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地場・旬・自給

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トゥーラバーマ大会開催

2020-09-30 04:11:03 | 石垣島
 

 月が雲から出てきた。



 石垣は夏の終わりである。トゥーラバーマ大会開催された。今年は開催できないだろうと言われていたのだが、いろいろ対策を取って開催になった。市長が実行委員長の催し物なので、今回コロナ感染がなければ、様々な集まりは再開すると言うことになのだろう。

 石垣島では豊年祭が中止、ハーリー競走が中止、アンガマが中止、伝統的な催しがすべて中止だった。何か石垣島らしくなかった。トゥーラバーマ大会も中止と言われてはいたのだが、何とか開催された。久しぶりに石垣島らしさを感じた。

 事前登録で見ることが出来た。見たところ例年の3分の1位の人は集まっていた。16組が予選を勝ち抜いて、出場した。例年は決戦大会でも25組くらいはいたのではなかったか。参加者のレベルも私には例年より少し下がったのではないかと感じた。最優秀賞受賞者はいなかった。

 家から座椅子を抱えてのんびりと出かけた。歩いて5分ぐらいの新栄公園で開催だ。早く着きすぎと思ったのだが、すでに沢山の人が、座っていた。5メートルの4角の中に5名までと言うことだった。整理券は前もってすべて出たと言うアナウンスがあった。当日来た入りきれない人が、柵の外の方にもかなりいたようだ。

 夏の最後の、大月夜である。もの悲しいトゥーラバーマの唄の響きが心に染みるようになる。昨年と少し違う気分で聞いたのは、コロナ自粛のためなのか、あるいは石垣島に暮らすようになって、この唄の気分が前よりは感じられるようになったと言うことなのか。

 今年の歌詞賞では同じ字石垣に住まわれている女性の私と同年配の方が受賞された。いつか歌詞を応募してみたいものだ。味噌造りをやっていて、麹造りを夜中にひとりでしているときに、なんと辛いことが起こる世の中だと泣けてくる。けれども、負けて成るものか。と唄われた詩ということだ。

 ああ、石垣島でも熱心な味噌造りがある。暑い土地では麹造りは温度が下がらず大変だろうが、湿度は問題が無いなどと、麹造り好きとして思った。石垣島の味噌の味は未だになじめない。やっぱり味噌は小田原の3年物がいい。などと勝手なことも思った。味噌は手前味噌。

 空模様は大月が見え隠れする絶好の演出。月のかいしゃの歌詞が出た途端に雲が切れた。一度は満天の星の夜空になる。風がふくと肌寒い。この気温で寒いと感じるのでは小田原ではもう寒さ対策をしなければならない。稲刈りにすぐに小田原に行く。

 中学生2年坊がなんと奨励賞。高校生も2名出場。若者の間にトゥーラバーマ大会に出ようという機運があるようだ。なんともすばらしい。だから勉強がだめなんだという、人もきっといるだろうが、東大に行くよりトゥーラバーマ大会優勝の方が尊敬される石垣島である。

 昨日は大浜さんと言われる、カヨ子さんの師匠の仲間一堂と並んで聞かせていただいた。例年勝手な感想をあれこれ言いながらの楽しみであるが、今年は余計なことは言えなかった。ただ私が一番良かったと感じた、穏やかだが安定した歌声だった女性が優秀賞だったのは、一致した。

 一番すごかったのは高校生の女性が、感情過多気味に泣きそうに歌い上げた人がいた。確かにトゥーラバーマは泣ける唄なのだが、唄う側が泣いてしまうと伝わらないかな。などと思ったら、審査員長の総評では、すごい声量で良いのだが、金切り声は良くないと言うことだった。

 女性の高音が金切り声にな場合は八重山民謡では多い。これはたぶん、男性が唄う唄だからだ。昔は女性は唄わないものだったらしい。そもそも、トゥーラバーマは男と女が掛け合いで唄う。こうした仕組みのめずらしい民謡である。主旋律を男性が歌う。それに併せる女性のかけ声が入るところが又良いのだ。すごい高音であるが、金切り声ではなく、もの悲しげな声が良いと思う。

 こうして男女の掛け合いで出来上がっている民謡をあえて女性も歌うようになったのだが。その女性初の最優秀賞受賞者が高校生時代の金城弘美さんである。毎年司会として会を進めている。金城さんはCDなども出されている石垣島の代表的歌手である。オリジナル曲の唄と、民謡を唄うときでは少し声の出し方が違う。

 金城さんの唄は時々聞かせて貰う機会があるが、なんと言っても人柄が唄に出ている。人間がすばらしい方に違いない。石垣サンサンラジオでも、番組を持っている。自分のままに唄うとすれば、すばらしい人でなければ、唄を聴きたいなど思わないだろう。

 金城さんの唄は民謡もオリジナル曲も、どちらも良いのだが、やはりその人の声で歌うという唄い方が好きだ。普段の声が唄になる。その人の人間の表現になるものが良いと言うことではないか。私絵画と相通ずるものが有ると思っている。どこまでその人の深い悲しみに至るか。これがトゥーラバーマの魅力ではないか。

 息子さんを無くされた方が、作られた詩が佳作賞であった。新しい仏壇を見ると涙が出る。遊んでいる孫を見ると涙が止まらないという詩である。こうした作詞で受賞された六曲を、過去の最優秀賞を受賞された方が、唄われた。

 すばらしいのは当然であるが、うまいという以前に、実に個性的なのだ。その人になっている。息子さんを無くされた方は、舞台の上で涙が止まらなかった。思わず、会場全体が鎮魂の気持ちに包まれた。息子さんは八重山高校の先生であったそうだ。生きると言うことはなんと無情のことか。

 来年も石垣島でトゥーラバーマ大会を聞きたいものである。この後例年ら、アートホテルで歴代最優秀者の記念の会があるのだが、今年はたぶん開かれないことだろう。もしあれば是非行きたいものだ。

 唄の島、石垣島。唄が暮らしの中でどのような意味を持つものなのか。毎年何千のトゥーラバーマが新作されている。トゥーラバーマは今に生きている民謡なのだ。暮らしを豊かなものにするのが八重山民謡なのだ。私の絵にも八重山民謡が聞こえてくるようになれば良いのだが。

 トゥーラバーマの約束事はシマムニで作ることである。八重山方言シマムニで作らなければならない。これだけは決まっている。石垣島で描く絵が、シマムニの絵になればすごいことだ。土の匂いがすると言うが、石垣の匂いがする絵にいつかなるだろうか。

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コロナの誤解と次の感染症の準備

2020-09-29 04:34:08 | Peace Cafe


 新型コロナ感染症が、たいした病気ではなかったという論調が、今になって広がっている。立ち上がりの失敗を蒸し返したところで無駄な反省である。WHOや世界の各国の政府が間違えたのは当然であることと考えなければならない。

 未知の感染症への対策というのは、最悪の事態を想定して考えなければならない。安易な予想があたる場合もあるが、悪い方へ外れることもあり得る。いずれ結果論ではどうしようもないことなのだ。新型コロナはまだ良い方だったのだ。

 これからも元の暮らしに戻れば、感染者数はある程度増減があるだろうが、今となれば自粛すべき人は65歳以上に限定するべきだ。年寄には危険な病気と言うことだけがはっきりした。しかし、一部の人を除く若い人には風邪と大きくは違わないと言うことも見えてきた。

 すべての病気はそうしたものである。昔から風邪は万病の元という。すべての感染症は過去の感染が影響をしている。エイズであったとしても、エボラ出血熱であっても感染しても発病をしない人もいるのだ。様々なウイルスに感染を繰り返しているのが普通の状態の人間である。

 それは新型鳥インフルエンザが流行した養鶏場でも、健康なままの鶏がいたことでもわかることだ。自然界というものはそうして生き残るもので保たれてきたはずである。つまり、様々な感染が繰り返され、自然免疫を形成できたものだけが、今地球に存在している。

 人間は衛生的になりすぎたのだ。しかも弱いものが淘汰されず生き残っている。そのために未知の感染症には極めて弱い生物になっている。鳥インフルエンザでは改良された、大規模養鶏の鶏ばかり感染したことと同じである。

 ところが私の所の養鶏場のように、自然の中で病気に感染させながら、作出した笹ドリを使っていたために、感染が広がらなかった。一切ワクチンを使っていないのだが、家畜保健所が抗体検査をすると、いくつかの抗体が出来上がっていた。本来の自然養鶏とはそうしたものなのだ。小さく自然環境の中で鶏は飼うものだ。

 それは人間も同じことなのだ。「きれいは汚い。汚いはきれい。」衛生管理の行き過ぎは、弱い人間を作り出してしまう。抗菌も良いが、そうした環境に暮らしていれば、大きな病の危険は増している。インフルエンザのワクチンを打ってもらったのでもう安心という人間は、型の違うインフルエンザにはたちまちにやられる。

 ところが日ごろから、様々なウイルスに感染している人間は案外に感染しても軽くすむ。今回の新型コロナはそうした疫学的に様々なデーターがそろった。何故、東アジアでは死者数が少なかったのかは興味深いことだ。

 それは似たような感染症が過去にも気付かず起きていたと考えることが自然である。交差免疫と呼ばれるものだと思う。兄の友人のベトナムからの留学生がベトナムに帰るとお腹を壊すと言っていた。日本の衛生環境に慣れた身体には昔のベトナムの環境は厳しかったのだ。

 感染症が広がったときに、政府が最悪の事態を想定して対応するというのは当然のことであった。しかし政府によって対応は様々であった。どんな対応が良いかはそこから導き出すべきだ。最初の対応は今回のコロナではどこの国も対応を間違えた。台湾が一番模範的だったのだろう。強制力も無く、自主的な制御でコロナを押さえ込んだ。

 可能性としては台湾、ベトナム、中国、朝鮮は過去に多様な感染症の経験があるのだろう。日本も多分そうだ。これは幸運なことであった。次に起こる感染症が幸運なものであれば良いが、まずそう言うことはないと思わなければならない。

 至急変えなければならないことは学校の自粛解除である。相変わらず学校を閉鎖しているところがあるのは、間違った対応である。若い人は感染してもインフルエンザ以下のリスクである。一部の重症化した人の事例で、全体の判断を誤ってはならない。

 インフルエンザと同程度の対応にすべきだ。感染したら治るまで学校に来ないぐらいで良い。学級でクラスターが起きたならば、学級閉鎖をすればいい。教育の重要なことは格別なことだ。教育を失えば、病気で失うものより大きいかもしれない。

 いつまでも教育が滞っていて良いわけがない。完全な安全などあり得ない。一定のリスクを覚悟で教育は行うべきだ。教育が再開できないと言うことは、責任の所在が不明確だからだろう。学校が経営とか、教育者の立場とかを優先し、生徒をないがしろにしていることになる。

