地場・旬・自給

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トゥラバーマ講習会

2019-03-31 04:10:12 | 石垣島

 

石垣島では毎月トゥラバーマ講習会が開かれている。第3水曜日の夜と決まっている。3月は20日であった。次回の4月17日も石垣にいるので出ることができる。以前はその日に合わせて、石垣に来たこともあった。素晴らしい講習会だからだ。トゥラバーマ八重山民謡最高の曲である。女性と男性の掛け合いがあり、情緒の深いハーモニーがある。少しも唄えないが、いつかトゥラバーマをまねごとでもよいから唄いたいと思っている。10年先になるのかもしれないが、少しでも近づきたい。唄もそうなのだが、聞いて楽しむということと、唄ってみてその良さを深く味わえるということがある。表現してみては入れる世界もある。絵を描くことで自分の中に生まれる深い確認のようなものは、絵を描く目的だと考えている。唄も同じで、ただ聞いていたのではどれほどの聞き手になったとしても、踏み込めない世界がある。トゥラバーマがすごい唄であるという意味は、毎年の行われるコンクールでは、新作の作詞賞がある。唄が生きたもので、新しくどんどん生まれているということだ。こんな古典民謡は滅多に無いだろう。いつかトゥラバーマの作詞をできれば本望である。
 
トゥラバーマを唄うという大それた夢の前に、もう少し練習をしなければ話にならない。今回もついてゆくこともできず、ヒア汗をかいた。参加されている人は皆さんは、トゥラバーマコンクールを目指しているような練習を重ねた人だと思う。見事に唄える人たちの参加であった。初心者の参加は全く邪魔にならないようにするのが精いっぱいで、恥ずかしい思いをした。それでも混ぜていただいただけでも楽しかった。みんなで唄うと言うことは、一人で唄うとは違う、共鳴する喜びがある。声を合わせて出すことで、みんなと一緒になれるような、仲間になれる喜び。次回は唄は3番までなんとか、唄えるようにしておく。先生の一人が横目先生で、以前教えていただいたことがあった。素晴らしい先生方の唄が聞けるだけで、もう参加する価値がある。しかも真似でも一緒に合わせて唄わせてもらえる。こんなに有意義な機会はまたとない。この講習会は参加費も無料である。八重山古典民謡研究会が普及のために行っている活動なのだと思う。こういうところが石垣の素晴らしいところだ。
 
青少年の家の初心者三線教室は無事終了した。なんと今年が最後になるということで、びっくりしてしまった。こんなによい企画が終わりになるのはあまりに惜しい。定員超えの人の集まる企画なのだから、なんとか継続してもらいたいものだ。指導は、八重山古典民謡保存会の事務局長の山田先生に指導していただけた。初めて教えていただいた基本講習であった。三線は自己流になる。悪い癖がつきやすい楽器だと思う。山田先生の三線をの持ち方、姿勢の位置など、基本に従い練習をしてみたところ、実に弾きやすい。その姿勢を保つためには背筋の筋力がなければならない。先生はそのためにトレーニングをされているそうだ。猫背の私はすぐ苦しくなる。しかし、姿勢を正せば、引きやすいということは理解できた。正しい姿勢では手首の90度の曲げが必要になる。手首が曲がらないと、うまく手が振って演奏することができない。それが、弦を弾いてしまう原因だった。まず三線の音を良さを確かにしなければ。
 
山田先生には、教室でトゥラバーマを唄っていただけた。この唄がとてもよかった。発声法である。静かに楽に声を出している。しかし、声は響いて明確である。話している声のままに唄うということがよくわかる。聞きやすいといっても、アナウンサーのような声ではない。個性的なその人の持つ日常の声である。どこの誰が唄っているということがわかる声だ。それでいて、その声が遠くまで通り抜けてゆくことには驚かされる。謡などの発声に共通するものなのかもしれない。山田先生はすべてに論理的で、指導者として素晴らしい方だと思った。教室もやられているというので、本当は教えていただければと思うが、私のようないい加減なものでは、失礼で敷居が高い。ともかく覚えなければだめだと言われた。この覚えるという能力が失われてきている。せめて、教えていただいた安里屋ユンタだけは、覚えようと思う。これはぼけ防止のようなものだ。教えていただくとなると、週2回の指導といわれていた。そこまでは通うことはできない。やはり、八重山古典民謡の世界は生半可ではない。
 
 
 

 

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インフルエンザ特効薬ゾフルーザで耐性ウイルスの登場

2019-03-30 04:16:18 | 暮らし


インフルエンザの特効薬として、今年新しく出た塩野義製薬のゾフルーザが73%というまさかの耐性ウイルスを生み出していた。調査数が少ないので、まだ暫定的なことではあるが。ゾフルーザは一回飲めば効果があるというので、風邪を引いたならお医者さんにいって、薬を飲めばすぐ治るからと周りからも、何度も言われた。ところが画期的の新薬のはずが、ウイルスがこの薬に対してすぐに耐性菌を作ることがわかってきた。薬の認可時点でこれがわからなかったのだろうか。ウイルスも生き物だから、しのぐ術を編み出そうとする。薬というものは常により強力な菌を生み出す役割をしている。タミフルだって同じことだ。院内感染というものはこういう経過で置きやすくなる。人間は病原菌といたちごっこをしているに過ぎない。病気を完全に征圧できるなどという、おごった考え方を捨てなければならない。あくまでも折り合いの付け方なのだ。これはワクチンも同じことだ。ワクチンで完全に病気を抑えることはできない。ワクチンがより強力な病気を生み出す可能性もある。野生のイノシシのワクチンなどとんでもない発想である。

何があっても薬は飲みたくない。死ぬほど薬が嫌いだ。薬のお世話になるくらいなら死んだ方がましかもしれない。そう思ってやってきた。風邪を引いたならば、それは自分には必要なことで、治るまで静かに静養していろという指示だと思っている。風邪を引くことも私という人間とからだをただすために必要なことが起きたと考える。まだ死ぬことまで必要で起きることとは受け入れられないが、風邪ぐらいなら耐える。高熱に耐えている。この熱が出るということは、身体的に必要で起きているのではないかと思っている。今年高熱が出たのは、暖かい石垣から、何しろ夏日のあるような石垣の正月から、突然、寒い暖房のない舟原に移動したためだ。これが体に明らかに無理だった。無理をした代償として、風邪の病状が出たのではないか。だから熱が引けば寒さに対応できるようになる。その通りになった。へりくつかもしれないが、内観法ではそう体からの合図であった。

インフルエンザに限らず、様々な病気が大流行になる原因は人間の暮らし方の方にある。ペストのヨーロッパでの流行も人間が、不衛生な都市に集中して暮らすようになった結果起きたことだ。インフルエンザの流行は大規模な畜産業の出現にあるとみている。エイズやエボラ出血熱の流行はアフリカの生活の変化に要因があるのではなかろうか。もし以上の推測が当たっているとすると現代人の暮らし方は極端化している。それが新しい病気を生み出す恐れが十分にある。効果的な薬を大量に摂取する。合成化学物質を取り込んでいる。特に病気になると薬に依存する新しい暮らし方を原因とする、大きなしっぺ返しが来ると思わざる得ない。薬の効かないインフルエンザが現れるぐらいならまだいい。感染力自体が強力化したウイルスの登場もないとはいえない。しかもその病気に感染したら、たちまちに死に至るものになるかもしれない。私はそういう病気が登場するのではないかと恐れている。だから、病気に薬で対応するという考えを受け入れないのだ。

ではどうしたらよいかである。人のことはわからないが、私のやっていることを並べてみる。自分の身体を毎日内観すること。定期的に、自分の体の中を頭からつま先まで感じてみる。内臓もいちいちどう感じられるか確かめてみる。なれてくるとすこしづつ感じられるようになる。おかしければそこで対応する。つぎに機器を使った計測をする。体重や血圧、内臓脂肪など計測できるものはできるだけ計測している。ここに変化があるときに、原因を考えてみる。フィットビットで心拍数は24時間計っている。これはかなり参考になる。小田原にいたときには安静時の心拍数は61平均。石垣にいるときは55。これは石垣にいると体が安定するというか。緩むのではないかと思う。よく寝る。あまり食べない。運動をする。体を冷やさない。体の整備は怠らない。そして病気にあれば、それが何から起きたのか、何を改善すべきなのかを考える。薬で対応してしまえば、大切な機会を失うことになる。そして仕方がないことは諦める。つまり死を受け入れる。




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日本人の平均年齢はいくつですか。

2019-03-29 04:04:46 | Peace Cafe

落ちているのはデイゴの花びら 

日本は老齢化した。名実ともに年を取った。世界一の年寄である。世界の平均年齢は28.2歳だそうです。日本人の平均年齢が、世界一の45.9歳。長寿国であるとともに、世界一の年齢である。46歳が真ん中ということは、24歳上の70歳の私と22歳の人たちが折り返しにいるということになる。大雑把すぎるが、成長期の弱年層と、私以上の老人層が同じくらい存在する社会。労働人口の平均年齢となれば、60歳を超えたあたりになるのだろう。昔の会社では定年の年齢が平均というすさましさ。さらに年をとることだろう。これでは社会に活力が弱まるのも当然である。最近では70歳を超えても働ける人は働いて、生涯現役などと言われている。一見おだてられてよさそうだが、そんな呼びかけがされる社会はまともとは言えないだろう。簡単には隠居もさしてもらえないようだ。姥捨て山どころではない。爺働きの海原。私などは生涯ぶらぶら絵を描いての暮らしが願いだったから、早く隠居したい一心だった。鶏を飼っています。という、言い訳の利く立場になればと思っていたのだが、ついぞそういう楽隠居身分は来ないようだ。69になっても働いていないと悪いような気分である。

この老人社会で一番困るのが老人がのさばることだろう。老人はかならず既得権益の死守に回る。昔取った杵柄である。若者はこれからだが、年寄りは後しばらく無事に暮らせればいいという消極的な存在だ。何しろ世耕大臣によると原発輸出は失敗ではないのだそうだ。どこまでも失敗を認めない原子力村の原発利権。それはそれで年寄りには仕方がないとしても、これではあたらしい産業の芽が育たない。完全に再生エネルギー分野では後れを取ってしまった。トランジスターラジオを販売して歩いた総理大臣の戦後社会なら、こんなことはなかったことだろう。失敗しても、恥をかいても挑戦するような年寄りなどいないものだ。失敗は青年の特権であり、失敗こそ発明の母である。朝の連ドラの万福食品でもそうだと言っている。もう終わりだが、なかなか面白かった。一つの失敗が成功への道にになる。原発の失敗を認めることができれば、再生エネルギーに活路を見つけるほかなくなる。そこまで追い込まれなければ、あたらしい産業など生まれない。老人としては、まあまあ穏やかにやりましょうやということにならざる得ないのだ。

老人社会で次に困るのが教育である。年寄りっ子は一文安い。教育がもっともらしくなる。用心深い押し付け教育になる。改革的な精神を持つようなことは、遠ざけられる。今の時代を守るための道徳教育を正課にする。お年寄りを大切にといいたくなるのだろう。明治の教育勅語を持ち込もうという総理大臣が登場する非常事態である。守りに入るということだろう。老人社会は大体のことが了解済み社会になる。ハチャメチャな若者が育ちにくい社会。エジソンも、松下幸之助も現れにくい社会になっている。中国のような社会は、問題点から見ればとんでもない社会である。ところが若い活力ある。一度完全に衰退した社会がよみがえっている部分が見事に出てきている。中国の独裁体質は気に入らない。しかし、活力のある若返りは魅力がある。守りに入らない教育がよかったのだろう。紅衛兵のでたらめ教育の一方にやってやるぞの、活力ある教育が誕生していた。日本からでも学ぼうという意欲がすごかった。

老人社会が続くのは致し方ないことだが、せめて老人が若者の邪魔をしない社会であってほしい。老人は道を譲ろうではないか。少しの差なら、若者を優先しようではないか。老人は急ぐ必要はないし、先も短いのだ。老人は出しゃばらない。次の世代を育てることに専念しようではないか。まずは、我が身を引くことだ。



 

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イノシシにワクチンは馬鹿げている。

2019-03-28 04:46:43 | Peace Cafe

放牧され、そこにある草で生活している牛。

豚コレラが野生のイノシシからの感染ということがわかった。そこで野生のイノシシにワクチンを与えることになった。餌にワクチンを仕込み、土に埋めておき食べさせる。豚コレラワクチンで免疫力をつけようという計画である。この方法で、すべてのイノシシに免疫が可能とは思えない。日本中のすべてのイノシシが食べるとは到底思えない。ただ、一つわかることは、鳥インフルエンザの感染が起きたときには、野生の鳥すべてにワクチン打つのかということになる。私が主張してきたように、養鶏場の鳥だけの問題ではないということになる。豚については認めたということだ。これはワクチンを信仰するえせ科学とおなじことになる。ワクチン餌を一度食べたからといって必ず免疫が完全になるとはいえない。中途半端なワクチンでどのようなことが起こるのか、これもわかっていない。すべてのイノシシが免疫ができる状態が作り出せるほど、餌を与えるとすれば、イノシシの餌付けである。駆除した方がましだ。ほかの動物への影響はないことははっきりしているのだろうか。こんな自然を無視したやり方は、自然に新たな問題を生じる。

こんな方法に前例が成功したのかどうかはわからない。これから前例のあるヨーロッパを調査しようということである。10年間かかって、豚コレラに一定の効果があったららしいとしているが、ワクチンの効果なのかどうかは明確ではない。10年すれば、イノシシの方も変わっている。岐阜県ではワクチンを使う地域を柵で閉じたという、そこに年6回ほど餌を埋めるという。柵で閉じたという意味がわからない、柵の外のイノシシには感染が広がっていないという確認はできない。その柵というものはどう考えても狭い範囲で、しかも不十分なものに違いない。感染経路が確定されたわけではない中で、一部のイノシシにワクチン餌を食べさせたとしても無意味なことだ。無意味なことだ。わかっていながら、こんなおかしなことをやろうという理由を考えてみたい。養豚業者がワクチンを使いたいという要望がある。しかし、禁止である。何か対策をしない訳にはゆかない。こうした非科学的な考え方から、放牧養豚が禁止になる。徹底した衛生管理ということで、豚が消毒薬まみれになるだろう。豚コレラよりもそうした肉の方が食べたくない。

私は一応はイノシシの罠免許を持っている。講習も受けた、罠も仕掛けた。一定の知識はある。イノシシはそれほどは移動しないとしているが、必ず移動するイノシシもいる。群れではないイノシシもいる。本来いなかった離島に泳いで渡るということが確認されている。状況によってはかなりの距離移動するイノシシもいると考えた方がよいだろう。ワクチン入りの餌を食べないやつも必ずいるはずだ。結局のところ日本中のイノシシにワクチンを食べさせるというような、とんでもない話になってゆくに違いない。獣医学の不十分である。ウイルス学の不十分である。基礎研究の不十分である。対応するだけの学問の準備がない。イノシシがどういう生態なのかさえ、十分には把握されていない。実数も、移動距離も、わからない。なぜ関西から山形に感染が広がったのか、明確にならない。渡り鳥の飛来経路の把握さえ十分でない。鳥インフルエンザの感染実態は把握できていない。お金にならない基礎研究はやる必要がないというのが、国の考え方だ。経済優先で足下がぐらついている。

豚コレラの対策には豚の飼い方を変えることだ。大規模畜産をやめることだ。病気というものは必ず発生する。それは人間だって同じことだ。どれほどの衛生管理をやったところで病気になる。必ず死ぬ。生き物は無菌室で生きているわけではない。このまま大規模畜産をつづけてゆけば、人間の手に負えない新たな病気が大規模畜産から出現する。どこかで仕方がないという範囲を決めて折り合いをつけることだ。大規模畜産というものは、家畜を当たり前に飼育できる限界を超えた。一カ所に何万頭も豚を飼うなどということが、やってはいけないことなのだ。神を恐れぬ行為ということになる。自然循環の調和を乱してしまえば、世界の輪を断ち切ることになる。肉はたまに食べればいい。牛だって、鶏肉だって、たまにいただけば十分である。毎日食べようという貪欲が間違っている。暮らしの中に収まらないことはやめた方がいい。大規模にすれば経済の合理性があると考えるのだろうが、競争に追われているうちに大切なものを忘れた。家畜を飼うということは命を扱う、倫理を持たなければならないということだ。この行き着く先は手に負えない病気の出現である。

 
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見ている世界を確かめるために

2019-03-27 04:20:33 | 水彩画

誰しも世界は目に映っている。しかし、それは「自分という存在が認識をして見ている」ということとは少し違う。見えているという事を自覚するため、見たという認識を脳が確認する必要がある。脳の中で言葉にしなければならないことが必要なこともある。あるいは見えていることの自覚の為に絵を描く。見えるという不思議を意識氏、認識するのは、眼が怪しくなってきて、より一層強くなった。緑内障は少し進んだようだ。この先のことは分からないが、今は70年間見えたという事の方に感謝したい気持ちである。なぜこれほど見ることを意識化したかというと、単純に見るということほど面白いことがないからだ。鶏を長年見てきた。稲も長年見ている。見ていてきりの無いほどおもしろい。つきることのない発見がある。絵もそうだ。私の描く絵の中で私が発見をする。私が見えて描いたはずのことなのに、いつどうしてこのように描いたのか不思議である。絵恥部分を超えて進み、自分の見るを掘り起こしてくれる。

見えている間に、もう少しものが見えるという事を味わい確認しておきたい。見えなくなりそうだと言っても、生きている間にという事でもある。人間は必ず消えてゆく。消えてゆくまでに、何とか自分の中の疑問のようなものを、もっと探りたい。その探り方のすべてが見るということにある。人間は対峙して自覚に至る。先ずは、他者と対峙して自覚というものが出来る。いろいろの人に出会った。もう一度会ってみたいという人もいる。学生時代に出会った様々な人は、再開することなく居なくなってしまった人も多い。先日もいつでも会えると思いながら、合わないでいる内に、急死された人がいた。残念でつらいことだった。再開したとしても、何かがわかるということでもない。会えば言葉ひとつ見つからないのだろう。気がかりなことはない訳ではないが、それは言葉化できないことばかりだ。当時もわからなかったことだし、今も疑問のまま心の奥に沈潜しているものがあるような気がする。何が分かりたいのかも、相変らずおぼろげである。たぶんそれは眼に見えている世界からしか行けないものだと考えている。だから絵を描いて確認しようとしている。

「人間が人間になる」ためには、他者というものの前に立たなければならない。人間になると言葉化すると、分かったような気になるが、実は何もわかって今書いたわけではない。今見ている田んぼがどのように見えているかという事を確認できれば、自分という存在が確認できると考えている。そちらの方が、自分としては確かだと最近思い始めている。見えているという事を画面に置くという事が、また厄介なのだ。この見えたでもういいと、そこを指させばそれで終わっていると、岡本太郎は書いている。中島敦が名人伝に書いたように、見えているという現実を画面に置き換え具体化するという事で失われるものが、いかにも多いか。これは描く技術の問題なのか。見えていることが曖昧だからなのか。見えているほとんどはこぼれ落ちる。これは絵描き修行の至らなさである。ひたすらの修業が必要である。その先のことは考えても仕方がない。肝心のことが見えてすらいない段階で、筆を忘れる世界を考えてみても、空しいことである。

それでもまだ眼には景色が見えている。好きな石垣の景色が眼前にある。有難いことだ。石垣に風景が残されていたことは幸いだった。人間が自然と関わる姿が、現れている風景。風景というもの、この空間というものを祈りたい気持ちになる。そうしたぎりぎりの人間が生きているという確認が、石垣の田んぼのおかげでできる。有難いことだ。田んぼは命のこもる場所である。生きるということの激しいものも、悲しいことも、喜びも、こもる場所である。この生きるの神聖を見ているのだと思う。思い込みのようなものだが、幸い田んぼを耕作する立場で、どうすればよくなるかを真剣に考えてきた。その結果、見えないものまで見えるようになったのかもしれない。目が見えなくなるということと、人間が死んでゆくということも同じである。必ず死は近づいている。それまでの間になんとか、自分の確認に至りたい。それは焦りでもある。このままでは終わるわけにはいかないという、自分の中途半端さである。あきらめがつかないということだ。

 

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ホウトウの作り方

2019-03-26 04:09:06 | 自給

久しぶりに「おホウトウ」を作った。山梨県生まれなので、子供のころからホウトウを食べている。ほぼ毎日食べていたと思う。「ホウトウ」ではなく「おホウトウ」であった。ホウトウは打ち込みうどんのことだ。生の面を汁に入れて煮込む。今山梨の飲食店で出されている現代のホウトウはみそ味である。しかし、60年前の境川村は醤油味であった。といってもよその家のホウトウを食べる機会はなかったので、話だけである。甲州でも地域によって味噌味と醤油味があると大人が話していた記憶がある。ホウトウの為に、甲州赤小麦という麦を栽培していたのだと思う。あの麦秋という色である。今の小麦はあんなに大きく赤く見事な色にはならない。それも、子供のころの記憶だから、大きく赤いだけなのかもしれない。そもそも、甲州赤小麦という名前だって、赤かったのであれがそうであろうと思うようになっただけのあやふやなものだ。ただ麦の背丈が随分と高かった。背の高いのは屋根をふくためだ。しかし、これも子供のころの記憶で何でも大きく思い出すのかもしれない。

―――おホウトウ作り方

朝ごはんが終わると、片付けものをしながら小麦粉を練っておく。小麦粉一合が一食分。おばあさんは人数分お椀ですくっていた。ぬるま湯が50㏄弱くらい。塩わずか。今回の小麦粉はパン小麦のハルユタカ。うどん用の小麦がいいのだが、パン小麦でもできないことはない。まず、こねバチに小麦粉の富士山を作る。中央に噴火口を作り、ぬるま湯を灌ぐ。そのまま、水が浸透するのをしばらく待つ。周りから中央に粉をかけながら、練ってゆく。練は強く、30分ぐらいは練り続ける。今は厚めのビニール袋に入れて、足で踏む。踏む数は1000回。一塊になりにくいぐらいがちょうどよい水加減。少なくても練っているうちに粘りが出てくる。水が少ないと腰が出る。塊は濡れ布巾をかけて夕方まで置いておく。ビニール袋でもよい。時間を置くとしっとり、ねっとりなっている。それを再度こねる。これもビニール袋の中でこねると楽である。そして一塊にして、今度は足で押し広げながら、四角にして行く。厚さ7,8ミリほどの座布の形に広げる。形がおかしくなったら、まとめてまた挑戦すればいい。座布団になったら、裏表に小麦粉をまぶす。そして麺棒に巻きつけて、薄く伸ばしてゆく。時々小麦粉をまぶしてゆく。1ミリぐらいの厚さで完成。薄ければ薄いほど良い。

薄くのばされた麺は良く小麦粉をまぶして、折りたたむ。このとき4角に延ばしてあれば、切りやすい訳だ。切るのはできるだけ細く切る。少し切ったら、また小麦粉をまぶしながら、麺を広げて切り口がくっつかないようにしておく。切り終わったときには汁の方が完成していないとならない。広げながら麺をお汁の中に入れてしまうからだ。小麦粉を多くまぶせながらの作業は楽になるが、ホウトウの汁がドロドロになる。私はどろどろのホウトウが好きだから、小麦粉を多くまぶす。しかし、上手は打ち粉の使い方が少ないといわれていた。くっつかない範囲で小麦粉は少なめに。

汁はカボチャのホウトウが代表的だ。カボチャを10分は煮てとろけるところが良い。インゲン、ニンジン、タマネギ、長ネギ、キノコの類、鶏肉、豚肉。あるいは貝類。何でもよいのだが、色々入れた方が、よい味になる。だしは煮干しが合う。丁寧にやるなら昆布もいい。全体にお汁はそもままでも食べれるところまで煮込んでおく。ここに面をほぐしながら落としてゆく。面が水分を吸うので、お汁は大目に作らなければならない。煮すぎると麺が柔らかくなるので、3,4分で固めのうちに終わる。食べている間にも麺は汁をすってゆく。どんぶりによそってから、生卵を入れる。生卵を入れると汁の味が絶妙になる。長ネギのみじん切りを多めに乗せる。そして七色唐辛子をかけて完成。

アアうまかった。

 

 

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書は下手の方がおもしろい。

2019-03-25 04:13:08 | 水彩画

どなたが書いたのかわからないが、なかなかいい字だと思う。石の字に点があるのは異体字ということだが、隷書ではこういう字を使うことはあるらしいが、市民会館にこの字を使うということは、このような書き方が、石垣にはそもそもあったということなのだろうか。そんな誤解をしかねないが。

時々字を書きたくなる。あまり意味はないのだが、書は独特の面白さがある。一つには字を書くというときの緊張がいい。手織りの大島の布に書いた。こんな贅沢なことはめったにできないだろう。さすがに字の調子の美しいこと限りない。2つ目は言葉という具体的な意味である。先日竣工記念の集まりに大勢の方が石垣の家に来てくれた。そして私の絵を見て何が描いてあるのかということで盛り上がった。私の絵は単純に石垣の風景画である。皆さんには全くそう見えないらしい。遠慮のない人はこんなところは石垣にはない。わかるように描いてもらいたいということだった。そうなんだろうなと思う。全くその通りである。私の絵には写実的な説明要素はないから、訳が分からないというのが本音であろう。描いた場所は皆さん知っているところである。バンナ公園から海の方を見て、などと説明してもあそこはこんなところではないということらしい。わかりにくいと言っても抽象画という訳でもない。どこかの風景らしいとは見えるのでなんとも困るらしい。感情を爆発させているような表現主義的ものでもない。のどかとか気が休まるというようなこともまるでない。どう見ても収まりようがないということらしい。

おなじ壁に字が掛けてある。これは読める。読めるけれどあまり上手いというものでもない。書は下手な方が個性が表れる。読んでみて何を意味するのかということになる。「石垣春風」「水土人天」何を意味するのか。ということになる。なにか宗教的な意味とか、哲学的なもの、あるいは教訓的なもの。そんなことを説明してもらいたいということらしいので困った。石垣春風は石垣に来て感じたそのままの自分の心の中である。これもなんとも納得は行かないらしい。石垣の人には石垣の風は春風のような甘いものではないと言う。そういう実際の風ことではないのだが致し方ない。水土人天はすべてということである。宇宙という気持ちである。全部と書いてもいいのだが。左右対称文字ということで書く。どうもこの中の水に反応した。水は石垣では海だというのだ。言わないのだけれど、土人はないだろうと暗に批判していた。意味というものは怖い。水と、土と、人と、天。という風に書けばわかりやすいということなのだろうか。最近の書はそういう分かりやすいのがはやりではある。あれはさすがにいやだなぁー。

多くの人は文字となると教訓が好きなようだ。相田みつを氏とか、その後継者なのか、真似なのか。そういう文字を時々見るようになった。「にんげんだもの」というような書だ。昔で言えば武者小路実篤氏の、「なか良きことは美しきかな。」というようなやつがあった。何でもいいわけで、「転んだら、起きればいい」という具合だ。漢詩の一節のような文字では鯱張っているので、日常語で、「月がきれいですね。」というようなまだろっこしいことを書く。臭いところがあると嫌味と感じてしまう。臭くもなく、意味もなく。「正しい納税」は驚くべき税務署で見た書展で、須田剋太氏の「撃突」の書よりインパクトがあった。さすがにこれは書く気になれない。言葉は意味あるから面白いとはいえるが、意味あるから怖い。石垣には書道塾が結構ある。気が付いただけで、5か所ぐらいある。そこには通りに向けて字が掲げられている。大体はまじめに明朝体のような上手すぎる書だ。上手は書の外。下手は書の内。

書は書く気分が良い。この点絵とはだいぶ違う。絵を描いて居て気分が良いということはない。どちらかと言えば、絵は無我夢中になる。書は初めからわたくし書だ。分かってもらおうというような意味は全くない。絵も書もわかりにくいものである。わかってもらえないということは、つくづく思い知っているので、それはいいのだが。なんで描きたいのか。この先を見たいという思い。見えかかっているような自分まで進んで、確かに描きとどめたい。あと少しという感じがあるので、後を引く。全くできていないのであれば、あきらめもつくが、ここでやめるわけにはいかない。田んぼで言えば、種まきが終わったあたりか。苗床の準備はした。良い種は準備したということか。書はは無意味が一番であるが、正しい納税はさすがに嫌だ。しばらく前に、「でん田楽団」と書いた。年に一度くらい「でん田楽団」と書いてみようかと思っている。なんかえばって唄っているようでいい。そういえば私の唄はがなりである。八重山では話している其のままで唄えと言われている。本島に、よい唄はそうなのだ。歌になるとつい朗々と唄ってしまう自分が恥ずかしい。

 

 

 

 

 

 

 

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米朝会談物別れをどう見るか。

2019-03-24 04:18:46 | Peace Cafe

トランプ、金正恩会談。もう世間ではあまり話題にも上がらなくなった。米朝会談は何だったのかと思う。アメリカでも、北朝鮮でも、今回の米朝会談を良かったと国内向けには説明しているようだ。まさかと思う。最悪ではないが、かなり良くない結果に違いない。少なくとも東アジア情勢という意味では相当に悪い方法に進んだ。第一の目標は朝鮮の南北統一である。米朝会談の直接的な問題は北朝鮮のアメリカを射程距離するまでに開発された、核ミサイルにある。この核ミサイルに動揺したアメリカが北朝鮮に対して、いまにも攻撃を仕掛けるような脅しをかけた。国連では北朝鮮に対して厳しい経済封鎖を決めた。一応、中国、ロシアも経済封鎖に加わることになった。北朝鮮は核実験を当面やめた。韓国の文大統領の仲介によって、アメリカは突如米朝2か国会議を行うと決めて実行した。これは従来より、一貫している北朝鮮の望むところだった。それを6か国会議でなければ、一切話し合いを持つべきではないということが日本などの従来の考えだった。その結果アメリカと直接交渉のしたかった北朝鮮が話し合いを拒絶したままの状況だった。

北朝鮮は核ミサイルを持ち、アメリカと対等に話し合いをできる状況を作り出した。これでアメリカの攻撃がないことが明確になれば、ひとまず成功としているのかもしれない。独立国家としての北朝鮮を世界に認めさせたいということだろう。国家として認められていない状態というものに、独裁国家としては耐え難いものがあるだろう。国家としての安全保障という意味では極めて危うい立場である。独裁者は常に不安なものであろう。一段と強化された経済封鎖というものが、効果を上げているのかということがある。経済的圧力は北朝鮮のような国情の国では日本で起こるような効果は上がらないと想像している。自給自足的な国は鎖国的経済封鎖に強い。北朝鮮国民の苦しみは増しているだろうが、それが北朝鮮という国家の崩壊に結びつくようなことにはならない。自分たちを追い詰めているのは、アメリカを中心とした悪の枢軸であると考えている人がほとんどのはずである。戦時中日本人のほとんどは、鬼畜米英と思い込んでいた。追い詰められれば追いつめられるほど、敵に問題があると思う。自分たちの独裁者に問題があると考える人は、わずかにすぎないはずだ。

北朝鮮の認識は、当面アメリカが爆撃を開始するような危機は脱した。中国は経済封鎖を緩めてくれている。ロシアも同様である。それに対してだれも手を打つことはできない状況ができた。徐々に北朝鮮が国家として世界に認識をされ始めている。こういう感覚にいるのではないだろうか。ロシアも中国もアメリカと経済戦争下である。北朝鮮は一つのカードである。それなりに経済関係を続けているはずだ。一方、アメリカは北朝鮮が常軌を逸して核ミサイルをアメリカに向けて発射するのではないか。この不安は解消された。それならそれで当面はかかわる必要なない。アメリカは世界平和のために動く必要もその気もない。現状では中国とロシアの経済戦争の方が、深刻である。それぞれに落ち着くところに落ち着いたのかもしれない。

何も解決はされていない、またしてもの停滞状況で一番困るのは韓国であろう。次いで日本である。韓国としては国家統一が遠のいた。戦争状態の解消が遠のいた。中国との関係悪化が深刻化している。日本としては拉致問題は残念ながら、変わらない状況。アメリカに縋りつくだけのアベ政権には何か事を進められるような政策はない。トランプに辺野古の基地は地元沖縄の意思を無視して進めておりますので、もう少しお待ちください。その代わり拉致問題の方はよろしくお願いします。こんな程度であろう。日ロ交渉で明確になったように、アメリカの属国でいる間は日本を相手にしても仕方がないということになる。どうせ、アメリカの顔色を窺うだけだという判断になる。日本は弱いもの連合を作ることだ。武力を持たない特に核爆弾を持たない国家の連携である。日本は弱いものの正義を目指したらどうだろう。日本の専守防衛の背景には、弱いもの連合があるというのは期待ができる。国連が核ミサイル保有国の力関係になっている以上、日本にはあたらしい枠組みを探す以外道はない。

 

 

 

 

 

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公示地価に見える地域の未来予測図

2019-03-23 04:39:07 | 石垣島

石垣では絵が壁に描かれている家が結構ある。石垣の暮らしのゆとりというか、遊びというようなものの表れのような気がする。

石垣市の公示地価は67020円/m2、変動率は+5.77%である。小田原市の地価は130145円/m2変動率は-1.41%。である。その前に住んでいた世田谷区の三軒茶屋は123万1000円/m2+10.23%。値上りしている土地の実勢価格はこれよりも高くなる。値下がりしている土地はこれより低く取引される。ある程度様子の分かるこの3か所の地域を比べてみると日本の現状がよく表われていると思う。やはり石垣島が一番良い地域だといえる。その意味は値上りをしていながら、安いということに尽きる。三軒茶屋のように高くとも、値上りしているなら可能性がある。値段はともかく値下がりを続ける土地はそう買う人は居ないだろう。都市がますます土地不足になっている。東京一局集中である。中国の投資家はどういう目で見るだろうか。景気は悪くなり始めているからなおさらこういうことが起こるのかもしれない。沖縄の土地価格の上昇は人口増加と、観光業が盛んになっているためである。投資という意味では一番有望な土地であろう。

小田原は人口減少と新しい何かがないことが要因と思われる。これほど利便性の良い地域が値下がりするのだから、地方の都市化していない地域の土地の下落はさらに大きい。住宅用の土地を購入するという意識は貯金をするという意識と近い。社会の未来が見えないから、自己防衛しようという意識で家を購入する。日本人の貯蓄率の高さは安心して使えないことになる。無理をして貯金をして、その一方で低金利のローンで土地を購入する。となれば、当然値上りするところに目が向くだろう。将来の心配を減らす暮らしをしたいという人が増加している。小田原は人口は減少しても、家の建築は続いていた。一戸当たりの居住者の数が少なくなり、家の数だけが増える現象。それでも土地価格が下がるということは、いよいよそれも頭打ちということになる。

石垣に来てみて驚くのは人の住んでいない家が結構あるということだ。街の土地価格は相当に上がっている。それでも売る気のない家や土地が存在する。石垣で売買対象になる土地は全体量が少ない。探す人がいればすぐに上がってゆく。アパート経営がいいというので、新聞広告まで出して土地を探している不動産屋さんは結構あるようだ。それでも今残っている手つかずの土地は、石垣島を出て、実家として残しておき戻るときまで持って居ようという気持ちかもしれない。あるいは投機用に購入されたものということもあり得る。石垣島の人の感覚ではもうこういう建築ブームはそろそろ終わるだろうという気持ちがあるらしい。10年ぐらい前はもっともっと空き家があったという。ユーグレナモールもシャッター通りになりかかっていたといわれる人もいた。今は隙間もないほどに店が続いている。こうなると、使われている場所の再建築ということが始まる。外国人観光客の増加が活性化の要素だろう。観光客がお金を落とす方向は、日常生活とは少し違う。そういう結果が石垣の街の様子に現れている。ホテル、飲食店の新規開店が続く。観光客はこの先伸び続けると思う。観光客にはそれくらい石垣は素晴らしいところだ。

日本全体の傾向としては、東京はオリンピックが潮目となって様層が一転する可能性が高い。ますます東京一極集中になるだろう。そして沖縄のようなほんの一部の地域だけが、上昇を続ける。過疎の地方が放棄され、自然の野山に戻ってゆく様子が想像される。それでも行政というものは地域の活性化を図り、自分の地域だけは人口減少が食い止められるというような、計画を立てる地域の行政の計画ぐらいで歯止めがかかるようなものではない。むしろ人口減少を生かした地域形成を考えるべきだろう。人類という動物の本能が人口減少に向かっている。ある意味健全なことなのだろう。原発がなければ日本が維持できないというようなことを、主張するのが政府である。これではもう日本に未来内はない、もう駄目だと政府が言っているようなものだ。人類の文明が転換点に至った。アベ政権は地方再生などという政策を表向きは掲げているが、実態としては地方消滅にひた走りである。たぶんそれでいいと考えていると思われる。それが地価に表現されているのだろう。地価というものは未来予測である。

 

 

 

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生命の満る空間

2019-03-22 04:12:18 | 石垣島

崎枝の集落の入り口にある田んぼ。カンムリワシが来る田んぼである。この奥に湧水があり、その水で田んぼをしている。田植えが進んでいる。この日は中央のまだ田植えの終わっていない田んぼの準備をされていた。こんな当たり前の田んぼがもう日本には数少なくなってきた。あと10年したら、保存されているところ以外はほぼなくなるだろう。こうした田んぼの尊さを知ってもらいたい。 

石垣の空間は生命の力があふれて居る。植物の繁茂する姿は緑の魔境である。その為に祈りの場を作るためには、何もない空白を作らなければならなかったのではないか。圧倒し覆いつくしてくる自然、すべてにアミニズム的に魂が宿っている。それは怖い、恐ろしいもの。周りから迫る自然の圧力を取り除かなければ、人間の暮らしの願いを表明することができない。人間を取り巻く自然の力を結界を持って遮らないとならなかったのではないか。清浄な場所を作り出す。何かの神に祈るのではなく、自然全体を祈りの対象にする。周りにある自然を突き抜けた、超えた宇宙と直接につながるような願い。ものに宿る魂を感じる。例えば石を置きそれに神を宿る場の印とする畏れの感覚。そして、自然を畏れ敬い、願いを祈る。八重山の御嶽には「いび」という祈りの場がある。

いびには炉だけ置かれるという。炉であるということは、燃やして自然神に対しての人が暮らしていますよという信号。煙。何かへの祈りの信号。それは田んぼも同じ思いがこもっているのだと思う。自然という犯してはならないものを、田んぼとして利用させてもらうと言う畏れ。人が手入れをすることで初めて生まれる田んぼという生産の場。神田。自然を取り払うことの、怖さ。こういうものが石垣の田んぼにはある。私にはそう感じられる。それぐらい、田んぼに迫ってくる野生の緑が息づいている。田んぼは光輝き、大きな鏡になる。この鏡は神に対する印でもある。緑の魔境から、切り開かれた大きな人の暮らしの印である。この田んぼが自然の力に対して、許されて作ることの感謝。生きている。生かされているという感謝。ここに祈りがこもる。

この祈りの田んぼというものを描きたい。私が祈りを持つということが前提であろう。祈りがなければ見えてくるはずがない。人の暮らしの折り込まれ方である。物を作るということは、命を育てるということである。豊かな実りをいただくということである。何一つおろそかにできるものがない。有難くいただくという、自然への感謝が満ち溢れていなければならない。コンクリートで固めた、区画整理された田んぼが絵にならないのは、形が自然に対して異様なだけではない。作ったお米が経済的合理性だけを目指しているからだ。その醜さのようなものが現れてくる。自然を冒涜するような心の動きが現れている。確かにそうした田んぼの方が、経済性だけで考えればいいのだろう。こんな考えであれば、アンパルは埋め立てられ、大型の田んぼが作られることになる。それは自然の循環を遮ることになる。そのことの是非は別にして、私は石垣に残る貴い田んぼを描きたいと思う。そんな絵の意味は絵を見る人にはどうでもいいことかもしれないが、私が見えるようになれば、絵も変わるはずだ。

絵を描く気持ちは、田んぼの美しさだけだ。私という人間の美しいが、本当のものであるかどうかである。私の眼が何を見ているかである。少なくとも私は私をごまかすことはできない。田んぼという神聖を見ることができるかであろうか。人為と自然との折り合いの姿が田んぼにあるだろうか。人為の最善の形を小さな自給の田んぼに見ている。人間は生かしていただいている。私の絵を描く方角は定まってきたようだ。ただ、繰り返す描くほかないと思っている。70歳を過ぎての私がこの後衰退してゆくのか。深まることができるのかはわからないことだ。もし本当の絵が描けるところまで行けるとしたら、この後の制作の仕方なのだろう。あらゆる前提を捨てて、ただ美しいと感じる場を描いてみる。今こうして、描きたいときにかけるということの幸せは、感謝しあじ合わなければならない。

 

 

 

 

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子供でにぎやかな石垣島

2019-03-21 04:07:39 | 石垣島

宮良川の絵の描きだし。ここで嫌な感じにならないように。気分良く進める。

石垣島に暮らす選択は、大正解であった。確かに天国に一番近い島である。ニューカレドニアではなく、日本の南に地上天国の島はあった。まず、私には田んぼがある島であることが素晴らしい。自給できる島である安心感。若い活力の島である。街に人があふれている島である。世界中からの人がやってくる島である。島の子供たちの歓声がどこか聞こえてくる暮らしである。保育園反対などという人の気が知れない。年をとればとるほど、子供の声はありがたいものになる。ここへきて、人がなぜ都会に集まるのかが体感的に分かった。人は賑やかなところがないとだめだ。気持ちが静かになってしまう。小田原の舟原で暮らしはしーんとしていた。石垣島はずーうと賑わいがある。良くゆく崎枝の集落は小田原の舟原集落と同じくらいの大きさだろう。しかし、崎枝には小学校がある。そしてレストランが3軒ある。それは観光ということが反映しているのだろう。日本で一番美しい場所だから当然だろう。普通の農村の暮らしもそこにはある。田んぼもあれば、キビ畑もある。牛が放牧されている。クルマエビの養殖池もある。そういえばマッサージのお店もある。

人が暮らす場所は動いている方が気分がいい。だから、都会に人は集まる。キャバレーとパチンコ屋ががないから人は出てゆくのだと。だみ声で演説した田中角栄さんを思い出す。子供がいる社会というものはなんともいいものだ。子供が公園でサッカーをしていた。集団で小学校へ向かっていた。こういう中で人は前向きな気分を持つことができる。もしかしたら私の絵もこういう子供たちの成長につながるのかもしれないと、遠いい、遠いいことだが希望を持つことができる。石垣島に来てしみじみ良かったと思うのは、社会が若々しいということだ。若いということは希望が感じられる。私が石垣島で描く絵が、石垣島の子供の眼に触れるかもしれない。そして石垣島の何かが伝わる日が来るかもしれない。そんなかすかな前向きな気持ちを抱きながら、絵を描くことのできる幸せ。

石垣のすばらしさは自然というものと人間のかかわりの調和である。名蔵アンパルという、ラムサール条約に認定された湿地がある。この場所が最初に好きになって石垣に通うようになった。アンパルの湿原は田んぼで取り囲まれている。湿原のマングローブを切り開いて田んぼを作る。人間の手入れの姿である。人間が生きるということは自然に手を入れるということだ。自然と良いかかわりを持つということ。自然を破壊するのではなく、自然を敬い守りながら、調和するよい循環を見つけてゆく。自然環境の中に人間の暮らしを織り込んでゆく姿。自然を神として敬い、感謝してくらす。この姿が石垣にはかろうじて残っている。別段そういうことを考えて石垣の絵を描くようになったのではない。ただ不思議に神の存在するこの風景に引き込まれた。何か、描きたくてしょうがないものがあった。その意味が今になって少しづつ見えてきたような気がしている。石垣島の姿から、人間の暮らしに大切なものが何なのかを教わているような気がしている。

やっと、地場・旬・自給が絵とつながってきたのかもしれない。小川芋銑の河童の絵を思い出した。そのことはまた次に。まだまだ時間はかかりそうだが、何とか石垣にわずかに残る、日本人の暮らしの原点のようなものが、絵とつながればと思う。久しぶりでB版全紙の絵を2枚描いた。8号の絵も2枚描いた。6号を描かないといけないので。小さい絵を始めている。違うサイズの絵を描くことも目を変えることになる。小さい絵ほど水彩の色が生きてくる。大きくなると絵の構造が見えてくる。やはり中判全紙ぐらいがちょうど私には合うようではあるが、いろいろの大きさの絵を描いてみることも中判全紙の大きさを再認識できることにもなる。前向きに絵に取り組めているのは、石垣島のおかげである。石垣島の子供たちのおかげである。文化は老人国では保存はできても、生まれることがないということなのだろう。石垣島に暮らす選択は、大正解であった。

 

 

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石垣島の除湿対策

2019-03-20 04:17:53 | 石垣島

石垣島の家で快適に暮らすためには除湿対策である。今のところ上手くいっているようだ。慣れるまではびっくりするほどの湿度である。石垣空港に降りるとムゥーという湿度に絡みつかれる。空気が重たい。旅行で来ていたころはこの空気の熱帯的感触に石垣にきた、と思ったものだ。この状態で暮らすのはなかなかやっかいだと想像していた。何しろ水彩画を描きたいから石垣に来るのだ。パフィオペディルムが庭で栽培できる湿度があるのだ。紙が忽ちに黴てしまうだろう。周囲の環境が相当に湿気ている。この湿気は来てからも実感している。外で水彩画を描いて居て風があるのに水彩が乾かない日がある。これは水彩を描くうえで、私には良いことである。フランスで水彩で描くと、たちどころに渇いてゆくので、デュフィーのような水彩画が描ける。所が急速に乾くと色が良くない。ゆっくり乾いた方が色が良くなる。それを待つタイミングがあるのだが。そうだ、話は湿度対策である。山小屋に泊まると必ず嫌な湿気がある。なんとなくすべてがべたつく。裸足で歩けばどうしても床板がぺたべたする。湿気対策をできる限りしなければと考えた。

まずは、土台の土地を周囲よりもかさ上げした。土を入れて、60センチほど土盛りをした。雨が多いいから周囲より土地が低くて水が入り込むと湿気がたまる。そこで道路から家に入るに差し支えない範囲で周囲より地盤を上げた。みんなそう考えるようで新しい家は大体に周囲より高くできている。設計事務所の方は土を入れることはあまり賛成してくれなかったが、どうしてもということでお願いした。そして屋上からの排水である。これは家の低い方向の出口の方で地中にしみこむようにした。雨水は敷地内浸透が義務ということなのだが、敷地内の一番低いところにしみこむようにした。そうでなければ床下から湿気が上がることになる。当然床下は地層とビニールシートで切断して、湿気が上がらないようにする。床下は風が通り抜ける構造にする。床下ができるだけ乾いているようにしたい。

床下から風が入り、壁の中を通り、上に抜けなればならない。床下から壁を通り、天井にのぼり、屋根から外に抜ける換気である。小田原で額田さんがやられていた方式である。温度差と風で自然に抜けることは抜けるはずだが、これをさらに電気の換気扇で強制的やることにした。換気扇の音がうるさいので時間はタイマーで限定している。これは換気扇を変温式にしない失敗であった。三菱製のものだが音がうるさい。温度サーモの連動になっているのだが、これが20度で固定されている。石垣で作動すれば、ほぼ一年中止まることは無くなる。温度の変化ぐらいできるようにするのが製品としての義務だが、直してくれない。直らないのか直すきがないのかよくわからないが、仕方がない。人がいないときと寝ているときの時間換気することにした。寝室だと換気の音が聞こえない。

次は水彩画の倉庫は24時間除湿器の稼働である。連続運転は三菱1機種しかなくなってしまった。小田原ではもっと簡便な格安の除湿器を使っていたのだ。最近の機種は1週間ぐらいで自動停止になってしまう。これは最近の除湿器は衣類乾燥機になったからだ。これも意味が分からないが、別荘なので締め切って1か月などというときには24時間除湿が必要になる。除湿器は水を機械の中のタンクに貯める。これではどうしても忘れてしまう。そこで床下に配水管を作り、わずかずつ外へ流れ出るようにした。最後の一機種を2台購入できた。これは湿度対応で、湿度が乾くと電気が切れて、湿度が高くなると運転が始まる。この湿度計が正確とは思えない。何度も調整して、だんだん適切に乾いている状態を見つけた。こうして電気依存の暮らしで申し訳ないが、原発反対である。電気代は電気調理器も利用しているのだが、それでも1万円前後で収まっている。天窓が5個ある家なので、照明がいらないということがあるかもしれない。それに暗くなると寝てしまう。

 

 

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石垣島三線教室

2019-03-19 04:09:52 | 石垣島

 

石垣島は三線の先生が1000人いるといわれるほど、三線が盛んだ。毎年20人の先生が誕生している勘定になる。実際のところ今年八重山古典民謡の師範の合格者が3名。教師が8名だった。そのほかまだ4つの流派があるから。そちらの方の人もいるということだろうか。20人×50年で1000人である。何とか石垣島でも三線を練習したいと考えている。問題は石垣島で三線指導ということになると、指導が厳しいということになる。「てぇーげー」という訳にはいかない。三線のこととなると、真剣そのものの三線道ということになるようだ。66歳からの手習いで、道はちょっと無理なのだ。三線を楽しみたいのであって、三線で苦しみたくはない。楽しい三線教室のようなものがないか探している。そこでまだ誰か先生に教わるというようなことはできないでいる。新聞に青少年の家主催の初心者三線教室が出ていた。まずはこれだと思いさっそく申し込んだ。青少年の家でやるものなら、少々てぇーげーでも許してもらえる気がしたからだ。正月の於茂登岳登山に参加させていただき、青少年の家の企画が素晴らしいということは経験している。

三線の指導の事業があるというのは実にありがたい。もう3年毎日やっているのだから、初心者ということでもないのだが、ともかくすぐに申し込んだ。定員10名だった。先生として師範の先生も来てくれる。1回3時間。17日。21日。24日の3回の講習となっている。500円である。1回目は職員の方5名で指導してくれた。つまり日曜出勤ということになるのだろうか。行政の事業とは思えないというと失礼な言い方になる。予想通り定員オーバーであった。初めての方のばかりの中だったので、少し楽ではあった。三線の歴史で興味のある話があった。三線は中国から琉球国に伝わった。そして八重山に三線が渡来したのは、琉球王国の役人からということであった。それまで八重山にあった唄のユンタの様な古謡に三線の伴奏を付けたということだった。この首里王朝の役人が持ち込んだというところが、とても興味深い話だった。三線は統治の仕組みなのだ。泡盛のクウスが琉球王朝の政治であったように、支配を広げてゆく手法に三線が組み込まれていたということのようだ。いわば文化的外交である。ところが、八重山の唄の方が音楽的に上だったのだと思う。

当然役人のたしなみとしての三線であるから、厳しいのも致し方ない。昔は女性は弾くことが許されなかったものだ。厳しいのは楽譜を見ないで演奏しなければならないというところなのだ。記憶力は乏しい方である。それは受験勉強でしみじみ味わっている。覚えが悪いのである。それでも子供のころはラジオで聞いた曲をハーモニカで吹いていた。楽譜などというものは考えてもいなかった。宮田式のハーモニカというものを毎日吹いていた。ところが、今はラジオで聞いて歌うなどということは全くできない。ただでさえ悪い記憶力が、さらにさらに衰えている。頭の中に曲がないわけではないのに歌えないのだ。これはもどかしいことだが、年齢相応のことだと思うしかない。三線は演奏の楽譜と、歌の楽譜は別である。そのうえ唄の言葉も全く意味不明である。これをすべて覚えるのは至難の業である。そこであきらめて、楽譜を見ながらでも楽しめるようにと思っている。楽譜を見ることを悪いことだとは思わない。西洋のクラシック音楽の世界では楽譜を見て演奏するのは当たり前のことでわないか。

石垣で工々四を見ながら勉強してもいいという先生に教わりたいと思っている。今回青少年の家の教室でそういうテイゲェーの先生に教わることができればと思って参加している。ところが青少年の家の職員の先生も楽譜は見てはいけない派であった。耳から覚えろと繰り返し言われた。なかなかハードルは下がらない。弦を鳴らす位置も、棹と太鼓の境目が良いと指導された。これにも驚いた。教則本には太鼓の3分の1当たりと書いてある。はじく爪が糸に対して深い。先日、三線屋さんの先生は爪の先で引くようにという指導であった。指導はことごとく先生により違うようだ。やはり本物の八重山の師範の先生では無理なようだ。どこか、神奈川県あたりから、三線の修行に石垣に来ている方で、てえげぇー流、本土流で教えている人を探すしかない。たくさんの人が三線の勉強に石垣に来ているようだ。できれば、出張指導の先生がありがたいのだが。いないものだろうか。20日にはとぅーらばーまの練習もある。

 

 

 

 

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南嶋民俗資料館

2019-03-18 04:15:27 | 石垣島


石垣島の繁華街のすぐそばに南嶋(なんとう)民俗資料館はある。いつも閉まっていたので、入ることができないでいた。散歩をしていたら開いていた。こういう機会はまたとないと思い、散歩を急遽やめて見学させてもらうことにした。観光客の方がお願いして開けてもらったらしい。隣にいることは分かっていたのだが、わざわざ開けてもらうのもちょっと気が引けていた。この民俗資料館は凄い場所である。まずこの家は200年前に建てられた当時の石垣を束ねる人の家だった。こうした古い立派な家が石垣には3軒ある。どの家も姻戚関係があるらしい。ここにある民俗資料の前に、この民俗資料館をやられているご主人こそ、最も代表的な石垣島の民俗資料である。話が面白い。面白いだけでなく、知識が本格的で深い。石垣で暮らしている人がどんなものか、人となりを知りたければ、この資料館の一級品の資料である、ご当主崎原當弘氏と話してみることだ。八重山的人物の一典型と言って間違えない。

4月には、「こおもり」という喫茶店をやる予定というから、訪ねてみるといい。ただし、実に石垣らしく、夜6時に初めて、12時までという。夜だけやる喫茶店である。コーヒーがおいしい。ハワイから特別に取り寄せるという。独特のカカオの香りのするコーヒーである。確かにおいしい。私はまだ商売前なので、サービスで飲ませてくれた。カップもわざわざ西表の方に作ってもらったのだそうだ。クイナが描かれていた。音楽はともかくジャズである。この喫茶店は南嶋民俗資料館の中にある。果たして想像できるであろうか。つまり民俗資料館ではあるが、石垣コーヒーも出ない。三線の音もない。マンゴージュースもない。資料はやはり、御当主である。どんなことでも、聞いてみることだ。たちどころに石垣的反応がある。石垣人とは表現者なのだ。パフォーマーといってもいい。お会いした一期一会をやりつくしてしまう。杖道とか、居合をされるという。道場を開くほどの高段者なのだそうだが、弟子は今のところ一人もいないという。石垣島なのに、なぜ、空手ではないのか。等と考えてはならない。

シーサーの話を伺った。「シーサーは2体の対ものなのか。これがどうもわからない。屋根の上には大体牡1匹が置かれる。」とお聞きした。よどみない説明が始まった。面白かった。面白いは失礼であるが。オスは口を開き魔を吸い込んでしまう。メスは口を閉じて魔を追い払う。しかし、そもそも屋根の上にシーサーなどなかったという。これは明治初年首里王朝崩壊後に石垣に来た氏族が屋根というものを持ち込み、首里王朝の伝統である屋根の上のシーサーが置かれるようになった。それをまねて石垣でも、赤瓦の屋根が作られるようになり、屋根シーサーが置かれるようになった。そもそもシーサーが門柱にあったのかどうかは聞き忘れた。話に勢いがあるので、途中で口を挟むようなことはできない。民俗資料としてのシーサーは30ほどあるか。話が一呼吸した時に、うまく次の質問をした。何故石垣ではあの冗談のような漫画シーサーがはやるのかと。あれは観光客向けだ。売れるのでふざけたものが広がった。そのうちどの家にも飾られるようになった。この魔除けがおふざけものになって、石垣の人まで飾るようになるという、柔軟性も石垣的である。

隅にすごい力の入ったいいものがあった。これはと口を開いた途端、御当主の解説話が始まった。。石垣島焼きというのをやられている、女性の作ったものだそうだ。その息子さんが今焼き物をしている。この陶土が素焼きといっても高温に耐えるもので、磁器の部類なのだそうだ。この陶土が素晴らしくて、勝手にこの陶土を使えないように、市のなんとやらに指定してあるとのこと。この陶土の説明をいろいろうんちくがあったのだが、今は置いておいて、何故石垣の甕はクウスができるのかをなるほどと思った。安南から来た甕と思っていたのだが、そうでもないかもしれない。何しろ、ここの南嶋民俗資料館のある大川の御嶽は安南の人を祭っていると言い伝えられているそうだ。この人はイネの種を持って石垣に流れ着いたのだそうだ。そして稲作が盛んになり、石垣が繁栄したという言い伝えがあるのだそうだ。この話も聞きたいことはいろいろあったのだが、今回はこの辺で終わりにした。午後は飲まないコーヒーを飲んだために夜は眠れなかった。それは分かっていたのだが、ここで断ることなどできない話術の圧力がある。また眠れないほどの感動モノ。



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水彩画の技法

2019-03-17 04:42:58 | 水彩画

崎枝集落の牧場 10頭牛がいる。3頭が子牛。サトウキビの刈り取るとき捨ててしまう葉を与えている。よく食べている。完全な放牧牛である。この場所に通って絵を描いている。下には田んぼが広がっている。そしてすぐ右が海である。

それぞれの人に、それぞれの絵技法がある。技法とはその人の絵に必要な技術なのだろう。目的もなく技法だけが独り歩きすることはない。絵を始めようという人が、「まずデッサンから学ぶのですか。」というようなことをいう人が多い。それは最悪は絵の学び方である。もしそのやり方がいいとする人であるならば、それは小学生ぐらいの時にやらなければ手遅れだろう。もうデッサンから始めたときに、絵というものを考える以前から絵の方角が決まったようなものだ。デッサンからという意味は、見ているものを正確にとらえる技術を磨くというような意味だ。実はそれも目の能力であって、正確に写し取る技術はいわゆるデッサンをしなくとも、持っている人は持っている。絵を描きたいなら、描き始めればいいけのことだ。デッサンはデッサンとして面白い。フランスにいたころはどれほどデッサンをしたかと思うほど毎日描いた。お金がなかったので紙代が困るほど描いた。それはデッサンという絵を描いて居たのであり、別段絵を描くための基礎を固めるの為に描いて居たのではない。そのデッサンが今の絵を描くのに役立っているなどということは全くない。邪魔をしている可能性もかなりあると思っている。

絵を描くことが面白いのであれば、絵は描きだせばいいだけのことだ。描かれた絵のことはどうでもいい。描いた絵が思うものとは必ず違うであろう。思うものに近づけてゆくように繰り返して描くだけのことだろう。繰り返すうちに思うものがなかなか明確にならないことに気づく。例えば床の間に飾る絵をきたいとか、玄関に置く絵を描こうということであれば、少し何が描きたいのかわかりやすい。松に鶴なのか、バラにリンゴなのか。おおよそ日本の絵画というものはそうして出来ている。それは装飾画というもので、生きてゆくための絵画とは別のことである。装飾画が悪いという意味ではない。装飾画を描こうということならば、装飾画を描けばいいことだ。ただそれを自分が生きるための絵画と考えない方が良い。それぞれの目的があるということをはっきりさせる時期が必ず来る。その自分の目標をごまかさないことだ。これは他人のことではなく、自戒の意味で何度でも書くことだ。それくらいいつの間にか目的に外れて絵を描いて居るものだ。何をするにもどこに行くのかぐらいは自覚するのは当たり前のことだ。散歩をしているが、まだ徘徊というほどでもないので、あっちの方ぐらいは決めて歩き出す。

方角が決まればおのずと学ぶべき技法が分かってくる。私にはどこにでも行ける技法である。自由に後戻りできる技法が必要だ。取り返しがつく技法の確立。そうすれば、自由になれるからだ。自分の見ているものは変幻自在に変化している。この変化についてゆけるようでなければならない。あることろまで描き進めると新たに見えてくることがある。その見えているものにすぐに対応できる技術である。その見えているということは実は前に見えていたものの結果でもある。だから、間違っていたというか、今はそうではないと思う過去の痕跡も残されていないと、新たな見えてきた意味が見えない。そしてたいていは見失う。苦しんでいるうちに何かしらこうかもしれないという感じに近づく。だからすべての軌跡はいらないわけでもない。そういう技法でありたいと考えている。水彩画はそれが可能な表現だと考えている。相当に難しい手法になる。しかし、そいう過程や失敗の痕跡が絵画として残されてゆく表現。その人のままであるという意味で水彩技法は私には可能性がある。

技法は無限に存在する。デッサンからなどということは全くない。技法からということもない。絵を描いているうちに何かしら技法は形成される。そしてそれが次の領域に進む邪魔をする。私は死ぬまで自分の限界を切り開きたいと思っている。小学校の時の美術の先生は根津壮一先生だった。光風会日展の人だ。その人は最初の授業で、水彩画を説明した。紙に筆で水を付けて紙をよれよれにした。もう紙は立つことはないといってよれよれになった紙を画板に止めた。今度は絵具をびしょ濡れの上に描いて、滲んで溶け込んでしまう姿を見せた。水彩画というのはこういうものだというのだ。全く小学5年生の私には驚くべきものだった。紙と絵の具を平気で無駄にする人だと思った。水彩画の手におえない姿を見せてくれた。意味も分からずに、素晴らしい新しい世界に行くのだという感動をしてしまった。それまで考えていた絵という概念を破壊した。そういえばのちにこの根津先生と、渋谷人体洋画研究所で並んで描いたことが何度かある。先生はいいデッサンをされていた。帰り道喫茶店に一緒に入ってコーヒーを飲んだ。先生の手は筆ダコでごつごつだった。この人もただただ描いて居る人だと思った。

 

 

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