地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

タマネギとジャガイモと小麦

2023-05-31 04:44:22 | 楽観農園


 昨日写真が間に合わなかったので、まずは田植えが終わり、一日経過して、水が落ち付いた、田んぼの写真を載せる。公民館の庭から見たところ。右奥の欠けているところが、1番田んぼでその手前の田んぼが3番田んぼで入水口。


 観音堂のバス停から見下ろしているところ。手前が10番田んぼ。ここが里地里山の田んぼ。どこも一本植えになっている。品種はサトジマン。この見事な美しい線引きを見てもらいたい。


 大きな木は栗。この栗も管理している。田んぼに降りる道。



 欠ノ上田んぼの田植えの終わった全体の様子。5月29日。最後の写真の手前の右側の田んぼが子供田んぼ。中央に柿の木が10数本ある。へた虫にやられてしまう事が多い。

 今年の農の会のタマネギ会とジャガイモ会は過去最高の出来であった。3月4月が暖かったからではないかと吉宮さんが言われていた。こんなに慣行農法のタマネギのように大きなタマネギがザクザクできたことは、初めての経験である。ジャガイモも立派な綺麗なジャガイモが出来ていた。

 タマネギの管理も、ジャガイモについていえば全く私がやったことはない。すべて渡部さんがやってくれたことだ。まったく申し訳のない有難いことだ。私としては何とか格好だけ着いていっているだけなのだが、それで会に参加している気分だけでも味あわせてもらっている。

 タマネギはネオアースの苗も準備してくれたものを植えた。植えてすぐに穴あきビニールでトンネルをした。これが舟原でタマネギを作るコツである。箱根おろしが厳しい。時には大きな木が倒されるほどの風が吹き降ろしてくる。この乾いた風でタマネギ苗は活着できずに弱り切る。だから黒マルチを地面に敷くより、穴あきビニールでトンネルのほうがいい。

 今年のタマネギが良かったのは、タマネギの苗を植えた後雨が降った。これでタマネギの活着が良かった気がする。例年植えた後雨がなく乾く。これで枯れてしまうものもかなりある。今年は400の内枯れたのは数本だった。こんなことは初めてである。

 穴あきビニールトンネルで苗を守ってくれる。雨は入らないのだが、ほどよく湿度を維持してくれて、タマネギが水不足になることもない。トンネルを3月に外して、草を徹底して取った。玉ねぎはタマネギ以外の植物が傍にあるだけで、生育が阻害される。

 黒マルチを地面に敷いて、草を抑えてタマネギ栽培は普通行われている。しかしこの黒マルチは使い捨てである。どうも気分が悪い。又地面を直接的に覆ってしまう事は、土の状態をおかしくしているような気がする。又穴のタマネギの脇から出てくる草が抜きにくいのも嫌だ。下手に抜くとタマネギ苗迄抜けてしまう。

 いつも思うのだが、叢生栽培の人がタマネギを作れたら、その技術を認めたいと思う。もしどこかにおられたら連絡を貰えたらと思う。全国にはさまざまな人がいるから、やり抜いている方もおられるかもしれない。その技術は必ず人のためになる。それほど難しい。

 玉ねぎはベットを作りそこに密植をする。ベットの高さは20センチくらい。幅は80㎝そこに横6本ぐらいに苗を植える。長さは8mくらいで足りる。苗は淺植えが良いと書いてある栽培書もあるが、普通にしっかり植えた方が一般的には良い。

 後はひたすら草取りである。他の草があれば生育が悪くなる。玉ねぎの根は他の草を嫌うが、隣のタマネギの根はむしろ好む。だから密植で問題ない。10㎝角植で行けば、立派な生育をすれば収穫時には一面タマネギという感じになる。

 くっ付いたタマネギもあるが、問題がない。今回、400のネオアース苗を植えた。そのうちまず100個の大きめのものを収穫した。残り265個あれば、一日1個のタマネギという目標が達成されたことになる。帰る前に全部収穫したいと思っているが、出来るかどうかは雨の降り方による。

 ジャガイモはほぼ私がやったのではないで、偉そうなことは言えないのだが、ともかくすごい量である。100キロは収穫できている。という事は一日274gのジャガイモが自給できたという事になる。これだけあれば、ジャガイモ好きには大満足である。

 小麦は出来がいい。たぶん反収200キロは超えたのではないか。ただ残念なことには、まだ収穫には早い。小田原に居る内にできればと思っていたのだが、協力できないで申し訳ないことだ。家の脇の小麦はかなり出来が良いのだが、倒れている。

 収穫作業が大変だろう。梅雨入りしたから雨が止んだ日に一気にやらなければならない。協力しなければと思うが、石垣に帰ってしまう。石垣も今台風という事で、心配は尽きない。オロオロするばかりである。

ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ 

 宮沢賢治にワタシハナリタイ、のだがとてもおよばない。及ばないのはよくわかるが、いくらかでも真似たい。オロオロ歩くぐらいならできる。デクノボウと呼ばれるのは難しい。宮沢賢治の領域は宗教家の姿なのだろう。この後お経のように様々な菩薩が書かれている。祈るほかないという事なのだろう。

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小田原欠ノ上田んぼの田植え

2023-05-30 04:14:19 | あしがら農の会


 一番奥でボーとしているのが私。みんなは真剣に田植えをしている。



  欠ノ上田んぼの全景である。写真の所が全体である。この写真の右側の方はまだ田んぼにしていなかった状態である。ここにあったみかん畑を片付けて田んぼにした。久野川沿いの3反ほどである。担当名は以前のもので今は変わっている。

 小田原に来てすぐに日曜日28日田植えをさせてもらった。何も田んぼ準備には参加していないので、申し訳ない田植えだった。しかし楽しい田植えだった。石垣島の台風対策などがあったので、田植えにギリギリ間に合っただけでも感謝しなければならない。

 「ゆく河のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず」と鴨長明 は無常を書いている。田んぼにくる水は、元の水にあらず。元の水ではないが、同じ水である。石垣島の田んぼの水も、小田原の田んぼの水も水に変わりはない。水の恩恵を思うと、むしろ永遠が染みてくる。 

 今年の欠ノ上田んぼの田植えは60人越えの参加者だった。しかも、参加者がとても真剣に田植えに取り組んでいて、実に気持ちの良い田植えが出来た。かきのうえのメンバーが30人ぐらいだから、半分は体験参加なのだ。その人たちが真剣に作業をしていたことに、何か新しい方向を感じた。

 その体験参加者の多くの方が、有機農業塾の方々である。農の会で続けている活動である。有機農業の技術を学ぶ場を作っている。根守さんが塾長で、渡部さんが活動を支えている。この活動ももう5年以上になるだろう。私がまだ小田原に居たころ始めた。

 明治大学の黒川農場で行われている、市民講座である。そこのやり方を学んで、小田原で取り組んだ。根守さんという適任の方が熱心に活動を続けてきた。自画自賛になるが、他に例を見ないすばらしい活動になっていると思う。ここから新しい何かが必ず生まれるはずだ。

 有機農業を市民が取り組むというのは、自給活動であるのは確かなのだが、志の問題である。志がなければ有機農業をやってみようなどとは思わない。今の地球環境はこのまま進めば崩壊である。誰がどうやって止められるのかもわからない。やれることをやってみるほかない。それが、有機農業である。

 人間一人は有機農業で100坪の土地で毎日1時間働けば、食糧自給が出来る。これが私の身をもって実践してみた結果である。但し、この食糧自給は助け合って、協働で行わなければ実現できない。その共同の仕組みが、あしがら農の会である。石垣島の「のぼたん農園」も同じ試みである。

 1990年に山北で一人で田んぼを始めた。そのころに山北でMOAの人たちと有機農業研究会の活動を始めた。1996年に農の会の原型になる田んぼを谷峨の奥の不老山の山麓で始めた。やっとここまで来たという気がする。しかし、まだまだである。日本全体の流れを見ると、こうした自給活動は埋もれていて、火を消さないための努力が必死に続けられている。

 それは宮沢賢治のイーハトブなのだと思う。向かうべき理想郷であって、現実社会はさらなる拝金主義が覆い始めている。拝金主義的な考え方の人が、こうした自給活動にも加わる。その軋轢が生じる。宮沢賢治は苦しむ事になる。これが現実である。しかし、30年続いたのだ。

 農の会は希望だ。時代の主流にはならないものだろうが、失われてはならないものだと思う。志を心に秘めた若い人が現れている。その若い人はこのひどい時代の中で、私の若い頃よりもつらい挑戦をしているはずだ。何の力にもなれない訳だが、希望の火だけは消すわけにはいかない。

 私が小田原を離れて、もうすぐ5年になる。この間小田原の活動は成長し整ったもののになった。田んぼを見ると良く分かる。これほど整えられ田んぼは初めてである。崩れやすい棚田を良くここまで改善できたと思う。冬の間も畔を直し続けてきた。

 メンバー以外の田植え参加者にはここまで整備する作業のことは見えないだろう。しかし、みんなの力が合わさり、田んぼが出来ている。それは江戸時代も同じだったはずだ。もう私のやれることもないのだが、出来る限り参加させてもらいたいと思う。

 苗がとても良かった。苗箱に入れた燻炭の多い苗土が素晴らしい。5葉期4分げつの苗で田植えしたのは初めてである。苗を触ると固い。燻炭が影響しているのだと思う。こんなにしっかりした苗を作れる技術力は、他にはないのではないだろうか。

 有機農業は慣行農法よりも優れたものだという事が証明されている。有機農業の苗の素晴らしさは、手間暇を惜しまない作業で実践されている。この素晴らしい苗を作るために時間は、拝金主義には捻出できないものになる。最高の苗を作る、惜しまない努力がすごい。

 今年の田植えで画期的だったのは子供田んぼの田植えである。子供だけで植えた田んぼがあるのだ。20人ぐらいの小学生ぐらいの子供たちが、横一列になって、田植えをした。ちょっと涙が出るような眺めだった。現代の奇跡を見るような気持になった。

 昨日も水回りの後上から眺めて、子供田んぼがきちっと植えられている事が分かった。誰かが捕植をしてくれたのだろうか。この子供たちが生きる社会は世知辛いはずだ。どこかにイーハトブがなければならないと改めて思った。

 今年の新しい試みは水回りを交代で行う事になった。昨年の担当者が負担が大きすぎて、続けられないという事になった。今年は希望者が交代で水回りを行う。私もまず1回目の1週間を行う。来た時は必ず行えば、4週ぐらいは引き受けられるかもしれない。

 田んぼの水回りは20週だとすれば、5人が協力すれば、何とかなる。あと4人がいればと思うが今4人はいる。後1人いたら、何とかなる。こうした大勢でやる水管理がどうなるかは未知数だが、何とかなるはずだ。一日だけでもやってくれる人がいて、みんなでやることが出来ればより良い形になるかもしれない。

 農の会の活動に、世間の経済を持ち込まないことだ。「やれる人がやり、必要な人が貰う。」これは欠ノ上田んぼの最初の代表だった岩越さんの言葉だ。この気持ちがなければ、活動の本質に迫れない。たぶん若い人にはその気持ちがあったとしてもできない。本当の厳しい生活を迫られている。

 例年そうなのだが、田植えが終わり翌朝にはもうイネは根付いていた。これは凄いことだ。この停滞のない成長イネこそ、畝取りのイネ作りである。今年は冬の緑肥も良く育っていた。苗も良かった。田んぼの整備も立派にできていた。

 今日梅雨入りしそうである。天候次第ではあるが、立派な秋の実りが今から楽しみである。農の会の実りが、田んぼの実りに反映するように、余り手伝いも出来ないのだが、身体が動く間は何とか協力してゆきたいものだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新聞・テレビとジャニー喜多川事件

2023-05-29 04:24:00 | Peace Cafe


 ジャニー喜多川氏が起した嫌な事件であるが、日本社会の膿んだ内実が見えてくる。ジャニーズ事務所は今もテレビや映画業界では、大きな影響力のある組織だ。世界にまれに見るタレント養成会社である。今では韓国のアイドル産業が世界に進出しているが、これもジャニーズ事務所の後追いのようにその形態を真似たものだろう。

 何故、見過ごしてきたのか。と朝日新聞は描いている。その言い方にすでに朝日新聞のずるさが出ている。何故見ないように、取り上げないようにしてきたのかである。報道は調査報道の考え方や批判精神を随分前から失っている。忖度報道ばかりが目立つ。しかも、その自覚すら無い。

 この事件は唯一、文藝春秋が追求してきた。ただ事実をほとんど報道が知らなかったはずがない。そして、裁判で文春は負けている。最高裁判所は事実を一定範囲で認めながらも、文春のやり方を違法としているのだろう。今その時の最高裁の判事達は何を思うのだろうか。腐った人達だ。

 日本の情けない、ダメなところだ。強い者に弱い。忖度する。権力者を作る。弱い個人は正しくとも、無視される。そうした日本社会の実態をこの事件は良く表している。それは菅元総理大臣がやった、学術会議人事関与事件に似た形で表れている。忖度しない奴はいたい目に遭うのだという、見せしめ事件である。

 その後も曖昧なまま、実は学術会議に政府の権威を認めさせようという、事だったことが分かる。言いなりにさせようというのだ。学者風情が政府にもの申すなどとんでもない。こういう感覚が政治家にある。政治家自体が忖度をしながら総理大臣になる。菅氏の銅像が出来たそうだ。これも忖度である。

 あのアベ氏と統一教会のもたれ合いさえ、見ないようにしてきたのだ。韓国の反日エセ宗教組織が、日本人を騙して献金させていたにもかかわらず、それを見過ごして、立派なアベ総理大臣として、国葬までしたのだ。その国葬に宗教組織である、公明党山口代表が賛辞を送り、参列しているのだ。なんたることだ。

 報道がしっかりしていれば、あの暗殺事件はなかったはずだ。報道やテレビや政治の世界の余りの偏向に、暗殺した青年は追い詰められこれ以外にないと思い人殺をしてしまった。それはやっては行けないことであるが、その結果始めて統一教会の活動を、政治も報道表面化させた。

 喜多川氏の性暴力に対して、目をつぶっていた一番はテレビ局である。NHKも同じである。こう言うときに視聴料は返還してくれるのだろうか。テレビ局は長年喜多川氏から恩恵を受けていたから、批判する側に回れなかった。こういう構図は日本社会のどこにでもある。忖度区することで、有利を図ってもらう歪んだ心情だ。

 おかしいとは思うが、それを指摘しなければ、告発しなければ、恩恵を受けられる。美術団体でもおなじ構図がある。団体を代表する人の作品は良くない絵でも、つまらない絵だとは誰も言えない。水彩人は小さな美術団体ではあるが、そういうことは無い。全員が誰の絵が水彩人の方向を示しているか、記名で投票をする。

 忖度をするような人は一人も居ない。そもそも忖度をしなければならないような権力構図がない。絵を前にして誰もが同じである。どこの絵画団体も権力構造を造る。例えば私が尊敬する中川一政氏は春陽会の権威であった。中川氏が退会される最後の年に私は春陽会に出品した。中川氏が今年で辞めると挨拶された。私もその一回で辞めた。

 会場には中川氏が見えた。すべての会員が特別な存在として中川氏を扱っているのが垣間見えた。これは違うと私は思った。中川氏はそうしたことを望まない人だと思う。日本人の村社会はいつの間にか、権威を作り出してしまう。その結果、春陽会には次の中川氏ほどの画家は現われない。

 私は水彩連盟の委員だったのだが、退会勧告を受けた。水彩連盟では誰でも対等であるという考えを受け入れなかったのだ。見せしめのように退会勧告がなされたのだが、そんな絵の組織では、対等に絵のことを話せないのだから、絵の研究など出来るわけが無い。だから辞めた。

 有機農業研究会でも、有機基準を作るときにその議論のない作り方で、私は辞めた。とんでもない養鶏の有機基準を作ったのだ。おかしいと主張しても取り合ってくれなかった。その結果、私が主張したとおり有機基準の養鶏場は今でも広がらない。

 私は有機基準に従う、養鶏をやっていた。その私の意見を無視する組織だったのだ。問題点を一番経験していると思う。日本ではJAS有機基準が出来たが、有機農業の広がりは生まれなかった。それこそ出来て以来の23年間の停滞である。完全に世界の趨勢から遅れた。その組織的問題が有機農研にはあった。

 組織が出来ると忖度が生まれる。これが日本人の悪弊である。組織に権威を作らない。誰もが同じである。自由な話し合いが出来るものでなければ成らない。どれほど天才的な人が作った組織であっても、おかしいことはおかしいと言える組織で無ければならない。

 ジャニーズ事務所では、デビューしたいからおかしいことをおかしいと言えなかったのだ。腐った嫌なことだとは誰もが思いながらも、何十年と続いた。この在り方の異様さに目を背けてはならない。ここに居た大人達は全員喜多川氏と同列の罪がある。私を含めて日本社会は我が身のことと考えるべきだ。

 自民党の中で自由に発言が出来るかどうか。官僚であれば、大臣に対して意見が言えるかどうか。大学であれば、病院であれば、会社であれば、自治会であれば、どこにも正しいことを正しいと言えない自分が居るだろう。意見の言える社会に変えなければ、日本はダメになる。ブログを書き続けているのは、忖度しないという自戒の意味もある。

  日本の報道も、裁判所も、テレビ局も、NHKもまったく期待できないと言うことだ。まずこの状況を認識したら。次にこのひどい状況を変えるためには、自分が損な扱いを受けるとしても、発言するべきは堂々と発言するということ以外にない。そして、苦しい立場で発言している人が居たら、その人を支持することだ。

 
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第163 水彩画 日曜展示

2023-05-28 04:48:45 | 水彩画
第163 水彩画 日曜展示
3号前後です。





239「溜め池」
2023.5




240「





241「角館桜」
2023.5






242「座喜味城裏」
2023.5








243「のぼたん農園」
2023.5






244「草地」
2023.5








245「篠窪」
2023.5







246「芦ノ湖」
2023.5






247「桃の里」
2023.5



 絵は平行して描いている。一枚の繪が完成するまでその絵だけを描いているわけでは無い。その時その画面で進められることはそう多くはない。一日4,5枚の絵に手を付ける。乾くのを待っている間に次の絵に取り掛かることもある。

 水彩画は重ねて描いて行くのだが、下の色の乾き具合が微妙だ。何年も経っている植えに描く場合と、まだ生乾きの時とではまったく反応が違う。一度紙のサイジングが効かなくなってから、何度も重ねて色を出す表現もある。その独特の調子は深いことがある。

 あらゆる方法を使って描く。決まった方法はない。その時その時に思いついた方法を使う。紙によっても描き方は変わる。ファブリアーノでも、様々だ。和紙ならなおさら変わる。画題もまったく色々である。画題は余り関係が無いのかも知れない。どの絵も自分に近づけば同じようなものである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台風2号と稲刈りと小田原行き

2023-05-27 04:04:29 | 楽観農園

0番田んぼのゆがふもち


 1番田んぼ「とよめき」


 2番田んぼ手前「とよめき」奥「ミルキーサマー」


 2番田んぼ畦の畑の大豆「小糸在来種」


 3番田んぼ「ミルキーサマー」


 4番田んぼ「ミルキーサマー」


 5番田んぼ代掻きをした。


 6番田んぼ「ミルキーサマー」


 7番田んぼ「ひこばえ農法」とよめき

 出てきたひこばえ


 8番田んぼのひこばえ、とよめき


  写真は0番から8番田んぼまで、順番に26日の夕方に、のぼたん農園の田んぼの様子を撮影したものだ。最後がひこばえの様子だ。7番はある程度水があり、8番は水が余り回らない状態。もう少し入れたいのだが、あれこれ水の都合で上手く入らない。

