地場・旬・自給

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格差と分断

2017-02-24 04:55:22 | Peace Cafe

世界は格差から分断へと進んでいる。トランプ大統領がそういう政策をとろうとしているというより、資本主義の必然として、格差段階から分断の段階に一歩進もうとしていると考えた方が良い。階級ができるという事だ。格差とは同質の人々の中に大きな開きがあることだろう。日本社会であればその同質の社会の中に、質的な差が目立つという事なのだろう。それが分断という社会の様相は、同じ社会の枠内に異質なものとして相容れない階級が生じるという事になる。その異なる階級は自由な交流を閉じ、上層に位置する階級はその上層であることを守るために、下位の階級を分断する。それは、人種であり国家であり、経済力、能力、職業、異質なものすべてに及んでゆく分断である。資本主義の形成段階が終わり、徐々に成熟型に進でいるという事なのだろう。成熟してきた資本が利潤を求め、国家を超え、社会の枠を超え、制御できない暴走を始める。それを何とかしようというのが、アメリカの国家資本主義であろう。

アメリカの一国主義、ヨーロッパでの国家主義の台頭、中国やロシアのような国家の制御の強い国家資本主義は、資本が国を超えて動き出していることへの、恐怖に根差している。アメリカファーストと主張しても、アメリカの為になる企業行為だけを容認することはもう不可能である。トヨタにメキシコ工場を辞めろという事は、アメリカの利益を失う事でもある。つまりアメリカも中国のような、国家資本主義的でありたいという事なのだろうが、そんなことは不可能なことに世界は向かっている。むしろ中国の企業が国の枠をどのように超えてゆくかである。資本は国を超えてしまい、もう国家がコントロールできる段階ではない。もしコントロールするとすれば、それは一国主義ではなく、世界全体を一つの国として見ることにならなければならない。よその国に物を売らない形態であれば、アメリカファーストも利益になるのかもしれないが、資本は消費を求めて、国を超えあらゆるところに入り込もうとする。

資本の競争というものは公平なものではない。巨大なものが弱小のものを飲み込んでゆく。競争の地理的条件が違うものに対して、同じ条件での自由競争だと主張するのは強者のまやかしなのだ。アラスカの農業と、カリフォルニアの農業が自由で公平な競争という訳には行かない。しかし、アラスカは天然資源によって、豊かな土地という事になる。それは国家間でも同じであって、平等とか公平の競争などあり得ない。その前提で、どのように世界が共存できるかを模索する必要がある。これが戦後の世界だったはずだ。日本の場合は国というものを一つの枠にすることが、当面は有効だと考える。日本という島国で一つの文化を共有する地域であれば、その文化を共有価値として育ててゆく。今それが失われ始めていることが、分断の第一歩なのだと思う。それは瑞穂の国の文化だ。稲作を中心にして暮らしを形成する。水土を共有することで、理解し合える文化である。

瑞穂の国の文化を再構築することで、日本人は共有出来る価値観を取り戻すことだ。私たちは25年、みんなで助け合いながら行う田んぼをやってきた。それぞれの特徴を生かしながら、力のあるものは力を出し、物を持つ人に助けられ、知恵のあるものは知恵を出し、根気のあるものは粘り強く、弱いものは助けられながら。一人では続かないことを楽しく続けることができた。人間の出入りはあった訳だが、みんなの田んぼという仕組みは25年続いている。それは、田んぼという瑞穂の国の伝統的文化に支えられたのだと思う。日本の社会には田んぼは大切だという共通認識がかろうじて残っている。田んぼは止めてはならないという気持ちがまだ日本人の中にある。この思いを育み育てることが、分断を阻止することになる。社会が分断するとしても、この共通の思いによって、繋がることで、分かり合える仲間を持つことができる。

 

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「瑞穂の國記念小學院」の設立を目指している森友学園

2017-02-23 04:30:15 | Peace Cafe

瑞穂の國記念小學院」の設立を目指している森友学園という組織がある。その学校法人に対して、不動産鑑定では9億5600万円という国有地が、わずか1億3400万円という値段で払い下げられた問題が明らかになった。瑞穂の國記念小學院は安倍総理婦人安倍昭恵氏が名誉校長である。その小学校は神道の小学校とされている。明治時代に作られた教育勅語をその教育精神としている。森友学園は幼稚園を経営しており、その塚本幼稚園ではヘイト文章が家庭に配られたこともある幼稚園である。毎朝,教育勅語を唱えさせ、軍歌をみんなで唄っているという幼稚園である。この問題に関して、テレビは沈黙である。何の意見も述べることができないようだ。現在瑞穂の國記念小学校は生徒募集の最中で、生徒が集まるかどうか注目されるところだ。生徒が集まらなれば学校の認可がされないだろう。安倍晋三氏の実像の一端が現れてきた事件だ。

もともとは伊丹空港の騒音対策用地の国有地の払い下げである。その土地にごみが埋まっていた。そのごみを除去するために8億2000万円がかかるという事で割り引かれたという事である。一方で、この裏返しの事件がやはり軍国主義政治家であった石原慎太郎氏が馬鹿げた高値で購入した、豊洲市場用地問題である。豊洲市場では、汚染された土壌の土地を高額で購入し860億円とも言われるお金をかけて、汚染を除去しているがまだ完全には除去できないでいる。いずれも公共の土地にかかわる、公が損をした話である。つまり、納税者が馬鹿を見ている話である。財務省がなぜそれほどの値引きをして、国有地を、総理大臣夫人が名誉校長の小学校に払い下げるのだろう。根拠が汚染土壌の除去というのでは、小学校が、10メートル地下までごみの埋まっている土地の上に作るというのは問題がないのだろうか。きちっと汚染対策は充分ではないようだ。汚染土壌の調査などは誰もしていないということだ。

安倍総理婦人が名誉校長になり、平沼衆議院議員が推薦する小学校という事は、強い政治家とのつながりがある学校法人である。憲法が改正されれば、公教育が瑞穂の國記念小学校になる。塚本幼稚園の生徒が礼儀正しく、きちっとしていたという事に、総理婦人は感激したようだ。幼稚園児の礼儀正しさは、作られたものであると考えなくてはならない。北朝鮮の旗を振る少年少女もきちっとしている。今回の事件では安倍氏と安倍氏を祭り上げている、集団との関係も少し見えてきた。石原氏は豊洲市場のことも、新東京銀行の経営も、少しもわかっていなかった。尖閣の都有地化には熱中していた。人気だけは高くて、やりたい放題だった。都民は石原氏の実態というものを見ていなかったのだ。その点でアベ政権もよく似ているのだ。中国敵視政策で国民を煽り、憲法改正まで突き進もうとしている。石原氏の時も理由のよく分からない人気政治である。安倍氏も不思議な支持のされ方をしている。アベ政権が目指す国づくりが、この小学校からうかがえるではないか。教育に国家主義が入り込もうとしている。公教育にまで、瑞穂の國記念小學院精神が広がることを、本音としての安倍晋三氏は望んでいるのだろう。それが憲法改正である。

報道がこの問題を明確にしていない点だ。教育の方向が間違っていると私は考える。報道は政権におもねるだけななのか。教育は自由な精神と自立した人間を作らなくてはならない。きちっとした礼儀作を身に着けるよりも、自分の意思を持った子供が一人でも多く育つことだ。自らが自分のやりたいことを探せる人間になることだ。自分の行動や努力に対して、自らの判断ができる人間を育てることである。国にただ従うような人間ではなく、国に対して批判精神を持った人間である。教育は教育勅語を暗唱し、国の命令をうのみにするような人間を作るものではない。その失敗が明治以来第2次世界大戦に至る、日本の失敗の歴史である。その失敗をもう一度やろうとしているのがアベ政権の方向である。日本人は豊かな暮らしの中で、優しい日本人にはなった。明らかに若い人たちの方が、優しい。その優しさが故に、アベ政権に対して、強い反対の意思を示せないでいる。その優しさが優柔不断に繋がり、アベ政権の国家主義に反対の意思を感じなくなっている気がする。

 

 

 

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イソップ寓話

2017-02-22 04:06:36 | 

寓話ーーーむかしの鶏は夜中でも始終鳴いていたものだ。今では明るくなってからだけ、元気いっぱいに鳴いている。昔の猫達は鶏の声がうるさくて、始終不機嫌なものだった。四六時中起こされているのでは、素早くネズミをとることができない。猫はお腹を減らしてふて寝をしていた。鶏は猫がいつも昼間から寝ているのが寝不足とは知らなかったのだ。夜猫がネズミを捕ってくれているのを知らなかったのだ。猫仲間では、鶏と話し合いをする必要があるという事になった。いつでも餌を探しているくらい食いしん坊の鶏のことだから、夜中に鳴くのを止めるはずだという事になった。鶏さん、鶏さん、私たち猫は、夜の間中ネズミ捕りをしているのだよ。ネズミが増えれば、餌となる落穂が無くなってしまう。これには鶏も驚いた。知らなかったとはいえ、馬鹿なことをしていたものだ。それ以来、鶏は明るくなってからだけ、鳴くことにした。教訓、話してみると、解決することもある。---今書いてみた寓話。

アンデルセン童話とか、グリム童話とかの続きで、イソップ童話というものがあると思っていた。いつ知ったのかも忘れてしまったが、イソップは童話ではなく、寓話というものだということを知った。紀元前6世紀にギリシャのアイソーポスという奴隷と言われる人が、寓話をまとめたとされる。現在のイソップ寓話集と呼ばれるものには、アイソーポスのものだけではなく、それ以前から伝承されてきた古代メソポタミアのもの、後世の寓話、アイソーポスの出身地とされる(小アジア)の民話を基にしたものも含まれているそうだ。イソップ寓話がキリスト教以前の中東にあった沢山の民話が由来のお話と考えればいいようだ。旧約聖書もそうらしいが、なんとも言えないような理解しがたいお話が、中東には残されている。中東世界の奥深い哲学のようなものが窺える。「アリとキリギリス」「北風と太陽」「ウサギとカメ」誰でも知っているお話である。

ほとんどのお話が動物や虫の出てくる話である。身の回りにいる動物たちが起こす、なるほどというお話やどうしてという話。何を意味するのかが分からないものも結構ある。おおくが人間の教訓という体裁になっている。人間も登場はするのだが、ほとんどが飼われている家畜とのかかわりという体裁で脇役が多いい。人間と神様という話もある。ウサギと亀の有名な話も、本来かかわるはずもないものが、その生き物としての全く異なる特徴を話しの筋書きとする。つまり飛び跳ねるウサギと、ゆっくりと歩く亀。これを人間の目線で競争をさせるわけだ。何故お話が教訓になるのか。教えを子供たちに伝え残そうという事なのか。イソップの話の中には、そうだと同感できるものは私には少ない。ちょっと何の事だか。というピンとこない話も多いい。民族性の違いなのだろうか。

実は寓話は、世界中の民族に残されていて、柳田國男氏のもも太郎の誕生にはそのことが書かれている。地域を深く掘り下げれば、必ずグローバルな翼が折り畳まれている。ローカルの深い根っこがグローバルにつながる。だから、よりローカルである必要がある。10年、100年、1000年と時間の熟成を経ながら、民話は伝承され、何1000キロも旅をする。民族の経験の時間が、民話を生む。昔話というものはすべてそうして練り上げられたものだ。常民が暮らしの中で、面白いと思われたものが残ってきたのだろう。イソップ寓話もその点で読むと、含蓄が深い。皮肉に読めば、どの話もそうではない結末が読める。昔話は教訓目的というわけではない。お話自体を意味を考えずに楽しむ。イソップ寓話には乾いた感触があり、行いに善悪がない。その行いにより馬鹿を見る話が多いい。日本の昔話には湿度のある情緒のようなものがあり、因果応報や恩返しになる。

 

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国連平和維持活動

2017-02-21 04:24:34 | Peace Cafe

国連の平和維持活動とは、紛争地帯に平和を作り出す活動なのだろう。それなら日本らしい平和憲法にふさわしい後方支援の活動があるはずだ。軍隊を派兵するのは日本らしい平和活動とは言えない。平和を作り出すためには、確かに当面の軍事衝突を緩和する国連の介入もある。しかし、それだけで平和がうまれる訳ではない。紛争や武力衝突が起きた、根本原因が解決されない限り、紛争は再燃するだろう。スーダンで起きた戦争の原因は、今世界で起きている第3次世界大戦の一つである。原因は3つある。1、イスラム教とキリスト教との軋轢。2、石油をめぐる利権の対立。3、貧困と格差・分断の拡大。こうしたなかで、スーダンでイスラム原理主義国家が独立した。そのことに反発したキリスト教徒が中心の南スーダンでは独立運動がおこり、独立投票が行われ南スーダンとして独立する。しかし、独立はしたものの、南スーダン自体の紛争の火種はそのままある。

キール大統領が昨年7月マシャール前副大統領を解任したことに端を発し、政府軍と反政府軍が戦闘を開始した。この両者の戦いが南スーダン国内に大変な虐殺を起こすことになっている。しかも、南北のスーダンの対立も収まったわけではない。国境の確定、石油利権、宗教対立が残り、深刻な分断が起こり、紛争に繋がっている。確かに人道上の問題は深刻であるから、国連軍が間に割って入ることは一つの手立てであるが、そのことが3つの問題の解決に繋がる訳ではない。根本の解決には程遠いい事態である。それは、今まで日本が参加した国連平和維持活動はどれも同じで、一時しのぎのことに過ぎな買ったことがその後の経過を見ればわかる。アフガニスタンではペシャワールの会は根本解決のために水路を引く活動を行っている。紛争の根本に生活の破壊があるからだ。水を引き豊かな大地が取り戻せれば、貧困も病気も軽減される。そうした地道な生活再建の活動によって、アフガニスタンに平和を取り戻す活動である。日本の行うべき平和維持活動とは、そういうものではないだろうか。

喧嘩に割って入ることも無用とは言わないが、日本らしいやり方とは言えない。住民が暮らしを取り戻せる環境を地道に作り出す。これにわずかでも手を貸す活動。その国の人たちが、自力で国を作り出す力に手助けをする。今人道支援を必要としている最中に、そんな悠長なことではと思われるかもしれないが、いずれにしても残念ながら、その国の人が解決に向かわない限り、解決など出来ないと考えなくてはならない。あくまで平和の方角へ歩みだす、一歩に力を貸すだけではなかろうか。日本には日本らしい平和の貢献方法がある。これをやろうとしないで、国連平和維持軍に日本軍を派兵するという事は、日本憲法に示された平和主義を、アベ政権が信じていないという事に起因する。憲法に従う義務がありながら、その憲法を信じず、改憲を目指す勢力が現政権を作っている。その政権は選挙で国民が選んでいる。つまり、3分の2に近い有権者が日本国憲法の平和主義を、軽んじている事態である。

平和外交をやりもしないで、無意味と断言する。中国を敵視し紛争の火種を自分から起こし、日本の軍国化に躍起となる。これが現政権の本質である。中国を敵視している間に、北朝鮮というとんでもない国が核ミサイルを保有しつつある。現状でも核爆弾を日本に打ち込める状況になりつつあるのだろう。それは、韓国、中国でも極めて深刻な事態との認識のようだ。しかし、誰もこの冒険主義国家北朝鮮を押しとどめることは出来ない。いくら軍事的な対立を深めたところで、この国の冒険主義は油を注がれるだけだろう。戦争を食い止めるための抑止力は、軍事力では効果がないという事だ。中国という武力を急速に強めている国でも、北朝鮮の暴走を止めることが出来ず、いまや日本に次ぐ、危険な国家と考えている。武力に対抗することが抑止力とは言えなくなっている。

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ドル高が良かったんだっけ

2017-02-20 04:46:18 | Peace Cafe

トランプ大統領が夜中に突然補佐官に電話をして、ドル高の方が良いのか、ドル安の方が良いのか質問したという、ウソのような話があるそうだ。アメリカファーストだから、ドル高が良いと思ったのかもしれない。私は常々、円高が良いと考えている。ところがアベ政権は円安誘導をしているとトランプ氏には文句を言われた訳だ。何故、円安の方が良いと安倍政権が考えていると思われたかである。ここが不思議である。言い訳めいた説明によると、デフレ脱却政策を進めているだけであって、円安誘導をしている訳ではないと、麻生財務相は説明をしている。いずれも、円高は日本にとってマイナスと考えているようだ。何故なのだろう。円が高くなるという事は日本全体の価格が上がるという事なのだから良いはずだ。アメリカの不動産を日本の企業が購入しやすくなるというようなことが起きる。一時、日本資本がアメリカに大きな投資をした時代もあった。

円安で恩恵を受けるのは、輸出する企業ぐらいではないか。円高というのは普通の生活者全般には、大体の場面で良いことだと思うが。円安なら外国からくる観光客にはいいのだろう。要するに普通の生活者には円高が良いと言って間違いないようだ。ガソリンも安くなる。電気も安くなる。輸入品はすべて安くなる。ユニクロの服も安くなれば、電化製品も大体は安くなる。円安でいいという人は少数派だ。何故、政府はわずかな輸出企業のために円安誘導をすると疑われなければならないのだろうか。トランプ大統領ではないが、誰か詳しい人に聞いて見たくなる。もうひとつ経済でわからないのが、国際収支が赤字になるという話である。貿易の収支が赤字になるというのも同じだ。赤字だから、つまり物を売るより、買う方が多いいという事だろう。家庭においても、毎月の収入が赤字であれば、困ることではあるが、買うものに物にもよるだろう。金を買って赤字であっても、金が値上がりすれば資産は増えるわけだ。ガソリンをたくさん買って、赤字になるとしても、そのガソリンでたくさんの生産を上げるのであれば、国が豊かになってゆくという事でもある。

アメリカで工場を作るとして日本からお金が出てゆく。しかし、アメリカで自動車工場に投資すれば、アメリカでの自動車の生産量が増えるされる。これがどこかへ売られ、その儲けが日本に還元されるのかもしれない。様々なお金の流れが考えられる、貿易収支だけでは困ったことなのか、良いことなのか数字で判断してはならない。その内容がどうなのかである。国が発展途上の状態で、国内に工場が出来てゆくような時代であれば、製造施設の投資による貿易赤字は良いことである。さらにわかりにくいのが、消費にお金が回らないから良くないという話である。消費をしなければ、景気が悪くなるので、国民は消費者と呼ばれて消費を盛んにするように期待される。確かに企業にとっては消費が少ないというのは売り上げが少なくて困る。しかし消費をしなければ、家庭の経済は豊かなになる。節約することは家庭にとっては美風である。

経済のことはどうもわかりにくい。むしろ政府や報道が意図的に分かりにくくしている。国民の損が企業の得になりやすいから、偽ニュースが流されているのではないか。大本営発表に騙されているようだ。生活者の視点と、全体のことが相反することがままある。日本にとって良いと、政府が言うことはいつも眉唾だと思って聞いている。企業の利益が個人にもいつかは回ってくるという事がよく言われているが、どうも企業の利益だけが留保されてゆくようだ。特に自給の農業者にとって良いという事は、大体において、日本にとって困るという事に説明されている。報道というものが企業の広告に支えられているという事から、景気が悪くなると広告収入が減るという事を怖れているだけではなかろうか。騙されないようにしないとならない。

 

 

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将棋・相撲・絵画、前近代的組織

2017-02-19 04:14:27 | Peace Cafe

伝統的な組織は大きな失敗を繰り返している。芸術分野の組織では代表的団体日展が、不祥事で改組し出直し。大相撲は八百長と暴力行為で開催の中止。日本将棋連盟はソフト不正疑惑で人格者谷川会長の痛々しい辞任。日本的な組織作りをすると、同じような失敗を繰り返す。将棋でも、相撲でも、絵画でも、それぞれの仕事においては自信満々な人が組織の中心を担う。将棋など頭の回転に自信がある人なのだろう。仲間に疑いが向けらた。その疑いだけで出場停止にしてしまうという、とんでもない処分をしてしまった。代表の谷川会長は責任を取って辞任した。しかし、仲間に対して明確に疑いを表明した、久保、橋本、渡辺の3名は全く責任を感じていない態度である。仲間の一人をカンニングしたという冤罪を世間に表明するという事が、人間として問題があることに自覚がない。冤罪ほど痛ましいことは、他にはないという事が分かっていない。

相撲取りの場合、なかなか組織運営が難しいかもしれないと、失礼ながら感じる人が多いいかもしれない。しかし、将棋棋士も全く同じである。将棋が強いという能力と、組織運営という意味はまるで違う。この違いが分からないから、谷川氏の前の米長氏もひどい運営をした。もっともらしいへ理屈を述べるが、結局は勝手読みである。気に入らない人を理由なく除名処分にして、名誉回復の復帰となった。ソフトを見ているのではないかと疑いが上がった時に、即座にスマホの持ち込みを禁ずる。そして過去の対局の棋譜の疑われるものを調査すればよかった。静かにそれだけをすればよかった。そして、棋譜が疑わしいい結果が出た時に、スマホを調べればいい。絵の団体の場合、芸術は何が良いかわからないというところが味噌である。お互いに持ち上げて、日展理事だ、芸術院会員だと、まさに、仲間で堂々と談合をしているわけだ。世界的に見れば井の中の蛙である。何しろ一番目立っていたあの平山郁夫氏は早くも世間で忘れられ、世界はもちろん世間の評価も日に日に薄くなっている。談合の延長線が組織運営だから、おかしくなって当たり前だ。

このように日本の古い形の組織が運営で失敗を犯すのは、組織運営は民主主義でなければならないという事を理解していないからだ。民主主義が嫌いで、偉いと思い込んだ人は勝手気ままの独裁を当たり前と考える。絵描きなのだからそんなに悪いことをする訳がない。そんな言い訳をしたので驚いたことがある。たぶん日本の企業もこの民主主義が苦手で、そんなことを言っていたら、競争に負けると考えているところが多いいのではなかろうか。しかし、そんな考えが通用し無くなってきている。自由に発言できる空気がない企業は生き残れないのではないだろうか。企業については単なる想像であるが。水彩人では運営は民主的に行うという一言を規約に入れた。組織は必ず民主主義的でなくなると予想したからである。その会の代表の絵に対して、出品者の一人が自由に批評できるかどうかでそれが分かる。

民主主義は面倒くさいものだ。埒が明かない。効率が悪い。時間ばかりかかって何も決められない。人望はあるかもしれないが無能な指導者が登場して、組織を悪くする。それでも、民主主義の方がまだいいのだ。人間を互いに尊重するという事は、最も重要なことだ。そうでなければ人は成長できないからだ。能力主義というのは1番を作る考えだ。2番では競争に勝てないと思い込んでいる。2番以下の大多数の人を能力不足の、努力の足りない人とする。負けたっていい。ダメでもいい。自分らしくあればいい。つまり大多数の人々は2番以下なのだから民主主義が良いのだ。少数の力のあるものには都合の悪い考えが、民主主義なのだ。絵画芸術は一人一人の描く人のものになる。見る人のものではなくなるという事だ。描くという意味に絵画の意味がある。それが私絵画だ。これからは絵画はそういう存在になると考えている。その為には、組織は民主主義だ。それ以外にない。

 

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漫画の絵がリアルになった理由

2017-02-18 04:15:31 | 水彩画

漫画の絵がずいぶんリアルになった。そうでなければ、雑誌が売れないのだろう。世間的に言えば絵は上手くなっている訳だ。写真的上手さで競っているような漫画が増えている。この変化は漫画の世界も衰退期に向っていると考えられる。私の子供の頃の漫画は、つげ義春さん、赤塚不二夫さん、秋竜山さんとか下手なところが良いという人が大半だった。赤塚さんなど、右手が疲れたので、しばらく左手で書きますなどと、よれよれの漫画を描いたこともあった。しかし冒険王などにはリアル漫画もあることはあった。面白いと思わなかったと思う。当時もアメリカの漫画はやけにリアルでつまらなかった。空きのない漫画だった。日本にまだ、漫画という現実ではない絵空事の世界を楽しむ、文化があったという事だろう。下手な漫画を楽しむためには、文化が必要である。書き手と読み手の間に共通の素養が形成されていなければ広がらない世界。

その盛り上がった時代が江戸時代。浮世絵は販売用のイラストのようなものだ。版元が競って売れ筋を探していた。その結果が写楽であり歌麿である。江戸時代の人はリアルな西洋絵画を見て、影を汚れていると見えたそうだ。今も横山キムチさんのような下手派の人も居るが、流れはこっちにあるようではない。ギャグマンガは下手な方が良いという意見もある。そういう下手の意味ではなく、全ての漫画が自分の世界を持っているところが面白かったのだ。下手という言葉の使い方が違うのかもしれない。手塚治さんだって、横山隆一さんだって、上手い漫画家ではない。そもそもうまいマンガなど存在しなかった。存在できなかった。ヘタウマ文化というのが80年代に一時代あった。ウマウマは嫌らしい。ヘタヘタは論外。ウマヘタは最悪。そしてヘタウマが面白いという時代。湯村輝彦、渡辺和博、蛭子能収、根本敬、みうらじゅん、しりあがり寿らが牽引と書かれている。

これは美術の領域にも影響していた。現代美術のその後の流れのように段ボールアートが注目されたりした。今時の現代美術は工芸作品風の装飾で生き残っている。ヘタウマ時代は最後のあがきの時代。「下手は絵の内、上手いは絵の外」と言ったのが文化勲章を断った熊谷守一仙人。私も自己弁護に、下手だっていいと言う主張にこの言葉を使っていたが、実は「上手い絵画は絵ではない」という強いメッセージだったと後で気づいた。しかし、上手いは絵ではないと共通に認識できるためには、江戸時代のような共通文化の成立が必要になる。価値観の喪失が起きている時代では、社会共通の文化的な土台が失われている。梅原龍三郎が良いなどと言ったところで、若い人で理解できる人はほとんどいないのではないだろうか。上手いのか下手なの判断不明の人が明治以降の日本洋画の最高の芸術家として文化勲章を受章した時代があったのだ。日本文化に分断が起きている。もちろんそれは社会全体に起きている分断が、文化に表れたものに違いない。リアル漫画の出現はそうした、文化衰退の末期現象の表れではないだろうか。

絵画は共通価値から、描く行為に存在意義を移し始めている。リアル漫画も分断社会にしがみ付いた形で生き残っている。それはリアル絵画と同じ現象である。社会の中での存在をかろうじて探しているのだろう。しかし、それは分断の中で起きた、唯一のリアルという誰にでもわかる価値。リアルという即物的な価値観である。そのこと自体が時代の衰退の表れと考えざる得ない。リアル漫画では自己探求にはなりにくい。リアル漫画は上手いという事にしがみ付いているので自分の世界観の表現が困難になっている。 絵画は描くという意味に深く入り込む必要がある。絵で何をするべきかと言えば、絵は自分の見えている世界を描くものだ。見えているという世界の意味を探るものだ。描くことによって自分の生きるを発見することだ。描くことによって確認することだ。見えているものを確認することを通して、自分というものを知る。絵を描くという事は、自分が本当に生きるという事を探ることだ。それが私絵画ではなかろうか。 

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みんなで貧しく

2017-02-17 04:33:02 | 暮らし

上野千鶴子さんが平等に貧しくなればいい。と中日新聞に書いて批判をされている。確かに、炎上と言えるような暴言の批判がネットに渦巻いている。上野さんの思うつぼだろう。まともな批判も埋もれてはいるのだろうが、前向きな意見は少ないように読んだ。上野さんの貧しくなる論は前向きな主張なのだと思う。その意味の議論に広がってゆかなければ意味がない。この低級な批判姿に今の社会の階層化が良く表れている。資本主義による競争が、限界に近づいている。この認識で、評価は変わるだろう。資本主義が人間を壊し始めているのではないか。能力主義が人間らしく生きるという事をゆがめ始めている。こういう提起なのではないか。貧しくという言葉が刺激的で、注目を浴びたのだろう。言葉を変えて考えれば、もう少し本質的な議論に深まるのではなかろうか。人口減少が貧しさにつながるという発想は、アベ政権と同じ土俵にいるのは残念だと思う。人口減少がGNPの減少になるのは確かだが、個人所得の減少になるとは限らない。まして貧しさとは別のことになる。

上野千鶴子さんは金沢の二水高校出身である。私と同世代である。そういう事もあって、なんとなく注目はしてきた方である。今回のテーマの立て方もいかにも、らしい言い回しだと思った。貧しくなるという言葉が、今の社会では恐怖として蔓延する。金銭シカ価値観がない社会だからだ。この階層社会の急所を突いたのだと思う。格差社会がじわじわと広がる中で、下層に落ち込む不安。また下層に所属していて、上昇志向にもがく人々。その淀んだ空気をうまく刺激したのだろう。貧しさとは何か。豊かさとは何か。このことをじっくり考える機会にしたい。分断の不安の中で生きている大半の日本人には、貧乏で我慢しろ。と言われたような気になってしまうのだろう。

自給自足的生活者の収入は生活保護世帯と変わらない。しかし、最も豊かな暮らしを享受している人たちである。安心立命の暮らしである。お金とは別の日々の暮らし自体が豊かなものになる。水道の水と、スーパーのペットボトルの水と、高価な何とか水と、谷から湧き出る水と、豊かな水とはどれかである。飲めれば同じではある。しかし、私は生きた水が良い。それこそ豊かな水だと思う。飲んでしまえば同じであるが、やはり湧水を飲める暮らしを豊かな暮らしだと思う。水道であれ、ペットボトルであれ、有料である。湧き水は無料の水だ。まさに貧しくとも飲める水である。自然の恩恵を受けて、お金とは別に生きる。生きた自然の水が飲めるという事が豊かなのではないか。富裕層の人が魚沼産のコシヒカリを食べて、イベリコ豚にトリフォーやキャビアを食べる。これが富裕層の贅沢な豊かさ。自給暮らしの豊かさは欠ノ上の自給田んぼのサトジマンを食べて、笹鶏の卵と山のキノコと山菜を、今ならブロッコリーを食べる。

どう考えても私は豊かな暮らしを送っている自覚がある。日本人は競争を捨てれば豊かな暮らしに、いつでも戻ることが可能なのだ。等しく貧乏になる覚悟さえ持てば、素晴らしく豊かな暮らしを送ることができる。すでにその兆候が日本全国に広がっている。農地が誰にでも使える時代になった。家も準備するから来てくださいという、地方自治体まで存在する。感謝されて豊かな貧乏暮らしができるのだ。人口減少のお陰である。こんな豊かな国はあるだろうか。考え方を少し変えるだけのことだ。等しく貧しい暮らしこそ、自給自足の豊かな暮らしへの入り口である。豊かさには実はもう一つある。心の豊かさである。トランプさんは貧しい心の人に見える。少しも心にゆとりがない。一休禅師になることだろう。心豊かに日々を送るためには、文化に対する教養が必要である。絵を見て理解し、喜びを感ずることががきるか、できないかには、ゴルフは下手でも文化の素養が必要である。こちらの貧しさは、ちょっとひどいことになっているように思う。

 

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沖縄の分断

2017-02-16 04:10:07 | Peace Cafe

沖縄基地負担を日本人の沖縄県民を除いたすべて人が、反省し、責任を負わなければならない。米軍基地が沖縄に集中していることは、周知のことである。そして普天間基地が住宅密集地にあり、危険回避のために緊急に移転しなければならない現状だ。ところがその行き先が辺野古が唯一の移転先だと、アメリカの大統領も、アベ政権も確認した。その理由が説明されたことはないが、要するに日本人の大半の人が米軍基地が自分の暮らしているところに来ることだけは御免こうむりたいと考えている為だ。にもかかわらず日米軍事同盟で、日本は米軍に基地を提供する義務を負っている。そうした犠牲を沖縄だけに押し付けて済ませてきたのが日本人ずるい心である。そして、今や自衛隊基地を沖縄の南の島々に新たに配置し、日米共同使用を目指している。これは、米軍基地の縮小にとってかわる、日本側の提供する米軍基地の代用と考えておかなければならない。トランプの主張するアメリカの負担軽減である。

いずれにしても、沖縄に軍事基地を集中的に置き、その騒音被害、事故の危険、攻撃の可能性の増大、米兵の無法行動の被害。こういう基地被害を自分の地域にだけは避けてきたのだ。この同じ日本人でありながら、一方的に沖縄の人々が負担してきた米軍基地を、日本人は安全保障全体を見直しながら、検討すべきことだ。政府は沖縄に集中させておき、日本国内全体に、反米軍基地運動が広がることを防いできた。国内の米軍基地は減少した。沖縄で起きているようなことが、日本の至る所で起きていたら、すでに日米同盟は否定されたことだろう。それが、沖縄県民の負担という形で、かろうじて継続されてきたのが日米軍事同盟である。日本人であれば誰しも、アメリカの支配下に置かれることを喜ぶはずがない。まあ、特殊なアベ政権であれば、アメリカに隷属することを、屈折して喜びとするかもしれないが。不思議な国粋主義者が存在と思わざる得ない。日本の右翼勢力というのは、実に抜け目ない、ずる賢い、ご都合主義者としか思えない。赤尾敏氏ですらアメリカ批判をしなかった。

沖縄の米軍基地は今後自衛隊基地に代わってゆくことだろう。自衛隊のミサイル防衛の監視基地が、与那国にできた。宮古にも迎撃ミサイル基地ができることが決まった。そして、石垣もできることでほぼ進んでいる。先島列島に基地ができることは仮想敵国中国と言いながらも、実は、アメリカの世界戦略に組み込まれていると考えなければならない。日米同盟が強化されて、沖縄の米軍基地が縮小、そして自衛隊基地の拡大新設。軍事戦略の中で、自衛隊だけが単独で軍事戦略を作っているはずがない。アメリカと連携しながら、というか、アメリカにそそのかされ、要求されながら、対中国敵視政策がすすめられていると考えるべきだ。軍事的な危険度を考えれば、中国よりも、ロシアよりも、明らかに北朝鮮を考えなければならない。何か在れば核爆弾を打ち込むと公言してはばからない国がすぐそばにあるのだ。その国に対しての軍事対抗策はすでに万策尽きている。

つまり、北朝鮮のような小さな国力の国ですら、軍事抑止力では手に負えなくなっているのだ。それが現代の軍事力の巨大化だ。もしイスラム国と北朝鮮が軍事同盟国であればどういう事になるか。世界は悲惨な終末を迎えることになる。もう武力で抑止することは出来なくなっている。これが戦国時代であれば、互いに結婚をして親戚になるとか、人質をとるとかいう素朴なことで抑止力になった。しかし、現代の戦争はあまりに強力な武力を人間が手に入れて仕舞った。もう武力による抑止力に期待できる時代は終わろうとしている。仲良くなる。理解し合う。今まではそんな頼りないことでは抑止できないと思われていたような、ひ弱と思える手法に頼らざる得なくなりつつある。この頼りない手法で、世界平和への道を見つける以外に、人類に希望は無い。しかしこの頼りない方法はまだ十分に試されたことはない。ともかく、沖縄に負担を集中させ続けている現実を直視し、共に考えなければならない。

 

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トイレの絵

2017-02-15 04:03:29 | 水彩画

トイレには自分の絵が2枚置いてある。トイレの絵だというのは絵の悪口のように使われることがある。しかし絵には美術館にあるべき絵もあるが、暮らしの中にある方が良い絵もある。トイレに置かれた方が美術館よりも本領を発揮する絵があるかもしれない。私にとって絵が置かれている良い場所は、案外トイレぐらいかもしれない。絵を飾って鑑賞している訳ではない。一歩前進のきっかけをつかみたいから掛けてある。案外トイレは絵の問題点を気づく場所なのだ。家中至る所に絵があるから、何処だからという事でもないのかもしれないが、トイレは意外に頭が働く。トイレで初めて気づいたこともある。絵を見続けていてやっとわかることもあるし、偶然見て、つまり絵だとも思わないで見て、気づくこともある。壁のシミを名画だと思って鑑賞してしまい驚くことさえある。窓からの木々が絵のようで、今見た絵よりましだなと、北の丸公園の近代美術館で何度か思ったことがある。

絵は常に、現場で始まる。畑、田んぼ、庭の作業中だ。絵を描くつもりではなく、何か他のことをしているときに、急に絵になる何かが湧いて来ることがある。それを自分の中で温めておく。それがいざ絵を描くときに、出現することがある。車で描きたい場所に描きにゆき、窓から見ながら描く。庭を描くときは家の中から眺めて描く。これは、風景を見る手立てである。そとに立つとその現場に巻き込まれ過ぎて、冷静に絵が描けない。だいたい1枚の絵で2時間ほど描く。それで出来上がることはない。またその場所に戻り、描いて見る。同じ場所を何十枚も描いて居るのに、必ず違う絵になる。違う場所で描いた絵を、違う場所の風景を見ながら描くこともある。そしてもうどうにもこうにも進まなくなる。そして大抵は終わりになる。捨てるわけではない。そして家のどこかにかけておく。その続きが描蹴るときが来るかもしれないと待っている。全部をかけて置けないので、引き出しの中にしまっておく絵もたくさんある。

絵を時に取り出してみる。何十枚の中から、これは続きが描けるという絵が出てくる。それをアトリエの壁に並べておく。それでも続きがすぐ描ける訳でもない。また、現場に持って行って描いて見る。そしてある時期になると、急に仕上げるぞというような気持が湧いて来る。仕上げるというのがどういうのかわからないが、終わりまでやってみようと思うことになる。いつも描いて居るのは描きだしているのであって、結論を出そうとか、何か具体的なことに向っているのでもない。書き出しで終わる絵もあるし、結論までは行けないものだ。今、トイレにかけてある絵は、神田日勝美術館に出した、富士山の絵。もう一枚は一枚の繪の小品展に出した富士山の絵。両方とも今ならば描かない絵だ。自分の絵が変わってきていることを毎日教えられるので、そのままにしてある。発表した絵なのだから、その時の自分には精一杯のものだったのだろう。今見てみると描こうとしていることがじつに曖昧である。富士山という美しい風景を絵にしているにすぎない。

今は描こうとするものは、この頃よりは具体化してきたようだ。先日も篠窪からの富士山をたまたま描いた。今篠窪は菜の花と富士で人だかりができるほどだ。確かに美しい。富士山の絵が、風呂屋の看板絵のようだから描かないという訳ではない。ただ、人が美しく見えるように景色として作りあげているものは、何か不調和がある。菜の花が、油をとるためのものなら、また違って見えるかもしれない。ただ観光客を呼ぶために、美しいふるさと風景を、景観として作り出している、この違和感のようなものが先行してしまう。そこに暮らしが失われた代わりに、桜や菜の花を植えるという事は、美しいという本質には近づかないという事ではないか。少なくとも絵に描くべき美しさはそういうものではない。トイレの絵を見て、そういう事に気づくわけだ。

 

 

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小田原差別ジャンパーは何故10年も続いたか。

2017-02-14 04:18:28 | Peace Cafe

小田原市の生活保護課の職員が差別ジャンパーを作り、10年間着ていたという事が明らかになった。ジャンバー以外に様々グッズまであったようだ。この事件は私自身厳しく反省しなければならないところがある。今思い出してみると、このジャンパーを2度目撃している。そして、一度はこのジャンパーについて問題があるのではないかという相談を、ある職員からされたことさえもあった気がしてきたのだ。記憶がおぼろげで確かでないので、何とも言えないのだが、ともかく2度このジャンパーを着て出かけてゆくところに出会っている。このジャンパ―はその時は生活保護課の入口の洋服掛けにかかっていた。そして、確かにその文字も見たのだが、何が書いてあるのかはわからないかった。気付くべきだった。本当に恥ずかしいことで申し訳ない。この制服が職員の作業着なのだろうとぐらいにしか思わなかった。ケースワーカーの人がこのジャンパーを着て、受給者の所に向かうとは理解できなかった。自分の認識の甘さに愕然とする。申し訳ない。

気付かなかったことは私の罪で、言い訳はできない。まして私はその時に、受給者から訪問に来る職員に困っているという相談で出かけていたのだ。不正受給を疑われていた、精神障害がわずかにある人であった。その人に病院を紹介したり、診断書を用意したらどうかなどと話し合っていた。当時不正受給の件で小田原市役所では問題を抱えていたことは確かだ。結構暗い空気だった。職員に対して、厳しく不正受給を取り締まれという圧力が起きていたのだろう。世間全般にそういう空気は今も続いている。小田原市は市長名でこの件に対する反省とお詫びの見解をホームページに載せている。しかし、この文章を読んでも、このジャンパーを見逃した大半の人の問題。又気づいていた人がいたのだが、声を上げられなかった人たちの問題は見えてこない。社会の奥底にある深い問題には、まだ気付いていないようだ。あるいは気づかないふりをしているのかもしれない。

今回の事件は、小田原市民全体の責任だと考えなければならない。苦情が多数あると同時に、頑張れという意見も多数あるそうだ。市民全体に、生活保護受給者に対する差別意識があると考えたなければならない。そして、その差別意識の背景には日に日に重たくのしかかる階層社会が存在する。弱者に対する自己責任論である。頑張れない者に対して、自己責任を問う声である。精神障害を持っている友人も、自分を障碍者として位置づけ、障碍者年金を受けることが、どうしてもできなかった。そのことから起こる親族にまで及ぶ差別を心配していたのだと思う。親の因果が子にたたり、因果応報的な思考法から抜け出ていない社会。精神障害に対する誤解の壁も大きいのだろう。わたしが生まれた山梨藤垈の向昌院は精神障碍者の生活施設でもあった。私の小さなころに徐々に病院が出来て、寺院で預かるというような形は無くなっていった。それでも、時々ゆくところが見つからず、家族で来る人たちがいて、一緒に暮らしていたこともあった。そうした子供の頃の経験を考えても、ともかく社会の差別意識の重さを思わずにはいられない。

あのジャンパーに私が気付けなかったことは、感性の鈍さだった。情けなく恥ずかしいことだ。あのジャンパーを作った人と同罪だと思う。責めることは出来ない。その上で考えるとすれば、残念ながら小田原は差別意識の強い地域だという事である。しかも、その自覚が社会全体にない。よそ者としてこの地域に来て、根深い同族意識からくる排除を感じて暮らしてきた。市民全体にその自覚が乏しいことが、解決を困難にしている。その結果、今回の事件が単純な事故として処理されようとしている。迂闊な職員が、軽いノリで行った行為に過ぎないと指摘した市会議員がいた。軽いことと受け止めている。むしろ、小田原に存在する差別意識、階層意識、分断意識が、あのジャンパーの問題にある。10年間気付かなかった原因を自分のこととして受け止めなければ、何も改善されないだろう。この機会に心底反省すべきだ。また、小田原に根本的な差別意識があることを確認しなければならない。ジャンパーを辞めたところで、何も変わることはない。行き着くところは憲法の学習から始めることしかない。

 

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スーダン戦闘地域への日本軍の派兵

2017-02-13 04:11:07 | Peace Cafe

南スーダンへの国連平和維持活動へ、派兵した日本軍の日報の記載事項が問題になっている。昨年の7月頃、スーダンの首都でPKO活動を行っていた自衛隊の日報に、戦闘行為があると記録されていた。政府はジュバは平穏で危険はないと説明を繰り返していた。嘘だったことになる。9月に日報を開示するようにジャーナリストの布施悠仁さんが希望したところ、12月2日になって、すでに破棄してしまったので、開示しようがないとされた。嘘の上塗りである。河野太郎氏がそ再度調べるように要求したところ、今年の1月にになって、廃棄されていないで見つかったという事になったらしい。その結果日報の記載を隠し通せなくなる。それが防衛大臣に報告されたのが、さらに遅れて1月27日になってという事である。そして、2月7日になって公表された、黒塗りの日報には、スーダンの首都でジュバで戦闘があったと記載されていた。つまり、現地のPKO部隊は引きあげなければならない事態だったのだ。国連の報告にもそうあるのだから当然である。中国兵は2名戦死している。

稲田防衛大臣は国会答弁において、日報にある戦闘行為を認めない。PKO派遣条件の5原則に、戦闘行為のある地域には派遣しないと決めてあるからだ。つまり、今政府がしどろもどろで、黒を白と答弁を繰り返しているのは、戦時中の軍隊とまるで同じ態度である。大本営発表では、戦闘は戦争に当たりません。戦争行為を事変などと言い換えを行い、敗北し逃げることを転戦。そして今でも敗戦を終戦と言い続けている。大本営発表は言葉のごまかしを続けてきた。現在の世界情勢に関して、これほどごまかしを続けるのであれば、今後派遣される条件も、その時の都合で言葉を変え誤魔化すことだろう。極めて危険である。国民に本当のことを伝えないで、軍隊が海外で勝手なことをやる。そして、ついに日本が戦争に巻き込まれる。判断するのは国民である。判断のためにはすべて真実を伝えるのは、当たり前のことだ。

国連報告や関係者によると、国連宿営地内の182の建物が銃弾やロケット弾を受け、中国部隊の隊員2人が死亡。宿営地内にいた避難民も含め、戦闘では計数百人が死亡した。国連施設付近では大破した政府軍の戦車が放置され、迫撃砲弾吹き飛んだ家屋もあった。施設近くのホテルでは、国際NGOの職員が政府軍兵士に集団でレイプされる事件も起きた。

海外に日本の軍隊を派兵するという事は、常に戦闘に巻き込まれるリスクの中にある。それを言葉のあやで誤魔化している姿勢は極めて危険である。また日本の軍隊自体が全く統制が取れていないことがよく分かった。日報すら破棄したなどというごまかしで通そうとする体質がある。しかもそれが何か月もたって発見されたにもかかわらず、総理大臣にも1か月も報告がされない。軍隊内部に、大臣など関係ないという空気があるのだろう。文民統制など適当なものだ。現場主義が相変らず横行している。文科省が天下りの裏組織を作っていたぐらいならまだ罪は軽い。軍隊が海外で勝手に相当を始めてしまえばもう取返しがつかない。どうせ素人にわかりやしない。素人は戦闘という言葉だけで、判断を誤るだろう。そして、PKOの派遣が出来なくなる。これだけのことだ。

やはり憲法は大切なものだ。世界は分断が起き、すでに第3次世界大戦は始まっている。この戦争に乗り出していっているのが日本出身の大企業だ。その大企業の後押しをしようというのが、自衛隊という名の日本軍だ。憲法に従い、日本はあくまで平和外交で押し通すべきだ。第2次世界大戦に巻き込まれなかった国だってあった。日本国憲法が、今や世界の平和の希望である。世界が自国の利益だけに翻弄されることになる。ますます、戦争は過激になるだろう。この世界の非常事態も必ず次の地平に抜け出ると信じる。人間は競争主義を克服できると信じる。その理想を掲げた日本国憲法こそ世界平和への道だ。経済競争でどれほど不利益が生じるとしても、戦争に巻き込まれるより、よほど正しい方角に違いない。

 

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冬の棚田の手入れ作業

2017-02-12 04:11:32 | 稲作

田んぼの農道を作った。平らなところが駐車スペース。

道路際のスペースにまず道を作っている。奥に鉄板をかけて、左側にわたるようにした。

冬の農作業は土木工事が多いい。棚田を耕作するという事は、常に土木工事をやっているようなものだ。畔の修復。石垣の積みなおし。田んぼの均平の直し。毎年冬の間に土木作業をしなければ、棚田は維持ができない。棚田は表面は静かに見えるが、実はその地下には水の路がある。山から谷へと常に水は移動をしている。山に降った水は山の表面を流れるだけでなく、多くは地下に浸透し、谷に向かって移動している。移動しているという事は、徐々に土も運ばれ、地下に空洞ができてくる。10年、100年と経過するうちに、地中の中に水路ができている。空洞が出来ればそれが地下の川になることもある。そしてある日田んぼの耕盤は破れて陥没を起こす。あるいは畔の積み上げた石を崩壊させる。見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ。

 水路を農道が渡っている。ここを軽トラが渡れるように直した。下に60㎝長さ240㎝のヒューム管を入れて土砂を被せた。

 棚田を守るためには手入れだ。年々の早めの手入れをすることで、大きな崩壊を防ぐことができる。その為には見えないものを想像するわけだ。田んぼの畔も今はコンクリート化してしまうのが普通になったが、やはり土の畔の方が良い。土の畔の方が美しい。手入れを繰り返してゆく為には始末が良い。これも見えないたんぽぽの根を想像してみることだ。棚田の畔の草は植物の宝庫だ。ここが草でおおわれることで、豊かな田んぼがうまれる。稲だけではやはりだめだ。畔に草があることで害虫の爆発を防いでくれることもある。然し土羽で畔を維持するためには、根気のいる手入れを続けなければならない。少しづつ減ってゆく畔土を足して行かなければならない。これは先日行った。今回は農道作りである。奥の田んぼまで軽トラが入れるようにする。

崩れていた水路の直し。

 一番奥には軽トラが回れる場所を作った。駐車スペースにもなる。奥には栗があり、そこは木漏れ日ガーデンである。年に3回ほど食事会をやる。川沿いの心地よい場所である。そこまで車が入れるようになった。それは奥の田んぼまでトラックターが入れるようになったという事でもあり、ずいぶんの作業が楽になる。新しい田んぼ3枚な併せて、1反3畝ほどの田んぼの畔を作る。この田んぼは畔がほとんどない状態だったので、畑を田んぼにするという状態だった。2日の工事ですべて終わった。あとは水の回し方を直すことになる。

 

 

 

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アメリカを支持する唯一の国、日本

2017-02-11 04:45:42 | Peace Cafe

トランプ大統領時代が来る。アベ政権は早速、2度目のトランプ詣でである。日本は手下でお願いします。土下座外交。オバマ大統領は良心的な大統領だったと思う。そのオバマ氏でもアメリカは変えられなかった。銃規制一つ見ても、アメリカはどこかおかしな国である。そのおかしい方の極にいる、トランプ大統領の登場である。アメリカの分断はさらに強まることだろう。格差の時代から分断時代である。良心派と現生利益派の分断。能力主義の分断。アメリカがそこまで行ってしまった。相反するものが両極に振れそうな気がする。これからの4年、大統領というものが国にどの程度の影響を与えられえるものか。よく見てい置く必要がある。いま日本がおかしくなっているのは、安倍政権のためというより、アベ的政治を望む日本社会だという気がする。トランプアメリカがどれほど世界を危機に陥れるのか、不安は増大する。アメリカファーストが、分断を生みテロを増殖させるだろう。

トランプを生んだのが、アメリカの民主主義である。民主主義が良い国を作り出せるとも限らないようだ。民主主義は人間の本音に従う。民主主義が集団利己主義になれば、衆偶政治となる。世界中の大企業がトランプに従っている。儲かりそうな本音に従う。アベ政権は反中国である。トランプも現段階では反中国である。私はトランプは中国と経済関係は強めるとみている。トランプは軍事力よりも経済優先なのだから、どこかで中国と持ちつ持たれつになる。日本では中国経済崩壊説などという馬鹿げたものが、広がりたがるようだが、もう中国は日本の2倍の経済になり、現在もその差はどんどん広がっている。そして、もうすぐ3倍の国になる。技術的にも日本を凌駕する分野が出てくると考えた方が良い。中国人のなかの有能な人は、頭抜けて優秀である。問題は汚職体質。しかし、これは資本主義には向いて居る資質でもある。

アベ政権の反中国が意味が分からない。アメリカの手下であることは認めるようだが、なぜ中国を毛嫌いするのだろう。いまだ脱亜入欧の明治日本帝国主義の亡霊につきまとわれている。トランプが中国と手を結べは、親方の言われる通りですというのだろうか。自分の髪の毛が黒く、背が低い民族であることを恥としているのだろうか。日本がいつまでも反中国でいると、アメリカに出し抜かれることになる。アメリカがいつ日本より中国を選択するかである。ヨーロッパはすでに中国を選択している。日本がロシアとの関係を見直している間に、どんどん後れを取っている。中国という国は幅広い国だ。毛沢東もいるし、周恩来もいる。劉少奇もいる。今もそうなのだと思う。中国人は幅広く、又優秀だ。人情味もあれば、文化も日本と繋がっている。悪い側面だけを見れば、確かに問題点はある。しかし良い面も奥が深い。アベ政権の悪宣伝で判断してはならない。

絵画文化交流で上海に行った。ひどい絵ばかりだった。即物的なリアル絵画ばかりだ。真似ばかりすると笑い物になるが、写真を模写したような絵が全盛だった。中国文化の栄光はどこへ行ったのかとおもった。ところが今は日本も同じになった。余裕のない社会では、訳りやすいもの以外は消える。存在する隙間がない。筆や紙を探したのだが、ひどいものばかりで、どうにもならなかった。ところが、今の中国の筆のレベルは上がった。実に多様である。日本の筆よりさまざまである。馬鹿にする前に、使ってみれば中国のすごさを知ることになる。日本が伝統文化を、人間国宝的に保存をせざる得ないなかで、中国は生きた形で文化の再生が計られている。これからは産業分野でも、優れたものが登場してくると考えた方が良い。何故か、アベ政権は軍事力でも中国に対抗できると考えているようだが、現実を直視しなければだめだ。アメリカとの軍事同盟を不変と考えているのはアベ政権だけだ。

 

 

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沖縄を考える

2017-02-10 04:14:27 | Peace Cafe

沖縄のことをもっと語るべきだ。黙っていることは差別をする側に立つことになる。差別が起こる原因は社会に格差が広がり、分断がうまれてきているからだ。分断され差別された集団は、より差別される集団を作ろうとする。分断は敵を作る。本来分断の根源である格差。この格差を生んでいるのは能力主義である。自由な競争で敗れた弱者。この競争自体が差別なのだ。人間は能力はさまざまであり、それは個別性に過ぎない。それぞれの固有性に基づいて十二分に生きることが大切なだけだ。赤ちゃんは歩けない。老人になれば身体は衰える。それは誰でも受け入れて、助け合って生きる以外にない。有能な人も尊重されなければならないし、無能の人もそれなりに大切にされなければならない。資本主義という競争原理を追求した考え方も、ITの発達により、その限界が一気に近づいた。弱者と強者の固定化。強国と弱小国との不可能な競争原理の押し付け。

資本主義社会が限界を予感させるがために、差別意識が膨らみ始め、その矛先を探し始める。韓国社会は日本に先んじて、競争主義を先鋭化させた。その結果社会は分断が起こり、不安定化している。日本もその後を追っている。余裕のない社会に入り始めた。どこか血祭りになるものを探し続ける。朝鮮、中国、そして沖縄。朝鮮や中国が、日本批判をする原因も、社会にある分断の結果なのだが、日本の社会は10年前までは、その批判を受け入れる余裕があった。今では、同じ土俵に立って、ヘイト行動が起きる。日本社会の余裕が失われてきていることが原因なのだろう。富裕層の成立。大企業の国際競争への偏重。アメリカへの投資に泡を食う大企業の姿。日本を捨てても、勝ち馬に乗ろうという事だろう。日本にこだわっていたら、利益が出ない。利益以外の価値観を失うのが、資本の原理。

石垣島には瑞穂の国日本の息吹が感じられる。それは田んぼにだ。今回、名蔵の田んぼを、日がな一日眺めていた。欠ノ上の私がかかわる田んぼと何も変わらない田んぼがある。それは、水の回し方であり、畔の作り方だ。田んぼを取り囲む森の姿。田んぼに対する思いが信仰のように漂っている。早朝、まだ水を入れ始めた田んぼの水の様子を見に来る人がいる。一回りして、畔の水漏れを見て帰る。当たり前の姿なのだが、それは毎朝お参りをしているようにも見える。その人は、実に生き生きと誇りを感じさせて田んぼにいる。田んぼは尊いものだと改めて感じさせる。日本教の神様は田んぼなのだ。田んぼ仕事は神事であり、祭りごとであり、生きるという事の修養の場になる。この日本人の姿を皇室は継続している。だから、日本の象徴なのだ。そうした田んぼの心が残っているのが石垣島だ。石垣島こそ日本の故郷だ。

能力主義が差別主義であることを認めることだ。沖縄差別が起こる原因は、日本人が捨てたふるさとを感じるからではなかろうか。競争から離れ悠々と暮らす人を見たくないのだろう。都会に出てすべての情緒を捨てて、ひたすら身を削り競争に明け暮れているにもかかわらず、余裕がない暮らし。格差の底辺に置かれる現実。富裕層への上昇の見込みの喪失感。戦力外通告を受ける現実。瑞穂の国では、能力差はない。それぞれに応じた働き以外にない。田んぼにはそうした大きな許容力がある。力のあるものは力のある役割、知恵のあるものは知恵のある役割、根気のあるものの役割、何もできないが赤ちゃんの笑い声の役割。人間はそうして、協働することで十分に生きることができる。まずはその原点を忘れないことではなかろうか。石垣に感じられるその余裕力を自分の自給生活に取り入れたい。

 

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