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インフルエンザの流行

2012-02-15 04:15:58 | 暮らし
インフルエンザがかなりの勢いで広がっている。過去2番目の患者数で211万人を越えたと言う。65人に一人位がかかっている感じなのか。知り合いにもかかったという人が居た。ワクチンを打ったのにかかるという話も聞く。A香港型だと言う。今季のインフルエンザワクチンは、A香港型とB型、3年前に発生した「インフルエンザ(H1N1)2009」の3種類が含まれる混合ワクチンで、現在の流行に対応している。年齢群別では5〜9歳約57万人(27.0%)、10〜14歳約37万人(17.5%)、0〜4歳約32万人(15.2%)、30代約22万人(10.4%)、40代、60歳以上は共に約16万人(7.6%)の順となっている。インフルエンザ菌が強くなったのか、日本人が病弱いなったのか。
いやな傾向である。乾燥傾向が続いているからと言われているが、最近は雨も降るし日本全体ではそうとも言い切れない。

60歳以上は感染しにくいようだ。子供の頃は毎年風邪をひいていたので、そのおかげもあるのか、20年以上風を引かない。自分ではそう思って居るのだが、毎年引いて言われてどういうことなのか理解が出来ない。ワクチンとか薬とかは使わないが、インフルエンザには少なくともかからない。一番気おつけているのは良く寝ることである。寝られるだけ寝る。寝すぎで本当に時間がもったいないのだが、それでも寝る。朝4時に起きてとても寒いが、暖房は付けないこれも風邪対策だと思っている。食べ物は出来るだけ発酵食品を食べる。牛乳は飲まないがヨーグルトは飲む。漬けものは毎食食べる。出来るだけ自給のものを食べる。小食にする。食べたくなければ夕飯は食べない。運動は適度にする。森林浴はほぼ毎日行う。鶏を飼っている効果がある気がする。育たないのではと言われたほどの虚弱児童だった。常に風邪をひいていたような記憶がある。しかし、山北に越してから、自分でもびっくりしている位、病気にならなくなった。

インフルエンザの大流行の原因は日本人の暮らしかたが、おかしくなってきているから。というのが正解ではないか。都会の暮らしは風邪をひきやすい。ウイルスに接触しやすいこともある。免疫力が低下してくる。おかしな衛生観念が広がっている。除菌思想である。あたり一面に存在する、目に見えない菌を敵とする暮らし。本来菌に助けられて人間は生きている。除菌すれば手助けしてくれている菌もいなくなる。イオンクラスターで室内除菌など、大きなマイナス面があることも考える必要がある。排除の思想ではなく、折り合いの付け方である。田舎暮らしの日本人は年寄りばかりで、風を引きにくい。町場には若い人が中心でインフルエンザの流行が起こる。その上、若い人を中心に、インフルエンザと言えば、うがいをしろ、マスクをしろ、手洗いを施行。こんなことで流行が防げるわけがない。そんなことはウイルスと言うものの実態からしてみれば、気休めのようなものだ。ワクチンで防ごうとすれば、そのワクチンをものともしない変異をするのがウイルスである。

こんな偉そうな理屈を言って居ても、かかる時はかかる。その事も受け入れた方がいいと思っている。そうして死んでしまうこともままあるだろう。それも仕方がない。とことん除菌生活して長生きする人もいるだろう。菌まみれで長生きする人もいるだろう。それは選択なのだと思う。私はこの20数年の暮らしで、何とか病気体質から抜け出たもので、これで行くつもりだ。他の人にも良いだろうとは思うが、総合的なものだから、参考にしてほしいが、お勧めするものではない。しかし、免疫力を高める微生物は乳酸菌や納豆菌様々存在する。私は微生物漬けのような暮らしをしていて、インフルエンザにかからないことは確かである。疫学調査でも乳酸菌でインフルエンザの流行が抑えられるデーターがある。むしろ感染しながら重症化しない、発病しない。こういう対応がいいと思うのだが。
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人口減少時代

2012-02-14 04:52:48 | 地域
人口の減少が勢いを増して来た。希望の出てくるニュースである。社会の防御システムが働いている。日本の自給率が40%と言うことは、人口は半減すれば健全な状態になる。食糧の自給の範囲で各国が暮らす事が、人間の社会のバランスである。今の時代にまだ人口増加を望む政府など、時代錯誤もほどほどにしてほしい。世界を見渡せば当たり前の事だ。政府はGNPの増加には人口増が必要くらいの浅い考えである。小田原も減少の著しい地域に成る。さらに減らなければ、小田原の住環境も農業環境も改善されないだろう。そのつもりで将来のビジョンを立てる必要がある。自給農業地域に位置付ける必要がある。(このことは又改めて)あしがら地域全体で、人口が20%ぐらい減れば、自給圏として地域が成立する。これから始まる老人の暮らしを、私なりに考えておきたい。まずは自分のことから。3,11以降大分残りの人生に対して考えが変わった。楽隠居から、働ける限り働く隠居へ。

人口減少は団塊の世代が、死ぬまで頑張って若者に迷惑をかけなければ、乗り切れる。乗り切れば少しは良い状況になる。団塊の世代には、こんな社会にしてしまった責任がある。せめて自分達の世代のことは互いに支え合って、死ぬまで頑張るしかない。農業者の平均年齢は66歳を越えたと言う。私が66歳になる頃には、70歳になっているだろう。70くらいまでなら農業はやれるという事だ。10年間は今の程度には働こう。食糧の自給は生きて居る限り続けたい。老人でも可能な楽な農業を探しながら行こう。70歳を過ぎたらばグループホーム的な暮らしを模索しなくてはならないだろう。年寄り同士で支え合う形。若い人たちには職場になるような方法。地域の中にそうしたものがどう折り合えるか。これからの検討材料。どこの地域も老人世帯が増えて行く。これを統合してゆく手法。10軒を1軒にして、ゆったりとした老人グループホームにする。その経費は余る家や残地の販売で賄う。(これも改めて)

政府が人口がを努力して増やすという無理な願望を、進めている理由が分からない。もう貧乏でやって行くしかない。誰しも話してみれば、「小田原では人口はもう増えないよ。」と言うのが普通の意見である。千葉県全体でも人口が減少したというのだから、当然のことである。行政が抱える様々な問題の解決法に、人口が増加して税収が増えると言うような、バブル期の意識が残っていてはだめだ。縮小してどうバランスに到るか。今ある天文学的な量の赤字国債の山積み。政治は発想の転換である。人口減少を敗北主義のように受け取る。人口減少に対する方策は、女性の社会進出である。これを可能にする政策。現在の社会では女性の方が能力は高い。能力が高いにもかかわらずまだ社会進出がない。農の会ですら、女性の代表がまだいない。自治会でも、農協でも、女性が参加されることは実にすくない。

人口減少はいい、とは言いながら舟原は人口急増地区である。70軒だった地区で、毎年、1軒づつは増えて、現在は84軒になったという事だ。本来人口が増えるはずのない、市街化調整区域であるがゆえに、住宅地として人口が急増する。舟原の環境が良いから人口が増える。矛盾したような不思議な現象であるが、都市計画がないからである。土地が細かく分割されてゆくことは、将来に禍根を残す可能性が高い。小田原の現状は無秩序である。無秩序の中で、国の法規制だけが生きているから、ますます暮らしにくい地域に成ってしまう。人口が減少する中で、大きな方向を定めなくてはならない。久野地域は農業を振興して行く地域と位置付けられている。それならどのように農業地域を維持するのか、ビジョンを住民が持てるよう、調整するのが行政の役割である。老人農業者が減少する。理想論はどうでもいいので、緊急に後継者を受け入れる形を考える。このまま住宅が混在して行くことでは、農業の振興は無理になる。
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議事録というもの

2012-02-13 04:33:20 | めだか
公務における議事録は義務的なことである。人間の記憶などいくらでもごまかしがきく。このブログは私自身の議事録のような役割もしている。「原子力災害対策本部」が議事録を作っていないと言う話だ。明らかに嘘だ。そんなはずがない。それで官僚の誰かが処分されとも聞かないから、これは政治家が官僚に破棄させた可能性が高い。この事は枝野基官房長官の責任である。枝野氏は議事録は法に基づきあると発言していたのだ。それが今になってないなど、どう考えてもおかしい。議事録を公表すれば、パニックを回避するという政府の棄民方針により、福島の住民を切り捨てるものであった事実が、表面化するはずだ。緊急事態だからこそ議事録が必要だった。当時も報道では記録を取る必要性を言っていた。官僚はこういうことはしっかりしていると思っていたが、しっかりし過ぎているのか、それもすでに劣化していたのか。今から議事録を作る辛い方にならないと主張するが、無意味である。せめて当時のメモを集めておく。判断は政府以外の人に任せた方がいい。

めだか田んぼの事で、沖津昭治さんと2人で小田原土木へ確認に行った。めだか田んぼを行うにあたって、どういう約束があったかである。あしがら農の会がめだか田んぼを引き受けたのは、めだか協議会の中での決定である。めだかの第2の生息地を守る為には、鬼柳境の田んぼをやらなくてはならない。2年をめどに管理組織を作るから、それまでの間農の会で田んぼの面倒を見て欲しいという事であった。それから3年がたったが、肝心の田んぼの整備は約束通り行わない。もう諦めて、費用は自分で出して直すことにした。工事を沖津さんにお願いし、地域の了解を市役所に頼んだ。それでは筋が通らない。県土木に確認に一緒に行こうとなった。その結果が出てきたものが当時の議事録だ。職員は移動で今はいないが、わたしの記憶通りの事がメダカ協議会の議事録に書かれていた。

めだか田んぼはめだかの為である。田んぼに整備するとの小田原土木との約束はあったが、我慢出来るところは我慢してきた。お願いするような筋ではない。田んぼの耕作をお願いされた立場に過ぎない。地代だけ払い、不十分な田んぼで耕作しなければならないのか、怒りはある。耕作を辞めればすべてが終わりである。地主さんやめだかの事を思うと、苦しいものがあった。中村さんを中心に3年は整備のされない田んぼを曲がりなりにもやってきた。今年こそ、体制を整えて耕作をする。もう一度小田原市の環境保護課と今後の事を話し合いたい。2年で出来るはずの保全組織がどうなったかである。これが何時までも出来ないなら、田んぼを借りている農の会の立場はどうなるのか、明確にする必要がある。

以前、市議会の議事録が改変されたとしか思えない事があった。めだか生息地の環境維持についてだ。副市長が答弁で、「桑原地域のメダカ生息地の環境アセスは行わないが、市民メダカ会議の会議結果を尊重する。」とした部分が削除されたと思われる。これは記憶なので追及できなかったが、議事録が作成された時にはこの部分がなかった。録音があるなら照らし合わせて見れるのだが。後に気付いた時には、証明する手立てを失っていた。政府の会議は録音がないのだろうか。今回の原発事故のような、国家の緊急時に置いて、どのように政府が対応したのかは、後に検証が必要なことである。公開の問題はまた別である。こうした会議は可視化する必要があるのではないだろうか。それが民主主義の基本のはずである。外交案件等、記録できない部分が必要であるのなら、その理由を明確にして、非公開部分を作ればいい。
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小田原ヒルトン後の計画

2012-02-12 04:27:28 | 地域
小田原ヒルトンへの売却がその後どうなったのか。何も見えないまま、説明会も開かれない。先日、私もその一人として加わり、市に対して要望書の提出をした。ヒルトンに売却を撤回して欲しいということである。まず、地域の将来計画を地域住民とともに検討して欲しいということである。2つの有望な可能性があると考えている。一つは農の会が目指している自給農業地域の展開。自給農業地域構想は何度も書いてきたことなので、今回は、もう一つの景観の素晴らしい傾斜地を生かした消費者が参加できる「収穫農園構想」を考えて見る。根府川から真鶴に到る海岸線は、みかんの産地であった。みかん後の有望な転換作物が今一つ見つからないまま、現在にいたっている。全体としては農業者の老齢化と耕作放棄地が目立ってきている現状がある。同時に農業地域であるという、農地法の条件があり、農業以外の再開発が出来ないという条件がある。

景観を活かした斜面の農業が活性化するかと考えている。農産物の出荷しての販売を考えれば、不利条件地域に成る。消費者を呼び寄せ、その景観を含めて販売するとすれば、都市近郊でこれほど有望な地域もない。そのセンターハウス的役割をいるトンホテル後の利用とする。周辺の農地がまとまる必要がある。離れた場所に駐車場。農園内の散策道の整備。風のよけられるあずまやの設置。トイレや水回りの整備。会員制にして、ヒルトンホテル跡地を会員がシェア―する。つまり、会員制のホテルのような機能。宿泊しながら農業体験が出来る。会費を集め全体の整備費にする。

1、芋や野菜、ハーブ部門。
2、柑橘を中心とする果樹部門。
3、油絞りを考えるツバキや菜の花部門。
4、お茶園における新しいお茶の味わい部門。

構想の基本思想は、通年利用できる、収穫体験やその場で食べることのできる、新しい農業の提案の場所。多様な要素を含み込むことで、通年集客が可能となる。収穫体験を越えた、もう一歩農業の楽しさに触れられる。栽培や加工まで触れることのできる農園にする。中心にはヒルトン跡地にセンターハウスを作る。東屋では、各自がお茶を淹れながら、一日様々な、お茶を味わうことが出来る。お茶は様々な工夫をして、(吉祥寺に、フランス人がやっているお茶屋がある。)新しい飲み方の提案をする。興味を持てば、お茶摘みや、お茶づくりも行うことが出来る。海の見える景観の良い場所に風のよけられる東屋を点在させる。

 ○野菜はハーブ系のものを中心にして、サラダを収穫して食べられる有機農園。ドレッシングの工夫の提案。石釜があり、さつまいもやジャガイモや里芋を掘って、焼き芋が出来る。小麦の畑があり、パンが焼ける。ピザが作れる。さつまの蔓を植えた人が、収穫をして焼き芋まで可能な場所。サトイモを植えて、その子芋を塩ゆでにして食べる。その栽培期間の様子をインターネットで確認できる。

 ○柑橘を中心にした摘み取り園では、周年を通して何らかの果物の収穫が出来る。ゆっくり景色を眺め、食べる場所がある。そして取った果物の加工をしたい人には、センターハウスで樹薄にしたり、ジャムや、お茶に加工し持ち帰ることが出来る。花を摘んで香水にすることもできる。

 ○油絞りは、ツバキやオリーブ。菜の花やカラシナごま。油がとれる作物を、通年収穫できるよう栽培する。収穫から絞って食べる所まで一貫して味わうことが出来るようにする。一滴の生のしぼりたての油がいかに香りが高いものかを知ってもらう。手搾りの搾油機を使ってもらうことが出来る。

 ○お茶を日がな一日飲むという習慣が中国にはある。台湾ではと市近郊の茶園に、お茶を飲む場所がある。お湯を沸かしながら、一日その場所を楽しむ。お茶の新しい楽しみ方を提案する。紅茶や中国茶はもちろん世界のお茶を飲むことが出来る。又、柑橘を混ぜたもの、牛乳で入れたもの。コショウを入れる飲み方。お茶の新しい味わいを伝える場所にする。

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市民活動の範囲

2012-02-11 04:11:01 | Peace Cafe
あしがら農の会の活動とピースカフェの活動は市民活動だと考えている。農の会の活動を営利活動とし、ピースカフェを政治活動であるので、公共施設の利用禁止は当然という意見があった。農の会も、ピースカフェもサポートセンターを利用できるような団体ではないとしている。意外なことであったが、そう言う理解の人が案外にいるのかもしれない。この機会に少し市民活動の意味を考えてみる。農の会については、活動はホームページで公開し、会計も毎年県に報告しているNPO法人である。定款では、「主に足柄地域住民に対して、市民農の活動を中心にして、新規就農者の研修などに関する事業を行い、環境保全、経済活動の活性化、職業能力の開発、福祉の増進に寄与することを目的とする。」とある。野菜の宅配については、新規就農した農家が行って居るものであリ、農の会が直接行うものではない。

ピースカフェについてもすべてをホームページで公開していた。憲法9条を大切にする地域の暮らしを模索してゆく、月並で地域の通信を発行する組織であった。確かにこの活動を政治活動と言えば、言えなくはない。しかし、政治活動と政党活動や選挙活動とは違う。公共施設での政治や宗教の利用制限は、政党活動や選挙活動を意味している。ピースカフェのように憲法を大切にする政治的活動は、市民活動そのものである。公務員こそおこなうべき職務である。憲法前文においては、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」とされている。さらに憲法99条において、「公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」となっている。もし、平和憲法を大切にする市民活動を政治活動として禁止するとすれば、それは日本国憲法に違反することになる。

この点の判断は、現在指定管理者の組織がご都合主義で行ったのではなく、正式に市役所に文章で確認を行い、出た結論に従っている。公共施設の政治的利用の禁止の国会での確認では、「憲法に規定する信教、結社及び表現の自由が侵害されることのないよう配慮し、特定非営利活動の自主性を損なうことのないよう十分に注意して適正に行う」とされ、政治活動一般が禁止されるものでないことを国会審議で明確にしている。路上生活者の支援、川掃除の活動、久野の里地里山を守る活動、有機農業の里づくり、段ボールコンポストの配布、一見政治とは距離があるように見えるが、背景には政治的な判断が働いている。政治的な主張が時として必要になることは、どの活動でも起こりうることだ。

政治では地方自治が課題になっている。特に市と市民の協働の事業は、どこの地域も模索している所である。予算がいくらでもあるなら、公務員の数を増やし給与を上げ、市が直接行うことが出来る。しかし、ごみ問題一つ考えても、予算が削減されてゆくなかで、市民にごみ減量の努力をしてもらわなくてはならない。どうしても市民の協力体制が必要になる。市民協働の姿を、暇がある人のボランティアなど言われたら、全く心外である。市民が市の事業にかかわることで、行政職員だけでは進みにくい事業が、推進されるということがある。多くの市民の暮らしは、少なくとも公務員より厳しい。暇もお金もないが、やらなければならないし、やりたいから様々な市民活動にかかわっている。人間はお金だけで動いている訳ではない。それが分からない公務員では困る。
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対岸の家事!

2012-02-10 04:22:24 | 暮らし
あまりにピッタリな言葉なので、使わしてもらった。太田朋子さんというアルゼンチンにお住まいの方の言葉である。アルゼンチンでは家事をアウトソーシングという話が出ていた。こちら側まで火事が延焼しないことを祈る。アウトソーシングと言う意味が分からなかったのだが、どうも野外の裁縫ではなく、外注と言うことらしい。だから、アルゼンチンでは家事を人に頼むことが普通と言うような話だった。何とも哀れな話だと思っていたら、いい話ということらしい。火事喧嘩ほど面白いことは無いのに、これは江戸の華の方だ。一体家事を他人に頼んで、家事以上に大切なことがあるのだろうか。と言うような皮肉が言いたくなったが、実は題名以外は置いておく。火事だけでなく家事だって相当に面白い。自給生活は、家事を面白いもににする。ロハス的な面白さを言っている訳ではない。自給の家事は自分の根っ子までつながっている。家事を人に依存するということははたして。

家事を外注してしまえば、自分と言うものを見失う第一歩である。暮らしと言うものが、外注されてゆく。暮しを商売の対象にしてしまう社会は刻々対岸から延焼してきている。それは自分と言う人間の確認が出来なくなるということ。一粒の種籾を蒔き、その苗を育てて実る「お米」を食べる。そして発酵させて「糀」として利用する。そのことから自分と言う物質としての人間が出来上がっている。食べ物を通してこの根本を体感する。これなくして生きている醍醐味はあるのかと思う。掃除だって洗濯だって雑用ではない。雑用でないようにやるかやらないかだ。私の場合、絵を描くと言うことにすべてがつながる。生ごみを段ボールコンポストで堆肥にする。これは絵を描いているそのものである。絵を描くと言うことがそう言うことなのだ。格好をつけで言っている訳ではない。絵を描くなどそもそも何の根拠もない行為だ。毎日絵を描いていてダメになって行く人の方が大半である。

絵を描いているだけで、人間の生きることに到れる人は、特殊な天才だけだろう。ダビンチだろうか、ゴッホだろうが、生きることに精一杯である。すごく真剣に生きて、人間の底に横たわる本質に触れたに違いない。絵を描くと言うことで生きる実感に到れるのは凡人には無理。ただ絵を描くロボットのようであれば、その絵はより表面的なものになって行く。一日一日を、生身で生きなければだめだとおもう。どうにもならない困ったことが、絵を深める。不謹慎かもしれないが、原発の事故を契機に絵が深まらないような描き方をしている人間は、絵画に対して芸術として向かい合っていたのではない。などと偉そうなことを言えば、自分の絵に跳ね返るのだが、それは今開催している。「水彩人同人展」を見ていただいて判断してもらいたい。

家事の話だった。洗濯を考えて見る。洗剤を出来るだけ使わない。塩を使うとか、水のクラスターを小さくするとかで、汚れは落ちる。異常な漂白されたような白にはならないが、肉体は食べたもので出来上がっている。人任せにするより自分で作る方が良いに決まっている。特に発酵食品である。米麹はご飯を食べている日本人の身体に、とてもあっている。と言うようなことは自分で作れば気づくことである。家事はその気でやってみれば楽しいものだ。負担だけだと考えてはもったいない。そう言うことが生きることそのもので、それ以上のものを探しても、大したことではないようだ。
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ごみ発電所の不思議

2012-02-09 04:49:51 | Peace Cafe
鹿児島県いちき串木野市は、約10億円で建設したごみ発電施設「市来一般廃棄物利用エネルギーセンター」(停止中)の建物や設備などを最低売却価格1万円で売り出した。20日まで入札者を募っている。 合併前の旧市来町が2004年に国の補助金を受けて建設した。一般ごみと食肉加工場の肉骨粉を混ぜたものを蒸し焼きにして発生したガスを使って発電し、余剰電力を九州電力に売電する計画だった。

ごみ発電の典型的な事例である。ごみ発電の効率の悪さは既に証明済みだ。施設建設自体の受注が大企業の目的に成っている。市民にはエコ事業と言う甘言を弄し、天下りの受け皿として第3セクターを作り、賄賂や収賄事件の温床になっている。だから、ごみ処理では新しい手法は極力避けることが賢い選択である。確かにごみ処理を経済の合理性で行うという発想は大切である。

そうした事例として、言われている白井グループがある。
私たちが「常識」だと思い込んでいるゴミの分別は、世界から見ると「ガラパゴス」らしい。実はゴミ処理にかかるコストの70%は物流で、ゴミを細かく分別すればするほど専用の収集車が必要となり、人件費や時間が増える。まとめて集めてプロが後で分別した方が効率的なのだ。ペットボトルのキャップなどはリサイクル業者に売って100円ほどにしかならないものを、700円の物流費をかけて集めるという、何のためのリサイクルなのか分からないケースも多々あるようである。


いかにも筋が通っている様に良く言われる例だ。ペットボトルは焼却した方が経済合理性があると言う主張。確かにペットボトルを回収洗浄し、リサイクルする費用は燃やしてしまうことに比べればはるかに安い。安いどころか助燃材に利用すれば、プラスが出る。しかも業者の仕事は増える仕組みだ。東京都などはこの上っ面の合理性を採用した。ごみのリサイクルは経済の分からないごみオタクの考え方だ。残念ながらまやかしの論理の、この主張の方に勢いがある。ペットボトルを使い捨てにしている問題点を無視している。使い捨てペットボトルの存在が良くないのだ。ペットボトルもリターナブルにすべきだ。一方通行無製品は極力減らすなければならない。この肝心なところを無視して物流経費からだけ見て、燃やせばいいでは地球は行き詰まる。

ごみ処理大型機械を売り込む企業は、ダイオキシン対策とか、生ごみのメタン化。ごみ発電システム。燃料化システム。様々耳触りのいいことを売り込んでくる。市民の健康のためとか、循環型のエコシステムなど、エネルギーの節約。売り込みには上手い事を言う。しかし、実際に使うとごみ処理費が膨らんでゆくことになることの方が多い。後のことは製造メーカーや建設企業はどうでもいい。すでにやっている所を鋭く調べる。新しい処理法は取り入れない。長年使われていて、これなら一定評価がある。そういうものを取り入れる。今、放射能の除染ビジネスがまさにこのやり方である。ゼネコンが受注しようと血眼である。どうせ下請けにやらせるつもりだ。税金を使える世論を作り上げようとしている。除染が無理なところは、はっきり住めない地域を決めるしかない。住めない地域を除染すれば何とかなるようなごまかしは、お金の無駄遣いになる。

ごみ処理業者の見ている社会は、今の無駄使い社会が前提である。製造業の収益優先の生産体制を変えられないと考えている。市民はごみ出しで、でたらめしかしないものと決めてしまう。その前提で一番安い処理法は何かを、合理的に主張する。環境事業の上っ面をなぜる人たちは、この論理にころっとだまされる。国際競争力を高める為に、使い捨ての製品を作る経済社会。「社会がどこに向かうべきか」の議論を前提にしなければならない。その上で変えなければいけない仕組みは、何としても変える。循環する社会を目指さなければ、人間社会が終わってしまうことに気づく。この社会の現状を認めてしまえば、地球は必ず行き詰まる。昨日の生ごみサロンも100名を越える人が集まった。段ボールコンポスト一つは、実にささやかなことだが、暮らしが変われば、世界が動く。
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2012年味噌作り

2012-02-08 04:35:28 | 自給
日曜日に雨で2週間延期になった、味噌作りの会があった。味噌は基本として作ってきた。農の会関係でも10数年は続けられている。ここ5年間は大井町のあさひブルーベリー農園でやっている。農の会の仲間の小宮さんが園主である。水土的に足柄平野を統括するような大切な位置である。今年は大豆の会を藤崎さんが引き継いでくれて、新しい空気の中で行われた。80キロ弱の大豆を煮た。今年は生の大豆を持ち帰り各自が行う人も何人かいた。100キロを越えていた前回に比べ、量が減った。参加者も前回は80人と言う事から見るとだいぶ減少した。それでも総勢40人近くが参加した。不思議なもので藤崎さんに変わると、何か以前とは違う活動に成る。放射能で崩壊し、再生の7月の種まきから始まり、良くここまでたどり着けた。藤崎さんに心より感謝。新しい味噌作りが出来た。祭りが終わったような、充実感と脱力感がある。味噌作りには力が入ってしまう。

前回までの中原さんはとても緻密に準備する人だった。何故か今度の藤崎さんも、それに劣らず準備万全だった。味噌の会は毎回新しく参加する人が沢山いる。農の会の活動としては、味噌作りに初めて参加して、田んぼの会等の他の活動に参加することになる人がいる。しかし近年味噌をあまり食べないと言う人が増えている。せっかく参加したのに、作った味噌を持て余していると言うので、がっかりしたことがある。味噌を作るということをきっかけにして、食の自給に近付いてもらえたらと言うのが、農の会である。お茶づくりもそうなのだが、日本茶を飲まない人が増えている。それはそれで仕方がない事だが、暮らしの面白さを味わってもらい。自給の暮らしに目を向けてもらえればと思う。今回は是非「塩麹」を皆さんに紹介したかった。麹を余分に作ったので皆さんに販売しながら説明をした。塩麹の宣伝マンである。それくらい麹は生活に取り入れてもらいたい。今ブームだと言うから普及のチャンスである。発酵は自給の暮らしの出発になる。

味噌作りは、大豆を作ることから、そして麹づくりは米作りから。これは農の会の食べ物を自給する考え方である。大切にしているのは、最初から終わりまで全体をやり通すことの意味。大豆蒔く所から味噌汁を飲む所までを、ずーうと通してみて、自分の暮らしの立て方の見晴らしが効いてくる。都合のいい一部だけをつまみ食いするのでは、主体的な対応が生まれてこない。ここのところを商業主義に巻きこまれ、溺れる。いわゆるおしゃれなロハスな暮らしである。煩わしくない部分だけ、つまみ食いしていい気分が出来る。しかし、畑を耕す事も、雑草を引き抜くことも面白い。すべてで暮らしである。もちろん何でもかんでもやれというのではないが、一つでも全体と言うものを体得する。世の中から与えられたものでなく、自分の手ですべてを担ってみる。この体験から好きなことが見えてくる。大げさに言えば、自分とは何かが見える。

麹づくりである。麹屋の女将になりたかったと藤崎さんが言っていた。そのくらい麹造りは奥が深いし、面白い。これも、藤崎さんが米作りから麹づくりまでをやり通したからこそ言えることだと思う。米を作ると、米と言うものが分かる。麹の温度管理をしていると、微生物と言う目には見えない何兆個もの生命が輝いていることが感じられる。そしてそうしたものに自分が生かされているということ。そして、命としての自分はその一つとして生まれ死んでゆくという大げさなことが、空想される。麹は完璧に出来る訳でもない。上手に出来ないにしても、実用上全く問題がないことが分かる。暮らしはそこそこの日々の妥協だ。美味しい味噌になればいいのである。文字通り手前味噌で、我が家の味噌以上に美味しい味噌を食べたことがないのだから、それ以上はいらない。
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天空の棚田

2012-02-07 04:18:54 | 暮らし
NHKのテレビ番組で、中国雲南省のハニ族の「天空の棚田」の放映をみた。万里の長城以上の人間の営み。夜9時からと言うことで、昨日一日体調がおかしかった。「紅河ハニ棚田」総面積5万4千ヘクタール。期待は大きかった。撮影隊は3か月も現地で暮らしながら撮影したと言うので、どれほどのものかと考えていた。やはり天空の棚田は想像を越えて素晴らしかった、といいたいのだが、物足りない通り一遍のものだった。NHKの制作意図が曖昧。これほどの素材を使って、残念なことだ。美しい場所としてイメージビデオのように写すなら、それに専念した方が良かった。歯がゆくて不満がたまってしまった。撮影の意図、主題が、掘り下げが浅い。自給自足の民と紹介しながら、どんな自給自足なのか、肝心な部分が見えてくない。1300年永続性のある暮らしと言いながら、暮らしの実際について、触れてもいない。森があり、集落があり、その下に田んぼがあることは分かったが、それがどう繋がっているかの本当のところが捉えられていない。循環する暮らしについて、思想のない人が作っている。だから、知りたい肝心なことが表面的で、イライラが募る、ああ残念だ。

3000段と言う棚田の維持の方法が見えない。稲刈り後すぐに、畔の修復をしている。春の田植えごろにはもう一度やるのだろうか。稲の根を漉きこんでいる。これだけで畔が維持されるということは、何らかの特徴のある土のはずだ。砂礫質と言うだけでは、何も見えない。急峻な400メートルの高度差があるとして、水回しはとても困難なはずだ。どんな工夫で作り上げられているのだろう。1300年の耕作で土壌がどう変わったのか。粘土分は見る所相当にある。耕作した結果なのか。最初からなのか。通年湛水方式である。田んぼで鯉の養殖を行う。その姿は触れない。その稚魚はどうしているのか。どう繁殖させてきたのか。緋鯉が混じっていたが、どういうことか。一年魚の大きさに限定されている。田んぼの水深はどのくらいなのか。他の田んぼに逃げない工夫はあるのか。ワシやタカなどに取られることは無いのか。大雨で、水がのっこすことは無いのか。通年通水で田んぼの耕作土が深くならない方法はどうしているのか。

稲刈り時期には水生雑草は見当たらないが、草取りの方法はどうしているのか。深水のような畔の姿だが、通年同じ深水なのか。それで草は少ないのではないか。ジャンボタニシが居たが、食害や雑草取りにはどうなのだろう。品種はジャポニカ種と言うが、日本でいう古代米のような姿である。収量は反収に換算してどのくらいか。稲刈りしをした稲を水のある田んぼにそのまま置いてすぐ脱穀するらしいが、小石は米に混ざらないのか。背丈は高い稲のようだが、何故倒れないのか。脱穀は田んぼでしなければ、上の集落までお米を運べない。それでは籾すりはどうしているのだろう。玄米で食べるのでなく。白米で食べていた。精米は水車を使うのか。400メートル標高差があるらしい。水温はどう変化して行くのか。上と下では耕作法は違うのか。水の性質は田んぼを通過しながら変化するのか。いちいちに知りたいことが出て来る。

水の管理責任者を選挙で選ぶらしい。その人が棚田全体の水の調整をしている。一人でやれる訳がない。どう調整するのか。その手法はどういう観点からなのか。何を大切にしているのか。大雨で棚田は崩れることはかつてなかったのか。棚田はどが古くてどこが新しいのか。テレビ番組に期待したことがおかしかった。少し詳しい研究を東北大学で行った資料がある。これは民族の事に触れている。内容が少し歪んでいる。状況がある程度分かる人民中国のもの。がある。この記事は良く書かれていて、今作られる棚田の作り方まで書かれている。棚田の所有形態はどうなっているのだろう。何家族くらいの人がこの棚田の維持に携わっているのだろう。息子さん達は都会に出稼ぎに行っていると言うが、学校などはどうしているのだろう。自給自足の経済はどうなっているのだろう。そして、この先ハニ族の暮らしは維持されるような方向なのだろうか。まあ、疑問を持てたと言う事だけでいいか。
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原発60年廃炉案

2012-02-06 04:15:28 | Peace Cafe
原発は30年が耐用年数と言う事を聞いていた。深刻なレベル7の事故を、40年を越えた古い原子炉が起こした。その原子炉の事故原因は現在も調査中である。そのさなか原子炉の耐用年数を40年とし、20年までの延長を認めることになった。神経を逆なでする怖ろしい決定が、まだ事故も収束できないこの時期に決める怖ろしい政府である。そのいい訳として、40年を耐用年数として、20年の延長はよほどのことがなければ、認めない。こうしたいい訳を細野原発相は発言している。それならば30年を耐用年数と素直に決めればいい。そして充分安全と分かった時、10年だけの延長を認める。まだ使える施設をもったいないというような、曖昧で済むような施設でない。一度事故を起こしただけで、これだけの被害が出る。国民の反応を見ているのだ。ほとぼりが冷めたらまた原発である。経済を考えたら必要だと言う発言も目立ってきた。

原子力発電と言う技術は、現在進化の過程の技術である。多分最後まで人間がコントロールは出来ないものだろう。今行われている技術は実験室段階の技術が、軍事目的で危険を承知で、巨大化したようなものである。商業用の運転をするほど洗練されたものでは無い。機械的技術として可能性のあるものなら、一般的に30年もしたら過去の仕組みは陳腐化していて普通である。30年前テレビは、現在では見る影もない。そうした技術革新が、実は期待できない技術だった。40年前のものをさらに20年つまり、60年経っても、進歩もない最先端技術とはいったい何を意味するのか。つまり、人類の手に負える技術ではなかった。どうしてもやるなら、実験室であと100年くらいは、練りに練ってみたらいい。それで何とかなるという技術が生まれるならば、実用化すればいい。これほど危ういものを経済優先で実用化したことが、人類の誤りであった。

資源がないということで日本は焦りすぎた。戦争に負けたということで、何とかして見返してやろう、1番じゃなければだめなんだ。という意識で道を誤った。確かに、立派な戦後の高度成長である。この道をひたすら頑張ったことは、立派だったし、見事であった。敗戦という苦しみから無理もなかった。人間と言う生き物がこうなるのは、あながち否定はできない。しかしこの道は、戦争に至った道をもう一度歩んだことだった。もう競争は充分だと思う。競争はもう辞めた方が良いと思う。危うい原発に支えられた豊かさはいらないと思う。当面、電力が値上げされたとしても原発が再稼働されるよりはましだと思う。10%の値上げになるなら、家庭ではその分電力の10%の節約すればいい事だ。電気炊飯器でご飯を炊いても、保温はしないということで可能である。

原発は安いエネルギーと言うことだった。60年、いや壊れるまで使って使い捨てれば安いという話のようだ。今回の事故原因も十分に検証されていない段階で、60年は使える法案が出てきた。このやり方で事故を起こしたのだ。自己の検証も終わらない内に、使用年限を延ばす法案を作る人たちが居る。原発神話がゾンビのように、再生してきている。壊れるはずもないという神話に従い、使える間は使いたい。事故などある訳がないという、例のパターンだ。政府もさすがに法案の文面を変えて、ごまかそうとしているが、シンプルに30年、延長しても40年で良い。そして、早く日本各地から原発が無くなることである。2月11日はさよなら原発パレードがある。

昨日の自給作業:みそ作り前事実準備を含め11時間 累計時間:12時間
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神奈川県有機農業推進計画

2012-02-05 04:46:30 | 地域
神奈川県にも有機農業推進計画がある。あることはあるが、うまく推進が進んでいるは思えない。少なくとも私が有機農業を行っている小田原地域では、停滞している。当然老齢化している。有機農業を考える前に、神奈川県の農業をどのように推進できるのかが見えないことに原因がある。このままではさらに老齢化が進み、充実した農業が減少し、耕作放棄地が増加し、農地が減少し、農業従事者が減少し、衰退して行くに違いない。その衰退を食い止めるための唯一の方策は、自給農業への転換である。自給農業とは第2種兼業農家とも違うものである。農業生産物の販売を行わない農業者である。これは従来の農業者の概念から外れる。現状では農地の利用も出来ない一般の市民である。これを市民農園ではなく、自給農民ととらえ、神奈川県の農業の推進計画の柱にする必要がある。

神奈川県と言う地域は、現在政府の目指している大規模農業には不向きな地域である。1農家3から4haの農地の確保は不可能である。TPP交渉に向けて、政府は様々な農業振興策を取るだろう。そうした方策はすべて国際競争力のある農業へ向けてである。小さくても地産地消の効率性のある農業と言う神奈川県農業の特徴は、競争力を失うことになる。北海道のような地域や、東北の米作地帯が大型農業に向いているだろう。国際競争力のある地域を育てる政府の方針に従い、補助金をもらいながら、大型機械農業を、安い外国人労働者を投入しておかなわれる。そのような時代を考えておく必要がある。その農業政策も成功するとは思えないが、補助金だけは出されることになる。小麦を有機農業で作っているが、二宮で行う製粉代程度で輸入小麦は売られている。転作奨励金をもらっている有機小麦はさして変わらない格安価格で売られている。神奈川県の補助金のない小麦では到底太刀打ちが出来ない。しかし、地場の小麦粉を使ったパンやうどんという製品になれば、競争力が生まれる。まして自分で作りたいという気持ちは、多くの人にある。

神奈川県の農業は都市近郊であるという地域の特性を生かして、自給農業を考える以外、成立しない可能性が高まる。農地を守ることが都市近郊の農業の重要な役割である。好ましい住環境と調和した農業と言うことであれば、有機農業の推進である。環境保全と地産地消を理念として、神奈川の農業を再編成する。1、農業地区割を農業者住宅の考えを含めて、抜本的見直しをする。2、農地法を実情に合わせ改正する。転用の期待感を無くす。3、自給農業特区を作る。4、農業者の規定を変える。5、農業委員会制度の見直しを行う。6、農業者里親制度を作る。7、各市町村ごとの自給率の達成目標を立てる。8、一地域一農産物の地域特産品制度をつくる。9、地域の農産物が優先的に学校給食で使われるようにする。10、すべての農地に所有者、耕作者、農業方法の表示を行う。11、地域ごと、作物ごとの、有機農業技術の冊子を作る。

自給農業は、価格競争のない農産物である。家族が食べるものを作ることは、地域に根差して暮らすということになる。農の会で20年を越えて試みてきた活動は、それなりの成果を上げてきている。田んぼ、大豆、小麦、お茶、果樹、と延べ500名に及ぶ参加者が居る。最近の傾向は、自給的農業をやりながら、東京まで通勤すると言う人が居ることである。新しい地域形成にも役立つことだ。自給農業地域では、第3者機関が耕作放棄地を買い取り、農地1反に30坪の家の建築は認める。自給地域が合理的に形成されるように、その農業の義務的行為を条件として付ける。農地管理には地域の里親さんが、十分に協力するとともに、厳しい指導を行う。条件を逸脱した時には農地の返還をしなければならない。いずれにしても推進計画を立てる前に、現状の正確な把握である。そしてその背景にある潮流の把握である。
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低放射能被曝の不安と死の事

2012-02-04 04:53:19 | Peace Cafe
低線量被曝とは、環境放射線などの研究者は数mSvから数十mSvを低線量と考えている。年間1〜10ミリシーベルトの自然放射能以外の被曝の事をさすようである。自然放射線にともなう被曝は世界の平均で年2.4mSv である。法令で定められている原子力施設周辺住民の線量限度は年1mSv である。医療先進国での診断用放射線による被曝は年平均で1.2mSvである。「日本人のガンの3.2%は診断用X 線が原因」とされている。今の小田原では普通に暮らしているということは、私の計算では、年間の自然放射能を除いた被曝量は1ミリシーベルトは越えない地域である。食べ物からは、福島でも0,1ミリシーベルトにもならない。しかし、一方に放射線のリスクが、極めて高いと考える人がふえている。確かにどれほど低い放射能でもがんになり人間は死ぬ可能性はある。人間が死ぬというリスクは常にある。がんになるリスクは誰にも40%以上ある。人間が死ぬリスクと言うことになれば、100%である。放射能について、日本は汚染されてしまった。その現実の中での暮らしかたを考えるしかない。

日本は長らく自殺者が3万人を越えている国だ。犬や猫や鶏と暮らしていると、生き物は必ず死ぬということが嫌でも分かる。彼らを見ていると、人間ほど死と言うものを忌み嫌う生き物はないことがわかる。日常的に生き物の死に立ち会う。実にスムースにあがかず受け入れる。多くの宗教が、死とか、死後とか言うものを扱っている。死後の事がわからないから、不安が増幅するのだろう。6歳ぐらいの頃、非常に死が不安だった。死ぬということはどういうことか。大人たちに聞きまわったが良く分からなかった。「何にもなくなるのだ。」こう言われたが、そのことが良く分からなかったので、さらに怖さがました。一番そうらしいと思ったのが、「寝ているようなものだ」ということだった。それから寝ると言うことが不安になった。

生きると言うことは、死のリスクをかかえて生きると言う事。化学合成物質や、大気汚染、水汚染。自動車事故。焼却場だって、発がん性物質を振りまく施設である。それは考えだしたらきりがなくリスクの山がある。原発もその最悪の一つであろう。そこから出る廃棄物はリスクの山である。ごみの焼却は極力減らさなければ人間は滅ぶ。エネルギーは最小限の使用にして、原発だって火力発電所だって、廃止すべきだ。しかし、社会は経済を含めた全体で成り立つ。3万人の自殺者の多くは失業等の経済破たんが原因している可能性も高い。不況は自殺者を増加する。しかし、国の貧困状態と自殺率とは連動しない。すべてはソフトランディングではないだろうか。ほどほどを模索するしかない。リスクはあるにしても、リスクの選択をして、このあたりまでという妥協しかない。起きてしまったことにこれ以上、精神を痛めつけられていても駄目だ。宮古市のごみの放射能は、小田原のごみとなんら変わらない。痛みを分かち合うことがこの苦難を乗り越える方策である。

低レベル被曝をリスクと考えるのは当然だあるが、年間1ミリシーベルトを下回る小田原の場合では、そのリスクは自己判断である。畏れる人も、畏れない人も互いに干渉すべきでない。私は健康診断は受けない。健康診断からくる様々なリスクがいやだからである。ワクチンも打たない。ワクチンによる発病がどれほどわずかでもあるなら、自然感染してたとえ死ぬにしても、その方を受け入れる。健康診断を受けないがために取り返しがつかない病気になるとしても、それは選択だと思い後悔しないで、受け入れる。健康不安から、CT検査を受けてガンになることほど情けないことは無い。医療機関は利益と言うか、経営の為に、再検査などやるに違いない。「なん%再検査にして下さい。」などと言う指示が経営者からある気がする。要するに、私もだいぶ弱っているが、起きてしまった放射能汚染に、精神をやられないことだ。

昨日の自給作業:竹藪の片づけ1時間 累計時間:1時間
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防衛省の無能官僚

2012-02-03 04:10:58 | Peace Cafe
真部朗沖縄防衛局長が沖縄県宜野湾市長選挙に絡み、職員に対し、選挙介入と受け取られかねない「講話」を行った。沖縄の防衛省の前局長は、例の飲み屋でオフレコという約束で、思い出したくないような悪意ある発言をして更迭された。沖縄の状況が防衛省にとっては、要注意状況であることが分からない程度の官僚が後任と言うひどさ。落ち度のない人を送り込んだはずだと思っていた。それがまあ―何と言うことか。この防衛省人事の愚かさは群を抜いている。こういうことを公務員の政策的業務と考えているのだろう。日本の優秀であるはずの官僚がこうもひどい状況では、早急に防衛省を廃止しなければ何をしでかすか、危ない気がしてきた。官僚としては前例に従い、気が効きすぎただけ。発言も慎重に言葉を選び法律のぎりぎりを突いている。やりたくないことまでやって、自民党に恩を売っていたつもりだろう。次の選挙では防衛省系で立候補のつもりだったのかもしれない。

こういうことは、たまたま表面化したに過ぎない。血縁で縛ろうなど古臭い手法である。親族を調べると言う、絡めてから来る感覚が堪らない。民主党が政権を取った途端に、萎えてしまったのはこの日本的絡め手に原因がある。マニュフェストにこだわるなど、今までの政治になかったことだ。自民党はマニュフェスト違反などいっているが、選挙公約を破るのを常としていたではないか。今度政権を取ることがあったら守って欲しいものだ。選挙公約を信じる方が馬鹿だ、というような選挙を重ねてきた。明るい日本を作りましょう、しか言わない選挙。政権は、民主党でも自民党でも実はなんでも良くて、お上の言う事に従いたい。という人たちに支えられている。お上の意図を先取りして、根回しをしてしまい、気にいられ、取り巻きになる。上手く行けば、出世が出来る。仕事ももらえるかもしれない、勲章かもしれない。多分共産党が政権を取れば、今度は共産党政権のお先棒を担ぐ事すら構わないような人達。

真部氏自身による講和の再現文章が出ている。おかしな点は「皆さんは、親類に有権者がある人」という指摘。そんなことをわざわざ調べたということを示している。間違いのないものであれば、何故、こんなにもつまらない講和をしたのだろう。もっと親孝行が必要だとか話して置いて、最後に、一言選挙には入って下さいと目配せをすればいい。いつもはあうんの呼吸でやっていたのだろう。もしかしたら局長クラスには、選挙対策のハウツウ本があるのかもしれない。今ごろ本省でおまえは応用が利かないと怒られただろう。原発の予定地も、軍事基地の予定地も、似たようなことが行われている。それ位当たり前でびっくりする方が、青臭い事を言うんじゃない。と言われそうだ。こんな状況を少しづつ変化させているのが、インターネットである。おかしなことをすれば、必ずメールが漏れ出て、隠し通すことが出来にくくなっている。この講話を聞いた人に調査が入っているらしい。漏らした犯人捜しだろう。

ごみ焼却場の設置。火葬場の設置。最終処分場。墓地。伝染病の病院。残土処理場。東北の瓦礫処理。すべての迷惑事業に対して、起きている混乱。解決の方法を失った社会。どうせ騙されると言う疑心暗鬼。美濃部元都知事が一人の反対でもあればやりません。これを民主主義として、何も進まなくなった。民主主義とはどういう仕組みなのか。それは社会を成立させルールである。様々な意見があるのは当たり前。政府に統治能力のない社会。国民が暮らしのバランスを失ったヤマイ社会。一人の反対の為に出来ないのでは暮らしが成立しない。江戸時代のほうがどこで折り合いをつけるかの知恵があった。決めごとはともかく時間がかかったらしい。何日も泊まり込んで相談をした。部落には話し合いの方法が成立していた。それは田んぼを耕作しなければならないという、水でつながった持ちつ持たれつの社会だったから。それにしても勤務先の上役のやることではない。
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大学の秋入学

2012-02-02 04:54:10 | Peace Cafe
東大の秋入学が、5年後に実施されるということで、進めているらしい。理由は世界の大半が9月入学で、グローバル化に取り残されるということらしい。東大は世界大学ランキングの10番台の大学であったものが、現在30番までさがった。危機感を高めているということが書いてある。現代の大学生は良く勉強すると発言する教授も多い。大学への予算も40年前より増えている。それなのに何故かランキングが下がる。これでは理由が分からない。世界のレベルが上がったと言うなら、悪いことではないが、世界が良くなったということでもないので、大学は何をしているのかということでもある。勉強の仕方がおかしいのではないか。原子力村を作り出すような、頭の良さはいくらあっても仕方がない。人間が幸福になるための学問。これが不足しているということではないのだろうか。世界ランキングなど実はどうでもいい。上位を占めるアメリカの大学が、良いアメリカを作っているとは思えない。ドイツやフランスの英語圏以外の大学が比較して低くなる。

私が大学で、勉強をしたのかどうかは良く分からないが、人間が生きると言うことはどういうことなのかを、必死で考え、学んだ4年間だった。自給に生きようと考える基盤が出来た。大浦氏をはじめとする何人かの友人が、農家仕事を中心に成って行いながら、大学に通っていた影響が強い。大浦さんは100坪あれば人間食べるものくらい十分に出来る。やりたいなら家に来てやればいいと言ってくれた。彼の家は津幡と言うところにあり、大きな農家であった。確か父親が居ないので、彼が一家の中心として働く以外にないようだった。「今年は全部1等米だった。」そう語る彼の誇らしい顔が浮かんでくる。河北潟の埋め立地が完成したが、お米を作ることは出来ないと言っていた。今はどうなっているのだろうか。自分の事を書いたのは、学問とは何かが、違っている気がするからだ。大学がいくら優秀で、ランキングが高くても、ホリエモンの後継者を作り出すのでは、世の中を悪くするばかりだ。学問の方角がおかしいという気がしてならない。

松下政経塾と言うものがある。政治家の養成機関のようなものらしい。これは大学ではないのだろうが、野田総理もそこの出である。これからさらに多くの出身者の政治家が現れるだろう。勉強を良くするのかどうかも知らないが、これで日本の政治が良い方向に進んでいると言えるだろうか。稲作の手伝いと指導と言うことで、政経塾の農業活動にかかわったが、表面的で農協や生協企画の農業体験事業以下だと思った。こんなレベルの体験をして、農業が分かったなど言われたくないと思う。農業をやると言う趣旨は良い。だから協力したいと考えた。しかし、やるなら本気でなければ学べるものがない。松下政経塾の食事はすべて自給するぐらいの覚悟が必要である。その気があるならまた協力したい。大学で学ぶためには、何の為にが無ければ始まらないだろう。本来就職など大学の学問と関係がない。大学がビジネススクール化している。

グローバル化と言えば私は大学に出てフランスに留学した。まず菱電エレベーターの小さな下請け会社に勤務してお金を貯めた。2月頃からエレベータの仕事を始めて、8月まで半年間働きお金を貯めた。このずれは助かった。120万くらいになった。その話を聞いたおじいさんが、それなら、私が同じだけを出してあげると言って、100万円留学費用を出してくれた。私の父は、その間も家賃と食費ぐらいは家に入れなければならないという、有難いというか、厳しい考えの人だった。大学に行っている間も、自活していた。仕事をしながら大学に行った。奨学金を受けようとしたが、父親の収入が大きいから駄目だった。それでも行く以上大学で何を学ぶかは無駄には出来ない。100坪で何とかなると思いながら、自分の道を選んだ。人間の幸せのための学問が必要。一番じゃなければと言ってノーベル賞をもらってもだめだろう。こちらの方を大学では考えて欲しい。
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国家資本主義の中国

2012-02-01 04:23:56 | Peace Cafe
中国が世界の経済の牽引に成っている。ということが言われる。中国14億の人口の動向が世界に大きな影響を与える。インド、パキスタン、バングラデッシュは中国を凌駕する人口で、これから世界経済に強い影響を与え始めるだろう。それはどちらかと言えば、負の影響だと考えられる。今膨れ上がる人口を背景に消費が増加する。その需要と、より安い労働力を期待して、進出するグローバル企業。資本主義経済が崩壊する過程で、自国を空洞化しながら、発展途上国に進出する企業形態。遠からず、その構造も崩壊すると考えておいた方がいいだろう。エネルギー使用の増大。食糧生産の限界。近い将来全体の経済構造が大きく変わると見ておかなければならない。経済が下り坂になれば競争はさらに深刻に激しくなる。韓国のように、グローバル企業を絞り込み、国家として一体化して競争を勝ち抜く方法を取る国は増えるだろう。韓国は様々な国内の問題を、切り捨ててこの先鋭化に突き進むことを選んだようだ。そして、一定の成功と、国内には深刻な問題を内包しているはずだ。

日本社会の焦りはこの新興国の国家資本主義との競争に負けるだろうという不安から来る。日本の戦後の高度成長は、今の中国に似ていると言えば言える、のだが。日本という独特の鎖国を300年も続けるような、国民性から生まれた、あうんの呼吸の資本主義の形態だったと思う。それが緩んで、失われるまでは、公害問題などの弊害を生みながらも、一定の結果を残したのだと思う。中国は家族の集合のような国である。競争に勝つために中国型の国家資本主義に、中国の実験は進んでいる。中国では、国営企業の形態が、50年の歴史的な基盤として存在する。例えば食糧問題でも、農地所有の形態が、日本より法律的には、国家の自由がきく。地方政府が大型化した農場を作りたいとすれば、可能である。もちろん違った要因があるようでそう簡単ではないのだが。少なくとも、国家資本と言えるような独特の経営形態を作り上げようとしている。利に聡い中国人らしい選択である。地方政府と連携した、巨大な民間養鶏場。巨大なキノコ生産工場。しかし、そのほころびはすでに見え始めていると思う。

国家資本主義の先端を進んでいる国は韓国やシンガポール。良く研究する必要がある。国家資本主義の一番の欠点は、国内の自由競争が疎外され、人心の腐敗を招くことになる。日本の電力会社の姿である。確かに電力会社が作り上げた、権力構造には怖ろしいものがある。批判を封じ込め、世論をお金で操作する。しかし、内部では慢心から自己検証機能を失い、大きな崩壊を予測できなかった。いまだに賠償問題において、その体質を変えることが出来ない姿を見ると再生は難しい。原子力村が、これだけの被害を生みだしながら、その責任を回避している現実。そしてゾンビのように再生させようとする権力。独占は腐敗する。中国は国内の腐敗から、崩壊するだろう。腐敗を内部告発するキャンペーンをやっているようだが、焼け石に水。日本株式会社と言われたように、国家が統制を取りながらグローバル企業として、世界と競争するのは、成長の過程のものだ。出来る限り早く抜け出した方がいい。

国家資本主義と言うものは韓国の今の方針である。アメリカのような資源もあり、国土も広く、人口も大きい国に対し、対抗するためには小回りのきく、一企業を徹底的に育てる戦略。問題は能力主義を徹底した際。落ちこぼれる大多数の国民がどうなるかである。いわば、キムヨナ選手はすごい選手であるが、何故、それ以外の選手が現れないかである。スポーツを競技スポーツだけと考えれば、このやり方は効率的である。しかし、本来のスポーツの役割は、国民全体が楽しく行う運動である。少なくとも、金メダルを取ることより、底辺の拡大の方が大切なこと。国家資本主義の弱点はここにあると思う。幸せな社会においては、能力主義は差別主義の一つだ。能力には種類がある。決して有能だけが意味がある訳では無い。「ダメでもいいじゃん」精神。その人にとっての精一杯が可能な状況を作り出すこと。この観点からして、不幸な社会が競争に勝ち続ける訳がない。巨大な国中国がこの実験に取り組む危険がどう日本に影響するか。
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