 台風2号が近づいている。石垣の7番8番の田んぼの稲刈りと脱穀が終わった。台風が来る前になんとしても終わらせる必要があった。大きい台風らしいし、方角も石垣島に向かってくるという予報もある。もし来れば収穫間近な田んぼはダメになると考えざる得ない。残念なことだが、これも石垣島の厳しい自然条件だ。

 他のまだ稲刈りをしていない田んぼも心配ではあるのだが、差し迫っているのは7番8番田んぼだった。何とか午前中で稲刈りをして、干してあった。そして昨日の水分量が18%まで下がった。何とか脱穀を金曜日に終わらせることが出来た。

 その後コンバイン袋を機械小屋の中に吊して置いた。こうすればネズミにやられ畏れは少なくなる。石垣島のネズミの害は半端ではない。何でもかんでもかじってしまう。空中に吊しておけばいくらか安心である。金曜土曜日と袋は外に干して、ひっくり返した。

 ノボタンは23日に去勢医術をした。この術後の様子もしばらく見なければならなかった。今のところ4日間は抗生物質注射を2回やった。無事経過している。ギリギリ27日の夜に小田原に向かうことが出来ることになった。夜東京に止まる。翌朝早く小田原に向かう。

 28日には小田原の田植えだから、何とか駆けつけることが出来そうだ。もしかしたら土曜日で終わっている可能性はあるが。いくらか残っているだろう。あっちもこっちも気がかりな所に台風である。それでもやれる範囲のことはやったので仕方がない。

 ハウスの鉄パイプを200本壊れたハウスの片付けをかねてもらってきた。かなり大変だったのだが、やらなければ台風の風よけ対策のパイプがないから、頑張ってハウスを解体した。だんだん解体の要領が分かってきて、何とか必要分の解体は出来た。

 パイプが沢山あったから、各田んぼにパイプを常設することにした。田植え直後から風よけのネットを張った田んぼが生育がとても良かったのだ。特に苗には風が大きく影響する。最初から防風ネットを張る考えは効果があった。どうせなら、鳥よけもかねて、いつもネットを張ることにした。

 風よけネットはどの程度の目が良いかが難しい。2mmでは細かすぎて、10mmでは荒すぎる。4mmぐらいが良いかと思うが、これも台風が来てみなければ分からない。あれこれ試行錯誤しなければわからないことばかりだが、兎も角できる限りの事はやりたい。

 台風が29日には来るというので、すべてを急いだ。そして飛予約を予約をキャンセルをして、27日の夜に取り直した。何とか新規に予約できたので、これで台風に関しては飛行機の確保はできた。これから夏はいつも台風は気にしなければダメなようだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アトリエカーで絵を描く

2023-05-26 04:03:53 | 水彩画

 ひこばえが出てきた稲。果たしてこのひこばえが、幼保を形成してしまうものなのか。あるいはしっかりした新しい稲になるのか。それはまだ分からない。無効分ゲツのような小さいまま穂が突いてしまうこともある。この後観察が重要になる。普通よりも1週間早く刈り取れば、幼保が形成されないという山岡理論は果たして正しいものだろうか。

 アトリエカーで毎日絵を描いている。ここ1年半はのぼたん農園のどこかに車を止めて絵を描いている。のぼたん農園を見ながら描いていることもあるが、ほとんどの場合、どこか別の風景や静物を描いている。それがあまり良い事とは思っては居ない。

 いまの絵の描き方が良い描き方だからやっていると言うより、分からないままにやりたいことを続けているだけなのだ。絵を描いていて何が良いか分からない。自分なりに頭で考えるのも良いのだろうが、絵に関してはどんなことでもその時の気持ちに任せている。だいたいはアトリエカーの中に座ってから始まる。

 人が良いというようなことは、絵を描くうえではまるで役に立つことはあまりない。例え中川一政の本に書いてあるからと言って、参考になるようなことはまったくない。おなじだと思うことはあるし、違うなと思うこともある。おなじだから良かったとも思わない。他人の絵の描き方が、役に立つことなどあり得ないと思っている。そう中川一政も描いている。

 絵を描くと言うことは自分というものを、やり尽くしたいということに繋がっている。自分を知り、自分というもののいのちを燃やし尽くしたい。生まれたからにはそうでなければ残念なことになると思っている。絵を描くことが好きだから、絵を描くと言うことを、巡り巡って修行だと考えてやっている。だから人の考えてくれる、絵の描き方では何も役立たない。

 だから裏返せば、私の絵の描き方が他の人に役立つはずもない。ただ絵を書くと言うことが、表現藝術ではなくなり、人間探求の方法になったのではないかということだ。このことは、絵を描くすべての人が自覚した方が良いと思う。余計なお世話かも知れないが、今更訳の分からない絵の描き方をしている人がいることにあきれる。

 もちろん商品絵画は、藝術としてではなく、これからも存在して行くことだろう。それは私には別ジャンルの話だ。絵画を藝術として考える、と言う意味は、絵画として表現されたものが、社会や人間に影響を与える価値あるものという意味だ。

 そういう絵画の藝術としての役割がすでに終わったのだと思っている。私の考える狭い意味での藝術としての絵画作品という意味で考えると、そうした絵画はそもそも、極めて少ないものだったと思う。たまたまそういういのちを揺さぶる絵画と出会えることは、幸運なことなのだ。

 私の絵がそうした芸術作品にはおよびもつかないから、こんな考えを持ったわけではない。様々な表現藝術によって、現代社会も人間も影響を受けている。特に20世紀が映像の世紀と言われるように、藝術としての映像が人間や社会に大きな影響を与えるように変わったのだ。

 音楽や映像が、新しい機器が作られることによって、人間に大きく影響を与えてる。しかし、絵画の表現法は実に内職仕事のようなもので、この様々な表現が溢れる社会の中では、影響力という意味ではほとんど無に等しい。むしろ無に等しいからこそ、個人の中に戻ったのではないか。

 人間が外部世界から大きな刺激を受け続けている。社会に流されて生きざる得ない。そこで、人間が生きるためには、自らの行為の中に自分の確立を探る時代に移行しつつある。何をしたいのか。農作業をしたいとすれば、農作業をしたい自分の、その奥にある意味を探ることになる。

 結局世界がどうであるにしろ、生きると言うことは自分一人の問題である。この自分が生きるという、誰にとっても最も重要な問題に、藝術を通して直面する必要があるということだ。絵描きというものは本来そういう人のことであり、商品絵画や装飾画を描く人は、藝術とは縁のない人なのだ。

 農家に生まれて、いつの間にか農家になり、暮らしに負われて農業を続ける人は多いだろう。それでは農業が指しておもしろくはないに違いない。自分が農作業をやりたいとすれば、そういう農業ではない。芽が出る瞬間を見たいから種を蒔く。

 絵を描きたいと言うことは、絵を描くと言うことで自分に直面すると言うことで無ければならない。他人が良しとする絵ではなく、自分自身が良しとする絵に向かわなければならない。それはどんな絵なのかは、自分の中を探る以外にない。こんな絵を描きたいというものが、その人のある面を表しているはずだ。

 しかし、ここでいうこんな絵は他人が描いた絵のことだ。まだ自分が描いていない、自分の描く絵はまたその絵とは別の絵と言うことになる。自分の中の眼がこれならば、自分の絵だと言えるような絵のことだ。その絵に向かって日々努力を続ける。

 その絵は、生きている以上限りなく成長して行くはずだ。ここまで描ければその次が見えてくる。さらにその次を求めて、描き続けることになるのだろう。生きている間は成長を続けるということだろう。日々の絶筆。その覚悟が私絵画の道だ。

 どのくらい日々を真剣に生きる事ができるか。もし本当に生きる事ができているのであれば、それは絵に現われてくる。現われてくるような絵の描き方をしなくてはならない。生きていることと直結している絵の書き方であればそうならなければ嘘だ。

 観ている世界を移している間はまだ、絵空事で、私絵画ではない。良い絵を描こうというのでは無い。自分に至る覚悟があれば、自ずと自分の何ものかが絵に現われてくるはずだ。ちゃちな自分ではあるが、ちゃちなまま現われればそれでいい。そのちゃちな自分を磨いて行くことになる。

 問題は昨日描いた絵より、今日描く絵がわずかでも進んでいることだ。何かを日々つかまなければならない。少なくともその覚悟で絵は描かなければならない。どこまで行けるのかは分からない。そんな先のことではなく、今日一日精一杯描けるかだけを考える。

 それは、絵だけのことではない。のぼたん農園も同じである。最善を尽くすと言うことしか無い。今台風2号が石垣島をめがけて進んでいる。どれだけ、風よけのネットを張ったとしても、稲が飛ばされてしまうときには飛ばされて終わるだろう。

 問題は、収穫だけではない。やれることをやりきる事ができるかが問題なのだ。考え得ることすべてをやる事しか無い。そのやりきることを重ねて行くの、自給農である。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間とは何なのか。

2023-05-25 04:47:13 | 暮らし


 チャットGPT についてG7でも「規制」が論議されたという。まったく人間が未来に対して自信を失っているように見える。自由と民主主義を共通の価値観として守る国々であるG7が、生成AIを民主主義を疎外するものになるかも知れないというのだ。

 AIの進歩を人間の自由と民主主義の確立に生かさなければならないだろう。扱い方次第なのだから、始めから拒絶するより、まず使ってみて良いところと悪いところを見極めることだろう。必ず役に立つ技術のはずだ。上手く使え場人類に可能性を広げることになる。

 AIは人間が使う道具である。人間が道具に使われるかも知れないという不安らしい。科学の発展を止めることは出来ない。核爆弾が作られた事は、人類にとって最悪のことだが、未だ爆弾の数は増え続けている。プーチンは核攻撃をちらつかせて隣国を脅している。

 人間がおかしいから核爆弾を廃絶できないのだ。人間がおかしくなれば、何でも狂気になりかねない。人間がおかしくならない社会を作らなければならないのが本筋だろう。ところが、人間が徐々におかしくなり始めていることも確かにそうだとおもう。

