケて来るのか、若いころほど死を恐怖に感じないものだと父は話してくれた。母は倒れて助かった時、こうして死んでゆくのなら、死というものは何でもないと話してくれた。

原発事故は深刻な契機になった。相変わらずであるが、死ぬということを充分に感じさせてもらえた。すべての外界があの日を境に違って見えている。この後死ぬまでのしばらくを、逃げずに深めることが出来るか。どうにもならない、成果のないことであっても、このことに没頭して行きたいと思う。幸いなことに場は与えられている、ここですべてを使いきって死ぬことが出来れば、有難いことだ。大分ポンコツになって十分な事は出来ない訳だが、それでも覚醒してやってみようと思う。4年間の間に、70%は大震災が来ると予想されている。決意を新たに、もう少しやりたいことがある。死の事を考えると、結局は絵の事になってしまう。自分の目が見ているものを、画面に現してみたい。今のままでは、自分の命に申し訳がない。やるだけはやらなければ、生まれてきたかいがない。
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北朝鮮ロケットの失敗の原因

2012-04-17 04:56:59 | Peace Cafe
北朝鮮のロケットが失敗した。成功するだろうと考えていた。国の威信をかけて宣伝しておいて、まさか失敗するようなレベルだとは思わなかった。失敗の理由を考えてみる事がとても日本にとって役立つ。外国からわざわざ人を呼び、ジョンウン氏の後継セレモニーと連動させた。つまり、北朝鮮政府に成功神話が存在したということである。いい話だけが、上層部に伝わる。下のものはリスクについては、幹部に伝えることが出来なくなっている。政治体制としては、相当に危うい状態と見た方がいい。若いジョンウン氏の個人的資質の問題というより、その周辺の人間に深刻な問題が存在している可能性が高い。本来、ロケット打ち上げには失敗が付きものである。日本でもロケットの父と言われた糸川博士は、失敗続きのロケット打ち上げを成功していると、虚偽の報告を繰り返していたという話があった。アメリカの人を載せたロケットさえ打ち上げに失敗した。

要するに、ロケットは失敗が付きものである。それが失敗しないものと、思い込んでいる所が怖い所である。日本では原発がそうだ。壊れることの絶対にない機械として、原発を位置付けた。そうした思い込みがなぜ起こるかである。事故を起こしてまだ、原因すら特定できない状態で、又神話としての原発が壊れることなどないという思い込みが、根拠なく主張される。機械というものはどれほど、完全に作ったとしても、間違いなく壊れる可能性はある。だから壊れる前提で、壊れた場合どうするか考えて置くというのが、大前提である。自動車のリコールなど、いくらでもある。堤防であれば、決壊しても逃げ方で対応しておけばいい。しかし、原発の事故は取り返しのつかないものであり、対応方法がないという事が身にしみた。それでもやるということは、むしろ冒険主義的に一か八かの賭けに出ているということだろう。経済が失速するより、このリスクにかけようという選択。

北朝鮮政府も思い込みで動いている。今度は核実験と言われている。手に負えなくなりつつある。日本の朝鮮総連の人たちですら、このジョンウン体制を熱烈に支持している。つまり、情報などいくらあるとしても、違う根拠で権力構造の中が動き出している。こんな調子でさらにエスカレートする以外この、おかしなエネルギーは止まらないだろう。ソビエトが、そして中国が長年この国をもてあそび、利用してきた付けがこのゆがみの根源である。家には血気盛んな、暴走しがちな国があるとの主張。これを外交材料にしてきた。むしろ、その暴発は中国に向かってゆく可能性が高い。日本や韓国より、中国の方が火種を抱えた。それは、ソビエトのアフガン戦争のようなもので、衛星国家などいつまでも続くものではない。中国だって、隣国の原発を歓迎する訳がない。そうなった時に経済協力を止めざる得ないかどうか。その結果暴発が起こるのか。

これから、イランを含め、核拡散は続くとせざる得ない。人類的危機が迫っている。そうした時こそ、持とうとしない日本という国の価値がある。日本の平和主義の真価が問われるときだ。武力の拡大エスカレートに、世界は危機感を深める。イスラエルが、イランにミサイルを打ち込むような、怖ろしい事態が起こりうる。こうした悲劇を避けるためには、世界が足並みをそろえて、軍縮に向かう以外にない。不可能に見えるような事だが他に選択の余地がない。北朝鮮はロケットの失敗を、核実験で取り戻そうとする。悪循環に陥っている可能性が高い。北朝鮮の孤立がさらに深まる。関係5カ国が本気で話し合いをすべきだ。北朝鮮が核実験をする前に、日本政府は、早急に呼びかけを行う。国連決議をして、追い込んでも状況悪化だけだ。日本はそれ以外に北朝鮮の危険状態に対応するすべがない。
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稲、セルトレー播種

