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文大統領の南北統一は本気らしい。

2019-08-31 04:26:45 | Peace Cafe

 文大統領の南北統一はどうも本気だったらしい。遅くとも2045年までに朝鮮半島の南北統一を成し遂げる構想を打ち出していた。残念なことだが、今ひとつ表現が微妙なところがあるので理解していなかった。

 今水面下で何かが進んでいるのかもしれない。それを期待したい。分断された国が統一されるというのは当然の願いである。そして統一した国家は日本やアメリカとは距離を置く国なのだろう。日本やアメリカと距離を置かなければ北朝鮮が了解しない。

 文大統領はかなり不思議な人だ。すごく有能というのか、全く無能というのか、評価が両極端だ。日本では良い評価は少ないが、南北統一の意思を持ち続けているという一点で評価したい。北朝鮮という異質な国との統一である。あらゆる事が起こるだろうが、頑張ってもらいたい。

 宇宙人と呼ばれた、鳩山由起夫氏とにているかもしれない。鳩山氏は米軍基地を海外移転、最低でも沖縄県外と明言した。しかし、実現はできなかった。まさか何の裏付けも無くあんなことを話したのかという点ではがっかりした。

 しかし、外交上公表しにくい何かできない壁にぶち当たり、跳ね返されたのでは無いだろうか。その言い訳はしないところはしっかりしていると、今では思っている。アベ氏のようにやろうともせず、沖縄の基地負担の軽減などとでたらめを口にするよりは、ましでは無いか。

 基地負担の軽減どころか、沖縄自衛隊基地の増強を進めている。自衛隊基地は米軍への負担肩代わりである。トランプの言う片務敵安保条約のつなぎ止めの方策に過ぎない。腹の中では沖縄を犠牲にすればいいと、舌を出しているのではないだろうか。多くの国民が知らない間に、琉球列島全体に自衛隊基地が作られている。NHKはこのことをどの程度報道したのだろうか。


 文大統領は気持に従って動く。南北統一をしたい。しなければならないというところに、政治家の目的がある。その目的のためにはあらゆる事を妥協しても、無理をしても、進めたいと言うことだろう。それはアベ氏の憲法改定の態度と似ている。

 文大統領の南北統一計画は、現在行き詰まりを見せている。客観的状況を考えれば、不可能かのように見える。不可能に見えたとしてもやり抜きたい気持が強くあるのだろう。分断された国としては当然の決意であろう。日本もこのあたりで、対話に入るときが来ている。しかし、アベ政権はだんまりを続けるだけだろう。

 文大統領は日本政府の経済制裁を待っていたのかもしれない。日本政府の呼びかけに対して、かたくなに返事もしない態度が不思議だった。反日感情が南北統一の動きを助けると考えている。日本に負けない、強い国になるためには南北統一が必要だという世論形成が目的なのだろう。

 問題は経済であろう。韓国は日本以上の拝金主義の国になっている。国家資本主義に近い国である。いくつかの企業に経済を集中させ、ある意味で国の運営を依存している。サムスンのような企業が南北統一をどう考えるかが鍵となってゆくのだろう。

 南北統一すれば、日本に勝てる経済大国になると発言したあたりに、統一の計画の背景が見える。韓国の大企業が、日本に勝てるならば、やってみるべきだと考えるかどうかである。国民が付いてくるかどうかは、何故日本に経済で勝てるのかの理由の説明が重要になる。

 確かに人口や面積としては、日本と似たような国になる。経済がよくなるという考え方は具体的に聞いてみたい。確かに、北朝鮮は資源の豊かな国らしい。日本が植民地化していた時代、北の工業南の農業と言われていたらしい。

 西ドイツの経済は統一されてどうなったか。長い眼で見れば、統一は経済にとって良かった。しかし、今もって東西の経済格差は大きい。統一は経済に置いては失敗だったという意見もある。東ドイツは東欧の中では経済の良い国だった。朝鮮も同じ事では無いかと思う。日本に勝てるとか言う発想は良くないと思うが、経済は分断国家よりも勝るに違いない。

 それでも、韓国国内には反発の方が強いはずだ。普通の人の暮らしは当面苦しくなることはやむ得ないだろう。それは西ドイツもそういう経過であった。経済が良くなるとしても、それは国家の方向の意思統一ができて、長い年月の努力の末のことである。

 韓国企業は案外統一を利用できると考えるのかもしれない。安い労働力の確保である。昨年から文大統領は国境地帯での経済特区的な呼びかけがなされていた。韓国には北朝鮮への制裁逃れに協力するような動きもある。これがアメリカの不信用につながっているらしい。

 しかし、韓国はこの状況下に米韓軍事演習を行った。しかも、トランプ大統領はやりたくは無い。無駄金だと口にしていながら、それでも強行した。韓国もアメリカも軍事強行派がいて、軍事演習はどうしても必要との圧力が強いのだろう。

 また文大統領の後継候補が、スキャンダルで問題化している。アメリカから離脱する政権には、アメリカは何でもする。どうもアメリカが気に入らない人を自滅させるために、情報が撒かれた可能性がある。日本でも中国に接近した田中角栄はそうして失脚させられた。

 北朝鮮は短距離ミサイルを繰り返し発射している。日本政府も、韓国政府も、トランプも反応が弱い。果たして、国連決議違反では無いのだろうか。自分の都合で態度を変えるのであれば、北朝鮮の軍事的意図の思うつぼでは無いだろうか。

 拉致問題は拉致問題で別にするほかない。アベ氏が拉致問題の件で無条件で金代表と会いたいというのは、まるで向こうのペースに乗せられるだけになる。結局調査のやり直しは行うなどという程度しか期待できないだろう。
 
 文大統領はアメリかとの同盟を離れて、中国の側の国になるつもりかもしれない。韓国は中国との経済的結びつきは強い。アメリカの一国主義を不安視しているのでは無いか。アメリカがアジアから手を引けば、日本も韓国も取り残されることになる。

 トランプに従おうというばかりのアベ政権よりも、この先の世界情勢を見通しているのかもしれない。いずれにしても、中国との関係である。アメリカがこれ以上中国と対立した場合、日本もアメリカに従うばかりとは行かなくなるだろう。


 
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水彩人出品作を選ぶ。

2019-08-30 04:00:13 | 水彩画
 水彩人展 

 今回この作品を水彩人に出品することにした。

 水彩人展以外で作品を発表することは無いから、一年間描いたものの中から、出品することになる。今年から一人あたり3メートルの展示スペースになった。1メートル減少である。出品する人に少しでも多くスペースを割りあてたいからである。私は3点出品する。

 いつもどの絵を出すか迷う。1年間描いた絵の中から選ぶ。展覧会に出すために描くと言うことは無い。すでに2点は額装して小田原に置いてある。1点を石垣で選んで持って行く。額装は小田原でやる。中盤全紙の縦型の絵を1枚選ぶとちょうど良いかと考えている。

 縦構図の絵は好きで、描けるときは必ず描くことにしている。同じ場所でも無理に縦で描くこともある。それでも、全体の30%ぐらいがになる。やはり風景の場合、ほとんどの場合横構図になる。水彩紙の形はそもそも、油絵で言えばP型である。つまりPaysageつまり風景のことである。



 最近描いた中判全紙の縦構図の絵を並べてみて選んだ。並べたら、今描いている右から2つめが良さそうなので、このあと2日間描いてこれを出すことにした。

 写真を撮って、絵はがき作製担当の金田さんにデーターを送った。その写真が最初に掲載したものである。これでいいと思っていたら、斜めなので、このままだとずいぶん切れた絵はがきになるがいいかという連絡が来た。斜めでも印刷屋が直してくれると思ったのだが、自分で直して再度送った。

 金田さんは帯広の同人である。石垣の私がホームページ担当をやっているように、水彩人では離れている人でもやれる仕事はできるだけ分担することになっている。そのほか通信担当は京都の方だ。

 そうはいっても、事務所担当や会計担当は関東一円で無いと難しい。仕事の負担が大きい。水彩人は会を社団法人にした。それに伴い、会計処理も出てくる。事務をパソコン化し無ければならないと言うことも出てきている。

 絵を描く人は会の仕事を嫌う人が多い。それでは会が成り立たないのだが、自分のことだけやっていたいと言うことなのだろう。仕方が無いところだが、運営的な仕事は全員で平等にやるべきだろう。

 絵はがきにする絵のデーターを送る期限が8月20日であった。ギリギリこの日に絵は送ることができた。最近になって、絵を完成させる努力をしようと考えている。以前は分からなくなった時点で止めてしまったのだが、分からないままでも、一応の結論を出してみようと考えている。

 それで一枚の絵を大体3回か4回描いている。描いてはアトリエに置いておく。眺めていて気づくこともあるので、それを現場に持って行ってまた描いてみる。その繰り返しで納得の行くところまで描く。

 最近になって水彩画の技術が少し向上したと思う。描いても暗い絵にならなくなった。30年油彩画を描いた。その後また30年水彩画をやってきた。結果として水彩画の方が技術的に奥が深いと言うことが分かった。違う紙を使ってもほぼ同じ色が出せるようにもなった。

 最近はできる限り終わりまで描いてみようと考えている。以前は分からないことは描かないで置こう、と決めていた。分かったことだけで終わりにしていた。このやり方でズーと来ていたのだが、最近分からなくても糸をたぐってみようと考えている。

 分からないその先まで行ってみる気になった。きっかけがある。よく分からなくなっていつものようにここで止めようとしたのだが、思いつくところがあり、分からないところをやってみた。こういうやり方だと、絵作りになると考えて避けてきた方法だ。

 ところが、やってみるとその先があった。前と違う光が見え始めた。見えた光をもう少し追ってみようと考えるようになった。以前ならば分からなくなって、他人のやり方で解決しているようないやな感じが出た。絵としては出来上がるとしても、自分の見ている世界とは違うような感じだ。

 その先に踏み込むことは重要と思っては居たが、自分が不明確なまま、絵を描き進めると人が考えた絵の作り方を受け売りしてしまう。こんな失敗を散々した。それで分からなくなったところで止めた。それが自分の見ている世界に正直なのだと思っていた。

 そのやり方も止めてみてもいいのかと。最近になって考えるようになった。少しは人のものに引っ張られることも無くなったと言う気がしている。いい絵を描こうというような気持ちから、少し離れたと言うことがある。

 もう一つある、前より一歩前進しならなければ終われないという気になった。人が見たらの良くなっているのかどうかは判断つかないようなことなのだが、自分としては前に描いた絵よりわずかでも良くならないと我慢できない。そうでなければ何のために絵を描いているのかと思うようになった。

 こんな具合で、少しでも新しい試みをしているつもりで、粘って描いている。良くダメダーとさけんで絵を破る芸術家像があるが、そんなことは過去一度もしたことが無い。どれほどダメでも自分のやったことである。必ずとって置く。そしてよくよく眺めて、何故ダメな絵を描いたのか考えてみる。

 そうだ、確かに今描いている絵は、つまらないかも分からないが、一歩進めたような気がしている。
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石垣島観光はアジア交流拠点の始まり。