 大学などで教員で65歳を超える人がいたらば、当分、授業は遠隔授業のみにする。大学教育は一日も早く元に戻すべきだ。そして、必ず又感染が増加することを覚悟することだ。覚悟して、医療機関の崩壊だけは起きないようにする。中等症状以上の患者のみ入院処置にすれば良い。

 幸いなことに日本人にとっては70歳以下の人には、普通のインフルエンザ程度のものであると言うことだった。だから、経済を自粛させたのは間違えだったと言うことではない。世界では300万人も死者が出ているのだ。日本だって何十万人が死ぬような可能性はあったのだ。

 今回のコロナ感染症が、結果的にインフルエンザ程度だったことは単なる幸運である。必ず、遠からず、次の道の感染症は起こるのだ。次に起こる感染症は今回より病原性の強いものの可能性だってある。

 起こる前提で、どう対処すれば良いか、今回の幸運なコロナを教訓にしなければならない。教訓は次の感染症のためでもあるが、先ずは今回のまだ収まりきらないコロナにも生かさなければならない。

 今回のコロナは老人には深刻な病気であった。老人が自粛を徹底する。老人はそもそも経済には大きくは関わってはいないのだから、自粛したところで経済は困らない。老人が感染しなければ、医療機関も大分楽だろう。そうやって老人自粛を続ければ、一定コロナも社会的な免疫が出来るときが来るだろう。

 ワクチンは余り期待しない方が良い。インフルエンザのワクチンと同程度のものしか出来ないはずである。ウイルスの変異も起きてくるだろう。人間の暮らし方を変えざるえないほど、人間は老齢化したし、虚弱化したのだろう。

 東京オリンピック開催のためでもある。それまでにワクチンが使える可能性はほとんど無い。感染がコントロールできなければ東京オリンピックは出来ない。懸命に努力している選手には申し訳ないことだ。何とか開催するためには、老人が節度のある暮らしを続けることだ。
 
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石垣市自治基本条例に関する意見書

2020-09-28 05:16:39 | 石垣島


石垣市自治基本条例に関する意見書

令和 2 年  9月  28日

居住地:〇市内 ・ その他(       )ex.本島、県外などお住まいの地域を記入下さい。                                   

年 代: 10代 ・ 20代 ・ 30代 ・ 40代 ・ 50代 ・ 60代 ・ 〇70代 ・ 80代以上

職 業:    自営業        

意 見:
 自治基本条例を改悪し、住民投票が議会の承認が無いと出来ないものにはしないで下さい。

 自治基本条例は憲法前文の「そもそも国政は、国民 の厳粛な信託によるものであって 、その権威は国民に由来し、 その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民 がこれを享受する。」と言う考え方に基づいて成立しているものである。

 民主主義においては、自治の主体は市民である 。自治は議会に付託されてはいるが、一定の住民の要望があれば、直接民主主義的手法によって、方向を問うのは当然のことである。この憲法に基づく理念を議会も市長も、基本条例の検討委員会も忘れてはならない。

 石垣市の市政は市民の信託に基づきはじめて成立するものである。市民の信託意識を損なう、今回の自治基本条例見直しは民主主義の理念を後退させるものであり、断じて許されるものではない。全国に民主主義を後退させたと市として認識されることになる。

 市民は納税の義務を果たすことによって、市行政からのサービスを受ける権利を有する存在である。市民の自主的な協働参画意識が育まれない限り、今後の石垣市の充実した福祉行政等のサービスは不可能である。  
                         
 市民生活において、最も重要なことは市政への積極的な参加意識を共有することである。これからの石垣市行政は住民自身の自助努力を必要としている。市政への市民の共同参画意識の醸成がなければ、石垣市は分断された社会になり、福祉行政の後退は余儀なくされるだろう。

 これは菅政権も政策の第一に掲げている。理由は国の予算が大きく赤字だから、自助努力が喚起されている。赤字国債をどれだけ増発したとしても、福祉的予算の削減はどうしても起きてくる。市民の協働参画無くして、市の福祉行政は不可能である。すでに、次の消費税増税が予告されている状況にある。

 こうした国の財政事情の中で、石垣市のような離島にはより厳しい予算の状況を予測せざるえない。円滑な市民生活を守って行くためには、市民自身が出来ることは行政に頼らず、自助努力を自ら行う意識が重要になる。

 そうした自治意識を育てるために重要なことが、市民の市政への参加意識の向上になる。その市民の参加意識を支える基本理念が、民主主義であり、民主主義に基づく、市民自治条例であることは明白なことである。

 独裁国家であれば、恐怖によって国家や地方政府の政策に従わざるえない状況が作られるのであろうが、日本のような議会制民主主義を建前として、標榜する国では、市民を強制的に市政に協力させることは出来ない。あくまで市民の自主的な市政への協働意識が必要になる。

 市行政や市議会が市民の権利を保障する、市民条例を後退させるに伴い、市民の自主的な行政参加は失われることになる。これでは、これからの市政の運営が厳しくなるに違いない、市の行政サービスは円滑に進むはずがない。

 市民の意見を柔軟に反映する市議会であり、市行政になって欲しい。3分の1の市民が住民投票をやって欲しいと署名して希望しているにもかかわらず、拒否している、石垣市の市長と議会の現状である。この自治基本条例の不備を前提に、市長も議会も住民投票を行わないという方針である。しかも、議会の承認無くしては住民投票をやらないですむように、自治基本条例の方を変えようというのである。

 その理由はもし住民投票を行えば、間違いなく自衛隊基地には来て欲しくはないという、市民の意思が明確になるからである。行政も、議会もこのことを知りながら、圧殺しようという姿勢が日に日に石垣市の空気を悪いものに変えている。

 自衛隊基地の建設は石垣島の未来を決定するような重大な事項である。かつて無いほど重大な市の方向を決めるには、住民投票は必要なことである。

 さらに自治基本条例を後退させれば、市のやることに協力などするものかという市民が多数派になるにちがいない。行政の機能はたちまちに損なわれ、福祉行政においてはやれることは半減する。これが市民の分断になるに違いない。

 まして税収が減少し予算が減少して行く中、うわべだけの市政への参加では市民生活には限界が来る。一日も早くこのことに気付き、市民条例の改悪を目指すなど止めなければ無い。

 現在の市民条例の諮問委員会も決して中立公正な人選とは言えない。住民投票条例裁判の市側の弁護士を委員にしていることなどあり得ない人選である。これほど悪質な市政の進め方をすれば、ますます市民の気持ちは行政から離れて行く。

 一刻も早く、この異常事態に気付くことが石垣市には求められている。

 むしろ、より市民の権利に基づく自治基本条例の制定が必要である。市民の4分の1の要求があれば、住民投票を議会の同意を必要とせず、市長は行わなくてはならないと明確にすべきである。自治基本条例の明確な改正を行う必要がある。
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第20回 水彩画 日曜展示

2020-09-27 04:02:03 | 水彩画
第20回 水彩画 日曜展示






63「フサキノ森」1
中判全紙 ファブリアーノクラシコ
2020.9






64「フサキノ森」2
中判全紙 ファブリアーノ クラシコ
2020.9





65「小嶺牧場下の田んぼ」
中判全紙 ファブリアーノクラシコ
2020.9


  今回の3点では63と64は絵を描いたという気持ちが良く出ている。やれるところまでやったという気持ちである。行き詰まりどうしようもない状態から、どうとでも成れという感じで描き進めた。抜けたからと言って、次も行き詰まるのだが、それがやれると思って描いた65である。

 どうやって自分が獲得したと思ったものを捨てられるかである。写生していると、その時点で良いという状態がその後の絵の進め方に影響する。良い感じが出たからと行って、完成するその絵において、あくまで経過である。出来上がったときには、描き始めで良いという状態は無意味になる。

 油彩画ではそういうことはあまりなかったのだが、水彩は偶然にひきづられ安い。絵の出来上がりを分からないまま描いていると言うことがままある。やはりこう言う描き方では結論は出ない。ここに行くというものはなければならない。

 描いていて、その向かうべき所を否定できるものもなければならない。


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アトリエカーの準備を進めている。

2020-09-26 04:30:17 | 最小限の家


 先日琉球大学病院に行ったときに、アトリエカーを作って貰っているキャンピングカーの粟國さんに寄らせて貰った。車はかなり出来上がっていた。軽トラックの上に四角い箱を乗せたものだ。上のイラストはお願いしたときに描いてメールしたものだ。

 なにしろ、一度も会わずに注文したのでどこか誤解が生じていないか心配していた。コロナ時代の買い物である。全く問題なかった。予想した以上に良く出来ていた。ステイフォームでもアトリエカーの正確な注文が出来た。その時、日本全土のいろいろな、キャンピングカー屋さんやキッチンカー屋さんに連絡をしたが、特殊な注文に良い返事をしてくれたところは無かった。

 きっと、コロナ時代には宿泊の出来る車は大繁盛なのではなかろうか。ホテルに泊まるより、キャンピングカーならば安心して旅行が出来る。車から出ないで絵を描いていれば、自粛生活のようなものだ。車の中で簡単な自炊ぐらい出来れば、レストランにも行かないですむ。

 キッチンカーの方も、忙しいらしい。レストランよりもファミマよりも路上でさっと買えるなら、キッチンカーでお弁当を買う人も多いのではないか。この機会にお店を止めて、キッチンカーに商売変えする人もいるのかもしれない。

 そんなことであれこれ探している内に沖縄本島にカーアクセサリーあぐにと言うお店を見つけた。ここに連絡したら、忙しいのだけど、待ってくれるのなら、石垣島の人なら作るよと言ってくれた。間違いなく一番近いお店だ。

 4月ぐらいのことだっただろうか。アトリエカーというものに、とても興味を持ってくれたのだ。長年車の中で絵を描いているというのでびっくりされていた。最初は軽トラの上の荷台で、絵を描くと言ってもなかなかいしにくかかったようだ。

 その昔、始めて車を購入するときに晴海で開かれていたモーターショーというものを見に行った。トヨタがアトリエカーというものを出品しているとあったのだ。だから30年前にもアトリエカーに興味があったと言うことだ。その車はなかなか良かったが、残念なことに販売するものではなかったのだ。

 アトリエにしていた車はこれで5台目である。いままでは普通の車を何とか使っていただけだが、今回は最初で最後のアトリエ車のつもりである。いままでの経験を生かして、始めて注文して理想的なものをお願いした。アトリエで絵を描く時間がさらに長くなるに違いない。

 アトリエ車で旅行しながら日本全国を絵を描いて歩くというのはその昔の夢だった。平戸では結構長く滞在して描いた。平戸の船着き場にあったお寿司屋さんは常連になった。あそこのお寿司は美味しかった。他に何もないところなのに、いつ行っても満員御礼のお店だった。

