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東京での絵の展示

2024-04-29 04:17:06 | 水彩画


 絵の展示をさせて貰った。東京三軒茶屋のキャロットタワーのオフィース棟ロビーである。これから時々絵を架け替えるつもりだ。なにかこう書いていることも緊張する。こんなことをしていいのかという気持ちの迷いがある。迷ってはいたがやってみることにした。

 石垣島に暮らしていると絵を実際に見てもらう機会は無くなる。絵を見る機会もなくなる。何か絵を展示する方法がないか考えていた。個展をやるという事もあるが、個展をやるのは辛すぎて嫌なのだ。個展の会場にいる自分に耐えがたいものがある。絵を販売している形が嫌なのだ。

 春日部洋先生は個展は、いつも俎板の鯉だと言われていた。だから画家にはその試練が必要なのだ。お前も個展をしなければだめだと言われた。日動の個展のオープニングセレモニーの際、誰一人会場に人が来なかったことがあり、あのときは辛かったと先生は言われた。

 私にもそれに近い辛い個展が何度もある。絵を売らなければ、画廊に申し訳ないし、毎月個展をしていれば、だんだん絵は売れなくなる。絵を商品として描いているわけではないのに、なぜ商品として売らなければならないかが耐えがたかった。日本では絵画はあくまで商品なのだ。

 最近の個展会場で聞く言葉が、「おめでとうございます」何がおめでたいのか。そんな言葉を発する、あなたがおめでたいのだ。個展の意味を誤解しているのだ。個展の開催はどこもおめでたくなどない。個展会場は自分をまな板の上に載せて、さあー腹の中を見てくれと言っているのだ。見に行く人は介錯人だ。

 画家の一期一会の切腹の場だ。それを結婚式か何かと間違っている。まあ結婚も地獄の入り口の場合もあるから、おめでとうございますというのは、ある意味正しい言葉かもしれない。地獄でもがいていて、おめでたいですね。と絵描き地獄ののたうち回りを良しとしているのかもしれない。

 それで、銀座の文春の会場で最後の個展を、生前葬として切腹個展をして、2度としないことにした。何度も切腹は出来ないと思ったわけだ。あれから30年以上たつだろう。当初は画廊の方から個展を開きたいという話はそれなりにあったのだが、やらないできた。もちろん今は音沙汰もない。

 個展を止めて、発表は公募展だけという事で来たのだが、水彩人展は絵の研究会としてやっていたので、自分としては研究の場だと考えてきた。画廊を1日だけ借りて、水彩人の仲間で絵を展示して、互いに絵を語る。「絵を語る会」を開催してきた。この形は私には良いものだった。

 「絵を語る会」はコロナの為に中止になった。コロナは本当にひどいことであった。生き方まで捻じ曲げられた。またやらなければと思ってはいる。思ってはいるが、石垣島に居て、東京で絵を語る会を開催するのはかなり気が重い。できない訳ではないので、やるべきだ。本当にまたやろう。

 それはそれとして、絵を展示するという事を自分に課さなければいけない状態になった。その機会が来た。キャロットタワーのロビーに絵を展示させてもらえることになった。絵を展示して見てもらうだけで、販売はしない。絵は商品ではなく、自分の探求の為に描いているものだからだ。

 展示させてもらう時に、久しぶりにドキドキした。昔々、公募展に絵を搬入したときのような、あるいは個展の初日のような気持だった。どうだろうか、飾ってみっともないことはないだろうか。心配で仕方がなかった。自分の絵がむき出しになるような気がした。

 このドキドキ感が、自分に必要なものだったという気がした。誰もが入ってみることが出来るから、是非東京に近い人は見て頂ければと思う。生の絵はやはり、映像とは違う。肉声と電話では伝わるものが違う。キャロットタワーは世田谷パブリックシアターのあるビルだ。地下鉄半蔵門線の三軒茶屋を降りて、駅に続いているのですぐわかる。

 そして、絵の感想をメールで貰えればと思う。先ずそこまでしてくれる人は居ないとは思うが、一応その気持ちで、絵を展示するという事にしている。切腹まではいかないが、腹の底は見せているつもりだ。実は、バーコードを名前の横に付けた。それが私の、ホームページに繋がっている。

 ホームページから、メールが送れるようにしてあるので、そこから意見は送信できる。販売をするためではない。責任の所在が分かるようにして置いた。新しい形の絵の展示法のつもりだ。どんな人間が描いたものかわかる方がいいかと思ったのだ。絵との一つの出会いだから、連絡先もある方がいいと考えた。

 絵は462「英太郎さんの田んぼ」2024.4中判全紙である。つい先週描いた絵になる。こういう形で、季節ごとぐらいに架け替えてゆきたいと思っている。これが5月からの展示であれば、7月末、10月末、1月末、そして4月末と架け替える気持ちで、それを目標に絵を描こうと思う。

 10年やれば、40点ぐらいにはなる。これは水彩人展の出品作と同じくらいになる。10年の間に少しは自分の絵になっているかどうか。そんなどこか切羽詰まった気持ちで、展示を続けてゆくつもりだ。もちろん展示に意味があるというより、それに向けて描くという自分に意味がある。見てもらうつもりで描く。絵を描くうえではこれが重要なことなのだ。

 そう思って、ブログでウエッブ展示を続けている。ただ描いているというよりも、大切なことなのだが、どこかで生の絵も出さなければという気持ちになった。緊張をすることが必要だ。このやり方はさすがに怖い。絵を描く気持ちを真剣勝負にするところがある。その為ではあるが、さすがに今回壁にかけるまでは怖かった。今も思い出すと落ち着かない。

 ロビーは静かな灰色の空間である。絵の下に小原流の生け花が飾ってある。これが何と毎週生け花が変わるのだそうだ。その生け花の上の空間に架けさせてもらった。空間が変わったと思った。とても華やいだ。色彩というものは凄い。私の絵の力というより、色彩の力がすごい。

 生け花の静かな世界を壊したようではあるが、ある意味互いに生かしたという事も言える。良い場を頂いたと思い、全力で挑んでみようと思う。何をどうしようが、絵は結果次第だ。絵がどこまで人間の奥にまで迫ったものになっているかは、これから展示してゆく絵を見ればわかる。

 絵を見れば、何かが分かる。それが絵の良いところだと思う。一日を生ききるという事は、難しいことだ。出来ているのか、そうでないのか、なかなか確信が持てない。しかし、絵には現れてくる気がする。10年前の絵、20年前の絵、そして1年前の絵。そして今日描いた絵。動いている。

 描いた世界の違いがそこにはある。世界が出来ていないという事もわかるし、世界が見え始めたという事もわかる。絵がだめであるという事は、絵との向かい合い方が、悪いという事になる。只管打画になっていないという事だ。今日をただひたすらに生きる。その実態が絵には現れる。

 絵がダメであれば、自分という人間がだめになってきた表れだと思って気を引き締めてゆく。日々絵を描く精進をして、自分の奥底までやり切りたいと思う。その為なら、少々恥ずかしいこともしても大丈夫だ。そう思って、ロビー展示を始めることにした。

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