2019-08-29 04:15:57 | 石垣島


 石垣島ではクルーズ船が入ると観光客が目立って増加する。1000人を超える人が、一辺に島に来てくれるのだから素晴らしい。ユーグレナモール周辺は大勢の人で実に賑わい華やかな感じだ。昼時の食堂は何処も満席というように賑わう。

 こういう状態を喜ばれない石垣の地元の方もおられると思うが、私は嬉しくて仕方が無い。同時通訳機ポケトークを買ったので、これで話してみようと考えている。石垣島にはヘンナオジーがいると思われるかもしれないが、失礼の無いように外国人観光客と交流をしたい。

  石垣に引っ越して1年あまり。石垣の人たちの本音のようなものも少し分かるようになってきた。よそから引っ越して来た人を良かったとは思わない。観光客に来て欲しいと考える人も少ないのだと思う。観光産業で島の経済が回っているので、我慢してくれていると言う所では無いかと思う。

 それは日本中の地方の社会が同じでは無いか。私も地方育ちである。そして、あちこちで暮らしてきたので、その感触は言われないでも分かる。それでも、石垣ほど気持ちよく接してくれるところは初めてである。よそからの人を受け入れて来た歴史が、よそ者に優しい土地を作り出したのでは無いだろうか。

 石垣島では絵を描いていて、邪魔にされたことが無い。また来てくださいよと言われたこともある。ほぼ日本中を車で絵を描いてきた。先に挨拶できる場所なら必ず手土産を持って行く。ここなら描いて邪魔にならないというところで描いてきたつもりだ。止めて欲しいと言われたことは何度もある。

  日韓関係が悪くなり、沖縄に来る韓国からの観光客が半減しているそうだ。昨年は55万人だったそうだから、石垣でもそれないの影響はあるだろう。観光立県沖縄は平和だからこそ成り立つ考え方だ。一日も早く良い関係ができることを祈っている。雨降って地固まるのたとえもある。

 沖縄を中国に対する防衛線にするという、トランプ・アベ計画は、全く時代錯誤である。平和の島、石垣島は東アジア交流地点を目指す。沖縄の民主主義を尊重して貰いたい。平和への道は武力によっては生まれない。

 最近クルーズ船など迷惑な観光だ。客単価を上げるためには、クルーズ船お断りだ等という、驚くべき主張が見られる。何でもお金でしか考えることができない哀れな人たちがいる。

 観光はよその国との交流の始まりである。観光客は来てくれるだけで嬉しいでは無いか。確かに経済は大事なことだ。しかし、社会の根底に必要なものは人間が心豊かに暮らすと言うことがあるはずだ。金儲けだけが生きる尺度の人には、心底関わりたくない。

 安いお金で旅行したいというのは、当たり前のことだ。私もヨーロッパをヒッチハイクで旅行したことがある。よくまあ無事だったと思う。ユーレイールパスを使って、長期旅行を3どもした。東欧やロシアも旅行をした。そのことで学んだことは沢山ある。

 あの頃も北朝鮮に拉致されるという話はあった。ドイツのユースホステルから連れ去られたから気を付けろという話は、旅行者の間では言われていた。仕事があるからという話には乗らないようにと言われていた。

 お金のない、普通の人でも旅行をしてよその国を知ることはとても大事なことだ。フランスに2年半お世話になった。フランスにしてみれば、金銭的負担だけだ。申し訳ないとフランス人の学生に話したら、そのうちダビンチがモナリザを持って現われると冗談を話した。

 石垣島の未来構想であった。石垣島は東アジアの交流拠点では無いかと想像している。引っ越してきた人間があれこれ言うようなことでは無いとは思うが、石垣の可能性は考えるとどうしてもそこに考えが行く。
 
 地域の方々が、具体的な未来像を出しながら話すことが大事では無いだろうか。安く行ける場所であると言うことはとても大切なところだ。東アジアから近い、石垣が日本の入り口になることは素晴らしいでは無いか。

 石垣島の歴史がそういうことを示している。東アジアが良いつながりを持ち、こころ豊かな地域になるために石垣は素晴らしい場所になれると考える。経済は次の問題である。互いに交流してみれば、殺し合うような戦争はダメだと誰もが考えるはずだ。地域の未来を決めるのは地域に暮らす人自身だ。

 石垣の人は国境にくらす人々である。台湾とはとても深い関係がある。都会に買い物に行くと言うことは台湾に行くことだったそうだ。本島の那覇よりもずっと開けた都会が台北であった。戦前の台北には6階建てのエレベーターのあるデパートがあったのだ。

 八重山の人が、台湾の学校に行く。高校生の交換留学もある。台湾で職を見つける人も居る。今度台湾に観光旅行で行く予定だ。八重山宮古から何千人もの人が移り暮らしていた、宜蘭県イーランケン南方澳ナンファンアオという港がある。ここに行ってみたいと思っている。

 石垣にも台湾からの開拓の歴史がある。台湾の人たちが入植した地域がある。パイナップルや水牛は台湾からもたらされたものだ。台湾から来た人の中華料理店もある。八重山は国境にある島なのだと改めて思う。

 まずは多くのアジアからの友人に来て貰うことだろう。よその国というものは接してみなければ分からないものだ。庶民同士が直接交流を持つと言うことが、平和な国の関係を作る上で最も大切なことだ。自衛隊基地よりも地域の安全を確立すると思う。

 お金を落とさないから、クルーズ船は止めろ等と考える人は心貧しい人だ。経済は大切なことではあるが、それ以上に大切なことは心豊かに生きると言うことだ。外国からの観光客が来てくれると言うだけで、交流は始まる。

 今日本と韓国政府は仲違いをしている。しかし、政府の態度に乗せられたらダメだ。その国を観光旅行したことのある人は政府とは違う見方ができる。中国には何度か行ったが、中国は立派な国だと思う。仲良くしたいと思う。誰もが旅行をすれば本当のことを知るはずだ。


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台湾疎開 松田良孝著 やいま文庫 

2019-08-28 04:13:08 | 


 石垣では石垣のことを書いた書物が驚くほどの数、出版されている。毎月新刊がある。山田書店に行くと地元関係の出版物が所狭しと並んでいる。またその本がどれも内容が深く、石垣の知識人というか、その奥行きの深さに感銘する。

 この書物文化を支えているのが、南山舎という出版社である。素晴らしい他に類を見ない良書を出している出版社だ。石垣に来る前から取り寄せて読んでいた。やいま文庫はその中核をなしているシリーズだと思う。今回取り上げてみたい本は「台湾疎開」琉球難民の1年11ヶ月という本だ。

  対馬丸米軍撃沈事件が子供達の疎開船だったことが知られている。沖縄の子供達を九州に疎開させる途中、輸送船対馬丸が潜水艦によって撃沈された。1484人の人が亡くなった。その半分以上が子供達だった。当時、石垣島では台湾への疎開が行われていた。

 「台湾疎開」の著者は地元新聞社「八重山毎日」の記者である。松田良孝氏である。新聞に連載したものを改めてまとめたものだ。まさに新聞社の責務である調査報道の事例である。素晴らしい新聞社があると言うことも、石垣の文化の高さを感じる。

 松田氏は念入りな調査をしている。学術調査書、公文書。そして八重山の台湾疎開体験者の聞き取り。台湾の現地で関わった方々の調査。幅広く調査がなされている。できる限り冷静な視点を失わない決意が感じられる。「視野は世界に視点は地域に」という、八重山毎日新聞の方針そのものである。

 第2次大戦の末期、沖縄全域に疎開が命令される。本島からは九州地方への疎開。八重山や宮古からは台湾へ疎開命令が行われる。連合国の沖縄上陸作戦への抵抗の邪魔になる、老人や子供を沖縄から取り除いておく軍事作戦。全く無謀な作戦としか思えない。ここでの命令は命令と言っても良いのだが、通達という形のようだ。

 石垣島には台湾からの移住者も多かった。台湾に移住している石垣出身者も多かった。そうした場合は縁故疎開が進められる。縁故を持たない人には子供とその保護者というような小集団を作り、台湾へ送り出す。東京の子供達の集団疎開とは少し違う。台湾では様々な施設を収容し、そこに仮住まいをさせる。

 沖縄を日本国がどういう場所と考えていたかがうかがえる軍事作戦である。沖縄の犠牲で本土への攻撃を遅らせる焦土作戦を考えたのではないか。果たして日本軍は九州を焦土作戦として同じように考える事ができただろうか。

 渡航費用や生活費は国が補償するからと言うことで、強引に進める。実際には台湾での生活費はすぐに途絶えた。行政が取り仕切り、軍による強制ではないようだ。しかし、様々な状況的圧力で、疎開せざる得ない状況になり、沖縄全体で1万3000人、石垣からは3000人が疎開して行った。ここでの強制の姿は従軍慰安婦問題と似たようなものが感じられる。

 九州へ行く子供も、台湾へ行く子供も、案外楽しみにしていたような様子がある。状況をわかららず、台湾という都会に憧れる子供達。そのことと、国の方針である疎開とは別問題である。子供が喜んでいるから、許されるというようなことでは無い。これはやはり棄民の一種である。

 日本軍は米軍が石垣島に上陸するものと想定していた。石垣に残越された石垣の住民は軍に役立つとされた青年たちである。石垣に残った人たちも、於茂登岳周辺の山間部に強制移住させられる。農地は強制収容され飛行場に作り直されて行く。そして、山間部の生活と、栄養不足でマラリヤの感染に陥り、3千600人の人命が失われることになる。

 行くも地獄、残るも地獄とはまさにこの事態である。台湾にはどのようにして行くことになったか。そしてどうやってたどり着いたか。そして、台湾での生活。そして日本が降伏し、石垣への引き上げる苦難。この状況が調べ上げられ書かれている。

 日本帝国主義国家というものの実相がよく現われていると思う。国は戦時体制下、どうやって国民を犠牲にしたのかである。国は戦後も移民奨励という形で、余る国民を棄民して行く。民主主義国家といえども、国は常に国家のためには国民を犠牲にして省みないものなのかもしれない。お国のためという言葉はいつも気をつける必要がある。

 敗戦後取り残された、疎開者がどうやって石垣に戻ることができたのかは、息をのむような場面の連続である。国が統治能力を失い、一切が民間の努力と、台湾側の支援とで、苦難を奇跡的に乗り越えるのだ。台湾で医師をされていた方が、大きな力になってくれたようだ。

 宮古島からの疎開が一番多かったそうだが、戦争中宮古の町長だった石原氏は、戦後すぐに町長を辞め台湾に渡り、疎開者の引き上げに私財を投げ打ち努力をする。疎開を進めた責任者として身の処しかたである。

 台湾宜蘭県イーランケン南方澳ナンファンアオという港がある。与那国島から、111キロの日本に一番近い台湾の港である。戦前には日々行き来する船があった港だ。石垣関係の引揚者たちはここ集結し、石垣に戻ることを待つ。宮古島からの疎開者は基龍港に集結する。石垣から、台湾に戻るものも多く、その際は帰り船に乗ることになる。

 近いうちにナンファンアオに行ってみる。八重山の人が集まって暮らしていた港。今では当時のものは何もないそうだが、それでも台湾に作られた港を見てみたい。石垣島との交流拠点だった港を見てみたい。