 軽トラにしたのは荷台が一段高いと言うことが大きい。少し高いところからだと描きやすいという場所は結構ある。石垣では現在、20カ所ぐらい描ける場所があるが、これが30カ所ぐらいには成る気がしている。

 また、軽トラはストレスが少ない。小さい4WDの車なので、結構細い道でも行ける。坂道でも上れる。道ばたに止めて描いていたとしても、比較的邪魔にならない。見た目も許容範囲ではないだろうか。アトリエ笹村と電話番号を書くつもりだ。何かあれば電話をくれるだろう。

 アトリエ車の内装は絵を描きやすくかなり配慮をした。前と後ろに松本民芸家具のライティングビューローを置く。座敷用のものは今時人気が無いので格安で手に入る。材料も良いし、デザインも落ち着いていて、アトリエには最善である。ビューロの高さに合わせてすべてを配置した。

 椅子の座面は絵の画面の下の高さと同じが良い。ビューローだから、絵をすぐに平らにしても描ける。水彩画は平らにして描きたい場合が結構ある。離れて見れる距離は2メートルであるが、今までよりはましだろう。

 ビューローの天板を開けば、絵を載せる画台になる。100号でも描ける大きさがある。いつか描いてみるつもりだ。ビューローの引き出しの中には画材をすべて入れる。絵を描いていて何かが不足していて困ると言うことがある。中央には低い台を作った。古い机の天板を利用した。台の下には中判全紙の紙が格納庫にも成っている。

 この台の材料はその昔御殿場の福ちゃんの家で道路拡張で切ると言うときに貰ったものだ。もう30年は経つ。銀杏だとその時福ちゃんには言われたのだが、いつの間にか山桑になっていた木だ。どうしてこう言う手品が起きたかは分からない。

 車の中は夜でも絵が描けるようにライトを付ける。大きめのリチューム蓄電池も準備した。一日電気毛布が使えるとある。非常時には何かと役立つと言うこともある。毎日使う車なので、これを非常用にしておけば、非常時には何かと安心である。これでタブレットの充電も安心だ。

 遮光カーテンをすべての窓に付けるので、邪魔な光は取り除くことが出来る。アトリエカーで困るのは邪魔な光なのだ。窓は大きいので、明けさえすれば風があるので暑いと言うことはまずない。屋根からの熱は冷蔵車にも使う素材で防ぐようにした。これで石垣島の強烈な太陽光の下でも何とか描けるのではないかと思っている。

 床には良いペルシャ絨毯のギャベがあるので敷き詰める。中へ入るのは靴を脱ぐ。椅子はゲームチェアーである。これは自由に回転が出来るし、寝ようと思えばリクライニングできる。これを中央の低い台の上に置く。前向きでも横向きでも自由になる。

 仮眠したいときにはビューローのテーブルの上まで足を伸ばせるようにしてオットマンにも成る。本気で寝ることも出来る。この椅子の問題は見た目がゲーム用だけに中学生の感覚だ。しかし座ってしまえば椅子は見えないので大丈夫だろう。だめなら、大島紬の手織りの布で覆うつもりだ。

 ビューローの中には本も入れておくつもりだ。いよいよ、井伏鱒二の出番である。本があれば、粘って絵も描ける。いざというときのための非常食や、湯沸かし器や水などはやはり民芸家具の箱を使う予定だ。何か災害時にはこの車で避難することも可能だろう。この中には水も多めに入れておくつもりだ。

 この機会に小田原に残してある車は廃車するつもりだ。車は小田原に行った時だけ軽トラをレンタルする予定である。2週間借りて3万円くらいのものもあるようだ。これだと車を残しておくより良いのではないか。何とか廃車したい。

 いつかアトリエカーで小田原に行くこともあり得る。船賃は往復10万円くらいの代金である。そうすれば、小田原に残してある荷物も片付くだろう。アトリエカーで小田原で絵を描くことも出来る。5月の山梨にもう一度行って絵を描きたいとも思う。そうだ金沢にも行きたい。能登の海をもう一度描いてみたいものだ。新しい夢が出来た。

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台湾旅行と夜市

2020-09-25 03:56:54 | 暮らし


 石垣島と竹富島の間をゆく、海上保安庁の巡視船のようだ。尖閣諸島が騒がしいから、石垣島から盛んに出港している。巡視船の少し前に竹富島の白い鳥居のような物が見えるが、あれは竹富島の港である。

    新型コロナウイルスの水際対策について、政府は、8日から、マレーシアやカンボジア、それに台湾など、5つの国と地域との間で入国制限措置を緩和し、企業の駐在員など長期滞在者を対象に往来を再開させることにしています。---NHKニュース

 今年の春には、台湾旅行の飛行機からホテルまで予約していた。台南方面の蘭屋さんと台湾国際蘭展と世界蘭会議の訪問旅行がコロナで行けないことになった。石垣島から台北への飛行便も休止されたままである。実に残念である。いつか台湾に行ける日は来るのだろうか。

 台湾観光局にいつ頃にならば台湾に行けますかと、問い合わせてみた。いかがその回答である。
〇お問合せいただいた件につきまして、ご連絡致します。
「2021台灣國際蘭展」開催日は2021年3月の予定となっておりますが、
新型コロナウイルスの感染状況を見ながら決断するようでまだはっきりとした日時が告知されていません。また、現在台湾への観光については入境禁止措置が取られており、現時点では目途が立っておらず今後については日本や諸外国の状況を見ての判断になるかと愚慮致します。新型コロナウイルス感染症に関する最新情報については、日本台湾交流協会のHPをご参考ください。 https://www.koryu.or.jp/

 行けないとなると、余計に台湾旅行の良い思い出があれやこれや思い出されるものだ。一番は夜市である。夜市はイーラン県でも言ったし、もちろん台北でも行った。かなりの田舎町でも夜市はあるのではないだろうか。台北には至る所に夜市があり、よほど長期に滞在しなければ全部を歩いてみることは出来ないほどのお店がある。

 台湾の夜市にいつてめずらしい美味しいものを食べてみたいというのもある。それ以上に台湾の人情に触れたいのだ。スーアオのコンビニでの台湾の若者に親切にして貰ったことも思い出す。たぶん高校生アルバイトではないだろうか。コンビニ青年にあんなに親切にして貰ったことは日本では全くない。たぶんマニュアルにないだろう。

 一度行っただけの国なのに様々な良い思い出がある。それで台湾の古い町の風情残る台南に行ってみたいと思ったのだ。案内所によると、台湾で一番の古都と言うことらしい。人情もすばらしいとある。ただでさえ魅力的な台湾の人だ。台南の人情に触れてみたい物ではないか。

 台湾ではやたらに歩き回った記憶しか無いのだが、あちこちで食べたものはほとんど屋台である。どこでの屋台で何を食べても、美味しいのだ。ずいぶん田舎町のファミマの前にわざわざ屋台が出ていたりする。当然、ファミマではなく屋台のものを食べてみた。

 確かイーランだと思う。ファミマの前には若者がたむろしているて、なんだか、石垣島と似ているな。さすが姉妹都市だと思った。イーラン県は与那国島が面している観光地である。その若者の一人が、肉やら魚やら焼いてくれるのだ。

 これが又香辛料をあれこれ、段階ごとでかけ方を変える。複雑な焼き方で面白かった。ところが何故なのか私が現われたためなのかこの楽しそうな一団が急に去って行ってしまった。台湾の若者は余り突っ張っていないようだ。その焼いている周りに混ぜて貰って食べようと思ったのだが、何か悪そうなので、ホテルまで持って帰って食べた。

 レストランに入ることより、屋台で食べる方が性に合っている。何か雑踏のうさん臭さのようなものが、肌合いに調度いい感じなのだ。台湾の人は親切な人が多いから、訳の分からない年寄りの日本人でも丁寧に対応してくれる。うろうろしていても、何度も声をかけてくれ、わからん人を見捨てない。

 台北からスーアオに向かうときに、バスで行った。ところが何故か、バスは乗り継ぎになった。そんなことは台北のバスの切符売り場では説明してくれなかった。道路が異常にに混んでいた。事故でもあったようだった。それで乗り継ぎになってしまったのかもしれない。

 そうそのバスの一番の前の席に知らないで座らせて貰った。まさかバスが座席指定になっているとは思わなかったのだ。誰か困った人が居たはずだ。ところが誰も何も言わずに座らせておいてくれた。申し訳ないことをした。座席指定だと気付いたのは次のバスに乗るときだったのだ。今謝ってもしょうが無いが、台湾の人気を使って黙っていてくれたのだ。

 その乗り継ぎは私には皆目分からないことになった。スーアオに行きたいと言ってもスーアオの発音がまるで違うらしい。文字を見せたらば、おおぜいの人が親切にこの椅子に座っていろ、バスが来たら教えてあげるからと言うのだ。

 バスが来るたびに私が立ち上がる物だから、みんなが寄ってきてこのバスは違う違うと教えてくれる。いよいよスーアオを通るバスが来たときには切符売り場から、お姉さんが出てきてバスの運転手さんにスーアオで下ろしてあげてと一番前の席に座らせてくれた。それで座席指定が分かったのだ。

 台湾のバスはみんなWi-Fiフリーだ。充電のコンセントもある。台湾では日本から持って行ったタブレットを使っていたのだが、全く問題なく使えた。

 そのバスは暗くなって田舎町の駅前のバス停に到着した。雨は降っているしどうしようかと心細くなってきた。スーアオのそばであるらしい。駅前の一軒だけ開いていた喫茶店。喫茶店と行っても前は露天のように開いている。そのおじさんに、ホテルの名前を言うと、歩いては行けないからタクシーで行け、タクシーは騙されるといけないから、自分が呼んでやるというのだ。言葉は分からないのだが、行っていることがなんとなく分かった。

 そう言ってくれてスマフォですぐ呼んでくれた。待っているとタクシーが来た。ホテルにまでいくらで行ってくれるかと価格まで決めてくれた。今度はまたそのタクシーの運転手さんが親切で、ホテルにつくと、カウンターまで連れて行ってくれて、ちゃんと泊まれるように話してくれた。

 すべてがこんな調子である。言葉の分からない海外の一人旅でも台湾なら何とかなる。台湾の地方都市のぶらぶら旅ほど面白い旅はきっとないだろう。そんな台湾が石垣島から一時間かからないところにあるのだ。もっと頻繁に行きたいものだ。

 今度、与那国島には台湾からの航空便か船便が出来るらしい。そうなったら、ぜひとも与那国に行きそこから、台湾に渡りたい。その昔の密貿易の女王ナツコのように。与那国は台湾との観光に道が開ければ、魅力的な島になることだろう。
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「イリオモテヤマネコ」戸川幸夫著の再読

2020-09-24 04:09:07 | 

 海の向こうに見えているのが、西表島である。ここに奇跡のように、イリオモテヤマネコという貴重な野生山猫が生き残っていたのだ。現在100頭以下が生息しているだろうと言われている。残念ながら減少しているのではないかと言われている。

