地場・旬・自給

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自給的に生きる事 その1

2006-12-31 07:20:52 | 自給
自給的に暮す。この方法だけが人間が生き残れる道だ。問題は自然から大きく離れてしまった人間が、自然に即応した暮らしに戻れるかにかかっている。ロカンタンはマロニエの根っこで吐き気を催す訳で、自然物だから癒されると単純にはいえない状況に現代人は来ている。そよ風が渡る縁側の昼寝より、完全に遮断した、無菌的室の中にいるほうが、心地よいと言う人間になってきた。畑仕事もいいけど、実際、土に触る事ができない。そんな人が少なくない。

自然に馴染んで暮す。この方法をどれだけ取り戻す事ができるか。。出来る限り具体的にこのやり方を、探ってゆく事。鶏の飼い方。これを私達の暮らしの中に、取り入れる方法を見つける事。鳴き声がうるさい。うるさいと感じる事がおかしいわけだが、すでにそういう状況は通り過ぎた。うるさくない鶏の飼い方を提案する事。さすがこういうくだらない技は、江戸時代の人も考え付かなかった。

環境問題、地球温暖化、水・大気・土壌の汚染。いずれも解決不能のまま進んでいる。日本は京都議定書の目標値すら、遠のく一方だ。アメリカが約束すら結ばないと言って、抗議しながら、日本人の暮らしのNO2の排出量は増加させている。暮らしを変える以外道がないことを気づく。これは遅くなれば遅くなるほど大変な事のなる。この変え方の道を提案してきたつもりだ。

どうやって普通のサラリーマンが、自給的に米作りが可能か。又その事が、仕事にも役立つ物になるか。極端な、変換でなく、わずかな暮らしの変化のなかで、人そのものが変わってゆく、そんな方法を探ってきた。一つの鉢のトマトの苗が、何かを変えてくれるのではないか。そんな期待を持ってやっている。わずかな成功体験の積み重ね。そうやって、生き方の角度を変える。今日は昨日と殆ど同じだが、一年経てば、違う地平が見えてくる。そんな方法を探りたい。

特に若い人だ。若い人の方が、人間としてのゆがみは当然大きく成っているはずだ。自然から完全に切り離されて、育ってしまったからだ。大規模養鶏場の鶏のようなものだ。自然の中に放しても、歩く事さえできない。しかし、人間は不思議な生き物で、本能的に危機を察知して、自然に適合した暮らしに戻ってくる者が、いる。良くぞ。と思うが、その道は当然のごとく、困難に満ちている。それをわずかでも応援したいと、思ってきた。しかし、他人が手助けできることなどないわけで、その人が、その困難を切り開いてゆくしかないという事。

この一年は、このことを学んだ。心の通い合う仲間がいる事。人間が分断され、繋がれなくなっている。理屈ではともかく、実際の暮らしのうえで、繋がると言う事がない。助け合うとか、思いやるとか言う事が、するほうもされるほうも無い。ともかく心が通じ合わない中では、やることなすこと、良くないことになりがちだ。いい関係を作り出すこと。これに尽きる。

自然に即応して生きる。自然を変えるのでなく、自然に溶け込んで生きる。自然への馴染み方を探る。自然わずかしか変えないで、人が生きる方法を探る。それを出来る限り具体的に。完全に自然から切り離されて育ってしまった人でも、可能な方法で。
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久野公民館の登記

2006-12-30 09:45:02 | 身辺雑記
昨夜、横浜から岩橋弁護士が見えた。久野の公民館の登記が終わり、その報告とお礼の集まりがあった。星野連合自治会長のご苦労で、このことが実現した。それはかいつまんで書いたとしても、長くなりそうだ。でもなるほどと言う事なので、少し書いておきたい。

久野の公民館は210坪の土地に、鉄筋の2階建ての建物が建っている。そもそもこうした地域の公民館が、公共の物という訳でないことすら知られていないかもしれない。今アトリエにしている建物があったところはその昔、地域の青年集会場があったところだそうだ。内容は良く分からないが、個人の家ではなかった。しかし、所有者は個人だったようだ。それが売買が重ねられてきた。

公民館は各部落にある、この問題の公民館は地区公民館より一段上の久野全体の公民館だ。この敷地が昭和7年に個人の所有者から、自治会で購入したそうだ。当時の価格で、額面200円。昭和初期は金融恐慌の時代で、久野でも土地の売買はかなりあったのだそうだ。この土地も登記簿を調べると、その売主は足柄下郡郡役所から購入し、更に転売したようだ。役所から直接購入が何故出来なかったのかは良く分からない。競売でもあったのかもしれない。現在、公示表価額で5200万だそうだ。

その所有者が公民館に売る約束がすでにあって、競売を落としたと言う事もあったかもしれない。いずれにしても公民館用地にしようとしたが、登記が法人ではない自治会と言うものでは、不可能だった。そこで当時の、周辺三つの自治会の役員たぶん自治会長の名前で、登記が行われた。但しその3人に対しては、別途公民館用地である旨の契約を行った。

そのうちの一名の方のお宅の、21歳の長男の方が昭和5年にカナダに移民されている。そして戦争もあって音信不通になった。昭和19年には当主の元自治会長がなくなる。すると当時の法律では、長男が家督相続をすると言う事になるが、戦時中で収容所にいたそうで、連絡も取れない。そのまま二男さんが家を継ぐが、相続についてはそのままにされていた。昭和44年に至って、その二男さんも亡くなられ、権利関係を整理するに当たり、法廷で判決をもらい登記を変更する。

しかし、その際も公民館用地については、そのままに継続される。その為に他の2名の方もそのままの形で過ぎる。歴代の連合自治会長は外国に行かれた、相続人の権利の整理と言う事が、不可能に思われ、整理できず悩ましい課題として今に至る。しかし、星野さんが連合自治会長になられると、何とか整理をしようと、ダック事件でお世話になった岩橋弁護士に相談する。

先ず、外務省で在外日本人の居住調査で6人の相続人の発見。これはすごい事だ。どなたもカナダ人で、日本語は分からない。幸いの事に、星野さんのご息女が英語が堪能で、交渉に当る。メールでやり取りを行う。これが問題の解決を可能にする。6名の相続者においても、全く状況も分からず。すでに高齢。最終的に、裁判の処理を行い。全員の証明を頂き、めでたく三つの自治会での登記が出来る事になる。

2つの事が興味深かった。当時自治会長をされるような、久野の有力農家の長男が、21歳で雄飛カナダに移民しよう、と言う人がいたと言う当時の社会の機運。満州に渡った人は、近所にも結構いた。そんな話もでた。もう一つは自治会と言うものの日本的曖昧さ。今でもそうだが、この組織は、行政の下請け機関であるのか。地域の自治の集まりなのか。その決定の仕組みは。存在の意味は。いかにも不可思議な存在でありながら、大きな役割を担っている。
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鶏の準備と菜の花の芽生え

2006-12-29 07:08:16 | 自然養鶏
今年の12月は暖かいし雨も多いい。これは予想した通りだ。12月の16日に蒔いた菜の花が芽を出した。12日目で発芽。こんな時期に蒔いた事はなかったので、出ればめっけもんと蒔いてみた。少し時間はかかったが見事に発芽した。小田原の気候のあり難さだ。これで、端境期の頃の鶏の葉物は確保できた。葉物さえしかっりとできれば、養鶏も随分と楽になる。

鶏は別飼いを始めた。笹鶏の赤系統20羽、白系統20羽が4坪ほどの小屋に入れられている。選抜しながら、数をもう少し減らしてゆく。選抜の基準は次世代を決めるので重要だ。活力が一番重要。目を見ると判断できる。まん丸でくりっとしている事。眠たそうなトロンとした目はいけない。足の爪の状態も重要。爪が伸びているようではいけない。磨り減っている事。足の皮膚はしっかり硬い事。くちばしも短く強い事。トサカはしなびたようではダメ、色も赤くらんらんとしている事。羽は色艶が見事で、美しい事。背中が赤むけているのは良い。雄鶏はこの数で、2,3羽は入れておく。弱いオスは死ぬ事が間々あるので、注意が必要。

種卵の採取は1月末ぐらいに始める。まず笹鶏の純系の孵化をする。それが確認できたら、雄鶏を交換して、交雑した実用鶏の種卵をとる。2月の終わりにはヒヨコがいる事になる。ついでに言えば、種だまはその後の養鶏の重要要素なので、良く吟味する。巣箱に産卵した物。色艶が納得いくもの。形がいいもの。大きさも充分なもの。卵は遺伝的要素が強いので、よくよく観察する事。
それにあわせて、年が明けたらば、育雛小屋の準備に入る事になる。この辺は床の発熱の条件があるので、種卵の採れる時期を見定めて、始めた方が良い。鶏の状態での良い卵を孵化したいので、鶏の観察が重要だ。

例年200羽の鶏を育てる為に、80羽程度を3回孵化する事になる。それが中々そう上手くは行かない。今年こそ上手く行って欲しい。5月までにはすっかり終わっていて欲しい。そうしないと田んぼの作業が始まり、これと重なると、何かとせわしい気分になって失敗をしでかす事になる。これは時間があるなしでなく、気分の問題で、気持ちを集中してゆかないといけないという事だ。孵化中は絶えず頭のにヒヨコの事がある。

キツト今年の雛たちには、今発芽した菜の花が緑餌として使えるのではないだろうか。小さい頃から、緑餌を出来るだけ食べさす。それも細かく刻んだりしないで、丸ごと突かす。そうすると、硬い草でも食べてくれるようになる。ハコベなどを与えていると、柔らかい草しか食べなくなる。それと同じ事で、ヒヨコは最初はくず米を与える。くず米がいつでも食べられるようにしてやる。しかし、注意深い観察が必要で、適度にゆで卵も与える事。一番いいのはミルワームを食べさせる。

こんな事を何十年と繰り返してきたわけだが、そろそろ潮時だと思っている。60に成ったら、どう縮小してゆくかが大切だと考えている。それには来年は一年かけて、その後の鶏とのかかわりを考えるつもりだ。もちろん、笹鶏の保存改良だけは、続けてゆくつもりだ。自分の所で雛を取る当たり前の、農家養鶏がいつか大切になってくると思うので、その時まで生きているかは分からない。笹鶏もたいした鶏だとは考えていないが、この程度でも他にはいないのだから、継続する必要があると考えている。

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国立市長、上原公子氏の講演会の開催

2006-12-28 07:15:54 | Peace Cafe
先日来内々に相談してきた、上原氏の講演会が実現できそうです。2月4日です。中央公民館で開く予定です。細部を整えて、年明けにはビラが配れるようにしたいです。ピースカフェ設立1周年事業と言う形で進めたい。今度の、ピースカフェはその事を含めて編集するつもりだ。行政と市民の共同してゆく形の模索が、テーマだ。

上原氏は市民の行政参加に熱心な市長だ。市の基本構想を決めるに当って、あらゆる角度からの市民参加を模索して言る。どんな町にしたいかを、市民自らが模索して行く。その中で自ずと、市民と行政の役割が見えてくるのではないだろうか。いつでも誰でも、自由に参加できる形で、基本構想を作り出してゆく、こんな形が、小田原でも出来ないものだろうか。

もう一つの上原氏の政策の柱は「平和」の問題だ。平和を市民のレベルから、作り出してゆくこと。これが、無防備地域宣言の運動につながっている。ジュネーブ条約にある。「無防備地域を攻撃してはならない。」と言う考え方を地域地域が、宣言をめざす事で、「平和な暮らしを考えてゆく」運動だと思う。現在小田原市で、国民保護法に基づく条例が進められている。自衛隊主導の、武力攻撃時の避難誘導が市民の危険を増すという恐れがある。むしろ自衛隊でなく、警察官及び消防のよる避難計画のほうが安全ではないか。小田原の市議会では、この問題を災害時の防災計画と混同している。

国立市での上原氏の政策を見て行くと、どのように市民が自分の町として、国立を感ずる事が出来るか。ここに重点が置かれているように見える。暮らす町が、自分の庭と感ずる事ができれば、やるべきことは色々見えてくると思う。この意識改革が、先ずポイントなのかもしれない。お上がやってくれる。税金を払っているのだから、後はお上の責任だ。こういう意識を変えてゆくことが、何より重要だと思う。

参加者意識を持つ事。その為には、権威的な市議会を、当たり前の民主的な議会に変える。行政の顔を市長にでなく、市民に向ける。そして肝心なのは市民が、自分たちの担わなければ成らない、自助の重い役割を認識する事。この三つの役割がそろった時。町は変わってゆくのだと思う。

行政職員としては市民が信頼できないだろう。市民に任せるなんて恐ろしくて出来ないだろう。市民は利己的で、身勝手で、油断をすれば欺く。こう思わざるえない体験ばかりだっただろう。口先ではいい事を言っていても、いざとなれば逃げてしまう。自らの労力提供など、掛け声だけでやろうとしない。こんな思いがあるだろう。良く分かる。

市民を変えてゆく、そのための仕組みづくりの、第1歩こそ、市民参加だ。自分のゴミをどうしたらいいか。このことを共に考える事が、市民を変える。信頼できないからと言って、市民を除外して事を進めることは、これからの町づくりはできないと考えなければならない。面倒で手順が遠回りであっても、行政手法が変わってゆく局面なのだ。

桑原での、小田原メダカの活動は行政と市民の共同作業の好例だっつたと思う。市民が続けてきた環境活動を、行政がバックアップする。そして、新しい組織を結成して、市民的に、地域を守ってゆく。市民の負担も大きくなる。しかし、行政のできる、法的整備、調整は行う。小田原ももう一頑張りで、変わりうると思う。

今回上原市長をお呼びし、お話を伺う事を、小田原が生まれ変わってゆく機会にしたい。
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ビジョン21と安田節子さん

2006-12-27 07:13:59 | Peace Cafe
一月ほど前、食政策センター・ビジョン21の皆さんが尋ねてくださった。鳥インフルエンザの事を取り上げてくれてから、この活動を注目をしてきた。遺伝子組み換え作物についての、正確な判断は注目できる。安田さんの遺伝子組み換えでの講演は、それは練り上げられていて、すばらしいものだ。来ていただくなど恐れ多い事だったが、鶏の事を聞いてもらえればと思った。昨日送っていただいた「いのちの講座」に来てくださった時の事を、取り上げてくれていた。

今回紙面は大変重要な事が、いくつも載っている。指摘の正しさに注目し、学んで行かなくては成らない。中でも巻頭言の「農家の自家採種が犯罪になる日」これには驚いた。日本の農水省が農家の利益と言う基本的なことを忘れている事が良くわかる。種苗会社の利益を優先したいと言う事だろう。しかもこの種苗会社は日本ではなくアメリカの会社の事だ。モンサント社のことだ。安倍総理、本当にしっかりしてください。

そもそも、植物に特許と言う制度が適合するかが先ず問題だろう。しかも、特許と言うからには、種病会社が新しく作出した新品種を特許にする、在来種を作っているから、私らのような者には関係ないと思ったら、大違い。世界中のあらゆる種子を掘り起こし、勝手に特許申請している、しかもアメリカはそれを世界戦略としてやっているから、他所の国の在来種であれ、どんどん認めてしまう。すでに11000種を越えたそうだ。

モンサント社の手先が来るなら、日本政府がいくらなんでも守ってくれるから、大丈夫と思いきや、今度は農水省の岡っ引き、品種保護Gメンが来るそうだ。お宅の大根は自家採種だから、頂きます。くれないなら、賠償金になります。こう言う事がカナダではすでに起きて、最高裁でモンサント社が勝ったのだ。

私はそもそも知的所有権と言うものを、認めない。笹村出が創作したものは何処でも誰でも一切使ってかまわない、と言う考えだ。それが当たり前だと私は考えている。私の絵柄が、どこかのお菓子屋さんの包み紙になっていれば、嬉しいと思うだけだ。私の作出した、笹鶏を飼育する人が増えれば、ありがたいことだ。文章も利用してくれれば、すばらしいと思う。知的所有権、作った人の権利とかいう思想は、資本主義社会の狭い考えだ。絵で言えば商業絵画時代を表わしている。描きたくて描いたものをお金にしようとか言う卑しさが嫌いだ。

いのちの講座には、重い記事が多いい。「自然農法のりんご」森野栄一氏の文章がすごい。青森の木村秋則氏自然農法のりんごがすごい、そのすごいりんごが高価なのは当然だが、我々には無縁で、金持ちがその信じがたいりんごを味わっていると言う話。これはいつも悩むところ。我が家の卵は1個55円。高いか安いか。3倍ぐらいはする。これでも随分安く売っている。本当を言えば230円で売らないとならない。そうしないと継続は出来ないし、新しく始める人が現れない。しかし、金持ちの為に作る気にはなれない。そこで、55円なら、何とか買ってもらえる価格だと考えて決めた。

有機農業推進法の問題点の指摘。日豪貿易協定の問題、これの奥にある日本の農産物の未来。ともかく内容がすごい。一読をおすすめする。
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冬の農作業

2006-12-26 06:14:30 | 自給
この秋は、いい具合に雨が降る。種蒔きや植え付けをしようかという頃合いに、雨が来てくれた。お陰さまで、田んぼに撒いたレンゲも上手く発芽してくれた。この分なら、来春はレンゲの緋毛氈を楽しんでもらえる。足柄一体ではモウセンとレンゲの事をよび慣わしている。通りがかりの方が、「芽が出ているよ。」等と遅かったレンゲの種蒔きを心配して声を掛けてくれる。みんな見てくれている。昔モウセンを蒔いていたころの話に成る。

昨夜来の雨は冬の雨にしては少し強いものだったが、ちょっと乾いてきていただけにホッとした。冬には集中して絵が描ける。先日来年賀状の絵を描いていたのだが、考えていた構図でいくつか分かったことがあった。これを次に描く少し大きい絵に生かそうと思う。

水彩連盟から、来年の国立美術館展の手順が送られてきた。内部の様子も整理されている。水彩連盟は開館最初の展覧会になるので、全てに前例が無い。例年に以上に手順の検討が要る。このところ、大分旧来のやり方から変わって、国立美術館での展覧会に備えてきた。いよいよと成ると、改めて心配が起こる。私は搬入係、と言う事なので、この手順を考えなくてはならない。

そんな事を思っていると、水彩連盟に出す絵の事が気になりだした。いつも冬の農閑期になると、絵を描き出す。大抵、描きたいものは決まっている。庭を描きたいと思っている。庭と言っても畑ともいえる。あれこれが、植えつけられているのだが、この状態が、何か面白い。庭は自分が作ったものであり、作り出した造形だ。これを再構築するような形で描いてみたくなったのだ。

タマネギが弱々しく植えられている。これは畝を立てた。その脇には、平らな状態で、ニンニクが逞しく芽吹いている。奥には草にまぎれて、秋じゃがが埋まっている。順次掘り出しては食べているので、空き地のような、しかし、保存庫でもある畑だ。池には、蓮が残っている。小さい蓮根しか取れなかったが、美味しかったので、これも食べたくなると掘り出している。他には堆肥場がある。鶏は全て、養鶏場に移動したので、残された鶏小屋が物足りなそうに建っている。これも近いうちに、床を積み上げて醗酵を始める。

余った雄鶏の出荷が終わると、雛の孵化を始める事になる。笹鶏の別飼いも始めた。種鶏を赤系、白系と20羽ほど、分けて飼い始める。雄鶏はその中に2羽。この状態で、1月末迄飼って、種卵をとることになる。いつもは渾然と飼っているのにはそれなりの理由がある。別飼いを続けてしまうと、強い鶏の選抜が出来ない。群れの中で生き生きと暮らして行ける鶏を、次の代の親にしたい。

鶏の遊び場の面積は本来1羽に100㎡必要だ。そのような状態で、飼えれば、地面もあれず、誰にでも鶏は健康に飼える。本来地鶏の規定を作るのなら、こんな事を決めるべきだ。日本では、1平米に10羽飼っていて、80日以上飼育すればいい。6ヶ月以上は飼いたいと言うのが私の考えだ。ブレスこの飼育状態が本当の鶏の飼い方だ。ここでは4ヶ月以上と言っている。私はもう少し長い方が、硬さが出るが、味は鶏らしくなると考えている。ブレスは世界最高の肉鶏と言われ、1羽8000円もするそうだ。笹鶏の方が更に美味しいと私は思っている。
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北朝鮮の農業

2006-12-25 07:02:21 | Peace Cafe
6カ国会議が何の成果も無いまま終わった。日本政府の策のなさは目も当てられない。何のために出かけていっているのだろう。アメリカとの2カ国会議にしないために雁首を据える為にだけ参加しても仕方が無いだろう。やることが無いわけではない。アメリカ、中国、ロシアの核保有国に対し、核実験の停止と核兵器の削減を提案すべきだろう。それが、北朝鮮に対する交渉材料のはずだ。

韓国農村振興庁は22日、北朝鮮の今年の食糧生産量は前年に比べ1.3%減の448万トンと推定されると発表した。 米の生産は干拓地開発などで栽培面積が増えた一方、田植え時の降水量の不足や7月の集中豪雨による浸水が影響し、6.4%減の189万トンにとどまった。と報道されている。この統計が何に基づいているのか、不明だが、正しいとして考えてみる。

北朝鮮の人口は2200万人程度。日本の6分の1。一人当たりの米の生産量は日本と同じ程度。北朝鮮の地勢、気候風土から言って、水田中心の農業ではないはずだ。北朝鮮の農業に関する考察は少ない。私なりに推測してみると、農業分野での経済改革の可能性は高い。中国もそこからスタートして、経済の活性化に成功した。

北朝鮮は、日本の植民地時代から工業資源が豊富で、工業的な地域だった。キンジョンピル体制下も同様の重工業主義で展開している。この方針に間違いがある。経済封鎖された国が行うべき事は、先ず食糧生産であろう。キューバが好例だ。軍事産業を中心に高度技術をいくら開発したところで、経済封鎖が行われる中で、経済開発に結びつける事はできない。例えば、北朝鮮開発の囲碁のゲームソフトがある。これが世界最高水準を続けていた。こうしたIC関係でも、相当開発に力を入れているようだ。

食糧援助が行われているが、これが北朝鮮農業を崩壊させる事が予測される。食糧援助が行われる国は、国内農産物の流通が健全に成長できない。北朝鮮農業は国営農場で働く労働者と、自立農家がある。これを自立農家に全て転換するだけで、生産性が全く変わるはずだ。以前、北朝鮮の国営農場が報道されていた。ダチョウの飼育施設だ。愚かな選択だ。北朝鮮の気候で、ダチョウの飼育が経済性が高いわけが無い。アイデアにすがりつく事になるのは、展望が無いときだ。地道に自分たちの過去を顧みて、効能性のある農産物を探す事だ。

日本ができる北朝鮮対策は、農業技術支援が一番効果的だ。経済的な自立安定を何より優先すべきだ。北海道での稲作が、驚異的に伸びている。本来熱帯の作物であった稲を、冷涼な気候に適合させた技術改良は、目覚しい物がある。日本では一律稲作減反の影響で、健全な発展が阻害されている。その中で、品質でも、生産性でも、北海道の稲作は先進的だ。大規模農業の好例になっている。この技術を北朝鮮に提供したら、互いの利益になるはずだ。

北朝鮮の個人農家では、100㎡の家庭菜園が許されているそうだ。ここでの生産性は高いらしい。脱北者の証言では、3倍から、6倍の生産がされていると言う。当然の事だ、農業は家のそばで、徹底した管理をすることが、一番の方法だ。給料をもらって、時間決めでやるような農業では、到底生産性は上がらない。技術の向上も無いだろう。直接の食糧援助でなく、農業技術の協力こそ、日本の安全保障につながるはずだ。
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こっこ牧場の、引越しのお祝い

2006-12-24 06:42:05 | 身辺雑記
昨日は、こっこ牧場の引越しのお祝いがあった。3度目の家だ。今度の家で落ち着いて暮せる事を祈っている。こっこ牧場は、生活再建の場所だ。様々な理由で、暮らしが継続できなくなることはある。それを助け合って、新しい道筋を見つけようと言う家だ。大分昔になるが、主催者の杉山さんから、ダチョウの飼い方を聞かれて、かかわりが出来た。ダチョウを山北の奥で飼っている人を知っていたので紹介した。

杉山さんは、いつでも農業分野で出来る仕事を探している。新聞やテレビで、ヤギ乳の話があると、早速ヤギ。ダチョウもそうだった。オリーブが良さそうだと言う話があったので、オリーブ。羊は行けると言うので、一時羊には執心した。野菜をやろうか、麦をやってみようか、あらゆる良さそうな話に目をつける。みんなで断念してもらうのに、大変なのだ。いくらダチョウで成功した人がいるといって、そう簡単には真似ができない。

しかし、杉山さんは真剣で、本気だ。何とか仕事を作り出したいのだ。それで、鶏を飼うのは、協力してきた。当初は私の養鶏場に来てもらって、作業を一通り覚えてもらったりしたのだが、始めてみると、全く違う養鶏を始めた。杉山さんには杉山さん流がある。養鶏は実に総合的に出来ているので。一部だけ私の方法をいれても無理があるので、相談が無い限り、意見は言わない事にした。

先日のこっこ牧場NPO総会の席で、Tさんから養鶏は止めたい。利益が出ているどころか、赤字なのだ。こういう発言があった。Tさんはまじめな方なので、思いつめた様子だった。そこで私が、資料をいただき、経理を調べ、経営判断をすることになった。地代はない。人件費は無い。それで赤字と言う事は無いだろうと言う事から始めた。

結論として、赤字ではなかったが、たいした利益も出ていない。大きな負担は購入の飼料代だった。最高級の飼料を購入して、与えている。それがいいという事だ。しかし、このままでは生活再建どころか、お荷物になってしまう。安い地域の飼料を集めるようにしなければだめだ。と言うのが、私の判断だった。ところが、この養鶏場の入り口が、細い急坂なのだ。ここをよじ登るのが、苦労と言うような場所だ。端から、養鶏場が出来るような場所ではなかった。しかし、好意で貸して頂けたので、杉山さんには、もうその志がありがたい事で、場所選定についての私のありきたりな意見は、聞いてもらえなかった。と言うか耳に入らなかった。

その入り口を穂田さんが、荷物を上げられるように治してくれたのだ。ウインチで上から、ミカンの運搬車を曳きづり上げる方式だ。これで大分状況が変わった。来年は、飼料を変えていく計画だ。私のところと同じ飼料に出来れば、農の会でも販売が可能になる。

もう一つの可能性のある事業は、来年はこっこ牧場田んぼを始めることができる。これも課題だったのだが、私に余裕がなかった。来年は、一緒に取り組むつもりだ。田んぼが出来ると、気持ちが落ち着く。主食を作る事ができると、それは安心が出来る。農作業療法というものが、言われるが。気持ちに影響するのは畑より田んぼだと思う。来年田んぼの作業を覚えてもらえれば、どんどん空いてゆく、耕作放棄地を担って行くことができる。

もう一つの可能性は、お茶がいいと思っている。お茶は保存しておいて、必要な時に販売が出来る。これは、こっこ牧場のような団体には、またとない作目だと思っている。どこかにいいお茶畑は無いものだろうか。
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小田原ゴミ処理の広域化

2006-12-23 06:29:40 | 環境関連
現在廃棄物広域処理検討協議会が小田原市役所内に置かれ、県に提出する実施計画案を来年度末までに策定するため、鋭意検討続けている。小田原市、箱根町、真鶴町、湯河原町、から職員が出向している。協議会の言うところでは、実施計画とは言うものの、内容は1市3町でのゴミ処理の大きな方向の検討、骨子のようなものを決めているのだそうだ。

つまり今まさに、これから50年先までの、この地域でのゴミ処理の方向付けが検討されている、大切な場面だ。しかし、この大切な事が、4,5名の役所の職員が集まって決めるのでは、少し心もとないし、行政の処理法として何かおかしく無いだろうか。本来なら、広域ごみ処理検討審議会の設置が必要な事だろう。100億円からの予算が使われる事業だ。慎重かつ充分な審議が必要だろう。

この審議会の設置を、5回、小田原市役所に出向きお願いした。先日最終的な回答だ。と言う電話があった。何と、「自分たちだけで骨子は決めるから、そうした意見を聞く場は作らない。」と決定したそうだ。大きな事業においては行政手法としては、基本計画を決めるに当って、市議会、市民代表、学識経験者をそろえて、方向付けをするというのが普通であろう。何故行政はその手順を踏まないのか。それに対し、市議会では何の疑問も持たないのは何故だろう。

国の指示で、神奈川県では5年ほど前、ゴミ処理の広域化を進めるための説明会を開催した。その場で担当の部長が、住民の積極的参加を求め、新しいゴミ処理を進めると、熱く語った。ところがその口の根が乾かぬ前に、エコループ社による、山北の県境地区での県全域のゴミ一括処理が提案された。この整合性はどこにあるのか全く分からぬまま、神奈川県の広域ごみ処理は停止状態になった。ところが、予測どおりエコループの荒唐無稽な計画は実現しない。改めて、県は各地域に広域ごみ処理を要請した。それが今の状況だ

広域ごみ処理計画は、住民の反対運動で上手くゆかない場合が多々ある。行政が勝手に計画を立てて、押し付けようとしても、迷惑施設である以上、何処だって反対運動の火の手が上がる。目に見えている。それなら、大きな計画を立てる前段階から、住民を加えたほうがいい。問題を先送りして、住民には結論がでるまで一切を表明しない。「あつものに懲りてなますを吹く。」

行政の担当者が言うには、住民の意見はパブリックコメントで聞くから、充分ではないか。こう主張する。そんな姿勢で、この困難な問題の推進ができると考えているとしたら、愚かな事だ。これは意見を言わせないための隠れ蓑として、パブリックコメントを利用している、典型例だ。ゴミ行政の担当者は、住民、特に環境問題に熱心な市民に対しては、強い拒絶意識がある。痛い目に何度も遭っているからだ。行政職員の意識が、反対運動とどのように対応するか、と言う事に気を取られ、「住民と共にゴミ問題を考えるほか、道は無い。」行政の基本姿勢を忘れてしまう事になる。

確かに、ごみ処理は誰もが触れたがらない困難な問題だ。お隣の、地域でも抜けた町もでている。私は、抜けた二宮町が一番いい、選択なのかもしれないと思う。ゴミをどう処理するかは、住民一人ひとりの意識の問題だ。小田原では100グラム減量キャンペーンをしているが、どうやればゴミを減らせるかは、住民の暮し方にかかっている。ゴミは見える形で、できる限り小さく処理する。自分の家で処理しなさい、となれば、ゴミになるものを買う人はいない。今、小田原市を見過ごしてはいけない。このままでは住民は今後50年大きな困難を背負う事になるだろう。
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食糧自給率と人口推計

2006-12-22 06:25:04 | 自給
最近良く聞く数値に、食料自給率40%と、50年後の人口推計が8000万人台がある。どちらも関連が深い問題だ。人口が減れば食糧の自給がやりやすくなる訳で、悪い事ではない。

日本の食糧自給率が「低い」と感じている人は大幅に増え、7割に達した。調査は、11月に全国の成人3000人を対象に実施、1727人(57.6%)が回答した。 日本の食糧自給率は、98年度から8年連続40%と横ばいが続く。この数値が「低い」「どちらかというと低い」と答えた人は合わせて70.1%。だ。
 「外国産の方が安い食料は、輸入する方がよい」と考える人は7.8%で、調査を始めた87年以降で最低を記録。逆に「高くても国内で作る方がよい」という人は86.8%で過去最高だった。

これが本当のところなら、期待ができる。食料自給をするためには、食べる人の意識改革が一番必要だ。高くても外国産の農産物は買わない。それが自分たちの為なのだ。と考えるようになれば、どんな政策より、関税がどうなろうが、あるいはWHOの取り決めがどんなにおかしく決まろうが、大きな力を発揮する。自分たちの暮らしを守る為には、国内産の食料を食べるしかないと考えるように変われば、食糧自給は可能だ。

日本の食糧自給も50年前には80%あって、まともだった。耕作できる場所は、殆どが耕されていた。あの頃の状況は、良く覚えている。さらに、印象に強く残っているのは、あの後、転がるように日本の農地が減っていった事だ。宅地が広がり、工場ができ。道路が出来た。東京オリンピック前後は、違う国に成ってしまったようにめまぐるしく変わった。

まず、働く畑がなかった家の人が、あちこちに働きに出た。最初は、何となく哀れな感じもした。あっという間に外に出ている家には、テレビが入った。バイクが入った。外に出れる家では、みんな出るようになった。農作業は、三ちゃん農業と言われ、年寄りと女性がやるようになった。自給率はそれを追うように、下がった。当然な事で、耕作地が急減した。大都市近郊は農村の人口を吸収しながら、工業地帯が広がって行った。山梨の山村に49年に生まれた私の今までは、農地が失われる経過だった。

この間人口の爆発的増加が在った。8000万人台だった人口が、50%も増えると言う恐ろしいことがおきた。自給率を保つ為には、食糧は増産しなければならなかった。にもかかわらず、優良農地は目に見えて減少した。人口が8000万人と言うのは健全な数値だ。日本の国土から言えば、4000万人ぐらいが良い所だろう。社会保障だとか、老齢者比率とか、自分の老後の問題にこだわっては居られない。人口は減らなければ、地球は崩壊する。

もう一つ数値を上げれば、耕地面積の変化だ。600万ヘクタールが過去最大の面積。現在、470万ヘクタール。これは国土の13%に当る。耕作可能面積の半分ぐらいと見れば言い。では、どのくらいの面積があれば、完全自給できるかと言えば、農水省は1700万ヘクタールと予測している。こうしたおかしなことを考えているのは、以下に現実的に考えていないかの証拠だ。

農地の活用を、一作で考えている、200%ぐらいの活用を行う、人口が8000万人まで減少する、食生活がまともに成り、食べれる物を捨てなくなれば、600万ヘクタールで可能だ。
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年賀状の制作

2006-12-21 06:59:04 | 水彩画
毎年今頃になると年賀状を書く。400枚ぐらいは出す。水彩画を描く事にしている。住所やそのほかは全て、プリンターで印刷し、その代わり、絵の方は出来る限り手をかける事にしている。下描きが終わったところだ。これもプリンターで行う。

今年の図柄は猫だ。猫が庭に寝転んでいるところだ。猫の前には池があるようにしたい。猫の周りの草は、みどりの強い澄み切った、勢力旺盛な夏草にしたい。池には空の雲が映っている、のもいいと思っている。猫は寝転んで手招きしている。どの猫になるかがまだ決まっていない。

6匹の猫が居る。それぞれの事情があって、6匹の猫になった。どの猫も外には出していけない事になっている。家の中に6匹の猫がいると言う事は、猫小屋に人間が住まわしてもらっているようになる。理解できない箱とか、布とかが、櫓とかが、あちこちに据え付けてあって、邪魔だからと言って片付けるわけには行かない。

最近は、アニマルコミュニケーターとかがはやりで、猫と語れると言うのだ。電話で相談すると。猫がなんと言っているか教えてくれるのだそうだ。一回猫の話を聞くのに、3000円かかるそうだ。全く不思議な商売だ。猫語翻訳機と言うのも一時でたようなので。猫を飼っていながら、猫が何を考えているか分からないという、観察力の無い人が増えていると言う事なのだろう。

これは猫だからいいようなもので、子どもが何を言っているか理解できない、お父さん。生徒の言葉が理解できない、学校の先生。市民が何を言っているか理解できない、議員さん。言葉が通じない事はいくらでもある。翻訳機を使ったところで、何も伝わるわけではない。「今のニャーゴは、僕の事もう少し気にして。と言う事です。」などと言われて。一体どうしようと言うのだろう。

百姓は観察力だ。これは皆が等しく言うところだ。洞察力と言う方が近いかもしれない。言葉になりにくい為、技術にならずに、技になってしまう。実は絵画のおもしろさもそうなのだと言う話だ。猫が、何処まで洞察できているか。この面白さだ。猫を通して世界が何処まで見えるかが面白いのだと思う。絵と言う方法はこの辺が、実に良く伝わる方法で、言葉などに頼ってのコミュニケーションよりはるかい直接的だ。

ところが絵画にも翻訳機がいる。一向に理解できない人も多いい。これは描くほうの問題よりも、猫語を理解できない人間のほうに問題がある、場合が多々ある。言葉にできないことを描いている。言葉にしないと、言葉以外のことは無いと考えているような人には、何も伝わりはしない。ところが、マチスの一枚の絵から、それは多様な、限りないメッセージが伝わる。描かれていれば、伝わる人には伝わる。

そういえば美術館でも、ガイドのイヤホーンを聞きながら、絵を見ている人がいる。たぶんあれは、絵の翻訳機なのだろう。絵画において、説明をしなければ伝わらないような、ものが在るとするなら、それはどうでもいいことだろう。絵はすごく簡単な物でありながら、難解な物だと思う。それが絵の面白さで、肝心な物はすごくシンプルであり、全てであり、全体性なのだと思う。高等数学をいくら説明の上手な先生に教えていただいても、理解できる訳が無い。

年賀状を描くのを、毎年すごく楽しみにしている。大したことが描けるわけではないが、私なりの事が、描けるよう全力であたれる。そう言う事があるのがうれしい。
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議会定数の削減

2006-12-20 05:32:47 | Peace Cafe
昨日小田原市議会では、市議会議員の定数の削減が行われた。30人から28人になった。全国で、地方行政の充実、権限の移譲が言われながら、議員定数の削減が起こっている。構造改革。行政のスリム化。経費削減。この流れだろう。本会議でめずらしく討論が行われた。途中で帰らざる得なかったが。二人のご婦人が、「あれは議論では無いわ。出来上がった話を双方が、言っただけ。」こう言われながら帰っていった。

市会議員を減らすべきだと言う市民の願いの背景にあるのは、「役に全く立っていないので、無駄だから減らせ。」ここを市会議員は理解しているのだろうか。行政の出す、原案に対して、あるいは進め方に対し、きちっとしたチャックをしてきたか。この反省が少しでもあるのだろうか。それが出来ていないから、市民は減らせと言っているのだ。

現在、小田原の財政の未来を大きく左右する。3つの案件がある。お城通りの再開発。城下町ホール。広域ごみ処理施設。行政の進め方に対し、きちっとしたチェック機能を果たしてきた、市会議員の人はいたのだろうか。どの案件でも、市民以上に理解している市会議員の人はいるのだろうか。ゴミの広域化問題で、私より熱心に、環境政策課に通っている議員はいるのだろうか。県の環境課に出かけていった人はいるのか。是非仕事としてそう言う当たり前の事をしてもらいたいのだ。

正直今の市会議員なら要らない、と言われても致し方ない。城下町ホールでは、平成4年から長期にわたって検討がされてきたそうだ。そこから、充実した基本計画が出来た。ここでは市民代表も参加し、一定、民主的な検討が行われたようだ。ところが、これが設計段階で全く無視した形で、音楽ホールではなくなった。設計者の考えが優先した。ここに誰かの考えが加えられた恐れはある。小田原レベルの町で、専門の音楽ホールは稼働率が低くなるだろう。プロレスや、サーカスが出来る方が、市民の為だろうと、勝手に考えてくれたらしい。これは憶測ではなく、そう設計者が書いている。

ここでなぜ、市会議員の誰かが気付かなかったのだろう。少なくとも、市民より先に気付いて、チェックを入れ、問題があれば市民にそれを伝えるのが役割だろう。審議会に参加した市議会議員はその後のチェックをしなかったのか。それが出来なかったのだから、いらないと言われてもしょうがない。何故気付かなかったか。それは知識が無いから。一人一人が満遍なく何でも知っているのは無理だろう。知識が無いのも仕方が無い。しかし、大規模事業に対する予算については、市民より深く調べなければならない義務がある。

必要なのは、市会議員の情報収集能力だ。簡単に言えばブレーンがどれだけあるかだ。音楽関係の事なら、誰に聞けば本当のところが見えるか。建築については誰か。行政の動きなら誰。信頼できるブレーンをどの位広く厚くもてるかだ。ところが、市会議員の多くは一部の利権、あるいは地域の代表のようになっている。だから自分の関心事を実現すれば、後は黙っていることを賢いと思い込んでいる。

一つ、思った。13名の提案者。この人達に先ず削減の対象になってもらおう。彼らは自分は安全だと思っている。10名と言われる有象無象が立候補して、市議会議員の権威を汚すと思って削減を、言い出した。それなら先ず、この13名に落選してもらおう。
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住民参加と小田原城下町ホール

2006-12-19 07:15:18 | 地域
城下町ホールに対し、3つの団体から賛成の陳情が出ているそうだ。商店会連合会、自治会総連合会、音楽連盟の3団体から推進陳情が来ている。この3つの団体が、どんな推進陳情をしているのか、お聞きしたいものだ。どんな観点から、あの奇妙奇天烈な城下町ホールに賛成なんだろう。一番利用する、小田原フィルハーモニーが反対しているのに、この音楽連盟と言うのはどんな合意で、陳情をしたのだろう。聞くところによると、勝手に出したらしい。

自治会総連合が出していると成ると、これは私も自治会のの一員である以上、何らかの了解が必要だろう。この点は確認しないわけには行かない。このやり方からすると商店会連合会の方でも総会を開いてなどと言う、手順は取っていないに違いない。推進しようと言う誰かが、背景で動いているのだろう。こうした黒い手法が、古い小田原のやり方だ。ここで暗躍する、やり手が実は小田原を牛耳っている。そんな姿がうっすら見えてくる。

民主的に事を進めると言うことがない。何か闇の中で事を処理するのが得意だ。この後ろにいる総元締めが、行政であり、そのボスと言う事になるのか。一体何故、こんな不思議な城下町ホールに、こだわるのかと言えば、巨額な建築費だろう。何10億と言うお金が、無駄遣いされる建築物ともなれば、大きな力が働くのが、非民主的社会の特徴だ。行政の長が連続逮捕される原因がまさに公共建築物。談合。小田原駅前、お城どおりの再開発。これだって変な無理押しがまかり通る。

住民参加の方法が見つかっていない。音楽ホールが欲しいのかどうか、絵画ギャラリーが必要なのかどうか。住民が意思表示する活動を作り出す、習慣がなかった。小田原は市民活動は実に盛んだ。しかし、こうした市民活動と行政の関わりが上手く機能していない。行政お抱えのような市民活動はあるが、音楽関係者が市民に対し、音楽ホールの必要を訴えたと言うような事は、聞いた事がなかった。行政は市民を信頼していないし、市民の方でもいまだお上意識があり、自ら何かをする気持ちが無い。

すばらしいホールやギャラリーがあり、運営されている地域では、そうした市民的活動が、市民の中で認知されている。高崎で市民ギャラリーを作り出した、市民活動の話を聞いた事があるが、その前段となる日常活動の積み重ねがあり、立派な美術ギャラリーの建設につながった。市民も当然負担が必要だ。行政にお任せと言うのでは、夕張市のようにとんでもない物を作り、挙句は行政が破綻する。市民が何をすべきか。何を担うべきか。この所を探る必要があるだろう。

そんな事に時間を割いているぐらいなら、東京で活動すればいい。それが作家の本音だろう。そんな時間の暇は無いし。小田原で活動したところで、作家として大した箔が付くことではない。まして小田原の風土からして、よそ者がくちばしを挟む余地が無い。そんな事をしている間に、絵を一枚描いたほうがいい。これが普通の気持ちだろう。正直流れが滞っている現状ではそう考えるのも無理は無い。

芸術を志す者がそれでいいのか。内部にそうしたいい加減な、ご都合主義を抱えて、本当の制作ができるのか。自分が暮し、生きる。この場所で出来る事、これが全てでは無いだろうか。そう思い始めた。確かに商品絵画の時代に生きることは矛盾に満ちている。絵画は個人のものに変わり始めている。このとき大切に成るのが、地域のギャラリーだろう。地域に本物のギャラリーが存在する事が、重要さを増してくるだろう。
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ノロウイルスの流行

2006-12-18 07:39:18 | 身辺雑記
ノロウイルスの流行が、騒がれている。テレビなどでは死ぬ人もいるなど、とんでもない誤解を招くような事を言う人がいる。ノロウイルスで死ぬなどと言う事は無い。恐れるようなウイルスではないという事。ウイルスと言う事が少しづつ解明されてきた為、風邪とか、インフルエンザとか、食中毒とか言われていたものが、ノロウイルスが原因と特定された事が大きい。

ウイルス学は最近急速に展開されているようにおもう。そもそもウイルスと言う奴は、生き物のなのか、生き物の生成物なのか、不可思議なもののようだ。細胞構造をもたず、生きるための何かを、例えばエネルギーを生成することも無いらしい。細胞が取り込むと、その細胞がウイルスを勝手に増殖する。大きさは小さい。普通の細胞の100分の1から、1000分の1と言う事らしい。ジェンナーが1796年に発見した、天然痘のウイルスは、種痘による免疫法で根絶した。

ジャンナーの話は有名な事だが、養鶏をやるものとしては参考になるところがある。農家に古くから伝わる伝承があった。「牛痘にかかった人間は、その後天然痘にかからない」というものだった。当時も免疫と言う事は考えられていて、軽い天然痘になった人の膿を、摂取すると言う危険な方法が行われていた。どうも、養鶏をやっていると風邪を引かないと言うことがある。これは私だけかもしれない。免疫と言う事はイタチゴッコで、現在世界中で、天然痘の免疫を持っている人は一人もいない。と言う事は天然痘ウイルスが生物テロ兵器になる恐れがある。

ノロウイルスが言われだしたのは最近の事だ、なかったわけではなく、今年特定できるようになったのだ。インフルエンザが簡単に特定できるようになったのも今年の事だ。今まではひどい風邪はインフルエンザと言う事にされていた。病状で推測して、医者が決めていた。今はインフルエンザ簡易特定キットがあるので、何処の医院でも判定が出来るようになった。ノロウイルスも同じだ。簡単特定法が出来たのだ。

今までも在った冬場の食中毒の流行が、ノロウイルスによるものであった可能性は高い。しかし、この食中毒の特徴は程度が軽いと言う事だ。これで直接死んだ人はいないし、健康な人にとっては病気とはいえないぐらいだ。では何故こうも騒ぎになったか。報道の不勉強だ。何でもはやり物を騒げばいいと思っているのだ。
人間の免疫の状態に変化が起きている。病原菌やウイルスに接しにくくなっている。抗菌グッズや、病原菌も除去できる空気清浄機の登場。確かにその場にいれば安全かもしれない。箱入り娘だ。

外の世界はそんなに甘くは無い。悪い虫があちこちにいるのだ。免疫をつけたほうがいい。病気も決して悪い事だけじゃない。病気をしながら、世間と折り合いをつける。折り合いをつけながら、死ぬまで生きるのが、人間だ。出来る事は自然に馴染んだ強健な身体を保つ事だ。そうすれば、ノロウイルスぐらいで、へこたれない身体になる。自然状態に入り込んで、それに馴染みながら、受け入れバランスをとる。こっちの方が安全だと思う。それでも病気もするし、最後には死ぬ。当たり前の事だ。

ノロウイルス騒動の方で、韓国で起きている、危険な鳥インフルエンザは、報道が少ない。少ないのはありがたいが、事の重大さを誤ってはならない。こちらは深刻な事だ。
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健康管理センター

2006-12-17 05:48:21 | 身辺雑記
定期健診とか、健康診断とか、まして人間ドックとか。20年間したことが無い。だらしが無いといえばそれまでだが、健康に無関心という訳ではない。自己管理が一番だと思っているからだ。どう管理しているか、といえば以前も書いたが、身体を順番に内観する。変化があればおかしいと感じる事ができるようにしているつもりだ。つもりであって、何の根拠も無い。

もう一つが体重測定だ。これは出来る限り行い記録しておく。季節、体調、食事、仕事、生活、少しの変化がある。これを記録しておく。何かあれば変化が出るだろう。風呂屋で見ていると、半分ぐらいの人は体重を量るようだ。これを記録しておけないものだろうか。

医療費は年々増加し、国の財政悪化に一役買っている。私のように医療に出来る限り関わりを持たないで置こうと、考えていても、医療保険料は取られている。いつかは誰でも病に倒れるわけだから、そうした病は充分、国がお世話をすべきだろう。しかし、企業社会で過労が重なり、ストレスをためて、暴飲暴食をする。結果病に倒れる。あるいはタバコを吸って癌になって、その医療費の一部は国民負担になる。平等とは思えない。

健康管理センターについて、考えがある。地域にお風呂屋さんを作るのだ。そのお風呂屋さんが健康管理センターになっている。希望者には、データーカードで、健康管理を出来るようにする。お風呂から出たら、カードを差し込み、計りに載る。体脂肪を計る。血圧の測定をする。血液検査、尿検査。これらも希望者には可能にしておく。カードは自宅のパソコンで、データーにつながっている。グラフになって送られてくる。昨年との比較など、一目瞭然に分かる。これらデーターは地域の保健所でもチェックしている。おかしいと思えば、パソコンに連絡が来る。

お風呂屋さん健康管理システムを作り上げれば、地域医療は一気に改善されるはずだ。医療で大切な事は予防だ。人間の身体を、定期健診してデーターを蓄積してゆく事。これは機械管理では当然の事だ。しかし、データーを蓄積する事が重要であって、現在のように、人間ドックが一つの営業になっていると、何パーセント再検査を出してください。とか、A病院のA先生をご紹介しましょうとか。違う心配がでてくる。

お風呂屋さんと言うところが味噌だ。これが気持ちいいものなら、地域の人は喜んで入りに来るはずだ。出来れば温泉がいい。共同浴場なら、エネルギーの節約にもなる。お風呂に入り、癒され、今日の疲れが取れるなら、それがすでに健康管理だ。その上、知らないうちにデーターの蓄積が出来る。このデーターが自宅のパソコンで、チェックできる。データーに基づき、健康相談なども気軽にで来るだろう。「今度お風呂に来た時には、血液検査もしてみたらどうでしょう。」なんてアドバイスをもらえる。

これは小さいお風呂屋さんでいい。デーケアーセンターに付随して作るとか。老人ホームに作る。グループホームに外に開かれた風呂があるというのもいい。たぶん法改正が必要なのだろうけれど、お風呂屋さんの営業とは別に、会員制の風呂と言う事も可能だろう。こうすれば公衆浴場ではないので、又違う許可になるのだろう。

そこまでは進むのはまだ先にしても、箱根に増えている日帰り湯で、こんなサービスをするところは現われないものだろうか。
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