 今出てきたまだおもちゃ段階のチャットGPTを議論しても始まらない。この先あっという間に能力が向上して行くはずだ。いまの不十分のチャットGPTを拒絶しないで使ってみなければならない。出来た笑い話が笑えないからたいしたものではない。と言う程度のことを根拠にしているようでは、AIを語る資格さえない。

 問題は10年先には、普通の人の作る文章はかならずAIより劣るようになるということだ。膨大な情報収集し、それを分析し、そして統合する。その結果を文章化してくれるのだろう。それに頼って自分の頭を使わなくなるようなら、それまでの人なのだ。

 これからの時代発想力の無い人はいらなくなるということでもある。つかいたい、つかえない、の前に使うほかなくなるのだ。人間の発想力を鍛えるものになるはずだ。むしろ、天才以外は使うしかないことになる。島根県行政が10年先も禁止していられるはずがない。

 国会答弁に使いたいといった大臣がいたが正直なところは良いが、情けないことは情けない。国会答弁の意味ははき違えているが、自分や官僚の能力がAIより劣るてんだけはよく分かっている。正確に答えておくにはAIを利用した方が安直なのだ。

 安直に流れていって、人間を見失うのではないかというのが、問題点なのだろう。国会が安直で良いかといえば、現実の国会答弁が本当の議論の場になっていない、安直な場所のだから、それより正確性だけでも増せば、まだ増しという判断。揚げ足を取られない文章をお願いしますと、頼むのだろう。

 一体人間とは何なのか。人間がよりよく生きると言うことがどういうことか、ここが問題なのだ。人間が安寧に暮らすことが一番だとすれば、そのための判断を人間には任せておけないのでは無いかと言うことだ。人間はそんなに情けないものではないと信じるところだろう。

 プーチンはウクライナ侵攻を是としたのだろう。AIに聞けばおもちゃレベルとは言え、ダメだと判断したはずだ。プーチンは人間的だから、間違ったのだろう。怒りが判断を間違えさせたのだ。負けず嫌いのロバの王様を馬鹿にしたのが行けなかったのだ。

 人間が判断すべき事はある。自分の生き方である。これは正しいとか、間違っているとかで決めるようなことではない。自分の充実は自分にしか分からない。人が見れば馬鹿げたような生き方を、素晴らしいもので良しとするのが人間である。

 人間が生きるのだから、その点だけはAIでは測れない。人間はそう簡単なものではない。100人100色である。その人が好む色は千差万別である。それをAIに決めてもらおうとしても、無駄なことになる。重要なことは人間であるという個別性である。

 絵画というものを考えてみればわかる。絵画で重要なことは自分が描くという行為にある。これが私絵画の芸術性である。これはAIに置き換えることができない。自分の生きる行為として、絵を描くということが残るのだ。そのために、AIを大いに利用する絵画は出てくるだろう。

 中川一政の絵画は素晴らしいものだと私は考えている。ところが、プレパトの先生の聞いたら、凡人レベルということだろう。形もしっかり取れない。何が描いてあるかさえ分からない。それでいいのだ。素晴らしいと思える人が思えば良いだけのことだ。

 上手く写し取ることを絵画だと考えている人の絵画は入らなくなるということだ。上手く写し取る技術を見せようなどということならば、写真機とAIを組み合わせるのが一番だろう。絵画の素晴らしさの中に人間というものの意味がある。未だかつてないものを創造できるということだ。

 自分の内部世界は未だ踏み込んでない世界だ。この自分というものの可能性を、どこまでも掘り下げ、発展させるのが人間なのだと思う。人との比較では無く、自分というものを探求する。絵画でいえば、私絵画の時代が来るということになる。

 今の時代は、くだらない描写に依存した絵画が蔓延している。人間が劣化している結果である。社会が停滞しているからだ。新しい人間らしい価値を受け入れる余裕を失っているのだ。ゴッホやセザンヌが現われた事には人間の必然がある。

 人間内部をより深く掘り下げる哲学が生まれたからだ。日本の装飾美術も、梅原龍三郎や中川一政が現われて、人間を哲学する絵画に向かった。絵画が自分の人間の表現になったということだろう。まったく他と比較しない絵画である。その二人が文化勲章だった時代があるのだ。

 その時代に比べてみれば、いかに現代の絵画水準が低いかが分かる。新しい哲学を絵画の中に見れるような絵画は滅多にない。まったく陳腐化してしまっている。これは絵画も資本主義に飲み込まれ、上っ面の商品絵画だけが流通している結果である。

 この滑稽な時代を変えてくれるかも知れないのが、AIだとおもう。詰まりそんな人間の本質とかけ離れた絵画であれば、AIがいくらでも制作してくれるということが証明されて行く。人間がやるべき事が何なのかを気付かせてくれるだろう。
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2023年のぼたん農園の稲刈り始まる。

2023-05-24 05:07:19 | 楽観農園



 のぼたん農園では6番と7番田んぼの稲刈りが始まった。5月に稲刈りだから、小田原での田植えの前である。石垣に来てから、完全に季節感が違った。特にひこばえ農法を目指しているので、一年中田んぼのことが頭にある。今回の稲作は、ひこばえ農法の試験が目的なので、稲刈りをずらしながら行う。

 石垣島は一年中11月でも12月でも田植えが出来る。6番7番は12月4日に直播きした田んぼだ。石垣島の稲刈りは台風がくる前に終わらせると言うことなのだが、今年はなんと5月中に、大型台風が発生して、石垣島への接近が予測されている。

 これでは、11月初めに田植えをして、4月中に稲刈りをしなければ間に合わないことになる。今回は急遽早めに稲刈りをすることにした。ひこばえ農法では、通常よりも1週間早い稲刈りが良いというから、早く刈るのも良いかと、台風前にやることにした。

 西表と、石垣島の5月中の稲刈りは日本で一番早い稲刈りである。どこかにさらにはやいいねかりがあればおしえて欲しい。石垣ではいつも大浜英太郎さんが早い稲刈りということで、テレビに出ている。テレビで一番早いとは今年は言わなかった。

 この点、ひこばえ農法になると、一年中田んぼには稲がある事になるのだから、何時台風が来ても耐えられる田んぼにしなければだめだ。回りに防風ネットを張れるように、20㎜のパイプを立てて、グリンネットを張るのが良いかと考えている。風の力を削ぐくらいがいい。

 完全に風を防ぐのではなく、ある程度やられても何とか残る、というあたりを狙いたい。折り合いの付け方である。風速70メートル超えの台風で電柱は倒された。家も吹き飛ばされた。それでも、風に強い木々は大木になって残っている。枝が折れても再生して、耐えている。

 自給農業はしぶとく危険分散するのがいいのだろう。一年中稲刈りをするような稲作を目指している。壊滅する稲もあるかも知れないが、豊かな実りをもたらしてくれる稲もあるはずだ。風をいくらかでも和らげてくれる。防風ネットを張るつもりだ。

 先日解体するハウスをお持ちの方から、パイプを頂いた。1日かけて、200本近いのパイプを確保することが出来た。これで、1つの田んぼに20本使って、10の田んぼを囲うことが出来る。パイプは常設しておき、田んぼの一回りはネットを一年中張り続ける。

 ことし、田植え直後から、ネットを張った圷さんの4番田んぼがすごい出来になった。30本以上の分ゲツである。余り分ゲツをしないというミルキーサマーだから満作のできだと思う。ミルキーサマーは背が伸びすぎて倒れる傾向があるらしい。がっちりした株で倒れる感じはしない。

 圷さんの思いきった栽培法での挑戦で、石垣島の稲作の方向が見えてきた。60㎝角植えである。こんな疎植は見たこともない。疎植だから良くなったと言うこともあるが、30㎝角植えの部分もあるのだが、そこも良く出来ている。全部が30㎝角植えであれば、間違いなく畝取りの田んぼである。

 コロガシに何度も入っている。アカウキクサが田ずら全面を覆っている。コロガシでアカウキクサを繰返し漉き込んでいる。それが腐植になり、窒素肥料になっている。葉色がまったく落ちないが、倒れる感じは今のところない。台風の接近が心配だが、風よけネットが生きるかどうかである。

 2年目にはいったのぼたん農園で、有機農業の優秀性が証明されたと思う。まずは、雑草をかなり抑えている。一部草が出はじめたが、それほどではない。アカウキクサが田面を覆っているので、それほど草は出ない。もう少し深水に出来れば良いのだが、それだけの十分の水はない。

 病気や害虫もほとんど無い。昨日は県の農研センターから、カメムシの調査に見えた。3つの場所を調べたのだが、バッタは沢山居たが、カメムシはほとんど居なかった。有機農業でも良い環境で行えば、困るような虫の被害は無い

 畦をバンカープランツにしていることで、田んぼの中に虫が入らないのだと思う。畦草は刈りすぎてはだめだと考えている。畦にはイネ科ではない、植物があるのが良いと考えている。大豆を播くのが一番良いと考えて、今年は試しに大豆を作っている。

 6番田んぼは「とよめき」で直播きである。かなりよくできていたのだが、残念なことに、鴨が2羽居着いてしまい、大分食べられてしまった。すこしづつ、刈り始めてきた。刈り取ると翌日にはひこばえが出はじめる。通常の稲刈りよりも1週間早く刈り取ると、ひこばえに幼穂が形成されないという仮説が、どうなるかである。

 5月19日に最初に刈った。次が21日。そして、23日7番番をすべて刈り終わった。台風で雨が降る前に刈り取りを終わらせることができた。午前中だけの作業だったが、8人が集まった。かなりみんな成れてきたので、要領よく作業が終わった。

 7番は壊滅的に鴨に食べられてしまったので、ほとんど収穫は無い状態。この後のひこばえに期待するほかない。早めに刈り取りを行ったので、ひこばえに幼穂が形成されていないかも知れない。場合によってはもう一度刈払機でかることもあるかも知れない。

 6番と7番とを競べると、7番は新しい田んぼでやはり土がよくできていない。6番は2年目で大分土が良くなってきたと思われる。一年でこんなに土が良くなったのは、アカウキクサ緑肥の御陰に違いない。もうどの田んぼも外から入れる肥料はいらないだろう。