 「イリオモテヤマネコ」戸川幸夫著を再読した。高校生の頃世紀の大発見と言うことで、新聞に掲載されていたような気もしたのだが違ったのだろうか。イリオモテヤマネコを飼っていた戸川さんがなんともうらやましかった記憶がある。あのときの島の見える石垣島に住むことになるとは思わなかった。

 熱中して読んだ。石垣島に来てもう一度読んでみた。前とは大分違う感想を持った。猫を食べた話があちことに書かれていて、世紀の大発見の背景にある、西表島の60年代の状況を感じさせる。西表島の明治時代の石炭開発のことを含め、八重山諸島の歴史とついこの間までの暮らしのことを思った。

 西表島での明治時代の森林開発。そして、植民地労働者を酷使した炭鉱開発。未開地域としての位置づけ。しかも、野心の渦巻く西表島を開発する政府と資本家の登場。マラリヤの蔓延と、無理な入植と挫折。戦後も続く困難な入植。その意味で、屋久島などとは全く状況が異なる。そこに起こった、イリオモテヤマネコの新発見。

 動物の本が動物好きの人間にした。母が月に一冊づつ買ってくれたのだ。きっと動物好きに成って欲しかったのだろう。動物の本が私の生き方を決めたような気がしている。講談社/少年少女世界動物冒険全集少年少女動物とシートン動物記が自然を見る眼を変えてくれた。動物というものの世界の魅力が、読書と言うものにのめり込ませてくれた。

 戸川幸夫は毎日新聞の記者だったのだが、高安犬物語を書いて直木賞を受賞した。日本の動物小説を確立させた人とも言えるのだろう。長く動物愛護協会の中心人物であった。動物好きとして随分と動物の本を読んだ。シートンを代表とする海外の動物物語に比べると日本のものは若干見劣りがする気がしていた。

 今回イリオモテヤマネコを再読して、何故動物愛護協会を続けながらも、イリオモテヤマネコのことから離れたのかと不思議に思っていたことが、少し理解できた。地元の自治体から、人間より猫の方が大事なのかというような、強い反発や抗議が起きたと言うことが原因だったようだ。

 自然保護と西表島の地域人達の生活が対立してしまった。石垣島に来てみて、そういうことは、今でもままあることが実感できた。西表島は世界自然遺産を目指している。これも観光目的つまり、経済が良くなることが優先されそうな気がして成らない。自然保護の方に全体が向いている状態であればイリオモテヤマネコの現状はもう少し違う展開になっているはずだ。

 西表庵植物園・高相徳志郎氏が提起。 西表在来植物の植栽で地域振興を進める会は2013年に設立されました。会の目的は、在来植物の植栽とこの普及、 植栽植物の探索 、在来植物の植栽による地域振興への貢献です。会代表の西表島での学術的活動・履歴につきましては総合地球環境学研究所のサイトをご参照ください。

 現在の西表島は観光と自然保護の対立というようなことだろう。今もイリオモテヤマネコの生息地の保護のためにクラウドファンディングを立ち上下無ければならないような状況なのだ。西表島現地の保護団体が、保護地域を300万円で保護しようという計画のようだ。参加させて貰ったが、実際の整備活動にも加わりたいと考えている。

 現在目標額300万円にたいして55万円が集まったところにすぎない。300万円が集まらないようでは、イリオモテヤマネコは絶滅すると言うことになる。世界自然遺産どころではない。日本人の自然保護意識というものが、この程度のことであればそれはそれで致し方のないことだ。日本人の自然保護意識はどうなのだ。全国紙はこのことを報道しているのだろうか。

 西表島データ 周囲/130km 面積/289.27ヘクタール 人口/2,282人(男:1,195 女:1,087) 世帯数/1,200戸 人口は停滞している。2,407人に令和に入り増加。農業は老齢化で減少傾向。人口増は流入人口で、観光関係や飲食の関係のサービス業が増加している。

 一次産業の減少で島中央部の開発は止まっていて、原生林に戻ったところも多い。ただ、ずさんな農地化が行われて、島周囲への赤土の流出は今も続いている。

 環境省の現状認識をホームページからイリオモテヤマネコについて上げておく。
3.生息を脅かす要因
  • 交通事故
  • 好適生息地の消失及び改変
  • 不適切な飼養をされた飼いネコとの間でFIV(猫免疫不全ウイルス感染症)等の重篤な伝染性疾患の伝染や生息地内での競合
4.保護増殖事業の概要及びその効果
  • 昭和49年度から生態・生息環境等の調査を実施
  • 平成6年国内希少野生動植物種に指定、平成7年保護増殖事業計画(農林水産省、環境省)策定
  • 平成6年より西表野生生物保護センターを拠点として、生息状況等のモニタリング、行動圏調査、外来生物等による影響の防止、普及啓発、交通事故防止対策等を実施
5.他法令等による保護の状況
  • 鳥獣保護法:生息地の一部を国指定西表鳥獣保護区に指定
  • 自然公園法:生息地の一部を西表石垣国立公園に指定
  • 文化財保護法: 国の天然記念物(昭和47年)、特別天然記念物に指定(昭和52年)
  • 条例:竹富町ネコ飼養条例により、飼いねこの管理について、マイクロチップによる個体登録、西表島に持ち込む個体の検疫が義務づけられている。

 その提言によると、「地域住民の多くが世界遺産登録に難色を示す中、前のめりに手続きが進められています。登録される・されないにかかわらず、西表島の自然環境保全には、早急で実効性のある対策が必要となっています。」とあります。

 日本で最も重要な哺乳類の保護が万全ではないのだ。毎年交通事故死が続いている。幸いこのところ一年半ほど事故が起きていないが。「ヤマネコの交通事故死は右肩上がりで増加してきました(年による増減あり)。対策として、道路沿いでの草刈り、アンダーパスの設置、道路への侵入防止柵設置等が取られてきましたが、ヤマネコの個体数は増加していません。むしろ減少が推測されています。西表島の世界自然遺産登録を想定すれば、島を訪れる人が増え、ヤマネコの交通事故は増加するでしょう。」

 「当プロジェクトでは浦内川に接する湿地(浦内湿地)、約20ha、に餌場となる池の造成を計画しています。山地沿いの放棄田を常に水が張る状態にして、ヤマネコが餌を捕れる池の造成です。水の流れがある池と淀んだ池の二つとします(各10m四方)。私たちは放棄田に畔の様なヤマネコが歩ける堤を造る予定です。」

 自衛隊基地には住民の賛否は関係ないとして、あれほど強引な手法で建設を進める。ところが国はイリオモテヤマネコを保護することに実に消極的だ。何故だろう。何を守るために自衛隊の基地を作るのか。イリオモテヤマネコなどいなくなってもかまわないというような日本人を守るためなら、やめておいた方が良い。

 日本で最も貴重な野生動物が絶滅の危機にあるにもかかわらず、300万のお金が集まらないのだ。たとえ、300万集まったとしても高相さんによると、十分とは言えない状況らしい。私はたちまち集まるだろうと思っていただけに、情けない気分である。

 お金もなんとしても集めなければならないが、それ以上に300万で整備する労働力の方が心配である。これはボランティアで整備する材料費ぐらいである。私もまだ動けるので、参加するつもりだ。

 その昔、戸川幸夫さんがイリオモテヤマネコを探して入った、イナバそばである。今はもう集落は失われた。浦内川のそばの湿原の整備らしい。肉食獣である山猫の保護は極めて困難な事業だ。この小さな島に生き残っていたことが、まさに奇跡的なことなのだ。

 この奇跡をなんとしても守りたい。先ずは何が自分には出来るか.そこから考えてみたい。
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「首里の馬」高山羽根子著を読んで

2020-09-23 04:06:50 | 


 車には何冊か読んでない本を積んである。絵を描いていて、急に読みたくなり本を読むことがある。本がないと落ち着かないのだ。現代農業は必ず車にある。急に読むためである。農文協には感謝の気持ちがあるので、たぶん死ぬまで定期購読であろう。

 車の中で「首里の馬」を読んだ。最新の芥川賞受賞作である。首里とあるものでついつい購入した。購入したので読んだのだが、沖縄の匂いがほとんどないので、がっかりした。すばらしく上手な構成の作品である。小説の構成がしっかりとしている。それが計算に見えるとしらけてしまうのでもあるが。

 首里の街を馬に乗って撮影して歩くという当たりがどう考えてもすっきり入らないことだった。琉球大学病院に行った帰りにバスの乗り換えもあり、首里の街を大分歩いた。ちょっと無理だろうという感じがした。引きこもりのような女性がそんなことやるのは余りに荒唐無稽な感じがした。首里に行ってみて余計に、不消化になった。

 その場所の記憶を意味も無く、記録を続けるという感覚は面白い。そういうひとは案外に多いものだ。生きるという意味をそういう所に見つけたくなると言うことはままある。その記録の多く場合は歴史的なものなのだが、この歴史的というのも意味があるようではあるが、よく考えてみれば底に生きる意味を見つけようとしても何もない。

 コレクターがテレホンカードを集めていて、そういうコレクションが無意味になる感じのようなもの。昔はマッチ箱をコレクションするというのもあった。ものをいくらでも集めるというのは収集癖というのか、一種の病のようなものなのだろう。何かを記録することで空いた穴を埋める。

 生きる上での精神的な穴埋めのようなものではないのだろうか。私は筆を見ると欲しくなる。意味なく欲しくなる。絵がよく分からないからだと思う。分からない絵の穴埋めとして、筆を買えば絵が描けるような意識が、どこか潜在的に繋がっているのではないか。

 平櫛田中という彫刻家が100歳に成って大量の彫刻材料を購入したという話もなんとなく似ている。長崎の平和祈念像を作った人である。あれは彫刻としては余り良いとは思えない。あと30年ぐらい作れるという安心感がないと、次の一作が作れないと言うことなのだろう。最近紙をまた100枚買ったが、これは一年分だから、まだ健全な方だろう。

 家から遠くない場所に南島博物館というものがある。古い石垣島の大きな民家にやたらに歴史的遺物というか、その周辺のものも含めて収集を限界を超えてやっているところがある。所というか、そういう人がいる。とても興味深い人間である。

 もし石垣島に来て、夜に時間があるのであれば、一度寄ってみると良い。大川という、街のど真ん中である。夜だけ「こおもり」かふぇと言うのをやっている。夜コーヒーは飲めないので行ったことはない。昼間たまたま博物館が開いていたので、入れて貰ったのだ。

 一応昼間も開いていることもないわけではないが、大抵はしまっている。博物館の収蔵品もそれは様々で面白いのだが、全く整理がされていないので、悪く言えばゴミ屋敷状態とも言える。集めるだけ集めたが整理がされていないのだ。これをカード化して、コンピュターでデーター化するのはひとりの人間の一生仕事となるだろう。

 しかも、すべてのものに意味はあるのだが、その意味は南島博物館の館長以外には分からない。特に八重山上布のコレクションはかなり貴重なもの手本になっている。それはどうも館長のお父さんの集めたものらしい。だから、親子2代にわたる収集三昧である。

 どうも館長の説明はあちこちにに飛ぶので、混乱してしまうのだが、この前館長は知事だったということらしい。ここでの知事職というのはアメリカ統治下の、八重山の統括者というようなことではないだろうかと想像している。少なくともこの博物館の家柄は八重山の中心の家系の一つダあることはたしかだ。

 すべては館長のミャクリャクノナイ話をつないで想像したことだ。この博物館の館長ではあるのだが、棒術の指南でもある。ただ門弟はひとりもいないそうだ。見るからに弱そうな感じであるが、もしかしたら名人なのかもしれない。この博物館の一隅に台所がある。これも間違いなく、無理矢理古い民家の一隅に、館長が手作りしたと思われる。そのカウンターが喫茶店と言うことらしい。絶妙な雰囲気で他にはない。

 ここでコーヒーを入れて飲ませようというのだ。そのカウンター越しに「こうもり」という名前にしようと思うがどうだろうか。と相談された。いや、こおもりは不気味だから、お客さんが来ないでしょうと、普通に相談に答えたが、次に通ると「こうもり」カフェと看板が出ていた。人の話は聞こえていないひとにちがいない。

 石垣にはオオコウモリがいる。この町中の家にも尋ねてくるそうだ。フルーツコウモリともいう。猫ぐらいある。かわいらしい顔をしている。かわいらしいクリッとした目をしているが、コウモリはコウモリである。民家に来て、フルーツを食べるのだそうだ。庭にある、マンゴーやパパイヤが狙われる。館長はコウモリかわいらしくて来るのが楽しみで仕方がないらしい。

 この博物館で収集物のカード化を誰かがしなくてはならない。首里で馬など載っていないで、是非石垣でカード化を進めてくれないだろうか。相当貴重なものが、分からなくなるだろう。読む前に「首里の馬」はそういう話なのかと思ったのだ。首里の街の記録をただ集めた人がいて、その集めたものの整理を続ける話ではないかと思った。

 それなら、集めた人の想像の出来ない面白さに触れるのではないかと。ものを集める病についてである。ところがそうではなかった。集めるという病の方ではなく、記録するという方の病だったのだ。意味なく記録を続ける。これはこれで恐ろしい世界である。

 何故恐ろしいかと言えば、人ごとではないような気がしたのだ。私の描いている絵は私の中を記録しているようなものだ。私絵画はその意味の価値はどうでも良くて、自分の中を見続けると言うことだ。首里の街を馬に乗ってスマホで記録を続ける。

 すべて戦争で焼け尽くされた首里の街である。古い町の空気だけは再現されている。谷間の多い坂の街である。無くなった街が再現されたと言うことではドイツなどにも、そういう街があった。石の文化ではないので、首里の古さは古都の古さではない。やはり首里でなければ行けない話かもしれない。戦後脈略無く街になったものを記録する。

 何故、昔を再現しようとするのだろうか。これも病の一つかもしれない。人間の病理を描くというのであれば、「コンビニ人間」村田沙耶香著も同じであった。現代は病の時代なのかもしれない。ただし、首里の馬の著者はとても健全な人だと思えた。文章が健全なのだろう。

 

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アトリエで絵を見ている。

2020-09-22 03:49:12 | 水彩画


 アトリエの壁を少し改良した。描きかけの絵が見やすいようにした。座っている今の場所からは3方向の壁が見える。正面の壁に8点。左側の壁に3点。右側の壁に3点掛けられるようにした。




 14点の絵がアトリエの壁に掛けてある。天井には天窓が四つあるので、昼間であれば、天窓からの光で外で見ているのと変わらない色彩で絵を見ることが出来る。わずかな色の違いで絵は随分違って見える。

 絵は色彩、構成、調子、とあって、その先に何が描いてあるのかが出てくる。海だろうが、田んぼだろうが、どんな描き方になっているのかと言うところに、自分の何かが現われてくる。私には色彩というものが大きな位置を占めている。

 天井にはライトが25個ある。できるだけ良い光になるようなものを探しているが、やはりライトだけではだめだ。曇り日であっても外光が加わるとライトの光がきゅうに気持ちの良い色になる。


 絵は小さな釘を壁に打ち付け、そこにクリップで吊してある。絵を挟んでいる形だ。クリップはいままで見つけた中で一番目立たないものだ。これはそのタイプの中では大というサイズなのだが、小でも大丈夫かもしれない。何しろ紙が厚くて重いから、落ちるのが心配で大にしてある。

 

 その日描いてきた絵は下の台の上に置いてある。すこし出来上がってきたら、上の絵に比べて並べる。上に掛けてある絵は3枚が額装した完成作品で、11枚が描き描けのものである。おおよそ一ヶ月分の絵が掛けられている。3日で1枚くらいを描いていることになる。

 何とか一ヶ月ぐらいの間に完成と言うことになるが、絵によっては永く壁に掛かっているものもある。絵はだめだとしても完成したという意識まで持って行くことにしている。

 最近の流れでは日曜展示をしたらば、保存ダンスに格納することにしている。石垣島では水彩画を外に出したままにしておくことは出来ない。かびてくるに違いない。常に湿気がすごい。

 除湿機のある保存庫の中に、桐の水彩画保存タンスが二つある。一段の引き出しにファブリアーノの厚い紙の中判全紙が50枚入る。12段あるから、ひと棹に600枚しまえる。これが二つあるから、ここには1200枚くらいは保存できる。

 現在もこれから描く紙や昔の絵で満杯なのだが、順次入れ替えてフルイダメナ絵は廃棄して行くつもりだ。日曜展示が一回3枚として、400回になれば、すべてが入れ替わることになる。10年以上余地があると言うことだが、そのくらいは描かなければ行き着かないだろうと言う気はしている。

 このように描いた絵はアトリエでひと月あまりの絵を並べて、眺めていることになる。時には古い作品を持ち出して並べてみることもある。そして明日描く絵のことを考えている。意識して絵のことを眺めていることもあれば、他のことをしている時に、絵が眼に入りやるべきことが見えることもある。

 絵は大体5メートルから8メートルぐらい離れてみている。遠目でみる絵である。絵は離れてみなければ見えてこない。描いているときは絵の前に座り込み張り付いて描いている。描いているときは実は良く絵のことが分かっていない。

 ただ無我夢中で風景に向かっているだけだ。何をやっているかもよく分からない。反応だけになっている。絵を描く機械のようなものだ。反応だから、過去の様々な記憶でこうしたら、ああしたらと見えているものに近づこうとしているような気がしている。

 その意味では絵を意図して描くと言うことはない。いつの間にか、風景を全く見ないで、ドンドン絵が変わって行くこともある。描いている場所が変わってしまうこともある。その時の気持ちと流れで、気分のまま描いている。

 11枚の並んだ絵の中から、この絵を進めてみようという絵を持って出かける。アトリエで考えていたことをやってみる。このアトリエで考えていることとは、たぶん絵とは何かと言うことだろう。自分が絵を描いて何をしたいのかである。

 アトリエでは絵は描かないことにしている。描いてしまうと考えることでは無くなる気がしているからだ。アトリエでも絵を描く機械になってしまう。描くことに引っ張られてしまうのは避けたい。アトリエで見ているのは変化の兆しを見つけている。こういうのが良いなと思うことが蓄積されて、絵が動いて行くのだと思う。

 風景に向かい合ったときに、アトリエで絵を見た蓄積で描くのだと思う。昔やっていたことは忘れて行くのだろう。新しい獲得をしたものを中心に今見ている風景に反応している。それが何なのかと言うことをアトリエで絵を見ながら考えている。しかし今のところ正直なんだか迷っている。迷いが行けないというわけでもないが。

 14枚の絵の中で、これならまあ良いかと思えるものが基準になる。そのことがどこか頭の中に残り、その日に描く方向になっているのだろう。一日ただただ描いて持ち帰って、又並べる。すると全くおかしなことをやっている日もあれば、おっ・・これは良いぞ。と言うような日もある。

 いずれにしても、進んでいるかどうかである。この年齢になれば、日々後退していて普通である。現状維持ならすごい奴である。進んでいれば天才である。叔父の草家人がいつもそう言っていた。自分のこととなると分からなくなるのだが、何故かすこしづつ進んでいるような気がしていて、希望がある。

 これは妄想なのか。思い込みなのか。まあ明日生きて行く希望を失うわけには行かないから、この意識は悪いことではない。小学生の頃から、絵を描いてきて、ずーとインチキだったのだからひどいことだ。やっと普通になってきたと言うぐらいであるとしても、それはそれでいい。絵は自分自身のことなのだ。

 
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水彩画パレットの話

2020-09-21 04:28:53 | 水彩画





  写真は二つのパレットである。上のプラステックパレットで絵の具を溶いている。下がニュートンの陶器性のパレット。このくらいの濃度で描く。筆はレンブラントの太いコリンスキー。下の写真にたまたま写っている画面が、その薄く溶いたコバルトグリーンで、ファブリアーノの紙に描いた調子である。

 水彩画のパレットはプラステックの真っ白のものか、磁器性の白のものが使いよい。水彩パレットは白でなければ成らないのは当たり前のことなのだが、これが白でないパレットもあるから驚く。紙だってわざわざ着色された紙で描く人がいる。表現は人それぞれである。

 多くの人に水彩画の使いやすい道具を紹介してきたが、それで変えた人はまずいない。絵を描く人はそれくらい今やっている自分のやり方から抜け出ることが難しいのだ。パレットを変えたらと思うことは何度もあるが、直接言ったことはない。

 水彩を始めて以来白いプラステックのパレットを使ってきた。余りに使いやすいので人に時々勧めてきた。しかし、案外にプラステックパレットは広がらない。たぶん安すぎるので不安になるのだろう。100円ショップでも売っているぐらいだ。

 専門家用パレットというアルミに白い塗料を焼き付けた、パレットが一番普及しているのだろう。「君のパレットを使い良さそうだね。」と言ってくれたのは春日部洋先生ただひとりである。春日部先生は実に技術の優れた人だから、プラステックパレットの良さをすぐに分かってくれた。

 どんな領域でも、専門家用などという言葉がいかにもプロ仕様と言うことになる。他人が持っていないような筆を自慢する。私は筆自慢だからよく分かる。世界で一番多く筆を持っている水彩画家で間違いないだろう。一つのライフィングビューローに入りきらない。良さそうな筆はすべて試したと言えるほどだ。

 筆の蘊蓄は又にしたいが、一言だけ書けば、一本の筆で水彩画を描いている人が案外に多い。絵を見れば分かる。表現が単調になる。単調であることが意図であれば良いが、表現内容も単調ということが多々起こる。

 今回はパレットだ。

 水彩画のパレットは絵の具を薄く溶く、たっぷりと水で溶く。水に色がついたと言うぐらいでも描く。かなりの水たまりが必要なので、油彩画のように真っ平らなパレットというわけにはゆかない。その水たまりの絵の具の濃度がとても重要なので、透明度が分かりやすい白い色でないと困ることになる。

 半透明のパレットや金属色のものあるのだが、あれでは色の濃度は判別が出来ない。水彩画は薄い着色層を塗り重ねて色を出して行くものである。このことを教えていただいたのも、春日部洋先生である。「薄く、うすく、塗り重ねないとね。」こう言われた。

 薄く紙がすけるような透明感が水彩画の一番の特徴でもあり、他の画材では出来ない表現と言うことになる。その調子に惹かれて水彩画を描いている。水彩画の明るさは紙の白を透過させて表現する。紙の白が見えなくなるほど、色を濃く厚く塗るのでは、水彩画としては普通の表現ではない。

 ところが日本の伝統的な水彩画はガッシュ絵画というようなものである。中西利雄氏の水彩画と称する技法書は優れたものだが、それは水彩画技法と言うより、ガッシュ画技法書である。日本では不透明水彩画というような不思議な言葉さえ生まれた。それなら、確かにパレットは白でなくともかまわない。

 何で水彩絵の具で絵の具を盛り上げるほど塗るのかと思うが、そういう水彩画ではない水彩画の人も案外に沢山いる。盛り上げるほど塗るなら、油彩画か、アクリル絵の具で描けば良いのだ。わざわざ水彩絵の具を使う意味がわからない。

 そうした不透明の厚塗り表現を中心に行うのであれば、油彩画の方がはるかにやりやすい表現と言うのは当たり前すぎる。ところが何故か日本の水彩画の主流となる表現が不透明水彩であった。中西利雄氏の影響が大きいのかもしれない。優れた絵だとは思うが、水彩画の素材の魅力はない。

 そうした不透明水彩と言われるような意味不明の言葉で位置づけられる水彩画の作品は実は、区分すら不可能な、ジャンルすらないもので、すでに美術史の中では消滅しかかっている。不透明水彩などと言う特殊な言葉があったので、日本ではわざわざ透明水彩などという言葉さえ出来た。

 何故か明治以来水彩画だと感じる作家は浅井忠くらいである。浅井忠は油の作品も描くので、盛り上げるような表現が必要なときは油彩画で描いている。水彩画は紙の白が色に反映するように描くのが当たり前のことだ。

 そんな屈曲したような歴史を水彩画はたどったために、一流の作品というものが極めて少ない。こうした回り道を描いているのだからまともなパレットが広がらないということになる。そうパレットは水が充分に入るプラステックのものが良いという話だった。

 先日水彩画でのパレットの選択について、ウエッブ検索をして調べていたら、なんとプラステックパレットは白い色に絵の具の色が着色してしまうので、良くないという説明が出ていた。まだこのように本当に水彩画のことが分かっていない。パレットを染めるような染色系の絵の具は使わないことだ。

 良い絵を描くためには真っ白なプラステックパレットである。色を出すボックスのかずは12ぐらいで十分である。中には24色絵の具が出せるなどと言うのがあるが、これでは描きづらくて私には使えない。12色あれば、どんな色でも表現できる。組み合わせればあらゆる色が出せる。

 12色以上必要ということは、色の混色をしないで、混色がすでにされた2次色や3次色までパレットに置いていると言うことだ。これは水彩画の透明性を失わせる大きな原因になる。できる限り彩度の高い、顔料単体の絵の具に限ることだ。絵の具の選択ではこの点が重要だ。

 色は常に水で薄く溶くのだから、大きな面積が必要になる。そこで、特に水で薄める色については、陶器製の六センチほどの皿を五つ使っている。小さなパレットの色と同じであっても、セルレアンブルーやコバルトブルーなどは大きな皿で溶きたい。

 そのほかの色はプラステックパレットにだしておく。プラステックパレットが色に染るような染料系の、悪い絵の具を使ってはならない。パレットを染めるだけならまだしも、描いた絵において他の色を染めているのだ。染料系絵の具はそもそも紙も染めるし、他の色も浸食する。つまり染料系の水彩絵の具はよほどのことで無い限り、使わない方が良い。

 ついでに言えば印刷をする絵本の人やイラストを描く人で、カラーインクで描く人もいる。インクには染料系のものが多い。インクで描けば後で変化が激しいことになるが、描いたその時には色は美しい。だから印刷をすることが前提であれば、その意味では問題が無い。

 
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第19回 水彩画 日曜展示

2020-09-20 04:15:22 | 水彩画
第19回 水彩画 日曜展示






60「ニラカナイの海」1
中判全紙 ファブリアーノクラシコ
2020.8





61「ニラカナイの海」2
中判全紙 クラシコファブリアーノ
2020.9







62「ニラカナイの海」3
中判全紙 クラシコファブリアーノ
2020.9

 60の絵はウエッブ水彩人展に出品した。その後、時々海だけの絵を描いている。ニラカナイというものは沖縄にある理想世界の夢のような考えのことだ。このことは昨日描いた。

 どの絵もまだ描けたと言うところまでは進んでいないのだが、ともかく海に取り組んでいる。その出発という意味で、一応完成とした。まだ出来ていないことも多い。とくに海の持つ輝きの明るさがまだ描けていないようだ。

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ニライカナイの海

2020-09-19 03:58:09 | 暮らし


 沖縄では海の向こうにある神の国をニライカナイという。海を描くことでその感覚を少し味わっている。石垣島の美しい海を見ていると、この先にはきっとすばらしい世界が待っているのではないかと、空想が広がる。

 そのすばらしい世界は異界である。何かあの水平線の向こうで楽しげに暮らしている人の賑わいが聞こえてくるような幻想が湧いてくる。ふらふらと海に繰り出して行く人がいても何の不思議もない。それほど美しい海なのだ。

 「海が美しいと感じるのは、海の向こうにある希望を見るかのようだ。」海にここではない違う世界の入口を見ているからなのではないか。この違う世界までも描きたいというのが絵を描くと言うことではないか。最近そういうことを自分の絵の行方について思う。

 日本列島と同じくらいの長さで、琉球弧は太平洋に向かって弓を張っている。この大きな海に広がるニラカナイ思想は、海のその又向こうの海から来ていると考えて間違いが無い。人間がアフリカを出て、東の果てまでたどり着く。もうこの先は陸地がない。その無いはずの陸地を思ってニラカナイと名付けたのだろう。

 柳田国男は宝貝を求めて、日本人になった人達は島を渡ってきたと空想を廻らせた。伊良子岬に流れ着いた椰子の実はたぶんミクロネシアのココヤシの実だったのではないだろうか。ヤエヤマヤシはまだ発見されていなかったし、残念ながらヤエヤマヤシの実はあんなに大きくはない。

 石垣島の美しすぎる海をみていると、この日本人の祖先がニラカナイを求めて、日本列島までたどり着くという、魅力ある空想が現実だと思えるようになる。どうしても海の向こうの見えないものを想像するのが人間なのではないか。これほどに美しいものの向こうには何かがあるに違いない。祈りに近い気持ちがわき上がる。

 島影があれば、そこまで行ってみようと考えるのが人間である。なにしろ、アフリカから何万年もかけて日本までたどり着いたのが、人間なのだ。あそこの先には何があるのだろう。あの島にはもっとすばらしい世界があるのかもしれない。追い詰められて日本列島にまでたどり着いたと言うより、夢を追い求めてきたという方が正しい推測だと、石垣の海を見ていると確信できる。

 3万年近く昔の旧石器時代に台湾から石垣に渡ってきた人達の思いもそれに繋がっていたという気がして成らない。この海の向こうにはきっと幸せがある。山のあなたの空遠く。海の向こうの空遠くにあるという、ニライカナイの理想世界。

 石垣島で海を描いていると、ニライカナイの海を描いていることにいつの間にかなっている。それは海原もあれば、草原もある。そして田んぼ原でもある。その向こうにあるニライカナイである。広い広がりがあれば、その向こう側のこと思うのが人間である。

 珊瑚礁の海の透明な輝きである。この海の透明感は水彩画以外では描けないだろう。この海の強い光の輝きは、別世界の輝きのように見える。どうしても海の向こうに絶対的な世界を見ようとしてしまう。

 それは例えば、海を描いているのに希望を描いているというようなことだ。海というものをとことん写生すると言うことだけをしている。ただ何も考えずに海を描いているのだが、絵というものにはかえっていろいろのものが現われてくる。

 もしかしたらニラカナイを描くものが絵なのかもしれない。そういう想像を広げるものが、石垣島の海と空とその間にある岸辺。岸辺とは彼岸と此岸を行き来する境。絵は境目を描くものではないかと思っている。

 境目とは現世と来世とのことである。理想と現実のことである。夢とうつつのことである。ここではない向こう側のもの。目の前のものをとことん見ると言うことの先にある。見えないもの先を描いている。その見えないものだからこそ、その描く人を表す事になるのではないか。

 耕作放棄地を良く描く。人間の自然に対する作為が失われて行く境。遷移のようなもの。変わって行く過程。移ろうもの。こういうものに眼が行く。ニラカナイとは移ろいゆく現世の向こう側にある、変わらないもののことなのだろうか。

 変わらないものを想像するよすがとして、変わりゆくものを見つめる。刻々変化している海を描いていると、変わりながらも変わらない海というものがあることに気付く。

 海のその向こうには異界があり、恩恵をもたらしてくれる。その向こうの世界への憧れは3万年前のご先祖も何ら変わりが無かったのだろう。いつも現世は厳しく、生命の危険にさらされて生きるほか成った。より安心立命できる地を求める気持ち。

 人類の遺伝子の辿っていくと、現在生きているすべての人が、約20万年前にアフリカ南部、ボツワナに住んでいた女性の子孫であることがわかった。とされている。その地は、マカディカディ・オカバンゴ古湿地と呼ばれる場所だ。

 ボツワナから旅立った人類は、次第に世界全体に生息を広げ、遙か東の果ての日本列島にたどり着く。ニライカナイニライカナイと導かれたのではないだろうか。そして3万年前についに石垣島までたどり着いた日本人に成る一族かもしれない人々。

 人類は想像する生き物だったのだろう。現状を認識するだけでなく、違う世界を想像して歩き出す。現状より良い世界を空想できるという類い希な能力。それが人間を人間にした。それがニライカナイではないだろうか。それがニライカナイの海ではないだろうか。

 柳田民俗学の骨格は琉球諸島に漂着した者たちが稲と貝に価値を感じて、それを伝承し定着させていったのではないかということである。この稲をもった日本人の漂着という物語の発端が、柳田が青年のときに渥美半島の伊良湖岬で椰子の実が流れ着いているのを見たことから始まる。明治31年の24歳のときである。
 
 石垣島を描くことで、100年前の柳田国男の想像が、良く理解できる。海の向こうにあるものを実感する。それは恐怖させるものでもあるのだが、恐怖を乗り越えることはどの民族にも成人に成る壁である。

 
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動禅における空の状態について

2020-09-18 04:04:32 | 暮らし


 禅において肝心でしかも困難を極めることは、心の置きどころである。考えないという、無念無想の心境であろう。無念無想に至ることは凡人には極めて難しいことである。繰返しその境地を目指してはきたが、未だ道遠しである。どうも無念無想に至れるのは天才と、狂った人だけなのかもしれないと不遜なことを考えている。

 曹洞宗の禅では座禅すると言うことが形としては完成形である。形から入り、その形のままに、それが目的と言うことでもある。だから、ただ座ると言うことでは無念無想をひたすら試みるほか無い。私にはこれが出来なかった。

 臨済禅においては考案というものがあると聞いている。座禅を行っているときに考案を与えられ、考え続けるという。やったこともないことなので分からないが、考案を考えると言うことに集中して、雑念を払うと言うことではないかと想像する。

 考案は師から与えられ、ひたすら考えて答えを出し、師に対して答える。師が良いと考えれば、次の考案が与えられ又答えが出るまで座禅を行う。それが10ぐらい出たところで悟りを開いたと言うことになる。15年はかかるという。

 集中して一事を考えると言うことで、頭の中に去来する雑念を消すと言うことではないか。ある意味、思考で雑念を抑えるということで、意味あるようにも思えないが、これはこれで難しそうなきもする。いずれにしても臨済禅では師がいなければ出来ないというものになる。

 ともかく凡人の頭の中はどうでも良いことが次々と通り過ぎて行く。これが当たり前の人間である。能の仕組みがそうなっているのだろう。思考を止めると言うことは脳の機能から言って困難に出来ている。

 そこである一事に集中して、それ以外が湧いてこないようにしたらどうかというのが臨済禅の考案ではないか。道元の禅は天才の禅でそんな凡人向きの指導法など無い。道元の残した禅の作法である普勧坐禅儀では、只管打坐。座禅は悟りに至る道ではなく、座禅そのものが目的であるとしている。

 当然公案の禅も、動禅など論外と言うことになる。この違いの意味はなかなかやっかいではあるが、凡人には道元の禅は困難を極めるため、道元から見れば、えせであるが動禅なりの集中を求め所もあるのでではなかろうか。諦めて禅に関わらないよりはましではないかと、この歳になり今更ながら考えるようになった。

 道元の禅とは違うものという前提で、動禅に取り組もうと考えるようになった。動きと呼吸に意識を集中していくことは誰にでも可能なことだ。意識を捨て去ることは出来ないとしても、どのように動くかに神経を集めて行くと、雑念の湧いてくる予知が少なくなる。雑念が湧いてくると、正しい呼吸が出来ない。正しい動きが出来ない。

 呼吸と動きとを合わせて正して行くことも意識を集中させることになる。座禅を行ったときに比べて、雑念のコントロールがかなり楽である。楽だから継続が出来る。座禅は余りに困難で継続が出来なかった。難しすぎて続かないより凡人にはやらないよりはましである。

 動禅は身体の動きで呼吸を深く、限界以上に行う。鼻の穴は解放している。鼻で息を吸うのではなく。鼻は穴を開いて、空気が通る状態にしている。そして身体の動きに応じて、空気が通って行く。胸を開けば呼吸はより深くなる。手の動きで胸の開きを大きくして行く。

 訓練を繰り返すことで、より静かな長い呼吸が可能になる。一呼吸が始め10の人は15を目指す。20一呼吸の人はさらに25を目指す。より静かな深い呼吸に成って行く。酸素はその都度使い切られるような状態に近づく。

 この限界に近い状態で始まる、身体の状態が雑念を払い、自己存在が呼吸と動きだけの存在に近づく。

 手を上げれば呼吸は深くなる。左手を挙げ呼吸を一呼吸をげんかいまでする。さらに右手をあげれば呼吸はさらに深く可能になる。身体の動きをうまく行って行けば、より深い呼吸が出来るようになる。ただ長ければ良いという競争のようなものではない。

 基本は身体を閉じるときには息を吸い込んでいる。つまりお腹はへこんでいる。身体を開いているときには息を吐いている。つまりお腹は膨らんでいる。お腹で空気が吐かれたり吸われたりする状態である。実際には開いた鼻腔を空気は通過しているのだが、意識はお腹で呼吸をしているような意識だ。

 身体を上げるときには空気を吸う。身体を下げるときには空気を吐く。これを基本として、自分の動きに相応しい、形を整えて行く。これには決まりがあるわけではなく、自分の動きに合わせて一回の動きを決めれば良い。

 そして呼吸を吸いきって動き止める。止めたまま身体の動き求める。この静止の時間を徐々に長くする。吸いきった状態で止めることと、はききった状態で止めることは大きく異なる。この止めた静止状態になりきると言うことも大切である。

 今度は逆に呼吸を吐ききって動きを止める。吐ききったまま身体の動きを止め、これも徐々に時間を長く止められるようにして行く。最初は5を数えるくらいから始め。20を数えるくらいまで進める。

 身体の形で静止する時間も異なってくる。無理をするというのではなく、自然に呼吸が静かに長くなるように進める。身体の動きも呼吸にあわせより緩やかに、しかしより深く動くようにする。

 言葉で説明することは難しいことなので、動禅の境地に至ったときには映像化してみたいと思うが、ともかく10年ぐらいはまだかかりそうである。とすると、80を過ぎることになるが、80を過ぎて正しく動けなくなっている可能性もある。

  無念無想の状態と言うことは、ある程度つかんでいる。それは絵を描いて熱中しているときのことだ。これは何十年と続けている内に、自然そうなったことである。絵を描き始めて三時間くらい何をしていたのかも分からないことが多い。

 何故こんな絵を描いたのだろう。どうやって描いたのだろうということになる。果たして自分が描いたのだろうかというようなときもある。自分に至るための修行として絵を描いているのだから、これが描禅と呼ぶようなものなのかもしれない。

 没我というようなことである。没我状態で絵を描いていることが、果たして禅にちかいとも思えない。修行と言うより、極楽に行くようなものだ。毎日極楽に言ってこれこそ修行だと言えば、馬鹿にされるだろう。このインチキも含めて私である。

 動禅もかなり楽しいものである。するとこれも修行ではないのかもしれない。もう少しやってみて、私が何者かになれたときに人に伝えられるのだろうか。たぶん当たり前だが、誰にも動禅を伝えることもないのだろうが、それならそれで秘技動禅と言うことでやり続けよう。
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ドコモがまたやらかした。

2020-09-17 04:25:47 | 暮らし



  日本のキャッシュレス化はまだまだ無理なようだ。キャッシュレス社会が進んでいる国ではまさか口座が他人のの名義で開かれ、銀行口座から抜かれてしまうようなことはないだろう。日本の社会はよほど頑張らないと様々な遅れが取り戻せないようだ。

 ドコモ口座のなりすましが簡単に行えたようだ。ペイペイでも同様のことはあったようだ。まだ名前の出ていないところでもあるようで、相当に広がっているのではないだろうか。昨日銀行口座の確認に記帳を行った。しばらくちょいちょい記帳はしようと思う。幸い銀行は歩いてすぐの所だ。

 ドコモと言う会社は目先の営業ばかり熱心で、会社としての信用を高めることを考えていないのではないか。客から姑息にかすめ取ることばかり考えている。たぶん、ドコモ本社と各出先店舗との関係がおかしいのだと想像している。それが又やらかしたのだ。

 ドコモ自称の、業界最高水準の口座管理検知システムが簡単に崩壊し、不正口座開設が相次いでいる。理由は簡単である。客を増やすためには客の口座の安全管理を、少々おろそかにしても良いと考えたのだ。問題は意識して口座の安全性を後退させながら、これを宣伝では業界最高水準の安全性と、デタラメを書いているところである。

ドコモクレジットカード(ホームページ記載)
不正使用防止の取組み
弊社では業界最高水準の不正使用検知システムを導入し、24時間365日お客様のモニタリング(不審利用チェック)を行っております。このシステムにより不正使用の可能性のある事態を事前に発見できる体制を整えておりますのでご安心ください。 万一、不正使用の可能性が発生した場合にはお客様へ直ちにご連絡し、対応についてご相談させていただきます。

 いままで、ドコモに3度騙された。ドコモのクソ野郎である。それなのにドコモにしてきた。理由はドコモが石垣島では一番通信事情が良いと言われていたからだ。随分不便なところで一日絵を描いている。もしそこで何かがあったときに、電話が通じないと一大事になりかねないからだ。

 実際に3回車に問題が起きて、JAFに来て貰った。このときもし電話が通じなかったらと思うと怖い。石垣島にはJAFは1軒である。車で帰ろうとしたら、タイヤがパンクしていた。あわててJAFに電話したら、なんと「行けるか聞いてみます。」と本部の人が言うのだ。びっくりしてしまった。

 それでは30年JAFに入ってきた甲斐がない。来れない場合があるということなら、JAFに入っている意味が無い。来てくれるところと契約をし直さなければならない。最近は車の保険に付随するサービスでJAFより良さそうなところが宣伝されている。確かに前回は1時間半したら行きますという。過去一番長い時間待った。

 そうドコモのことであった。電話がなければ絵を描きに行けない位なのだ。だからドコモに入っている。いくらかでも安心感の大きいものを選んでいる。ところがである。なんとドコモIDで口座から、かってにお金が抜き取られた。まさかのことというか、あるかもしれないことだ。ドコモは電話とは関係の無いキャッシング事業で儲けようとしているのだ。ドコモカードを止めれば良いかというとどうもそういうことでも無いようだ。

 この辺の実態は実はよく分かっては居ない。分からないままではいけないのだが、どうもこの辺の仕組みについては理解が届いていない。今回のドコモ関連の「ドコモ口座」を使った銀行預金の不正引き出し問題は、簡単になりすましができると言うことが落ち度のようだ。

 ドコモ口座をより多く開いて貰うために、簡単なチェックで済ましていたと言うことだ。dアカウントを用いるサービスについて「便利に使っていただく観点から簡便な手続きで利用できるようにする」(丸山誠司副社長)という方針を口座開設のハードルを下げてそのまま適用したという。結果的に、本人確認をしていないdアカウントでもドコモ口座を利用できるようになったのだ。

今回の不正出金は、以下の手順で行われたと推察されている。
  1. 何らかの方法で「口座番号」「名義人」「生年月日」「キャッシュカードの暗証番号」などを入手する。
  2. メールアドレスを使ってdアカウントを作り、ドコモ口座を開設する。
  3. 不正入手した口座情報を使い、Webで口座振替を申し込みをする。
  4. 犯人のドコモ口座に他人の口座からチャージ(=不正出金)してしまう。
  5. ドコモ口座とd払いをひも付けて、コード決済で換金性の高いものを購入しその上で現金化したと思われる。
  6. Webでの口座振替申し込み時の本人確認が甘いと、ドコモ口座以外でも預金者の意図せぬ口座振替契約が締結される事案が発生しうる。
 NTTドコモの電子決済サービス「ドコモ口座」を使った預金の不正引き出しが相次いでいる問題で、ゆうちょ銀行は9日夕、同行の顧客でも預金が不正に引き出された事例が見つかったと発表した。

 ゆうちょ銀行は被害の詳細は明らかにしていないが、被害に遭った顧客に対しては「被害状況をよく確認のうえ、真摯に対応する」とコメント。ドコモとは「セキュリティー強化について迅速かつ適切に対応している」としている。

 ゆうちょ銀行は2017年11月からドコモ口座との連携を開始。氏名と生年月日、口座番号、キャッシュカードの暗証番号の4項目があれば、銀行口座をドコモ側に登録する口座連携ができる。ゆうちょ銀行は9日午前9時40分から口座の新規登録を止めた。

 何故いろいろ調べてみたかというと不安だからである。銀行に口座があれば、ドコモであろうがなかろうが、等しくこうした不正引き落としが行われる可能性があると言うことのようだ。安心して銀行口座が持てない状況というのでは社会が成り立たないだろう。

 案の定ドコモ以外でも同じような引き落とし事件が起きている。自己防衛としては銀行口座の記帳を頻繁に行う以外にない。おかしな引き落としがあれば、すぐ銀行に通報し、調べて貰う。もし日本中でこういうことになれば、銀行のシステムは大丈夫なのだろうか。

 口座開設に免許証のコピーを要求されるところがある。これは本人確認という意味では意味あることだろうが、免許証のコピーをメールで送ると言うことは安全と言えるのだろうか。免許証コピーが流出して不正に使われると言うことはないのだろうか。

 ネット社会も良いが、安全性の構築が出来なければ、安全保障にも関わることになるだろう。原発事故、コロナ蔓延。そしてネット崩壊になら無ければ良いのだが。アメリカが問題にしている中国にアメリカの社会情報が筒抜けになるというのはそういうことだろう。

 インターネットが社会インフラの最も重要なものになりつつある。中国は国内の情報は自由にはせず、国家管理である。水や電気が生活インフラであるように、これからはネット情報の管理も生活インフラに入るのだろう。助婦方が生活インフラになる社会で、国がどこまで管理すべきなのか。考える必要がある。

 菅総理大臣が地方銀行が多すぎるとしている。こういうことも関係がしてきそうな気がする。現在石垣には5つ銀行がある。沖縄銀行。琉球銀行。海邦銀行。ゆうちょ銀行。とJA八重山。多いいのだろうか。

 多いいという理由は、銀行の融資先の減少である。お金を貸せないのだから、当然利益も減少している。どこか弱いところが倒産すると言うことになるというのが、菅総理大臣の読みではないだろうか。経済の停滞が銀行が多すぎるという結果になっている。

 確かに倒産が表面化する前に統合をして、銀行の強化を行うと言うこともあるのかもしれない。沖縄経済の急速な落ち込みを考えると、観光産業が復活しない限り、銀行も危うい可能性はないとは言えないだろう。幸い沖縄は人口が増加している。

 人口が増加する地域では銀行の倒産はないとみて良いのではないか。沖縄も人口が減少に入れば、本当に危ないことになる。
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菅総理大臣の政治思想の根元は自助である。

2020-09-16 04:12:31 | Peace Cafe


 菅総理大臣が「自助・共助・公助」と話した。「自助・共助・公助」は自治会の避難訓練の挨拶でよく出る言葉だ。小田原でも聞いたし、石垣でも聞いた。この言葉を総理大臣になろうという人が話した。普通の人と考えていいのだろう。何か引っかかるところがある。少なくとも安倍前総理大臣はこう言うことは言わない。

 先ずは自分の安全は自分で確保しなければならない。次にご近所で助け合う共助である。そして最後に公の助けが入る。わざわざ言いたくなるのはこの順番を言いたいのである。簡単に言えば、災害時にはまず自分の身を守れ、ご近所は助けてくれるかもしれないが、公はまず無理と考えておけということと受け取る。これを総理大臣が言うところに意味がある。

 自治会長のような総理大臣である。身近であるが、どこ威厳は不足しているがその点が良いと思う。たたき上げという感じもしない、田中角栄のような迫力があるわけではない。普通の人がどこまで日本の総理大臣をやれるかであり、とても大切なことではないだろうか。普通の人であったことを忘れないでいてくれると良い。

 アベの忖度政治はたまらないものがあった。それを継承すると言うことで総理大臣になれたとしても、もう成ったのだから忘れて貰いたい。アベの作り上げた、利権態勢やもたれ合いはなるたけ尊重しますので、と言うのが、菅総理大臣に成る前の言い方であろう。先ずはそう言ったほうが総理大臣になりやすいのだから当然である。

 成ってしまえば、菅流で当然やるべきだし、やれるはずだ。短期政権と言われているが、化ける可能性はある。官僚や政治家一族出身ではない総理大臣だから、期待できるものはある。まして東北の農家出身である。農家の長男坊が家を捨て立身出世を望んで東京に出てきた。その感覚には期待感がある。憲法改定も総裁就任で口にした。自民党の党是であるから、発言せざるえないのだろう。こういう所がそつが無い。

 一日も早く、コロナを終息させて、東京オリンピックの開催である。オリンピック東京開催は反対であったが、今となればなんとしても開催だけは成し遂げなければ、日本というアイデンティティーが危うくなる。完全に自信を失うことになる。最低限のことも成し遂げられないようでは、がっかりである。

 すでに、日本はいろいろがっかりするようなことが続いている。政府は口先でごまかしてきたが、オリンピック中止ではダメ押しになるだろう。この下り坂日本の中で何とか踏みとどまることが必要だ。菅総理大臣には是非とも、この難しい日本の状況のストップ役になって貰いたい。

 菅官房長官が「自助・共助・公助」を言ったときの意味は私には自分のことは自分でやれというように思えた。確かに政府の赤字の膨れ方を見れば、消費税増税を言わざるえない状態である。菅総理大臣は正直な人だ。公助の後退を思っているのではないか。

 戦後日本社会は北欧型の社会福祉の手厚い国を目指した。もう目標は遠のいたと言うことだろう。無理だったのだ。自分のことは自分で考えざるえない国に後退しようとしている。菅氏自身がそう生きてきたはずの人だ。安倍お坊ちゃんとは違う。教育ですら、所得格差が及び始めている日本である。

 一人が頑張ると言うことも社会に繋がっている。その一人が健全に頑張れる社会を目指してもらいたい。一部の利権者だけが、黙っていても有利になるような不平等社会にアベ政権はした。アベ時代だった。桜を見る会に行ける人とその他の人の色分け社会。菅氏は黙っていたならば、サクラを見に行けない人だ。

 すべては人口が減少し、GNPが下がって行く下り坂の国の現状を認識しているだろうか。後退局面という物は難しいものだ。後退の原因には国の運命と政府のだらしなさがある。東日本大震災が日本を衰退の道へと早めたのだろう。敗戦後の日本社会は戦争で負けたならば経済で見返してやるという、日本人の意地のような頑張りが発揮された。

 それは江戸時代以来の百姓日本人の性根として持っていた物である。勤勉と、社会倫理が確立していた。お天道様は見ていて下さると言う正義を信じる心である。江戸時代の日本人のまともさが、日本の近代化には大いに役立ったのだ。

 それを明治帝国政府は武士道が原因と考え違いをした。それが明治帝国への道であり、太平洋戦争での敗北になった。しかし、戦後日本の幸いであったことは、健全な農村社会が地方にまだ残っていたのだ。ここから優良な労働者が戦後社会を高度成長へと導き、支えることになった。

 出稼ぎ労働者として都会へでる者。菅総理大臣がそのひとりである農家の子息が都会へ大量に供給されることになる。そこで血の出るような努力が行われ、戦後日本の復活が可能になったのだ。それは日本の誇りだと思っている。しかし、農村は崩壊した。一次産業が外国人労働者によって支えられている現状である。

 菅氏が農家の出と言うことは希望はあるが、大半の日本人がそうであるように農家ではだめなので、都会へ出た人だ。それでも田舎のことは忘れてはいないはずだ。忘れられるわけがない。引きずっているに違いない。しかも、70年代に夜学に通いながら、自民党の政治家を目指した人だ。ちょっと同時代人としては、困った付き合いにくい人だったはずだ。

 確かにそういうひとはいた。たぶん現実主義者なのだ。あの学生闘争の中で、自民党しかこの時代を何とか出来ないと考えた人だ。若い内から社会の現実がよく見えていたとも言えるし、理想というものを信じないつまらないところのある人なのだとも思う。
 
 アベ政権は過去最悪の政権だった。これよりひどい人が現われると言うことはさすがにないだろう。菅総理大臣の評判が余り良くないとしてもアベほどではないだろう。ただし、苦労人だから期待できるというわけでもない。苦労人が成り上がり、下積みをいじめるという事例はある。

 何故、アベに取り入ることが出来て、アベの後継の座を的確につかんだかである。アベはいわゆる優秀な人は嫌いだったのではないだろうか。東大出の官僚出身者は特に苦手だったのではないだろうか。それで、引け目の感じない菅官房長官が良く忖度してくれて、有り難かったのではないだろうか。この辺の機微に鋭い。

 菅総理大臣は少なくとも安倍氏よりはましだ。だから、官僚や他の政治家がそれほどは忖度しないはずだ。菅氏に能力があれば、発揮しやすい政治状況にあるのかもしれない。是非とも周りを見てばかりいないで、やりたいようにやって貰いたいものだ。

 忘れて成らないことは菅総理大臣の根っこは自助である。受益者負担と言うことが徹底されるだろう。アベ政権んぼ既得権益の死守でないだけまだましなのかもしれないが、一見合理的に見える竹中平蔵流の自助努力が求められる社会が想像される。格差は広がる可能性が高い。

 自助というのは全くのインチキ政治思想である。公というものの義務を隠してしまうための考え方である。例えば大学教育は受益者負担で行くべき。ということになり、教育の経済格差が生まれた。アルバイトをしながら大学を出た菅氏には、現代はアルバイトでは大学に行けないと言うことを想像して貰いたい。

 まあ始まる前からケチを付けても仕方がない。すこし期待したいと思う。
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