2012-04-16 04:32:50 | 稲作
昨年は、4月に入って、苗床が凍りつくという異例の寒波があった。氷点下3度が4月5日にあった。その為苗はダメージを受けた。パオパオや2重トンネルがしてあったのだが生育が遅れた。その1週間後に蒔いたグループは、比べて生育が良かった。今年も昨夜は寒くなったので、気温を確認したが、3度まで下がった。今の所の天候では、去年のようなことはないだろう。昨日は一日かけて、セルトレーに種まきをした。そして苗代に苗を運んで設置した。9時に初めて、5時までかかった。3つのグループを合わせると、288穴を500トレー蒔いたことになる。一日動きまわった。無事終了してホッとしている。今年は苗土を変えてこれがとてもいい感じである。良い苗になりそうで期待している。苗床は2か所で、舟原と欠ノ上である。舟原の水管理は木村さんがやってくれることになっている。欠けの上で苗を育てるのは初めてなので、調子が出るまで苦労しそうだ。

苗土の混合の比率は、山土(赤土)を5:もみ殻クン炭を2:蕎麦がら堆肥を3これを混合して、1週間置いたものを8ミリで振るった。それを1週間置いたものを播種した。苗土は10℃で一貫していた。つくにカビが生えたり、変わった臭いがするようなことはなかった。今までに比べて作業性も良くなった。種籾は3月20日に海水に付けて、その後10℃前後の水に4月13日の朝まで浸してあった。水は毎朝1回変えていた。13日の早朝湧水の水槽に移動。水温は15,5℃これで、15日の早朝まで置いておく。水から上げて、陰干しをして置き9時30分から種蒔き。種によってばらつきはあるが、芽が持ち上がる位を目指した。伸びすぎたものもいくらかあったが、全体でいえば、悪くはなかった。この後の芽の伸び方が重要になる。やはり初期生育は素直にしっかりとした、がっしり苗にしたい。苗の芽が出るのが1週間としてその前にやることを入れる。

セルトレーと苗床の接着と水位の改善のために、土の状態が緩くなってから、もう一度板で押して直したい。これが上手く行けば、水を吸い上げない穴が無くなる。根が苗床に広がるタイミングも早くなるだろう。水は徐々に増やすが、当初は水やりくらいの感じで朝に入れるだけにする。実は試験用に6日早く蒔いて試しているが、昨日の段階では芽が出ていない。山ちゃん田んぼでは、すでに1週間で芽がそろっているという。少し不安になるが、芽出しの状態のように思う。大丈夫だろう。今年こそ、しっかりとした大苗で田植えがしたい。毎年、全くの満足の苗まで出来たという事がまだない。今年こそと思うのだが、大雑把な性格が災いして、数とか、長さとか、どうも失敗する。今年も苗床の長さをすっかり思い違いをして、全く長さが足りなかった。みんなの協力で何とか対応してくれたが。申し訳ない事をした。

今年は舟原の苗床は狭い。いかにもうまく行きそうである。今まで、5畝ぐらいあったので、水管理が難しかった。2か所に分けたことで、大分管理が上手く行きそうである。この点では大いに期待している。舟原田んぼは、管理の中心を木村さんに今年お願いしている。こうして、次の人に管理を体得してもらう事ができれば、技術の伝承にもなる。農の会のグループ田んぼ技術は、20年試行錯誤しながら作り上げてきたものである。それなりの合理性がある。この先、こうした市民参加の田んぼが広がる。広がらないはずがない。その時、どういうやり方がいいのか。先導役になるつもりで集大成したい。田んぼは12回の活動日。一人100キロを越える収穫。経費は1万円前後。これを、どこでも、誰でもできるように。安定させたい。その基本は苗作りだ。良い苗にすることが、絶対条件である。機械田植え用の小さい苗では、なかなか上手くゆかない。

昨日の自給作業:稲種まき7時間 累計時間:17時間
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