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将棋連盟谷川会長の辞任

2017-01-21 04:15:22 | Peace Cafe

将棋連盟では谷川会長の辞任になった。谷川氏は人間として素晴らしい人だと思う。しかし、今回の事件では責任者として運営を誤った。三浦弘行9段に対する、ソフト疑惑に対する責任をとっての辞任である。人を疑うという事がどれほど罪の深いことになるのか。これに先立ち渡辺竜王も謝罪を行った。謝罪だけで済む話ではない。竜王の返上が当然の責任の取り方である。何故なら、対局相手に対する尊敬の念がないからである。それではこれからの将棋世界は成立しない。自分が竜王なのだ。竜王は誰よりも尊敬されるふるまいでなければならない。もし相手にソフト使用の疑いを感じるのであれば、将棋連盟に対して、お互いにソフトを使えなくしようと言えば済む話だ。以前、たばこの煙が嫌だから、対局時に禁止してもらいたいという話はあった。ところがタバコを吸わなければ思考できない棋士もいて認められない。大山名人は扇風機を持ち込み相手に向けて風を当て続けたそうだ。扇子のぱちぱち鳴らす音が迷惑だからやめてもらいたいという抗議もある。こういうことを含めてすべてが戦いなのだ。その根本に相手に対する敬意がなければ将棋は文化ではなくなる。

渡辺竜王は三浦9段が挑戦者になった時に、三浦9段にたいして疑惑をぶつるだけで、自分が有利になるだろうという勝負師としての計算は無意識かもしれないが、あったはずだ。無意識でもそういう事をしてしまう可能性は、将棋指しの習い性のなかにあるのではなかろうか。三浦9段に対しては久保9段からそいう疑いの意見が、すでに出ていたという事だ。それを聞いてつい渡辺竜王は反応したのだろう。調子者の橋本9段は1万%クロだと叫んでしまった。こうして、三浦9段はソフトを悪用したというレッテルが張られた。今もその疑惑が晴れた訳ではない。証拠が出なかっただけだ、調査員会の調査がどこまで行われたのかなど。様々な疑惑は残ってしまった。私は事件を聞いた途端にそんなことを三浦9段に限ってする訳がないと思い、そのように書いた。その判断は正しかった訳だ。報道はソフトカンニング事件として面白おかしく取り上げていた。これは人権侵害に等しい。

今回の事件は将棋というゲームが、コンピューターの登場で性格を変えてゆくという事だ。コンピューター将棋は時々する。ソフトの強さを私と同等に設定して戦う。勝ったり負けたりするぐらいの強さである。頭の掃除ができる。繰り返している内に私の方がだんだん勝つようになってしまう。それで気分はいいのだが、又、五分五分に直そうと思うのだが、まだその設定の仕方が分からない。ソフトの手筋がだんだんに読めてくる。ソフトは同じところで同じように間違う。人間とやるのとは違った面白さがある。将棋はミスをした方が負けるゲームだという事がわかる。良い手が勝利につながるのではなく、悪い手が敗北になるのだ。勝因よりも敗因を考えなくては強くなれない。これは、何でもそうかもしれない。成功した原因を考えるより、上手く行かない理由を考える方が有効という事。ところが人間は勝因におぼれるものだ。私がコンピューターから学んだことだ。

渡辺竜王は竜王を返上することだ。疑ったという罪をそれによって償わなくてはならない。それによってはじめて、将棋指しの人格というものが、伝統文化の先生と呼ばれるにふさわしいことになる。渡辺竜王は「将棋のわたなべ君」という漫画の主人公だそうだ。奥さんがその漫画を描いて居るらしい。ノンフィクション漫画だそうだ。この卑怯な手段で、三浦9段を退けた手口も、かわいらしいわたなべくんの無意識の悪意という事なのだろうか。もし、竜王の返上がないと、将棋界は衰退の一途だろう。敗因から学ばなければならない。このままでは、ソフトよりは弱いが、人間としては強い方だぐらいのことになる。尊敬される文化人という立場が、無くなる。強いだけならソフト先生だ。将棋界はこのことを深く考える必要がある。私は、人間と指すよりソフト君と指す方がましだと思っている。

 

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小田原 保護 舐めんな

2017-01-20 05:13:12 | 地域

全く申し訳の立たないことになった。職員のジャンパーにひどいことが書かれているとは気付かなかった。小田原市の福祉の職員が差別の服を着用していたのだ。10年間気付かなかった。小田原市役所内部ではどの程度の人が認識していたのだろうか。私は気づかなかった。新聞記者は気づかなかったのか。市会議員なども気付かなかったのだろうか。市の職員ではどのくらいの人が知っていたことなのか。このジャンパー問題が起こった、庁内全体の考え方を徹底調査する必要がある。そして、何故こんなことが実行されて、異論が起きずに実行できたのか。容認されるような空気が小田原市役所に存在した原因を調査しなければならない。64人の人が着用していたのだから、広く合意があったはずだ。そして、それは10年間申し送りされていた。つまり小田原市役所全体の意識を反映しているとしなければならない。この意識の根底からの変革につながらなければ、市役所は良くならない。

 神奈川県小田原市で2007年以降、生活保護受給者の自立支援を担当する市職員ら64人が、英語で「不正受給はクズだ」などと背面にプリントされたジャンパーをそれぞれ自費で作り、勤務中に着用していたことが分かった。市が17日発表した。左胸部分には「HOGO NAMENNA」、保護なめんなと読めるエンブレムも付いており、一部の職員はジャンパーを着たまま受給者宅を訪れていた。

 市は同日までに使用を禁止し、担当部長ら7人を厳重注意処分とした。

 市によると、07年7月、生活保護の受給資格を失った男が同市役所で、職員2人をカッターナイフで切り付けた事件を機に作った。(共同)

個々の福祉課の職員を責める気にはなれない。接してきた範囲ではよくやられていると思ったことも多かった。行政職員の限界という事は感じたがそれなりの対応はいしていた。こんなジャンパーを作った気持ちの背景には、表面的には慇懃無礼に、ケチの付かないように対応をしたという事になる。こんな服を着なければ、やってられない気持ちにさせた全体の問題ではなかろうか。そこに追い込んだのは行政全体の状況であり、私のような市民の無言の圧力もあったと言わざる得ない。生活保護費の不正受給、増加する保護費。そしてそのことで市民から責められる状況。何といっても罪が重いのは行政の責任者であろう。今回も他人事のようなコメントで済ませている加藤市長である。この鬱屈した市役所内のジャンパーを生み出す空気に気づいていたのだろうか。まず10年間見過ごした罪を詫びる必要がある。それは、福祉課の着せられていた職員と、受給者に対してが一番である。そして、このような行政の空気を、何が作り出していたのかの原因の究明である。

なんとなくあのジャンパーは見ていた。しかし何が書いてあるのかなどは分からなかった。英語で書いているところが悪質である。にもかかわらず保護課の職員の内部から、こんなジャンパーはおかしいという声が出なかったというところに、深い闇がある。以前、自宅に生活保護課の職員が来るのでノイローゼになると、訴えていた受給者がいた。家に来るのは職員の義務だから来る前に連絡を入れてもらおうとか、話した私が、ひどいことをしていたことになる。あのジャンパーに見られるように、受給者に対しては犯罪者対応だったのだろう。受給申請者に対しては、警察の尋問のような接し方であったのは確かだ。生活保護者が増加を続ける社会が問題の根源。小田原は今回の事件で日本中に恥ずかしいことになった。それは小田原市民である私も見過ごしてきた責任がある。だから責めるわけにはいかないともいえない。行政に対して、抗議の声を市民全体が上げなくてはならない。このままやり過ごせば、さらに罪の重いことになる。

仕事量が生活保護関係は仕事量が増加しているのだろう。にもかかわらず、人員の増加がないに違いない。それが、このような独りよがりの、相手側に立てない対応をしてしまった原因と思われる。この機会に担当職員の増員を計ったらどうだろうか。

 

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就職の考え違い

2017-01-19 04:44:38 | 暮らし

電通の過労自殺認定が注目され、日本の企業での働き方が問題になっている。就職を出来なかった人間の思いがある。就職はしなかった。自分らしく生きられる勤め先が見当たらなかった。高校生が大学受験で一生懸命になるように、大学生が就職試験に翻弄されているように見える。大学も企業も人生の一手段である。大学はお金を払ってゆくところだが、企業はお金をもらえるところだ。似たようなものでは全くない。子供の頃からの受験の後遺症で、良い企業に入社することが目的になっているのかもしれない。自分の人生は自分で決めなければならない。企業は人生など決めてくれない。企業に入社してそれが生きがいになる幸運な人も居るだろう。自分の生き方を決めることが何より優先される。自分の生き方を貫くためには、企業に入らなければならないこともあるだろう。孤独に山の中に行かなければならないこともあるだろう。全てはその人が選ぶことだ。

入社した企業が労働者を酷使し、人間扱いしないと思えば即やめればいいだけのことだ。お金や身分に捉われることで辞められないとすれば、次の道を見つけられない。生きるという事はたった一回のすばらしいものだ。貴重な時間である。いや嫌日々を送ることは全く必要はない。企業に入れるほどの能力があるものが、普通に働く気になれるなら、間違いなく生きて行ける。好きなことをやるならなおさらのことだ。好きなことならどれほど働いても、消耗しない。寝る間を惜しんで絵を描き続けたこともあったが、少しも消耗しなかった。楽しくその時間を満足した。絵描きにはなれなかったが、誰にも不満を言えないのが自分自身の人生であれば、全て自己責任である。生きるという事は失敗ばかりである。上手く行くことなど半分もない。しかし、それは自分の考えの方角が悪いのであり、能力不足である。方角を改め、能力を磨く以外にない。他人には全く関係がない。企業も関係がない。

酷な言い方になるのかもしれないが、学校嫌なら明日から行かない方が良いし、会社が嫌なら、明日から次の道を考えればいい。まず今やっていることをやめてみなければ次のこと等見えないものだ。何もないところに立ち、次の自分の人生を考える。そこから道は必ず見える。私は画家になる能力はないが、絵は好きなのでどうするか。こう考えた。何とか一生絵を描く道を歩もうと決めた。そして、結局のところ自給自足に歩み始めた。その日暮らしの工夫の面白いこと。あれよあれよと楽しんでいる間に、30年が経過した。その間絵は週に一枚くらいのペースで描き続けることができた。確かに碌な絵はないのかもしれない。全力を出そうとしてきたのだから、それでもいいと思えるようになった。画家がうらやましいどころか、辛そうにしか見えなくなった。辞めなければ次の道は見えてこない。自分で生きるという事が面白い。何とかなるものだ。それが67歳まで、勝手にやってきて思うところだ。

企業に勤めることは、安心立命にはならないという事だ。企業での労働時間や働き型ばかりが話題になっているようだが。企業というものの目的を考えればわかることだ。資本は利潤目的で動いてゆく性格がある。利潤の為の材料が社員だ。もちろんその中でも生きがいもあれば、企業の社会貢献という事もある。しかし、根本には利潤の競争原理が存在するのは当然のことだ。誰しも自分の人生を無駄には出来ない。あとどれくらい時間があるのか、誰にもわからないが、生きている間はやりたいことを精一杯やるほうがいい。何が好きで、何がやりたいのかである。違うと思えば道を変えればいい。それができない原因は、身分や立場がなければ、生きられないと思わされているからだろう。しかし、自給自足の暮らしはほとんどの人に可能なことだ。一日1時間100坪の土地で人間は生きて行ける。私は何の身分もないが、好きにやらしてもらったと思える。

 

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絶景の連発

2017-01-18 04:19:07 | 水彩画

最近のテレビでは絶景という言葉が連発される。「故郷の絶景に出会う」と里山番組に副題を付けている。違和感がある。山や海が出てくると、1分に1回は絶景を叫ぶ番組が本当にあった。余りに絶景、絶景と言われるとなんだか絶景が嫌いになって来る。言葉が単純になる原因は発想が類型的だからだ。食べ物紹介番組では、食べ物の味の表現がなかなか多様になっている。たぶん、ワインのソムリエの影響ではないかと思われる。味を言葉化する文化がフランスにあるらしい。もっともらしすぎる感想を述べているので鼻につくのではあるが。食べ物もおいしいだけでは、伝わらないから、言葉の選択がなかなか難しい。昔どっちの料理ショーの取材の時に、アグー豚のとんかつを食べて感想をを言えと言われたのだが、とんかつは久しぶりなのでなかなか上手いといったのだが、やはり使われなかった。これではアグー豚の特徴は出ない。脂身にさっぱりとしたキノコのような味わいがある。とか何とかいうところだろう。美しい景色を見て、絶景と叫ぶ習慣は最近のはやりのことだ。これでは料理の上手いと何ら変わらない。

やはり風景も見て、その場でならではの実感表現を加えてもらいたいものだ。絶景というのはどちらかと言えば、この世のものとも思えない美しさではなかろうか。だから、それは特別な自然景観という事になる。それは私が見たい景色とは全く違う世界のことだからだ。私も、その絶景を狙って絵を描いて居た時期がある。絵を描くことを見失ったときに、ともかく自分が美しいと感じたものを描いて見ようとした。通俗であろうが、ありきたりであろうが、自分の美しいは何かに正直に向かい合ってみようとした。そのうちにその描く場所が写真を撮りに来る人とぶつかることが多いいという事が分かった。いわゆる美しい風景というものなのだ。富士山は美しいと思う。足柄地域で絵を描いて居ると時々出会う訳だが、格別である。しかし、今は絵に描く気にはなかなかなれない。絶景だからである。美しいと絵との関係である。

今、絵に描こうと思う景色とは、自分が暮らしている空気のある景色である。この世そのものである。里地里山を描くという事は、自分が生きている空気を描くという事だろう。富士山を描くとしてもそれが、自分の暮らしの中の富士山でないと絵を描いた気がしない。絵を描くという事で、生きていることを確認しようとしている。そうであればただ美しい景色を描くという訳には行かない。柳田国男の文章を読んで、ただの自然が美しい訳ではない。秋田のスギ林のような人間の手入れが行き届いた山が美林として美しいのだ。と書かれていて、びっくりしたことがあった。子供の頃植林して山が醜くなると、実際に見てそう思っていた。手つかずの自然というものが一番美しくて、杉檜の植林をすると、面白くなくなる。ところがその手つかずの自然と思っていたものは、いわゆる薪炭林で、手入れの行き届いた里山のことだった。

里山は自然と人間の折り合いをつけたごく当たり前の姿だ。あの頃の藤垈は薪と炭で暮らしていた。山が復活する範囲で木を切っていた。その薪山の範囲が盆地を囲む見渡す限りの半自然林というのだろうか。里の暮らしは周辺の山と結びついた。しかし、手付かずの自然の方がさらに美しいのだという思いもあった。尾瀬に行ったときにこの自然は手つかずの自然なのかと、父親に聞いたことを覚えている。それならこれを美しいものという基準になるのではないかと思ったのだ。今は手つかずの自然を絵に描こうとは思わない。公園のように、整備された場所も描こうとは思わない。富士山に映えるように、菜の花を景観の為だけに植えたという場所は、景観を崩していると思う。まして山にソメイヨシノを植えるようなことも汚しているようにしか見えない。生活の手の入る自然が風景ではないか。それは絶景ではなくごくありきたりのものだ。

 

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沖縄の変貌

2017-01-17 04:37:46 | 地域

沖縄は急速に変貌している。それは稲作農業が消えかかっていることにある。沖縄が好きである。日本が残っているからだ。沖縄の中でも八重山が好きだ。八重山の唄が好きという事がある。八重山の水土が好きという事がある。八重山の人たちのさっぱりした感触も好きだ。昨年石垣島では悲しい事件が2つあった。一つは高樹沙耶という元女優が、マリファナ所持で捕まったことだ。もう一つが中山市長が自衛隊基地の受け入れを発表した。マリファナ事件は長野県の美麻でもあった。ここも良く絵を描きにゆくところだ。私が絵を描きにゆく行くところで、こういう事件が2つも起ったことがつらい。車を止めて、何日も同じところで描いている。何やら怪しいではないか。そばの家で大麻を栽培していたとすれば、気持ちが悪い。多分あの家だというものは知っている。そのあたりで絵を描いたようだ。こんなところに家がある。移住者だなと思ったわけだ。知らない民宿など泊まれないなと思う。

以前も、関西の漫才師がテレビ番組と称して、忍野の友人の家の隣でいい加減な畑をやったことがあった。畑の様子を見て、インチキだという事はすぐわかった。それはすぐやめて、今度は同じ芸人が石垣でおかしなテレビ番組をやった。今はその芸人は除名処分になった。石垣での活動もやめたようだが、都会から石垣島に来る者には碌なものがいない印象である。車を停めて絵を描いて、公園の警備員が来たこともあった。誰かの通報かもしれないと思った。迷惑はかけないようにひそやかに描いているのだが、マリファナ事件は気分が悪い。そして、もう一つは中山石垣市長の突然の自衛隊の受け入れ表明である。全くの突然である。自衛隊が来るという4つの部落は、公民館単位になっているのだが、4つともが反対を表明している。その反対住民から話を聞くと、議会では表明していた。ところが、会いもしないうちに自衛隊受け入れを表明した。

中山市長は以前から受け入れるとみられてきた。言動行動が、むしろ誘致したのではないかというような人だからだ。そして、中山市長の行動発言は、自衛隊の情報操作を受けている。反対住民に会ってはまずいという、指令の下急遽12月26日に受け入れが発表されたのだろう。理由は国防は国の専権事項だから、住民が賛成とか、反対とか議論すること自体がそぐわないというのだ。ミサイル基地が作られるという。北朝鮮の核爆弾が落とされて、死滅する時にも国の専権事項だからなどとうわ言を言うのだろうか。いろいろの考えがあっていいのだから、誘致して石垣の安全を図るという考えもあるだろう。いずれにしても、まず十分の事態を把握してから、住民投票をするのが筋である。このまま行けば辺野古の二の舞になる。あの仲井眞前知事は選挙の時には反対を表明しておいて、知事を止める直前に工事を承認して、沖縄の歴史に悪代官として名を残した。中山市長も同じ運命なのか。

八重山と沖縄本島と較べると、田んぼがあるかないかである。田んぼがあるから八重山は素晴らしいのだ。それは瑞穂の国の原型を感じるからだ。沖縄本島にもたくさんの田んぼが戦前にはあった。ところが本島では田んぼはほぼ無くなった。理由は米軍基地である。ベイ軍基地が出来て、瑞穂の国の文化がずたずたになったと思われる。田んぼを継続する意思が失われた。田んぼを失うとともに瑞穂の国の心も薄れた。利益の出る仕事であれば、田んぼである必要が無くなった。八重山の小浜島では祭りのために5穀を辞める訳にはゆかないと言われていた。米軍基地ができるとこういう地域を大切にする気持ちが失われる。石垣に自衛隊基地ができると、田んぼが無くなる可能性がある。今でも田んぼは利益が出るからやっている訳ではない。田んぼに惹かれる思いがあるからだろう。自衛隊が来て、こういう瑞穂の国に思いをはせる気持ちが失われることが怖い。

 

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生前整理計画

2017-01-16 04:31:25 | 暮らし

だんだん片付けが進んでいる。今のところ、捨ててしまって困ったものは一つもない。昨年は荷物を半減することができた。今年はさらに半減する。そして来年はさらに半減する。そこまで行けばやっと整理がついたというぐらいに減るだろう。3年連続で半減する予定。すでに去年でごみのような荷物が半分になった。今年で4分の1になる。そして来年には目標の1割まで減ってゆく。今年は、軽トラ20台分を廃棄しなければならない。実は正月から、どんどん捨てている。すでに8台分を捨てた。ごみ屋敷がやや普通の家になってきた。あと今年のノルマは12台分である。今年半減できるかが勝負である。そこまで行けば、来年の半減も希望が出てくる。70歳までには始末がつくように頑張る。生前葬があるなら生前整理と、自分で考えで作った言葉のつもりだった。ところが、すでに生前整理普及協会というものまである。そして「認定指導員」「作業技能士」の育成も行うとある。自分でやれるうちに気が付いてよかった。

生前葬というものは、これからの生き方を改めるために行うのだろう。生前葬の後どう生きるのかがなければ、自分の葬式を自分で行う意味はない。私はずいぶん昔に文芸春秋画廊で最後の個展を行った。絵描きとしての生前葬個展である。そう表明して最後の個展を行った。そしてその後は「私絵画」を目指している。絵描きを目指した自分にあきらめのけじめを最後の個展でつけた。生前整理は、これからの生き方を定めるために行っている。残りの生き方を煮詰めたものにするために余分なものをそぎ落とそうという事だ。あと30年絵を描こうと考えている。中川一政氏をめざし、100歳を目指して描くつもりだ。その為に、生前整理を行っている。自分が持っているものが自分の残りの30年を縛っては困る。物で安心することを出来ないようにする。石垣で絵を描いて居てそういう事に気づいた。石垣では何も持ち物がない。ホテルに暮らす。絵を描くにはこれで十分だという事を知った。

持ち物を整理する意味はこれから描く絵の方角を定めるという事だ。先日捨てるくらいなら、絵をみんなに配ったらどうかと言われてびっくりした。人にあげられるようなものなら、捨てはしない。人に見られたくもないものだから、捨てている。明日生きるために捨てる。これを断捨離とか名づけたらしいが、それとも微妙に違う。最後は軽自動車一つではなかろうか。家とか残った絵とかはどう処理をつけるかは決めてある。残したまま死んでも処理がつくようにした。軽自動車があれば、アトリエに十分だ。ここで寝ることもできる。ブログも書ける。そうか後はコンテナを借りて倉庫にすればいいのか。あと半減、半減の2年荷物が減れば、コンテナに入る。目標はコンテナ一つに入るだけの荷物と考えることにしよう。街でよくコンテナ倉庫というのを見かける。石垣にもあった。1か月5000円くらいのようだ。

命が消えた時にすべてが消える状態というものに覚悟が何とか出来始めた。この覚悟を作るために物を捨てているわけだ。この覚悟がなくて絵を描いていては衰退すると考えている。絵を描くという行為だけに意味を見て行く。絵を描いて居る時の心境は、楽しい訳でもない。充実感がある訳でもない。考えている訳でもない。眼になり、道具になっている。絵を描くものになっているような感じだ。それが良いという事でもないのだが、現状そうなっていること。それは生きるという事を反芻しているような気がする。ある時奇跡のような成功もある。取り返しのつかない失敗もある。この道具である人間の磨き型であろう。絵を描いて居るとき、今ブログを書いているような意味で、頭を使い考えてはいない。無念無想とかいう訳でもない。何かぶつぶつつぶやいているような状態である。この状態をさらに純粋なものにするために、物というものを捨てるのもありかなと思って捨て始めている。

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トランプと金正恩

2017-01-15 04:42:38 | Peace Cafe

トランプ氏は顰蹙を買う発言で当選した大統領である。北朝鮮の金正恩とツイッターでやり合う姿は、外交を弄んでいるとしか思えない。この二人はよく似ている。言葉を弄して、世界を破滅に導こうとしていることに気づかない。一人は小国の冒険主義者であり、一人は世界最大の国の次期大統領である。これからこの二人で世界を崩壊に導く可能性も出てきた。リーダーが最悪な場合、国家はどうなるか。2つの実験が進む。アメリカが節操のない国になってしまった。北朝鮮レベルの国になった。自国だけ良ければ構わないと考える国。アメリカが直接的に得になることだけをやろうという、アメリカファーストだ。アメリカが日本に来て余計なことをしなくなる可能性が出てきたことだが。多分脅せば金が出るくらいの、強盗外交が展開されるのだろう。脅されたアベ政権がおたおたしなければいいのだが。世界はゲスどもによって危ういことだ。

トランプによると日本の防衛を肩代わりしているので、損をしているという脅した。上手くやればアメリカは帰ってくれるかもしれない。アベ政権は泣いてすがって引き留めるだろうが、金の切れ目が縁の切れ目となる可能性が出てきた。ソフトバンクの孫正義氏は早速、訪問して5兆円のアメリカ投資を約束した。トヨタは1兆円だそうだ。大企業というものは強いものに従いたい。金儲けが出来れば、国家など存在しない。TPPができないなら、自ら出かけてゆく。日本の政治家もトランプのやり方をまねているようだ。維新の大阪知事はヘリポート抗議の人たちを土人と呼び捨てた、機動隊員をよくやったと言わんばかりにねぎらった。鶴保議員は土人発言を差別ではないと国会でわざわざ主張した。要するに良識を求める人たちから顰蹙を買う事で、人気を期待している。沖縄が損をしていればいいと言う、文句があるのなら補助金は出さない。利己主義者が人気を博すという現状である。

世界はトランプ的になっている。権力者という強いものが弱者をあげつらい差別をする。そして、人気を得る。成功者だけに正義があるとする社会。成金を成功者として理想とする社会。それから落ちこぼれた人間たちが、良識を失い選挙で成金を応援する。トランプのような差別主義者を貧困層が民主主義の選挙で選択する時代になった。選挙が論理性を失い始めている。近隣諸国を敵視するのも幼稚な手法。トランプを買えば誰でも金儲けができると宣伝する、サギ政治である。本来政治は正面から向かうべき道を指し示すべきだろう。こういう国を作るために、辛いことも我慢して頑張ろうというべきところだ。努力なしに上手く行くことなど何もない。黙っていて与えられることなどない。しかし、選挙ではもうまともな主張が選ばれなくなって言る。衰退する世界のなかで、良識格差が広がってゆく。民主主義の試練の時代が来た。

トランプが世論の動向を先取りして、思わぬ勝利に至った。日本も権力の暴言に甘くなった。甘くなっただけではなく、その方が人気を博すという社会になった。政治全体の質が悪くなっている。それは有権者が追い詰められているという事かもしれない。格差社会の結果、常民の劣化が始まったという事だろうか。トランプがアメリカで選択される理由に、クリントンより貧困層に支持されたという事があると言われている。トランプ主義の期待感でアメリカ社会は株価が過去最高になっている。弱者が、貧困層が、追い詰められ強い政治に期待してしまう構図。次に来るのはその期待の大きさに対する反動の絶望だろう。強いものが欲だけで動くことになれば、アメリカは中国と経済で結びつこうと変わるはずだ。だから、中国の居ないTPPを外れるのだ。アベ政権が中国との対立を深めている間に、日本は置いてけぼりを食らう。ロシアとの経済関係強化が裏目に出るに違いない。トランプ政治は人気取りの新しい形なのだろう。

 

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象徴天皇の意味

2017-01-14 04:04:54 | 暮らし

平成天皇の生前退位が検討されている。生前退位が行われることはほぼ決まったようでよかった。その前提として考えなくてはならないことは、象徴天皇の意味である。検討委員会の議論が象徴の意味に及ばないのでは、天皇の存在をタブー視していることにならないだろうか。憲法において、「第一条天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と定められている。この意味を国民全体が曖昧にしかとらえていなかったのではなかろうか。日本人が自らの憲法を学美、自らのものにしてこなかったという事を痛感する。憲法9条2項があっても、自衛の為の武力は持てるとした、欺瞞が憲法全体を正しく読む努力を避けさせたのではないか。子供たちが素直に読めないのが日本国憲法の置かれた、位置である。当然ながら自分のこととして、一番深く考えていたのが、平成天皇であった。象徴天皇に関する考えの表明が8月8日にあった。

「私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において,日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。」

日本国の象徴の意味を自分なりに書いて見る。瑞穂の国日本の象徴である。日本人の暮らしの象徴で在ったのではないか。それは日本の歴史を通して、天皇家が成立以来少しづつ形成された姿である。明治の日本帝国の形成に利用され、軍国主義権力の中心の存在にされた。これは一時期の特殊な形態である。天皇は日本文化に基づく暮らしを送る、文化的な存在である。文をもって象徴となる。もちろん天皇家としての神官としての祈りは当然のことだろう。それは水土を祭ることであろう。稲作を祭ることである。稲作は経済であり、技術であり、文化であり、国の根本であった。瑞穂の国の育てた文化を尊重するもので在ってもらいたい。日本人一人一人が天皇のような暮らしを日本人の暮らしとして感じられるような、日々の送り方を天皇には象徴として行ってもらいたい。それが憲法に定める象徴天皇ではないかと考える。それは武力をもって権力を司るのではなく、文化力をもって尊重されてきた、天皇の本来の在り方であろう。平和国家日本の象徴として、天皇が存在する意味である。

天皇自身が考えてきた象徴天皇の意味を日本人全体で考える必要がある。日本国がどのような国であるのかに関して、一定の理解がなければ憲法の示す、日本国の象徴の意味を見出すことは出来ないだろう。さらに日本国民統合の象徴という事になれば、日本人がどのようは方角の統合を目指すのかが議論されなければ明確になることはないだろう。天皇の存在は、憲法の示す平和への願いと両輪である。日本の平和主義が、分をもって国を治める天皇の存在と通じている。現在天皇自らによる、一つの象徴の意味の提示があった。この機会に国民は広く議論するべきことであろう。

もう一つ考えなくてはならないことは、女系天皇を認めるかどうかである。男系で進めば、必ず天皇家は途絶える。私はその方が良いと考えている。途絶えた方が良いと考えている。憲法の定めるところの天皇は途絶えることは、仕方がないことだ。新しい形の天皇家がその時うまれる。天皇の現在の在り方は、人権を無視したものである。天皇を辞めるという事も出来ない。それに関して発言もできない。生前退位は何年も握りつぶされてきたのだ。女系の是非を議論するよりも、憲法に規定する天皇家はどこかで終わることは、むしろ自然であり良いことだと考えている。天皇家が歴史にふさわしい形に変わる必要がある。もし男系が100年後に失われる時が来るとすれば、それはそれで、新しい知恵によって、新たな形が模索されることだろう。

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カフェイン中毒死

2017-01-13 04:01:16 | 身辺雑記

カフェイン中毒で死んだ人のことがテレビで流れていた。その時コーヒー5杯以上は危険と言った。先日は5杯毎日飲む人の方が長生きというのもあった。どちらも正しくどちらも間違いである。その人その人で判断しなくてはならない。コーヒーを毎日飲む。学生の頃からの習慣なので、50年近く毎日飲んでいることになる。今は午前中以外には飲めなくなった。昔は寝る前でも飲んでいた。朝起きると、すぐにコーヒーを入れる。だいたい5杯分くらいを入れて午前中に飲んでしまう。頭がはっきりするので飲む感じである。コーヒーの味がわかるのかというと、コーヒーの味は昔からよく分からない。苦いと感じている訳でもなく、たまには美味しいと思う事もある。家でいれるとしても、喫茶店で飲むとしても、美味しいと思うのは、コーヒーの味の為ではなく、どうも体調の影響が大きいようだ。だからモカが好きだとか、ブルーマウンテンが美味しいとかいうようなことは全く分からない。判別がつくこともないし、まずくなければそれでよいという範囲の事だ。

味が分からないから入れ方もいい加減かと言えば、そういう訳ではなく、毎日最善と思われる入れ方をしているつもりだ。専門家から指導を受けたこともある。コーヒーは湧き水で入れている。出来れば新鮮なものを汲んでくる。湧き水の方が良いのかどうかわからないが、かなり観念的に良いと決めて込んでいる。ここまでこだわる人は少ないだろう。小田原の水道をまずいと思ったことはない。東京都美術館に自分のお茶を持って行って毎日飲んだが、さすがに水がカルキ臭くてお茶の味が台無しだった。あの水では今は暮らせない。水を汲んでくるのはいいのだが、その水の良さが味に効果があるのかどうか確認できたことはない。ただ、湧き水を汲んでくるという気分の方を大事にしている。コーヒーは毎朝豆を挽く。加藤コーヒーというところから通販で買う。月に一回程度、2キロの豆を買う。好みがないとはいえモカの味を中心に選択する。味が分からないくせにうるさいようだが、最近のモカはモカの味がしなくなった。あの輸入禁止以来おかしい気がしている。これも思い込みである。

実は、加藤コーヒーで美味しいのはブラジルである。ところがこのブラジルが曲者で、何しろブラジルは広大である。それをブラジルでは判別がつくはずもない。一応観念として標高の高いところが良いらしいとか、何とかという最高級の認定を受けたとか、有機栽培であるとか、そういうのを選択したりするのだが、情けないがこの味の判別が出来ないのだ。だから、ブラジルがたまたまおいしいことがあったという程度のことになってしまう。モカの方が無難と思い注文する。ところが相変らずおいしいモカには出会わない。実は原因には気づいている。老化である。今後も味などだんだんわからなくなるのだろう。眼が衰え、耳が遠くなり、脚が衰える。味が分からなくなる。自覚に乏しいところはありがたいのかどうか。子供の頃は味の判別には相当の自信があったのだ。食べ物屋のお店を始めた人が、私を試験に使ったほどだったのだ。3種の肉団子を順位をつけてもらいたいというのだ。美味しい順に感想を述べたら、やはりごまかせないと言っていた。肉やら粉に違いがあったらしい。今の衰えからは信じられないような話だ。

歳をとると微妙な味など分からなくなる。分からないくせに年より程うるさくはなる。蘊蓄も言いつのる。多分味だけでない。判断も同じだ。たぶん絵も同じなのだろう。そうだと、残念なんだが自分だけ例外と考える訳にもいかない。コーヒーはコーヒーで大差ない。缶コーヒーはさすがにだめだが、コンビニカフェラテで十分である。最近カフェオーレとは言わなくなった。どうでもいいがついカフェオーレと出てしまって、直される。絵を描きにゆくと必ず買う。ポットで入れて行けばいいのだが、これはまずくなる。こういう観念が年寄りのうるささなのだろう。本当は分かりやしないくせに。何故か、セブンイレブンではカフェラテはない。セブンイレブンは嫌いなので、出来るだけ他の店に行くので、ちょうどいいのだが。

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絵を描き奇跡を待つ

2017-01-12 04:32:23 | 水彩画

車の中に描いた絵を並べてある。

絵を描いて居る時の頭の中を確認してみると、グルグルしていて、ぶつぶつつぶやいて居るようなおかしな状態である。数学を解いているときに近いかもしれない。冷静ではあるのだが、いつもと頭の働かせ方が違う。画面に向かい回答の見つかる奇跡を、ありとあらゆる角度から待っている。活路の見えない中で、前には奇跡が起きたのだと、思わぬ展開があったのだと、ほとんど希望のないグルグルを続けている。楽しいから描いている。描きたいから描いて居るのだから、何故こんなことをまたやりたくなるのか不思議なことだ。泥沼にわざわざ向かう訳だ。ほとんどの場合、すっきりしない解けない課題を持ち越したような感じで終わる。少しは描けたかなという日もあるが、良いと思ってやっていたことが方向違いに終わる。絵を描くという事は、実に絶望と直面するという事だと思う。やってもやっても訳の分からないところで、ぐずぐずしている。行きつ戻りつ。今日も一日無駄だったというのに、諦める気はしない。

中判全紙のタテも車の中で十分に描ける。

このだめな状態が自分だからだ。何も生み出さない徒労の日々が絵を描くことだと思う。それでも描き続けるのは、かつて経験した奇跡を待っている。始めるときは希望に満ちている。この絵ではできるかもしれないと、いまだかつてない絵が描けそうな気持になって始める。具体的にその進み具合を思い返してみる。描きたいと思うところから塗り始める。計画も、算段もしないようにする。構図を考えるとか、どこから何処を描こうかというようなことも考えない。考えると肝心のことから逸れる。ただ、いつもの場所に位置して、いつのもの所を、始める。紙は平らにおいて描く。その時一番描きやすそうな、描けそうな部分から筆をおく。大体はみずでかなり薄めた、グレーで始める。そのグレーも決まっている訳ではない。コバルトバイオレットとコバルトグリーンを混ぜることが多いい。白の混ざったグレーは使わない。絵具材料が変化して以来、もういいや、という感じでその場に合うグレーを混ぜ合わせては、作り出して描き始める。

描きたいと思ったところから始める。始めたら後は手順はない。急に反応して強い赤を置いて見たりする。気になりだしたところを、対象を見ながら進める。30分ほどすると画面全体に色が置かれている。紙を立てれば流れてしまうジャジャバ状態。そのくらい薄い。その時々だが、ともかく画面全体が濡れている状態になったら、画面を離れる。それを置いておいて、つぎの紙に描きだすこともある。昨日の続きを始めることもある。30分は乾くのを待つしかない。乾くのを待ちながら、描いて居る場所をブツブツ見ていることも多いい。天候にもよるが次の色が塗れるとこまで乾いたら、今度は画面を立てたり、寝かしたりしながら、濃度の様々に違う絵の具で描いてゆく。何をしているかわからない状態。そして結局のところ行き着いて大抵は絶望する。全く駄目だという事に気づく。

ここからは、もうやみくもにありとあらゆる思いつくことをやる。やっている内にあれという展望があったりする。何か新しい面白さが見つかりかかる。希望が湧いて来る。勇気が出る。またぶつぶつ言いながらやってみる。そして、2時間ほどするともうやれないという事になる。終わりというより、もうやればダメになるのが分かっている、いつもの限界のようなものに到達する。これでだいたい午前の仕事が終わる。昼間は車の中で弁当を食べて、昼寝をしている。午後は2時くらいからまた始める。場所を移動して又同じことを始めることもある。午前の絵の続きがやれそうなら続きを描く。奇跡を待っている。絵を描くという事は、人生を体験している感じだ。生きているという実感がある。一枚の絵を描くたびに人生を歩むようなすごさがある。生きたのだと感じる。失敗続きの人生でも、面白い。絵を描く奇跡。読み返して思ったのだが、絵を描くことで自分を作ろうという事のようだ。

 

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二地域居住

2017-01-11 04:27:16 | 暮らし

小田原でも空き家は増加を始めている。日本中で間違いなく空き家は増加している。小田原の空き家に越して来て長くなった。有難いことに何の過不足もなく快適に暮らしている。土地は1000坪ぐらいある。昭和初期の家である。作りもしっかりしていて、まだまだ100年住める状態である。空き家にならず同じような暮らしを目指す人に引き継いでもらえればと思っている。欅の30㎝の大黒柱の家だ。山仕事をしていた方が、木を伐り出すところから選んで、木が生えていた太陽の向きで木を使って、自分のために建てた家だそうだ。わたしはこの大黒柱に魅かれてこの家に決めた。立派な家に住まわせてもらえたとを感謝している。暮らしながら直し続けて、アトリエやギャラリーを整備した。畳をやめて床暖房の板の床にした。寒い家だからである。昨年までその床暖房もめったに使わなったのだが、今年は暖かい正月なのに使っている。いろいろ事情があり仕方がない。

小田原は何とか東京まで通勤できる。新幹線なら35分である。私も東京での急ぎの用事では新幹線を使う。三軒茶屋でも暮らしていたのだが、上野の都美術館に行くなら大した違いはない。小田原でも久野舟原は里山である。住宅が増えたとはいえ、箱根の外輪山に続いている自然豊かな場所だ。久野川があり、湧き水もある場所である。自給的に暮らすには東京に一番近い、最善の場所だろう。ずいぶんあちこちを探して越して来た。自然養鶏で鶏が飼えて、卵を販売して暮らせる場所。これほど条件のそろったところは他にはないだろう。私にとってはやってみて上手く行ったのだから、間違いがないことだ。別に養鶏をやらなくてもこれほどの場所は少ないだろう。安く東京に出ようと思えば、小田急線で新宿まで874円である。最近は東京にも出なくなったが、昔はぶらっと絵を見によく出かけた。東京に出やすいという事もそのころの暮らしには必要だった。

海があり、山があり、温暖で、土壌が良く、水が湧き出る。自給生活には最高の水土の地である。初心者でも自給自足が可能な土地である。来たい人が居たらお世話したいと思う。農地の紹介は出来る。農業機械もある。長野県に移住する。大分県が良い。そいう話もよく聞く。しかし、東京から離れてしまってはダメな暮らしもある。私は絵を描くなら東京を離れてはだめだと考えてきた。80%くらいの絵画は東京で発表されている。この状況を離れると、社会の中で動いている絵画を見失うような気がした。今は絵の社会はどうでもよくなったが、どうでもいいと言い切れるのは見ているからだ。それは絵だけではないと思う。多くの分野で一番熱があり、動いている場所の身近にいるという事は、分野によっては必要なことではないだろうか。まあ、国会のデモにもゆかない訳にはいかない。それでいて、家に帰れば山の中なのだ。湧き水で自給自足に暮らしているのだ。そういう暮らしができるのが小田原の見事さである。

この小田原でも空室率が上がっている。東京都内でも空室率が上がっている。それでもマンション建設は減らない。何か人間の暮らしに変化が起きているのだろう。2地域住居を考えてみたほうがいい。大地震が来れば小田原だって危険だが、逃げる場所はあるし、食べ物も水もある。東京に暮らす便利さは捨てがたいという人も多いい。しかし、これからは長時間働かなくても良い企業もあるようだ。小田原で自給自足の態勢が取れれば、生き方が変わる。そんなことは興味のない人には全くばからしいことだろう。おかげ様で、小田原の空室率が上がっている。価格も値下がり傾向が続いている。これは都内とは違う傾向だ。良い時代になったものだ。日本という素晴らしい水土の中で、自由に場所を選んで、自給自足の暮らしが可能になってきたのだ。こんなことは日本の歴史になか出始めた起きた僥倖である。いつでもどなたでも、そんな暮らしを考える人には協力するつもりだ。覚えておいてほしい。

 

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絵画言語化の意味 2

2017-01-10 04:43:47 | 水彩画

思考を言語化するという事が言われる。正確な論理性を持つためには、考えていることを言語化する必要がある。宗教でも言葉が必要となる。哲学であればなおさらである。美術にも言葉化することで明確になることがある。幼児的なスキキライ判断ですませていては、絵画を深めることは不可能である。思考すること、考えるという事は言葉で考える場合と、感覚的に反応する場合があるのだろう。おいしいということは、全ての動物に備わった美味しいものは食べれば生きることができるという原点がある。その感じたことを量的にとらえ、すごくおいしいかったというだけであれば、どのように美味しかったのかまでは人には伝わらない。伝わりにくいだけでなく、実は自分にとっても、美味しいというひとくくりの感覚にとどまっていることになる。言葉化するとは自分が感じた美味しいさを、自分個人の独自のものとして、分析してみる行為である。そして言語化することによって、自分がどのような美味しさを望んでいるのかが、確認できるのではないだろうか。

美味しそうという感覚が、安全に食べることができるという事であり、タベレルという感覚が美しいというものにもつながる。絵を描いてみるという事は絵に描いて、自分の頭の中で感覚として生まれた価値のあるものを、画面という世界に表わす行為。人との間に有る伝達された表現として、客観性のあるものになるという事であろう。それは、私絵画であっても同じことである。むしろ、私絵画であるからこそ、自己の内部世界の、客観的思考が必要になるのではないか。絵画の言語化とは、自分の内部に芽生えたものを、画面化する過程で、言葉に置き換えてみることで、その意味を反芻して、深める行為である。絵画的思考を記録する、再現する、さらに深める、人と共有化するという事になると、言語化が必要となる。日本の職人的絵師であれば、弟子が黙って絵画技法を盗めという事になる。しかし、新しい美しさを発見し、創作する。そこには見る人を含めた文化的な共通性が必要となる。それが言葉化する意味だ。

自分の精神に入り込んだ絵を描くためには、何を描くかが分かっていなければならない。美しいものを描くとすれば、なぜ自分が美しいと感じたのかが分からなければ描くことができない。自分が感じるという言ことは特殊なことなのだ。みんながその花を美しいと言って絵にも描いて居るから、その美しさを絵にしようというのが、お稽古の絵である。表現ではない、手順の絵である。自分の美とは何か。自分が描きたいと思うものを突き詰め、その自分独自の世界が立現れた時に、絵はその人の絵として意味を持つのではないか。自分の存在を探り当てるためには言語化して、自分の美を探る必要がある。絵が言葉にならないという事の多くの場合は、自分自身が理解していないためだ。分かっていないが何かありそうの範囲で絵を描いて居るからだ。確かに大半の絵がそういう甘さの範囲で描かれてきたとは言える。良い絵というものは、この実に曖昧な世界を、作者の明確な絵画世界としてあらわしているものだ。

では言葉で分かったことだけ描けばいいのかと言えばそれも違う。言語化するというのは、分からないという問題個所を明確にするという事でもある。絵画は分からないという事の重要性を、分からないままに表現できる手段でもある。詩のおもしろさはまさにここにある。何か魅力あると感じている世界を、言葉化してみることで扉を開けることになる。絵も何かあるという想念を画面に具体化することで、その世界を解き放てる。自分の絵の分かっている範囲とまだ曖昧なところが明確になるという事がある。言葉化してみることで内容が、その言葉がわかり切った範囲であれば、実はその人の絵はそんな常識の範中の絵という事でもある。言葉化できないから絵を描いて居るとしても、その言葉化できない周辺を言葉化する努力によって、自分の絵がやろうとしていることが見つかるかもしれない。昨日今日と、ここまで書いて見て考えた。つまり考えていることを言葉化してみた。

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絵画言葉化の意味 1

2017-01-09 04:21:42 | 水彩画

念頭にはその年にやることを考えてきた。ところが、今年は改めてそういう事にならない。このところやることは絵を描くことだけだから、これからの正月はこういうことになりそうだ。「2017年は絵を描く。」これだけで終わりである。役目というものがない。問題は絵だ。これで自分の絵が描けないとすると、言い訳がない。名画を描くためではない、自分の絵を描くためだけなのだから出来ないわけがない。必要と考えているのは、絵を語り合う場である。たぶん自分の確認ができるのではないか。これを作りたい。これが新たにやる今年の具体的な計画。こうして、まだ元気なうちに絵に専念することが出来たのはありがたい。絵が少しづつ自分に近づいている実感がある。これは良い傾向である。次に描く絵をどうしようとか、どう描くか。どう進めようかなどと思う事はない。ただ、自分というものに向って描き進める。そして終わってみて考えることになる。何をしたのかである。もちろんやることはあって描き始めるのだが、意図を持って進めるという事でもない。むしろ意図を捨てて描いている。

描いて見なければどうなるのかはわからない。その場にゆだねる。ゆだねることで自分というものが出現するかもしれないと考えている。描き出す前に何を描くのかは決める。誰でもそうである当たり前のことだろう。庭を描く。畑を描く。そいう何もあるが、畑の何を描くのかという事になる。土を描こうという時がある。土の持っている力のような。畑をやっていてわかる良い土というような感触。草を描こうという時もある。花を。こういう更なる具体的なものを通して、その先にある何であるかだ。つまり、土を描くとして土の何を描くのかが分からなければ絵にならない。土という得も言われぬ、未知の豊かさを秘めた物に向かい合い、描けるかどうかと進める。土はすべてを生み出す。土台である。全てを包み込む。生命の源である。このように言葉化しているものを、描けるかである。漠然と土は美しいなあーと描くのが悪いという訳ではない。私にとってはそれではだめだというだけのこと。

土がどんな色をしているか正確に写すなら、その土を画面に塗ればいいだろう。しかしそれでは土の色とは程遠いい。自分の頭の中にある土というものが描けなくては意味がない。しかし確かにその土は、視覚的に確認している土だ。単なる観念ではない。絵に描くとは、その土の意味が分からなければその色を塗るなど出来ない。と考えている。土の意味などという理屈っぽいことは絵を描く人間らしくない、考え方かもしれない。そのややこしいところが自分の絵と思うしかない。とはいえ土を描いて居るときには、そんなことは全く忘れている。良い色だなあ―、良い感触だなあー、良い匂いだなあー。このすべてをどうすれば描けるだろうと思うだけである。2,3日して冷静になって初めて、土の意味をとらえていないなどと、反省をする。

それにしても絵は不思議なものだ。なかなか描けない。こうだと思って描いて見て、それがだいたいは違っている。その理由ははっきりとはしないが、描きたい方角は分っているつもりで始めるのだが、描く方法が見つからない。見えている物の描き方が分からない。あの空の感じとは思うが、あの空になることはない。あの空には目に見えている物だけではない何かを見てしまっている。水彩画に変わった時に絵は変わった。紙を変えた時にも絵は変わった。筆を変えた時に絵は変わった。それは自己否定が絵を描く方法に及んだからだと思っている。いつも来た道にはまり込めば、新らしい方角には行けない。新たな方角は、新たな手法が必要であろう。絵を言葉として語ってみる。何がかけないのかを言葉化してみる。絵を描くということは分からない自分というものに直面しているという事になる。絵の不思議は自分の不思議でもある。

 

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新たな従軍慰安婦像

2017-01-08 04:34:04 | Peace Cafe

従軍慰安婦像が釜山の日本領事館前に設置され、韓国政府は不可逆的な約束にも対応ができない。朴槿恵政権が崩壊している。韓国は国家存続の危機と言っても良い状況であろう。それは世界の経済競争にすべてを投げうって挑戦した結果起きたことである。競争には勝利もあれば敗北もある。経済競争が危うくなった。韓国はなりふり構わず、韓国の伝統的な文化までも危うくなるような、弱者切り捨ての挑戦を続けた。優秀な人材も現れたことだろうが。全体としては精神の荒廃は進んだに違いない。企業は国家を捨てても利益を目指すだろう。そういう事件が頻発している。韓国を批判しているのではない。翻って日本のことを言いたいのだ。条件が似ていて、最も競争を先鋭化させた韓国が日本の参考になるという事である。このことは何度も、このブログでも書いてきた指摘だ。アベ政治が経済優先で国際競争のために大切なものを見失っているという指摘だ。

従軍慰安婦像に関して、日本政府には国家の品格というものを考えてもらいたい。世界中に日本という国の品格を示してもらいたい。韓国のやっていることは、褒められたことではないと私も思う。しかし、ここでは相手がどうであれ、日本が品格ある立派な対応をしてもらいたい、と考えている。世界の眼を意識して、日本がどのような国だるかを示せる機会にする。それがどんな態度であるかを考えてみたい。日本の防衛大臣の靖国神社参拝も、近隣諸国からは不愉快なことなのだ。慰安婦像と同じようにみられるということを書いた。それが品格を落とす態度ということである。確かに、神社に参拝するのにとやかく言われる筋ではない。それなら、従軍慰安婦像にとやかく言われる筋ではないとなる。相手の気に障ることはお互い行わないというのが、品格ある態度である。ところが安倍政権の大臣は靖国神社に行きたくて仕方がない人が多い。踏み絵を踏もうという事だろう。総理大臣になる資質があることが示せると考えているのだ。

アベ政権は韓国が一線を越えたと感じて、大使を一時帰国させた。近隣諸国に対して、日本が負けて居ない、相手の言いなりではないと示せる態度のつもりで在ろう。それが品格ある態度と言えるだろうか。世界から見れば、日本はヒットラーと類似の侵略国家なのだ。世界は他国というものを冷たい目で見ているものだ。そう考えておかなければならない。だから、韓国の行う慰安婦像に対してもさもありなんと受け止められ、韓国同情論の方が強くなる。こうした、刷り込まれた侵略国家日本像をどのように、変えてゆくかである。まずは、防衛大臣が靖国神社に行くなど論外である。言い分はあるのだろう。政治家であるなら、日本の未来の平和のために考えなければならない。日本が軍事基地を作るようなことは行わない。防衛と言いながら、原爆実験を続ける北朝鮮を世界はどう見ているか。迷惑な冒険主義のテロ国家とレッテルが張られている。日本が防衛と言いながら、中国の目と鼻の先に軍事基地を作ることは、平和国家やるようなことではない。中国が武力主義で拡張しているという事とは別のことだ。相手がどうであれ、日本がどのように品格を保つかである。

日本の平和主義は世界の希望である。日本が全く武力を捨てて、平和主義を貫くことも一つの安全保障である。日本は武力では国際貢献しなくとも、経済や食糧や医療や災害援助で国際貢献してゆくという姿勢を、徹底して示してゆくことだ。それ以外に世界が平和になる道はないことを行動で示してゆく。その道を毅然として進むことが日本国の品格ではないだろか。相手がどうあるかで、右往左往しない。自分の正しいという道を堂々と歩むこと。これが、従軍慰安婦像への対応ではないか。日本が品格ある国になることが、次の世代にまでこの問題が持ち越されない唯一の道だ。くだらない挑発に対抗してはならない。相手に問題があるなら、より正しく歩めばいいだけである。

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デッサンの必要性

2017-01-07 04:44:28 | 水彩画

絵を描こうと思う時、まず基礎のデッサンをやってからという人がいる。その始め方では絵を間違う。絵を描きたいという思いを大事にすべきだ。デッサンがしたいという人はデッサンをやればいいのであり、絵が描きたいという人は絵を描けばいい。自分が絵を描き始めた時は幼稚園だ。その時のやり方でそのまま来た。別段教わったことはない。誰かに教わったという記憶がない。金沢大学でも、フランスの美術学校でも絵を描く技術を教えてくれたという事は、全くない。ただ絵を描く場所があっただけだ。カルチャーセンターよりも絵を教えてはいない。一番教わったと言えば、春日部洋先生である。しかし、春日部先生も私を指導したとは思っていなかったと思う。一緒に絵を描きに行っただけである。先生から学ぼうとすると、先生の作り出したものを受け売りすることになる。絵を描いて居て困ることは、身についてしまった受け売りを拭い去ることだ。絵は自分であること以外に何もない。

デッサンが必要という意味は、自分が描きたいと思うように、自由に描ける技術が必要という意味だろう。物を見てそっくりに描き写す必要があれば、そうやればいい。それはデッサンの一種であるが、コピー機デッサンである。コピー機の写し方とデッサンの見方は本質的に意味が違う。本当の意味のデッサンをするは、自分の物に対する解釈なのだ。物を見て、自分の頭の中で図にする置き換えの技術なのだ。自分の頭の中の見る訓練という方が近い。頭の中で絵を作る訓練が必要なのだ。だからデッサンが一定のレベルに達すると、観るという事がデッサンをするという事になる。木炭で画面に映し出す必要は小さな要素になる。ここまでが第一段階なのだろう。所が画面に映し出すコピー機技術をデッサンと勘違いしがちだ。初心者とは限らないが、頭の中に絵が無いにもかかわらず絵を描いている人がいる。そのうち何とかなるだろう、のス~ダラ方式では絵は描けない。絵は最初の一筆から、最後の仕上がりを縛るような意味が有るからだ。描き出した間違いが災いして、自分の絵の行方が定かにはならない。

天才といわれるような人は、初めから絵が頭の中に確定的にあるのだろう。それを移しているだけなのだ。頭の中に絵が無い人は、絵を描いても無駄かと言えばそうでもない。その人なりの絵は描ける。私絵画はそれでいいのだ。ただ、あくまで頭の中の絵を求めて描かねばならない。頭の中に人の作り出した絵が出てきてしまう事をどう乗り切るかである。頭の中の自分絵を育てるためにデッサンが必要な場合もある。人間は見ているようなきがしていても、ほとんど見ていない。見ているつもりを正すのがデッサンなのだ。見えていないことに気づくためにデッサンをして、眼を鍛える。ところが、多くの初心の人はコピー機になるためにデッサンをする。自分の眼で見るという事を忘れて、客観というか、一般的な薄味の見方で見るための眼に堕落するためのデッサンになる。それくらいならデッサンなど学ばない方が良いという事になる。だから、デッサンをやるのも良いのだが、頭の中の自分の観念と、行き来するような見え方を作り出すためのデッサンをやる必要がある。これは肝要である。

具体的には、自分が描きたいというものをデッサンしなければならない。くだらない石膏デッサンなど百害あって一利もない。受験の難しい芸大生はいわゆる石膏デッサンが上手なのだろうか。芸大生なら良い絵を描けるかと言えば、そんなことは全くない。私が絵だと思う、中川一政氏も独学である。須田剋太氏も独学である。鈴木信太郎氏も。マチスも、ボナールも、あのゴッホも、好きな画家は石膏デッサンなどやった人はいない。どうしてもデッサンをしたいという人は、自分が描きたいというものをデッサンすべきだ。私は時々樹をデッサンする。自然の樹木のなかには実に描きたくなるものがある。彼らは何百年もその土壌に根差し動かず。水を吸い上げ、太陽の光を受けて光合成をして、酸素を作り出している。落ち葉を大地に返し。そして最後には朽ちて大地に戻る。樹木の動かず立って、風のなかにある自然の姿こそデッサンしたくなる。

 

 

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