 それでも落ち葉は入れたいと思っている。落ち葉のミネラル補給が大事ではないかと考えている。余裕が出来たならば、山に落ち葉堆肥を取りに行きたいと考えている。石垣では落ち葉を入れても、一ヶ月ぐらいで形がなくなる。ともかく分解が早いのだ。

 光合成細菌を入れたいと考えている。200リットルのポリタンクを買ったので、これで光合成細菌を増やしていきたい。今まで作ってき10リットルのタンクを統合して、大きなもので作るつもりだ。これを時々田んぼに戻してやれば、水の腐敗が起きないはずだ。

 コロガシが足りない田んぼはどうしても土が腐敗臭がするようになる。良い土壌にするためには、コロガシをして、光合成細菌を定期的に入れて行く必要がある。水が少ないから、この点は努力をしなければならないだろう。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水牛の扱い方。

2023-05-23 04:14:33 | 水牛





 水牛池の3頭。右からワカバ、さくら、のぼたん。池の向こう岸に草が生えていないのは、池を掘ったときの泥を盛り上げたからだ。水牛池の下側はアダンの林になっている。ここの土は他とは違い、粘土混じりのものであった。昔ここら辺りは池だったと聞いている。

 暑いときは水牛は水浴びをしている。大声で牛の名前を呼びながら、放牧地には入る。朝のぼたん農園に着いたときと、夕方になって帰るときの2回である。昼間もご飯の後に、もう一度見に行くこともよくある。水牛は放牧地全体を歩いているようだが、やはり水牛池の周辺にいることが多い。

 水牛池は日が当たるのだが、水の中にいれば強い日光に当たっていても大丈夫だ。これから夏になると、風通りの良い木陰に寝転んでいる時間が長くなる。熱帯の生き物なのに、陽射しに弱い動物と言うことは、不思議である。陽射しが強すぎると言うことだから、気を付けておかなければならない。

 今まで水牛が病気のようになったのは、1度だけある。ワカバがぐったりして放牧場の隅の木陰に寝転んで、動かなくなった。この時はびっくりしてしまい、あわてて福仲先生に電話を掛けたのだが、あいにく那覇に行かれていた。島田さんに連絡を取った。

 水牛の鼻が乾いていること。眼の状態がうつろな感じ。紐を引っ張っても動くことが出来ない。糞の色がいつもの黒ぽいものでなく、黄色っぽい色をしている。など話すと、エサをやって見ろと言うことだった。自分の所では理由は分からないが、そういうときに餌を与えたら、直ったことがあるといわれた。

 早速、おびき寄せるために用意してある、牛の配合飼料を持って行ってみた。いつもは、走り寄ってくるのだが、この日は余り動こうとはしなかった。鼻先に置いてみたら、少し興味を示し嘗めた。すると気を取り直したように、身体をもたげて、食べ始めた。

 すると次第によろよろと立ち上がった。ふらついてはいたが、徐々に安定して、動き出した。与えた100グラムぐらいの餌を食べ尽くすと、今度はそばの牧草に興味を示して、次第に歩き出した。歩きながら餌を食べてくれた。これでなんとなく立ち直った感じがした。

 と言っても状態は悪いらしく、熱があり下痢もしているという状態のようだった。子供のノボタンは心配そうに、ワカバのそばでオロオロしていた。心配だったのだが、そのまま帰るしかなかった。翌朝行ってみると、まだ本調子ではなく、鼻は乾いていた。

 目がうつろな感じで反応はまだ鈍かった。それでも糞の色は元の色に戻った。まあ大丈夫そうなのでよかった。島田さんも来てくれてみてくれたのだが、何か悪いものを食べたのかも知れないと言われていた。毒草のようなものを食べた可能性もある。と言うことだった。

 結局原因は分からなかったので、対策もないのだが、その後はそうしたことは起きていない。新しい放牧地に放してからは、水牛池の湧き水しか飲んでいない。特に水遣りはしていない。アオコが発生して緑色になっているが、この水しか飲んでいないが、今のところは調子を崩すことはないようだ。

 水牛は池の中に、わざわざ糞尿をする。糞尿にいる微生物を池で増殖してそれを飲んでいるのでは無いかと言う話である。微生物がお腹に戻り、反芻するときに食べた草がうまく発酵分解されると言うことかもしれない。その辺は確かなことは分からない。

 今のところ池の水だけで問題があるようではない。池は水がじわじわと湧いてきていて、水位は下がることはない。雨が降ったときにおバーフローシテ水が入れ替わるようだ。水牛が水を濁らせていないときには、水が澄んでいることもある。

 放牧地Cは1、5㏊と広いので、3頭の水牛が好きなだけ草を食べても、今の時期は草が無くなることは無さそうだ。そうなると、好きな餌だけ食べて、ススキなどは食べなくなる可能性が出てくる。草管理が少し難しくなるが、どこかでススキをユンボで掘り起こすなど必要になるかも知れない。

 水牛にはできるだけ農作業をさせようと考えている。田んぼの代掻きはいつもさせているが、今度はサトウキビ畑の畝立てをやらせる。先日予行演習をしたのだが、何とか旨くやってくれた。始めてやったサクラも結構上手く作業をした。

 次に考えているのはそのサトウキビが出来たならば、サトウキビ絞りをさせたいと考えている。宮良小学校には、サトウキビ絞りにワカバは行ったことがある。その絞り器は借りることが出来るかも知れない。まだ先のことだから、どこかで使わなくなった、絞り器があれば手に入れたいとも思う。

「水牛20ヶ条案」
1,放牧地に入るときには、水牛の名前を大声で呼ぶ。
2,水牛は角がある大型動物、いつでも危険があることをわすれない。
3,水牛と人間の上下関係を明確にしなければならない。
4,安全講習を行い、水牛に近づく人は必ず受ける。
5,水牛は仕事が必要な動物なので、適当な仕事を作る。
6,水牛に近づくときには顔の近くの紐を持つこと。
7,強い日照の下にはいられない。紐が絡んで動けないことがある。
8,突然走り出すような、意外な行動を取ることがある。
9,水牛には身体に泥を塗りたくる池が必要である。
10,他の水牛の匂いに反応する。他の水牛と接したときには注意が必要。
11,水牛に挟まれる事故があるから、後ろが壁の場合は注意。
12,人間に危害を加えることは無い。
13,水牛に近づくときには声をかけ、近づくことを知らせる。
14,水牛に近づいたならば、身体を触って安心をさせる。
15,水牛のそばでこごまない。物を落としたときには足で蹴り出す。
16,水牛の発情期には注意が必要。満月前後に注意。
17,水牛のそばで転倒することがないように注意。
18,月に一回、紐、柵、鼻綱、池、水など点検日を設け、水牛ノートに記載。
19,安全を安易に考える人が事故を起す。
20,長袖長ズボンの服装装備で水牛に接する。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウクライナ侵攻で考える日本の安全保障

2023-05-22 04:20:34 | Peace Cafe


 ロシアでおかしな事が頻発しているらしい。クレムリン宮殿の真上でドローンが爆発を起した。放火による火災が頻発しているらしい。体制派の著名人にテロ攻撃も続いている。ロシアで反政府活動が起き始めていると考えていいのだろう。ロシア人は辛抱強いと言うが、黙っていればこの戦争が永遠に続くと見え始めたのだろう。

 ウクライナで起きたことは、信じがたいことであった。しかし、軍事侵攻が始まり、1年数ヶ月が経過して、やっとロシアが何故軍事侵攻をしたのかが分かってきた。ウクライナが軍事力の増強を続けていた。それをアメリカとNATOが支援をしていた。

 その支援はだんだん強化され、ウクライナのNATO加盟という話まで出てきた。その実質的な意味は、ウクライナがNATOとアメリカの前線基地の国になると言うことだ。日本がアメリカの前線基地であるのと同じことである。

 このことはウクライナでの内戦状態から分かっていたことだった。軍事侵攻前にも分かっていたことだが、まさか突然軍事侵攻を行い、そのことをロシア国民の8割もが今でも強く支持をするほど、ロシア人の間の共通認識になっているとは、世界中が思えなかったのだ。

 ウクライナ国内では内戦状態が続いていた。その内戦はウクライナ国内に暮らす、ロシア語を話す人々とウクライナ語を話す人々との民族間の争いである。ウクライナがソビエト連邦内の地域であった時代は、両者の間に争いはなかった。

 ウクライナ語を話す人と言っても、ロシア語の教育を受けたソビエト人であったのだが、ソビエト代表として棒高跳びのセルゲイ・ブブカは何度も世界記録を破り、オリンピックなどで活躍をしていた。新体操の選手にはウクライナ出身のソビエト選手が複数いた。

 ウクラライナはロシアの中では温暖で豊かな地域であった。ロシア人の富裕層はクリミヤ半島をリゾートの避寒地として楽しみにしていたのだ。ソビエト時代は、おなじ国家だったので問題は無かったのだが、ソビエト連邦が解体され、分裂していった。

 長年の民族差別を受けていた、ロシア周辺国の人々はロシアの支配を嫌い独立し、NATOとの連携を強めて行く。当然の結果ではあるが、ロシア周辺国も様々な国情があり、多くの場合ソビエト時代に力を持っていた親ロシアも存在する。

 とくにウクライナの場合はロシア語を話すロシア系住民も多く、住民投票をすれば、ロシアに編入されたいと考える人は少なくない。本来であれば、ウクライナが内戦状態になったときに、国連が介入して、選挙監視のもので、所属を問う正しい選挙を行うべきだったのだ。

 しかし、2014年は内戦時下でもあり、ロシアとNATOアメリカの代理戦争の様相を持ったまま、ロシアが実質的に軍事支配をしているクリミヤとセバストボリでソビエトによる一方的な選挙が行われた。その結果大多数がロシア所属を希望したと言うことになる。

 実際の所ロシア所属を希望する人々もクリミヤやでは多数存在した。しかし、この投票をウクライナ政府も、国際機関も認めず、投票自体を拒否した。ここが外交交渉の分かれ目であったのであろう。ウクライナ政府が国民投票を拒否した理由の背景には、投票の結果ロシア帰属を望む人が多いい考えていた側面が明らかにある。それは許すべき事ではないだろうか。

 もし、2014年に平和を願うならば、国際監視団の監視の下、ウクライナ政府も参加して、クリミヤで所属を決める住民投票をやるべきだったのだ。当時の世論調査では41%がロシア所属を希望となっていた。その後内戦が激化しウクライナのヤヌコービチ 政権はウクライナのナショナリズム勢力が暴動で倒されてしまう。

 この時に、ロシア系住民は絶望感を味わったはずだ。ロシアの支援の元にロシア帰属を求めた方が、民族差別を受けないと考えるようになってゆく。だから、クリミヤの住民の大半がロシア帰属を求めたことはあながち、ロシア軍の強制とは言えなかった。それを認めない欧米各国および日本政府の強引な判断が間違ったのだ。

 そのことは2014年時点でこのブログにも書いたことだ。自分たちに不都合なことであっても、あのときにクリミヤのロシア帰属も認めて、内戦を終わらせて、住民の移動を完了させ、ロシアと平和的にロシア系住民の保護と権利を話し合うべきだったのだ。それを出来なかった、ウクライナのナショナリズム政権は判断を間違った。

 出来なかった理由は、NATOおよびアメリカの軍事的支援だ。ウクライナを対ロシアの前線基地にしようと考えていたのだ。その結果起きているのが今の戦争だ。日本が対中国のアメリカの前線基地国家であるのとおなじ状況である。日本が勝手に中国と平和外交を進められないのが岸田政権を見ると分かる。

 尖閣諸島の帰属問題を国際司法裁判所のもとで判断して貰うべき、こうした考え方が出来ないのは、沖縄はアメリカの前線基地として地政学的に重要なものだからだ。対立の火種は残した方が良いとの判断である。クリミヤ国内の民族対立を火種として、アメリカもヨーロッパも残しておこうとした。

 ウクライナ政府は、内戦状態を抱えて、欧米の支援の基に軍事力強化をしてゆく。その強化が進み、ロシア系住民がウクライナナショナリズムに弾圧される。それがプーチンの言うウクライナのナチズムと言うことになる。ロシアとしてはこれ以上時を逃せば、ウクライナがNATOに加盟して、ロシアに対する前線基地が強化されるばかりだと判断せざる得ないところに進んでしまったのだろう。

 こうしたようにロシアのウクライナ軍事侵攻を見てくると、ある程度状況は見えてきたのではないか。この戦争を日本が教訓にするとすれば何があるだろうか。日本政府は軍事力強化を叫んでいる。ウクライナがロシアを攻撃できるような250キロ射程のミサイルを希望しているのとそっくりである。

 与那国島に先制攻撃が出来るミサイル基地の建設を始める。石垣島にも、宮古島にも、沖縄本島にもミサイル基地はある。ゼレンスキー氏と岸田総理は同じことを言っているのだ。より攻撃型の武器が欲しいと叫んでいるのだ。ゼレンスキーは欧米諸国に、岸田総理は日本国民に。

 これが間違った選択である事は、ウクライナ戦争を見れば明確になる。ロシアが、ウクライナへ侵攻したのは、ウクライナが軍事強化をしたからである。ウクライナが軍事力を増強し、ロシアを攻撃できる力が無ければ、ロシアはまさかウクライナ本体まで軍事侵攻はしなかった。沖縄のミサイル基地化が中国の軍事侵攻の呼び水になる可能性が高い。

 軍事力強化が、軍事侵攻を引き起こしたことはあきらかだ。ウクライナが戦争をしないためには、ロシアと平和交渉をして、国民全体で所属を決める投票を行い、それに従い国を分ければ良かったのだ。ナショナリズムがうわずって、ついつい軍事力強化だけに力点を置いたことが間違いだった。

 岸田政権が今おなじ間違いである軍事力強化を始めている。日本が今しなければいけないのは中国との平和交渉である。軍事力強化ではない。ミサイルを突きつける前に、平和の花を届けることだ。中国に対して、まず尖閣を解決しようと話しかけることだ。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第162 水彩画 日曜展示

2023-05-21 04:31:27 | 水彩画
第162 水彩画 日曜展示

6号前後です。




229「洋梨」
2023.5







230「角館桜」
2023.5







231「石垣海」
2023.5







232「のぼたん農園」
2023.5







233「亜熱帯のしげみ」
2023.5






234「シーラ原」
2023.5






235「境川村大窪」
2023.5







236「岩手山」
2023.5







237「山羊小屋」
2023.5






238「雲海富士」
2023.5



 中川一政は96歳で無くなる歳まで、毎年個展を続けた。それは前の個展よりも少しでも良くなるつもりで個展を続けたのだそうだ。その結果確かに、死ぬまで絵は良くなり続けている。もし95歳で亡くなり、96歳の絵がないとすれば、印象も変わるかも知れない。

 禅坊主のつもりで、修行を続けたそうだ。すべてに私の目標とする人である。毎週展示しているのは先週よりも少しでも良くなりたいと思うからである。中川一政のようなめざましい結果ではないが、1ヶ月前よりは少しは。1年前よりは少しは。

 そう思いながら描いている。前より良くなるとは、自分が描いた絵だと思える絵を描きたいと言うことである。それは自分が生きているような絵だと言うことだ。自分のいのちが宿るような絵だ。そう思うとまだまだと思う、いつか100歳になったときに、良い努力が出来たと思いたい。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丹田の強化法

2023-05-20 04:19:27 | 暮らし


 丹田というものが人間の核心であると、中国では古くから言われてきた。道教の考え方の基本である。丹田の位置は臍下三寸と言われる。身体の重心がある場所になる。実際にある臓器を意味するのではなく、こころの存どころに似たようなものだ。

 私の感覚で言えば、腸活である。腸が人体で一番大事と言う考え方と変わらない。腸は脳と連動している。怒れば腸はもがくそうだ。はらわたが煮えくりかえるのは、比喩ではなく実際のことなのだ。緊張すればすぐお腹が下る。腸は実は最も重要な臓器。丹田を腸のことと考えても良い気がしている。

 「腑に落ちる」や「腹が据わっている」などなんとなくお腹の辺りにある収まりどころを感じるのだろう。武士が切腹して腹の中を見せるというのは、まさに丹田に偽りがないことを示していると言われる。武士だけではない百姓はまさに腰である。地に足が着き、腰が据わていないのでは、は百姓仕事は出来ない。

 丹田はいかにも東洋的神秘思想の色合いがあり、気とか経絡というような、まやかしのような飛躍を感じるところがある。しかし、丹田についてはあるということで考えてみると、そうとしか思えない考え方である。禅に於いても、白隠は「気海丹田に主心が住めば、四百四病も皆消ゆる」と書いている。
 
 丹田がしっかりしていなければ、一流のスポーツ選手には成れない。相撲取りでも強い力士は丹田で相撲を取るように見える。腰がしっかりしているように見える。それは腰が据わっていると言うことであり、丹田ができていると言うことになる。

 「丹田」とは丹を育てる田んぼと言うことになる。丹とは薬であり、毒である。田はまさに私の好きな田んぼのことだ。田んぼが身体の中央にあると考えたのは、当然の事だがなかなかいい。そして、東洋の武術、精神修養、音楽、舞踊、能、そして宗教の修行は丹田をどう育てるかと言うことになっている。

 お腹の中心には小腸が存在し、その奥には、骨盤内蔵器、下肢、卵巣や精巣などの性腺、腎臓などに心臓からの血液を送る腹大動脈や、それらから逆に心臓に血液を送り返す下大静脈という大血管も存在する。その両側には、下半身と上半身をつなぎ、骨盤のインナーマッスル(深層筋)として重要な腸腰筋がある。

 腸と脳は密接な関わりがあるとされている。脳内ホルモンセロトニンが腸にも存在している。発生学的にみても進化の過程で腸菅から脳ができたのだから、脳も腸も関係が深い。しかも腸は微生物が膨大に存在して、人間の半分を体内で自分ではないものがつかさどっている。

 丹は微生物を意味して、微生物を田んぼで育てろという考え方なのかも知れない。それなら納得が行く。良いお米を取るためには、田んぼの土壌に良い微生物を増やし、活性化することだ。人は腸で食べたものを消化し、栄養を吸収している。そこに活躍しているのが、微生物だ。

 腸に存在する微生物の数は100兆個にもおよび、人間の細胞数が60兆個と言われているよりも多い。数えたわけではないので、おびただしい微生物という他人様が腸の中に居ると言うことだ。だから腸活と言うことが最近言われるようになったわけだ。これは人体把握の大きな前進である。
 
 丹田とはおおよそ腸のことと考えて良い。そして、腸の中にいる微生物のことと考えても良いと言うことになる。微生物は自分の肉体ではなく、腸の中に巣くう他人である。だから、丹田を育てるとは、腸に暮らす微生物は育てなければならないと言うことになる。大事なのは肉体を鍛えることは大分違うということだ。

 どちらかと言えば、脳を鍛えると言うことに近いはずだ。脳トレというのも最近惚け防止で、言われることだが、脳は使い方で歳をとっても衰えるどころか、成長するらしい。それは脳はほとんど使っていない部分が多いかららしい。特に小脳などは、絵を描く行為を小脳化する必要がある。

 大腸活性化が丹田を鍛えると言うことになる。微生物を増殖するにはその暮らす環境を整えることだ。腸の微生物が有効に活動してくれるためには、丹田を鍛えなければならない。怒って煮えくりかえったり、緊張して腹下しをするようではだめだろう。精神を安定させ、強い安定した気持ちで暮らすことだ。

 丹田の強化は呼吸法が言われる。先日ユーチューブで大笑いをして丹田を鍛えると言うことを主張していた人が居た。これは良いかもしれない。愉快に大笑いをして、楽観に至ると言うことだろう。腹式呼吸をすることで丹田を強化すると言うこともよく言われる。お腹で息を吸ったり、吐いたりすると、坐禅修行で言われた。

