不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

「小さな田んぼのイネ作り」 苗取り ⑥

2019-05-31 04:39:39 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」
この文章は私の書いた「ちいさな田んぼイネ作り」という本の実際の所を、分かりやすく実践してみてもらおうという事だ。この本は5月30日に農文協から、発売になった。自給の為の稲作法である。実践をしながら、確認してもらうための田んぼである。文章でわかりにくい部分があれば、小田原の田んぼで確認してもらえるようにしている。本の捕捉になるような事も書いている。ただやはり本を買っていただき、読んでもらえるとありがたい。欠ノ上観音堂から南の方を見おろせば、旗の立っている3畝の田んぼである。



田植えの直前に、苗取りを行う。苗は5,5葉期の両側に分げつが出始めていて、3本になった苗が理想である。苗取りはただ苗を抜けばいい訳ではない。苗は慎重に扱わなければならない、丁寧な作業になる。何故かと言えば、本来稲は移植されるようなものではない。栽培の都合で、苗床で苗が作られている。それを本田に移植するわけだから、その影響で成長が滞ることを最小限にしなければならない。5,5葉期の苗を移植するのは、一番移植の影響を受けにくいからである。勢いのある成長のスタートに立っているのが5,5葉期頃である。一番勢いがある時期だ。田植えした苗が、1週間後に6葉期になっているような滞りのない苗取りをしなければならない。苗の最も大切な部分は、株の根元である。葉っぱや根の先がちぎれても影響はほぼない。しかし、株の根元を痛めてしまえば、この先の成長に大きな影響があると思って間違いない。


 
株の根元には新しい根が出てくるもとになる細胞がある。そして、新しい分ケツを育てる細胞もある。この重要部分を揺さぶったり、押しつぶしたりすれば大きな障害になりかねない。根の半分より先は切れてしまっても構わない。葉っぱの3分の1は切れてしまっても構わない。根本、株基が重要なのだ。何があってもこの根本だけは大切に扱わなければならない。機械植えの田植えでは、わざわざ葉や根を切る場合もある。だからといって苗はぞんざいな扱いでも大丈夫だと考えてはならない。田植えをして翌朝活着していなければ、苗取りに問題があったと考える必要がある。活着のしるしは朝の葉先の露である。1週間後に6,5葉期になっていなければ、苗取りが粗雑だったことが原因している可能性が高い。1か月後の9葉期に分げつが20本を超えないようならば、この苗取りに原因することが、多々あると考えなければならない。機械植えの田植えの場合、一度停滞してから成長を再開する。しかし、丁寧な苗取りを行えば移植の影響が全くないような成長になる。根の土を洗う事はしてはならない。野菜の苗を植え付けるときに、わざわざ根の土を洗う人は居ないだろう。
 
苗取りは小さな田んぼ(3畝)であれば、早朝から苗取りを2時間かけて行えるはずだ。そして、引き続きその日一杯で田植えをする。田植えに関しては改めて書く。田植えの2日前から、水を抜いておくことを忘れないようにしなければならない。田んぼはアラオコシをして、代掻きをして、その後水を満杯に貼っておく。水のある間に、均しをして、畔塗をする。畔塗は、田んぼの側面に土を塗りつけることだ。土を塗れば水漏れが少なくなる。水の洩れない田んぼであれば、薄い畔塗でも構わない。畔巾が1メートル以上あれば、水はまず漏れないので、畔塗は行わなくても大丈夫だ。均しは水を数日張っておいて、土が柔らかくなったところで、トンボ(トンボとは土均しのT字型の道具である。野球などのグランド整備のものと同じである。)で土の凸凹を均してゆく。全体としては、入水口よりわずかに排水口が低いように均す。3畝ならば、1㎝の高低差に収まるようにという人がいるくらい微妙だ。入水口を止めて、排水口を開ければ、田んぼのすべての水が抜ける状態が理想である。これは水を張った時にしかわからないから、代掻き後に、水位を見ながら丁寧に行う。
 
つまり、1日に田植えをするのであれば、30日か、31日には水をすべて抜く。一度水を抜くのは、田んぼに田植えの目安になる線を引くためだ。線引きは難しいもので、良い土の状態でなければ、かなり引きにくい。土にはたくさんの緑肥が混ざっている。その緑肥を引っ張ってしまい、線が見えないということも起こる。田植え当日に水を抜いたのでは、地面がトロトロで、線が見えない。苗取りを理想的に行うためには、苗床の代掻きを深く十分に耕し、充分に代掻きをしておくことが大切である。柔らかい苗床であれば、苗を痛めることなく、苗取りをすることが出来る。苗をとった後大切なことは、苗を乾かさないことだ。水があれば必ず水のあるところに苗は配置する。田んぼの均しに5時間かかった。苗取りに2時間。
 
 
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2地域居住の一年計画

2019-05-30 04:09:58 | 石垣島
2地域居住の一年計画を立てている。気付いたことがあれば加えてゆき、一年間の石垣島生活と、小田原生活がうまく調整されるように考えたい。しばらくの間は役立つだろう。ブログで公表することでもないのだが、ブログに書いておけば、小田原のパソコンでも、石垣のパソコンでも、持ち歩くタブレットでも確認できる。予定にいい加減な私でも間違いが減る。全体としては8か月石垣で水彩画を描く。4カ月小田原で農業になるようだ。場所を変えてみるということで、やっていることがくっきりとしてくる。石垣にいるときには、絵を描くこと以外ない。小田原にいるときには農業以外にない。これが2地域居住の一番の恩恵のようだ。2地域居住に興味ある人には具体的な方が参考になるかもしれない。

1、水彩人  東京都美術館展9月27日~10月5日 準備が22日から
      名古屋展12月10日~15日 展示が9日たぶん。
      一枚の絵小品展 9月30日~10月12日 水彩人展と重なる。
      水彩人全体会議 7月10日前後らしい。6月初めに決定。
      水彩人総会 1月中頃が多いい。
      絵を語る会 できれば年4回行う。1月総会前後、4月、7月(16日)、10月
            本展で行う。  

2、田んぼ  田植え 4月26日に来て、6月10日に帰る。
      草取り 7月に一度来る。水彩人の全体会議に併せて。
      稲刈り 9月17日に来て、10月19日に帰る?。

3、大豆   播種 7月6日 水彩人全体会議と併せて播種可能か。調整。
      収穫 11月18日 田んぼから帰るまでに収穫。調整。
      味噌づくり、1月半ば 水彩人総会と併せて来たいが、寒い。

4、小麦   播種 11月 18日に帰る場合、播けるか。
      収穫 6月 10日までに収穫を出来るか。
      草取りは来ているとき頑張る。

5、タマネギ 播種 9月21日あたりなら。
      植え付け 11月がどうか。18日まででは無理か。
      収穫 6月は居る。

6、お茶摘み 5月の連休 可能 来年は2日とも予約したい。
      畑管理は来ているときにやるものには参加。
      5月25日と10月20日。

7、農の会  定例会第2土曜日夜6時30分から、可能なら日程に配慮
      自給祭が12月2週か1週目の土曜日。7,8日あたりだと名古屋展と
      
8、舟原溜池 来た時に草刈りはする。
      カイボリを11月に来た時に行えないか。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1月 石垣で正月は始まる。
  小田原滞在1週間 味噌づくり 水彩人の総会 絵を語る会④ 
  調整が必要

2月 石垣で田んぼの一番美しい季節を描く

3月 石垣の田んぼを描く

4月 26日から小田原の田んぼの準備が始まる。絵を語る会。①完了

5月 小田原で田んぼの準備と田植え

6月 10日石垣に戻る。小麦の刈り取り8日予定。

7月 小田原滞在。 5日から17日まで
   水彩人全体会議。 田んぼの草取り。大豆の播種。
   16日 絵を語る会 神田アポロ画廊②

8月 石垣で絵を描く。

9月 沖縄本島で三線づくり9月13(金)14(土)15(日)16(月)
   9月第2週の土曜日
   17日から小田原。水彩人本展準備。出品作準備。運び込み。
   タマネギの播種17日以降なら参加可能かも。
   20日お茶の整枝作業

10月 稲刈り。5日6日 絵を語る会③ キャロット旅行。 
   12日同窓会らしい。
   どこで、石垣に戻るか。

11月 小麦播種11日前後。ここでもう一度小田原に来る。
   大豆収穫もこの頃。玉ねぎ定植もある。 
   舟原溜池カイボリ(12月かどちらか)

12月 石垣で絵を描く。 
   名古屋展には短期的に行くことになるかどうか。
   農の会自給祭は2週目の土曜日?

年間スケジュールとして、
1月 小田原に来る。短期  1週間 1月10日~17日
4月 小田原に来る。長期  1月半 4月26日~6月10日
7月 小田原に来る。短期  7月5日~17日
9月 那覇で三線づくり   4日間 9月13日~16日
9月 小田原に来る。長期  9月17日~10月14日前後
11月 小田原に来る。短期 11月3日~11月20日前後
12月 名古屋・自給祭   12月9日~12日、来れるかどうか。

6回の行き来になる。

この計画が5年間行えればと願っている。たぶん今の身体の様子であれば、75までは続けられそうである。最近のフィットビットは2万歩の日もある。平均で16000歩になっている。身体がだいぶ活が入り鍛えられた気がしている。休みなく、毎日農作業を6時間は出来る。後、4日間のことである。これは丈夫な体に産んでくれた母や、父のお陰である。相撲取りは最近そう言うことになっているらしい。


コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石垣島への自衛隊配備の是非

2019-05-29 04:35:23 | Peace Cafe
以下引用である。とても重要な視点なので、そのまま転記させてもらった。宮古島でもミサイル配備が、約束違反で配備されていた。今度は与那国島である。

 2016年3月に陸上自衛隊沿岸監視隊が配備された与那国島(沖縄県与那国町)では、自衛隊誘致の賛否を巡り住民同士の激しい対立が続いていた。防衛省が弾薬庫を「貯蔵庫」と説明していたことが判明し、住民説明会で誘致のメリットを強調した当時の町担当者は「知っていれば、住民への説明も違っていた」と悔やむ。 
 「自衛隊が来ることで何の脅威があるのか。沿岸監視部隊なので、ドンパチするような訓練は頭にない。あくまで消費する部隊だ」。一二年十二月、外間守吉(ほかましゅきち)町長は町議会でこう力説し、自衛隊員や家族が住むことによる経済効果へ期待を示した。
 一四年二月に町が開いた住民説明会でも同様に説明された。
 当時の担当者は「前年に防衛省から施設概要を聞いた時は、貯蔵庫という説明で、町の関心はレーダーによる健康被害などに集中した。部隊の装備は小銃や機関銃程度だと思ったので、住民には誘致のメリットばかり強調した。迫撃砲弾などを入れる弾薬庫だと分かっていたら、住民への説明もだいぶ違っていた」と打ち明ける。
 この説明会では、住民から、米軍の基地使用を危ぶむ質問も出た。外間町長は「米軍が共同使用したい場合は、日米地位協定で拒否できない。心情として、米軍に使用させないことを貫きたい」と苦しい答弁に追われた。
 しかし、既に〇七年六月には、米海軍の掃海艦二隻が町の祖納(そない)港に寄港し、港を調査。内部告発サイト「ウィキリークス」によると、当時、米国の駐沖縄総領事だったケビン・メア氏は、外交公電で「台湾有事の際、与那国島は機雷除去の作戦拠点となりうる」と米本国に報告していた。
 メア氏は取材に「軍拡を進める中国海軍と尖閣諸島で対峙(たいじ)した場合、一番近い港が与那国島、石垣島、宮古島になる。南西諸島の島々を対中国軍への戦略拠点として利用しないと有事に対処できない。日本の防衛上も米国の防衛上も必要な戦略だ」と述べる。
 本紙の取材で弾薬庫だと今月知った四十代の住民男性は「基地ありきが前提のよう。防衛省が『貯蔵庫』としたのは、弾薬庫を隠して配備を認めさせるために意図的に使っていたとしか思えない」と批判する。(望月衣塑子)

石垣島で自衛隊配備が進んでいる。3分の1の住民が住民投票をしたいと、署名して請願した。ところが、議会も市長も住民投票をしないと決めつけて、拒否している。与那国島では住民投票が行われて、わずかの差で誘致に決まったのだ。もし、米軍が利用する可能性もあるという事が、分かっていて投票が行われていれば、住民投票の結果は自衛隊拒否になったかもしれない。しかし、与那国島は自ら住民が選んだ結果である。ところが、石垣島では、中山市長が国の安全保障にかかわる問題は国の専権事項である。国の専権事項に対しては、住民投票は無意味であるとしている。これは誰が考えても論理的におかしい。民主主義国家において、住民の意思は最優先される必要がある。自衛隊配備は島の未来を左右しかねないほど大きな選択である。それに対して、その島に暮らすものが意見も言えないという事では、民主主義国家ではない。

何故、住民投票を避けるのかと言えば、住民投票をすれば、自衛隊拒否が予測されるだからだ。住民拒否の中、自衛隊誘致の市長が立場を失う事が目に見えているからだ。沖縄の米軍辺野古基地建設を見ればわかることである。あの二の舞は避けたいから、住民投票を拒否している。石垣島の未来は観光産業である。竹富島の人気は凄い。今度こそ西表島が世界遺産になるだろう。さらに世界から注目される観光地点になるに違いない。石垣島は農業も漁業も盛んである。自給的な島である。盛んになる島内消費である。観光客が食べてくれるので、生産意欲が増している。アジアからの観光客が中心である。その石垣島にアジアに向けての、ミサイル基地を作る愚かさを、観光客はどう考えるだろうか。そんなものは見たくもないはずだ。観光の島はどこまでも平和の島でなければならない。無防備中立こそ平和の島である。

アベ政権が中国を仮想敵国と考えて、すぐにでも攻めてくるほどの危機があると判断しているなら、今日からでも平和外交を模索しなければならない。日本は国際問題を平和的手段で解決すると決めた国なのだ。少なくとも、自民党憲法が出来るまでは、現在の憲法を尊重するのが、政権の義務である。石垣島に自衛隊基地を作ることは、石垣島に防人になれという事だろう。住民が防人の島は嫌だというのは普通のことである。日本の軍事力で、中国に対峙しようというのは不可能である。とすれば、当然米軍が出てくる。石垣島の基地を米軍が共同しようという形で、原爆を持ち込むかもわからない。細菌兵器を持ち込むかもしれない。そういう事にしなければ、軍事的対抗など出来ない。こうした悪の連鎖をどこかで断ち切るのが、日本という国の未来のはずだ。ひどい戦争をして、敗北して、そして決めた日本の未来の方角は平和国家である。

住民投票で、自衛隊基地が決まれば、その判断を尊重したい。間違った選択であるとしても、原子力発電所を誘致した判断も住民自身の判断である。その地域の未来に対する責任を、そこに暮らしている全員が持つ必要がある。だからこそ、住民投票はしなければならない。国の専権事項などというマヤカシの言葉で、ごまかしてしまってはならない。このまま、住民投票を拒否して、自衛隊基地を誘致すれば、中山市長は未来の石垣島に暮らす人々から、どう思われるかを考えてみてもらいたい。わることが起こたびに、市民は反対していたのに、中山市長が強引に自衛隊を持ってきたのだという事になる。尖閣諸島は、中山市長自身が国際裁判所の判断にゆだねるという方針を示すことだ。それでこそ、石垣島の市民の安全が確保される。それこそ、市長の役割ではないか。





コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽観主義者と問題思考が揃えば上手く行く。

2019-05-28 04:06:11 | 身辺雑記
問題点に気付く人と、可能性に気づく人がいる。二人が揃うと大抵のことがうまく進む。まんぷくラーメンの松坂慶子おばあさんは、問題点から発想する面白さだった。娘役の安藤サクラのふく子さんは可能性の方角をかぎつける天賦の才がある。親子だからと言って、大いに異なる。私の母はとことん、松坂慶子である。それくらいの美人であったという自慢ではない。まず、問題点から考える。父は冒険的で、何でもやりたがりの人であった。思いつくとすぐ始めてしまい、軌道に乗ると忽ちに興味を無くした。記憶力と、持続力がないとえばっていた。その結果母は次起こる問題にいつも向かい合わざる得なかった。アクセルとブレーキがなければ車は運転できない。問題は誰がハンドルを握るかである。私は安藤サクラさん型である。面白そうな良いことの方ばかりに頭が行ってしまう。人間が希望的観測で出来ている。これでずいぶん得をしてきたと思う。面白いことをあれこれやらしてもらった。なんやかんや、8回も引っ越しをした。もっと良くなるだろうという方に意識が行ってしまう。そしてついには石垣島に行くことができた。石垣に行けば自分の絵が描けるだろうと、そう思うといてもたってもいられなくなる。先に待っているだろう可能性のわくわく感で楽しくて仕方がない。

次のことを思いめぐらせている間は悪いこと等全く思いつかない。その為に後で無駄になることも多いのだが、記憶力が乏しいせいか後悔することはない。お坊さんが夏の炎天下、油の入った甕を背中に背負って汗だくだくで、山門にようやくたどり着く。いよいよお山に続く階段の上まで登りつめたところで、甕が出っ張った石にあたって割れてしまう。するとその僧は何もなかったように、そのまま振り向きもせずに寺の庫裏に入って行ってしまった。達磨大師の覚悟である。「失(しつ)は頭を廻(めぐ)らさずして甑(そう)を堕す。」無駄になることなど何もない。絵を描き始めた子供のころには、絵描きというものになるつもりだった。全く不安もなくなれると思っていた。絵描きにはなれなかった。それでよかった。後悔のようなものは少しも湧いてこない。いま絵が描けるという事で十分である。子供のころ描いた夢は自分の鶏を作ることだった。そしてササドリという鶏を作った。好きな鶏を思う存分飼う事が出来た。しかし、それは鶏種として残ることなく、消えた。それでよかった。そしていま絵を描いている。絵も私が死ねばすべてのことは消えることだろう。振り返らず山門を入っていく覚悟。

先日、着物を廃棄していた。60枚くらいあった。燃やしてしまうのも、さすがにまずいと思い、そういうものを集める金沢のヤマトクという業者に送ることにした。着物を無料で送ることが出来る。そして、査定してお金が入金されという。お金のことは1週間は立ったがまだ音沙汰がないので、どうだかわからないが、タンスの中身は片付けることができた。タンスは田植えが終われば廃棄する。着物は袋に入っている。空けて確認するのはシノビないで、そのまま送られてきた段ボールに詰めていた。するとなんとなく気になる袋がある。何の気なしにその袋だけは空けてみると、僧衣である。さすがに、申し訳なさで手が止まった。僧侶のおじさんがくれたものである。茶色の衣だから、間違いなく私が僧侶になった時に、頂いたものだ。ここで出て来たということは、死ぬときには着て行けという事だ。僧侶として生きているつもりであるが、見た目僧侶であることとは違うと考えている。私が僧衣を着て暮らしていれば、何かありがたい存在と間違う人もいるかもしれない。山頭火が衣を捨てたように、本当の行脚は衣を着ていては出来ないと思ってきた。

大抵のことは上手く行くわけでも、悪くなる訳でもない。その両方が待っている。良くないことが起こるという事は、次に良くなる前段である。禍福はあざなえる縄の如しという見方は、長い目で見れば真実である。田んぼの面白いのは、予測できない問題が起こるからだ。乗り越える面白さ。受け止め方次第である。ダメな場合を先に予測する人を悲観的な人という事は出来ない。問題解決能力が高く、先回りして問題に気付く人である場合が多い。そういう人は思いやりがある人と言える。先々の心配してくれているのだ。母は、全国の天気予報を見ていて、今日は雨だと。雨の所を探しては教えてくれていた。確かに畑仕事には雨を困る。しかし、雨が降ると風景が良くなる。晴れの日より、濡れ色の風景はすばらしい。陰った日の方が色は良く見える。石垣島で何をするのですかと、聞かれることが良くある。「絵を描きます。」こう答えるほかない。「良い趣味があってよかったですね。」と言われる。全くそのとおりだと思う。絵を描いて居ればいいという事ほどありがたいことはない。人生そのものの楽観である。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「小さな田んぼのイネ作り」 代掻き ⑤

2019-05-27 04:55:59 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」
代掻きをした。アラオコシが終われば水を入れて、田んぼを水で満杯にする。この時が一番水が一番必要な時になる。地域全体で田んぼの水が必要なる。川の水もぐんと減ってしまう。手順を考えて上手く水を溜めなければならない。アラオコシをした土の塊を徐々に水が濡らしてゆく。初めはなかなか水が溜まらないはずだ。田んぼの周囲を足で踏みながら、穴を埋めてゆく。水を追いながら、穴を埋めれば田んぼ全体に水が広がる。冬の間に、モグラやネズミや沢蟹が畔に穴を空けている。これを塞がないと田んぼには水が溜まらない。周囲の畔際から、代掻きをして行けばいい。スコップでアラオコシをした土の塊も、水で濡れれば、簡単に崩れるようになる。田靴を履いて、土を崩しながら、ぐちゃぐちゃと練りながら、平らにしてゆく。鍬を持ちながら、土を砕き、平らにする。この時田んぼ全体が平らになるように、土を移動させる。普通田んぼの中央が高くなることが多いいはずだ。全体としては、入水口から、排水口に向い、わずかに入水口が高い方がいい。水を止めれば、忽ちに田んぼの水が無くなるという状態が良い代掻きである。

翌朝5時、水が満杯になった田んぼ。

機械で代掻きをすれば、土はシャーベット状になり、トロトロになる。一見細かくて良い代掻きに見える。一般にはタテ浸透が少なくなり、田んぼはよくできると言われるが、考え方を変えて、タテ浸透があるから、良い田んぼになるという耕作が、小さな田んぼの特徴である。シャベルと足でやる代掻きはかなり荒いものになる。この荒さを生かした田んぼ耕作にしなければならない。タテ浸透が大きいという事は、水が沢山必要という事になる。しかし、田んぼの水利が良くなっている。その上田んぼが減少している状況下、水が足りないという事は、まずないだろう。穴をふさぎ、充分に水がある中で代掻きをして行けば作業も楽だ。田んぼも平らになる。代掻き作業をしながら、石を拾い、外に出す。石は出来るだけない方が良いので、どんな作業の時でも気が付いたら田んぼから外に出した方が良い。

朝の苗床

田んぼに緑肥があまりに多く繁茂してくれた時には、アラオコシの前に刈り取った草を一度外に出しておくのも良い。ナイロンカッターのかりばらい機があれば、草は粉々に砕けるので、粉々に砕いておけば、アラオコシ以降の作業は楽になる。刈払い機も使わないで鎌で刈るという事であれば、一度持ち出しておいて、田植え後に草を田んぼに戻すと、水中敷き藁状態になり、雑草が出ることを抑えてくれる。この敷き藁抑草は手間がかかるが、とても良い田んぼになるので、例えば、周囲にススキでもある田んぼなら、全体に敷き詰めてやる手間をかければ、素晴らしい田んぼになる。冬の間に緑肥が充分に育たなければ、大切な腐植不足になる。畔に生えた草は必ず田んぼに入れる。野菜の残渣も田んぼに入れても良い、ジャガイモを入れると草が出ないといって、目の出てしまったジャガイモを大量に田んぼに入れる人もいる。これは本当かどうか経験がないのでわからないが。腐植を増やす意味でも、田面に日に当てないという意味でも、植物残滓を田んぼに入れてゆくことは良いことである。

田んぼ全景

足踏み代かきは子供でもできる。昨日は小さな子供が4人来て、田んぼで遊んだ。10人での代掻きになった。子供がいると作業がはかどる。大人が働く姿は、子供には良いものである。子供が遊ぶ姿は大人には良いものである。楽しい作業にならなければ、自給の田んぼをやる意味がない。農家の親父に、お前たちは田んぼで笑っていて不謹慎だと怒鳴られたことがある。笑いのないような田んぼだから、子供がやらないのだ。そうは言い返さなかったが、自給の田んぼは楽しいから良いのだ。代掻きは3畝の田んぼで12時間である。大勢でやったので、私一人でやった場合の時間を割り出した。私の方がまだ早いようでもあるが、一人でやれば疲れてしまうだろう。12時間というところが良いところである。代掻きが終われば、水をためておく。水柄待ったところで、トンボで均しをするのが次の作業になる。

代掻きを始める前の田んぼ。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「小さな田んぼのイネ作り」 アラオコシ ④

2019-05-26 04:28:51 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」
26日、4時30分の水の溜まり始めた田んぼの写真。
田んぼの準備を始めた。田んぼの直接の作業はアラオコシから始まる。5月22日から25日までの4日間行った。ギリギリまでアラオコシは遅らせるためには3つの理由がある。一つは田んぼに水が入ると、雑草が発芽を始めるからだ。もう一つは緑肥の種が、結実するのを待っている。もう一つはミツバチが可愛そうだから。1日3時間手作業でアラオコシをした。このかん、渡部さん、太田さん、杉山さんが手伝ってくれた。私は半分の1畝半の作業をしたという事になる。25日に水を入れ始めた。連日の作業で翌朝腕が張っていたが、痛いというほどではない。この田んぼは手作業でどのくらいの時間がかかるものかの確認をして行く。アラオコシはなかなかの肉体労働である。昔の屈強の青年は田んぼのアラオコシを一日1反を深くやったと書かれている。信じがたいものがある。オリンピック選手のことで、普通の人のことは歴史に残らない。普通の人はその半分の5畝くらいではなかったのか。私が全体の半分アラオコシしたので、1畝半のアラオコシで、12時間であった。少し衰えに驚いた。昔の70歳ならば、年寄りも良いところで、たぶんアラオコシは出来なかっただろう。アラオコシが出来なくなった時が田んぼ引退の時だと思っている。予定では5日間を見ていたが、5日間一人でやったとして、2畝が限界だった。このくらいが、自給田んぼにはちょうどよいのかもしれない。田んぼ全体のトラックターによるアラオコシは27日までに終わる。終わったところで水を入れる。29日、30日が代掻きになる。苗取りが、30日31日になる。そして、田植えが6月1日2日だ。



苗は例年と同様に順調である。苗が順調に生育するという事が、畝取りへの道である。手前がサトジマンで、奥が喜寿糯。順調で当たり前のことなので、真剣に管理している。1日3回は見に行く。今年は7つのほとんどの田んぼの苗が、直播になっている。セルトレーより直播の方が合理性があるという事が徐々に浸透してきた。良い苗なら、1本植が出来るから、播種量を減らしても収量は減らない。良い苗とは何度も書いているが、5,5葉期で両側に分げつのある苗である。しかも、それを5週間で作らなければならない。イネは種まきから出穂まで、15枚の葉をほぼ1週間に一枚出してゆく。この速度が稲の成長の順調な速度なのだ。苗はすくすくと停滞のない成長速度が必要になる。週一枚よりも遅い苗は何か改善すべき問題点がある。イネの種を直播にしてみればわかることである。最適な環境で直播にすれば、イネの生理が1週間に一枚という事が確認できる。現在4週目で4葉期である。わずかに分げつが見える。



アラオコシを手作業でやるのは、利点もある。やりながら、石やガラスを取り出すことが出来る。とんでもないことだが、田んぼにごみを投げ入れる人がいるので、結構ガラスがある。ガラスを拾う気持ちの情けないこと。道路の脇の田んぼなので、車の窓から飲み終わった瓶や缶を放り投げる人間が居るのだ。高い崖の下なので、そのビンが割れて田んぼに入る。ひどい話だが、現実にあることなのだ。田んぼに対する、敬意のようなものが失われるている。昔なら、そんな罰当たりのことはできなかったのだろう。アラオコシをしながら、土の中の様子を見ることが出来る。土の中は意外に複雑である。鉄分の錆びたような赤い部分と粘土分の塊のようなところが入り組んでいる。水が湧いてくるところもあれば、乾いたところもある。草の根の深さもわかる。この田んぼは去年稲刈りが終わりそのまま、レンゲを蒔いた。秋起こしをしなかった。レンゲはそれなりに覆ったのだが、冬の雑草もサンゴ草やセリ、カラスムギ、ネズミ麦、雀の鉄砲、などが混ざっている。



作業の途中の様子。レンゲの花を長く残した理由がもう一つあった。田んぼで飼っている、ミツバチが可愛そうだからだ。アラオコシを始めて、4日目。蜂が分蜂をした。レンゲが無くなったので怒ったという訳ではない。レンゲの種取りをすればもっと良いのだが、これは意外に大変なので、一度で懲りた。レンゲの草部分も枯れてきている。相当な腐植分がある。レンゲが一番腐植量が多くなる冬の緑肥だ。花盛りがレンゲを刈る適期とする考えもあるようだが、それではまずミツバチが可愛そうだろう。そんな馬鹿なことをした人は江戸時代には居なかったはずだ。田んぼで重要なことは腐植量の増加であって、窒素分は心配いらない。雑草の根は起こすのが大変だった。レンゲはそれほどでもない。レンゲは根が細かく浅い。腐植量は結構ある。地中にはオケラがいる。ミミズだって、アメンボだって、、苗床には居た。やなせたかしさんは凄かったな。などと思いながらアラオコシを続けた。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

維新の会に現れた、丸山、長谷川の危機

2019-05-25 04:10:36 | Peace Cafe
参院選(比例区)に日本維新の会公認で立候補予定の元フジテレビアナウンサー長谷川豊氏(43)が、講演会で被差別をめぐって差別発言をした。長谷川氏は、「士農工商の下に、人間以下の存在がいる」などの言葉を使った上で、「当然、乱暴なども働く」「プロなんだから、犯罪の」と述べた。

丸山氏の戦争発言に続いて、すごい維新の人間が登場した。かつてこんな二人ほど凄まじい政治家は思い出せない。あの丸山議員の戦争発言の後の居直りの姿が、すごい。そして、長谷川候補のひどさは半端じゃない。この人はその前に、人工透析患者を自業自得だ、死ね。などと書いて問題を起こしている。丸山、長谷川両氏には共通する愚かさを感じる。あの以前代表だった橋下氏とも共通するものだ。それはひとくくりにすれば、目立ちたい人間の業である。目立てば、何でもしてしまうブロガーと共通な自意識。目立ちがり病という、病気と考えた方が良いのかもしれない。自民党の深谷議員が「国のために死ねるのか」こういう覚悟が政治家には必要だと書いている。まあ、こういう視点から政治家の姿勢を発言することとも大きくは違わない。深谷氏も目立ちたいだけだ。政治家が国のために死ぬ必要など全くない。何故こんな物言いになるのかと言えば、国のために死ねると言えば、立派な覚悟の人間というように聞こえるからだ。もし聡明な政治家が本当に国の為を考えるならば、国のために死ねる人間であれば、そんな覚悟を間違っても口外しない。覚悟とはそういうものだろう。そんな言葉を口にする人間が政治を行えば、ろくなことにならない。国のために死ねない人間を軽んずると表明しているのだ。私の様な臆病者を笑う事だろう。

丸山氏の戦争発言は公務員法違反である。国会議員は公務員である。公務員は公務中は憲法に従う義務がある。丸山氏は国後島訪問団の顧問の立場である。北方領土に関する衆議院特別委員である。どう考えても公の立場で、国後島に行っているのだ。自費で行っているわけではない。ここでの北方領土にかかわる発言は公のものになる。外交問題になっても仕方がない立場である。一個人の発言で終わることはできないことである。この発言で国会議員を辞職しろと言う野党の6党の要求は当然である。与党自民、公明両党は議員の発言で辞任要求という事は前例がない、言論の自由にかかわるとしている。何を怖れているのだろう。インターネットでも、丸山発言を弾圧するのは言論の自由の問題だという主張がかなりある。今回の戦争発言問題は、言論の自由とは関係のない。議員が外交にかかわる公務中に憲法違反発言をしてはならない。という当たり前の話である。もし、外務大臣が同じようなことを発言したらさすがに日本国が困ることは誰にでもわかるであろう。丸山氏が選挙演説でこういうことを発言するのは言論の自由である。事例としては警察官が公務中に、「泥棒するほかないだろう。」などと発言したら、退職してもらわなければならない。言論の自由を守るためには、その意味をはき違えてはならない。

長谷川氏を候補者にしていた維新という組織は、ずいぶんおかしな政党だ。長谷川氏は目立つための発言をあえてしている。渋谷のスクランブル交差点に、ベットを持ち出した人間と変わらない。この人はフジテレビのアナウンサーだというから、言葉のプロのはずだ。承知でこういう馬鹿なことをしているのだ。あの橋下氏が、タレント弁護士だったことと、そして今は政治タレントを継続していることと共通する。目立つことが維新での人間の評価基準なのだろう。問題をよく知らなかったなど弁解しているが、そんな無知な人間が、政治家になること自体問題であろう。知らなければ発言しなければいいのだが、つい極端なことを発言して、注目を浴びたいという性格が出てしまう。フジテレビのアナウンサーというからフジテレビの質というものにも関係している。テレビでは目立てば視聴率が上がり、評価される。その際どいところを上手く狙うと褒められる。こうして政治家が、電通に演出されるようなタレントになった。一番当選しやすい演出を考えてくれる。演出を曲解した長谷川氏は暴投をした。何が受けるか以外にない選挙になった。小選挙区制がおかしな議員を産んでいるのだ。

日本をどんな社会にしたいのかという事が国会議員になるための、基本姿勢である。国家の方向というような本質問題は当選したら考えます、というような小田原の衆議院議員では困るのだ。結局は有権者の問題になる。有権者が目立つような人間に投票する。世界中がトランプ現象である。アベ政権は衆参同日選挙が有利だから、解散をするという。解散の大義がないどころか、選挙以外に興味がないという本音が出ている。要するに自民党の国会議員は就職の成功組に過ぎない。そして、自民党に入れてもらえない人たちが、維新の党に入れてもらう。以前は国民党に入れてもらっていた。このひどい状況を作り出したのは、小選挙区下の公明党の存在だと思う。与党に主張のない利己主義政党がくっついている。日本の政治の重要な数合わせに、公明党というどちらにでも転ぶ政党が存在する。その時一番得な方に動く利己政党がある。その為に、政治に言論が失われた。創価学会は現世利益を宗旨としているのだから、そういうものかもしれない。






コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NOAFに関して体験したことを書いておく。

2019-05-24 04:44:34 | 地域

小田原有機の里づくり協議会の2018年度の活動に関して、NOAFとの活動を完全にお断りした。この経緯に関して、できる限りを書いておきたいと思うが、差しさわりがきっとあることだろうから、一部は書く訳にはいかないのだろう。それでもNOAFと言う組織のおかしなかかわりだけは記録しておいた方がいいので、書き留めておく。小田原有機の里づくり協議会は小田原にある有機農業にかかわる4つの団体が、立ち上げ活動をしてきた。国の有機農業推進法が出来て、全国に10か所有機農業のモデル事業を立ち上げるという話が出たので、笹村が個人的に動くことで始まったことだった。国の有機10年ほど前のことだ。今まで継続して活動しているのは、小田原ぐらいだという話だ。他はどうなったのだろうか。小田原の農業を盛んにしてゆくためには、全く交流のなかった4つの団体が連携が出来ることが重要と考え、笹村が他の3つの団体と交流があったので、呼びかけてひとまとまりの団体を作ることになったものだ。ところが立ち上がりにおいては、MOAが単独で進めるということになり、呼びかけた農の会が外されるということになった。ある市会議員の画策があってあの時もおかしなことになった。ここは我慢して、翌年から加わるということになった。この事業に申請することをきっかけに何か小田原の農業に新しい風が生まれることを期待したわけだ。

そして、10年間継続して活動を続けてきた。しかし、残念なことに小田原の有機農業がこのことで広がったという事でもなかった。有機農業の拡大という意味では行き詰まりが生じてきたことは事実だ。その原因の一つは4つの組織が、連携して取り組む活動という事がなく、各組織がそれぞれに事業をこなすという形しか取れなかったことに原因があると考えていいのだろう。そうした状況下数年前から、代表である小田原市長加藤憲一氏から有機農業の家庭菜園をやったらどうかという呼びかけがあった。そして、それに呼応する形であしがら農の会から協議会全体で取り組む活動として、有機農業の農業塾を提案した。たぶんこういう活動は農の会以外では立ち上げることが難しいと思われたからだ。農の会が担当になり、4団体が参加する形で、取り組みを開始すれば、協議会全体で新しい展望が開けるのではないかと考えた。そして、2018年度の活動として、会全体で取り組むという事までが決まった。予算書も有機農業の市民農園づくりという形で申請することまで決まった。

ところが、申請の1週間前になり、突然NOAFという団体が登場した。それまで全くかかわりもなかった組織である。オリンピックの有機農産物生産という事で、1年前に1度だけ訊ねて見えたことがあるとの話だった。そのNOAFが突然小田原有機の里づくり協議会が今年申請しようとしている書類では農水省に事業承認されないので、代わりに自分たちが作ってあげるという事になったというのだという。その話を聞いて何のことだか理解も出来なかったのだが、NOAFが小田原の協議会の一員になって、一緒に活動するというのであれば、受け入れてもいいという事を話した。小田原の協議会が申請するのであるから、それが当然のことだと理解した。時間のない間に、私は確認もできないまま、従来の案を取り下げてNOAFの1週間案の申請をしてしまった。そして、NOAFの申請が通過した。ところがNOAFは小田原の協議会には入らないという。それで何をするかと言えば、補助金を自分たちがもらって指導をして上げるのだというのだ。そもそも新規就農数年目の、実践的には大した活動をしてもいないTさんという人が指導してくれるという話だ。それではつまり、言いにくいが指導料搾取ではないか。小田原の事情も分からいまま経営指導など出来るわけもない。有機農業の技術で言えば、新規就農のTさんである。長年やってきた我々に何も教えるものなど持っているわけもない。そのTさんが小田原の協議会に入り一緒にやりたいというのであれば、歓迎する。その旨のメールを送ったが、返事もない。今からでも入りたいというのであれば、入ることは構わないと言ったが、最後まで指導をしてやると威張っていた。あきれた人だった。

結局の所NOAFという組織は補助金を自分たちの組織に落とすことが目的と思われた。だから、こちらで指導をお願いしたい先生を拒否して、自分たちが指導を担当しなければだめだというのだ。その指導をするというTさんが能力が高い人ならともかく、私から見ると駆け出しのさしたる能力のない人である。小田原の有機農業をかき回されることは私には全く許せないことであった。自分のやっている新規就農の農業経営は指導などしている余裕があるという事がおかしい。まずは、Tさん個人が小田原の有機の里づくり協議会に加わり、指導を受けるところから始めるべきだろう。どうも経営を指導するということらしいのだが、それならば当人がやっている農場がいくらかでもましなものでなければ始まらない。新規就農してまだ日も浅い。たいした農場ではない。立派な納税の申告書を見せてもらいたいぐらいだ。たいした農場の経営ができていないことは明らかである。

こうした紆余曲折があり、全く無礼ということで有機の里づくり協議会としては、NOAFを活動途中で断った。断れば、農水省から補助金もなくなるということであったが、この期に至れば、そんなことは構わない。斯うして活動が一度は白紙になった。小田原有機農業市民農園を、農の会が担当としてやるという原点に戻った。今度は有機農業を志す人たちの営農的な指導という事でやる。そうでなければ、NOAFの申請した書類に基づく活動にならないので、有機農業塾という事になるのかと思う。申請書が我々の出したものと違うから、有機農業塾は独自予算でやるしかなくなった。NOAFをお断りしたからには、もう来年度はないという覚悟である。NOAFの様ないわゆる農水の外郭団体が、補助金申請を代行して、進めようという事業はそもそも不自然なことであった。もう補助金とかそんなことは関係なく、小田原の農業の活性化の為に、有機農業にかかわるものとして、何ができるかを考えてゆくということだろう。そして2019年度NOAFから断られるだろうと言われた計画案とほぼ同様のものを覚悟を持って申請をした。果たして認められるのであろうか。それが認められたのだ。そんなものでは認められないと言い切ったNOAFの主張は何だったのだろうか。

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「なつぞら」のモデルと神田日勝

2019-05-23 04:07:55 | 身辺雑記
NHK連続テレビ小説「なつぞら」は北海道の話で始まった。弥一郎さんという森の彫刻家は砂澤ビッキさんではないか。そして絵を描いている青年は神田日勝さんではないか。新宿中村屋で修業した、和菓子屋さんは六花亭さんではないか。そして主人公なつさんの家族は、四葉牛乳さんの家族ではないかと、一人想像している。十勝には水彩人の仲間が何人もいる。神田日勝美術館で水彩人展を2度も開催させてもらった縁が深い。特に神田日勝記念美術館の館長だった菅さんという方は面白い人だった。菅さんは亡くなられる直前まで、水彩人のことを考えてくれていた。菅さんは神田日勝さんを中央画壇で知ってもらうために、東京で行われている公募団体の展覧会を神田日勝美術館で開催していたのだと思う。まず、絵描きたちが神田日勝を認識して欲しいと考えていたのだと思う。神田日勝の名を広めるために、一生懸命だった。僧侶だと伺ったが、命との向き合い方が立派な方だった。鹿追町には神田日勝にほれ込んだ人が、たくさんいた。神田日勝の絵がどのように評価されるかは、これからの時間と絵が決めることだろう。

新得にはフランスにいたころから親しくしていた、友人もいる。新得には、農の会とも縁のあるチーズの共同学舎がある。岩越さんは新潟の小地谷の共同学舎の古民家の保存のことで動いていて、有機の里ので上映会など行った。そういう様々な縁があり、5回ほど新得に行ったことがある。絵もあのあたりで結構描いている。そうだ、少し離れているが須田克太の立派な美術館もある。その十勝地方が朝の連続ドラマの舞台になった。親しみのある場所で、嬉しくなる。本当はここに山平さん家族も登場させると面白くなるのだが、なぜ目が向かないのか残念である。山平さんは日本の農協の今の仕組みの基礎を作り上げた人だ。農協のことだから、賛否のある人ではある。農業生産者が農産物を製品化して、消費者に直接販売するという世界でもまれにみる仕組みを作り上げた人だ。農産物の流通を大手企業の独占から、農業者の手に独立させた功績者である。四葉乳業も良いが、もう一つ視野を広げるべきだ。まあ、牧場の少女の方が、絵になるか。いや絵にはなってないな。

北海道では泉の絵を描いた。北海道は新しい水が沸き出でている場所のイメージがある。北海道という土地が「新しい水」という気がした。人間が初めて目にする水が、湧いているような印象がある。山梨の水は循環する水だ。先祖から繰り返し大切に使ってきた水。十勝地方の水は地球のどこかから始めて地表に現れたような、硬質な水である。水としてはただ湧いてくる水なのだが、一度も人の手に触れたことのないような水の鮮烈な印象がある。この感じを描いていた。生まれ故郷の山梨の水を循環する水と書いたが、そういう意味では石垣の水は太古の水である。年代物のクウスのような水だ。山で熟成されてわいてきたような、思いの深い水のように私には見える。見えるというのは、島での水の苦労という事も見ているからなのだろう。絵を描くというのは、こういう違いを描かないとならない。肉眼ではあり得ないことなのだが、絵の面白いことは私がそう見ている以上、画面にはそういう事が出てくる。

そしていよいよ、なつさんが東京に出てくる。そして、中村屋がひとつの拠点になるらしい。中村屋は芸術家を育てた場所だ。相馬黒光さんと彫刻家碌山と深い因縁がある。その縁で彫刻家の叔父の笹村草家人も世話になった。さらに、なつさんは東映動画に入社するのだから、日本のアニメを世界に広めた東映動画の先輩たち、後に虫プロを作る手塚治虫、Aプロを立ち上げた、宮崎駿、高畑勲、そして結婚相手となる小和田洋一なども登場するはずだ。その後、なつさんは銅版画の世界に入り込む。日本の版画と、アニメーションは伝統的なかかわりがある。絵巻物から浮世絵がアニメーションの原点である。そして銅版画のアニメーション注文の多いい料理店に到達する。未だその価値は未来に続いていると思う。なつさんは芸術としてのアニメーションという事を考え続けた人らしい。その最初の場所に、神田日勝を持ってきたのは意味あることだ。神田日勝は若く死んでしまうが、芸術を探求した作家であることは確かだ。未完で終わった人だと私は見ている。未完だから余計に挑戦した姿が浮かび上がる。余分なことかもわからないが、ナレーションのウッチャンのわざとらしさがとても良い。できれば、なつさんの姉の広瀬アリスさんを出してもらえないものだろうか。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インフルエンザ新薬「ゾフルーザ」の耐性菌の出現

2019-05-22 04:54:10 | 暮らし
インフルエンザ新薬「ゾフルーザ」の耐性菌の出現については、前回書いたとおりであるが、その後学会的にもこのままではゾフルーザには問題があるという事で、対応策が検討されている。前回、医学の知識のないものが余計なことを書くなというコメントがあった。知識のないはずの私の意見に学会が同調したかのように、日本感染症学会がゾフルーザ投与の指針作りに乗り出すと言う。素人の生活感から出た素朴な意見は大切だと思う。このブログはごく普通の生活者の視点から、かかわる問題を書いている。前回発表では73%という耐性菌の出現とされている。今年のインフルエンザ患者277人中28人がゾフルーザ耐性のウイルスだったそうだ。他の薬を飲んだ人もいるにもかかわらず、すでに一割の人がゾフルーザの効果のない患者になっている。ただし、10%の耐性菌出現なら想定の範囲内だったという事のようだ。耐性菌が患者の1割に出現することが予想される薬が認可され使われている。この考え方は間違っていると思う。問題が深刻なところはこの耐性菌から、人ひと感染がすでに確認されている。3名はこの薬は飲まなかったにもかかわらず、耐性菌のウイルス感染だった。この患者にはゾフルーザは効果がないという事になる。耐性菌だとわからずゾフルーザを使えば間違えが起こる可能性がある。人ひと感染の1%は想定されていたのだろうか。

薬を使った事で、より深刻なウイルスを出現させてしまったという事だ。それはゾフルーザだけでなく、薬というものはいつもそういう事を起こす可能性がある。鳥インフルエンザの流行でも、養鶏場内で感染しない鶏がいたという。これを何とか残して、今後の病気対策に使わなければならないと、繰り返し主張した。ところが政府は闇雲の全鶏淘汰である。全く知恵のない目先の対応がなされている。例えば、エイズに感染しても発病しない人もいる。発病する人と発病しない人を遺伝子的に調べると、感染しない遺伝子を持っているらしいという事が分かってきた。鳥インフルエンザに感染しない遺伝子の鶏は居るのだ。その貴重な遺伝子の鶏を増やすことが当然病気対策になる。そんなことは実は、自然界では普通に起きていることだ。こうした自然淘汰の結果、何百万年も生物は種を維持してきたに違いない。病気に強い者だけが生き残ることで、その種は維持された。人間はここが違う。弱いものも生き残らなければならない。だから薬が利用される。それが人道的という事なのだが、その為に起こるより深刻な事態への対応をどうするかという事であろう。

畜産に関していえば、薬で予防的に病気を抑えるという考えは捨てるべきだ。薬を使わなくとも病気の出ないような畜産を行う。私はそういう鶏の飼い方をしてきた。そのことは「発酵利用の自然養鶏」に書いたとおりである。大規模畜産は薬が誕生して可能になった。薬のすべてが問題だというのではない。耐性菌を産むような薬の使い方。あるいはウイルスを強毒化するような使い方。薬剤を予防的に多投するような大規模畜産ではよほど気お付けなければ、人間にも感染するような新しい病気を出現させる可能性がある。つまり、10%は耐性菌の鶏が現れる。1%はとり鶏感染が予想される。こういう薬が認可して使われるのだ。しかも大規模畜産では、人間どころではなく消毒薬が使われている。衛生管理という事で、殺菌剤が大量に使われている。ネズミやゴキブリを入れてはならないなどと、ほとんど不可能な主張がされている。ずいぶん養鶏場は見て歩いたが、現実にはそんな養鶏場は一つもなかった。あり得ないようなことが前提とされて、大規模な家畜飼育が行われている。そのためにゴキブリ一つ生息できない養鶏場で鶏は暮せというのだろうか。

大規模畜産は危険度が高い。家畜を飼うのは一定数以下の分散型にした方が安全である。自然養鶏はそれを可能にしている。私は生涯をかけてそれを証明しようとした。実現できたと思ったところへ、鳥インフルエンザの流行が起きた。大規模畜産は経済競争の中でより大規模化しているのが、現状である。それが国際競争に勝つ農業という事になっている。人間の暮らしも同じである。都会の暮らしがインフルエンザの流行を生む。人間の暮らし方を考えようとしないで、薬による解決だけを考えても問題は深刻化してゆく。病気にならないような暮らし方を出来るような世の中にすべきだろう。私は風邪を引いたならば、静かに寝て直す。風邪にかかることだって自分の命にとって意味があることに違いない。受け入れて耐える。勤めていれば、そんな悠長なことは言っていられないのだろう。満員電車での通勤は良くないとなれば、そのうち満員電車には、「インフルエンザが流行しております。これから薬を噴霧します。」こんなアナウンスが流れるようになるかもしれない。すでに、週に一回相当に強い薬で殺菌されるらしい。だから、曜日によっては電車に乗らない様にしているという人にあったことがある。限界に達する前に人間の暮らし方の見直しをすべきであろう。



コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲法改定について

2019-05-21 04:13:53 | Peace Cafe
憲法改定論議で、別格に重要なものは9条の問題だ。9条を変えれば、必ず軍国主義国家になる。国を守るという事が、最重要課題になる。軍人がえばるような国は大嫌いだ。憲法改定を検討することは当たり前のことだ。この辺を取り違えてはならない。他の条文が軽いとは言わないが、9条は別格に問題が大きい。憲法に家族主義を持ち込むというようなことも言われる。これがどうでもいいとは言わないが、日本国が軍隊を持つか持たないかという事とは、重さが違い過ぎる。日本が専守防衛で行くのか、攻撃的兵器を持つのかは、国民一人一人が直接的に命にかかわる問題になる。戦争を出来る国なるか、戦争は出来ない国のままで行くのか。これは日本の未来にとって重要なことだ。だから憲法論議をすると言っても、9条の問題は別格に扱ってもらいたい。憲法の改定の投票をするとしても、投票はこの1つの問題に限らなければならないほど重要である。一つに絞り国民投票をして、憲法9条を変えると決まれば、それに従うほかない。アベ政権も本音としては、9条の改定だけを問題にしている。ところがこの本音の印象を薄めようとしてごまかしが入る。憲法改定問題をごちゃごちゃにしてしまおうという戦略である。9条を改定したいという人たちは、憲法を改定を議論しろとは言うが、9条を前面に出すことはさけている。

9条についての議論では自衛隊を書き加えるだけで、他を変えるわけではないので、大きな改定ではないというような言い方が説明されることがある。あるいはこのままでは自衛官の子供が引け目を感じるなどという説明すらされる。こんな問題をすり替えるような言い方は憲法論議ではない。戦争が出来る国にするための改定をすべきかどうかなのだ。日本を戦争の可能な国すべきなのか、戦争のできない国で行くべきかの議論をしなければならない。憲法は日本の未来の方角から決められるべきものだ。このことを正面から議論することが憲法論議である。憲法を変える前提には、日本をどんな国にすべきかを突き詰めることが当然必要だ。9条に関していえば、武力を持ち時と場合によっては戦争を可能な国になるべきなのか。専守防衛に徹し、あくまで平和的手段によって、国際紛争を解決する国で行くかの選択である。この点を日本に暮らす全ての人が判断すべき状況に至っている。多くの人が専守防衛など不可能だと考えている。私自身そう考えていた時もあった。ところが、今は専守防衛のほうが安全度は高いと考えるようになった。

逆に言えば、武力による防衛はどんな強固な軍隊でも限界のある時代になったともいえる。世界最大の軍事大国アメリカですら、中ロの軍事力に対して防衛力強化しないと危ういという事になっている。軍備というものの意味が変わったのだ。現代の戦争というものは、まずは経済戦争である。戦争が突然軍事力で始まるというようなことはない。それをいかにもあるようにアベ政権は主張している。ここをまず議論すべきではないだろうか。例えばアベ政権は仮想敵国中国が、突然攻めてくると主張している。すでに、尖閣周辺をうろついているのは、その証拠であると、宣伝している。まあ、維新の党には戦争して国後島を取り返せなどという輩がいた。もし、そうした心配を本気で考えているのなら、中国が攻めてくる前に、憲法に示されているように平和的努力をやり尽くしたと言えるところまでやってみなければならない。突然攻めてくるほど、危機が迫っているのなら、まずは国連にその危険状況を説明、主張しなければなならないだろう。そして、その問題となる尖閣諸島の領有権を国際裁判所で結論を出してもらう必要があるだろう。平和的手段で解決を図るというのは、国民の命を守るためには、当然の政府のやるべきことだと思う。何故手をこまねいているのか、驚くべき判断力不足ではないか。

本当の所は、中国が攻めてくるというのは、9条を変えるための主張と考えていいだろう。尖閣問題は棚上げして、日中平和条約が締結された。それを、アメリカで記者会見して棚から降ろしたのは石原慎太郎である。棚から降ろしたのは、中国を危険な国だと強調して、日本が早く軍備を整えなければ、ダメだという主張だろう。つまり戦争が可能な国にしたいという、軍国主義者の怨念が根底にある。戦争が出来ないような国では、世界中から軽くみられるという意識なのだろう。強くなければ、一流国家じゃないという意識がある。立派な国というものは武力も強い国という考え方。本当に立派な国とは文化的に深く豊かな国だと考えている。日本が世界に尊敬されるような文化を持つという事だと思っている。それは武力的に強いとか弱いとかいう事とは関係がない。嬉しいことに日本の文化は世界から評価され、注目を受けている。ところが、その大切な文化が失われてきている。こちらの方が、軍事力の強化よりも、緊急的要件になる。この文化を守り育てることこそ、日本の安全保障の方向ではないだろうか。踏みにじることがためらわれる文化国家になる。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

舟原溜池の5月のすばらしさ

2019-05-20 04:17:42 | 地域
舟原溜池は今一番良い季節を迎えている。いかにも小田原の風景の良さである。この普通の景色が大切に思える。小田原と言うと海の見える景色になるのかもしれない。東洋のリビエラと呼ばれた時代もあったらしい。確かに早川や根府川辺りの石垣の積み上げられたみかん山の景色は独特のものがある。しかし、山側の久野の風景の日本の里地里山の姿を残した景色にもなかなか捨てがたいものがある。棚田のある景色である。小田原の田んぼは千代、永塚、桑原、鬼柳と平地の方の酒匂川周辺に多いのだが、こちらの方の田んぼは区画整理がされてしまい、風情のないものになってしまっている。やはり本来の里山の景色は曽我丘陵と、箱根の東側の山麓にある。小田原の市街地越しに遠くに海をの見える景色である。曽我丘陵の梅やみかん越しの富士山ともなかなか良い。久野の方はありきたりの景色の良さである。ごく普通の景色である。ところがこの普通の景色というものが一番消え去ろうとしている。生まれ故郷である山梨県の藤垈にはもう昔の姿はない。農村の暮らし。山村の暮らし。その場所に根差したごく普通だった暮らしというものが、消え去ろうとしている。



多分今急速に失われているのが、ごく普通の景色である。世界遺産には縁のないありきたりの里山風景である。普通の日本人の暮らしてきた集落が消えようとしている。特別な五家荘の様な景色であれば、残されるであろうが生まれ育ったは消滅しかかっている。それは危機感もないまま、ごく当たり前に変貌し、刻々失われている。日本人的なものはそういう場所で醸成された。戦後の貧しい暮らしの中でも、青年団が活気に満ちていた農村。まだ江戸時代にまで連なる農民の暮らしがわずかに残っていた。当時としては食糧がある農村はまだ良かったのかもしれない。キーンと耳が痛いほどの静寂に包まれた日常。凍り付くような寒さ。身を寄せ合う暮らし。村の何処の畑にも野良仕事をする人がいる。山仕事に行く人が馬を引いて、黙々と山に登ってゆく。みんな止まったように、絵には入いっていた。子供には里山の暮らしがいつまでもこのままあるかのように見えた。江戸時代と大きくは違はないような、日本の暮らしが藤垈には残っていた。実はその根の所が失われてはいたのだから、気づかない庶民の暮らしというものは脳天気なものである。



舟原溜池にはわずかにあの静寂が残っている。見上げる明星岳、明神岳は特別な山ではないのだが、当たり前に良い姿で守ってくれている。親しみに満ちた自然。里山の自然。分け入ることのできる自然。拒絶しない自然。手入れによって生まれた自然。舟原溜池は江戸時代の初期に、田んぼを少しでも広げるためにできた溜池である。舟原溜池には田んぼに対する情熱が表現されている。酒匂川流域の平野部の方が暮らしの乏しい時代である。人の暮らしがむしろ小田原の山間部に集中していた。江戸への薪炭の販売である。人が暮らすという事は、田んぼと結びついている。山の中に何としても田んぼを作ろうとしている。山の大きさがその地域の生産性を表していた。城下町小田原、宿場町小田原とは違う、小田原の里山の暮らしである。私はむしろ、この小田原の里山の暮らしこそ残すべきものと考えている。それは日本人の未来の明かりであるからだ。この先の日本へ歩むためには、一番振り返らなければならないのは、普通の暮らしのことに違いない。



幸いにも、舟原溜池は残った。江戸時代の久野地域の暮らしを想像させる農業遺構だと思う。この先、田んぼそのものが失われてゆくであろう。小田原の農業者も70歳である。団塊の世代が動けなくなれば農業者は一気に減少する。経済性は間違いなくない。大型化は出来ない。そうである以上自給目的の田んぼ以外は消える。人口も減少し始めている。里地里山から失われると見て間違えがない。田んぼが無くなれば、もう小田原の本当の暮らしを想像させるものはなくなる。城下町と宿場町という側面だけが、小田原であるという事になる。それでは、人間の暮らしというものの本質を見失うという事になる。ごく普通の当たり前の暮らしこそ、未来に伝えなければならないものだ。しかし、こうした当たり前のものは見向きもされず消え去りがちである。すでに3つあった舟原溜池も、2つはごみで埋められて跡形もない。唯一残った溜池を美しい場所として残す以外、方法はないと思う。花の咲く美しい場所になれば、ごみ捨て場にはならないだろう。そうして50年先に田んぼが無くなったとしても、「何だろうこの美しい池は。」という人がいるに違いない。あと5年は美しい池にするために楽しむつもりだ。こうしたことをやらせてもらえる縁をありがたいと思う。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

描きかけの絵は捨てられない。

2019-05-19 04:06:40 | 水彩画
小田原の家の片づけをやっている。石垣で絵を描くことに専念できそうだ。子供のころから整理が終わらないと勉強は始まらなかった。Wさんが先々住んでくれることになった。家の中の西側に荷物を全部東側に移動している。絵は以前、石垣にほとんどを送ったつもりでいた。石垣への引っ越しの前に思い切って、廃棄したつもりでいた。軽トラで何台も焼却場に運んだ。焼却場の人に、さすがにもったいないだろうと言われたぐらいだ。さすがに絵を捨てるのは辛かったが、もう仕方がないと思って廃棄した。ところが、残った絵が今も小田原の家にかなりあった。石垣の家にある水彩画は50枚×15段引き出しの保存タンスが2棹。1500枚くらいという事になる。ところが、小田原の家にもまだ、500枚くらい残っていた。額に入った絵が100枚はあるか。入っていない絵が400枚はある。何故こんな事になってしまったのか。どの絵も描きかけの絵で、これからやるべきものだからこまる。この先がある絵を捨てる訳に行かない。額に入っている絵も、見ている内にまたやるべきことが見えてくる。額に入れてあるというのは、完成したという訳ではない。やるべきことを探すためには、いつも見える所に出しておかなければならないということ。絵を捨てられないのは、大事だからではなく、制作途中だからなのだ。

以前松田さんの家に行ったら、台所の流しの上まで絵が置いてある。玄関も階段も廊下も絵のトンネルになっていた。この絵の山のトンネルの中から描く絵を探すと言っていた。そして優しい奥さんが、「おとうさん食事にするからコンロの上の絵は動かしていいですか。」幸せな家庭は焔に包まれている。それは油絵だからそうなるのだろう。水彩画の場合、有難いことにタンスにしまっておける。制作の途中で廃棄してしまう訳にはいかない。肝心なところにたどり着くためにはもう少し描く必要がある。この先を描ければ、何かに至れると思っている。この肝心なという意味が良く分からないのだから、たどり着きようもないのだが。描いても描いても、絵が終わったなという感じがない。まあ、一応下描きはした。この後が大切なところなのだが、今はこの先は思いつかないし、一段落しかない。それで一応置いておく。置いておいて、つぎの新しい絵を描き始めてしまう。これが良くないのは分かってはいる。絵を描き始めるのがあまりに面白いのだ。絵の続きをやるより、新しく始める方が気分が良い。子供のころ海の家に行った時の状態である。もう早く海に行きたくて全身が湧きたっている。新しい絵を描きに行きたくてうずうずしてしまう。

そういう訳で絵の山が出来る。絵の山の前で、ただただ茫然としている。続きさえ描ければ、希望のある絵なのだ。見ていると、このままでは終われないというか、この先があるような気がしてくる。ここで捨てると大事なところに行けないようなのだ。困った。考えてみれば、絵を終わりまで描いたという事がない。いつも途中で発表している。どういうことなのだろうか。絵は石垣に送るのだろうか。まだ決意すら付かない。石垣に戻って、もう一度倉庫の状態を見てみてから決めようと思う。片付けの話ではなかった。絵が何故終わりまで行けないのかである。今朝、松波さんから、とても含蓄のあるメールがあった。松波さんの絵に関する洞察はいつも深い。日本の芸術には完成はないのかもしれないと。絵の完成という問題についての意見だ。確かに完成とは違うところに行くものかもしれない。人間が生きるという事がそもそも結論がないものだ。訳の分からないものだ。どこから来て何処に行くのか。本来無一物。今日の充実というものを、刻々突き詰めてゆく以外生きる方法が分からない。

絵に呼ばれるという事がある。この描きかけの絵から続きを描けるだろうという呼びかけが、突然降ってくる。これを待っていない訳にはいかない。何か詰まっていたごみが抜けたような状態である。一気にどどっと来る。この時のやり尽くし感はすばらしい。何か結論が見えたのかと勘違いしてしまうほどである。結局のところ、また途中でここまでと終わる。しかし、この描き継いだ絵は何かが違う。やはり一歩踏み込んだもののように見える。しかも、描き継いぐことのできた充実は、ただ写生している時とは何かが違う。やっぱり絵を描くというのはこう言う事なのかと思える。写生は風景を前にしての生身の反応である。良い写生とは自分という人間を解放させて行く道なのだと思う。学んだ絵を離れ、自分の絵の世界へ踏み込んでゆく道程なのではないか。そしていつかは自分という人間が「制作という創造」に入ってゆくのかもしれない。それはまだわからないことだが、写生で終わりにしてはならないという事は間違いなのだろう。絵はたしかに完成を求めるわけでもないのだろうが。自分の到達を求めるものでもないのだろうが。もう一歩進んでみる。踏み込んでみる。そうしたいという気持ちは大切にしなければ。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイナンバーカードの普及率12%

2019-05-18 04:01:13 | 暮らし

マイナンバー制度が出来て、3年が経ったが普及率が1564万枚の12%程という。ここに日本社会成り立ちが見えると思う。みんな国民背番号制は嫌なのだ。嫌と思いながら、せめてもの抵抗としてカードは受け取らない。と言っても、背番号は完全に管理されている。こういうことは抵抗しても無駄なことだ。むしろ情報の管理を政府が独占できないような仕組みを作るべきだ。日本のIT化が言われているが、12%ではなかなか難しいことだろう。もちろん私も貰っていない。政府は2021年3月から原則すべての病院でマイナンバーカードを健康保険証として使えるようにするという。これは興味深い社会実験である。政府に信頼感があれば、加入率が倍増するぐらいのことは起こるかもしれない。予測では増加しても微々たるものの気がする。政府に健康状態が筒抜けんになることはどこか気持ち悪い。すでに筒抜けなのかもしれないのだが。例えば、土地の立ち退き交渉の資料に、病気と経済状態が記載されたりしかねないというような不安感。選挙に立候補した野党候補の病気が流される。なんとなく生まれる不安。政府が信頼されていれば、12%はない。

本来、マイナンバー制度はあった方がいいに決まっている。ビックデーターと関連している。国が合理的に運営される行くためには必要である。国が絶対に正しくて、秘密保持の信頼がなければ普及できない。あるいは独裁国家で、入らなければ差別されるという状態。その点、入らない人でも今のところ差別を受けたという事はない。しかし、政府がやろうと思えば、入った12%の人をビックデーターの中で統計的にどういう傾向があるかなどは、調べようと思えば可能である。12%のひとの扱いをどうすれば政府有利になるかなど調べる。電通などが、このデーターから収入実態と消費動向の調査を組み合わせたいと考える。タックスヘイブンを考えるような人は、少なくともマイナンバー制度には入らない。秘密保持の仕組みを誰にでも分かるように、明確にするのが先決。こうした秘密保持の仕組みがあるから、たとえ総理大臣であろうとも、内容には立ち入れない。そんなことはあり得ないのだから、情報は必ず把握されるとして、その管理の方をどうするかにを考えるべきだ。中途半端な感じがしてならない。

農の会は名簿はない。名簿を使って何かをしようとする人が現れて欲しくないからだ。名簿がなくとも、なんとか動いている。しかし、繰り返し名簿を作りたいという人は現れる。その方が便利だからである。管理者側としたら、そういう気持ちになりかねない。名簿が出来ると流出する。悪用したいとする人が登場する。だから、緩い組織では、名簿はない方がいい。せめてもの抵抗という事は分かっているのだが。すべてメール連絡をしているのだから、把握しようという権力者がいれば、把握はすでに可能であろう。そう、ナンバーカードなど取得しないでも、すでに国民の情報は完全に管理されている可能性が高い。すでにそういう社会になっている、韓国と中国の動向を見てみるべきだ。日韓関係の悪化。米中関係の悪化。遠因は情報漏えいにあると思っている。韓国の国会議長が何故、このタイミングで天皇の謝罪を持ち出したか。それが自分の評価が上がる、一番の道と踏んだのであろう。互いに対立することが、評価につながる政治状況。

日本人のお上の威光は12%にしか及んでいないようだ。一応は何でも自民の人でも、ナンバーカードには入らない。この貴重な12%の人に裁判員をお願いすると、多分受けてくれるというような使い方が出来るのではないか。裁判員制度の方も、10年が経ったが予想通りほぼ終わりかけている。指名されても20%の人しか受けないのだ。この20%はとてもまじめな人だろう。犯罪をやるような人から遠いい人だろう。裁判が偏ってきている可能性がある。10年やってダメだったのだから、止めるべきだ。失敗を認めることが出来ないのが、日本の行政司法の仕組みなのだろう。マイナンバーカードを消費動向の調査に使いたい。そういう企業からの要請が強いはずだ。ナンバーカードを利用すれば、ポイント2倍。政府系カードポイントは納税の際に利用可能。その内、こういう宣伝が始まるのだろうか。

 

 


コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天皇報道が誘導する、政治利用。

2019-05-17 04:01:51 | Peace Cafe
アベ政権は巧みに天皇を政治利用している。令和の時代に変わり、慶賀の気分が広がった。そのことは喜ばしいことだ。これを安倍政権は政治利用している。今まで大々的には報道されていなかった天皇への総理大臣の内奏を麗々しくテレビに放映させている。これを違法とは言わないが、巧みな天皇の政治利用である。天皇に対して内閣が内奏するなどという事は、どこまでも形式的なことで、本来辞めるべきことだ。少なくとも放映してはならない。これをアベ劇場の一幕に使う演出など、許されることではない。天皇を出来る限り政治から離れてもらう事が、象徴の意味を守るためには必要である。その為には、政権は配慮して出来る限り天皇との関係は見えないように動く必要がある。何故こんな映像を、こんな状況下に放映するのであろうか。目的は天皇の政治利用である。天皇を安倍政権の看板に使ったのだ。これは象徴天皇を日本国に必要なものだと思うのであれば、絶対にやってはいけない事なのだ。天皇は京都で静かに暮らしていただくことが、何よりである。この機会に衆参同一選挙をやってしまえという意見まで出てきた。このままでは危険だ。

令和への代替わりに伴い、盛んに女系天皇の必要性が主張されている。これは天皇という意味を取り違えた考え方だ。天皇の伝統的意味からして反対である。普通の家族としての天皇家という意味なら女系を求めるのは当然であろう。本来の天皇の厳密な意味をから言えばそれは宗教的に無理なことのはずだ。女系がいけないとか、女性に神聖が弱いという事ではない。卑弥呼や巫女のことを考えれば、女性でなければならない役割の意味もある。天皇の神官としての絶対性を失う事になる。天皇家がどのように存続されるとしてもそれは構わない事であるが、男系天皇で無くなるとすれば宗教的に言えば、失われる何かがある。もう何代かで象徴天皇制が終わる時が来ていいのだと思う。それぐらいがちょうどよい潮時になる。側室制度が無くなるのは歴史的に当然のことである。それとともにお家大事の封建制度も消えてゆく。そのぐらいに天皇という存在も、日本人にとって控えめなものになってゆく。そのあたりがちょうど良い加減ではないか。象徴ではなくなり、ふつうの天皇家になり、それなりの特別な家として継続してもらえばそれはそれでいいと思う。中国には孔子の子孫という家があるらしい。しかし、考えてみれば、どこの誰であろうと、全く同じである。必ず天照大神までさかのぼる先祖は居る。私もアフリカまでさかのぼれるはずだ。

象徴天皇とアベ政権は何の関係もない。きっぱりと意識してそうしなければ、危険である。明治革命政権は自己の正当性の為に、錦の御旗を掲げたのだ。それが明治維新という、日本帝国主義につながった。日本の歴史にとって明治時代ほど悪い時代はなかった。もちろん日本の問題というだけでなく、世界史的問題ではあるが。そのことを明確に認識する必要がある。そのまま太平洋戦争の敗戦に繋がっている。江戸幕府は巧みに天皇家を政治から遠ざけた。ところが、何やらアベ政権は天皇との結びつきを利用し始めている。世間では令和おじさんとして、官房長官が持ち上げられている。令和の文字を掲げた映像が度々流れるからである。申し訳ないが、平成の発表文字の方が、令和の文字より良い字であった。令の字の縦棒の止め方がどうも気になる。その上に筆の入り方に意識が強すぎる。平成の字は書としても立派なものであった。テレビの影響というものは実に怖いものだ。いつの間にか、官房長官の評判まで上がってしまった。こういうことは予測されたことだ。もし政府が賢明で、知恵のあるものであれば、こういう事態は避けられた。ところが、政府は避けるどころか、巧みな利用を始めている。その一連の流れが総理大臣の内奏を麗々しくテレビ報道させることだ。まるで安倍氏が天皇と関係があるかのような映像である。内閣総理大臣と天皇は何の関係もない。そういう事にしようというのが、象徴天皇に対する知恵なのではなかったか。

天皇家は稲作の先進技術を持った人々だったのではないか。水土技術者の一族である。水土技術という先進技術が呪術性と結びつく。中国から、そうした先進技術をいち早く取り入れて、日本全土に広げた。それが日本の国づくりになったために、その存在を高めたのではないだろうか。食糧生産を支え、産業革命を先導した技術者である。当時の技術は呪術的な意味合いも強く。それが伊勢神宮の信仰にもつながってゆく。私のおじいさんは僧侶でありながらも、伊勢暦を見ながら種まきの日を決めていた。伊勢暦は農業的な種まき日と宗教的な吉日も示されていたのだろう。陰暦である。あの伊勢暦はどうも、藤垈村の小さなよろづ屋さんのわえさんが呉れたもののような気がする。たぶんそんな形で、日本全国に浸透したのだろう。間接ながら、天皇さんが種まきの日を教えているような形だ。江戸時代には権力とは関係なく、独特の百姓と天皇の関係があったと思われる。もう一度そういうところに戻るべきではないだろうか。





コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする