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地場・旬・自給

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自給農業の30年

2018-10-31 04:17:02 | 自給

自給農業田んぼ派である。田んぼをやるとなると最高の田んぼをやりたくなる。野菜を作ると言ってもそこそこの気分である。鶏となると今でも急に本気になるので、鶏は別格だ。田んぼが面白いと思うのは、東洋3000年の循環農業だからだ。収奪しない農法の完成。自然に人間の営みが織り込まれてゆく農業。修学院離宮の姿である。日本の文化のかなりの部分が稲作によって生まれ、育まれたもの。日本人の美意識というものも稲作から来ている。美しい日本には必ず田んぼがある。日本人は田んぼにできる所は、一坪の平地であっても田んぼにしようとした。どれほど山の中であっても、わずかな平地を作り田んぼを作った。気候的に稲作の限界を越えた北の地にも田んぼを作ろうとしている。日本教には稲作信仰があるように見える。お米の取れ高が、その藩の力量としてはかられた。加賀100万石。50年前の小学校では日本のお米の収穫量や反収が日本の国力として教えられていた。田んぼは他の作物とは別格の尊い存在であった。

今年欠ノ上の3反の田んぼで1800キロの収穫をした。有機のコメ作りである。一人8000円で120キロのお米が収穫できた。田んぼで働きさえすれば、人間は生きていけるという事になる。自給を志す人間の協働力の成果でもある。あしがら農の会の25年で達成した稲作技術がある。欠ノ上田んぼの条件は足柄平野のなかでは良くない。日照の十分でない谷の14枚に分かれた棚田である。こんな条件でも有機のコメ作りであれば、安定して畝取りできるという事が証明できた。神奈川県の平均収量が500キロ程度である。そこで600キロを超えている。有機農業の優位性を証明できたと思っている。農業者ではない普通の市民が力を併せれば、自力で食糧自給が出来るという事を証明できた。田んぼをやってきて面白いかったことはここにある。日本人が日本の国土で生きていけるという証明である。人間が生きるという事を、自分の手で可能という証明。この根本的課題を証明できるという面白さが田んぼだ。

私は30年前山北の山中で開墾生活を始めた。山の中で自給生活を摸索した。その中で、自給には田んぼを作らなければだめだという事を知った。山の斜面を削って、2畝の田んぼを作った。そこに始まった田んぼが、今の欠ノ上の田んぼにまで繋がっている。水というものが支えてくれる田んぼ。ひたすらの水管理が重要になる有機のコメ作りの技術である。農業技術がいかに大事なものか理解した。農業技術がなければ、倍の労力をかけて、半分の収穫になる。これでは生きていけないことになる。技術を軽視していたのでは、自給農業は出来ない。野菜でも狭い場所で連作可能な土づくりをしなければならないと考えている。循環農業の技術が必要である。農の会全体で4ヘクタールほどの田んぼを耕作しているのではなかろうか。つまり、2畝で一人分と考えれば200人の人の食糧ということになる。もちろんここには新規就農した農家の人の分も入れているのではあるが。

一人の自給を目指し山北で始めた30年前の開墾生活からの始まり、田んぼが多くの人との出会いを作ってくれたのだと感謝する。欠ノ上田んぼに素晴らしい仲間が出来ているのは、田んぼとの向かい方から来ている。本気になって田んぼの耕作に協働したからこそ生まれた関係である。これで責任ある立場としての田んぼを終わる。畝取りしなければ我慢できないという立場を離れる。20年間何処で耕作しても、いつも畝取りの目標を持って耕作してきた。市民が耕作するのだから遊び半分だろう、と思われてはならない。こう考えて田んぼをやってきた。そして試行錯誤の結果、有機農業という当たり前の江戸時代のやり方になった。有機農業は土づくりである。腐植を増やす土づくりだ。緑肥稲作である。手はかかるが、その手をかけることを楽しむ田んぼである。自給農業の総合技術の完成を目指した30年であった。結局のところ、江戸時代のお百姓さんに近づいたという面白い結果になった。

 

 

 

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外国人労働者を入れるなら移民

2018-10-30 04:00:52 | 暮らし

外国人労働者が人手不足の対応のために来年から、導入されることになりそうだ。全くのご都合主義であり、社会制度的にも受け入れ態勢がない。将来の展望もないままに行われることになる。どうしても外国人労働者を入れるというのであれば、それは移民という形の方が良い。日本で働くのであれば、将来日本人になるという考えを持ってもらった方がお互いに良いはずだ。単なる労働力不足の穴埋めという事はとんでもない社会になるという事だ。韓国でもやっているから負けてなるものかと、宣伝報道されている。戦中である。韓国のやり方は日本にとって、悪い先行事例ではある。労働者導入の実態を調査報道しなければならない。今人手不足で困っているから、仕方がないから外国人労働者をという気持ちではだめだ。ここで労働者を受け入れるという事は、日本の方角が変化することになる。移民を受け入れるという事にして、その受け入れ態勢を十分に煮詰めることだ。

何故トランプがメキシコ国境に塀を作るのか。何故、イギリスがEUを離脱するのか。移民の増加に社会の対応力が越え始めているのだろう。そうしたすべてを考えてみる必要がある。日本は過去移民という棄民は行ったが、移民を受け入れたことはない。植民地という形で、台湾と朝鮮の人たちが、日本に来たことはあった。日本帝国主義の軍事力の競争によって、日本国内は疲弊をした。無理に無理を重ねた軍事力偏重である。その喘ぎの結果、朝鮮台湾を満州と植民地化していった。国力の増強の目的で、植民地からの労働力を利用した。それが今もって、徴用問題として問題を残している。政府は日本の為に外国人労働者を入れると考えているが、この考え方が間違っている。来てくれる労働者の就職先として日本の労働市場を開放するという事である。日本で働いてくれる労働者がより良い生き方をするために日本に来たい、というのでなければならない。都合の良い労働力と考えることは、人権の軽視である。人間同士でよりよい社会を作るために参加してもらうという事でなければならない。

その為には安易な一時的な労働力ではなく、移民受け入れる社会まで考えるべき問題である。現状の日本の社会には移民受け入れの体制がない。移民を受け入れた結果どういう状態になるかの認識がない。だから、労働者の一時使用では最悪の選択になる。このまま受け入れれば、深刻な社会変化をきたすことだろう。移民自体は悪いことではない。むしろ良いことである。石垣島に行くと台湾の人たちが残した調和がある。石垣島の排斥をしない解放感である。それは石垣島は様々な形で、ひどい搾取を受けた場所だからではないだろうか。島津藩、琉球王朝、明治政府と様々ない形で圧力を受け、搾取された。その結果台湾の人たちと良い関係を作ることができる社会が石垣には存在したのではないか。移民を受け入れることのできる人間である。今の日本人には移民を受け入れ、仲良く暮らすだけの人間性の大きさがない。差別が起きるに違いない。

外国人労働者を受け入れようということには理由がある。日本に生まれてきている下層対策である。士農工商の下の階級を作りたい社会状況。日本人がさらなる下層階級を欲している心情がある。さらに下の階層を入れて、差別することで下層であることを受け入れる。これからの階層社会の深刻化を考えれば、政府がそのような考えを持つとしても不思議はない。また、弱まってきている日本の社会がそんな考え方を潜在化させているとしても不思議はない。日本の方角について、国民全体での合意形成の為に国会で議論してもらいたい。日本がどのような国になれば良いかである。自給できる国柄であってほしい。食糧自給は当然である。エネルギーも労働者も自給できる国である。そして目指すは文化国家。学問と芸術の国。美しい田園の国。他国と争はない国。すべての物が循環してゆく国。それぞれに思い描いて見てもらいたいものだ。

 

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貧困格差から産まれるもの

2018-10-29 04:32:34 | 暮らし

いまだ日本の社会は貧困による格差について深刻な受け止めがない。貧困ほど社会をダメにするものはない。自分の周りにはそんな人は見当たらないというような人も、いまだに多くいる。社会が分断され、自分の周囲の人の本当の暮らしぶりというものが見えていない。見えないからないと思うのは洞察力の欠如である。貧困というものは誰しも隠したいものだ。小学校に通う子供がいれば、何とか子供だけはみんなと同じにしてあげたいと考える。同じような靴を履かせたい。同じように給食を食べさせたいと考える。ところがその無理が一定の限度を超えた時に、外からも分かるようになる。格差の実態を表す数値は国から出ているので確認してもらえばわかる。先進国の中では最悪という状態になっている。一方に富裕層が形成され始めているという階層社会の出現。富の偏在が階層の固定化に繋がり、階級社会がまた始まる。

格差の深刻なところは格差が固定されるというところにある。これからの社会ではいったん貧困に陥ると抜け出ることはよほど難しくなる。子供の学力と親の収入は正比例している。文部省から出された統計結果である。富裕層の子供は学力が高まる傾向にある。貧困層の子供は学力が低下している。学力不足で高等教育を受けられないのは、自己責任だともいえない状態が生まれている。50年前私が大学に行く時代は、親の世話にならないでも大学に行くことが可能だった。意地を張って自力で大学に行った。そういう人は沢山いた。働きながら大学に通うことが可能であった。何故だろうかと思う。たぶん行政の補助があったというより、社会の中に苦学生を支えるという空気があった。アルバイトに行っても、出稼ぎのおじさんにずいぶん助けられた。そのひとだって大変であろうに、学生さんだからという事で補ってくれていた。農閑期だから来ているんじゃないと、家には農地などないと言っていたおじさん。今思い出すと感謝の思いで涙を禁じ得ない。

このまま経済戦争の時代を進めば、能力差別の社会が近づく。この能力差別は3%の人だけを必要とする社会が想像される。特殊な能力の人だけが必要とされる社会。ほとんどの人がその他大勢になる社会である。経済戦争に勝利するためにはそこまでの精鋭主義になる。普通の人が差別される時代を迎える。普通の人の競争からの離脱。97%の普通の人が経済戦争から降りる。降りるほかないし、その方がマシな選択になる。執着心を抜け出ること。競争ではない自己新の世界観の確立。自分の日々の充実して生きる。本気で生きることの面白さを知る。私はこれから絵を描く自分というものを生きようと考えている。その絵が人と較べてどれほどの価値があるかなど考えない。自分としてどこまで進めるかである。日々自己否定して進んでいけるかである。他者と較べれることで、上手いとか、下手とかという判断を下す。この世界を抜け出して、自分というものにどれほど掘り下げられるか。自分というものを絵を描くことでどこまで研ぎ澄ますことができるかである。

自給的に生きるという事の価値。社会への貢献度は低いかもしれないが、できる限り人に迷惑をかけない生き方。自分という人間を磨いて行けば、100坪の面積で一日1時間の耕作で食べ物は確保できる。次の社会ではここからそのひとの生命が始まるのだと思う。自由に自分というものに向かい合う事が出来る重要性。その無所有の覚悟が出来れば、貧困というものから離脱できる。幸いなことに日本の地方は消滅する。中山間地は神奈川県であっても過疎化が極端に進む。その消滅した以前は人間らしい暮らしがあった場所に、誰もが行くことができることになる。アベ政権や、トランプ主義をみていると社会に期待することによって消耗してしまう。社会を相手にしないで自分の生き方で行くほかない。これは間違っているとは思う。間違っているとしても、一度だけの自分の生命である。生命を十分に生かすためには、その方がいいと思うようになった。

 

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核ミサイル競争に突入か

2018-10-28 04:33:53 | Peace Cafe

トランプアメリカはついに核ミサイル競争まで始めようとしている。持てる者、強い者は何でもやれると思っているようだ。ヒットラーのように破滅への道を突き進むことになるだろう。アメリカという国は寛容の精神を持つ国に見えたこともあった。結局はお大尽の余裕だったのだろう。中国がアメリカを超えるかもしれないという不安でおかしくなっているのかもしれない。世界最強の国が力の論理を振り回す以上、暴力の嵐が世界を覆う事になるのも当然である。日本のようにアメリカに従うことになるか。アメリカと対抗して軍事力競争に入るかという事になる。どちらも、情けのない選択であるが、日に日に世界は悲惨な状況が近づいている。銃を握っていなければ、安心できない人間の選択は、必ずここに至る。アメリカ人全体がこれほどの野蛮人だとは思えないが、トランプは民主主義的選挙で選ばれた大統領であり、今でも強い支持者がいるようだ。日本でも似たような意識が若者の間に生まれている。

幸いというか、不幸というか、日本が軍事力競争に入ろうとしても到底無理である。アメリカをしのぐほどの武力を持つことは不可能である。なまじの軍事力ほど危険なものはない。だから日本の軍事力主義者でも、アメリカの奴隷を選択する。屈折した心情というか。若者たちがアベ政権を一番支持していると言われている。能力主義に敗れたものは、能力不足や努力不足というものをどのように考えるものなのだろうか。この先の若い人の生きる時代の能力競争は、90%以上が敗れる時代である。敗れた人生をどう生きるのだろうか。破れた原因を転化して生きるのだろうか。自分の人生の意味を競争ではない世界に見つける方向は生まれないのだろうか。インターネット情報世代である。インターネットで集めた情報によって、アベ政権がマシだと判断している。アベ政権は標語政治である。内容はともかく、地方再生。女性活躍社会。障碍者雇用。などと建前を叫ぶだけである。内容等あまり気にせずネットサーフィンをしていれば、そういう良さげな標語だけが頭をかすめて残ってゆく。地方再生など実態がないというようなややこしい批判までは気にも留めないのだろう。あべフェイクニュースが世論を作るという事になる。

その結果、自衛隊員の子供たちが可愛そうではないか。などというはぐらかした標語で、憲法は改定すべきという単純な結論に至る事になる。もう一歩踏み込んで考えてもらうにはどうすればいいのだろう。自衛隊が災害救助隊になれば、救助隊の子供たちは誇りを持てる。核ミサイル競争が始まる中、日本の安全保障をどうするかである。ミサイル基地を建設して、ミサイルを一定持つべきという事になるにか。中距離ミサイルを持つという事は、敵基地攻撃が可能になり、従来の自衛隊の武力圃範囲を超えることになる。近隣諸国へ実際的脅威になるという事だ。これが抑止力になるとは到底思えない。日本だけが世界の希望だと考えるべきだ。日本国憲法の平和主義は世界の希望なのだ。中途半端なミサイル保持ほど危険を増す者はない。北朝鮮を考えて、比較してみることだ。核ミサイル競争を続ければ、世界は崩壊する。経済が弱肉強食になれば、世界は崩壊する。今トランプが進もうとする道は、世界が崩壊する道なのだ。アメリカだけは生き残れると思ったら大間違いだ。すべての国がアメリカに従うはずもない。必ず、アメリカは反撃を受け、互いに崩壊の道に進むほかないのだ。

平和主義は力がないと見える。確かにその通りだ。然し中途半端な軍事力よりもましだ。鉄砲に竹やりで戦う事が一番危険だ。むしろ攻撃しないことの表示の方が安全である。互いに繁栄できる道は必ずある。相手を搾取しなくとも互いに豊かになりうる道はある。相手をつぶして自分だけ恩恵を受けようという道が間違いである。自由貿易の理念をもう一度日本は主張すべきであろう。軍事力競争などしなくとも、互いに武力を捨てる道はある。相手が悪い奴だから、自分も対抗するという考え方は最後には自分も破滅する道なのだ。相手の問題をあげつらうより、相手の良さを見つける方が良いに決まっている。互いに生きて行ければそれでいい。別段外国に勝利しなくとも大丈夫だ。日本が高い文化を創造すれば、充分に尊厳を保てる。今年も日本人にはノーベル賞を受賞した方がいる。もうそれだけでも日本は価値がある国だ。ミサイル競争等に加わらなくとも、尊敬される国だ。

 

 

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日中首脳会談から始まるもの

2018-10-27 04:52:54 | Peace Cafe

7年間もの間、日中の首脳が会談を行う事が出来なかった。尖閣諸島の国有化と靖国神社参拝から始まった日中関係の悪化である。アベ政権は仮想敵国中国を前面に出し、軍事的対抗政策をとっている。両者にそれぞれの言い分はある。日本は中国の覇権拡大主義が問題だとして来た。確かに中国はその国力の増強を間違った方向に進めている感がある。これを正すことも平和主義日本でなければならない。中国側から見れば、日本の軍国主義回帰と見えても仕方がない状況がある。所が日本の同盟国アメリカがトランプ主義で様子がおかしい。トランプ一国主義を旗印に、日本にも中国に対しても経済戦争を仕掛けてきている。中国に対しては敵対心をむき出しにした、軍事的圧力まで強め始めている。トランプ主義は地上げ屋の手法だから、結局は金もうけだと思う。先ず強硬に脅しをかけて、相手を震いあがらせる。次にもみ手ですり寄り、落としどころを模索する。今後の成り行きを見なければ、分からない事ではあるが、この米中の軋轢の間に、日本が漁夫の利を得ようというのがアベ政権の外交政策であろう。

アベ外交は実質の成果のない、表敬訪問ばかりだ。掛け声だけは大げさなのだが、現実を変えるような成果を上げたものはない。朝鮮との関係でも、日本外交は右往左往するばかりで、先日までは全否定であり、今度は具体的な方針も分からない。当然結果は出てこない。ロシア外交の方も何が経済協力なのか、その下調べばかりしていて一年も過ぎても、成果は出てきていない。世界は耳障りの良い掛け声だけでは動かないという事なのだろう。アベ外交というものは実は国内向けなのだと思う。自衛隊の憲法明記をしたいがために、中国を仮想敵国にする。北方領土を取り上げているという国内向けアピールが主目的なのだろう。仮想敵国の旗を降ろすのであれば、防衛大綱の見直しの中で、中距離ミサイルを保持しないことを銘記すべきだろう。敵基地攻撃の意思のないことを明確にすることが、日中の友好関係の出発点になる。ロシアの主張のように、駐留米軍の扱いを変えない限り北方領土返還交渉に乗らないという事になる。

安倍首相は(1)競争から協調へ(2)お互いパートナーとして脅威にならない(3)自由で公正な貿易体制の発展――の3原則を提示。と書かれている。共同声明の形で具体的な結果は出ている訳ではない。話が付かなかったと考えなければならない。仮想敵国として、対中国のミサイル基地建設。沖縄辺野古の米軍基地建設。沖縄を日米の防人にしようという、強硬な姿勢。こんな状況の中、中国が簡単に3つのお願いを聞いてくれる訳もない。中国の脅威にならない日本という事であれば、沖縄の米軍基地削減。自衛隊基地の建設取り止め。これが大前提であろう。もちろん日本側の言い分はある。中国の覇権主義による南沙諸島の基地化などとんでもないことである。中国の問題点を指摘することは大切であるが、同時に日本も似たようなことをしているという事に自覚がなければならない。まず日本から始める。日本国憲法に従う、平和主義である。国際問題を武力によって解決しないという事である。

中国は近隣にある大国である。日中関係の方が、日米関係より重いという事を考える必要がある。日本がアメリカの手先であり、走りであることを止めるという事が大前提である。トランプによって明らかになったように、アメリカはアメリカさえ良ければ構わないのだ。日本の為に駐留しているなどという事はないのだ。むしろアメリカは日本を監視するために日本に駐留してきた。日本を再軍備させないために駐留してきた。その結果日本は攻撃的武力を保持せず、核武装せず、かろうじて平和主義を維持できたのだ。その点では駐留を感謝しなければならない。トランプ主義によって、これが変わろうとしている。アベ政権の思惑もかなり近いものがある。しかし、小さな国力の日本が、トランプ主義をやったところで効果は知れている。むしろ、日本独自の平和主義によって、存在する場所を確保することの方が、安定度が高いと思われる。軍事競争に中途半端に乗ることは、一番危険な道になる。

 

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天皇は靖国神社には行かない。

2018-10-26 04:09:55 | Peace Cafe

天皇は靖国神社に行かない。総理大臣は靖国神社に参拝する。何故、日本の総理大臣は靖国参拝をしたくなるのかといえば、靖国神社には日本のために死んだ軍人が祭られているからという事になる。総理大臣は命がけで日本を守る存在という意識でいるだろう。だから死んだ軍人に対して、同じ気持ちを抱くのだろう。天皇は日本の象徴であるがゆえに、靖国神社に参拝しない。天皇が日本のために死んだ軍人を大切に思っていないはずがない。にもかかわらず、靖国神社に天皇は参拝するわけにはいかないという判断がある。日本を敗戦に導いた、戦争責任のある軍人が祭られているということだ。原発事故が起きたことでも東京電力では想定外の自然災害だから、社長以下一切の責任はないと強弁している。第2次世界大戦も日本は巻き込まれた自然災害のようなもので、責任はないというのが靖国神社を取り巻く思想なのであろう。しかし、国策として原発を進めてきた人間には事故を起こした責任というものがある。

戦争の原因というものも日本だけにある訳ではない。世界の大きな流れに翻弄されたという事であろう。それでも、日本国を敗戦に導いた責任というものは軍人に存在する。津波のような世界の潮流に襲われたとしても、仕方がなかったという事では終わる訳には行かない。最終的には天皇が責任者という事であろう。だから、昭和天皇には靖国神社に祭られた軍人に欺かれたという思いがあったのではないだろうか。天皇を鎮座させ、利用した軍人がいた。天皇は敗戦に至りこんなはずではなかったと感じているようにみえた。戦争責任というものを勝利した国が正義で敗戦国を裁くという事はおかしいことである。戦争の責任はかかわったすべての国にある。そして国を導いていたものが責任者という事になる。明治日本帝国の天皇制が間違った仕組みだったのだ。一方で、特攻攻撃で日本の為に死んでいった若者も祭られている。私もその方々の思いをおろそかには考えられない。何万の日本の為の戦争で死んだ軍人が祭られている。その人たちに対して、本当に申し訳ないという気持ちがある。だからこそ、国立戦没者霊園が必要なのだ。

二度と戦争はしないという誓いの場としての戦没者霊園は必要である。そこに戦争に関連して死んだあらゆる御霊を納める必要がある。その意味で靖国神社という、明治日本帝国の軍国主義を背景とした神社ではだめなのだ。私も参拝に行く気にはなれない。戦没者霊園であれば、お参りしたいと思う。もし国立戦没者霊園に日本の総理大臣が慰霊に行くことを、近隣諸国から批判されたならば、それは間違いだと堂々と言える。靖国神社というものは、軍人を祭り、軍人精神を鼓舞し、軍国主義を建前とする神社だから、総理大臣が参拝することが許されないのだ。民主国家として当たり前のことだ。ではなぜ、国立戦没者霊園を作らないか。それでは明治日本帝国の復活がかなわないことになるからだ。そういう軍国主義勢力が政府の背景には大きく横たわっている。アベ政権はその姿をひた隠しにして、見せないできているが本音では経済帝国主義と呼ぶしかない国づくり以外日本が生き残れる道はないと考えている。

特に平成天皇は平和主義者である。象徴天皇の意味を深く考え、憲法の意図に従い、平和主義日本の象徴としての道を摸索した。天皇は伊勢神宮との関係が深い。天皇は日本教の神主さんともいえるのだろう。日本教とは、イザヤ・べンダサンの指摘した日本教である。日本的なるものの根源にあるもの。この得も言われぬ消えそうでかろうじて残されているもの。私はその日本教を育んだ根源にあるものが稲作ではないかと考えてきた。日本人の立ち振る舞いのようなものにまで、大きく影響をした稲作文化。江戸時代に天皇家が造営した「修学院離宮」にその造形として表現されたものがある。要するに、日本の稲作をするを箱庭化したものだ。かつては日本の至る所に存在した日本的な暮らしの造形である。日本教は日本人の暮らしが生み出したものだ。稲作文化というものは、平和主義の文化だ。だから、日本国憲法はアメリカの影響は強いだろうが、いかにも日本的なものでもある。以上の理由で明治帝国の靖国神社は、天皇には相容れないものがあるのだ。

  

 

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外国人労働者について

2018-10-25 04:15:37 | 暮らし

自民党は深刻な人で不足だから、緊急に外国人労働者を入れなければならないと主張している。この主張をもう少し正確にすれば、「3K職場では日本人が働こうとしないから、外国人労働者を入れる以外に、日本の社会は維持できない。」ということなのだろう。この緊急対応によって、日本がどのように変わって行くのか不安が高まる。戦前の植民地時代のようなことになりかねない。炭坑のような危険な仕事に、植民地からくる朝鮮人などの労働者が働いていたような状況の再現である。もし、ずさんな形で外国人労働者を3K職場で受け入れるようなことになる。現状でも余り良くない日朝関係。あるいは在日朝鮮人問題のようなことが、将来繰り返される恐れがある。日本はどちらかと言えば外国人との関係において特殊な国である。また、人種差別というものは、何処の国でもある。日本人が移民して行く過程を見ると、棄民と言えるような悲惨な状況がいくらでもある。父方の祖父の兄弟がアメリカに移民して、収容所に入り大変苦労をしたので、そうした実態を少しは聞いている。日本に来て働く人が、気持ちよく努力をして自分の人生を開拓できるというのであれば良いのだが。

農の会の関係者でもフィリピンから来た人がいた。日本で農業で生活をしたいという事で、一生懸命農業をしていた。それだけでは無理だった。それは他の日本人の新規就農者も同じことだ。いろいろの職場で働いていた。職場での苦労話をよく聞かせてくれた。日本では当たり前のことも多かった。それでも彼には耐えきれない事なんだというようなことが多かった。行き違いにより、差別と受け止めることもあったと思う。ともかく、安易に受け入れれば、またまた想定外が続くという事になる。人手が余るようになれば、帰ってもらう。こういう考えで労働者を受け入れることは失礼だし、良くない結果になる。バブルがはじけて大量の解雇問題が起きたこともあった。今度はさらに大量の労働者の雇用を公にやろうというのだから、よほど準備をしてことに当たらなければ、大きな後悔になりそうである。ロボットが3K職場で働いてくれるようになるまでのつなぎというような考えならやめた方が良い。労働者に来てもらうという事が、平和外交に繋がるようなものでなければならない。

農業分野は真っ先に外国人労働者を受け入れることになる。現在でも研修生という形で、かなりの数が入ってきている。5人に一人が外国人労働者という地域がすでにある。これが、一般の労働者とまったく同条件で雇用されるようになると、日本人は農業の現場では働いていないというような状況にまで進んでゆくと考えた方がいい。外国人労働者が居なければ、日本の食糧は維持できないという状況になる。これは独立した国家としてまともなことではないと思う。近い将来、外国人労働者が働く大企業農場と、普通の農家が競争しなければならなくなる。ますます、普通の農家というものは成り立たなくなるだろう。日本の農家の消滅が一段と速まることだろう。日本の食糧安全保障は完全に破たんする。普通の農家が無くなるという事は、中山間地の条件不利地域の農家が無くなるという事だろう。その結果、起こるのは地方消滅である。地方社会が消えてしまったとしても、日本国と言えるのだろうか。

もちろんそれは外国人労働者問題の流入がなくとも近づいていることだ。外国人労働者の流入がこの流れを加速させる。日本人は、日本国はこの先どうなるのか。若者たちの雇用環境はさらに厳しいことになる。引きこもりがさらに増えるという現実だろう。有能な人を雇用出来るような職場はある。能力競争は極めて厳しくなる。裁量労働制が出来て労働時間も際限が無くなる。これに勝ち抜く競争が生涯つきまとう。これに負けないわずかな人には良い社会だ。大半の日本の普通の若者は行き場がなくなる社会が予想される。肉体労働はしたくない。特に技術もない。やる気も普通。となれば、日本の若者の行く先は何処になるのだろうか。現代の日本の優しい若者では、到底外国人労働者に対抗できないように見える。経済戦争に突入しているのだから、甘いことは行ってはいられないというのが、アベ政権の考えなのだろうか。

 

 

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沖縄市長選挙も自公候補が敗北

2018-10-24 04:26:36 | 石垣島

沖縄では希望の焔が揚がり始めた。翁長前知事の命の願いを込めた県知事選に続いて、オール沖縄候補が市長選に豊見城市、沖縄市と勝利している。自公候補の落選が続いているのだ。これはどういう事と考えればいいのか。沖縄の怒りが焔を上げたのではないだろうか。沖縄はアメリカに占領されアメリカ防衛の拠点とされてきた。アベ政権によって沖縄は日本の防衛前線にされかかっている。もう耐えきれないというのが、沖縄の人々の思いなのではないだろうか。今まで自民党は選挙のたびに、お金を持ち出していた。自公候補が勝てば、補助金で鉄道を作るなど甘いことばかり言ってきた。そして、選挙においては有名無実の基地負担の軽減の建前だけを主張する。実際に行っていることは自衛隊ミサイル基地を中国にめがけて琉球列島に配列しようという計画である。敵基地攻撃ミサイルの配備が今度の防衛大綱の見直しで予定されている。これでは琉球列島に暮らす人に犠牲に成れと言うばかりである。建前としては、中国からいつ攻撃があるかもしれないので、ミサイル基地を作り島を守らなければならないとあり得ない主張をしている。

島にミサイル基地を作ることで島の住民は危険性を増すだけである。平和は平和な関係を構築することで初めて生まれるものだ。与那国、宮古、石垣と市長選で自公候補が勝利してきた。このようにして作られる自衛隊ミサイル基地は当然アメリカ軍が共用する可能性が高い。同盟軍なのだから当然である。アメリカへのサービス事業である。日本にいる米軍は中国ロシア北朝鮮にある。アメリカ本土へのミサイル攻撃基地を戦闘機で空爆するために存在する。日本にある基地が攻撃されたとしても、アメリカ本土は安全である。日本から先制攻撃をすることがアメリカの戦略なのだ。ところがトランプになり、アメリカの負担を減らせと圧力が強い。そこで自衛隊基地を作り、米軍に無料で使用してもらうという事だ。そうすれば、沖縄の米軍基地負担が軽減されたように見えることになる。現実には日本も、アメリカも沖縄が犠牲になることを仕方がないという考えが見え隠れする。沖縄本島ではさすがに、もうこの嘘は選挙では通用しなくなったようだ。

その一番の表れが、自公候補の落選続きである。公明党票がオール沖縄候補に流れている結果と言われている。このところの選挙では創価学会票の半分はオール沖縄候補に投票されたと言われている。さすがに耐えかねたのではないだろうか。翁長知事の選挙では創価学会は自由投票であった。その結果班辺野古米軍基地の翁長知事が誕生した。そのご、曖昧なまま寝返り公明党は基地推進候補を支持するようになった。反基地と言いながらその自己矛盾にはさすがに限界が来たのではないだろうか。石垣市議選でも公明党候補はミサイル基地に対して曖昧な態度で選挙をした。以前は明確にミサイル基地には反対を表明していたにもかかわらず、態度を翻したようだ。それは公明党本部からの強い要請に従わざる得なかったためとしか思えない。こうした自らの判断のできないジレンマの中に沖縄の公明党員はいる。この自己矛盾がいよいよ、限界に達してきたのかもしれない。石垣の創価学会員がミサイル基地を歓迎しているわけがない。

何故、創価学会が平和の宗教でありながら、軍事基地賛成の矛盾した態度を取り続けるのか。アベ政権は公明党か、あるいは創価学会の弱みを握っているかに見える。しかし、いよいよ矛盾が煮詰まってきて、沖縄で表面化し始めたかのようである。過去の主張が、そう簡単に変わるはずがない、人間であればこの変わり身は苦しいはずだ。私の所に選挙投票を依頼に来る公明党の人は、公明党の本部の先生は、平和に関してとても熱心であるから、自衛隊を認めるような悪いようにする訳がないと繰り返し主張していた。この公明党の与党としての自己矛盾が、琉球列島の軍事基地化をもたらそうとしている。沖縄がいいように利用されているという事に気づき始めた人もいるのかもしれない。公明党が変われば日本が変わる。単なる推理であるが、原因は池田大作問題ではないかと思っている。教祖が意思表明をしない状況である。たぶんできないのであろう。そこで後継者争いである。これにアベ政権が割って入っているのかもしれない。公明党の不思議な民主主義が日本を左右する。

 

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プラスティックごみは燃やすしかない。

2018-10-23 04:07:08 | 環境関連

マイクロプラスチックの環境汚染が問題になっている。プラスチックごみが細かくなり、海に漂っている。これが海の生物を危機に陥れている。たぶん海だけでなく陸上もプラステックごみが土壌を変え始めているのではなかろうか。畑をやっていると場所によってはそれくらいプラステック類が土の中からいつでも出てくる。プラスチックごみはリサイクルという事が言われる。現実にはリサイクル可能なものは全体の数パーセントにすぎない。しかも、市町村は分別をさせて途上国へ再生可能な資源という名目で輸出しようというのだから、とんでもないことが現状行われている。ごみが人類を滅ぼすという事は刻々と現実化し始めている。原子力廃棄物が処理方法がないにも関わらず、原子力発電が推進されてきた。今の自分が良ければ構わないという思想であろう。すべてのものは廃棄処理方法が見つからない限り、生産すべきではない。プラステックなど使うべきではなかったのだ。当面プラステックごみは燃やす以外ない。燃やしてしまえば、地球環境にこれほど垂れ流されることはない。

プラステックごみを燃やすとダイオキシンが出るという事が言われる。生ごみなどの塩分量の多いいごみと混ぜて燃やすからダイオキシンが余計に出る。プラステックだけを燃やしてもダイオキシンの生成は少ない。木材を燃やしても、石油を燃やしてもダイオキシンは生成される。昔の囲炉裏の暮らしでは、眼をやられたり肺を病む年寄りが多かった。室内で木が燃やされて煙がでる。煙というものは一定身体に悪い。プラステックごみを燃やすとダイオキシンが出るということが、浸透した。必要以上に問題化されたことで、その後のプラステック処理がゆがんだ形になってしまった。プラステックごみは一切燃やされないことになった。そして環境にそのまま廃棄されることになった。これを解決するためにはプラステック類を作らないことである。しかし、これほど世界に広がってしまったものを直ちにやめることはできない。そうであれば、当面燃やすことの方がマシな処理になる。私は燃やしてしまうので、環境破壊者のように言われることがあるが、燃やそうが分別しようがプラステックを使う人はすべて同罪である。

リサイクルなど現状では絶望的である。レジ袋の有料化など無意味な茶番である。どれほどの効果も期待できない。政府の対応は気休めと言い訳程度のことだろう。レジ袋を禁止して紙袋にすという所も出て来てる。プラステック類はリサイクル出来ない系統のものの方が多い。その上にリサイクルされた、プラステックごみだって、結局のところ海に流れてゆく末路にあるのだ。焼却場で燃やすとしても、ダイオキシンを含んだ灰は結局埋められている。生ごみと併せて燃やされるのは、塩分が混ざるので良いことではない。それくらいなら、ごみ発電である。プラステックを中心に、燃やして発電すればよい。そうした発電システムを行っている製紙会社もある。紙にならない木くずと、プラステックごみとを併せて償却することで、その熱で発電した電力が工場のエネルギーになる。

最悪のやり方が、埋め立て処分である。現状ではこれが多い。分別して集められて、それが埋め立てに回されている。同時に輸出である。輸出されて、どうなっているのか行く末はわからない。海に流れ出ている可能性もある。中国ではプラステックごみの受け入れを禁止した。そうしたら、今度はタイに輸出しよう、インドに輸出しようという事らしい。それをやっているのが、行政のプラステックの分別ごみだ。こんなことなら庭先で燃やした方がマシなくらいだ。ダイオキシンが有名になり、プラステックごみに関して、エセ科学的な判断が広まった。放射性廃棄物と同じ流れである。どれほど少量でも問題があるとされて、木の葉のたき火さえダイオキシンを危惧する人さえいる。もちろん燃やしていればいいのではない。しかし、現状ではその方がマシなのだ。プラステックが簡単に分解できるまでは、プラステックを必要としない社会が良いのであるが、そうも行かないのであれば、消却を前提にした、可塑剤の工夫をしたプラステックの生産をすべきだ。

 

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機械小屋の移築

2018-10-22 04:15:01 | あしがら農の会

あしがら農の会の機械小屋は私の養鶏場の一部にみんなで作ったものだ。田んぼの機械類などどうしても置く場所が必要で、養鶏場の一角に機械小屋を作ることにした。16年ほど前のことではないかと思う。段々に必要なものが増えて、増築を重ね結構大きなものになった。50坪くらいはあるだろう。そこに農の会のほとんどの機械は入れていたのだが、そこからはみ出して、私の家の方にも置かざる得なくなっていた。養鶏場は私が止めてから他の人が使っていたのだが、地主さんから突然立ち退くように言われた。これも何かのめぐりあわせと考えて、良い方向に進めようと考えた。まずは、養鶏場の後を完全に撤去してきれいにして、地主さんにお返しすることにした。新しい機械小屋は私の家の上の段のビニールハウスの後に作ることにした。ここは昔は竹藪だったところで雑種地になっている。敷地は1000坪近くある。駐車場も新しく作り、機械小屋も出来るだけ大きく作る。今の先、農の会でこの家全体を上手く使えるようになればと考えている。

10月18日に作業を開始した。10人もの人が作業に参加してくれた。有難いことだ。自分のことではないのに、こうして会の為に作業に参加してくれるという事は尊いことだと思う。まずは駐車場作りから始まった。駐車場は穂田さんが機械での作業が中心だったので、その間にビニールハウスの取り壊しをした。奥には単管で組んだキウイの棚もあった。一日で終わるのだろうかと始めたのだが、午前中でほぼ片付いてしまった。みんな身体が動かせる。さすがに日ごろ身体を動かしている人たちだ。そこで、下のハウスの取り壊しも始めてしまいほとんど片づけてしまった。すごいことだと思う。この勢いのまま19日に整地とコンクリート打ちの準備。20日には新しい機械小屋の柱の単管が建てまで終わった。5メートル幅で18メートルの長さがあると言われていた。前の機械小屋と同じくらいになった。さらに奥には平地があり外作業ができる。手前にも案外広く駐車スペースが出来た。家の周辺にこれで15台位の車が止められそうだ。

農の会の活動はいつも駐車スペースで苦労してきた。何かの活動があるとすぐに10台以上の車が集まる。路上駐車では済まない数である。その意味で今回家の周辺に駐車スペースペースが出来たことは良かった。これで私の家の利用価値も高まることだろう。農の会の定例会なども以前は開いていた。ところが、駐車で近隣とトラブルがあり、集まりをしてはならないことになった。家のすぐ脇の駐車スペースにも計画では機械小屋を作る予定であったのだが、上の機械小屋が思ったより広くとれたので、まずは今ある荷物や機械を入れてみようと思う。上の機械小屋だけで収まるものであれば、下には機械小屋は作らないで済ませるかもしれない。その方が使い勝手が良い。まずは、上の機械小屋を完成して、機械を移動してみることにしたい。機械や荷物を移動してみてから、後を考えることにすればいいことだろう。

今回、地主さんから立ち退いて貰いたいと突然言われたときには、さすがにびっくりしてしまった。青天の霹靂という事だろう。もっと良い貸し手が現れたので、そちらに貸したいというのだ。果たしてそんなことが理由になるのかと、混乱してしまった。今まで何の問題もなく良い関係できたのに、土地を借りているという事は何でも受け入れざる得ないことのようだ。無理をしても始まらない。考え方を変えた。可能な場所も探したのだが、結局は適地が無くて家の周囲に作ることにせざる得なかった。一時はどうなることになるのかと思ったのだが。作業を始めてみたら案外にに良い場所が出来てきてきた。災い転じて福となったようだ。私はこの先2地域居住になる。不安を抱えたままの機械小屋よりも、さっぱりと整理をして、心機一転前向きに考えた方が良いことだ。安定した状態を農の会に作ることが、私の残された役割のようなものだと思う。私の土地に機械小屋を作れば、ひとまずは安心である。

 

 

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連続テレビ小説「まんぷく」

2018-10-21 04:34:24 | 身辺雑記

NHKテレビの連続テレビ小説は「まんぷく」である。インスタントラーメンを作った夫婦の話。小学生3年生のころ登場したインスタントラーメンは最高の食品に思えた。インスタント食品との出会いを思うと、どんな話になるのか楽しみが膨らむ。その冒頭の映像が抜群に魅力的だ。安藤サクラさんの映像が輝いていてすばらしい。ドリカムの歌に合わせていろいろに歩いている。この歩きがすごい、すごいものだ。今までもよく歩いてはいるのだが、こんな魅力のある歩きは初めて見た。どうしてなんだろう。何故かドラマの方よりも先ず冒頭のこの画面を見入ってしまっている。音楽に合わせて歩く動きで、人間のすべてが表現されているのだ。千田是也という舞台演出家の書いた文章を思い出した。人間は歩く姿ですべてが表現できるというのだ。人間の本質のすべてが歩く姿に出てしまうものらしい。なんとなくそんなものだと思っていたのだが、安藤サクラさんの歩き方を見て、なるほど演技というものはこういうものかと驚いてしまった。驚いてしまって、毎朝感心してみている。すごい役者である。

演技というものはわざとらしいものである。わざとらしくなければ面白くない。ここでもリアルはつまらないものなのだ。演じるという表現はリアルを超えたリアルにならないといけない。嘘を演ずることで、真実に至る。ここが難しいところなのだが、安藤サクラさんを見れば一目了見である。演じているから面白いのだ。演じているから、納得するのだ。まるでその辺の人と同じようにリアルだというのでは、面白くもおかしくもない。わざわざ見る価値もない。下手だから凄いというのが名優である。巧みすぎる俳優よりも、下手だけど納得してしまう俳優というのが素晴らしい。演ずるという事はそういう事ではないのだろうか。安藤サクラさんの毎朝の歩く姿はそういう演技というものの真髄を見せていると思う。踊っているのではない。音楽に合わせて歩いている。面白く歩くのだが、その面白さがこの少女の生き様を予感させている。明るく、前向きな、希望に満ちた世界観だ。

私にはインスタントラーメンは新登場の夢の食品だった。小学生のとき突然出現した。これほどお米大好き人間の恥のようなものだが、どんぶりに入れて、お湯を入れて、3分待つ。それでもう食事が出来ている。安易である。この安易さが子供の私には新鮮に思えたのだ。ラーメンというものをほとんどない食べたことが状態で、インスタントラーメンというものを食べたのだ。何とも言えない、不思議な味であった。あの頃は麺にスープの素の粉が振りかけてあったのではなかったか。特に袋に入ったスープの素というものもなかった。麺も自然の麺とは程遠いいもので、スポンジ状のゴムをうるかせたような妙な感触であった。ところがこの初めての味と感触にははまった。毎日食べたいと言って大人を困らせた。沢山買ってくれて、毎朝、毎朝食べた。すぐ飽きると思った親はびっくりして、禁止にした。理由は体に悪い食べ物という事だった。

安藤さんは俳優一家に生まれた人だ。演ずるという真髄を知っている感じだ。現代日本最高の俳優だと思う。何でもない人も演ずる。自己主張のない全く影の普通の人も演じたことがある。ここがすごいと思う。安藤さんの存在感を消し去る。それでいて記憶でそうだったのかと思い出す。やはり、是枝監督のまんびき家族の演技は、怖い凄まじさがあった。それは樹木希林さんによって、開眼させられた迫力ではないかと思う。樹木希林さんを主役を食うわき役という人がいるが、その見方は間違いである。主役のすごさを引き出してしまうような、起爆作用のある樹木希林さんである。その起爆剤で爆発しないような役者は、爆発能力をそもそも持っていなかっただけだ。「あん」では永瀬正敏さんが爆発した。とても良い演技を見せてくれて、今でもあの演技が懐かしい。そして、安藤サクラさんは役者魂を開眼したと思う。これから新しい映画が見れるかと思うと、本当に楽しみな役者だ。

 

 

 

 

 

 

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大企業のデーター改ざん事件は続く

2018-10-20 04:19:44 | Peace Cafe

KYBによる免震・制振装置の検査データ改ざんが公表された。製造当初から一貫したデーター改ざんのようだ。この間大地震が繰り返されている。免振ゴムの偽装もあった。耐震偽装事件も起きた。どのような気持ちで偽装を続けていたのだろうか。拝金主義で企業が活動していることがよくわかる。企業倫理など初めから無い会社もあると考えた方がいい。大企業と言われる会社が、次々とデーター改ざんをしている。まだ隠している会社は無数にあるに違いない。自ら公表した方がいい。安全の為に付ける免振装置の検査データーがでたらめというのだ。45%のずれのあるものでもデーターを改ざんして納入していたという。安全対策を金もうけの材料としか考えていないという事がわかる。資本主義はこのようになりがちな考え方と思うほかない。資本主義は拝金主義に陥ると最低のものになってしまう。まともな企業もあるのだと思うが、次々に企業のごまかしが出てくると、企業というものは、個人より悪くなるものと思えてくる。

資本主義というものは、人間の競争心を利用することで、努力をする人間になるという考え方なのだろう。競争がなければ、人間働かない。働かざるもの食うべからず。こういう三段論法になる。その考え方が理解できないではないが、この競争は当然能力主義というものになる。能力の高いものが恩恵が高くなる。能力とはどんなものだろうか。能力は努力によって磨かれるのだろうが、努力だけというものでもない。遺伝的な能力差というものもある。私がどれほど努力しても、100m10秒では走れない。誰もが努力をすれば、東大に入れるとは言えない。人間には等しく人権が存在するとすれば、この能力の違いをどのように考えればよいのだろうか。資本主義では能力の高いものは、能力の低いものに対して、配慮をするという倫理によって成立するのだろうか。そうでなければ、弱者が踏みにじられ、弱肉強食の社会になる。この調整が失われてきているのが現代社会である。しかも資本主義が必要とする人材の幅が狭くなっている。最優秀な人以外は、無意味化するような社会が近づいている。

こうして企業の悪事が露見するのは内部告発である。昔の企業はこれほどひどくなかったというのは、見当違いの見方である。昔の企業もひどかったに違いない。社員が企業と一体化していたから、内部告発が起きなかったのではないだろうか。あるいは終身雇用制で、いろいろあっても会社に居残ろうという人が多かったのではないか。簡単に排除されない仕組みがあったから、外部に企業の問題点が露見しなかったと考えた方がいい。私自身も同じだ。養鶏業をやっていたとき、いつ最善を尽くさなくなるかと不安があった。だから養鶏業は60歳で止めようと思っていた。それまでは頑張る。それ以上は無理だろうと思えた。私の目から見ると、何処の養鶏場も正直許せないようなものだった。だから、理想の養鶏の在り方を身をもって示したいと考えてやっていた。商品というものは、信頼で取引されるという事でなく、厳しい監督下に置かなければだめだという事なのだろう。

末期的資本主義競争が世界を支配し始めている。トランプ主義とでも呼べばいいのだろうか。札びらで顔をはたくという、地上げ屋主義だ。強い者は弱いものを支配し、言いなりにさせて構わないという価値観の出現。資本主義は独占化が進み崩壊すると、予測された。それを修正する、経済システムを世界は目指そうとしたかに見えていた。国の能力差を調整しながら、自由貿易を行う事が、大概の利益につながる。弱者が成長することで、強者にも恩恵は及ぶという理想を掲げていた。弱者を踏みにじるような行き過ぎた競争主義は良くないと考えてきた。もうこうした考え方はきれいごとに過ぎないので、捨てるべきだという事なのだろうか。圧倒的な強者であるアメリカが、その牙をむいた時世界はどうなってゆくのだろう。資本主義は修正不能という事なのだろうか。

 

 

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消費税10%になる

2018-10-19 04:40:55 | Peace Cafe

以前から消費税は値上げした方が良いと考えきた。それは消費税が出来るときからの考えだ。政治というのは、結局のところお金の入りと出をチェックすることだ。と政治学の授業で習った。国の財政が支出の増大で危機的状況だから、消費税が必要。税金の配分に関しては大いに不満はあるが、それでも福祉的支出に関して増大してゆく時代に対応するためには、消費税の値上げも必要だと考える。誰だって税金が安いほど良いとは思うが、何でも運営するためには経費は掛かる。どういう形で集めるかという事なら、多様な集め方ほど良いと思う。公平な負担がどこにあるのかは難しいところだとは思うが、消費税という形の良いところもある。誰もが負担するという事がある。フランスに留学していたころも確か10%の消費税を取られていたと思う。ありとあらゆる人が消費税は払う。その公平もあると思う。いや低所得者の方が税負担が大きくなるという事もない訳ではない。消費税だけを見ればそうした側面はある。同時に所得税の累進課税の見直しなども行うべきなのだろう。相続税の課税強化なども必要であろう。

私が消費税が必要だと考えるもう一つの理由は、消費が抑制されるからだ。節約を政府が奨励しているという事だろう。もったいないこそ大切な倫理だ。政府は取りやすいところから採ればいいという程度の安易な発想なのだろうが。結果消費抑制になる。消費の大きい人ほど税負担が大きくなる。自給生活者は税負担が減少するという結果になる。今食料品は8%のまま据え置くと言われている。問題が小さい上に複雑。100万円年間消費する人は10万円税負担という事になる。結構な税負担になる。しかし自給的な暮らしをすれば、これが5万円くらいで抑えられるかもしれない。食糧については自給していれば、無税である。だから私の立場から言えば、消費税の増加は自給農業者の奨励という事ではないかと、アベ政権のめったにない善政なのかと思えてくる。年金生活者に負担増と言われる。年金生活者はお年寄りである。確かに大変だと思うが、自分の若いころに比べて、今の若い人たちの方がはるかに困難な状況にある。だからここは少し我慢するほかないのではないかと思っている。

食料品の軽減税率が複雑すぎると騒がれている。これは公明党の主張を無理やり取り入れた結果である。ごちゃごちゃになったのだ。軽減税率はもっと単純に行うべきである。お米を消費税0%にすればいいだけのことだ。他は一律10%にする。これで軽減税率の2%分に近くなる。貧乏人は米を食えではないが、お米は素晴らしい主食だ。子供たちの消費が極端に減少している。将来日本の主食がどうなるのか心配である。食糧の安全保障の観点からも、お米を大切にしなければならない。お米は農薬も、化学肥料もいらない、生産効率の良い素晴らしい主食作物である。自然環境の多様性にも貢献する。気候変動の緩和にもなる。防災対策にもなる。美しい日本の基本にもなる。地方消滅の歯止めにもなる。日本で唯一自給できる作物なのだから、これを守ることが国是であろう。

お米から消費税を無くせば、お米を食べる人も助かる。お米さえあれば、何とか暮らせるものだ。金沢での下宿生活の時代、お米でしのいだ。フランスでの貧乏暮らしも安いお米でしのいだ。お米を作る人はさらに助かる。稲作農家ほど将来性の苦しいものはない。お米が安くなり多く売れれば、稲作農家もやめないで済むかもしれない。大規模企業稲作であれば、奨励され補助金が出ている。しかし、そうした農業企業は、外国人労働者を導入しその給与に補助金があてられる。いやそのくらいなら、ベトナムで生産した方が良いという話が、現実化している。このままでは日本の水田は日本人が働く場ではなくなる。大規模化できない水田は無くなるのであろう。消費税の値上げが日本の水田を守ることに繋がるなら、少しは我慢できるのではなかろうか。

 

 

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家庭イネ作りの経済

2018-10-18 04:13:27 | 稲作

家庭イネ作りの費用はどのくらいかかるのか。長年の結果からすると、120キロのお米が1万円で手に入ると考えればよい。私の家では2人分の一年間のお米が1万円で十分という事になる。これが農の会の稲作の目標であり、達成したものである。今年おおよそ4反ほどの田んぼで、15家族で稲作を行った。その結果がどうも8000円以下の一人分担というのだ。安すぎるので驚いた。10家族で2反をやるという態勢で1万円という事のようだ。嘘のように安いので、間違いだというコメントが来たことがある。しかし嘘偽りなく、これが農の会25年の歴史的結果である。機械をどうしているのかというのが一番の疑問のようだ。共同使用である。機械は壊れる。まあ、壊す、壊す。私もよく壊すので近在の農機具屋では有名な方だ。「あんたか、よく壊すので聞いているよ。」と初対面の農機具屋に言われたことさえある位だ。今はあちこちの農機具屋に騙されて、もう農機具屋には行かないことにしている。

農業機械は簡単には直せないように作られている。ねじ一つ外せないように仕組まれている。私にはそう思えるほど、直しには不親切なつくりだ。それでもある程度まで自分で修理できなければ、家庭イネ作りは不可能である。家庭イネ作りと言えども、機械は使わざる得ない。工夫してもねじが回せない人では、イネ作りはできない。おかしなことだが、そういう事になる。すぐ農機具屋に行くようでは、忽ちに1万円では済まないことになる。機械は共同で使わなければ、高価なものになる。100人で使っても、一人で使っても同じ費用になる。100人で1万円だったものなら、一人なら10万円と考えざるえない。機械貧乏になる。そこで一人でやるとしたら、一切機械は使わないと考えるだろう。機械を使わないで一番困るのが、脱穀から籾摺り精米までの工程になる。干したお米を手でしごいてとることになるか。千歯こぎくらい工夫して作れるかもしれない。それでも籾摺りという事になれば不可能であろう。開成町の瀬戸屋敷の水車で籾摺りを試したことがあるが、一日かけて20キロ程度であった。これを手で叩くなど考えたくもない。ここだけ、農家に頼むという事もあるが、やってくれる人がいれば幸運なことだろう。

家庭イネ作りの経済は一人ではなく、やはり協働という事になる。それが日本の伝統稲作だ。瑞穂の国日本は田んぼを協働作業でやるという合理性からできた。一つのが田んぼという繋がりで出来上がる。しかし、現代はこうした昔の協働する集落というものが崩壊した。様々に煩わしいので当然とはいえる。一人一人がバラバラにイネ作りを行う。水の使い方でも自分のことしか考えない人が多数派である。新しい協働を見つけようとした仕組みが、農の会のイネ作りだ。安く上げるためには、働く時間を増やすしかない。ここが問題である。誰もが忙しい時代だ。はざがけの棹は竹を切り出せばただである。はざがけ機材を購入するれば、1反分で10万円もする。はざがけ脚を自作すれば、ただであるが時間がかかる。このバランスである。この時間がかかるを楽しみとしてやれるかどうかが、分かれ道であろう。負担だと思えば止めた方が良い。

イネ作りは面白い。生計を立てなければならない主業ではないから面白いのだろう。しかし、趣味だからこそ専業農家よりも真剣に取り組まなければならないと考えている。今年は3反で11枚に分かれた棚田で、反収605キロの畝取りが出来た。有機農業の家庭イネ作りが、慣行農法の稲作農家を超えているのだ。江戸時代さながらのイネ作りがやはり優れていたという事が証明できた。江戸時代が飢餓の時代だというデマが払しょくできると思う。愉快でたまらない。人間は100坪の土地で一日一時間働けば食糧の自給はできる。シャベル一つの開墾から始めた、ここ30年間の自給生活でそうしたことが証明できたと思う。これほど楽しい試みはなかった。やりたいことをやる。遊園地にお金を払っても行く人は居る。田んぼは遊園地以上に面白い。これが食糧の自給になるのだから答えられない。昔のニワトリの本には必ず書かれていたのが、趣味と実益を兼ねてという副題だった。生きるという事を趣味にしてしまえば、経済は別会計になるという事なのだろう。

 

 

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教育は何のために行われているのか。

2018-10-17 04:57:14 | Peace Cafe

自覚のないままに経済戦争中の日本では、教育は経済の勝者になるために行われている。それだけに目標を特化しようとしているのかと思える。小学校で英語が正課になる。競争に勝つための道徳教育が正課になる。日本が経済戦争に勝つための人材作りという事になる。教育基本法で示された教育の目的は「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」と示されている。教育基本法に基づいた教育を行う義務が国にはある。全く平和で民主的な国家のことはどこに行ったのだろうか。明治日本帝国に役立つ人間を育てることが教育勅語であったように、経済国家日本に役立つ人間を育てることが、教育の直接的な目的になっている。教育基本法の趣旨を無視して、教育の改編が進んでいる。教育は経済主義に着々と入り始めている。教育の視点からこのことを正面から考えなければならない。

「教育な何のために行われるか」をそれぞれに問わなければならない。人間を人間になるように育てるために教育があると私は思っている。人間とは自分の頭で、自分の幸せな生き方を探せる存在である。特に初等教育においては、日本人の目指す方向性を伝えなければならない。日本人が日本で暮らしてゆくためには、社会というものの合意が必要である。どのような文化を持つ国であるか。何を大切にする国なのか。どのような歴史を持つ国であるか。どんな方角を目指してゆくべきなのか。このようなことを考えることのできる基本となる要件を教育しなければならない。憲法に基づく教育である。国語力が最も重要になる。一時間でも多く国語力を磨く必要がある。日本人とは日本語を読み書きする民族である。小学生の時は良い本を大量に読むことが大切である。読書の楽しさを育てる教育が大切だと思う。本を読んでゆくと、自分の中の世界が広がる。小学生の時に良い本に出合う事が出来れば、生きる生涯の宝になる。

次に行うべきは身体づくりの時間だ。身体の動かし方を子供の間に身に着ける必要がある。体育をもう少し広げて考える必要がある。よりよく生きるための身体の動かし方である。作業のできる身体づくりである。作業の授業が必要である。生きてゆく基本となる作業を身に付ける。身体と頭の連動できる身体。図工の時間や農作業の時間を総合的に組みなおす。人間が生きるために基本となる作務の時間である。掃除のやり方なども授業として取り入れる。暮らしの中での体の動かし方が、身に着く授業を行う。体力がないという事では、身体を上手に動かせないという事では、やりたいことが十分にはできない。初等教育では体つくりの基本が大切になる。暮らしが変わってきているため家での子供の生活だけでは、体の動かし方の学習が不足する。家で畑の手伝いをしている小学生はまずいないのではないだろうか。食事を自分で作れるというようなことも、初等教育である。人間は身体を動かし食糧生産をして、その食べ物を食べて生きるという事を身に着ける必要がある。

道徳教育というような枠組みで授業を行う事は無意味である。多くの本を読み、身体を十分に動かす。そうしたことを通して、社会道徳というものを身に着けてゆくはずだ。作業の時間にはみんなの田んぼを行うと良い。田んぼを上手くやるためには、すべてに対する配慮が必要になる。自分だけがでは上手く行かない。力のある人も、力のない人も、能力の高い人も低い人も、それぞれの役割を担う事で協力して作業を行う事が、全体では一番うまく行くという事が体感できる。田んぼを通して社会というものがどのようにできているのかを伝えることができる。思いやりとか、おもてなしとか、もったいない。こうした日本人の徳性を自然と知ることができる。道徳の授業は観念的なものでは効果的ではない。みんなで掃除をするというような作務を通して、身に着けてゆくもののはずだ。

 

 

 

 

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