 そして、日本の国境というものを実感してみたい。この港が八重山からの台湾への窓口だった時代を想像してみたいと思う。手助けしてくれた台湾の恩人たちへのお礼の気持もある。

 「台湾疎開」 松田良孝著 やいま文庫 良い本である。

 

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ジミー大西画伯の絵画撤退

2019-08-27 04:17:03 | 水彩画

石垣島で一番美しい場所。最近絵を描かして貰っている。

 お笑い芸人をしていた、ジミー大西さんが絵を止めたそうだ。絵筆を折ると言うが、本当に筆を力ずくで折ったそうだ。私も油絵の具を捨てたことがあるから、その気持は分からないでは無い。そのくらいしなければ、捨てきれない物だ。

 ジミー大西さんが絵を止めた理由は、時給計算をしてみたら、520円にしかならなかった事で、びっくりして止めたそうだ。なるほどと思うが、作った話かもしれない。絵が描けなくなった可能性がある。

 テレビで仕事をして時給が何万円にもなる人にしてみれば、驚いたに違いない。売れるから絵描いていたと言うのも実にすっきりしている。タレントが絵を描くと名前でそこそこ売れるものだ。タレントで成功するくらいだから、売れる絵が何かはすぐに分かる。

 絵が商品であると考えれば当たり前のことだが、売れている絵をまねるのである。その結果、売れてしまえばそれで目的に達したことになる。絵を描くことが、自分の生きると言えるほどに面白いことだという人は居ない。

 鶴太郎さんも絵を描いていた。自分でも語っていたのだが、ものまね芸人だから、真似はすぐできるのだと言っていた。売れそうな絵の真似をしていたのだと思う。何しろ小田原駅には鶴太郎さんの巨大な陶板画が掲げられている。あの作品を恥ずかしいと思っている。ひどいことを言う奴だと思うのであれば、是非実物を見て貰いたい。

 鶴太郎さんはしばらく前に絵が一変した。多分当人としたら、真似から脱したという意識であろう。前はヘタウマの真似であったが、今度は達者な絵の真似である。普通の絵描きがやっているものと似ている。余り面白いものではなくなっている。この先、一日1食生活の、鶴太郎さんの哲学に、絵がたどり着けるかどうかだろう。本当に絵を描いているのであれば、鶴太郎さんの哲学の問題になる。

 芸能人の絵でもリアル絵画派が結構居る。うまさをたよりにする人がやはり多数派である。芸能人だから評価されていると言われるのが嫌いなのだろう。上手いと言うことはわかりやすい価値だから、うまさで自己証明しようとする。

 芸術としての絵画が存在するとすれば、描かなければならないものは、作者の世界観だけだろう。その卓越した世界観が絵画という事物に乗り移るから、人は感銘を受ける。そうした芸術の目的を理解できる観衆がいなくなれば、芸術は成立しない。

 現代社会には美術評論というものはなくなった。評論家を自称する人は居る。しかし、それは解説者であったり、コーディネーターであったりはするが、絵画芸術論を書くような人はまず見かけない。そういう冊子無くなった。ネットには絵画論はあるのだろうか。探しているが、今のところ見つからない。

 季刊芸術が全冊残してある。こういうものが売られていた時代があった記憶である。芸術の奥底まで行こうという覚悟のある内容であった。1967年の創刊号の目次である。私が18歳の時だ。
 
志賀直哉論--「友情と肉親」 / 安岡章太郎/2~23
  • 戯作と私小説--芸術の幻-1- / 中村光夫/72~81
  • 一族再会――母(1) / 江藤淳/p82~101
  • ストラヴィンスキー-1- / 遠山一行/104~112
  • 高橋由一--日本近代美術史ノート-1- / 高階秀爾/114~127,図巻頭1p,巻頭1p
  • 音楽にある文学性(NHKラヂオ講演による) / 河上徹太郎/32~39
  • 明治の文学者の一経験 / 山本健吉/24~30
  • 音楽と日本の精神的風土 / 福田達夫/40~54
  • 眼の詩学--絵画を考える試み / 大岡信/56~70
  • 現代と芸術(シンポジウム) / 江藤淳/198~223
  • 「冷血」・その記録と芸術--カポーティの「冷血」 / 高村勝治/130~133
  • アメリカの夢と幻影--カポーティの「冷血」 / いいだもも/133~136
  • 思い出の中のカポーティ・ナルシストの殺人--カポーティの「冷血」 / 佐伯彰一/137~140
  • 絵画性への傾斜--第5回東京国際版画ビエンナーレ展 / 坂崎乙郎/143~146
  • 国際性と国民性--第5回東京国際版画ビエンナーレ展 / 高階秀爾/146~148
  • 武満の,音に対する思想--レコード「武満徹の音楽」 / 東野芳明/150~152
  • 感想文・「武満徹の音楽」を聴いて--レコード「武満徹の音楽」 / 三善晃/152~155
  • レコードの《エクリプス》--レコード「武満徹の音楽」 / 平島正郎/155~157
  • 待伏せ / 石原慎太郎/p184~195
  • 谷中清水町――失はれた町名への挽歌として / 円地文子/p160~170
  • 聖人絵 / 花田清輝/p172~182
 表紙は横尾忠則氏や高松次郎氏が描いていた。ずいぶん本を廃棄したのだが、この冊子だけはまだ残してある。若い頃こういうものを読みながら、絵を描いていたわけだ。捨てることができないのは、自己確認というか、戒めというか。そういうことである。

 70年安保闘争。大学闘争。そういう時代の中でこういう冊子が作られていた。そんなこと全体が、無かったかのような状況だ。次の時代に何も残せない団塊の世代の一人である。申し訳の無い気持になる。

 絵というものの世界が全く変わってしまった。幻想として存在していた、芸術というものが、すっかり商品絵画という現実に流された。ジミー大西さんのように、時給で計算してしまう方が、むしろすっきりしている。

 多分社会は絵画芸術が変わったと言うことにすら、気づいていないのだろう。商品の付加価値として、芸術として置いた方がいいと言うことに市議無い。まあ、絵画が衰退したと言うことぐらいなら、たいしたことでは無い。社会全体が、拝金主義に覆い尽くされた。そのことにすら気づかないことになっている。

 確かに50年たち世界は変貌した。季刊芸術のような雑誌が普通の書店に並んでいた時代があったのだ。三宿の小さな古本屋さんで季刊芸術を買っていた。この本屋さんにはかならず、一ヶ月後にこの本が並んだ。どういう人だったのかと思う。

 
 
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八重山民謡、金城弘美さん

2019-08-26 03:51:50 | 楽器

 石垣にはゆう暮れコンサートというものがある。街角で音楽を楽しもうというものだ。以前桃林寺境内で行われたコンサートを、旅行に来て聴かせていただいた。こんなコンサートが行われる町に住みたいと思ったことも、引っ越してくるきっかけになった。

 八重山民謡は音楽性が素晴らしいとともに、地域文化として優れている。音楽性が高いと言うことは、西洋音楽的な意味の人間哲学が深いと言うことがある。バッハのような深い思想がある音楽と同等な八重山の哲学を感じる。

 八重山民謡の奥ゆかしいというところがいい。抑制された、深さを感じる。つらい苦しい生活の奥にある人間の生命賛歌を唄うにしている。人を責めるより日々の楽しさの中に宗教姓とでも言うような無限を喜びとして唄う。

 それは唄い方にも表れている。音の高さはそれぞれの人の持ち味でかまわない。低い声の人は低音で、より高音で唄いたい人も居てかまわない。その人がしゃべるように唄うことが、良いのだといわれる。

 その点津軽民謡などと対極にあるものでは無いだろうか。津軽民謡は人をあっと言わせないとならないらしい。津軽三味線には過去に無い新しさが求められるという。人が出せないような、息の長さや、高い音程などが求められる。八重山民謡は本筋に入るほど、普通のものになってゆくすごさなのだ。それをオンフールがあると言うらしいが、まだ意味がつかめない。

 唄を聴くとは、その人の人となりを聞くものなのであろう。大工哲弘さんという素晴らしい唄者がいる。現代八重山民謡の頂点に立たれる方だ。この人が唄うと「沖縄を返せ」さえ感動を呼ぶ唄になると言われる。何を唄おうとも、大工さんの人間の方が先に来るのだ。

 金城弘美さんという方のコンサートを初めて聴いた。女性の方でこれほどの唄者は初めてである。何を唄おうともどこまでも金城さんなのだ。これはありそうで滅多に無い。多分「沖縄を返せ」を唄ったとしても感動してしまうだろう。それくらい人間が出ている。

 自然に唄う。しゃべるように唄うと言うことである。人の話し声は、一番にその人が出てくるものなのだ。よくラジオの方が、テレビより人間が分かると言われる。人間の声というものは、かなりのものまでさらけ出してしまうのだ。

 ところが、西洋音楽であれば、その人であるよりも音楽の理想に近づくと言うことが求められるのでは無いだろうか。バッハがすごいのであって、演奏家はバッハのすごさを表現している。作曲家の意図に近づくように歌うと言うことでは無いか。場合によってはっ自分と言う個性も抑えるのでは無いか。

 八重山民謡ではその人の唄い方で良いというトゥーラバーマのような唄まであるのだ。しゃべるように唄う事ができるためには、実はその下地として、徹底した基本というものがあるのだと思う。

 金城さんは17歳で八重山古典民謡最優秀賞受賞。平成12年度とぅばら~ま大会最優秀賞受賞。こういう方は滅多に居ない逸材である。基本が完全にできている人だ。その上で、もう一段抜けたのだ。それが普通に唄う世界だったのでは無いか。

 八重山高校でビギンの人たちや大島さんなどと同級のようだ。この前後にはすごい人たちが続出した。そしてその後に素晴らしい唄者が続いて行くことになる。

 何故その人であることがそれほど大切であるかと言えば、八重山民謡は人間の表現だからだ。作者を超え、八重山にくらす人の唄になっている。原初的な声というものを通して、その人の何かを伝える手段として、現代に生きている。全く希有な音楽なのだと思う。

 絵画が表現としての力を失い始めている中で、絵画の意味が、作者自身にあるという原点に戻っている。それは作者が見ている世界が表現されることだと考えている。そのためには徹底した技術が必要である。技術的な積み重ねが必要である。そして、その技術にとどまること無く、それを超えて、じぶんである素朴な世界に踏み出す必要があると考えている。

 誰でも描けるような手法で、身近な手法で、ありのままの自分が現れるように描くこと。誰もが塗れるような色で、誰もが引けるような線に戻ってゆく。八重山民謡の世界は私絵画の意味を再確認させてくれるものでもある。

 金城さんは、涙を流しながら、声を詰まらせて唄った唄があった。95歳になるオジーが亡くなったのだそうだ。突然唄の中にそのことが出現した。ああそれでもいいのだと思った。上手く唄えないことで伝わることがある。

 トゥーラバーマを唄われた。あまりの情感に陶酔した。すごいものである。この唄には掛け合いのような合いの手が入る。金城さんが会場に誰か唄うように誘うと、会場から男の声で合いの手が入る。これがまたいい。こんなことができるのは石垣ならではであろう。

 夕暮れコンサートは65回を数えるという。はじめて市民会館の中庭で行われた。ガジュマルの木の下で唄われた。夕風がここち良くガジュマルをゆらしていた。椅子は持ってきてよ。と言うコンサートである。石垣島で暮らす幸せを感じる夕暮れであった。



 

 
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石垣のシーサーを写真展示。シーサー様お許しください。

2019-08-25 04:34:53 | 石垣島
 石垣のシーサーである。ここに写真を並べたものは、散歩の途中で気づいて写真を撮らせていただいたもの。大体のものが字石垣(いしゃなぎら)のどこかにあるものだ。新川や、大川のものもある。一つだけパラピドーのものがある。

 石垣シーサーベストテンを決めようと思っていたのだが、さすがにそれはシサー様に失礼なことなので止めた。甲乙付けがたいと言うこともあるし、余りに多様と言うことで作品としての比較もできない。

 石垣にシーサー観光に来ていただいて、探して歩いて貰うのも面白いかもしれない。石垣では家を花で飾るコンクールがある。シーサーのコンクールを市が開催したら面白いのでは無いか。来島された方に応募していただく。

 飛行場やホテルや飲食店で投票用紙と参加シーサー地図を配る。投票箱を要所にもうける。投票者の中から、抽選で石垣島の記念品が贈られる。こういう企画はどうだろうか。シサー様に失礼なことになるのか。いや、シーサー様はおおらかだから喜んでくれることだろう。

 ともかく、それくらい石垣島のシーサーは面白いと思う。また地図を便りに町中を歩いて貰う価値がある。石垣の良さを楽しんで貰うことにきっとなる。沖縄古民家は石垣にこそ多。まずは勝手に写真展示をさせて貰うのでシーサー様お許しください。

 本来、シーサーはアッシリアのライオン像だ。これは人類が残した最高の彫刻だと思う。それがシルクロードを通り、中国に渡り、獅子像になる。それが何故か本土では神社の狛犬になる。沖縄ではシーサーになり玄関に置かれる。

 神社の狛犬とどこかでまぜこぜになったようだ。石垣には中国から直接影響されたものと、本土から入ったものとがあるように感ずる。屋根の上に置かれるようになったのは、石垣で瓦屋根ができて意向のようだ。その後一対になったようだが、一対はおかしいと言われる方もおられる。




漫画シーサーと勝手ニナズケているタイプの中の傑作。

これと次のものはパラピドーのもの。石垣小学校にある最高のものと、同じ作者では無いか。

この方は今もご存命の方だと思う。市内にかなりの数あるように思う。と言ってサインがあるわけで無いし、作風でそう思うだけのことなのだが。

旧石垣飛行場の跡にできた、県立病院のシーサー。新しいものだと思うが、少し違うタイプのようで、中国制作かもしれない。

堂々とした重量感が随一である。

この2つはすこし古いものでは無いかと見えた。形に妙に生々しいところがあり、犬を飼っていた人が作ったのかもしれない。

存在感のある素晴らしいシーサーだと思う。

これは小さな石作である。小さいが力がこもっている。しかし、どうもシサーとして作られたものではないのでは無いか。と勝手に想像した。

竜を踏まえているらしい。

コーラルホテル前にある大きなものだ。中国風の中では一番堂々としている。何故か変色をしているのが惜しい。


新川の方の医療所の前にある。白御影石を電動工具で作ったものだ。中国制作では無いだろうか。ピンクの御影石のものもある。

これもよくできているとは思うのだが、上手すぎるというか。

南島博物館の展示シーサー、不思議なシーサーが室内にも、庭にも沢山居る。漆喰シーサーである。

南島博物館庭 実にとらわれないもので、面白い。同じ傾向のものが他でも見た。どういう人が作ったのかと思うが、東南アジアのもののように見える。

南島博物館にあるもので、作者は千葉の方から見えた女性方。すごい作品である。彫刻と言っても良いものだ。たてがみや尻尾の表現がなんとも言えない。

飲食店前の瓦シーサー。瓦シーサーである。赤瓦を使うシーサーがけっこうあるが、大体が漫画シーサーになる。

古いタイプではないか。この姿のシーサーは覆いように思う。

この少しとろけかかったところもまた良いものだ。中にはほとんど形を失ったシーサーもある。セメント作りにも見える。

これはユニークなもので素晴らしい。

魂がこもっていて、いかにも魔除けの効果がありそうだ。

これはシーサーを作る窯元。Vサインシーサーがある。この方は次の石垣小学校のシーサーを制作されたかったの兄弟の方の工房だそうだ。

石垣小学校のシーサー。子供達を見守る像として良い形をしている。


この二つが良い。小学生が守られていることが分かる。この前を通る小学生はきっと忘れないことだろう。


骨董品展の展示品。素晴らしい像だ。彫刻的形があるものは少ない。もしかしら、南島博物館のエリマキトカゲ風シーサーと制作者が同じかもしれない。


よこからもいいのだが、光ってしまった。


小さなもので石造り。多分前に掲載した小さなシーサーと同じ作者だと思う。シーサーではないのではないか。

 石垣にはいたるところにシーサーがある。シーサーはそもそも魔除けだ。火伏のスイジ貝と並ぶ家々に置かれる魔除けである。神社の狛犬が各家々のシーサーになる感覚。家というものを神社と同じように考えるところが、面白い。

 これはそもそも家に置く獅子が其の後に狛犬になったと考えた方がいいかもしれない。お城の入り口にアッシリアのライオンは置かれている。そういう意味で石垣の御嶽にはシーサーは見ない。外の方に置いてある御嶽もあるのかもしれない。鳥居だって、後から付けたのだから、シーサーも置くかもしれない。それが柔軟な石垣文化だ。

 石垣のシーサーで一番多いのが、漫画シーサーである。漫画シーサーと勝手に呼んでいるが、どう名付ければよいのか、どう呼ばれているのかはわからない。漆喰シーサーと総じて呼んででいるようだ。作るのが簡単なので、子供教室などはこれを作る。

 素焼きのものでも、漫画シーサーは多い。Vサインをしたシーサーがある。ナマズ犬のような冗談シーサーが一番目立つ。あれは何だろう。家の前にナマズ犬を置くということは、赤塚不二夫流に「それでいいのだ!」ということなのだろうか。これこそ石垣文化では無いかと最近気づいた。

 自信にあふれているというか、飛んでいる。置物風のシーサーもかなりある。床の間に置く方がふさわしいだろうというような、釉の掛かった獅子像が多数を占めるが、写真に撮るほどのものでは無い。縁起物の朱竹の色紙が玄関にかけられているということに近い感覚であろう。

 笑って、疫病神を追い返すという感覚はあるかもしれない。平和主義である。力で追い返すのでは無く、友好的に災いを避ける。沖縄の歴史がそういう感覚を生み出したのかもしれない。

 どこかで良いシーサーを見つけたら、ここに加えて行くことにする。

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NHKにはなんとか続けて貰わなければならない。

2019-08-24 04:38:14 | Peace Cafe
ご近所の黒猫、いつもあたりを巡回している。大分逃げなくなった。

 N国等という馬鹿げた政党ができてしまった。その理由は受信料に対する不信感にある。公共放送というものの意味をNHKはもう少し明確にしなければならない。自分のことを説明することを怠っている。NHKに質問の手紙を出したことがあるが、答えようとしなかった。受信者に回答しないような公共放送があるだろうか。

 公共放送は権力から独立していなければならない。権力に対して批判精神を持っていなければならない。調査報道をしなくてはならない。経費は国民が持つ以外に無い。現在のNHKはその点ではまだ公共放送と名乗る段階には来ていないだろう。権力からの独立性に大きな問題がある。国営放送であれば、受信料を払いたくない。

 NHKの経費負担に問題が出てきている。テレビを持っていても、あるいはテレビの映るカーナビを持っていても、受信料は払わなければならない。さすがに、NHKを見たことも無い人から受信料を取るのでは不満が出るだろう。このあたりの説明も納得できるものではないし、不足している。裁判で正当性が認められると考えること自体がおかしい。何故電機メーカーはNHKの映らないテレビを売らないのだろうか。売れると思うのだが。N国はそういうことをやればいいのだ。

 NHKの映らないテレビというものを売るべきなだ。あるいはNHKを映らないように改造する方法を教えて、改造した人のテレビは分かるようにする。そういう人は受信していないのだから、費用はいらない。スクランブル化というのではNHKは間違いなく成立をしない。

 スクランブル化すれば、有料で見るわずかな偏った人のための放送をすることになりかねない。見てくれる人を無理矢理増やすような放送を行うことにもなりかねないだろう。公共放送という意味では極めておかしなことになる。

 結局のところNHKを見ることが無い人が、増加している。多分NHKを見る人は国民の50%未満なのでは無いか。そもそもテレビというものを見ることが無い人が増加している。これはネットができて、自分の好みの番組がいつの時間にでも見れるという状況が生まれた結果である。友人にきいてもそういう人がかなり存在する。

 公共放送というものは国家としても、社会としても必要だ。必要だとするのであれば、新しいお金の集め方を考えるほか無い。税金でまかなうという考え方もある。健全な国づくりのために、民放では無い放送局が必要である。まず、この公共放送の存在意義を検討しなければならない。

 公共放送という性格上、独立性が担保される必要がある。現在NHKの人事や予算は国会が支配している。このことによって、NHKの中で政権におもねったのでは無いかという事件が、繰り返されている。政府批判の強い番組が中止に追い込まれたこともある。

 教育勅語を復活させるべきだというような考えの人物が、会長職にいたこともある。局内での人事や番組編成には多大な影響が起きた。このことには公共放送というものの意味を変えるのでは無いかと言う危機感を感じた。つまりNHKが国営放送の大本営発表になりかかったのである。

 そのときは質問状とともに、受信料の支払いを拒否し、回答があるまで、支払いを止めるとした。ところが、回答は無かった。極めて残念であったが、回答の無いまま、NHKを見ているので、受信料はまた払い出した。どこか情けない。

 一方、NHKの番組が政権批判ばかりで、左翼的であると言う批判も当然ある。国民全員が、どの番組も納得できると言うことは間違っても無い。常に批判にさらされるのがNHKである。公共放送の宿命であり、国民はつねにNHKの番組を批判的に見ていなければならない。

 裁判所や報道機関は権力から独立していなければならない。権力が見識のある間はまだ良かった。ところがアベ政権では、露骨な報道批判が行われている。民放にはスポンサー企業に圧力を掛けろと公言した自民党議員がいた。これは見過ごしていいようなことでは無い。

 当然、NHKには権力の圧力が直接的にかかっている。人事権があればそういうことになる。どう考えても放送すべき報道が行われないようなことが起きる。一方、総理大臣と皇室の関係の映像が必要以上に流されたりする。公共放送では象徴である天皇は、必要最低限の報道にすべきだ。

 NHKを権力から守らなければならないのは、国民の責任だろう。権力の圧力から、公共放送を守らなければならない。そのためにはNHKは権力から完全に独立しなければならない。

 スクランブル化よりも、税金化の方がまだ良い。税金で運営して貰らい、独立性をどう担保するかを、研究する。せめて裁判所程度の独立性は必要である。会計検査院が財務を徹底的に調べる。調査報道の費用を大きく見なければならない。

 良い国になるためには、良い報道機関が必要である。テレビができてからは最も重要な報道はテレビになった。NHKテレビがあったおかげで、それなりに健全な社会が生まれたと考えてもいいのでは無いか。NHKがあったから、民放も頑張ったのでは無いか。しかし、このところはその逆の方向である。

 アベ政権を作ったのもNHKの役割が大きかったのでは無いか。NHKは政権に批判的な報道も行うと、考えていたところがあった。そのために、NHKの変貌は世論形成に強い影響を与えた。アベ政権にたいする仕方が無い支持層の形成である。アベはダメだけど、野党はもっとダメだの風潮形成は、報道の責任が大きい。

 NHKは優れた番組も、数多く作っている。民放と比べれば雲泥の差である。移民、棄民、外国人労働者。問題の本質を教えてくれているのはNHKでは無いかとまで思う。辺野古基地問題もよく調べている。ここまでやるなら、もう少し突っ込んで、アメリカの本音まで調査報道して欲しい。

 一方、農業に関しては全く不十分である。豚コレラなど、もっと科学的知見を持って、教えて貰いたいところだ。それは福島事故の時にも痛感した。報道が、高い科学性があるかどうかが、国民の命を直接的に守ることになる。NHKは原発放送の総括をすべきだ。
 
 あれだけのデマが飛び交ったのである。うち消す力は公共放送の信頼性の確率である。ところが実に遠慮気味の報道であった。報道することで起きたパニックと言うことがあると弁解していたが、それで正しい、自己検証と言えるだろうか。

 風評自殺のような展望の失われた事態が生まれている。それは原発事故だけでは無い。NHKが未来社会を描けないとしたら、公共放送の価値はないのではないだろうか。



 
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棚田を守り、瑞穂の国を守る生き方をつなげる

2019-08-23 04:09:08 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」


 日本では美しい農地が失われて行く。理由ははっきりしている。経済合理性のないものは、日本ではあらゆる分野で成立しない。しかもその経済合理性は、今だけの経済合理性である。どこか国の政策には焦りのようなものがあり、未来を見据えたことができなくなっている。

 国家100年の大計というが、50年先の日本は人口5000万人の国になっている。日本の山河は荒れ果てたものになっている可能性が高い。世界全体が食糧不足に陥っているのは間違いが無い。50年先日本人は体を使って農業を行えているだろうか。今日生まれた人たちが、50歳になってどんな暮らしをしているのだろうか。

 50年先の日本は、好きなことをどれだけ自由にやれているだろうか。好きなことがカジノやゲームというような、国になっていないだろうか。人間はひたすらに生きると言うことが大切だとおもうが、そのうち込めるものが、健全なものではなくなり始めているような気がしてならない。

 健全とは建設的で、創造的なと言う意味なのだが。日本人全体が受け身で、消費的なものだけに反応するという人間になっていないだろうか。田んぼを楽しむような事ができる人間は、どれだけいるだろうかとおもうと、心配になるところだ。

 こんな国にしてしまった事については、私にも責任がある。次の世代の方々には申し訳の無い限りである。なんとか美しい田んぼを一日でも長く、続けたいと思う。あと5年である。この間に少しでも次の人につなげたいと思う。



 農地でも、工場と同じような合理性が求められて、美しいと言うことはほとんど考慮されない。畑はまっすぐに植えた方がいいと言うことだけで、定規で引いたような形を合理性があると考えてしまう。絵に描いて美しい農地は、その土地の起伏に応じて、複雑だが自然の合理性で区切られている。

 お百姓が手作業で農地をつくれば、いつの間にか自然に応じたものになる。水の流れを合理的に作ろうとすれば、起伏が生かされた美しいものになる。ブルドーザーが行う整地ではこの美しさは失われる。



 この微妙な丸さは私が手作業で作り出した丸さだ。ここは植木畑であった。そして放棄されていた。なんとも言えない良い田んぼになったものだ。人間の手作業というものはそういうものだと思う。

 江戸時代の農地の美しさはお百姓さんの暮らしから生み出された美意識である。美しい暮らしに誇りがある。農地にごみがあるようなことを我慢できない美意識で百姓の暮らしは維持されていた。日々働く場が美しいものであると言うことは、作る作物にも影響していた。

 日本の農業の四季の姿は、里山景観を素晴らしいものとして育んだ。棚田が世界遺産になり、棚田を保全する法律もできている。湿地にはラムサール条約があり、田んぼも湿地として登録されている。

 しかし、棚田と湿地を守れば日本が守れる状態ではないような所まで来ている。むしろごく普通の農地を守らなければ、日本全体が荒れ果ててしまう所まで来ている。福島の原発事故で放棄された田畑はたちまちに、見るも無惨なものになっていた。

 農村の景観を守ると言うことは、水田を守ると言うことである。このことを意識する必要がある。実際に水田を止めた沖縄本島の景観を見てつくづく水田の豊かさと、美しさを再確認した。もう棚田の保全というように限定して済むような状況では無い。

 お米が余るから、水田は減少して行く。大規模な水田ができる分だけ、小さな水田が止めて行く。美しい田んぼから失われて行っている。このままで行けば、お米の消費は今後も年々減少するだろう。どうやってお米を食べる人を減らさないかである。

 パン屋さんには悪いが、学校給食はすべて米飯給食にする。子供の頃からお米を食べる習慣を身に付ける必要がある。そして全国の学校で学校田を必須科目にする。自分で作ればお米のおいしさを知ることができる。都会の学校は地方の田んぼのある学校と姉妹校になり、交流をしながら、学校田を行う。

 これが国家100年の大計である。

 農地法を変えて、都市近郊の水田に関しては誰もが耕作できるようにする。農家は水回りなどの管理を請け負う。市民が行う田んぼの水管理を地元の農家が行う。そうすれば、市民田んぼが増えて、小さな田んぼが維持されることになる。

 田んぼを行うと言うことは、暮らしの基本が固まると言うことだ。食べ物が確保できれば、後の生き方はかなり自由度が高まる。収入が少なくとも、安心して生きて行ける。そうした自給市民を増やすことは国の安定にもつながる。

 山本七平、イザヤベンダサンが書いた、日本教というものがあるとすれば、それは稲作に始まるものに違いない。日本人の所作から、信仰、文化すべてが稲作に影響されている。この日本人の骨格をなしていたものが崩れ去ろうとしている。

 瑞穂の国を守ることができるとしたら、経済とは離れることのできる自給のための田んぼだ。それは普通に勤務しながらも可能な稲作だ。そうした稲作を奨励するためには、農地法を変えなければならない。

 まだ今のところはやりたい人は居る。やれる条件もある。にもかかわらず、条件不利な美しい田んぼが刻々失われている。始めるためには様々な壁があるかもしれない。しかし、始めてみればそれほど難しいことで無いことが分かってもらえると思う。

 協力できることがあれば、何でもさせてもらう。瑞穂の国のためなので、全く遠慮はいらない。小田原の田んぼであれば、相談に乗ることができる。

 今年の稲刈りは10月初めになる。体験してみたいと言う人は参加することができる。メールであれば、私のホームページから申し込んでもらえばいい。このブログのコメント欄に連絡を入れて貰ってもいい。
 
 生身の人間として、自然の中にどこまでも入り込んで行く素晴らしさ。人間が生きるというギリギリのところで、自給としての農と向き合うこと。いつの時代でもそこから始めれる事ができれば、大丈夫だと思う。

 50年先の若者が、私と同じように荒れ果てた昔農地だった、日本の自然に立ち向かうことがあるかもしれない。そのときに、私の書き残した、自然養鶏の本と小さな田んぼの本は必ず役立つはずだ。そういうつもりで書いた。実際にシャベルだけでやってみた実践記録だ。

 私の取り組んだときには、そういう実践例を記録したものがなかった。そのために全くの手探りだった。私にはそれでも子供の頃山梨の山村で目にした、自給自足の暮らしがあった。50年先に日本の若者が参考になるものであればと思っている。

 個人的な計画としては、野菜や小麦や大豆などの経験も本にして残したかったのだが。そこまではできなかった。

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自分を変える事はできたのか。

2019-08-22 04:20:14 | 水彩画



 この写真は全くいつ写したのか分からない写真である。タブレットを調整していて偶然写してしまったものだ。最近の自分の意識しない姿なので、70歳の自分と言うことで載せておく。

 70歳になる。ここまで生きてきてしまえば、私という人間の結論はほぼ出ているのだろう。少しあっけないような、残念なような気持ちもあるが、まだまだという気持ちもある。若い頃になろうとしたような人間になれたのであろうか。ここである。

 子供の頃描いた、大人の自分というものに近づけたのであろうか。立派な大人になりたいと思っていたのだと思うが、立派なと言うことは少しも分からないで居た。世界に痕跡を残せるような人間を立派だと思っていた。我ながらこれには恥ずかしい。

 その後、幾人もの立派な人に出会うことで、立派というものがどういうことかすこしづつわかった。それは本であったり、絵であったり、そして、師であり、友人である。すごい人たちから、自分の方角を学んだ。

 70歳になっても自分と言うものの基は変わったようでもない。中学生の時に松陰神社の家で、ブルドックと一緒に寝ていて、一晩寝たら石垣島の今に目覚めたような感じである。やっぱりその時々であり、先のことなどなにもなかったのだと思う。

 人間の性格は変えられる。変えられると確信を持てば変えられる。私は自分を変えることができたような気がしている。ともかく変えなければこれ以上生きられない、と考えたことがあった。何度かあった。

 性格を変えた事を書いてみる。ひどい面倒くさがり屋であった。病的だったと思う。子供の頃精神科の病院にも通った。何をやるのにも常に面倒くさい気持ちがつきまとい、何かをやらなければと考える重さで疲労困憊になった。

 無理にやるべきと考えることをやると強烈な疲労感に見舞われた。例えば歯を磨くという事が出来ない。顔を洗うという事が出来ない。お風呂に入るという事が出来ない。汚いことこの上ない。自分もいいとは思わないが、すべてが面倒くさくて出来ないのだ。

 生活すべてがこんな具合だった。だらしがないことこの上ない。そのために迷惑を掛けることもままあって申しわけない事だったと思う。それでもどうに70歳までやってきてしまった。どうやって、面倒くさがり屋をしのいできたかである。

 幸いなことに今はあの感じが思い出せないぐらいなのだ。疲れることがなくなった。好きなことならやれる。この一点である。好きなことならやって疲れることもない。その結果、いつの間にか好きなことだけをやるような人間になった。

 ある意味仕方がなく、好きなことばかりをやって生きてきた。特に幼児から高校生まではひどかった。好きなのは動物だった。鶏や犬が好きで、飼ってもいたし、やたら見て歩いた。愛犬の友という雑誌があり、その通信欄に子犬が生まれましたという広告が出る。これを見に遠くまで自転車で行く。

 おかしな子供が、犬を見せてくださいと現れるのだから、迷惑なことだっただろう。それでもいやな顔をされた記憶は無い。動物好きがあふれていたからだと思う。

 その後いくらかは治り、学校に務めたこともあったのだが、病的な私に勤めができたのは、自由にやらせてもらえる世田谷学園だったので続いたのかと思う。好きなように教えさせてもらった。一緒にやって生徒に見て貰うようにしていた。

 美術の授業は自分の興味のあることしかやらなかった。好きなことだから、相当熱心にやった。生徒と一緒に描いたり、工作をしたりした。私自身が面白いと言うことをやった。今でも生徒と一緒に作ったものが、石垣の家にある。

 絵を描くこと、鶏を飼うこと、田んぼをやること。このブログも面倒くさがりの割には続けているので、文章を書くことが好きなのだと思う。というか好きになったのだろうと思う。一見持続力があるかのように見えるが、全くそうではないと思う。面倒くさいを克服して、やれるという方法を見つけた。

 面倒くさいことは、規則化しないと克服できない。規則にして習慣にするほかない。このブログは始めるときに毎日書くと決めた。一日書かなければ、間違いなく途中で止めたからだ。毎日朝3時か4時に起きて、一時間はブログを書くと決めた。決めてもできるわけが無い。

 人の力を借りる必要がある。書き始めたのは、ピースカフェという紙の通信を作って配っていた。ブログ化したものである。そのときに、仲間のTAKEさんが、わざわざ家に来てパソコンでブログを設定してくれた。その後も分からないことがあれば、飛んできて教えてくれた。TAKEさんに感謝して書き続けることになったことが、面倒クサイを克服できた一番の理由だ。今でも時にコメントで励ましてくれる。

 フランスで入佐さんという人に世話になった。入佐さんが礼を言うなら、次の他の人に何かしてあげてくれればいいと教えられたことである。(入佐さんは若い頃、八重山の多分与那国のペンションで働いていた人だ。) 

 人とかかわることで、面倒くさい性格がいくらか治ったのだ。私がやることが、他人の為になることがあると嬉しくなる。それが継続できる好きなことになる。

 パソコン音痴だった私が、なんとかブログが書けるようになった。ブログを書くために、まずブラインドタッチの練習CDと言うものを購入した。一週間学習法である。本当に一週間でできるようになった。これでかなり楽になった。今では考える速度でキーボード入力ができる。

 今でもTAKEさんのあの親切は忘れられない。間違いなく、継続の発心は武さんである。そう思うと、自分が人の好きなことの手助けはしたい。あしがら農の会を始めたことは、多くの助けてくれた人への感謝である。

 人と関わることで、面倒くさいがかなり軽減できる。一人でできるようになったらみんなでと考える。ブログというものが外に開いたものであったと言うことがある。ブログを読んでくれて、農業に興味を持ってくれた人が現れた。

 農の会を訪ねてくれた人が農の会に参加したこともある。田んぼをやってみたいと、このブログから来てくれた人も居る。養鶏のことで、質問がこのブログから来ることもある。こういう人と関われる良いこともままあるので、面倒くさいがいつの間にか軽減された。

 今も「小さな田んぼのイネ作り」の実践をこのブログで見てもらっている人も居る。本でわかりにくいことが、ブログで確認できる。遠く離れた人でも、参考にしてもらえる。そうすれば、田んぼの楽しさを体験する人が、増えるかもしれない。

 人の世話になることを恐れない。世話になった分お返しすればいいと思い生きるようになった。これが面倒くさい性格をかろうじて、普通にしてくれた原因である。当然のことだが、すべて人様のお陰である。



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70歳からの生き方について

2019-08-21 04:43:10 | 水彩画
 絵のサインである。焼き印を作るときに作った原画。

  70歳になった。古希というような気にはならないものだ。気分的には若い頃とほとんど変わらない。絵を描くだけという一生である。自然養鶏と自給のためのイネ作りは自分なりに一応のまとめをした。何をしていても、絵を描くことばかりに生きてきた。

 小学生の頃も絵を描いていた。絵が好きという意識は無かった。それでも小学生コンクールに絵を出していたのだから、描いていたことは間違いが無い。それから途絶えること無く、今も絵を描いている。

 その頃の絵のことを思い出したので書き留めておくと、東京ガスのコンクールだったと思う。田舎の暮らしと都会の暮らしというテーマだった。私のように田舎と都会を行き来している子供に最適のテーマだ。頭で絵を考える子供だったのだろう。ガス風呂と台所の様子を描いた。藤垈では風呂焚きが担当だったからだ。

 絶え間なく60年も絵を描いていることになる。まだ自分の絵を描いていると言うところには来ていない。自分の見ている世界が描けていない。子供の頃藤垈の向昌院から、両側にある山の間から、広がって見える甲府盆地の空間の姿が思い浮かぶ。

 見下ろすように坊が峰というなだらかな小山がある。その向こうに笛吹川。そして、甲府盆地が煙るように広がる。さらに奥にあるのが、八ヶ岳から雲取山までの、甲府盆地を囲む屏風のような山並み。南のお盆の縁から北の方角を見ている。現実に見ているように思い出す事ができる。

 思い出すのは、いつもあの風景なのだから、よほど心に残っている。盆地には田んぼが広がり、鏡のように光り浮き上がって見えた。春になると田んぼの輝きが、一面に広がりその昔は湖だったという歴史を想像させた。伊勢湾台風では本当に湖になってしまった。あの光景は忘れがたいものがある。

 石垣島の風景に惹きつけられたのも、子供の頃の記憶につながっているからに違いない。あの盆地の空間の動きに惹かれる。田んぼを見下ろして広がってゆく風景である。川や、田んぼが光り輝く事で起こる動きである。地面というものは空の明るさを反射しているという感覚である。

 この動きは天地生動だと思っている。自然界の深層のようなものが現われていると考える。それは霧が出れば盆地の中で流れる渦となり視覚化される。普段は視覚化されないのであるが、光は渦となり、流となり、空間を漂っている。絵を描く目はこの動きを見ようとしている。

 眼は見ようとしてみたいものを見ているのだと思う。描くべきものが目の前にあると言うことはありがたい。この先描くべきものが見つかったと言うことである。自分の方角がやっと見えてきた。ずいぶん遅い愚鈍だが仕方が無い。

 70歳からの生き方と言う意味では、後最低10年は生きたいと言うことである。自分の絵を描くにはあと10年必要である。60歳から後5年で養鶏業を始末しようと考えた。65歳からあと5年で絵に専念する暮らしにと考えた。ここまでほぼその通りに進めた。やっと始まっているのが絵を描く暮らしである。

 75歳までは小田原で農業を年の3分の1行う。3分の2は石垣で絵を描く。こう考えている。75歳になったら、農業は辞めて、石垣で絵だけを描く。こう考えている。何でも決めたように進めるので、死んでしまうような特別なことが無ければそうしたい。

 石垣にいると絵をただただ描いている。他のことは特にないので、絵を描くことに専念できる。ご飯を食べるのも、寝るのも、三線を弾くのも、ブログを書くのも、すべて絵を描く道すがらのような感じだ。ここまで絵を描けるというのは、金沢にいたとき、フランスにいたとき以来かもしれない。

 問題はその絵である。絵が自分に向かって進んでいるかどうかの自己検証である。これは極めて難しい。大体に人間自分のことは見えにくい。どうやって自分の絵を客観視できるかである。

 私のよりどころは水彩人である。水彩人で絵を並べてみることが、大きな指針になっている。絵を語る会も大切である。悪くなっているときに悪くなっていると言ってくれる人がいないと、絵はひどいことになる。一人でやれることなど限られている。
 
 山本素鳳先生も座禅を一人でやってはならない。と言われていた。危険だと話された。とんでもない場所に行くと言われていた。良い仲間を持てるかが、この先大事なことになる。普通の人間である私は自分が見えなくなるに違いない。

 こうして、70歳まで生きているのは感謝しなければならない。幸運でありがたいことだった。自分の絵に専念できるところまでこれた。この先は1年、一日が幸運であると思わなければならない。補償されたこの先の年齢は無い。今日一日絵が描ける幸運。

 一日、一日やり尽くしてみようと思う。70歳になってみると、絵を描く事以外に何も無い。そのことに満足できるという事がありがたい。古酒の甕が7つある。ずいぶん飲みでがある。これを残して行くわけにはいかない。

 斯うして自分を考えてみると、生きると言うことはずいぶん勝手な、個別なことである。人様の参考にはならない、70歳である。そうではなく、70歳からの生き方それまでの70年というものの咲にしか無いのだから、人それぞれは当然のことになる。

 
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石垣島に引っ越した理由がある

2019-08-20 04:15:04 | 水彩画
 
 石垣島ではイネの収穫の終わった切り株から、再生してきたひこばえが穂を付けている。何もしないでも実る田んぼ。この実りは渡り鳥の餌になるようだ。イノシシも食べに来るのかもしれない。

 このひこばえの実りは石垣島の野生動物の豊かさに影響しているのだろう。石垣では電柵があるのは、オモトの田んぼくらいだ。この点ではどこの田んぼにも電柵がある西表とは全く状況が違う。

 私も残りの時間、ひこばえの実りを目指さなければならない。場所に恵まれれば、何もしないでもイネは2度目の実りを迎える。人間ははたして、この後実りはあるのだろうか。いよいよ、明日には70歳になる。自分のことを3日間続けて考えてみたい。

 自分をやり尽くしたいという生き方は、高校生の時に萩野浩基先生から学んだものだ。自分の存在の果てまで行くために、パフォーマンスすることだといわれた。萩野先生は一世風靡セピアに影響を与えた人だ。そのときそのときを全力で生きること。

 私にとっては自分の絵を描き尽くすと言うことができるかどうかである。方角は中学の頃から変わらない。笹村出として生きていると言うことが、絵を描くと言うことになる。絵のなかに、わたしの生きている姿が現われるような絵を描きたい。

 何故絵を描くことが自分をやり尽くしたことになるか。日々の絵を描く手応えがそんな気持ちにさせているのかと思う。本来であれば、只管打坐でいいとおしえられた。座っているだけでその人をやり尽くすと言うことになる。

 私には具体的な形が無いと、自分と向かい合うことが難しかった。それは乞食禅だといつもこびりついていた。しかし、乞食は乞食として行き尽くすほか無い。それが絵を描くことを方角に定めた理由だろう。

 65歳の時に三線を始めた。音楽は好きではあったが、まともに取り組んだことは無かった。どちらかといえば、リズム音痴という自覚がある。記憶能力が低いという自覚もある。それでも三線をやってみることにした。65歳で新しいことがどこまでできるのか、試してみたかった。

 音楽の絵画とを比べると音楽の方が直接的でわかりやすい。好き嫌い、良い悪い、評価基準が成立しているとも言える。カラオケで点数化されたものもあくらいだ。西洋音楽では楽譜にどれだけ近づけるかが、重要なのだろう。

 八重山民謡では唄がどれだけその人であるかが大切にされる。唄では「タノール」があると言うらしい。しゃべるように唄うという。カラオケ点数で大工哲弘さんや金城弘美さんの唄のすごさは点数化できない。ただ聞けばその良さは分かる聞き手がいる。聞いて分かる、すごい聞き手が島中に広がっているところが八重山の音楽文化のすごいところなのだ。「タノール」の本当のところはまだ分からない。

 人間の声を聞くと100人くらいは誰だか聞き分けられるのでは無いだろうか。これがバイオリンであれば、10器ぐらいで限界では無いか。何故、大工さんの唄が心に響くのか。私の声は私である。この当たり前で、あるところまで行くと言うことが、タノールなのかもしれない。もう少し突き詰めてみたい。

 音楽は分かりやすいから、自分の成長というものが見える。それで三線に挑戦してみようと考えた。65歳を超えて楽器がものになるか。そして、自分らしい唄が唄えるようになるかである。人間の声にはどんな楽器にも勝るところがある。

 ともかく、自分という存在に興味がある人間なのだ。投資をするなら、自分以外には無いと考える人間である。自己中という言葉がある。そうではないつもりだが、そう思われても仕方が無いとは思う。人間存在が面白いのは、やり尽くした先のことだ。

 70歳までには石垣に引っ越そうと考えた。上手く引っ越すことができた。絵を描くことに何の不自由も無い。それはいつでもそうだったと思う。そのくらいすきなことを目指してに生きてきた。安心に暮らしている。ありがたいことだと思う。

 いよいよ、70歳からは絵の最終段階になる。本当に絵を描いてきたのであれば、ここから自分の絵を描ける年代に入ると思っている。絵は本当であれば、死ぬまで良くなって行くはずのものである。人間てそういうものなんじゃ無いか。正しい姿勢で方角を定めて描いていれば、前に描いた絵より悪くなるはずが無い。

 ところが、おおよその絵描きの生涯を通した絵を見ると、若いときの方がいい。40過ぎくらいからつまらなくなる。それは絵との向き合い方が悪いからだ。人まねでひねり出したり、好き嫌いで絵を進めたりしている人はそういうことになる。

 絵はそういう人間の日々の生き様を反映する。人間勢いで40歳までは生きられると言うことかもしれない。才能のある人はそこらで出尽くす。私にはたいした才能が無かった。そして自給生活に入った。そこから、すべてをやり直した。やり直し方が分からなかったから、まず自分が出来上がっているすべてを換えてみようと考えた。

 山北で自給生活を始めた。住む場所を山の奥に変えた。食べているものを変えようと考えた。食べているもので自分はできているのだから、すべてを自分の手で作り出すところからやり直してみようと考えた。

 少なくとも私の絵は若い頃より今の方が自分だと思う。若い頃がまるで良くないと言うこともある。要領よく人まねができなかったからだと思う。真似はしていたのだが、要領が悪かったのだ。嬉しい気分では無かったが、今思えばそれは幸運だったと思う。

 人生100年時代ならば、残りは最大30年である。わずかでも無駄にはできない。農業がなんとかできるのは75歳までであろう。ここまでは手作業の田んぼを継続してみる。タマネギ、大豆、麦もできる限り続けたい。まだ結論までやっていない感がある。

 小田原にいるときは農業に専念している。一年に5回小田原生活である。田植え前後が一番長く、一ヶ月半だ。一ヶ月くらいがあと2回。2週間ほど2回となる。合計日数で125日だ。四ヶ月小田原である。石垣島の八ヶ月が絵を描く。小田原の四ヶ月は絵を描くために必要なものだ。

 まだ田んぼや畑がある程度はできる。体が動く間はこの暮らしを続けたい。75歳を目標にしている。そのためには、体を鍛え、健康に留意しなければならない。今現在は田んぼでも畑でも衰えたと感じるほどのことはない。何とかあと5年やらせて貰いたい。

 石垣にいるときは絵だけを描く。絵を描くには他のことはない方がいい。石垣に移ったのはそういうこともある。しがらみがない。引っ越しをして知り合いができないという話を聞くが、知り合いが居ないからいいのである。友遠方より来るまた楽しからずや。

 
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8月の石垣島はお祭りの楽しい空気に満たされる。

2019-08-19 04:31:39 | 石垣島

この写真は私の家のすぐ脇の駐車場。ボクシングジムの前である。

 石垣島のお盆はソーロンと呼ばれる。明るく賑やかである。こんな時に、やっぱり南国にいるんだと思う。山梨の、うら悲しいような盆おどりとは違う。あれはあれで懐かしいわけだが。盆おどりは、周囲が完全な闇で、わずかな明かりの中、ご先祖を迎える祭りであった。

 
右端の挨拶をされている方が、青年団長の方。

 アンガマと呼ばれるお面をかぶった2人が町を練り歩き、町のあちこちで珍問答を繰り広げる。来て貰いたい家はお願いすると来てくれるようだ。もちろん来ていただくとお願いできるのはそれなりの家であるのは当然のことだろう。



 ウキウキした空気につられて、ついて回る子供も居る。あんまーが引き留めるのに大騒ぎである。太鼓が打ちならされる。三線が併せて弾き鳴らされる。アンガマの奇矯な高い声が遠くまで聞こえる。

 エイサーは沖縄本島のものらしく余り石垣では行われない。明石という集落が本島からの移住者の集落で、石垣では唯一エイサーが盛んなところのようだ。石垣には各地からの移住者がいるから、お祭りも地域地域で少し違うのかもしれない。



 私の家はまさに、石垣島の字石垣で、役員の方のお話ではイシナギラには昔からのお祭りが残っていると話されていた。イシナギラとは石垣と言うことである。そして最後にはみやとり御嶽でトゥズミという集まりがある。祭りを盛り上げた若者達がねぎらわれる。

 

 ねぎらわれるという趣旨であるとは聞いたが。踊りとアンガマの珍問答の披露である。まさに祭りの主役の方集大成のような、踊りの披露であった。これは地域の公民館の舞台で行われた。地域の公民館は建て替えが企画されている。


 
 石垣島のお盆の行事いろいろ難しい言葉なので、まだ覚えることができない。地域を太鼓を叩きながら、踊り手とアンガマが廻って歩く。若いい人たちである。男性も女性のいでたちである。

 わかりにくい新聞の祭祀記事をまとめてみると。
 最大の祭祀(さいし)行事はお盆の中日の「ムシャーマ」という。旧盆で帰ってきた先祖の霊をグソー(あの世)に送るウークイ(送り火)滑稽な珍問答で笑いを誘っうあの世から来てくれた。ウシュマイとンミー。

 仮装行列「ミチサネ」で農作業や漁の様子を再現、子孫繁栄と豊漁豊作を祈願するところがある。先導して歩くのがみるく様。棒(ボー)や太鼓(テーク)、舞踊や念仏踊り(ニンブチャー)など多彩な奉納で先祖を供養しミチサネが各集落を出発。稲の収穫を再現するマミドーマ、精米作業を表す稲摺り(イニシリ)、豊漁を意味する魚釣りなどを披露する。道化役のブーブザーが行列におどけたしぐさでいたずらをする。これは波照間のお盆の様子。

 13日のンカイ(迎え日)に始まる。伝統のアンガマが招かれた家々を回り、ウシュマイ(翁)とンミー(媼)があの世からファーマーを連れてきてくれる。15日のウクイ(送り日)、翌16日の獅子の霊力で悪霊を追い払うイタシキバラで旧盆を締めくくる。

 エイサーは1957年に始まり、ことしで61回目。石垣島北部地域三大夏祭りとしては4年目を迎えた。「2世、3世そして新しい移住者とともに『永遠の楽土』を目指し、みんなで頑張っていきたい」とある。 

 幕開けのエイサーでは、明石の住民や島外から駆け付けた出身者らが輪になり、夕暮れを背にエイサーや手踊りを舞う。 夏祭りの最後を締めくくるエイサーである。

 書いていても、何がどう行われるかはまだよく分からない。3日間青年団のアンガマの行列は夕方から夜中まで招かれた家々を1時間ごとに回る。これが3日間だから、なんと18のお宅がアンガマを招いたことになる。招く家は名前と住所と時間が新聞に出る。近所のものが尋ねる事ができると言うことかもしれない。

 最後に舞台の上で、高校生から、すべての青年団の方が一人一人挨拶をされた。高校一年生ぐらいではまだ少し恥ずかしそうであったが。それぞれがしっかりとした挨拶をする。石垣には挨拶文化が確かにある。

 参加してとても楽しかったので、来年もやりますと宣言するのが普通のようだ。おまえのお父さんは誰だと声がかかる。石垣○○だと答える。自己紹介と言うことなのだろう。石垣では誰の挨拶は良かったなどと話題になる。皆さんとてもしっかりと良い挨拶をされた。

 しかし、一つ不安だったのは、高校生の男子の参加は一人だけだったことだ。女性は10人ぐらいは居た。受験勉強があって、地域行事に出るのが難しくなっているのかもしれない。



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食糧自給率37%の国にくらす不安

2019-08-18 04:05:43 | 自給

 石垣島の宮良川上流。このあたりで鶏の声がしていたのだが。最近聞かなくなった。

 昨年度2018年の食糧自給率は37%であった。エネルギー換算である。過去最低である。食糧自給率の統計が取られた初年度の1965年が73%で一番高かった。その後一貫して低下して、このところは40%を切る数字である。

 世界は人口増加の一途である。そして耕作面積は減少している。食糧危機は迫っているのだ。日本は人口減少にもかかわらず自給率が低下している。自給率が50%を切るような国は自立した国家とは言えないだろう。

 自給率がここまで低いと言うことを深刻に受け止めるべきだ。韓国が、日本にICチップの製造材料を依存していために、大変な事態になっている。日本に経済圧力を加えるとすれば、食料であろう。

 政府は2025年に45%を目指すとしている。この数字でも安定して暮らすためには極めて低い数字である。中間目標である。日本ほど恵まれた気候の国であれば、100%の食糧自給率であるはずだ。その低い数字ですら遠のいているばかりである。これもまたアベ政権の薄っぺらな口先標語に過ぎない。農業軽視としか思えない。

 アベのミックスもダメであった。新しい産業の創出ができなかった。それでも、上手くいっていると総理府の文章には出ている。成功と言えば、見解の違いで責任をとるものはいないで済む。食糧自給率もできないでも誰も責任をとらないだろうし、国民も追求はしないだろう。これが良くない。

 理由が無いにもかかわらず、達成できなかったとすれば、誰かが責任をとるのがまともな社会だ。最終的には総理大臣の責任だ。最近の政治は適当で、できないでもおざなりでは無いか。保育園の方はどうなったのか。

 食糧自給率などたいしたことでは無いと思い込まされている。いつでも輸入できる。アメリカが売らないというなら、ブラジルから買える。オーストラリアから買える。この考えが間違いなのだ。中国が食糧輸入国になった。インドやアフリカの人口増加は深刻なものだ。地球は食糧危機が迫っている。日本は人口減少しているから、この点で鈍感ではないか。

 戦争で一番つらかったのは食糧不足であったと、父も母も常々話していた。父は中国の最前線での7年間兵隊生活であった。その7年間の戦地の方がまだ食糧事情はまだ良かったそうだ。戦後の食料不足は深刻で、アメリカの食料援助が無ければ、恐ろしい飢餓が起きたはずだ。

 両親は今は米軍に接収された、相模原で開墾をして食料生産を戦後始めた。それでかろうじて食料を確保して生き延びた。その開墾で父と母は出会った。母の実家の向昌院では子供を東京に出すために相模原で開墾を始めた。

 叔父達3名に僧侶になるために開墾をしながら駒沢大学に行けというのであった。東京の父の家は食料が無いから、相模原で開墾を始めた。そこで父と母は結婚することになる。農業をしたことの無い父の家を、母が手伝ってくれたのだ。

 父の弟は稲作の研究者であったのだが、実際の食料生産には役に立た無かったらしい。父はそもそも畑をできなかった。東京芝に生まれ育った父には畑仕事はできなった。母ひとりが耕作者として活躍したらしい。おじさんも駒沢大学に行きながら、手伝ってくれたそうだ。

 母は実家の向昌院が自給生活をしていたから、百姓の自給能力は高かったのだ。その後、母は山北で挑戦した私の開墾生活もずいぶんと助けてくれた。私も向昌院での暮らしで自給生活はいくらか身についていたので、山北の自給生活は楽しい暮らしだった。

 自給に一番重要なことは機械でも農地でも無い。人間である。農業に携わる人間が第一である。相模原の開墾地の一角に兄妹で耕作していた人がいたそうだ。サツマイモの苗を植え方さえ知らなかったので、叔父が変わって植えてあげたのだそうだ。

 ところが水が無い場所でサツマイモは枯れてしまったそうだ。そして結局は妹さんが飢え死にをしてしまった。同級生に栄養失調で死んだ子供がいた。そんな時代が本当にあったと言うことが分かっているのだろうか。農地があってもやり方が分からなければ食料はできない。そういう当たり前のことが、今深刻になっている。

 子供の頃池田勇人という大蔵大臣がいて、貧乏人は麦を食えと答弁して大騒ぎになった。しかし、いまや国は貧乏人も大金持ちもコメを食えと言ってもいい事態だ。まずは、コメを消費税から外す。国の安全保障のためだ。一日に玄米2合と宮沢賢治は詩を書いた。コメさえあればなんとかなる。コメの作り方が分からなくなれば日本は終わる。

 稲作はこのまま5年もすると、大きく変わるだろう。70歳を超えた農業者の年齢はいよいよ、耕作不能年齢になる。田んぼをやれる人がいなくなる。これからの5年間に新しい農業をやる人を作らなければ、日本は食料生産のできない変則的な国になる。

 日本人の暮らしは体を動かすことから、頭だけを動かす仕事に変わり始めている。農業から離れた日本人は体を使う仕事を嫌うようになっている。外国人労働者が日本の農業もやるようになるのかもしれない。しかし、それは労働者を雇用するような大規模農業企業であろう。日本の農地の多くは中山間地の農地である。耕作不利な農地は急速に放棄されるだろう。そして地方は消滅する。

 特にこまめな水利管理の必要な小さな田んぼは維持できない可能性が高い。それは小田原でも同じ事だ。最近お隣の田んぼの下田さんが亡くなられた。同い年で一緒に自治会をやらせてもらった。私の後の自治会長である。農協に勤められていた方である。久野でも古い家で、広い農地や山をもたれていた。

 誠実で熱心な方で、ずいぶんと助けられた。自治会長をなんとか私のようなよそ者ができたのは、下田さんのおかげである。下田さんは広く田んぼを耕作されていた。自らコツコツと農道を作り、水路を整備され、楽しそうに田んぼ作りをされていた。信頼できる下田さんに耕作を依頼する人は増えているところだった。

 この後どうなるのだろうと思うと、呆然とする。全国に広がっている不安であろう。どう引き継ぐかが、現時点での農地の一番の課題だ。団塊の世代が農業ができなくなる、あと5年がタイムリミットである。政府は45%に自給率を増やすと言いながら、無策である。無策であるから、自給率が下がるのである。食料を忘れている総理大臣の国の不幸。

 国が責任を放棄している以上、次の世代につなぐ方策を、全国でそれぞれの方法で当事者が編み出すほか無い。子供がやってくれると言う人は幸運であるが、全体としてはもうそうした継承は考えられない時代だ。次の人をそれぞれが見つけ出す以外に無い。

 私のように30代で農業に入ったものですら、次に引き継がなければならない切羽詰まった状況である。あしがら農の会では次への引き継ぎが始まっている。あしがら農の会は緩やかな連携の中で、次にやりたい人が加わりやすい環境を作っている。

 初めてでも一緒に田んぼができる条件がある。1万円の会費で120キロのお米が配布できる。これが25年継続できた。だから未来にもつながっている。16家族の新規就農者も育った。農の会は仕組みである。良い仕組みがあれば、素晴らしい人が自然に集まる。

 地域の優秀な農業者が助けてくれる。農業の研究者も助けてくれる。農地の紹介など行政の支援も受けやすい。未来に農業を継続するひとつの方法だと思う。小さな競争力の無い農地を継続するひとつの方法である。あしがら農の会の仕組みを研究して、利用して貰いたい。

 農の会の仕組みは小田原では上手くいった。多分都市近郊では可能な方法であろう。それぞれの地域に合う方法を、農業者自身が見つけるほか無い状況である。国は農地法を変え無ければならない。しかし、もうそんなことを待っている時間は無くなっている。


 

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やっとテレビ時代が終るようだ。

2019-08-17 04:39:59 | 暮らし
 
 
 
 やっとテレビの時代の終わりが来たようだ。団塊の世代はテレビによって作られた、テレビ世代だろう。まずはテレビのスイッチを入れるという人が多い。今の若い人がスイッチを入れるのは、スマホかパソコンなのだろう。

 テレビというものは1950年代、子供の頃できた。今となってはテレビが無かった時代を記憶している少数派である。子供の頃テレビが無かったおかげで、山村の暮らしを堪能することができた。せいぜいラジオの相撲ぐらいである。テレビを見るようになったのは、東京にいた高校生のころだと思う。

 相撲を見て驚いた。ラジオで想像していたものの方がすごかった。人間の聴覚から得ている情報というものが、視覚的情報が加わることで、つまらなくなる。人間の声というものはすごい情報量だと思った。

 テレビはそろそろ社会の決定的要素ではなくなろうとしている。良かったと思う。やっとこの日が来たと思う。世界を悪いものにしたひとつであろう。しかし、テレビを駆逐しつつあるインターネットというものは、いいのか悪いのかまだよく分からない。

 私がこのブログを必要に書いているのは、インターネットを一人ひとりが全世界に発信できる方法だと信じたからだ。民主主義が一歩進むかもしれないと考えているからだ。マスメディアでは無く、私信の力が発揮できる世界が来るかもしれないと思っているからだ。

 私の絵も自分なりに納得ができるときが来たら、インターネットで発表できればと考えている。もちろん誰がどんな利用法をしてもかまわない。私の絵が売られていると先日、水彩人の仲間が教えてくれた。それは誰れかが印刷したものだった。

 こういうことも全くかまわない。私絵画では描くことが主たる行為なのだから、その後のことはどうでもいい。インターネットと高度の印刷技術で、商品絵画の時代が終わってくれればと思っている。
 
 テレビというものが今の社会を作り出した。トランプも、プーチンも、習近平も、そしてアベ政権もテレビから生まれた、アニメキャラクターのようだ。まるでテレビCMで流される商品のような気がしてくる。売れ筋商品のようではあるが、一過性の商品の匂いがする。
 
 と言っても最近はテレビを見ることが少ないので、今時のCMと言うものは良くは知らない。ネットではこのブログにもCMが入る。ここに入るCMはお金を払えば消すことができるという。しかし、無料という所が、ネットの良さだと思うので、有料でCMなしを選択しない。

 テレビよりネットの方が好きなのは、見る側が選択を自分でできるところだ。テレビは気に入らないものでも、なんとなく見せられてしまう。馬鹿ばかしいと思いながら、くだらないテレビを見てしまい、いやな気分になることがままある。

 人間は習慣に弱い。私の場合、NHKの連ドラが習慣である。あれを見終わると絵を描き始める。団塊の世代なのだろう。将棋も見るが、将棋はテレビでは見ない。ネットでいくらでも自由な時間に見れるからだ。連ドラもネットでいつでも見られるようになるとしても、見るかと言えば、多分見ないだろう。
 
 ネット広告というものがテレビ広告を経済規模で逆転した。ネット広告というものはまるで行動に即して、表示される。絵の色をおかしくしないライトは無いかと言うことで。スポットライトのライト色の種類を調べた。途端に、スポットライトの広告ばかり出るようになった。
 
 この広告の出し方であれば、ネット広告の方がテレビよりも効果は高いだろう。だから、めざといに違いない広告主はネット広告に力を入れるようになったのだろう。そうなると、ネットのビックデーターを使いこなした、広告会社のものが有利と言うことになる。
 
 ネット広告業界では、情報を欲しい人に、的確にCMを送れるようにしのぎを削っていることだろう。こうした手法はドンドン洗練してゆくに違いない。知らないうちに、他社の製品の問題点をすり込んでゆくとか、欲しくもないものを欲しくさせる方法なども出て来ているのだろう。

 映画の中に、見えない映像が仕込まれ、コカコーラが飲みたくなるように仕組まれた事件があった。サブミナル効果と言うらしい。インターネットの刷り込み効果については、今後社会を動かすぐらいのものになる。

 ネットでは文章の中には、巧みに宣伝を織り込んで、広告をしていると思われるものがある。口コミとかレビューと言うものがあり、使用後の感想が沢山書かれている。これも宣伝の一種と考えていいのだろう。まだまだネット広告は開拓時代だ。
 
 ともかくこんな具合でテレビが終リ始めている。ネットの方が深刻な社会的影響の問題が潜んでいるのではないかとは思うが、当面のテレビの行った政治の堕落を思うと、テレビの終わることが嬉しくなるので、後のことはともかくまあ良かったと思う。
 
 アベ政治というものはネット的政治に切り替えが早いだろう。テレビ的政治からの乗り換えが早いものが選挙に勝利する。れいわやN国はテレビでは無く、ネットで勝利したのだろう。テレビによって政治に無関心になったと言うより、意識して政治に無関心にさせたのだろう。投票率が下がるほどに、ネットの影響は強くなる。

 今回の韓国との経済戦争はまるでネット上の争いのような気がする。韓国が何をすれば、嫌がるかが実に巧みである。計算尽くである。とことんシュミュレーションされているようだ。まるでコンピュターゲームのようで人間の痛みというものが感じられない。今第2段階まで来たところのようだから、もう一段階あるのだろう。
 
 アベ政治を木偶人形芝居一座と批判してきたが、その脚本づくりはコンピュターのビックデーターに基づいている。コンピュターシュミレーション原稿なのだろう。練りに練っていた案が、実行されているように見える。

 その目的が憲法改定だとすれば、日本には第3段階の手段が考えられているはずだ。つまり軍事的緊張を高める手段である。日本の漁船が拿捕されるとか。こういう政治手法がテレビから、ネットに変わったと言うことでは無いだろうか。

 韓国は読み違えていた。だんまりを決め込めば、済むと考えていたのだろう。あるいは動きがとれなくなっていたのかもしれない。韓国の反応は、余りに単純で攻撃が無い。シュミュレーションが無かったにちがいない。

 政治も経済も、テレビとネットが入れ替わって行く。

 
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