 大笑い丹田強化法は丹田の在処を実感できると思う。大笑いするときには意識をせずともお腹をハッハッと膨らましているはずだ。自然腹式呼吸になっているのだ。笑いの力は侮れない。毎日大笑いして暮らしていれば丹田が座った人になれるだろう。

 スワイショウの際にお腹で息をするようにしている。静かにするのではなく、大きくお腹で息をしている。実際にはお腹かで息が出来るわけ無い。あくまでそういうつもりで、吐くときはおなかを膨らませながら吐く。吸うときもお腹で息を吸うつもりで行う。

 一回腕を振りながら一回の息をする。スワイショウでお腹が鍛えられれることになる。これを安定して出来るようになると、大分丹田が意識できるようになる。何かと言うときに丹田を意識するのだ。腹で本気を出すと言うことになる。

 丹田で絵を描くことになる。腹の力で絵を描くつもりで描かなければならない。気合いだ、気合いだ、とさけんで力んでいるプロレスラーがいるが、あれでは気合いは入らない。気合いは口を閉じ一気に吐くがその時声は出ない。腹に力を込めて、筆先に伝える。声を出したら力は抜けてしまう。鼻歌交じりには絵は描けない。

 筆に込める力は筋肉の力ではない。思いの力である。生きろ、生きろと生命力を絵に込める。そう思っても描いたとしても、なかなか難しいのだが、たまにどこから何かが降りてきて、手助けしてくれることもある。誰かが描かせてくれるのだ。腸にいる微生物かも知れない。

 だから、どうやって命あるその絵を描いたのかは分からないのだが、腸に暮らす微生物が、気合いを込めると小脳に指示を勝手に出すような感じかも知れない。いつの間にか、思いもよらないことをやって、絵が生き出す事がある。

 大脳は海を描こうと、コバルトブルーを溶いているのに、それが筆が延びると、きの辺りを縫っていることがある。赤い花のこともある。それでもいいのだ。筆は勝手に、空を描き出したりする。そんな時に、自分を越えてて絵に生命力が籠ることがある。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

AIによる著作権侵害問題はない。

2023-05-19 04:19:08 | 暮らし


 AIによる著作権侵害が問題になっている。チャットGPTが広がっているからだろう。画像AIも出てくる。結論から先に言えば、まったく問題ない。公表されている画像は、機械が作ろうが人間が作ろうが大いに使えば良いことだ。創作物の版権で生計を立てようと言うことが、間違った考えなのだ。

 使えるものを創作できたなら、喜んで自由に使ってもらえば良い。人間全体の幸せを考えれば、著作権上の問題は無い。さすがに、この元の作品は誰のものであるぐらいは描くべきだろう。そのまま使うのは誤解が生じるので、著作者の名前を書き、作品の引用ぐらいは示して欲しい。AI創作ならその旨を記せば良い。

 人間の創造物は、すべての人間共有のものである。制作者だからといってその著作権を主張するのはおかしいと考えている。私はササドリという鶏種を作出したことがあるが、それを誰がどう使おうと構わないとしてきた。今では残念なことに消えてしまったが。

 人間は人のためになれることが、生きる目的であり、喜びのすべてである。人が使いたくなるようなものが創作できる人間であれば、著作権など無くとも生きていけるはずだ。真似をされたら価値がなくなるようなものなら、たいしたものではないのだ。

 ミッキーマウスが中国で勝手に使われたと、デズニー社は騒いでいた。おかしいではないか。ウオルトデズニーならば使って貰えて喜んだはずだ。人に喜んで貰えれば満足した作家だと思う。何でも一儲けというアメリカ文化がいやらしいものだと思う。お金にならなければ、頑張らない文化は恥ずかしい。

 創作物を飯の種にしようと言うこと自体が浅ましいことなのだ。それが資本主義の醜い一面である。免罪符を販売した教会のようなものだ。誰もが等しく暮らせるようにすればよい。金持ちも貧困もない平等な社会が良い。金になるから頑張るなどと言うことがおかしい。

 幸いAIが出来て、人間が行う創作という意味が明確になり始めた。今までは創作物と思われていた物の大半が、他の作品が流用だったのだ。真似るが学ぶことだというように、前からあるものを真似て作り出すのが作品の始まりである。そこから進んで、自分自身の創造の世界には入れる人など滅多に居ないのだ。

 今問われているのは、本当の意味での人間の創造性である。かつてないものを作るのが芸術のである。もちろん真似から始まるのだろう。しかし、そこからその人の世界に入って行く。それがどれほど陳腐なものであれ、その人の世界観まで行くことが出来れば、その人にとってはかけがいのないものに成る。

 それが私絵画の世界である。他と競べない。自分人の修行のために絵を描く。自分が深まれば、絵も深まるはずだ。自分のいのちが輝けば、絵にいのちも籠ることになる。先ずは見て感動することだ。感動がないところに創造は産まれない。AIは感動をした振りぐらいしか出来ない。

 AIはそのまねて学ぶことが人間以上に上手なのだ。アニメーションの制作者が類似のキャラクターものまねソフトを、著作権侵害だと言っていたが、すべてのアニメキャラクターは、そもそもものまねのような物だ。ミッキーマウスだってネズの絵を変容して真似た物だろう。

 盗作と言ったところでそれほど深刻なことではない。著作権など無くせば良いのだ。その方が本当の創作に人間は入れるはずだ。薔薇の絵の著作権など無い。薔薇を最初に描いたのは私だから、次から描く人は著作権料を払え、などないだろう。問題は薔薇を通して自分の世界観を描けるかなのだ。

 梅原流もあれば、中川流もある。しかしそれをいくら真似たところで、絵を描いたことにはならない。絵を描くとは自らの目で見た感動を描くことなのだ。上手く真似たからと言って、何にもならない。真似の薔薇の絵を描いて商品絵画には出来るだろう。

 創作という物はまるでそういう物ではない。花というものを抽象化して、ネ自分の世界観を表すことが創作である。もちろん真似だから問題があるというのではない。そ言う物はいくらでもAIで表現できるものだと言うことだ。だから、著作権をその手前でどのように制限しようとも、くだらないことなのだ。

 要するに自分の創作で利益を上げたいという欲が問題なのだ。創作に携わる物は創作の喜びで十分得るものを得ているのだ。それで生活を立てようなどと言うことは浅ましいことだ。芸術作品の創作するとか言うことと、生計を結びつけない時代が来て欲しい。そうすれば著作権をなくせる。

 それぞれが収入と関係なく精一杯働いて、生きて行ける社会だ。憲法で健康的な生活が保障されているのだから、国が国民全員に一定額を支給する、「ベイシックインカム」という制度も良い。一定の収入は平等に支給しする。富裕層が生じないような税制にする。

 そうした未来の世界を予感させるのが、AIやロボットの普及だ。チャットGPTはその始まりではないかと思える。だいたいの物はコンピュター創作で沢山だろう。そんな物に著作権などいらないに決まっている。現状ではまだ画像制作はないようだが、そんなものはすぐに出来るはずだ。オリンピックのデザイン盗作問題なども一切なしになる。デザインは実費程度。

 このまま能力主義を必要なものとして、進んで行けば人間は行き詰まるはずだ。能力競争は人類が総体として幸せに生きるためには邪魔のものでしかない。能力がある人はみんなのために大いにその能力を発揮して、喜んで貰えれば幸せだろう。

 その能力によって富裕層にならないでも、等しく暮らして行ければそれでいいではないか。能力を発揮して、お金でない価値で評価されれば、それで十分だと納得できるほうがいい。資本主義はこのまま行けば、富裕層を作り出し、階級が生まれ、息苦しい社会になるのは目に見えている。
 
 能力主義の競争がなくなれば、人間は頑張らなくなる。と主張されているがそれは間違いだ。ベイシックインカムの社会はぐーたらを生み出す。それは資本主義に洗脳されたためにそう思い込まされているに過ぎない。人間はそれほどくだらない物ではないと信じて良い生き物だ。

 人のために働き、その喜びが生きがいになるものだ。どれだけ十分に生きる事ができるかがすべてだ。すべての人が、自分のやりたいことが出来る社会が一番だろう。お金に縛られないのであれば、好きなことで生きて行ける。

 人が余りやりたがらない仕事は、できる限りAIやロボット化して行く。どうしてもやり手がないような仕事が生じるとすれば、誰にも共通に一定期間義務化するというのもあるだろう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芸術としての絵画とは何か。

2023-05-18 04:14:58 | 水彩画


  山城隆一氏の猫の絵

 最近絵を描いていると言う若い人に何人か会う機会があった。その人達の描いているものが、絵には見えなかった。私の考えてきた絵とはだいぶ違う。本当のところは良くは分からないのだが、昔からの絵の見方から言えば、イラストレーションとか、装飾品というように見えた。

 折角絵を描いているのだから、悪くは言いたくないし、絵を描くという気持ちは大切だと思う。絵を描くことは若い人のこれからの人生を豊かにしてくれる物に違いないと思う。だからどうせ絵を描くのであれば自分自信を深めるために描いてもらいと思う。

 若い人の絵を描いているいう物が、何であるかと言うことを考えてみようとは思わない。私のやっている絵画とは違うと言う判断ぐらいしか出来ない。私は何をしているのだろうかと改めて考えた。失われて行く文化の中自分が進んでいるような気分になって考えた。

 何時の時代にも消えて行く文化はある。先日大阪の文楽の保存研修生の話をラジオでしていた。無料で何年も教えてくれるのだそうだが、昨年は1人だけで、今年は誰も居ないのだそうだ。人間国宝までいる世界で、後継者が途絶えかかっている。文楽は見たこともないし、残る方が良いのかも分からない。藝術としての絵画もそうなのだろうか。

 テレビでプレパトと言う番組がある。かなり嫌いな番組なのだが、我が家では好きな俳句番組と言うことで、時に俳句を見せられてしまう。先生の毒舌が番組の売りである。それを面白おかしくタレントが反応して盛り上げる。そこがどうも嫌いだ。

 俳句エンターテイメントで、江戸時代には神社の境内などで行われた、俳句興行と近いものがある。短時間にどれだけ俳句を作るかを見せたらしい。俳諧連歌なども興行されたようだ。北斎など絵を描くパフォーマンスもやはり神社で興行にしている。

 ハイク時間が終わると水彩画が始まることがある。さすがにこれは消させてもらう。多摩美の講師の人が先生らしい。嫌なので見ないことにしているので、生徒がどういう物を描いているのか。どういう絵が評価されているのかは分からない。今回、どんな絵を描く先生なのかと思ってホームページを見せてもらった。

 ホームページにでていた作品を、藝術としての絵画だとは私にはどうしても思えない。これはものの説明図である。絵として必要な作家の世界観が感じられない。先生と言われる人が絵だとしているものを、わざわざ絵ではないとここに書くのは、テレビが絵でないものを絵画だとするのは、困ったことだと思うからだ。

 猫を描くのであれば、竹内栖鳳の猫まで行かなければ絵として猫を描いたとは言えない。猫を描くなら猫のいのちが見えなければ猫はかけないだろう。竹内栖鳳の絵は、猫を描くことをとおして、描いた作者の人間性や崇高な世界まで表現されている。

 もう一人のねこの画家がグラフィックデザイナーの山城隆一氏だ。この人は猫を通して造形をしている。グラフィックデザイナーとして、著名だった山城隆一氏は絵画を描いているつもりは無かったのかも知れないが、これは素晴らしい絵画だと私は考えてきた。猫を通して、山城隆一の愛情の溢れた世界観がここに在る。山城隆一の観ている世界の質の良さが伝わってくる。

 プレパトの先生は、猫の通俗的な説明をしているにすぎない図だ。しかし、こういう人が多摩美の講師であるとすれば、美術大学の出身者の絵が、私には絵とは見えないものになって行くのもなるほどと思える。やはり、世の中の方が変わったのだ。

 絵画の意味が変わったと言う可能性よりも、文化の劣化が進んだと考えた方が良いかもしれない。中川一政の絵がすごいのは、これほど下手な絵はないと言うところにあると、岡本太郎は言っている。岡本太郎はさすが中川一政の絵画を見抜いていた。下手は絵の内。

 上手いは絵の外。これは熊谷守一仙人の言った言葉だ。絵であるためには、そこに生命力があるかどうかになる。絵がいきて立ち上がっているのが絵だ。生きものが生きているか死んでいるものかは、見る人が見れば分かるだろう。絵にもいのちがあるのだ。生きていれば立ち上がり、生命力を発している。これが絵の唯一の見分け方だ。

 中川一政ほど下手な絵を良いなどと言ったら笑われるだろうというのが、劣化した時代の絵の見方かもしれない。江戸時代庶民が浮世絵の北斎を評価できたのだ。北斎の海の抽象世界を理解できたのだ。フランスではまだクールベの上手な海が良かった時代である。

 クールベの上手さと、ベラスケスの上手さを、近くによって比べて見たらわかる。クールベは確かに上手い。上手いけれどそこにクールベが現われない。ベラスケスの絵はそばに寄れば抽象画である。生のベラスケスの呼吸が伝わる。これほどの表現を出来た人は他には居ないだろう。本質的な意味でのリアリズムである。絵画は人間のみていると言う感動の表現なのだ。

 感動しているのは制作者なのだ。見ることでそのものの本質に到達し、そして感動をする。絵はその感動を絵にしようとするものだ。見ているものの形を写すだけでは絵ではない。まず感動もしないものは絵にならない。本質に至らなければ、人間の崇高な感動はない。

 日本全体が文化に自信を失っている。そのために頼れるところが写真のように描けるという技術だけなのだ。これは恥ずかしいことだと考えるべきなのだ。人間の豊かな精神性を忘れてしまったと言える。機械でもできる。むしろ機械の方が上手に出来るものを、人間が写真のように描けることを自慢しているのは恥ずかしいことなのだ。

 
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ChatGPTを嫌う人

2023-05-17 04:09:15 | 暮らし


 どこかの県知事が職員に対してチャットGPTの使用を禁じたらしい。頑迷な人だ。問題は使い方にある。職員の使い方を軽んじているのだろう。将棋ソフトが出来たときに、否定した将棋指しも多かった。しかし、現実には藤井壮太6冠のように、上手く使って自分の能力を伸ばした人が現われた。

 さらにすごいのは羽生9段である。一度全盛期を過ぎて、もうだめかと思われるところまで成績を落とした。ところがそこから将棋ソフトを使い、また復活して、藤井6冠に挑戦するところまできた。2回目の挑戦では藤井6冠に勝つかも知れないと思う。

 羽生9段は現在52歳である。その人がコンピュターソフトを利用して、衰えかけた棋力を再生したのだ。有能な人は何をどう使って勉強すれば良いのかが分かるのだろう。コンピュターを嫌う人は電気が病気を伝染させるからと恐れた明治時代の人と変わらない。

 役所の職員の方が、知事よりは若い。知事の頭では無理でも、若い人ならばまだ柔軟性があるから、上手く役所の仕事に役立てる方法を見付けると考える方が当たり前だ。あらゆる仕事で利用してもらいたい。これからすさましい早さで改善されてゆくはずだ。

 例えばChatGPTは弁護士でなくとも、法律に関する質問をすれば的確に答えてくれるはずだ。むしろ裁判官をChatGPTにしてもらいたいくらいだ。その方がえん罪がなくなる。憲法判断などChatGPTにすれば、日本政府のデタラメが見え見えになる。

 役所で必要なことは、通達や法律をどこまで知っているかである。あらゆる通達を熟知している職員などいない。省庁は様々な通達を出している。補助金の種類はどんどん変化するし、それに対応しいち早く利用しながら、行政は政策を立てなくてはならない。

 例えば、水田の冬期湛水に関する補助金「環境保全型農業直接支払交付金実施要領 」とその条件といっても、すべてを理解している農政関係の職員など少ないはずだ。どんどん変化しているし、現われたり消えたりする。その上地域での利用範囲が違ったりする。それを自分の地域でどう利用すれば有効であるかは政治的な判断も加わる。

 これからの時代、人間がコンピュターを使いこなせるかである。それを避けて通れるはずもない。大学の学生論文に使ってはならないと言うことらしいが、確かにそれはそうだと思うが、なんか大学の教育はChatGPT範囲のものだと言っているようなみじめさがある。

 大学での教育が人間教育であれば、ChatGPTを使おうが使うまいが関係ない。ところが日本の大学教育が狭い範囲の知識教育になっているから、改めてこんな決まりが必要になるのだろう。スポーツ選手の育成にChatGPTを使うことを考えれば分かる。

 スポーツ選手が強くなるためには身体を動かすトレーニングが必要である。どんなトレーニングがその人に必要なのかは、その人の能力の詳しい測定をした上で、どういう方法が適しているかを考えなければ成らないだろう。強化の計画を立てる上ではコンピュターは役立つはずだ。

 考えなければ成らないのはここからである。人間は何をするかである。人間が幸せに暮らすためには何が必要かである。今日やりたいことをやりたいだけやれることが幸せである。絵を描きたいのであれば、絵を描き続けられることである。

 絵を描けば言いと言っても、絵を描く喜びがよほど深く育っていなければ、毎日絵を描くことが喜びにはならない。中国の絵画お土産村の絵画職人のように、絵を描かされ続けていれば、何も楽しくはないだろう。自分の絵を模写しているような絵描きも、絵を創作する喜びの深さは知らないだろう。

 きちっと決まった仕事をこなす職人的な喜びと、未だかつてないものに挑む喜びとは桁が違うのだ。職人仕事であれば、人間国宝と言われる領域まで、とおからず、コンピュターロボットに置き換えられるだろう。むしろその先までロボットはやるだろう。

 しかし、どれほど稚拙であるとしても、創作する人間の喜びはどこにも誰にも置き換えることは出来ない。人間が生きる事はそうした分野の仕事に移行してゆくはずだ。行政の仕事はどんどんコンピュターに置き換えて行くべきものが多いはずだ。

 鳥取県はこれから遅れてゆくことだろう。知事は「本当にその地域にフィットした答えが出てくるわけではない。現場で集めてきた情報のほうに価値がある。議会答弁で使うとかいろいろな構想が語られているが、それは民主主義の自殺」 と語ったのだ。

 国会答弁に使いたいと発言した大臣とは大違いだ。どうせ官僚が書いた答弁書を代読するだけとしたら、 ChatGPTに書いて貰った方がましというのも分かる。間違いがないという範囲であれば遠からず人間を越える。どうせ答弁は国会の形式を整える議論なのだと言うことだろう。

 本当の議論を議会でやって欲しいのだ。いまの議会でやっているようなことならどうでもいい。何故石垣島にミサイル基地が居るのか。住民に対して分りやすく説明して貰いたい。市長も自民党と公明党の市議会議員も必要だと言うらしい。

 自衛隊の指揮官も丁寧に説明すると発言はする。こう言うときにこそ、 ChatGPTはごまかせないはずだ。必要だとするなら、中国の武力の分析と先制攻撃能力の関係の計算が必要になるだろう。当然市民の犠牲の可能性も出てくるはずだ。だから、 ChatGPTを使わないのだ。

 行政の言う丁寧な説明とはどのように住民をごまかすかなのだ。だから ChatGPTを禁止したくなるのだ。コンピュターを避けるなどしていたら、時代について行けない。これからの鳥取県がどうなるかは注目しなければならない。

 確かにAIの登場は人間社会を変えるだろう。これを上手く使えば、人間は好きなことをして生きる事ができる社会が近づくことになる。悪い方向に進めば、悪くAIを使う国が、他の国を支配して行くのかもしれない。人間が自由を失う可能性もある。

 AIを上手く利用することは、一部の人間が行えることだ。日本の生産性の低下の原因はロボットやコンピュターやAIへの置き換えが遅れているからではないのだろうか。新しい産業の創出にはAIは欠かせないもののように思われる。成功体験が次に仕事を譲らない結果になっていないだろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする