地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

一人では何もできない性格

2024-04-30 04:03:06 | 自給


 一人では何もできない性格にちがいない。今でも畑仕事をコツコツ一人でやり切るような気力がない。生産者としての農業者には向いていないのだろう。このようにブログを何年も続けるような、ひつこいところはあるが、今は畑仕事は誰かが来ないと始める気になれない。

 みんなでやるとなると、俄然やる気が出てくる。みんなでやるなら、結構頑張れる方だと思う。ダメでもいいジャン。が座右の銘なのだが、どうも「ダメだからいいジャン」だったようだ。一人ではやれない性格なので、みんなの力を借りる。それで、協働で取り組むことが出来たのだと思う。

 人目を気にするとか、人の役に立ちたいとか、そういうものとも違う、一緒なら頑張る気力が湧いて来る。みんなでやる農業を目指ざしてきたのだと思う。一人ではやる気が出ないから、みんなを誘って、楽しいグループ自給をやってきた気がする。一人ではやれない事が良かった。

 今でも小田原で一緒に、ジャガイモを作り、タマネギを作り、小麦を作り、お米を作っている。足手まといにならない内は続けた。石垣島でもみんなで「のぼたん農園」を作っている。一人では始めたはずもない。みんなでやるのが楽しいから、やらないつもりだった石垣島の農業も始めたに違いない。

 なぜみんなでやると、出来るのかと思うが、石垣島の暑いときに農作業をやるのは、危険なほど厳しい。それでも、年寄りが汗をかきかきやり切ろることが出来るのは、一人ではないからに違いない。一人ならまず始められない。先日の水源の森づくりも、大勢が来てくれたから、やり切ることができた。一人では始めることさえできなかっただろう。

 人間という動物は、太古から群れで暮して来たのだ。みんなで力を合わせて、逃げ回りながら、ずる賢く協力をして餌を探し、生き抜いてきた。力を合わせることが出来たから、今まで生き抜くことができたに違いない。そうでなければ、非力な人類はどこかで死に絶えただろう。最近みんなで出来なくなって、生存が危うくなってきた。

 そう考えてみれば、人間は群れでなければ、気力が出ない方が、普通なのかもしれない。世間では一人でやり切ることが普通のような立派な人もいる。「私は一人でも農業ができる」とえばった人がいた。そういうけた外れの人もいるが、普通の人はみんなで力を合わせる道の方が、力を出し尽くせる気がする。一人で出来たら、今度はみんなでね。

 確かに、自給自足に入ったのは一人でやる自給だった。これは切羽詰まった自分の建て直しのようなものだったから、一人でやる以外になかった。回りにいた人も、協力はしてくれたのだが、自分としては、協力者がいるとかいないとかは、自分が自給農業をやり切ることとは関係がなかった。

 人間一人が、自分の体力だけで自給自足に生きることが出来るのかを試すことが目的なのだから、協力者はその人自身の自給の為にやっているのだろう。と思うばかりだった。ともかくわき目を振る余裕もなく、一人の自給を目指した。そして3年、4年、5年が経過したときに、何とか自給が出来ていた。その時の安心は忘れることができない。

 田んぼは2畝に広げた。田んぼで麦も作った。大豆も畔に作った。他に畑が5畝ぐらいあった。そして養鶏業をやった。この形が、今石垣島でやっている「のぼたん農園」原型である。ここで家族4人で暮したのだ。自白すれば、4人分の自給は出来なかったと思う。厳密に言えば、3人分ぐらいだ。

 山の中に行ったら、また鶏を飼う事だけは決めていた。趣味で飼い始めた日本鶏がだんだん養鶏業になり、なんとそれで生計を賄うようになった。まさか養鶏を生業にするなど思いもしなかったことなのだ。これこそ、家族4人だからできたことだと思う。

 実はここからが今日書こうと思った主題だ。絵を描くことも一人ではできないと考えている。ゴッホだってそうだったのだ。絵は究極の一人の芸術のように見える。どうやってみんなで絵を描くのかという事になるが、そういう事を本当に大学の時にはやっていた。絵を描き継ぐという俳諧連画である。

 180㎝角のキャンバスを置いて置き、それを自由に描き継いでゆく。その過程が芸術行為だと考えたものだ。4月1日に死んだ。何かが身に染みてきた。坪田紳二さんが考えたことだ。彼はコンセプチュアル・アート を追求した。日本でもいわゆる概念藝術が流行していた時代があった。新しい動きを彼から教えてもらった。

 坪田さんは理屈っぽい人で、絵を描くのでも絵を描く意味論を常に口にしていた。実際には抽象表現主義的な絵を描いたのだが、かなり達者な絵を描く人だった。どういう絵が見栄えがするかという事を良く分かっていて、そういうものを描こうとすれば幾らでも描けたが、絵はそういうものではないと、何かグルグル考えていた。

 その考えていることを語り続けるのだが、私には正直よくわからなかった。分からないなりに、ずいぶん教えられた。家は金沢にあるにもかかわらず、私の下宿に転がり込んできて、一緒に暮らしていたので、一晩中訳の分からない絵画の概念の話を聞かされていた、ということになる。

 そう難解な本の解釈を、彼から随分聞かされた。九鬼周造「「いき」の構造」などという本を読んでいた。彼は凄い自信家であり、またすごい臆病な、優柔不断なところのある人間でもあったと思う。彼は自分というものを持て余していたのかもしれない。

 大学を出てからも、横浜のBゼミに通うので、東京の私の家にいたこともある。そして京都に行き、いろいろやっていたので、時々京都にゆき、京都の美術関係の人など紹介してくれた。それはたぶん、フランスから帰ってからの事になる訳だ。

 そのうち版画の仕事を始めて、東京の作家の作品を作る仕事を紹介してあげたりした。しかし、なかなか気難しい性格なので、仕事としてやるのは難しい感じだった。そうして少し縁遠くなった。それには理由があるのだが、そのことはここには書けない。

 そして金沢の自分の家の場所で、現代美術の画廊を始めた。それでも時には訪ねた。いよいよ気難しくなっていて、話していることを理解するのが、昔以上に難しくなった。声が小さいから、耳が遠くなってきている私には、半分くらいしか聞き取れないのでなおさらである。
 
 一度共同制作のことの意味を、もっと私なりに話しておくべきだった。あの考え方は面白いと今でも思う。描き継ぐという事はそこまでの制作を理解しなければできない。その上で自分の絵を描く。そこに、ほかの人が描き継ぐ。コンセプチュアル・アート的に考えた場合、どんな意味があったのかと思う。

 あれから、結局のところ、水彩人で絵を描くことは一人ではできないということを、継続している。私絵画を標榜しながら、ある意味の自己矛盾である。結局は一人ではやれないという、弱い性格からみんなでやろうとしているのだろう。ダメでもいいジャン。という事になる。

 一人では何もできない人間にとって、坪田さんとの金沢大学の美術部での出会いは、大きな意味があったことだった。彼から得たものが何であったかは分からないが、いま『私絵画』に出会った一つの要因なのだろう。冥福を祈るという事も坪田さんには似合わない。ジャーまた。というぐらいの別れだろう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京での絵の展示

2024-04-29 04:17:06 | 水彩画


 絵の展示をさせて貰った。東京三軒茶屋のキャロットタワーのオフィース棟ロビーである。これから時々絵を架け替えるつもりだ。なにかこう書いていることも緊張する。こんなことをしていいのかという気持ちの迷いがある。迷ってはいたがやってみることにした。

 石垣島に暮らしていると絵を実際に見てもらう機会は無くなる。絵を見る機会もなくなる。何か絵を展示する方法がないか考えていた。個展をやるという事もあるが、個展をやるのは辛すぎて嫌なのだ。個展の会場にいる自分に耐えがたいものがある。絵を販売している形が嫌なのだ。

 春日部洋先生は個展は、いつも俎板の鯉だと言われていた。だから画家にはその試練が必要なのだ。お前も個展をしなければだめだと言われた。日動の個展のオープニングセレモニーの際、誰一人会場に人が来なかったことがあり、あのときは辛かったと先生は言われた。

 私にもそれに近い辛い個展が何度もある。絵を売らなければ、画廊に申し訳ないし、毎月個展をしていれば、だんだん絵は売れなくなる。絵を商品として描いているわけではないのに、なぜ商品として売らなければならないかが耐えがたかった。日本では絵画はあくまで商品なのだ。

 最近の個展会場で聞く言葉が、「おめでとうございます」何がおめでたいのか。そんな言葉を発する、あなたがおめでたいのだ。個展の意味を誤解しているのだ。個展の開催はどこもおめでたくなどない。個展会場は自分をまな板の上に載せて、さあー腹の中を見てくれと言っているのだ。見に行く人は介錯人だ。

 画家の一期一会の切腹の場だ。それを結婚式か何かと間違っている。まあ結婚も地獄の入り口の場合もあるから、おめでとうございますというのは、ある意味正しい言葉かもしれない。地獄でもがいていて、おめでたいですね。と絵描き地獄ののたうち回りを良しとしているのかもしれない。

 それで、銀座の文春の会場で最後の個展を、生前葬として切腹個展をして、2度としないことにした。何度も切腹は出来ないと思ったわけだ。あれから30年以上たつだろう。当初は画廊の方から個展を開きたいという話はそれなりにあったのだが、やらないできた。もちろん今は音沙汰もない。

 個展を止めて、発表は公募展だけという事で来たのだが、水彩人展は絵の研究会としてやっていたので、自分としては研究の場だと考えてきた。画廊を1日だけ借りて、水彩人の仲間で絵を展示して、互いに絵を語る。「絵を語る会」を開催してきた。この形は私には良いものだった。

 「絵を語る会」はコロナの為に中止になった。コロナは本当にひどいことであった。生き方まで捻じ曲げられた。またやらなければと思ってはいる。思ってはいるが、石垣島に居て、東京で絵を語る会を開催するのはかなり気が重い。できない訳ではないので、やるべきだ。本当にまたやろう。

 それはそれとして、絵を展示するという事を自分に課さなければいけない状態になった。その機会が来た。キャロットタワーのロビーに絵を展示させてもらえることになった。絵を展示して見てもらうだけで、販売はしない。絵は商品ではなく、自分の探求の為に描いているものだからだ。

 展示させてもらう時に、久しぶりにドキドキした。昔々、公募展に絵を搬入したときのような、あるいは個展の初日のような気持だった。どうだろうか、飾ってみっともないことはないだろうか。心配で仕方がなかった。自分の絵がむき出しになるような気がした。

 このドキドキ感が、自分に必要なものだったという気がした。誰もが入ってみることが出来るから、是非東京に近い人は見て頂ければと思う。生の絵はやはり、映像とは違う。肉声と電話では伝わるものが違う。キャロットタワーは世田谷パブリックシアターのあるビルだ。地下鉄半蔵門線の三軒茶屋を降りて、駅に続いているのですぐわかる。

 そして、絵の感想をメールで貰えればと思う。先ずそこまでしてくれる人は居ないとは思うが、一応その気持ちで、絵を展示するという事にしている。切腹まではいかないが、腹の底は見せているつもりだ。実は、バーコードを名前の横に付けた。それが私の、ホームページに繋がっている。

 ホームページから、メールが送れるようにしてあるので、そこから意見は送信できる。販売をするためではない。責任の所在が分かるようにして置いた。新しい形の絵の展示法のつもりだ。どんな人間が描いたものかわかる方がいいかと思ったのだ。絵との一つの出会いだから、連絡先もある方がいいと考えた。

 絵は462「英太郎さんの田んぼ」2024.4中判全紙である。つい先週描いた絵になる。こういう形で、季節ごとぐらいに架け替えてゆきたいと思っている。これが5月からの展示であれば、7月末、10月末、1月末、そして4月末と架け替える気持ちで、それを目標に絵を描こうと思う。

 10年やれば、40点ぐらいにはなる。これは水彩人展の出品作と同じくらいになる。10年の間に少しは自分の絵になっているかどうか。そんなどこか切羽詰まった気持ちで、展示を続けてゆくつもりだ。もちろん展示に意味があるというより、それに向けて描くという自分に意味がある。見てもらうつもりで描く。絵を描くうえではこれが重要なことなのだ。

 そう思って、ブログでウエッブ展示を続けている。ただ描いているというよりも、大切なことなのだが、どこかで生の絵も出さなければという気持ちになった。緊張をすることが必要だ。このやり方はさすがに怖い。絵を描く気持ちを真剣勝負にするところがある。その為ではあるが、さすがに今回壁にかけるまでは怖かった。今も思い出すと落ち着かない。

 ロビーは静かな灰色の空間である。絵の下に小原流の生け花が飾ってある。これが何と毎週生け花が変わるのだそうだ。その生け花の上の空間に架けさせてもらった。空間が変わったと思った。とても華やいだ。色彩というものは凄い。私の絵の力というより、色彩の力がすごい。

 生け花の静かな世界を壊したようではあるが、ある意味互いに生かしたという事も言える。良い場を頂いたと思い、全力で挑んでみようと思う。何をどうしようが、絵は結果次第だ。絵がどこまで人間の奥にまで迫ったものになっているかは、これから展示してゆく絵を見ればわかる。

 絵を見れば、何かが分かる。それが絵の良いところだと思う。一日を生ききるという事は、難しいことだ。出来ているのか、そうでないのか、なかなか確信が持てない。しかし、絵には現れてくる気がする。10年前の絵、20年前の絵、そして1年前の絵。そして今日描いた絵。動いている。

 描いた世界の違いがそこにはある。世界が出来ていないという事もわかるし、世界が見え始めたという事もわかる。絵がだめであるという事は、絵との向かい合い方が、悪いという事になる。只管打画になっていないという事だ。今日をただひたすらに生きる。その実態が絵には現れる。

 絵がダメであれば、自分という人間がだめになってきた表れだと思って気を引き締めてゆく。日々絵を描く精進をして、自分の奥底までやり切りたいと思う。その為なら、少々恥ずかしいこともしても大丈夫だ。そう思って、ロビー展示を始めることにした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

209 水彩画 日曜展示

2024-04-28 04:41:03 | 水彩画
 209 水彩画 日曜展示







467「夜の海」
2024.4 20号







468「樹木」
2024.4 20号







468「妙高山」
2024.4 中判全紙









469「草原」
2024.4 中判全紙










470「カキツバタ」
2024.4 中判全紙









471「篠窪」
2024.5 中判全紙









472「岬」
2024.4 中判全紙









473「伊豆」
2024,4 中判全紙


 小田原で描いたものだ。雨の日にゆっくり描くことができた。小田原で絵を描くのと、石垣で絵を描くのでは違うものがある。気持ちが違うという事が、絵に現れてくる。場所を変えてみるのも悪くないなと思った。絵が良くなったという事でもないのだが、新鮮な気持ちで描いていた。

 小田原に来て描くと色が変わる。小田原の色は静かで、調和がある。納まりが良い。ただただ美しいと言ってもいい。今回は春のみどりの美しさに圧倒された。舟原ため池に行き絵を描いていたのだが、咲き乱れているカキツバタは驚くほどの見事さだった。

 もっと描いてみたいのだが、今日はお茶摘みでダメだが、明日時間がとれれば、もう一日描いてみたい。あの溜池の景色の中にいるという事は、とてもいいものを受け取っているような気がした。もっと体の中にあの世界を取り入れて帰りたいと思う。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生成AIの問題とは何か

2024-04-27 04:06:34 | Peace Cafe


 生成AIには問題があるので、世界的なルールを作り、制限を加えなければならない。というようなことが言われている。バイデン米大統領からの指示を受けて助言組織を立ち上げた。米オープンAIのサム・アルトマン最高経営責任者テック企業幹部が、米国土安全保障省がつくる人工知能(AI)の安全利用に関する助言組織に加わることになった。

 安全利用の意味が私にはよく分らない。必ず犯罪にも利用されるに違いない。生成AIは特別に優れた人間の頭脳のようなもので、しかも進化を続けるものだ。優れた人間が人間を滅ぼすものを作ってきたのだ。生成AIだって少しも変わらないだろう。
 多分著作権の問題があるといいたいのが企業の発想だろう。著作権などいらないと考えればいい。例えば将棋のプロが行う一局に著作権が存在するかの裁判があった。存在しないが判決である。AIソフトの対局する将棋など、人間をはるかに超えた名局が無限と言えるほど存在出来る。その一つ一つに著作権など主張しても無駄なことだ。

 将棋の棋譜を誰が公開しても良いという判決だ。当たり前の事だろう。これはあらゆるゲームに言えることだ。ゲームの結果や様子、あるいはその解説、どれも自由に公開してかまわないのは当たり前の事だ。それで将棋のプロが生活できなく成るどころか、将棋はかつて無いほど隆盛である。

 何にでも著作権を持ち出すこと自体がおかしいのだ。こうして将棋はAIより、人間が弱くなり、その結果藤井聡太ブームになり、将棋界は以前よりも隆盛である。その素人が勝手に行う棋譜解説も、奥深い分析の伴う解説がいくらでもある。その解説自体が楽しめるものになっている。

 何故解説が深いかと言えば、AIソフトを用いて分析しているからだ。何故ここで、失着が出たかなど、その先の読みの分析がなければ分らないものだ。この分析を聞きながら、棋譜を見ていると、ただ実戦を見ているのと違う面白さがある。新しいエンターテイメントだと思う。

 いつも思うことだが、憲法裁判所を生成AIで作って貰いたいものだと思う。憲法に従って正しく法律が出来ているか、運用されているかを、AIによって客観的に、論理的に、正確に判断して貰いたい。本来法律解釈のようなものは客観性が重要になるから、AIの得意分野のはずだ。

 憲法が政府の無理矢理の拡大解釈で、ねじ曲げられているのはどう考えて不愉快この上ない。憲法の解釈を、生成AIが行って問題だというのは、あまりに客観的に正しい判断があると、権力者が都合良くごまかしが出来ないと言うことでは無いのだろうか。

 生成AIがもっともらしく間違ったことを主張するので、人間がそれを鵜呑みにしてしまうと言うようなことが言われる。それは人間側の問題で、生成AIの問題とは違うだろう。そんなことが問題とも思えない。別段、生成AIでなくとも、もっともらしい人間が詐欺を働くと言うことがある。

 テレビのコメンテーターが間違ったことをしゃべって、見ている人が騙されることがある。AIを特別視するほどのことでもないだろう。例えば大谷選手が通訳にお金をだまし取られたのではなく、大谷選手が不正賭博をやっていたとコメントした人が多数いた。これはすでに人権侵害だ。公の場で発言した人は犯罪者として告発すべきだ。

 犯罪者がAIを使って、より巧みな犯罪を犯す。これも一義的にはAIとは関係が無い。金儲けする人間が、AIを使って株式投資をする。当たり前の事だろう。自殺する人が、AIを使ってその方法を調べたからと言って、AIの問題ではない。

 大学生が論文をAIを使って、書いてしまうので困る。これも困るのは先生とその大学生で、別段社会にはどうでも良いことだろう。会社で社員が金儲けの方法をAIから教わって、それで良い営業成績を上げれば、それは評価されることになる。

 ネットで生成AIの犯罪事例を見ると以下のものが揚げられていた。
 ①サムスン:社内ソースコードが生成AI経由で外部に流出
 ②香港の多国籍企業:ディープフェイクの同僚に騙され38億円送金
 ③ニューヨークタイムス:記事が学習されたとしてオープンAIを訴訟
 ④米国の作家:著作物を学習されたとしてオープンAIを訴訟
 
 どれも、生成AIを利用した人間の犯罪で、生成AIそのものの犯罪とは言えない。著作が学習されている間はまだいい。その作家は利用した方が面白言うことで、生成AIを利用して、著作物を書くようになるだろう。推理小説など、生成AI作家の方が、素晴らしいものを書く可能性が高い。

 脚本家など、原作をどのように映画化するかなど、明らかにAIの方が旨いに違いない。主演俳優が決まる。見る人の層を想定する。様々な条件を入れて、AIに脚本を書いて貰えば、人間が書くより手際が良いに決まっている。少なくとも、AIを利用して、脚本を作るというようなことは当たり前になる。小説を、セリフで生成する。こういうことだって、AIなら出来るだろう。

 これから世界は生成AIをどのように利用するかである。制限を加えるのは、既得権を守るためだろう。それは後ろ向きな方策に過ぎない。制限をいくらしたところで、既得権を認めない国がそれを打ち破るはずだ。制限をしている国が競争に勝てなくなるだろう。

 先日、朝日新聞の広告で新聞社が蓄積した校正ソフトを売り出したとあった。是非、この校正ソフトで、まず過去の朝日新聞の記事をチェックしてみたらどうだろうか。結果的にフェークニュースだった記事がどれだけあるかが分かるのだろうか。校正は誤字脱字だけではない。

 校正とは文字の使い方などは小さな問題で、記事の真偽こそ校正する必要がある。何故、その時点で間違ってしまったかの検証に使える、校正ソフトが出来るはずだ。それが生成AIの可能性だと思う。生成AIの正しさの追求こそこれからの社会に必要なことになるだろう。

 正しさが一つではないこと。究極的には人間とは何か。と言う思想哲学にも踏み込んで行くことだろう。こういう問題を考える上でも生成AIは、社会を変えて行くはずだ。生成AIを利用して、宗教を装うお告げと言う形で、お布施を稼ぐなど、すでに現われているのかも知れない。

 しかし、藝術としての絵を描くと言うことを考えると、生成AIが出来たからと言って、何の影響も受けないだろう。「私絵画」は自分というものの探究である。自分が何ものであるかを、生涯絵を描くことで、生きて行こうというものだ。これだけはどれほど優秀な生成AIが出来たとしても、役に立つことはない。だから次の時代の絵画芸術は「私絵画」だと主張している。

 結局の所、企業の考え方に問題がある場合や、社会における差別現状など、人間社会の問題点を、生成AIも影響を受け、こうした企業の倫理の欠落の問題や、社会における様々な差別問題を、巧みに助長することになるおそれは高い。すべてはAIと言う機械の問題ではなく、人間の問題である。

 人間がAIを上手く使いこなす以外にない。人間が倫理を失っているが故に、ひどいことが起こるわけだ。AIは人間の問題点を広げて行くだろうと言うことだ。悪いやつが、AIを使って大きな犯罪を犯すと言うことは増えるだろう。それを防ぐには、人間がまともにならなければならないと言うこと一つだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どうでも良い小池知事カイロ大学問題

2024-04-26 04:19:05 | Peace Cafe


 本当にくだらないことが持ち出されている。小池知事がカイロ大学を卒業していようがいまいが、どうでも良いことだろう。小池さんという人はよほど嫌われる人なのだろう。自分が自分がと目立つためなら何でもやるという、鼻持ちならない人間性が、耐えがたいのだろう。

 選挙が近づ繰返し繰返し因縁を付けて足を引っ張ろうという動きが出てくる。小池知事が大学を出ていないでも全く問題が無い。卒業問題よりも、それを取り上げる週刊誌報道のほうが気になる。こんなことで商売になるというのが、小池氏の不思議な人気なのだろう。

 学歴詐称のウソをついたとすれば、たしかにそれは良くないが、それももう40年も前のよく分らない話だ。カイロ大学に在学していたことは確かなのだ。それで十分ではないか。そういう変った履歴を売りにして旨くのし上がったわけだ。

 世間が女の子がカイロ大学。という興味本位を上手く利用したのだ。卒業していないと大学の同級生が証言しているが、その女性は小池さんほど、有名にはならなかった。小池さんはそれだけでは無い、すさまじいタレント根性があったのだろう。

 小池知事が行ったことで、都知事として十分だったかを、評価をすれば良いだけだろう。東京オリンピックは、コロナパンディミックの最中で、選手はよく頑張ってくれて、素晴らしいものだったにもかかわらず、残念ながら若干煮え切らないものになってしまった。

 私は腹が立つのは、外苑の森を切って、マンションにする話だ。都内の樹木はできる限り残すべきだろう。すでに人間らしい暮らしが出来る場でなくなっている。これ以上木を切ってしまえば、見苦しい暮らしにくい都市が、さらにひどい都市になる。むしろ都市に植林をする必要がある。

 西の大都市大阪は、万博もカジノも煮え切らないことになっている。小池都知事も維新の会も、政治的野望のために何でも利用しようと言うだけで、政治の理念がないからだ。もう少し暮らしのことを直視すべきだ。都会は食糧自給を、食の安全保障をどう解決するきなのだろうか。私は不安で東京も大阪も住めない。

 小池知事も政治的な野望ばかりが目立つが、政治で何をやりたいのかがよく見えない。まだ都知事を続けるらしいから、権力欲のようなものがよほどの人なのだろう。維新の会の動きも、都民ファーストの会の動きも、都会の政局がらみばかりだ。話題性が狙いとしかおもえない。だからこそくだらないことで足を引っ張るのではなく。その政策の問題点で論争をすべきだ。

 石垣島という、都会からは遠いい場所で暮らしていると、しらけるばかりである。2019年12月初旬 武漢でコロナは人間に感染をした。石垣島にクルーズ船がきていたことが後から分る。地獄のコロナクルーズ船問題が起きた。あれから、思えば重苦しいコロナの年月だった。

 別段コロナが収束したわけではないので、人混みマスクはまだしている。出来ればこれからもマスクをしていたい。そういえば、福島原発の放射能は日本中にばらまかれ、そのままである。一部には集めた土壌もあるが、いまだ積んであるだけで消えたわけではない。

 コロナも、もう無いことにしよう。放射能も忘れていよう。忘れないと経済が回らない。これが日本の現実である。考えれば不安神経症になる。無いことにして、日々安穏に暮らすほかない。忘れなければやっちゃー居られない。これが普通の暮らしなのだろう。

 しかし、政治というものはそれではだめだ。先を見通して、何が日本人の幸福なのかを提起して行く必要がある。果たして都民ファーストはどうだろうか。維新の会はどうだろうか。都民ファーストの賢い支出とは、パー券キックバック方式をどう見るのか。

 「東京を、将来にわたって、経済・福祉・環境などあらゆる分野で持続可能な社会となりえるよう、新しい東京へと再構築すること 」を党の綱領で示している。具体策として「都民ファースト」「情報公開」「賢い支出(ワイズスペンディング)」とする。 としている。

 情報公開と言えば、政治資金の情報公開など、徹底してやるとしているずだが、都民ファースト出身でいま、維新の会の音喜多 駿氏は自民党に政治資金の情報公開を要求をしたのだろうか。賢い支出となると、裏金の使い方伝授のような気がしてしまう。都民ファーストと言われても、正直意味不明だ。住民ファーストならまだ意味が分る。

 要するに時代の先端のつもりで考えた看板が、実はかなり古くさくなっている。流行り物はすぐ古くなる。そう小池知事も流行り物の一種だったのだろう。流行り物に飛びつくとすぐに新鮮味が消えて行く。東京オリンピックのお金の使い道は、賢い支出とは到底思えない訳だ。

 あの豊洲市場の汚染度問題は何だったのか。汚染しているならば、今だって除去したわけではない。そのまま市場になったのだ。あれも選挙対策の一つのように見える。何でもかんでも、無理矢理桝添氏をやり玉に挙げたわけだ。桝添氏のみみちさには驚いたが、中国服の公金購入は何とも言えなかった。

 横浜市長はカジノで失敗した。横浜にカジノはいらないという市民が多数派だったわけだ。まだ横浜には健全な市民意識があるとみて良いのだろう。しかし、大阪の方は万博からカジノへと動き出している。水原一平容疑者を見てみるべきだ。賭博は人間を滅ぼす。カジノを都市の活性化に利用しようという考え自体が間違っている。

 その間違いの先陣を切っているのが、大阪維新の会である。あぶく銭で町が豊かになり、マカオか大阪かなどと、不夜城の栄華を言われても、恥ずかしいばかりである。健全な、物作りから始まるはずのものが、都市の活性化である。

 不労所得に傾斜すれば、じっくりと物作りを探求する事が馬鹿馬鹿しくなる。賭博は何とか止めさせるべきものだ。競輪競馬も出来れば止めて貰いたい。今更、カジノを作ろうなどと、時代錯誤も甚だしい。貧乏になるかも知れないが、倫理のある国であって貰いたい。

 日本は今その分岐点にあるのだ。株で一儲けすることを、普通の人がやろうとしている。それを国が奨励している。若い人がこんなことに手を染めてしまえば、それこそ水原一平現象に陥る。政府が不労所得を奨励するなど、あってはならないことなのだ。

 所が、政治家が言うのは政治にはお金がかかるばかりだ。だから裏金もなければ政治などできないだろうと言うことになっている。お金でしか人間は動かせないと言っている政治だ。政治が、理想とか、理念とか、哲学とか、そうしたまともな目標を失っている。

 確かに経済は重要なことだ。しかし、それは健全な労働に基づくお金の回り方を考えるべき事だ。先ずは物作りを正面から追求すべき事だ。賢い支出が、カジノ建設では情けないだろう。賢い支出が神宮の森を潰してマンションにするのではないはずだ。

 都会のことは遠くの話のような気がするが、政治は都会で行われている。都会の犠牲に石垣島は成っている。沖縄はアメリカの人身御供にされている。基地軽減どころか、防人の島になろうとしている。甚だ迷惑なことだが、何故か石垣の市長は基地か推進なのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水彩画の描き方

2024-04-25 04:52:02 | 水彩画


 水彩画は最高の描画素材だと思う。紙に水彩絵の具で着色するという事ほど、自分の内なるものに、生な形で反応できる素材はないだろう。墨絵も表現の自由さでは奥深いものがあるが、色彩がないという点で、私には物足りない。人によっては色彩ない方が良いという人も居るのだろう。

 夢を色彩で見る人と、白黒映画のように、色彩を意識させない画像で見る人が居るのと同じことかと思う。絵を描いている時の頭の中の状態は、夢を見ているのと変らないことだから、人それぞれなのだろう。頭の中の世界がどんな世界かと言えば、私には水彩画で描いたような世界なのだ。

 色彩があるのが自分にとっての世界だ。自分が生きている世界を表現するのに、色彩がないという事は私には想像ができない。墨絵で色彩を表現するというようなことを言う人が居るが、そんな荒唐無稽なことは、想像することすら耐えがたい。墨絵はあくまで色がない世界へ、置き換えたことだ。置き換えることに意味があるのだ。頭の中の世界に色彩の無い人も居るのだろう。

 水彩画の色彩の良さは、反応が早いと言うことである。油彩画であれば、気持ちに添った表現にまで持って行くには、少なくとも数日の時間が必要である。色によって、溶き油によっては2週間ほど時間をおかなければ進められないこともある。

 ゴッホの描く時間は早い方だと思うが、数日はかかっていると思う。中川一政氏の場合、数週間は早くてもかかっているのだろう。梅原龍三郎氏も早い方だと思うが数日が多いだろう。ルネッサンスの画家であれば、1か月以上、数年かかるという人もいたのだと思う。

 翌日に持ち越すとどうもその時間で、感性の持続とずれが生じる。せめて一日で一通りの仕事が終わるぐらいでありたい。もちろん数日おいてまた描き始めることもよくあるし、場合によっては何年もしてから描くこともある。その描き継ぐと言うことは、水彩画の描画法とは又別のことになる。

 描き始めた感性のまま、小脳の反応で絵を描くと言うことには、水彩画以外では難しい。他の方法では、大脳を働かせず、反応になって即応して行くような描き方は出来ないと思う。水彩画の良さは呼吸するような時間感覚で、描けるという所にある。

 日本画であれば、下絵があり、本画がある。小脳と言うより、大脳で描く絵画なのだ。当然のことで日本画は装飾画という意味が強い。デザイン画と言える。水彩画でも日本画のような描き方をする人の方が普通だと思う。しかし、水彩画でなければ難しい描き方が、私絵画なのだ。

 私絵画は造語なので説明が居る。とことん自分のために描く絵画のことだ。自分世界観の探求の為に絵を描く。描くことでっ見ている世界を確認してゆく。その絵を人に見て貰うと言うことが出てくるが。客観的評価は必要としない。あくまで自分の世界観を深めていく為に、絵を描いている。只管打画である。

 私絵画は何にもならない絵画である。何にも成らない物が、実は一番重要なものに変る。用の美と言うが、無用の美である。生きていることをとことん究める為に絵を描くのだろう。その人間が絵に現われてくるまで描きたいと言うことになる。

 何故、そんなことを考えるようになったかと言えば、好きな絵には、その人がそこに居るかのように、見えてくるからだ。中川一政氏の絵を見ていると、中川一政氏の見ようとしている世界がそこにあるのがわかる。良くも絵の上に人間を出現させたと思う。それは絵の上だから出来る事なのだ。

 絵に表れてくる世界は、絵以外では表わすことの出来ない世界なのだ。文学であれば、文学以外では表現不可能な世界がある。他人が作り上げたその世界を堪能することが出来る。学ぶことが出来る。人から学ぶように文学から誰もが、大切なことを学んできたのだろう。

 絵の場合も同じように、世界がそこにあれば、絵の世界を通して他の方法では出来ない哲学や世界観を伝えることが出来るものになる。絵で表現された思想は、一見曖昧で抽象的なようだが、実は他の方法にはない明確な表現方法だと思う。それは見るという事の意味にかかわる。

 見てわかるという事がある。みなければわからないという事もある。聞いただけでは不明だったことが、一目瞭然という事になる。人間の「見る」という事は世界を観る。描くという事を通して、見ている世界を哲学しているともいえる。

 そこには2重の難しさが存在する。絵画の画面に、自分の世界観を表現すると言うことが、誰にとっても未知なことなのだ。自分というものが、分らないものであり、その自分を探求しているのが、今生きていると言うことになる。探求過程の、何も鴨あいまいな自分を、曖昧なまま表わさなければならない難しさがある。

 ひたすら描き進んで、絵にその人間が確かに表現されたとしても、その人間がつまらないものであれば、当然つまらない絵になる。つまらない人間が、立派な世界観を表現するというようなことは、私絵画からすれば、あり得ないことになる。だから、つまらないものをつまらないと表わすのが私絵画に出発点になる。

 この2重の困難さは、生きると言うことの困難さなのだろう。人間の完成を目指して、日々努力することが、中途半端な自分の世界を描くと言うことになる。どこまでも中途半端である事こそが、究極の私絵画の宿命とも言える。背伸びのない、掛け値のない自分にこそ意味がある。

 ただ絵画は極めて難しい表現方法だ。特に装飾品としての位置づけが長い日本では、絵に対する接し方に、そうした美術品という先入観が存在する。絵は美術品ではない。装飾品でもない。絵はその人の世界観を伝えるものなのだ。何もないという意味では音楽に似ている。

 音楽を演奏すると言うことに近い気がしている。音楽の中に自分が入り音になる。音楽は表現である事は確かなことだが、それ以上に音楽に自分が成ってしまい、没頭すると言うことがある。音楽になる喜びである。自分が良しとする音楽になるという事。

  自分という存在が音楽なると言う喜びの感覚。絵を描いていると言うことはかなりそれに近い間隔である。画面の上で演奏をしている。次々画面の上に現れてくる世界が、いくらかづつ自分になってくることを、描くことで確認し続けている。
 
 歌の心が人に伝わるように、私絵画も人に伝わることはいつかあるのかもしれない。水彩画を描いていると、その確かな感触を感じることがある。水彩画は本当に素晴らしい描画素材だ。有難い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党の政治活動費の見直し案

2024-04-24 04:13:55 | Peace Cafe


 自民党はパー券キックバックの裏金を、いくらかでも説明したのか。自民党として何一つ、分るような説明をしていないではないか。岸田氏は盛んに説明責任を果たさなければならないと口にしていたが、当人も総理大臣としての責任に関して説明がない。

 この問題の一番の責任者である森氏に、総理大臣として電話で聴取したというが、一人で電話して、メモ書きの記録もない。森氏は何も知らないという事なので不問です。このやり方は、全く公平ではない。そしてトカゲのしっぽ切りのように、憶測で、処罰だけが動いている。どこにも責任者は存在しない。全員が知らない、忘れただけというだけで、人間として許されるのか。

 政治責任のある与党が、こんなデタラメで終わらせようとしている。国民をこれほどなめた話はない。確実に誰かが、このパー券キックバックの裏金を作り、金の配り方を考えたのだ。そして、自民党議員の誰もが知っていて、税金のごまかしを続けてきたのだ。

 自民党は政治資金規正法改正を提案したが、裏金を国民に表ざたにすることはどこにも示されていない。これでは何も改正しないと同じだ。現金の企業献金の禁止。政策活動費の廃止。お金の出入りを誰にも分かるように、政治資金はすべてクレジット払いにして、そのクレジットカードの公開を義務とする。

 そもそも政治資金を秘書任せで、気がつかなかったとすれば、そんな無能な国会議員は不要だ。政治家は人の代表なのだから、普通の人以上正義がなければだめだ。政治倫理がなければならない。利権を動かすような利権屋が政治家になるのは間違っている。その利権屋を利用する、パー券購入者が一番悪い。

 企業・団体献金や調査研究広報滞在費、使途を公開する義務のない政策活動費の見直しについて、自民は先送りの方針を固めた。こんな腐った政党が日本では政府与党なのだ。これを国民が仕方がないと受け入れるとすれば、さらに自民党議員は私利私欲に走るに違いない。これが一番心配な点だ。

 本来であれば、次の選挙で自民党は大敗し、与党が変ると言うことが考えられるが、私の中では、たぶんそれはないと諦め気味だ。パー券を買っていた人達がいるのだ。パー券は反社会勢力のメカジメ料のようなものだ。恩恵があるからパー券を買うに違いない。自民党を支持して、メカ締め料を払いたい人がいるのだ。

 自民党の政治家を人間として尊敬できるから、パー券を買う人などまず居ないだろう。それはやくざに払うメカ締め料と変わりがない。見返りを期待しないでパー券を買うはずがない。社会の構造にまで、みかじめ料が浸透してしまっている。良くないと思いながらも、事なかれで、パー券を買うのだろう。

 この腐りきった政治と企業の関係がもう解消できない状況になっている。企業にしてみれば、出した金をもっと上手く扱えというだけだろう。企業だけではない。その関連で恩恵を受けるかも知れない下請けまで、自民党にやって貰わないければ、甘い汁が吸えないと考えて、しがみついて居るように見える。

 だから、今の日本では選挙で不正がただされると言うことが起きない。というか、世界を見渡せば、ロシアではプーチンだって選挙で選ばれているのだ。自分たちの利害のためには、習近平だって選挙で選ばれるのだ。世界中の独裁者や腐った政治家達が、一応選挙で選ばれている。これが民主主義の実態。

 アメリカではトランプが、議会突入の暴動を扇動した犯罪者として訴追されながら、大統領に選ばれるかも知れないのだ。悪いやつでも自分に利益をもたらす人間の方がましだ。という選挙の選択が、普通になっている。民主主義の根幹である選挙制度が、利権によって動かされ、まともに機能しなくなっている。

 日本の与党の選挙は、裏ではお金が動いている事は、確かなようだ。派閥から議員に配られたお金が、政治活動費として、議員の配下となる県会議員などに、配分されている。さらに市会議員町会議員へと、お金が流れるのだろう。その子分連中が今度は地回りのように、地域の票まとめをする構造がある。

 地域ではお願い事をするのに、邪魔されないように議員と付き合うことになる。工事の許可申請など、口利きがあれば早く許可になる。などと言うことがありそうだ。早いだけでなく、本来転用が禁止されている農振農用地の転用まで何故か行われる。石垣島のゴルフ場はそうして許可され、また自衛隊に転売されている。と想像が出来る。

 道路を作る。下水道を作る。すべての公共事業の優先順位も、結局パー券購入に関連してくると、推測される。そういう利権社会が定着してしまったのだろう。だから要領よくやる奴はパー券を買うことに成る。就職のお世話など、議員を通してと言うことがありそうだ。就職を頼んでおいて、パー券を支わないわけにはいかない。

 日ごろメカジメ料を払っておくことが、意味を持つ社会になっているのだろう。だから、裏金を怒っているのは、そういう恩恵のない私のような末端の人間中心になる。大勢である恩恵を受けて仕事をしているような人は、黙って時の過ぎるのを待っている。

 選挙で何も変らない原因のもう一つは小選挙区制である。2大政党であれば、それなりに機能するのだろうが、日本のように、野党が分裂状態であれば、自民党だけに有利な選挙制度と言うことになる。パー券を買うような3分の1の支持率で、過半数の議員数が確保できる。

 自民党は自分有利な間は、間違っても小選挙区制を止めないだろう。こうして日本は民主主義的な選挙よって変わることが無くなった。以前の自民党は内部に、反対勢力を抱えていたから、総理大臣が替わることで、利権構造もご破算になった。

 小選挙区制で、利権構造が温存されるようになった。この強固な利権を利用しようとしている、企業は自民党が維持されることが、変わることの無い利権に繋がることになった。その結果、黙っていても派閥にお金が集まるようになったのだ。それを補完している勢力が、コバンザメ公明党だ。

 そして、企業有利な政策が打ち出され、持ちつ持たれつの関係が出来上がっている。風力発電のようにバレた、賄賂もある。IRのようにバレた、賄賂事件もあるが。パー券で賄賂を行えば誰にもバレない。バレないどころか、堂々と政治活動費として扱える。

 税制も、円安も、株価を支える、政府と日銀の在り方が、日本の景気を支えると言いながら、その結果、三〇年間の停滞になったのだ。この停滞の責任は自民党に間違いなくある。結局パー券を買って貰う代わりに、日本の円安を導いたのだ。

 企業有利は、既存企業保護である。新しいものが産まれにくい結果になっている。企業が利益を上げれば、末端までその恩恵が行き渡るはずだったが、そのウソが、日本を格差社会にしたのだ。日本の格差がこれほど広がったことは、江戸時代ですらなかった。

 義務教育の給食費を払うことが困難な家庭が増加しているのだ。それなら、給食費を無償化するのが、政治の役割である。普通の農家が経営できなくなっているのだ。その責任は政府にある。大規模農家だけに補助金が集中するような、農業政策に問題がある。

 こうしたことの、背景にあるものが、パー券キックバック方式の裏金である。裏金が政治家をだめにしたのだ。裏金を配らないような政治家を支えるような、自民党の下部組織が失われたのだ。金権主義が政治に蔓延したことが、自民党をだめにした。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海上自衛隊の最新ヘリコプターが2機墜落

2024-04-23 04:08:02 | Peace Cafe


 鳥島の東海上で海上自衛隊のヘリコプターが2機墜落した。太平洋の真ん中と言いたくなるような、ずいぶんの沖合で訓練をしている。前回の宮古島での墜落機と同型機らしい。一年が経過して大変な事故が再発してしまった。

 どうも2機は互いに衝突して墜落したらしい。夜の海上で、潜水艦の探知訓練。潜水艦ににミサイルを撃ち込むような訓練をしていたのかもしれない。普通は高度を変えて飛行していて、ぶつかることはないらしいが、訓練中の見張りが不十分だったのかも知れない。

 素人が考えただけでも危険な訓練中の事故だ。日本を守るためにすごい場所で、必死の訓練をしていて、死亡事故に遭われた。申し訳ないような辛い思いだ。前回は10名。今回はまだ行方不明を含めて8名という、大変な数の方の事故だ。

 自衛隊は国土保全隊にした方が良いと考えている者だが、それとは別のこととして、命がけの訓練をしている皆さんに感謝をし、ご冥福をお祈りする。こんな恐ろしいような訓練を続けている。何か私たちの日常感覚とは異なるような感覚の世界が自衛隊にはあるのだろう。

 日本の防衛のために、厳しい海上夜間訓練をしていて、ヘリコプター事故である。先日も沖縄宮古島でヘリコプターの墜落があったばかりだ。あれは中国艦隊の訓練の視察中だったと思われる。海上自衛隊には、夜間の海上訓練をしなければならないほど、切羽詰まった状況判断があるということだろう。

 私は反軍国主義者だが、日本の防衛にはヘリコプターやオスプレーは必要だと考えてきた。所が、どうもこうした垂直離陸飛行機の事故が多い気がして成らない。もっともっと機体の安全性の向上を図るべきだ。厳しい軍事訓練だとしても、さらに安全確実に飛行できるものに、改善して貰わなくては、日本の防衛が危ういと思う。

 直接パイロットから聞いたことがあるのだが、事故と隣り合わせの厳しい訓練を、つまり危険な訓練をしているらしい。戦争を想定しての訓練とは、そういう物だと話していた。ぎりぎりの命がけの訓練をしなければ、戦争場面では役立たないと言うことらしい。

 だから、民間航空機や、民間ヘリコプターの事故と同列に考えることは出来ないとも聞いた。日本のように島が連なる地形では、滑走路のいらない航空機が必要なものだと考えている。離島に住んでいるから余計にそう思う。オスプレーで那覇まで運べば助かる事故もあるのではないか。危険だから反対という声も分らないでは無いが、どうすれば安全性が高まるかは検討課題だ。

 飛行機よりヘリコプターの方が事故が多い気がして成らない。もっと安全性を高めることは出来ないものだろうか。UH60JAはエンジンが2基搭載されているため、片側に不具合があっても安全に飛行できるとされてきた。陸自は前回の宮古島の事故を踏まえ、両エンジン停止を想定した教育訓練の実施など、再発防止策を取りまとめたばかりである。

 肝心の事故原因であるエンジンの出力低下原因は特定できなかった。特定できないと言うことは、再発の可能性がある。そういう危うい状態で、危険な軍事訓練をしていると言うことになる。まずは機体の絶対的な安全性を目指して改良すべきだ。今回の事故はフライトレコーダーによると機体には問題が無かったと言うことらしい。

 今回の鳥島東海上の事故機は海自仕様のほぼ同型機だった。衝突であれば、原因は又別かも知れないが、エンジン不調から、方向性を失い、接触衝突に至ったと言うこともあるかも知れない。夜間の海上であれば、互いの風も強く影響を受けた可能性もある。

 このほか、令和4年1月に航空自衛隊のF15戦闘機1機が小松基地(石川県)を離陸直後に墜落し、乗員2人が死亡。平成30年2月には佐賀県神埼市で陸自のAH64D戦闘ヘリが住宅に墜落し乗員2人が死亡、住宅にいた女児がけがをした。

 多くの人が反対するオスプレーも肯定的に考えてきた。所が、オスプレーにはどうも根幹的な問題が潜んでいるらしい。そのために、あれほど飛行を止めなかった米軍が使用が停止していた。所が何が原因で事故が起きたのかの発表はないまま、改善の指示もないまま、ただほとぼりが冷めればそれでいいというように、使用が再開された。

 原因の公表がないというのに、日本政府は公表されないでもかまわないという態度である。住民の安心に対しては全くの配慮がない。何故落ちたのかが分らない、航空機が安全対策も示されないまま、住宅の上を飛んでいるのである。こんなことが許されて良いはずがない。もう一度書いておくが、垂直離着陸機は必要だと思っている。

 日本をないがしろにしている、米軍の本質である。それは占領軍のままであるから仕方がないようなものだし、先日の岸田氏の米議会での演説では、自衛隊は米国の戦争に同盟軍として、出動すると言うことにしたらしいから、安全性が高まらないことでは、軍事力自体が危ういことになる。

 現在の安全性のレベルで、それに自衛官を訓練で搭乗させるというのは、問題ではないか。むしろ航空機はドローンに変えて行く必要がありそうだ。無人機である。無人機であれば、落ちたとしても人命が損なわれると言うことが無い。ドローン兵器も中国が先進国らしい。こういう所で日本は頑張るべきだ。

 先端技術は戦争から生まれるというのが歴史だ。これからはミサイルではなく、専守防衛のためのドローン兵器だろう。ロボット兵器の開発は必要なことだ。ドローンの航続距離からして、専守防衛の兵器と考えても良いのだろう。人間を運べるようなドローンが出来れば、それも良いかもしれない。

 安全性の高い垂直離着陸機を開発することは、日本には必要なことだと思う。専守防衛のための武力開発は日本の役割でもある。日本はせめてくる能力はないが、日本をせめることはたやすくないという状態は作る必要があるだろう。

 日本は航続距離の長い戦闘機の開発を始めるらしい。とんでもないことだ。そんなことは日本のやるべき仕事ではない。むしろ航続距離の短い、オスプレーのような、あるいはヘリコプターのような、垂直離陸型の航空機を開発する必要があると思われる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食料・農業・農村基本法の改正

2024-04-22 04:58:43 | 地域


 食料・農業・農村基本法は、農政の基本理念や政策の方向性を示すものとして1961年に作られた。しかし、それからの63年間、その法律は何の役にも立たないまま、農村は衰退を続けてきた。今では経済が農業中心の村は少ないことだろう。農業者は老齢化し、多くの地方社会が消滅を始めている。

 (1)食料の安定供給の確保、(2)農業の有する多面的機能の発揮、(3)農業の持続的な発展と(4)その基盤としての農村の振興、を理念として掲げ、もって国民生活の安定向上及び国民経済の健全な発展を図ることを目的としている。法律である。

 この農水省の挙げる言葉がいかにも空しく響いてくる。食料安全保障と言うことが、今度の改正では最重要課題となっている。当然のことで、何十年も政府は食糧自給率の向上と言いながら、向上どころか下落を止めることすらできないでいる。

 その守れない理由は、本来守るべき、普通に働く農家が生活が出来ないからだ。農家が世間並みに生活できるのであれば、これほど農業人口が減少をするはずがない。農業人口が維持されるようでなければ、食料の安全保障は出来ない。日本の環境も守れない。

  では、今度の法改正で、農業に向かう若者が増えるだろうか。間違いなく増えない。三菱総合研究所の予測では、これまでの政策を継続した場合、2050年の国内農業経営体は2020年対比80%減少の18万経営体、農業生産額は半減し4.3兆円となる見通しとある。これまでと違うと言えるものになっては居ない。

 日本の農地の地形の条件から、大規模農家による 集積には、限界がきている。その大規模農家の存在により、10〜30ha程度の地域の大きい水田農家の経営継続が厳しくなってきている。生産コストの増加・米価の下落が原因している。農家では生活が出来なくなっているのだ。

 その主たる原因は大規模企業経営の農家は、上手に補助金を貰いながら、経営をしている。普通の農家はその企業農家と競争関係にある。米価は企業農家によって下げられている。一方で機械や燃料コストは、急激に上昇している。この先普通の農家には全く明るい見通しが見えない。

 今度の農業基本法の改正で、何か新しい展開があるのだろうか。そう思いながら、内閣府の出している方向性を何度も読んでみた。どうだろうか。

 以下内閣府が出している、食料・農業・農村基本法の改正の方向性についてを書きだしてみる。

 現在、地域農業のあるべき姿を策定する「人・農地プラン」の延長で、「地域計画化」が法制化され、農地の集積を通じた地域の農業ビジョンづくりが集落ごとに求められている。
 ① 生産基盤の確保に向けた担い手の育成・確保とそれ以外の多様な農業人材 の役割の明確化 ・担い手の育成・確保を引き続き図りつつ、農地の確保に向けて、担い手とともに 地域の農業生産活動を行う、担い手以外の多様な農業人材も位置付け 
② 農業法人の経営基盤の強化を新たに位置付け ・農業者が急速に減少する中で、食料供給に重要な役割を果たす 農業法人の経営基盤の強化も位置付け ああ 
③ 将来の農業生産の目指す方向性の明確化 ・食料の安定供給を図るためにも、 スマート農業の促進や新品種の開発などによる「生産性の向上」、 知的財産の確保・活用などによる「付加価値の向上」、 「環境負荷低減」といった将来の農業生産が目指す方向性を位置付け ・特に、より少ない農業者で食料供給を確保しなければならなくなる中で、 サービス事業体の育成・確保を位置付け 
④ 近年増大する食料・農業のリスクへの対応の明確化 ・防災・減災や既存施設の老朽化への対応も視野に、農業水利施設等の基盤の 整備に加え、保全等も位置付け ・家畜伝染病・病害虫の発生予防・まん延防止の対応についても位置付け 
⑤ 農村振興の政策の方向性の明確化 ・農村との関わりを持つ者(農村関係人口)の増加や農村RMOの活動促進、 多面的機能支払による「地域社会の維持」を位置付け ・農泊の推進や6次産業化など地域資源を活用した産業の振興を位置付け ・鳥獣害対策や農福連携などについて明確

 何度も読んでみたが、何か画期的な方向性は見えない。期待したいのだが、どうも政府はだめらしい。とても次の農業に理解のある人が、この法律改正には関わっていた。だから、特別に期待していた。所が結果は全く違っていた。

 長いこと、検討を重ねてきたにもかかわらず、良い考えが出なかったと言うことになる。企業優先の政府や自民党の大規模、機械農業の考え方に押し切られている。いつもの農業政策の繰返しに過ぎない。これでは、三菱総合研究所の予測のように、農業はさらに衰退するに違いない。

 この基本法の検討過程では存在した、農家への直接の補助金の制度は作られなかった。結局の所、大規模企業農業だけしか、生き残れない現状は温存されたのだ。本来、政府が目指すべき事は、国民すべてが農業をやる国を目指すことだ。希望する国民が食糧自給できる条件を国は提案することだ。

 市民が農業をするとすれば、例えば大豆を作りたい場合、脱粒機の貸し出しが必要である。小麦を作るとすれば、コイン製粉所が必要である。お米を作るとすれば、コイン脱穀所が必要である。小型機械の貸し出しや、水路の整備、農道の整備を公共の力で補助しなければ、市民の農業は広がらない。

 そうした市民の農業を、迷惑だと、あるいは不愉快なものだとしてきたのが、既存農家であり、農協であり、地域社会であった。その結果、農業者の側
からは、打つ手が示せないまま、中山間地や離島の農村が消滅してきたのだ。農地の利用集積のために、そうなるように進めてきた。

 農村は競争の原理では維持できない。共存の理念がなければ、継続が出来ない。ふるさとを守りたいという思いはある。しかし、資本主義の経済競争と同列の企業農業が中心になったときに、ふるさとを維持してきた経営力の弱い農家を守ることが出来ないのだ。

 農村がなくなることで、日本の自給能力は急激に弱まってしまった。いまできることは、市民が自分で始める以外にない。誰の手助けも借りずに、自給を始めることだ。それぐらい世界の危機は迫っている。まず自助だと菅元総理大臣が言っていたでは無いか。

 市民が自ら食料を生産することが、食料の安全保障の一番確かな方法だ。政府には手段がない。と諦めた言うことを表明したようなものだ。戦後の食糧難時代が再来するかも知れない。市民が自分で食料生産をやるほか無い時代が、そこまで来ている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

208 水彩画 日曜展示

2024-04-21 04:01:59 | 水彩画






462「英太郎さんの田んぼ」
2024.4 中判全紙








463「竹富島が見える」
2024.4 中判全紙








464「竹富島が見える」
2024.4 中判全紙







465「竹富島が見える」
2024.4 中判全紙







466「竹富島が見える」
2024.4 中判全紙


 今週は五枚までだった。中判全紙になると、今は1日で描けない。この間、水源の森作りで、100本の苗木を植える作業をしていた。もう30度を超える炎天下だから、かなり重い作業になった。絵の方もかなり重く描いていた。

 重くと言う意味は今度の相模原に出す絵を描いていた。キャロットタワーのロビーに展示させて貰う絵を描いていたと言うことにもなる。発表をするという意識で絵を描いていたので、少し気分が重かったと言うことになった。絵はどうだろうか。重いだろうか。

 人目を意識して描くと言っても、何かを変えると言うことも出来ないのだろう。ただ竹富島を描いてみようと決めていた。竹富島は初めて描いた。毎日、目にしない日はないのに、竹富島を正面にして居ながら、絵に出てくることはなかった。今回は竹富島を描いている。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしトランプ後の米中関係

2024-04-20 04:38:31 | Peace Cafe


 アメリカではトランプ氏が世論調査では有利と言われている。その背景にあるものはアメリカの分断から崩壊への予兆なのだろう。社会の分断が進み、極端な意見になる人が増える。白人が少数派になること。押し寄せる移民難民の大波。格差と差別社会。そして中国に世界の覇権を奪われること。

 豊かになりすぎたアメリカ人は、首位転落の不安にさいなまれているのだろう。今も経済は好調なのだ。日本のように停滞の中にいるわけではなく、経済成長を続け、豊かすぎるような人達の国ではあるのだ。競争主義の限界をアメリカは迎えている。

 豊かさを分け合うことが出来ないアメリカ。能力があるから豊かなのだ。能力がないものは貧しいことは仕方がない。こんな独りよがりの考え方が、アメリカという、経済的には豊かであるが、心の貧しい人達の国にしたのだ。日本がアメリカに追随する姿が、実に情けない。

 フランスに来ていたアメリカ人留学生は、夏休みのあいだアメリカに戻り、アルバイトをすれば、フランスで一年暮らせると言っていた。多分今でも似たようなことだろう。だから、世界中から人が集まる。その人達がさらに豊かな国にしている。だからこそ問題も大きくなり、解決が付かなくなる。

 そんなアメリカ人が、トランプを選ぼうというのは、金持ちの不安なのだろう。もしかしたらアメリカが中国に凌駕されて、経済的に苦しくなるかも知れないという不安がある。世界1を続けてきた国の転落の不安である。確かに中国にはアメリカを追い越す潜在能力がある。

 それはインドにもあるのだろう。グローバルサウスといまでは言われる第3世界の国々も発展の潜在能力は高いのだろう。それはアメリカがどれほどの大国であるとしても、歴史を見れば当たり前の事で、栄枯盛衰は歴史の常である。栄えた国は必ず滅びている。

 しかも、アメリカの内部は、どの先進国よりも不安定で混乱したものである。未来予測が付かない要素がいくらでもある。アメリカは形の動き続けている国なのだ。だから、発展余力も高いし、移民労働力を上手く活用して、経済発展が出来たのだ。

 その内部的な混沌とした不安要素が、かなり煮詰まってきたのだ。年間200万人もの移民、難民が押し寄せれば、塀を作りたくなる気持ちも分る。米国には移民が4500万人と人口の14%もいる。 無資格の滞在者も1000万人と3%を超え、働き手や消費者として存在感を示す。

 移民がいなければ、アメリカの労働者は3割に激減する。移民に頼らざる得ないが、アメリカ社会全体としては移民の急激な増加に耐えきれなくなっても居る。こうした内部矛盾がトランプ主義を作り出したのだろう。トランプが大統領にならないとしても、分断社会。階級社会。差別社会。はなく成らない。

 この社会内部の対立、亀裂は、今後のアメリカに変化を作り出すはずだ。さらに階級差が広がり、多分耐えきれなくなった下層階級からの暴動が起こるだろう。以前から病理的な銃乱射事件は頻発している危うい社会だ。資本主義経済の能力主義の限界が見えている。

 アメリカはそうした内部問題から、国民の意識を中国に向けようとしている。この目をそらそうという事から、沖縄の基地化が進んだ。米軍基地負担の軽減どころか、沖縄をアメリカの前線基地化しようという計画が、着実に進んでいる。それが岸田氏の国賓待遇の奴隷化である。

 中国の世界進出が問題だから、アメリカが困っているとしているが、中国の一帯一路政策自体は、何の問題も無いはずだ。アメリカの東アジアの前線基地化の方が異常であろう。その異常を受け入れざる得ないところが、日本がいまだ独立国に成りきれない、と言うことだろう。

 中国の経済成長は確かに世界経済を変えようとしているが、むしろアメリカの成長を中国が支えているという側面も大きい。アメリカも、日本も、経済制裁をしながら、中国の経済成長の恩恵を受けようともしているわけだ。中国が日本のように言いなりにならないと言うところが問題なだけだろう。

 経済に於いてはアメリカと中国の関係が一番大きいのだ。だから、アメリカは中国に経済制裁すると言いながら、その膨大な取引は相変わらず減らないのだ。ロシアを経済制裁するとしても、結局中国との取引があるために、ロシア経済は好調を維持している。

 世界経済はアメリカがどれほど、同盟国と協力して中国を叩くとしても、中国はアメリカを経済規模で必ず追い抜くだろう。そうなれば、中国を中心とした経済圏からの圧力で、自由主義経済圏は危うくなるだろう。それは、国家資本主義の方が、競争力が高いと言うことにある。

 ロシアも同じである。あれほど経済制裁を受けても、経済は好調なのだ。その理由はプーチンの独裁を国民が支持しているからだ。ヒットラーとまさに同じ構造なのだ。習近平も同じだ。国民は経済さえ良く成るのであれば、少々の不自由は我慢しようという選択なのだろう。

 アメリカの言うことを聞かないでも大丈夫な国が出現したのだ。それはアメリカが経済成長をどれだけ続けたとしても、ますます、世界の経済情勢は相対的にアメリカの力が低くなって行く。その状況を受け入れられないアメリカ人の精神構造に何かがあるのだろう。

 日本はそういう世界の競争から、徐々に取り残され始めている。それは日本人の大半が、競争心を失い始めたからだろう。心優しい穏やかな日本人がふえているのだから、悪い事ではない。人を押しのけてまで、自分を押し出さない。その点ではいいわけで、そこに新しい人間の在り方を作り出す必要があるのだろう。

 トランプのように、人を押しのけて自分のゆがみを正義として押し通すような厚かましい人が、出てこないだけ日本は増しである。それぞれが、自分らしい幸せな生き方を捜すことが出来る国になる。それは競争では無く、自己開発である。自分が深まる生き方であろう。

 今行われている。外国人労働者の流入政策は、労働者不足という経済の事情だ。外国人とどう関わるのかが、これからの日本の課題になるはずだ。朝鮮人差別で、日本は問題のある国だ。また、人種差別問題が起きないように、賢明な政策が必要である。
  
 アメリカの分断社会を日本にまで波及させないことだ。日本はアメリカに依存しすぎている。だから、アメリカの顔色を見てしか動けないのだ。日本がどんな国を目指すのか。政治は、本来国の方角を捜すことが役割だろう。農業基本法など、まさに国の方角を示しているものでなければ成らない。これについては改めて書きたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

のぼたん農園田んぼの記録

2024-04-19 04:28:40 | 楽観農園

 1番田んぼ 担当:中川、笹村
 「台光」台湾の品種と言われる品種を栽培。120㎝に成るという品種。この田んぼは昨年7月に大規模な土木工事を行い、最初の状態から作り直した田んぼ。田んぼの土壌は新しいものである。一部にはまだ岩盤がある。柔らかく深いところが一部にある。トラックターは使えなかった。

 水牛で土壌を移動し、水牛のクルバシャーで耕した。水牛だけで作った田んぼである。昨年7月末土木工事完了。水牛ですべてが出来たという点でおもしろい田んぼである。一部に、蓬莱米台中65号が植えられている。石垣の気候にあう、とても元気な稲ということが分った。

 8月27日に苗代を作り、播種。9月23日に田植えをした。 種籾は「西表安心米」の那良伊孫一さん が20年間作られていたお米の種籾を分けていただいたもの。1月13日に稲刈りをした。ネットが張れなかったために、鳥に食べられたために収量は少なかった。

 出てきたひこばえの刈り戻しを稲刈り4週後の2月11日に行った。よみがえりの追肥を三回ほど行った。ひこばえにはかなり肥料が必要と感じたので、よみがえりを入れた。刈り遅れのイネ株はそのまま弱って、黄色くなり、ひこばえを出さない。5月26日に稲刈りの予定。夏作よりも、稲の出来が良い。



 2番田んぼ 担当:ぬちぐすい診療所
 「ユガフモチ」を栽培。40センチ間隔植え。一度水牛さくらに田んぼに入られたため、補植がかなりある。その株の出穂が送れていた。補植は遅れたがよくできている。12月6日播種。1月13日田植え。4月14日出穂期。5月25日稲刈りの予定。


 3番田んぼ 担当:中川、笹村
 「ミルキーサマー」を栽培。30×40㎝間隔植え。南側を40㎝空けて、日照を期待した。30センチ間隔の四分の三の株数になる。またひこばえ栽培を探求したいために、株間を広げた。ひこばえは分ゲツ数が増えるため、十分な穂を付けるためには、肥料と空間が必要になる。

 分ゲツ肥を入れてコロガシを四回やった。穂肥は止めて、アカウキクサがよく広がったので、これを穂肥と考えた。中央山側に岩盤があり、生育不良だった。奥に土を寄せたために、耕土が深くなり、30分ゲツを越えた。12月6日は種。1月6日田植え。3月末出穂。4月13日穂揃い。5月18日稲刈り予定。稲の大きさは83㎝。



 4番田んぼ 担当:渡部夫妻
 「ミルキーサマー」を栽培。30×40㎝間隔植え。荒起こし、代掻きを十分に行った。合計7回。そのために水は雨水がほとんどだった。分ゲツ肥、穂肥によみがえりを入れた。後半勢いがなくなったのだが、土壌の窒息状態が影響したか。田んぼ全体が平均的に整って実っている。

 12月6日播種。1月6日田植え。3月末出穂。4月13日穂揃い。5月18日前後稲刈り。稲の大きさは83㎝



 5番田んぼ 担当:圷夫妻
 クロマイ2種。餅米。ミルキーサマー。ハッピーヒル。60㎝角植え。3月半ばから4月後半に断続的に田植え。様々実験的な栽培をしている。不耕起であるが、コロガシを頻繁に入れて水持ちを良くしている。


 6番田んぼ 担当:三線グループ
 「ミルキーサマー」を栽培。40㎝角植え。12月6日播種。1月13日田植え。4月13日出穂。5月25日稲刈り予定。稲の大きさは85㎝。「ミルキーサマー」の中ではこの田んぼの稲が一番良く出来ている。葉は15枚出たと思われる。

 水が不足した田んぼだった。土には時々ひび割れがあった。水が少なかったことが、良い稲になったかも知れない。コロガシは3,5回。その都度よみがえりを入れた。葉色が最後まで濃く、穂も他よりも大きい。120粒はある。

 ミルキーサマーの品種特製を見ると、東北では早生品種であるが、沖縄で作ると晩稲になる。また、筑波では84㎝の大きさになり葉は15枚。沖縄では72㎝と大きくならない。葉も13枚まで。その理由は不明。気候に合わないため収量も低い。

 「ミルキーサマー」はインド型品種「Kasalath」由来のHd1遺伝子を持つ「コシヒカリ」早生同質遺伝子系統「和系243」と「コシヒカリ」の突然変異品種「ミルキークイーン」の交配後代からDNAマーカー選抜で育成された「ミルキークイーン」の出穂性に関する準同質遺伝子品種である 



 7番田んぼ 担当:ゆんたくガーデン
 「ミルキーサマー」を栽培。30㎝角植え。新しい田んぼ。土壌に耕されていない場所があった。12月6日播種。1月13日田植え。4月20日出穂 五月後半稲刈り予定。代掻き石拾いがまだ不十分と言うこともあり、水が足りなかった。

1反の田んぼの稲数 畝取りのための目標 1穂の重量2.2g100粒とした場合。

(植え方)      (稲の本数) (ひと株の収量) (穂の数)  (収量)
30×30㎝    11111本  66g    24.5  10俵
30×40㎝     8333本  72g    32.7  10俵
                   60g    27.7   8俵
                   50g    22.7   7俵
40×40㎝     6250本  96g    43.6  10俵    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サプリメントは危険食品と考えたい。

2024-04-18 04:36:31 | 暮らし


 日本食品安全協会では、紅麹サプリ問題が起きた後、協会のウェブサイトで緊急に情報発信している。3回目のサプリ問題である。何度もで、申し訳ないが、これは以前からと手も気になっていた問題で、紅麹菌サプリ被害のこの機会に、気付いて貰いたいと思う。

「要約すれば健康食品の範疇であるが、有効成分として入っている物質の本体は医薬品である。医薬品が医薬品名で届けたらダメなのに、医薬品を含む総称名なら機能性表示食品の場合OKという事実に私は違和感がある」
「機能性表示食品には同じように医薬品を含んでいて総称名で届け出が受理されている物が他にもある」とある。

 サプリを今でも飲んでいる人は、一度協会声明を読んで欲しい。一般人の私がどれほど注意喚起したところで、サプリはなくならない。サプリが今も日本人の身体をむしばんでいる。問題はサプリ全体に存在するのであり、紅麹菌にあるのではない。

 サプリメントの国内市場規模は1兆678億円 と出ていた。金儲けのためならば、不要なものをいくらでも生産する。テレビも新聞も盛んにこんなおかしな物の広告で儲けている。健全な大企業が自らの信用を使って、サプリに進出する。背に腹は変えられないのだろうが、今に痛い目に合うだろう。

 1兆678億円という数字があまりにも大きくて実感がないが、膨大な量のサプリが飲まれていると言うことだけは分る。医薬品市場は10兆円超えと言うから、医薬品の中の飲み薬部門と比べて見れば、かなり大きな市場規模と言うことが分る。

 サプリのような危険なものがこれほど広く出回ってしまった、日本人の安全意識と日本社会が恐ろしい。と言ってサプリ先進国はアメリカだそうだ。アメリカ人ならそうかと思うが、それが日本人にまで波及してきた。日本人がアメリカ人貸しているのだろう。一人当たりで考えれば、いまでは日本人の方が飲んでいるのかも知れない。

 どれくらいの人が何らかのサプリを飲んでいるのかという調査では成人80%のの人が飲んでいるというデーターもあった。背景にあるのは健康志向と考えて良いだろう。年寄が増えて、何時までも元気に暮らしたいという思いが、サプリ市場の拡大になったと考えて間違いが無いだろう。

 病気というわけではない。市の健康診断にゆく。保健婦さんからの指導で、いくらか血圧が高いから、食事に気を付けて下さいね。など、言われるのだ。病気というほどではないのだから、お医者さんから薬を貰うのではなく、サプリを飲んでおくぐらいが丁度良いのではないかという、健康意識である。

 誰だって健康診断でこの数値が問題がある、あの数値は気をつけて下さい。など言われれば、何か健康のためにしなければと当然思う。病院で見て貰うほどでない。未病と言われる訳の分らない範疇に入れられる。そんなことを言えば、人間みんな未病だ。だから健康診断には行かない。健康自己診断である。

 全くどこも悪い所のない人間など居るわけがない。だからいつかは死ぬのだ。生きているのはそれまでの過程なのだ。膝が痛い腰が痛いは農家の年寄なら当たり前の事だ。それをだましだましやっている。そこにサプリだ。インターネットで記事を読んでいれば、何度でもサプリの広告を見せられる。

 今、ウクライナとロシアの戦争の状況を読んでいたのに、ついつい1ヶ月分無料だから、飲んでみてください。などと、割り込まれてしまう。良い兆候がなければそれでいいが、何かの加減で、いくらか痛みが和らいだら、これはまずい。今ならこの定期コース送料無料の定期購入ですという電話きっと入る。

 サプリはすべて薬と考えるべきだ。昔なら、身体を直すものは等しく薬。薬なら、効果が無ければ許可にならないが、サプリは効果が無ければ、もう少し続けている内に効果が出る可能性が高いですと言うことになる。百害あって一利なし。

 サプリで直るなら、医薬品と同じではないか。いや、これは自然由来だから心配ありません。無添加のどこにでもある草が原料です。草を発酵させたものだから安全この上ないです。そうとも言えないことが、紅麹菌で分ったでは無いか。他にだって見えないだけで、何らかの被害は必ず出ている。

 発酵では、その過程で未知の成分が出現する可能性があるのだ。もちろんそれは自分で作ったものだって同じような危険度はある。しかし、食べる量が全く違うのだ。食事から取る量なら知れている。普通の食品を身体を損なうほどの量を食べることはない。

 納豆を作って食べている。ヨーグルトを作って食べている。様々な発酵過程で何かおかしな事が起こらないとは、確かに言えない。それは紅麹菌の事件でよく分ったことだ。しかし、納豆を毎朝食べるナットウキナーゼの量など、サプリに含まれる量から言えば、桁が違う。

 それは発酵食品でなくとも、あらゆる食品が同じことだ。ごまが良ければ、ごまを食べれば良いだろう。シジミが良ければ、シジミを食べれば良いはずだ。どこか気になるところがあるならば、サプリではなく薬を選択すべきだ。

 まず病院に行き、薬を貰えば良い。そうでなかった薬局に行って薬を買えば良い。薬の方がたいていの場合、はるかに安い。日本の医療レベルは高いと思う。紅麹菌の健康被害をしてきした医師の方々は、さすがに良く気付いてくれたと思った。

 サプリを止めて、まずお医者さんに見て貰うことだ。サプリなどと言う中途半端なものが、一日500円はする。その分を食料品にかけるべきだ。良いものを少量多種食べる。それが健康の基になる。確かにサプリよりも面倒くさいかも知れないが、それだけの意味がある。


 

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

のぼたん農園水源の森作り

2024-04-17 04:01:49 | 楽観農園
 水源の森予定地

 のぼたん農園の田んぼは、わずかな湧水を利用した天水田である。この湧水は先枝の集落の基になった尊い歴史ある湧水である。かつて水が途絶えたことはないそうだ。ただその湧く水量は水道の蛇口から出る水と同程度である。つまり、1時間に1㎥メートルぐらいの水の量である。

 この1時間1㎥の水が倍になったり、半分になったり、雨量によって変化している。この水の量で、2反の田んぼまで、出来ると考えて始めた。それは経験的に、見てきた2反の田んぼを維持できる水の量だ。一年間365㎥の水があれば、2反の田んぼは出来る。2反の田んぼが湧水で出来るとは夢のようなことだった。

 湧き水であるということは山からの絞り水である。山の木々に降った雨がしずくになり、地中に染み込み地中をだんだんと浸み流れ、湧き水となって岩盤の間から湧き出ているものである。田んぼをやるためにはこれ以上の水は無いと言える、尊い水である。


水源の森予定地 中央のしげみの下辺りに湧水がある。

 のぼたん農園は2畝の田んぼが10枚である。2畝が一家族の田んぼの面積だから、のぼたん農園では10家族のお米が出来ると考えて計画を立てたものである。一家族が水道でやるなら6千円の水代。湧き水ならこれはただになるが、湧き水を維持するためには、森を作らなければならない。


 全体計画では湧き水の上部を水源を守る林にしようと考えてきた。湧き水の上部は以前はパイナップル畑だったらしい。その後、パイナップル畑から、牛の放牧地になった。放牧地と言っても、その当たりはあまり管理されていなかったためかなり荒れた状態に成っていた。

 その後放牧地も止めて、耕作放棄された状態のまま3年が経過した頃、借りることになった。この湧き水を利用して「のぼたん農園」を作り、田んぼをやるためである。自由に構想して思い通りの、自給農園を作りたいと考えたからだ。その構想の中心となるのが大切な湧水である。



 湧水をできる限り豊かなものにするためには、荒れ地を林にする、出来れば森のような状態にしたいと考えてきた。そのためには苗木を探し、植林をしなければと考えてきた。所が、1年前から苗木をネットで見付けて注文しても、送ってくれる所が一つも無かったのだ。注文は出来るのだが、石垣島の住所で、送れませんとの返事がある。

 それで困っていたら、八重山森林組合に苗木があるということをのぼたん農園の仲間の圷さんが教えてくれた。トマリ木工の講習会に出たら、植林の講習を受ける日があり、森林組合の苗木を使ったというのだ。それが売られているかどうかは分らなかったが、早速行ってみることにした。

 森林組合の苗場には、立派な苗が並んでいて、売られていたのだ。ただ、植林のための苗場だから、樹種は限られていて少なかった。「やらぶ」と「センダン」にした。他には「フクギ」があるということだったが、これは成長が遅いので、水源のためには向かないと言うことだった。



 センダンは成長が早いから、特に水源林にするためには良いので前から捜していた。やらぶは石垣には至る所に防風林として植えられて居るので、これものぼたん農園には適合する樹種だろう。欲しかったのは琉球松の苗木だったのだが、これはなかったのでこれからも探す。

 あるものをともかく植えるということにして、50本ずつ購入した。200本ぐらい欲しかったのだが、まず100本にして、植えてから、又買いに来れば良いだろうと言うことになった。1本税込みで550円である。五年育てた1mぐらい高さのある立派な木だから、価格は安い方だと思うが、流通価格は知らないので良くは分らない。



 早速穴を掘り始めたのだが、土が硬くて、植え穴が掘り進められなかった。何しろ掘った穴に雨が降ったら、染み込まずにそのまま水たまりになってしまった。それ程浸透性のない硬い土壌なのだ。シャベルも鍬も歯が立たないほど堅かった。こんな土で大丈夫かと思うほどだ。

 まずススキやアメリカハマグルマのヤブをハンマーモアーでできるだけ片付けた。風が強いところだから、あまり片付けてしまうのも、どうかと思いながら、結局は3日かけて、予定地の草刈りをした。やってみると奥の方はかなりのぼたんが広がっていたのだ。

 のぼたん農園だから、のぼたんは残す必要があるので、結局半分位はそのままに残すことにした。実は奥の方の上部は植えた方が良いところがあったのだが、そこにはハンマーモアーが入れなかったので、この先整備が進んで一段落付いたらば、「琉球松の苗」を手に入れて、植えたいと思っている。これも出来れば50本。



 草刈りをした後は、植え穴掘りをした。100カ所を掘らなければならないと言うことになる。1日目は一人だったが、7個しか空けられなかった。100個は先の長い話だと思ったが、2日目は五人でやって、66個ぐらいまで掘れた。3日目はついに100個に到達した。仲間が居ることのうれしさを感じた。

 樹木は3メートル角植えにした。間をハンマーモアーが通れるぐらいの間隔にした。シャベルが潜るぐらいの深さに掘った。苗木の鉢サイズからしてそんなものかと考えた。穴には、牛糞堆肥よみがえりを入れて、シャベルで再度突いてなじませておいた。

 所々にユンボで掘った。深い穴があるので、トラックターは気をつけないと穴にはまってしまう。この穴は水が地中に染み込んで入るように、以前掘ったものだ。雨が地表を流れるだけなので掘ってみた。それでもすぐその穴は水が溜まって地中には染み込まない。

 100個掘れたので、森林組合に連絡をした。出来れば今週中に届けて貰う。だめそうなら、金曜日に堆肥を下ろして軽トラで取りに行く。届けて貰ったならば、その日に森林組合の方に、植え付けの指導をしていただく。ビデオを撮影してラインに上げて貰う。それをみんなに見て貰い、20日21日に植林作業を行う。

 森になるのは50年後のことだ。間違いなく私が森を見ることはない。植えた苗が育ち、いくらかでも水源林としての役に立つためにも、10年は必要だろう。その時ののぼたん農園をせめてみてみたいものだ。84歳か。その時作業が出来ていればたいしたものだと思うが。

 植林は次の世代のためのものだ。今現在の経済ではない。こういうことが一番置いて行かれる世の中だ。今のぼたん農園には大きなやらぶや、フクギが生えている。これは戦前ここに集落があった時代に、自分の家のまわりに誰かが植えたもののように見える。

 地域を作り上げて行くのはこうした思いなのだろう。この湧水のそばに暮らしていた人の時間に、思いが至る。崎枝には縄文時代から人は居たのだろう。崎枝赤崎貝塚は、屋良部半島東南の岬、赤崎 の低砂丘上に形成されている。

 この貝塚が土 器の出土を伴わない無土器期の遺跡であるこ とが確認された。貝塚からは石斧、すり石、シ ャコガイ製貝斧、スイジガイ製利器などが出土 した。この赤崎の貝塚に暮らした人達も、この湧水を利用したに違いない。水源を神として祭ったかも知れない。

 のぼたん農園でも水神龍を祭っている。大切なことは未来にある。未来にのぼたん農園の暮らしが、モデルになるように水源の森を作る。水神様に個人的な願いをしてはならない。願いはみんなのための願いだけというのが、日本の神様の歴史なのだ。

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

経済停滞の中、暮らしはどうなるか

2024-04-16 04:01:43 | 暮らし
熱帯睡蓮のティナ

 若い人達はこれからの生活をどうしたら良いのかと、日本の長い停滞期の中で、不安だろうと思う。私が若い頃は、これからどんどん暮らしは良くなると思えたし、実際に多くの家がそうだった。そもそも大学に行くのに、自活できたのだ。フランスに行く資金も自分で貯められたのだ。50年前の日本は今よりも豊かな時代だった。

 ここ30年間徐々に時代は厳しいものになっている。若い頃にはまさか年々暮らしが厳しくなるなど思いもしなかった。それもあって自給生活に入る事ができた。自給の御陰でその厳しくなってゆく、生活の大変さの直撃を受けないで済んだ。自給が出来るようになったのが停滞の30年より前だ。食べるものが自給できれば、後はぎりぎりでも何とかなった。

 いよいよ到来の物価は値上げの春で、さらにものの価格は上がり始めた。値上げしたらものが売れなく成るという不安を企業は捨てたようだ。これからは、遠慮無くあらゆるものの値上がりして行くと見なくては成らない。それでも農産物は安いと思う。おにぎり一個のお米だけの価格は30円ぐらいだ。

 一方収入の方は、大企業や都会の給与所得者はともかく、末端の地方経済や、個人営業者まで収入が増えたわけでは無い。つまり、これからますます格差が広がって行くことは覚悟しておかなければならない。そして、格差が差別社会になって行くおそれがある。

 格差される下層の固定化が起こる。貧困に陥れば、そこから抜け出すことは厳しいことになる。問題となるのはその時の格差を受けた下層の意欲の低下である。この差別を戦って壊さなければならないという、意欲自体が削がれてしまう。すでにその兆候が社会に感じられる。

 怖い時代が近づいている。能力がないから、貧困である事も仕方がにという社会がはっきりとしてくる。すでにそんな空気が広がりつつあるように感ずる。農家になろうという人が少ないのも収入の少ない下層なのだから当然である。収入の良い企業への就職が、上の階層への登竜門になる。

 株価は4万円超えとかで、いかにも日本の経済が良いかのように見えるが、これはあだ花のようなもので、国が盛んに株を買い支えているために、おきた一時的な現象だ。日本政府が株価が下がれば、お金を増刷して株を買うだろうと、見られているから、投資家は株を買う。

 外国人投資家は危ない日本経済を承知で、円安の日本株を買っている。確かに政府は株式投資の御陰で、莫大な財政赤字にも関わらず、しのげているのかもしれない。しかし、不労所得でかろうじて成り立つような、政府がまともなわけが無い。

 日本は世界から、製造業の世界で後れを取り始めたのだ。この現実を認識しておいた方が良い。そして、当分この状況を抜け出ることは無い。日本は観光立国のような、少し製造業を国の本とする国とは違う国になるのかも知れない。日本人が変ったのだから、国柄はそれに従うことだろう。日本人は以前よりも人当たりは良くなった。犯罪も減少した。

 円安である。外国人投資家にしてみれば、日本の株は安いのだ。中国の不動産投資が怪しくなった分、日本の株に投資資金が向かってきたに過ぎない。確かに中国で不動産投資するよりは、まだ日本の企業に投資した方が良いと考えるのは当然かも知れない。

 日本で土地を買えば、安いという感覚は中国人にはあるかも知れない。マンション投資で利益を上げた中国富裕層が日本の株や土地を買うのはリスク分散と言うことだろう。しかし、日本人が株価上昇に惑わされては、まずいことになる。

 株はますます、きわどいものになっている。生活が危ういのに株式投資をするというようなことは、生活の破綻に80%ぐらいは繋がるだろう。生活を確かなものにするには、不労所得を当てにしてはだめだ。先ずは堅実に生活を立てることが、基本だ。

 このさきの日本の危うい状態を考えると、ますます、自給生活の意味が重要になっている。好きなことをして生きて行く、その根底を支える自給生活である。自給生活と言っても、グゥアム島で脱走兵生活をしていた横井さんがしていたような自給生活では無い。

 社会に認知され、むしろ歓迎される自給生活である。地方には消滅して行く集落が相次いでいる。昔は普通に暮らすことが出来た場所が、現代社会では暮らせない場所になっているのだ。人口が五万人で停滞している石垣島でも北部地域は人口が減少し、学校が閉校になっている。

 先日少し書いた、「五島市移住」などの誘致案内を読むと、しっかりと暮らして行く覚悟があれば、素晴らしい場所だと思う。例えば新上五島町では地域おこし協力隊員を5名給与25万円で募集している。この仕事で働きながら、地域で暮らしを立てる方策を見付けることが出来る。

 友人には何人かこの制度で、地方移住をした人がいる。その他の仕事でも、身体を使って働く気持ちがあれば、地方には様々な仕事がある。消滅して行く地域には、若い人を待っている仕事がある。地方には仕事が無いからと言うのは、肉体労働しかないという意味である。

 石垣島は暮らしやすいことは確かだ。年三回お米が取れる場所なのだ。100坪の土地があって、一日1時間自給のために農作業をすれば、食糧自給は出来る。ただし、助け合い、協働する気持ちが必要だ。一人の自給はかなり厳しいものになる。

 自給は一人では大変なことだ。もちろん一人でもできる人は居るだろうが、ひとり出来たならば、今度はみんなの自給にすすで欲しい。みんなの自給は一人の自給の半分の労力で可能になる。一人の自給は一日2時間の労働時間になるが、みんなの時間なら1時間で可能だ。

 いずれにしても食糧自給は農業技術次第だ。科学に基づいた、正しい技術で農業に向わなければならない。変な宗教まがいのエセ科学に惑わされないでやらなければならない。農業技術とは、誰がやっても同じに必ず再現されるものだ。分からない人は是非「あしがら農の会」か「のぼたん農園」に参加して貰えば学ぶことが出来る。

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする