地場・旬・自給

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財政破綻にどうすれば良いか

2021-06-30 04:28:57 | Peace Cafe



 日本の財政は過去最悪になっている。財政健全化の展望は繰返し先延ばしされ、健全化の展望が無くなっている。いつ日本国の財政が破綻しても仕方が無い状況である。信じがたいほどの借金をしている。2020年度末で過去最大の1216兆4634億円に達し、その対GDP(国内総生産)比は230%を超えている。 こんな国は他には無い。

 国の財政破綻に対して国民がどうすると言うことも出来ないわけだから、起きたときにどうするかの方を考えておかなければならない。台風や大地震が来たときどうするかと同じで、いざというときに備えて、準備して、備えておかなければいけない。いわば災害対策のようなものだ。何を持ち出し袋に入れておくかのようなものだ。

 国債の金利が下がり始めるときが日本の破綻の始まりになると思っている。その時に行動開始である。日本銀行が「異次元金融緩和」を8年以上も継続して財務省が紙幣を刷りまくり、大量発行する国債。そして、その国債を日銀が民間金融機関から買い取って自ら貯め込み、“禁じ手”とされている中央銀行が通貨を発行して国債を直接引き受けることを続けている。 まともなやり方とはとうてい思えない。

 いつか国債の金利が下がり始めて当然だろう。それが崩壊の予兆になる。日本の国債はほとんどが日本人が購入しているから、外国資本の引き上げが始まると言うことでも無いのだろう。お金の使い道が無いから、結局の所借りる人が居ない。せいぜい株式投資などに使うばかりだ。これでは前向きな生産性のある設備投資では無いから、国が借金生活を続けているだけになる。

 世界全体の傾向として、富裕層がより肥大化してゆくことと、貧困層の存在が増え続けて、階層の二極化が年々極端化してきている。その原因は税制が富裕層有利になっていることにある。解決のためには資産税を作る必要があるのだろう。しかし、税制は貧困層を追い詰めるものになっている。

 これ以上格差が進めば、安定した社会は考えられなくなる。国の経済の上昇が大きいときには、比較してみれば貧困層であるとしても生活の向上の恩恵を受けることが出来る。しかし、経済が日本のように停滞気味になれば、貧困層の困窮は目に余るところまで進んでしまう。

 そうした貧困層の増大と深刻化が進む中で、一部の富裕層に富が偏在させられている。その原因は国際競争力という考え方にあると思われる。国際競争力のある人には、能力を生かすために有利な税制を作り、大いに世界での競争に勝利してもらおうという考え方なのだろう。

 こうした能力主義的な考え方が、原発事故で日本が困難に立ち至って以来顕著になり、貧困層自体が発言力を持てない事になった。労働組合自体が労働者の権利というより、自らの権利に手いっぱいになり、非正規労働者の権利は無視されている。特に小さな自営農業者など完全に無視されているようなものだ。

 こうした2極化した社会は不安定化してゆく。オウムが登場したときのように、反社会的な思想が広く共感を生む可能性が出てきている。極右勢力の登場や社会混乱のためのフェークニュースの蔓延。人種差別の深刻化などが起こりうる。

 自給農業をやるべきだと主張してきた。「国際競争力という農業政策を変えて、まず国の安全保障は食糧自給だ」長年の主張が、ますます空しい気分になっている。食糧不足が迫る中、社会不安が増してくるだろう。

 政府に期待するのではなく、それぞれの方法で自給生活に入るほかないのではないかと、思えてきている。これが私の考える緊急対策である。政府の国際競争力のある農業というのは主食作物はもう止めて、17品目の推奨作物に切り替えるという事である。まさに、経済の考え方が、綱渡り的で日本国を危うくすることとしか思えない。

 農業分野の中であまりにかけ離れた考え方になってしまったため、政府に政策に期待することはなくなっている。実際の農業従事者が非正規の雇用労働者になり、海外からの移民労働者になれば良いというのが、政府の考え方なのだ。それの方が国際競争力が生まれ、経済合理性があるという考えに基づいている。

 プランテーション農業の労働者の移動方式の出現である。農業を担う企業は潤うかもしれないが、そこに暮らす住民は食糧危機に陥るような農業である。食糧危機が雇用が、その機会を利用して利益を上げればより有利であるというのが政府と、農業企業の考え方である。

 経済が下降気味で、競争から後れを取り始めている日本としては、能力を資本のある企業に集中して競争に負けまいと焦っている状態である。しかし、そのことがプランテーション農業化がますます進んでいるだけで、そう遠くないうちに日本に海外からの労働者は来なくなるだろう。

 農業企業は労働者の存在する国に生産場所を変えてゆくことになる。企業が第一にしているのは利益の追求である。ベトナムでお米を作り、日本に輸出する方が有利だという事になるのだろう。こうしてさらに日本の衰退化が進む事になる。

 現状ではお米の輸入は出来ない。しかし、加工されたコンビニのパックご飯の製造がベトナム製造になる日は来るのかもしれない。日本の食糧の安全保障が、崩される方向に進んでいるのが日本の農業の現状ではないだろうか。

 日本の危うい方角を変更できるとすれば、税金の集め方を変えることだろう。日本の農地を守るための税制を考える。農地を国有地にして行くのはどうだろうか。農地を相続税の物納の対象にする。それは耕作放棄地対策にも成る。国有の内を希望者に無料で使って貰う。

 優良農地の中に存在する耕作放棄地をしらべると、非農業者が持っているという場合がよくある。相続でそうなったばあいや、仮登記の形で実際の所有権が移っている場合などがある。仮登記での所有権の移動は、一般に一〇年すれば時効で、権利が消滅している。地上げで買われた農地が仮登記されそのまま整理されていない場合である。

 国が財政破綻したときには自給的農業をしていることが一番の対策になる。主食生産手段を自分で持っていれば、何とかしのげるはずだ。それには先ずは稲作技術を身につけることだ。自給的稲作兼業農家である。兼業農家であれば緊急時に一番強い。

 まずイネ作りの技術を身につけることだ。しかも、その農業は手作業だけでも可能な農業である。化石燃料など使わない、自給農業技術を身につけることだ。これが日本の財政崩壊したときの対策である。

 一日一時間食糧自給のために働く。これで自分が食べるものは確保できる。それは70歳を超えた私でも可能な労働である。このままでは日本は危ういと感じる人は是非自給農業に挑戦して貰いたい。それは避難のように見えるが、実は本当に生きるという場所に進んで行くことでもある。
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水牛の代掻きを始める。

2021-06-29 04:24:21 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」

  石垣島の田んぼではいよいよ水牛による代掻きが始まった。6月28日夜6時からだ。日本で水牛耕が行われるのはこの石垣島田んぼ勉強会だけだ。代掻きなどやったことが無い水牛が来て、代掻きを練習から始めるというので、出来るのか、嫌がらないのか心配で仕方がなかった。

 この水牛は竹富島で牛車を引いていた水牛だそうだ。雌の牛で推定年齢が10歳少しぐらいだそうだ。今種付けがされていて、たぶんお腹に子供が居るらしい。働いて大丈夫なものらしい。子供の生まれた牛もいるのだが、子供が居る親牛は子供が気がかりで、代掻きどころではないそうだ。

 先日は可愛い子供を連れて、来てくれた。全部で8頭の水牛を飼われている。水牛の子供はそれはそれは可愛いものだ。ほぼ子供の動物は可愛いものだ。例えばイボイノシシの子供だって可愛い。が、水牛ほど可愛らしいものは居ないのではないかと思う。水牛は特別な家畜である。




 紐で水牛に結わえてあるものが、代掻きをする道具で、コロバシャと言う道具である。水牛を引いている。干川さんが自作してくれたものだ。干川さんは40年前に石垣島に入植して、農家になった人だ。そういう人だから、何でも道具は自分で作ることが出来る。

 転馬車(ころばしゃ)は木枠の中に、六枚の鉄板が風車のようにが溶接されている。中央の軸が鉄管でそれが回転軸になる。回転軸に15センチ幅で長さ180センチの鉄板が溶接付けされている。制作の難しい道具であるが、よく出来ている。

 干川さんの家では四〇年間バイオガス自給生活である。一週に一回、泡盛の絞りかすを届けてくれるそうだ。それを加えてガスの発生を促している。よく出来ているのは、その上に水蓋があって、ガスを完全に閉じ込めているところだ。だから全く匂いがしない。



 いよいよ代掻きが始まる。この水牛は鞍をつけたり、ものを引っ張ることは牛車をしていたのでしていたので、訓練されている。ただ水の中を歩くかどうか、それから始めた。水牛はさすがに水が好きだ。何のためらいも無く水の中を歩いてくれた。

 次に棒を突けて、引っ張ってみた。これも少しも嫌がること無く引っ張った。ここまでやってくれるなら、コロバシャを付けても大丈夫そうである。頃場所を取り付けて、田んぼに入った。最初重いのでびっくりしたよういないな株に引っかかって動かない。

 それでも花紐を力を入れて引くと、思い切って歩き出した。水のあるところが好きなのか。仕事をすることが好きなのか。一生懸命に歩く。かなり多いのに、頑張ってぐんぐん引いて行く。しばらくしたら人よりも先を歩くようになった。


 一気に一気にと励ますと歩き出して、動き出せばもう大丈夫。人が精一杯歩く速度ぐらいで、ぐんぐんと進む。止まると、再度動き出すときは力が掛かるようだ。それでも嫌がらずに田んぼを一周してくれた。

 田んぼの土の方はどんな状態なるかというと、一度通っただけでは代掻きができたと言うことでは無い。何度も回ってだんだん代掻きの状態になるのでは無いだろうか。しかしこの代掻きは田んぼが充分に耕してあると言うことが条件ではないだろうか。

 鋤で耕して、稲株をひっくり返し、そこに水を入れる。石垣の田んぼの土だと、一週間ほど水は入れておかなければならない。充分水が染み込んで柔ら無くなった田んぼを、コロバシャが通り、土の塊を潰して行く。その時にまだ充分に堅い稲株を田んぼの奥に押し込んで行く。

 


 少し水量が多いのだそうだ。それでも徐々に代掻きらしくなっていった。田んぼの泥の中を水牛を引きながら、歩くのはかなり大変なようだ。今日の10時からもういちど水牛の訓練をするので、私も引っ張ってみるつもりだ。

 水を多めで初めて、徐々に水位を落として行く。最初はでこぼこが多くて水牛も引けないほどなので、徐々に均されてきたら、田んぼ水位を下げて、平になるように歩かせるのだそうだ。慣れてきたら、今度は後ろに人が居て、コロバシャを脚で押さえながら、高いところは脚で押さえて低くするそうだ。

 しかし一人では難しいので、二人でやるといいと言われた。脚が巻き込まれたら大変なので、今回はそれはしないことにした。歩くのに精一杯でとうてい、他の作業どこでは無い。そういうときには回転式で代掻きをやるそうだ。

 回転式とは水牛の口輪から長い紐を取り、声をかけて円形に回らせる。自分は動かない。そうして回転を徐々に移動していき、全体の代掻きをするそうだ。そうすれば、人は歩かないで代掻きができると言うことになる。それはよほど水牛が代掻きになれてからのことだろう。

 

 こういう風に鋤起こしで残っている稲株はなかなか埋め込むことが出来ないようだ。繰返し水牛で歩いて貰い、代掻きを頑張ろう。手植えの田んぼであれば、それなりに代掻きが出来ていれば、大丈夫だ。

 なかなかおもしろい田んぼになりそうだ。水牛耕は石垣島の伝統農業だ。台湾の人から教えて貰った田んぼのやり方だ。石垣島田んぼの会で、水牛耕が再現できるだけでも意義があるのではないだろうか。

 田んぼを始めて見て、やっと石垣島の人間になったような気がする。全く景色が違って見えてくる。見ているのとやってみるのでは大違いである。批評家と実践家の違い。絵を描く以上はやってみなければどうしようも無いことだと分かる。
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フェースブックを始めました。

2021-06-28 04:01:14 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」


 石垣島田んぼ勉強会のフェースブックを始めた。と言っても何だかまだよく分かっていない。そもそもフェースブック自体は随分昔一度登録してすぐ止めた。農の会のフェースブックを読んだり、写真を載せたりするためにその後もういちど再開した。自分でフェースブックのページを持つと言うことはしたことが無い。

 しかし、登録しただけでなぜか、友達の申請のようなものが来る。それが不可思議で一度は止めた。友達と言われてもなアーという感じである。別段友達じゃなないし、と言う人もよく居る。その人だけ友達で無いと言うことを明確にするのも何だから、友達だよなと思う人でも友達登録はしたことが無かった。

 フェースブックという枠内で友達として付き合うというのもどういうものだかそれはないだろうと思う。ネット上の友達というのだろうか。年寄には友達は多いに越したことは無いが、ネット友達が欲しいとは思わない。

  石垣島田んぼの会を始めて、その連絡方法としてフェースブックが良いと言うことで、ネットの専門家の高梨さんがわざわざ家に来てくれて、フェースブックを設定してくれた。そうしなければ出来ないことだった。

 ブログを始めたときも、TAKEさんが家のパソコンで設定してくれた。今回もよく分からないまま、ともかく石垣島田んぼの会の連絡がうまく行くようにお願いした。

 石垣島田んぼ勉強会(自給のための有機農法の田んぼ作り) | Facebook というグループである。皆さんが登録申請をしてくれれば、メール連絡をしないでも連絡が付くと言うことらしいのだが、まだ全員が登録してくれたのかは確認できないし、全員がフェスブックを見て連絡を確認してくれるのかが頼りない。今のところ不安なのでメール連絡もしている。

  プライベートグループと言うことでグループ以外の人が見られるのか見られないのかもまだ分からない。登録してくれた人が見ることが出来るのは確かである。フェースブックを見るためにはフェースブックに登録していないとならないことは分かっている。

 この石垣島フェースブックというのは閉じたグループの仕組みのようだ。つまり、登録していない人には見ることが出来ないようだ。それが良いことなのかどうかは少し迷う。誰でもが申請して私が許可すれば、見れると言うことになるのだろうか。この辺がよく分からない。

 このグーブログであれば、誰でもが見ることが出来る。フェースブックというものはそうではないらしい。フェースブックにはさらにプライベートグループというものがあるようだ。何故か全く知らない人から、登録申請がある。これはどういうことなのだろう。登録しないでも見ることが出来るのだろうか。内容を見ないで知らない人が登録を申請すると言うことはどういうことなのだろう。

 フェースブックというものの仕組みや実体は全く分からない出来た。どう対応したら良いのかも分からないので困った。知っては居る人だが、友達というわけでも無い。たぶんここでの友達は翻訳がおかしいのだろう。知人ぐらいの方が近いのでは無かろうか。

 そういうことはともかく、始めて見ると写真の投稿がしやすい。田んぼの情報を上げて行くには、実に具合が良い。石垣島田んぼの会はフェースブックで逐一様子を上げて行きたい。どうやって、新しい田んぼが始まるのか分かってもらえるだろう。

 昨日も海水選と川での浸種をやった。その動画まで誰かが掲載してくれている。みんなに写真を載せてくれるように頼んでいる。私は写真を撮る余裕が無くいつも取り逃してしまうので、様子が分かり有り難いことだ。

 これならその日休んでもどんなだったのか様子が分かり良いだろうと思う。石垣島田んぼ勉強会はフェースブックの御陰でうまく進むのかもしれない。連絡もメールよりもフェースブックに載せれるようにと言われているのだが、本当にフェースブックで連絡が付くのかが不安である。

 メールを見る人と、フェースブックで確認する人と、どっちが確実なのかと言うことがあるような気がする。一人でもフェースブックに登録しない人が居ればそもそも成立しない。フェースブックに関わりたくないという人を無視していいものだろうか。

 田植えは7月25日が予定である。場合によっては8月1日になる。このあたりで、話し合いを持つ必要があるかもしれない。ネット利用の仕方で、うまく参加が出来ないと言う人がひとりでもいて欲しくないと思うわけだ。

 田んぼの会の仕組みは全国どこでも出来ると思っている。市民がイネ作りを始めなければ、日本の伝統的イネ作りは失われると考えている。そんなものはなくなった方が良いというのが、日本政府の考え方なのだ。菅氏は国会答弁でそのように受け取らざる得ない発言をしている。

 農家が稲作を出来なくなる可能性は高い。小さな農業経営では経営できないのであるから、中山間地では稲作農家は成立しない時代が来る。その時に日本の稲作を支えるのは、農の会のような自給農業者ではないかと考える。

 世界の流れを見ると、国際競争力を目指す人達と、自分個人の暮らしを大切にする人達とで、社会は二分して行くのだろう。相容れない価値観が対立すら無いまま、互いを軽視、侮蔑し、それぞれの道に分かれて進むのだろう。

 悲しい社会ではあるが、社会の階層化は進む。それを止めることが出来ない以上、自分の生き方を社会の流れを無視して見つける。自分らしい一生を送る手段を作る以外にない。食糧の自給はその一歩だと思う。繰返し書いているが、一日一時間食料のために働けば食の自給は可能だ。

 石垣島にはまだ越してきて3年。そんな新規移住者でも新しい場所で田んぼを始めることが出来るという事例にしたい。難しい場所もあれば、歓迎されているような場所もある。石垣島での実際の姿をフェースブックに記録出来れば参考になるだろう。

 始めるためには難しいことはどこにもあるのだろう。始めたいという人が居たら、出かけていって協力したいぐらいだ。しかし、それも出来ないので、フェースブックでできるだけ情報を出して行きたいと思う。余計なお世話だと思う人も居るかもしれないが、参考に成る人も居るだろう。

 と書きながらも、このフェースブックはどうも誰でも見られるというものではないらしい。この辺をどうして行くかである。誰か興味のある人が登録をしてみて貰えないだろうか。そうして私が許可をすれば参加できるようになるのかがわるのでは無いか。
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第62回 水彩画 日曜展示

2021-06-27 04:32:18 | 水彩画
第62回 水彩画 日曜展示





326「志賀高原楽天地」
2021.5
ファブリアーノ中判全紙







327「菱形の草地」
2021.5
ファブリアーノ中判全紙






328「明るい草地」
2021.5
ファブリアーノ中判全紙






329「ふじんたのそら」
2021.5
ファブリアーノ中判全紙





330「霧ヶ峰雲湧く」
2021.5
ファブリアーノ中判全紙







331「八ヶ岳夕照」
2021.5
ファブリアーノ中判全紙






332「乗鞍岳」

1992.10
インドの水彩紙


 今回は山の絵を多く出した。山の絵ばかり描いていたときもあった。その後畑や田んぼの絵が多くなり、山を描きに行くことは少し減った。人間が自然に何か形を残している様子に興味が湧くようになった。

 農業に関心が深くなったと言うこともある。山北で開墾生活を始めたとき、水彩画に変わった。東京での暮らしは、絵を情報に基づいて、よさげな絵をでっち上げるような事だった。そうした能力はなかったし、行き詰まったのだと思う。

 自然の中に織り込まれた農地の面白さに惹かれて、水彩画を始めたようなところがある。農地を描くと言うことは長らく上手くゆかなかった。その頃一番山を書いていたのだと思う。自然を見る眼と、人工物を見る眼の折り合いが悪いという感じだった。

 農地を絵の中で考えられるような気がしてきたのは、最近だという気がする。描くものの意味ということは書いているときに考えることは無いのだが、出来上がってみると何が描いてあるのかと言うことは意味があることになる。

 
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立花隆という知の時代が終わった。

2021-06-26 04:21:03 | 


 ダンドクという花だと教わりました。南米原産でカンナの原種と言うことでした。江戸時代初期に渡来した植物。

 立花隆は知の巨人と言われた。広い好奇心にしたがってあらゆる分野に知の探検に出向いた。田中角栄研究は政治に科学的調査報道でメスを入れた実に本質的な研究だったと思う。日本の調査報道を確立した人と言えるのではないだろうか。田中金脈をつぶさに調査し暴き、そして日本の政治の本質に迫った。

 日本列島改造論というコンピュター付きブルドザーと言われた角栄の裏の世界を浮かび上がらせた。庶民であった田中角栄氏がどうやって明治維新以来の日本の権力構造を打ち破ったのか、その類い希な集金力と人脈の形成。そして人心を把握の力。

 そして、田中角栄がさり、安倍晋三の登場なのだと思う。「安倍晋三の鵺の正体」というような研究が本来であれば必要なときなのだ。明治以降日本に横たわる既得権益を守る権力の最後のあがき。田中角栄が打ち破りかけて、最後にはその権力に潰された姿。

 しかし、日本が何故後進国になったかと言えば、安倍晋三の長期政権を日本人が選択した自業自得である。アベ時代とは明治日本帝国回顧政権だったのだろう。明治軍国主義の復活など出来るわけもないし、日本の歴史で過去最悪の時代である。

 立花隆氏は田中角栄研究以降政治研究を離れたように見えていた。田中角栄の悪行を暴き、その権力を崩壊したところで、日本の政治はさらに悪くなると言う現実に嫌気がさしたのでは無いだろうか。科学的探究の意味が政治には無いと言うことなのかもしれない。

 立花氏はその後農協の問題に取り組む。このことについて、10年以上前にブログに書いた。今再読してみたが、今もその読み方は間違っていなかったと思う。つまり、田中角栄研究が政治の分析ではあるが、日本の政治の未来を提案していないというところである。

 何のための調査報道なのかと言うことになる。農協を研究するのであれば、日本の農業をよくするためで無ければならない。農業がこの国にとってどういう意味があり、それに対して農協の役割はどこにあるのか。農業の未来展望を踏まえていない研究では、現実を変えることには役に立たない。

 農業者の利益を守るために結成された農協のはずが、権力と癒着し農業者をむしばむことになる構造的な問題。それは70前に始まったことであり、立花隆氏が農協問題に立ち向かったのは40年前のこと。すでにその問題点は指摘されている。

 そして、何も変わることが出来ずに本来の農業者の協同組合であるはずの農協が、その意味をほとんど失っている。農協の購買部は農業者にとっては定価販売の高い店に過ぎない。日本各地のホームセンターが行うような経営努力はどこでもなされていない。

 小田原では農業の技術指導はほぼ行われては居ない。石垣島ではJAが石垣牛のブランド化に熱心だし、サトウキビヤやライスセンターなど、活動は豊富なようだ。これについてはまだ実態はよく分からない。小田原では農家のアパート経営や保険業務には熱心な営業がなされている。

 農協が生まれるときに描いた、農業者が製品化の手段を持つことの意味が、今やほとんど失われているのではないか。北海道で生まれた、農協経営の先端設備の砂糖工場の意味は今どう考えれば良いのだろう。国際競争力の無い農業の代表例になるのだろう。

 現在の補助金に支えられながらも、経営の限界に達している、沖縄県の砂糖生産。沖縄の農業のためには重要な作物ではあるが、展望という意味ではかなり厳しいものが想像される。現在過去に無いほどの黒砂糖の在庫がたまっている。

 石垣島でも農業の業態が大きく変わり、畜産と果樹に移行し始めている。この流れは今後さらに進んで行くに違いない。実際に畜産や果樹の農家の方は若い方々である。そしてサトウキビや稲作は高齢者を多くお見かけする。

 立花氏が農協をテーマにするのであれば、40年前に今のこうした日本の農業を予測し、そのためのあるべき農協の姿を提案すべきだったのだ。少なくとも私には40年前には日本の農業から、日本の若者が消えて行く今の姿が見えていた。

 農業として成立は出来なくなるだろうと感じていた。私が特別に先見の明があったのではなく、農家であれば大半の人が自分の家族を後継者としては考えていなかった。展望が見えない職業だと考えていたからだろう。そして農業者の老齢化、廃業が進むと分かっていた。

 立花氏は日本に農業が必要だと考えるから、農協をテーマにしたので無ければならない。そして、どのようにすれば日本の農業が成立するかを提案しなければならなかったはずだ。ところがそうした未来志向が実はほとんど無い分析である。

 田中角栄研究でも日本の政治の分析は徹底しているが、権力をどのように変えて行くべきなのかの視点に欠けている。そのために田中角栄は居なくなったのだが、安倍晋三が登場してしまう。つまりさらに悪くなるばかりなのだ。

 立花氏が農業に対してわずかに展望を書いているのは農業者が後三割減少しなければ成り立たないと書いている。ところが、三割減どころか、三割になってしまった。そして、農業企業が登場して、日本はプランテーション農業に変わろうとしている。

 何のための調査報道かを考える必要がある。確かに立花氏の着眼点はその時代時代を象徴する問題に取り掛かっている。今で言えば週刊文春である。文春の記者時代もある。もう少し長生きすれば、感染症問題に取り組んでくれたのかもしれない。

 ブログも批判ばかりでは無く、何のために書くのかという原点はいつも考える必要がある。どのような幼稚な展望であれ、どう解決できるのかという視点が示せないのであれば、書くべきでは無いと自戒しなければならない。

 
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東京オリンピック開催で、非常事態だ。

2021-06-25 04:03:25 | Peace Cafe
 

 ウガンダ選手団の中に、1名のコロナ感染者がいた。このニュースを聞いて誰もが選手団全員が濃厚接触者だと感じたのではないか。ウガンダで選手団の結成式や激励会などウガンダで行われたかもしれない。そして一緒に飛行機で成田まで来たのだ。

 ところが、なんと成田の検疫では濃厚接触者はいないという判断をした。そんな判断をした覚えは無いともいっている。責任は泉佐野市にあるとか、ごまかしている。だいたい成田空港に選手をお迎えするオリンピック関係者はいなかったのか。そして恐れていたように、新たな感染者が見つかった。

 今になってみれば、当然全員が濃厚接触者であった。にもかかわらず、泉佐野市まで移動をしたのだ。移動禁止が何故出来なかったのか。オリンピック関係者で無ければ、2週間の移動禁止で、ホテル待機が普通のことだ。オリンピック特例処置が行われている。入国時にオリンピック関係者の特別対応が必要だ。

 そもそもオリンピック入国者に対して、何も決まっていないずさんさである。誰が判断して、移動を制止できるのかである。オリンピックという特例で来日した9名で管理が出来ないのであれば、オリンピックに来る何万人もの人の管理を出来るわけが無い。

 安心安全のオリンピックはどこに行ったのだ。責任体制が想像通り出来ていない。こんな状況で安心安全なオリンピックを迎えることが出来るわけが無い。日本はこういうことがきちんと出来ない国になっているのだ。このままオリンピックを行えば、あの悪夢のクルーズ船の惨状を東京という街で再現する可能性が高い。

 この事態でのオリンピック大臣のそらっとボケた寝ぼけ発言聞くとはらわたが煮えかえる。今までに無い感染力の強いインド株が広がり始めている東京である。英国の前例から見ると、今のワクチン状況では、次の感染拡大が来る日が迫っている。本来であれば、海外からの入国禁止が求められる状況だろう。

 オリンピックは中止では無く、開催不能になる可能性が出てきている。ここまで国民を不安の中に陥れている政府は、前代未聞である。あの、麻生氏のマスクはいつ外せるのか、誰か知ってるかの発言の馬鹿さ加減が、思い出される。コロナは終わるどころか、このままコロナを理解できない政府ではこれからさらに深刻なことになる。

 感染の連鎖が続けば、必ずウイルスは変異を繰り替えし感染力を高め、病気は深刻化してくる。人間という薬漬けのような動物の中では、どのような変異が起こるのか分かったものではない。いつSARSやエーズのような病気に変わるかもしれないのだ。この1ヶ月2ヶ月が日本のワクチンの勝負時である。

 ここで何とか押え込まなければ、ワクチン効果も無いほどに深刻化する可能性が高まって行く。かなりの確率でウイルスに変異する可能性が出てきている。神風は吹かないし、まぐれ当たりも無い。菅政権にもう希望は無い。

 最悪の状況を考えて、対応をするのが国の安全保障だ。中国が攻めてくるどころでは無いのだ。こうなってみると、コロナを抑えた中国が何故世界のトップに出ようとしているのかが分かる。国家の安全保障意識がまるで違う。

 日本政府には判断力がない。決断力がない。一度決めたオリンピック開催を中止にするという選択肢が無かった。引き返す勇気が無い。オリンピック開催に自分の政権の命運を賭けてしまったのだ。もしかして、無事オリンピックが開催されれば、自分への支持が戻る可能性のあるかもしれないと、唯一の道と考えたのだろう。確かにそんな期待を抱かせる国民が悪いと言えば言える。

 菅政権はこの馬鹿げた賭けに国民の命を賭けてしまったのだ。確かにオリンピックで、感染がそれほどは広がらない可能性が全く無いとは言えない。しかし、ウガンダ選手団の状況を見れば、広がる可能性の方がはるかに大きいと見るのが常識では無いだろうか。

 国民の自粛も限界に達している。非常事態宣言でも人の出の抑制は出来なくなっていた。その非常事態をオリンピックのために解除した。何という馬鹿げた判断だろうか。必ず感染拡大が起こる。当たり前のことが分からないことに驚く。

 オリンピック期間中に金メダルに浮かれて、街に繰り出して騒ぎが起こるなどと言うことが起きないだろうか。東京に集まった人が、そのまま帰宅するように誰がコントロールするのだろう。こんな馬鹿げた政府など誰も信頼しては居ない。

 企業の在宅ワークも一定企業以外には進まない。オリンピックどころではないのが、現状と見て当然の所だ。もし自民党が野党の立場であれば、間違いなくオリンピック中止を主張しているはずだ。政権維持にオリンピックを賭けている。何が起きても不思議が無い状況が近づいている。

 オリンピックによって感染拡大が再度起これば、もう日本経済は立ち直れないほどの打撃を受けることになるだろう。オリンピックの経済波及効果どころではない打撃を受ける。こんな無謀な冒険をしては成らない。

 政府は尾身会長の判断を自由研究と切り捨てた。尾身会長はそもそも政府の太鼓持ち代弁者だったはずだ。だから選ばれた人だ。それでも尾身氏も科学者としてさすがにこの事態を大丈夫とは言えなかったのだ。赤木さんと同じ追い込まれた気持ちでは無かったかと思う。

 一日も早いオリンピック中止を宣言することが政府の唯一の取る道だ。どうしてもそれでもやるというのであれば、無観客は当然のことだ。客を入れてリスクを高めることは選手に対して、不安を増すだけだ。もし、感染者の増加が起こればオリンピックに参加した選手まで批判を浴びる結果になるだろう。

 菅氏は女子バレーの日本とロシア戦を忘れられないと言っていた。私だってそうだ。しかし、私も菅氏もテレビ観戦である。それで充分感動できたのだ。今だって同じだ。観客がい無いのは残念であるが、選手もそのことを受け入れているはずだ。

 選手を一番に考えるのでは無かったのか。すでに選手のなかには苦悩の陥っている人が居る。海外から来る選手を大歓迎とは言えない状況では無いか。緊急延期を宣言することだ。ワクチンを打ち終わるまで待って貰う。これ以外に道はない。

 それは出来ないと言うのが、あきれたオリンピック大臣の発言である。それでも延期を主張しなければならないのが政治である。開催しておこる困難と延期する困難とを比べれば、延期した方がまだましなのだ。追い込まれて安易な道を選んでいるだけでは政府では無い。

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台湾へのワクチン提供を評価

2021-06-24 04:01:06 | Peace Cafe


 いつも政府を批判しているのだが、今回の台湾へのコロナワクチンの提供はとても政府に感謝している。中国の顔色を見ず、よく決断してくれた。困っているときに助け合うのはお互い様のことである。そうした気持ちの通じ合うお隣の国が台湾である。お互いにこれほど安心なことはない。

 台湾があれほど上手くコロナを抑えていたにもかかわらず、感染が広がった原因は変異ウイルスではないかと思う。初期段階のウイルスであれば、感染防止が出来ていた。ところがそれと同じレベルの防止対策では、変異ウイルスは突き破ったのではないだろうか。

 一日の感染者数が5月26日に最高を記録し500人を超えた。その後減り始めている。ここ数日は100人以下になった。やはり台湾のコロナ対応は優れている。人口は2300万人である。それで100人以下だから、日本とは比べものにならない。それでも一日でも早くワクチンを打つ以外に対策はない。

 一度広がったコロナをどのように抑えて行くのかの課程でも、台湾はさすがの対応をしている。日本は無理やりオリンピックを開催し、しかも観客を入れようという愚行である。インド株が広がってきている中で、安心安全どころか、国民の命の軽視が甚だしい。

 ベトナムでも感染が拡大している。やはり変異型と言われている。アジアでは初期段階のコロナウイルスは過去にコロナウイルスの感染があったというような理由で、割合広がりが抑えられていた。ところがインド変異ウイルスが登場するようになって、そうした防疫に成功していた国でも感染が広がり始めている。感染の連鎖が続くと、さらに手強く変異する可能性もある。

 コロナウイルスはなかなか手ごわい。一筋縄ではいかない。しかも国境など関係なく拡大する。現在抑え込んでいる中国であってもいつ変異ウイルスが拡大するのかはわからない。ともかく抑えている間に有効なワクチンを打つ等以外に対策はない。

 コロナワクチンで死亡したなどというはっきりしない情報が広がり始めている。ワクチンには副作用は必ずある。死亡例が無いとも言えない。しかし持病やアレルギーが無いのであれば、まず大丈夫なレベルである。それが世界で行われている結果である。

 筋肉注射は痛いから嫌だという人もいる。それは子供のころに打たれたあのお尻に打つ筋肉注射の痛かったことが焼き付いているのではないか。今のコロナの注射針は極めて優秀なものに様変わりしている。全く痛くなかった。顔を背けて注射してもらったのが恥ずかしいぐらいだったので、安心して打って大丈夫だ。

 他のことでは冷静な判断力のある人が、自分の命にかかわることになると、急に非科学的な判断に陥ることになることがある。コロナはワクチンの中でも安全な方のワクチンである。リスクがないとは言い切れない訳だが、コロナに感染して医療関係者に負担をかけることになる。行動がこれ以上制限されるのも困る。だからワクチンを打った。

 そういう意見を述べたところ、何と自分はコロナに感染したかもしれないと思っても、病院には行かないので大丈夫だという意見を言う人がいた。確かにそういう人が増えている。これは極めて危険な対応である。感染が広がる可能性が増してしまう。

 体質的にあるいは病気の状況でコロナワクチンを打つことのできない人もいるだろう。又コロナワクチンを接種したからと言って、あくまでその効果は95%である。感染する人はする。しかし、感染の可能性が大きく下がることだけは確かだ。

 ワクチンを20%以上の人が打った地域から、コロナの感染は下がり始めている。日本ではワクチン認可の遅れで、世界の中でも接種率が極めて低い。早く、20%の国民がワクチンを打つところまで行けば、オリンピックも開催できるだろう。今のままオリンピックはどう考えてもまずい。

 尾身コロナ会長の国会での意見を何と政府は無視した。今まで検討委員会にコロナ対策の責任を押し付けてきたにもかかわらず、この期に及んでは、検討委員会の意見は尊重しないという事を明確にした。こんな非科学的な政府は日本に入らない。

 台湾に送ったアストラゼネカのワクチンは血栓が起こる可能性があるので日本政府は使わなかったものだ。実際には若い女性に血栓が起きた事例があるという事だが、ワクチンの安全性には問題になるほどのものではないとされている。ワクチンの有効性は90%以上でかなり高いものだ。

 ところが、日本で不要なワクチンをよその国に送ることはよくないという意見を見かける。しかも中国製ワクチンを断っている台湾ではないかという主張がある。間違った意見である。中国製ワクチンは正しい基礎データーが示されていない。アストラゼネカのワクチンは台湾では認可されているものだ。

 さらに、60%の中国製ワクチンを接種した国セシールでは感染が止まらないと言われている。ブラジルでも有効性は50%くらいではないかという話である。一度中国製のワクチンを接種した国でも再度違うワクチンを使うという話が出てきている。

 中国製ワクチンはかなり疑問が持たれている。アストラゼネカのワクチンの有効性から見れば、全くワクチンとしての効果の意味が違う。もちろん一定の効果があることは確かだから、使うべきだとは思うが打つとすれば、アストラゼネカのワクチンの方では無いか。


 台湾が現在一番困っていることは、中国の軍事的併合である。そんな脅しをかけている国のワクチンを果たして使えるだろうか。アメリカもこの事態を重く見て、緊急にワクチン支援を行う事になった。ここは台湾に対して友好国としての支援を行うのは正しい政策である。

 自由主義と民主主義は日本に置いても軽視されてきている。日本が民主主義を取り戻すためにも、中国の独裁政権を批判する必要がある。我が身を省みることになるだろう。自衛隊の石垣島配備の行程は全く民主主義が行われていない。中国政府と何ら変わらない。

 台湾を支持する理由は自由と民主主義だという。是非日本政府にも、アメリカ政府にも民主主義を標榜して貰いたい。自由の価値を尊重して貰いたい。そうでなければ、中国を批判する事はできないだろう。力で中国と対抗するのでは無く、平和外交手によって中国と妥協点を見いだして貰いたい。

 G7では台湾支援を明確に打ち出すことになった。日本も舵を切ったという事である。WHOへの台湾加盟に対しても、日本政府は推進しなければならない。長年中国人を信じてきたが、さすがに政府に対して誰も意見の言えない状況は恥ずかしいことだと思う。

 コロナが収まったら、台湾に行きたい。台湾の蘭屋さんを見学してみたい。沖縄本島よりも台湾の方が近い石垣島に暮らしているのだ。来年の春の蘭展の頃には行けるようになっているだろうか。早く中華航空の再会が始まることを願っている。
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日本はどこに向かえば良いのか

2021-06-23 04:08:07 | 暮らし


 日本が先進国では無くなったと言うことはどの分野でも明らかになり始めている。政府が政策の方向としている、国際競争力は34位にまで下がったと言う。日本人の労働生産性はOECD加盟37カ国中26位 。日本は世界との比較ではずるずる交代してしまい、現状を変える能力も失われたと考えたほうがいい状況。

  一方で社会の貧困とか、格差が深刻になってきたと言うことも言われる。日本が貧しくなると言うことと日本人の暮らしが貧しくなると言うのは少し違うと思う。日本円の価値が下がれば、外国のものが高くなり、海外旅行には簡単に行けなくなると言うことはわかる。

 海外の品物を買わずに、日本国内で暮らしている分には、外国との経済の比較は余り意味が無い。日本では賃金が上がらないと言うことがあるが、これは企業の国際競争力を重視する政府の方針のために起きている。労働対価の意味が実感とは変わっている。

 物価も上がらないのだから、海外と比べながら暮らしているわけではないので、貧しくなったという実感はほとんどの人に無いはずである。何故国際競争力が無くなって、どれだけ力を入れてもさらに競争力が下がり続けるのかを考えて見る必要がある。

 そのまえに、日本が戦後復興から高度成長をつづけ、世界第2の経済の国に成長した過程を考えてみることだ。

 一つめは、適応能力の高い訓練された労働力が,江戸時代に醸成され充分に存在したと言うことがある。その労働力は農業分野から大量に供給された。日本の農村の文化レベルと教育レベルの高さから、即座に成長過程の工業社会に適応し、産業分野の革新に貢献することが出来た。

 その有能な労働力の出現には、戦後の混沌の中で平等な競争条件の国という状態があった。誰もが努力をすれば報われる社会があった。過去にも未来にも無かったような平等な社会が敗戦によって生まれたとも言える。

 二つめは、経済地理的な条件である。日本列島という地理的条件が原材料を輸入して、加工して製品として輸出するには条件としてよかった。日本には資源が無いと言うことが、世界中のどこからも輸入が出来、世界中のどこにでも輸出ができると言うことでもあった。

 近隣に発展途上国が大量に存在する状況もあった。人口爆発が世界中で起きて、物不足の状況である。便利で優秀な日本製品が世界でメイドインジャパンのブランドとなり、世界中に輸出されることになる。無かった生活必需品が次々に登場する時代である。

 三つめは、国防に費用をかけないですんだことがある。アメリカに占領統治され、日本が再度軍事国家にならないように監視された。安全保障のただ乗りと言われながらも、基地は提供させられたが、国防費は競争国よりも格安にすんだ。

 朝鮮戦争、ベトナム戦争とアメリカ軍の出撃基地として、利用されながらも、戦争状況も日本経済には恩恵を生んでいった。そうした戦争にもアメリカがもたらした平和の日本国憲法の下、参加すること無く回避することが出来た。

 うさぎ小屋と呼ばれる小さな家につつましく暮らしながら、贅沢をせずひたすら上昇意欲をかき立て、勤勉に働く国。便利で効率の良い生活必需品生産国。そして平和の国だった。教育意欲も極めて高く、受験地獄と言われるような過酷な競争の中で学習を続ける団塊の世代が生まれた。

 明治日本帝国以来の西欧崇拝による産業革命の方向が,敗戦という最悪の結果を招いた反省から、ひたすら経済で敗北を回復しようという国民共通の目標が暗黙の了解として存在した。ひたすら我慢をしながら、経済的勝利のために努力をしたわけだ。しかも、働けば実感として生活は良くなった。

 日本に追いつき追い越せとアジアの諸国から見られた日本モデルと言える状況が30年前まではあった。そして当然のこととして、アジア各国に並ばれ、追いつかれた。それは日本が劣化したこともあるが、そればかりでも無く必然のことである。

 この日本に存在した三つの条件は大きく変化をした。人口の高齢化により、労働力は不足し、海外から受け入れなければならないような状態である。経済地理的な条件としては日本の港湾は,世界の趨勢から大きく遅れて大型船舶が入港できるのは横浜港だけになってしまった。そして、国防費も年々増大し、普通の国へと変わった。

 同時に日本モデルを達成し、さらなる成長を続ける国は日本よりすぐれた競争相手として存在するようになった。本来であれば、アジア各国の成長は日本にとっても悪いばかりでは無いはずなのだが、その利点を生かす事はできないでいる。

 特に日本がIT化が出来ないで居る。テレワークを行うべきなのに、出来ない企業が大半であった。日本人の働き方は世界の趨勢から遅れている。日本的働き方そのものが、成果主義に整理されていない。スーダラサラリーマン。

 IT化が進んでいる国はいくつかの特徴がある。政府が新しい分野に意欲的で、かつて無い仕組みを模索する姿勢がある。否定しなければならない、現状が無いと言うことでもある。既得権益の擁護が必要ない国である。

 既得権益は感染症学会のような本来科学に基づく平等であるべきものを偏ったものにさせていた。本来社会的な使命を持っているだろうと思われた製薬会社も、利益の出ないワクチンの準備は世界の水準から大きく遅れていた。細菌兵器の研究をしていなかったと言うことでもあるが。

 日本の一番の課題は方角を失ったことにある。企業が国を超えて活動している。この政府と企業と国民の関係がバラバラであることから、日本人の生産性が著しく低下してしまったのではないだろうか。オリンピックの決定の姿には国民の置き去りが明白になった。

 何のために努力するのかの方角が、金儲けのために努力をするという拝金主義の価値観だけになっていたのだ。特に政府の拝金主義は目に余るほどだ。政府が自助努力を提唱する国などあるだろうか。こうした自己本位の考え方には限界がある。

 人の為や、社会の為に努力する力は人間のもう一つの力を湧き上がらせる。持っている以上の力が生まれるのだと思う。成功したひとが言う言葉は親を楽をさせたいとか、日本の為とかであったが、今は自分の為になり始めているような気がする。ここが日本人の生産性の低下の原因では無いだろうか。

 日本の国際競争力が34位になったことは、こうした自己本位社会の結果にみえる。以上の分析がある程度当たっているとすれば、この先さらに低下を続けることになる。政治の転換を以前は期待していたが、今はそれも余り期待していない。社会全体はもう無理であろうと感じている。自分の周りだけでもできる限りの努力をするほかないという気持ちである。

 
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オリンピックはせめて無観客開催で

2021-06-22 04:48:50 | Peace Cafe


 オリンピックに突き進んでいる。戻るという選択の無い日本の政府。安心安全なオリンピックとはとうてい言えない状況だろう。菅政権にとってやらないという選択は初めから無かったようだ。オリンピックを開催するという、命題に向かって強行の方法だけを考えている。

 その背景にあるものは、経済的損出。菅政権の命運。一度決めたことから撤退する勇気のなさ。哀れなことであるが、人ごとではない。選手のことを思ってなんとしても開催するのであれば、せめて無観客である。開会式はいらない。聖火リレーもいらない。

 何故この当たり前のことが分からないのかと、我々の政府だと思うと情けなくなる。国民の気持ちはオリンピックは開催して欲しいとは思っている。人間を越えたような努力してきた選手への応援の気持ちは誰にでもある。それでも安心安全では無いと予測できる以上止むえず中止を言う人が多くなっている。

 それでも世界から何十万人の選手団とその関係者が来ることになる。競技中に感染が起こらないとは限らない。すでにウガンダから来た選手からはコロナ感染者が出ている。ワクチンを打っているし、PCR検査もしてきたという。それでも感染者は出る。一緒に居た他の選手はそのまま移動している。あれでいいのだろうか。

 ウガンダから来た他の関係者にも感染が起きている可能性もある。こうした事例は今後もあるだろう。しかも、それが何千人の単位でで起こることになる。収拾が付かなくなり、オリンピックの途中中止すらあり得る。もし、開会式で2万人の観客の中でこれが起これば、その後の競技どころでなくオリンピックは終わりになる。

 すべてを用意はしたとは思う。多くの人が関わっているのだろう。それでも今引き返すのが政治の勇気である。それが出来ない理由は政府の方が、オリンピックにしがみついてしまったからだ。オリンピックを開催すると言うことに国の命運を賭けてしまっているのだ。神風に期待するようでは相変わらずの日本だ。

 無謀な戦いを続ける。誰もが第二次世界大戦の敗戦時を想像するのではないだろうか。本土決戦などと、何の展望も無いにもかかわらず、止めることが出来なかった。敗戦を認める勇気は難しい。ここまで来てオリンピックを中止するのは大変だと思う。日本はコロナとの戦いに敗れたのだ。止めても政府を攻めるものは居ない。

 第二次世界大戦では、日本の軍部には世界の状況が見えていなかった。コロナの戦いでも感染症の状況が見えていなかった。備えもなかったし、知識もいかにも不十分だった。今回のコロナ戦争では、あのクルーズ船以来すべてがゴテゴテである。PCR検査が遅れた事は理由すら分からない。ワクチン接種はさらに遅れに遅れた日本になってしまった。

 コロナより経済が大事と経済に引きづられて、中途半端な対策の繰返しをしたことが事を悪い方に広げてしまったのだ。オリンピック開催も同じだ。あのとき、冷静に二年延期を選部事ができれば、ワクチンが間に合った。

 自分の弱いところを認識するのは辛いことである。なんやかや言い訳の理由を探す。しかし、もう言い訳の出来るような状況では無いだろう。たまたま、日本人にはコロナに感染しにくい、重症化しにくい、コロナウイルスへの特別な反応だけが救いだった。それもインド株になれば、通用しないようだ。

 インド株が広がってきている。オリンピックは今からでも中止すべきだと思う。それが国を思う本当の気持ちではないか。しかし、政府にはその勇気が無い。だから中止の決断など出来ない。そして備えの十分でないまま、突き進むだろう。後は幸運にも大きな感染が起きな位かもしれないという、神風だけのことになる。

 全くの無謀な選択である。今唯一の希望は無観客である。せめてもの無観客である。政府は選手とその関係者の安全確保に全力を注ぐ。そのためにも観客どころではない。観客対応に力を削がれれば、選手から感染が起こるリスクが高まる。

 これは最後の願いである。無観客でお願いしたい。それが感染症学者の科学者の意見でもある。自由研究では無いのだ。政府に国民の命を預かる気持ちがあるなら、無観客である。その結果入場料収入が無くなり、損害が出るだろう。色々つじつまが合わなくも成る。

 そもそも、コロナ緊急事態下にどうしても開催するオリンピックである。観客なしのオリンピックという、おかしなことになるのは仕方がないことだ。人が動くことを抑えようと主張してきた感染症対策であったはずだ。今決断すればまだ間に合う。

 開会式を無観客でやる。入場する選手はいらない。各国関係者が一名参加するだけで良い。盛り上がらない開会式になるだろう。しかし、それが世界でのコロナ感染死亡者: 3,859,605人 への鎮魂である。どうしてもやる以上、コロナ鎮魂のオリンピックとして開催する。

 コロナに打ち勝ったオリンピックなどと良くも言えたものだ。政府はコロナの深刻さが認識できないままここまで来てしまった。政府の姿の中に、日本人の現実を直視できない姿を見る。希望的観測が政策判断を支配してしまう。非常事態宣言もいつも甘い判断で終わりになった。

 最悪の事態を想定するのが、国の安全保障の原則である。大丈夫だろうではすまないのだ。万が一を考えるのが基本である。そしてその万が一の確立をさらに低くしていくのが、政治の役割である。少々の不安があるが、やってみれば案外大丈夫だろう。これでは目に見えて、大きな事故に繋がる考え方なのだ。

 天気はだんだん良くなるに違いない。雷は落ちないだろう。津波は来ないはずだ。台風は上陸前にそれそうだ。これではいつか最悪の事態に遭遇する。政治は絶対に安全な上にも安全を期すのが役割である。本来ならば、ここでオリンピック中止を決断するのが人の道だ。

 それでももう出来ないようだ。出来ない以上、仕方がない。せめて無観客にすべきだ。世界中の人に中継で見て貰えば良いだろう。そもそも世界中の大多数の人はテレビ観戦である。テレビ中継を充実させればいい。インターネット中継も出来るだろう。IT時代のオリンピックとしてアピールすれば良いでは無いか。

 最後の願いである。届かないだろうが、今無観客を決断すれば、菅政権の勇気は後世に残るはずだ。人の命以上に大切な物はない。生きていれば何とかなる。死んでしまえばすべては終わりだ。オリンピック開催のために犠牲になって良い命など一つも無い。世界の選手のために、どうしてもやりたいのであれば、無観客以外にないだろう。
 
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石垣島田んぼの会1回目の作業

2021-06-21 04:12:10 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」

 一日目の作業で作った苗床。

 石垣島田んぼの会が始まった。1回目の作業は16名の参加で4名がすぐに抜けなければならなかったので、12名での作業になった。まず15分ほど打ち合わせを行い。そのあと作業に入った。水を入れたぬかるんだ田んぼでの作業で、けっこう大変だったと思う。

 参加者の皆さんが本気で作業をしたので、気持ちの良い作業になった。これならば大丈夫だと確信できる一回目の作業になった。このほか参加希望者でこの日はだめだった人が居るので、20数名くらいの参加の田んぼと言うことになりそうだ。

  始めることにはためらいもあった。石垣島では農業はやらないと決めていたからだ。こうして始めてみると、同じ思いを持つ人達との出会いである。人間の匂いの感触が共通である。一緒に頑張ろうという気持ちが湧いてきた。

 一回目は苗代作りと。田んぼ全体への堆肥撒きの作業であった。鋤が入れられている田んぼに水を入れて、土を軟らかくしてあった。一日ですっかり軟らかくなっていた。このまま1ヶ月水を入れておけば、自然に軟らかくなるかもしれない。

 水を入れなければ、土がカチカチで作業できないそうだ。石垣の土は水に濡れると急に軟らかくなる。乾けば日干しレンガのように堅くなる。砂がかなり多いとも感じるのだが同時に粘土のような粘りもある。私には初めての田んぼの土だ。手強そうである。

 1メートル幅で20メートルの長さの苗代を作った。ビールかすと米ぬかを混ぜて2週間ほど攪拌しておいたぼかし肥料を、三袋苗床になる当たりに播いた。熱が出て発酵を続けていている良い匂いがしている。これが苗床の命になる。

 ぼかし肥料を撒いた後、脚で踏んだり、シャベルで起したりしながら、代掻きをした状態にしていった。周囲よりもいくらか高くした。その方が水管理が楽だからだ。1時間半ぐらい掛かった。ぬかるみでけっこう大変な作業だった。

 そのあと30分ぐらいかけて、田んぼ全体に堆肥を撒いた。石垣島堆肥センターで作る堆肥を15キロ入りを一五袋撒いた。これだけでは足りないと思うが、今回はここまでである。やり過ぎるよりは安全運転で行くほうがいい。

 周辺の草刈りは電動刈払機二台で行った。これは2時間ぐらいの作業であった。周囲がきれいになり、田んぼの見通しが実に良くなった。18Vの蓄電池のものが、エンジンの刈払機に劣らないと言うことがよく分かった。



 電動の草刈り機を買った。石垣島で田んぼをやることになり、どうしても刈払機が必要になった。ただ、ガソリンやオイルは家に置いておけない。そういう場所もないし、暑いから危険でもある。そこで、色々考えた末に電動の刈払機を買うことにした。

 石垣のメークマンに置いてあったので、それを購入した。ネットで取り寄せる時間的な余裕も無かったので、決断した。そこにある一番強力なものにした。18Vというものである。これなら、二サイクルエンジンの刈払機と変わらない能力があると言うことだった。

 旧日立のもので39800円であった。いままで買った刈払機の中で一番高いかもしれない。歳もとったことだし、ガソリンより扱いやすいと言うこともあり、止む得ない出費だと悩んで悩んで三日目に決意して購入した。

 昨日は田んぼの周りの草刈りを試してみた。これが意外に能力が高く、ガソリンと確かに遜色ない刈りごこちだ。しかも、スタートが楽だし、止めるのも心配ない。再度スタートするのも何の滞りも無い。案外に良い買い物だったようだ。

 20分ぐらい動かして、電池切れになった。当然で買ってきて、そのまま使ったから充電が満タンでは無かった。そこでいつも車に積んである携帯バッテリーから充電をしたら、40分で満タンになった。これならば休憩中に充電できる。けっこう実用的だ。それからあれこれ草刈りを続けることが出来た。

 私には十分な刈払機であった。昨日は高梨さんがあちこちを草刈りを続けてくれた。うまく作業が出来たようだった。誰にとっても、初めての人でも使い勝手が良い。しかもガソリンを家に置いておく必要が無いから、安心だ。

 今回の作業は確かに石垣島の炎天下の農作業はきついと言うことを体感した。体は同じ時間で小田原の二倍疲れた。家に帰って風呂に入ったので、体重を計ったら、53、7キロと言う最近では無いほど体重が減っていた。すごい汗をかいたのだろう。

 午前中作業で、小田原で丸一日働いたのと同じぐらいである。これからの作業もそのつもりで考えておきたいと思う。次回の作業は27日に種籾の海水選である。必要なもの二,二キロの種籾。ネットの袋二枚。虎ロープ。

 海水選の意味。種籾が海の水と出会い、目覚めることになる。稲作始めの儀式のつもりで稲の命への尊敬の思いを込めて、海水選を行っている。ご飯を頂くと言うことは命をつなぐ、要のお米を食べていることなのだ。種籾は二重のネットに入れて、1週間川に沈めておく。1週間するとイネの種籾は発芽を始めているはずだ。

 そして、7月4日がいよいよ苗床への播種である。その頃になれば、苗床に入れたぼかし肥料も落ち着いてきているだろう。種を蒔いても肥料あたりをしない状態になる。種籾は1メートルに100グラムを蒔く。種籾を蒔き終わったならば、鳥よけネットでトンネルを作る。

 苗床は五葉期を目指すが、正直どのくらいで五葉期になるかがまだ分からない。一応、7月25日を田植え予定日にしているが、8月1日になる可能性もかなりある。小田原で会えば、稲の生長は必ず一枚1週間である。種を蒔いて5週間で五葉期になる。3週間で五葉期なるかもしれないという想定である。

 色々書いたのは、頭の中に作業の流れを反芻しながら、イメージトレーニングしている。これを繰り返していると、だんだん整理されてきて、必要なものが見えてきたり、手順を変えるべきところが分かったりする。現状では水牛である。水牛の作業がどうなるか、これは水牛に聞いてみなければ分からない。大丈夫だろうか。

 作業が終わってから、早速高梨さんがフェースブックに石垣島田んぼの会のページを作ってくれた。やり方も指導してくれた。写真の投稿もしてみた。ページaddressは 石垣島田んぼ勉強会(自給のための有機農法の田んぼ作り) です。是非ご意見など寄せて下さい。と言ってもフェースブックをやるのは初めてなので、上手くゆくだろうか。

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第61回 水彩画 日曜展示

2021-06-20 04:37:07 | 水彩画
第61回 水彩画 日曜展示
 今回は絵画につけている番号からすると割り込む形で、小田原で描いた絵を展示することにする。







335「甲府盆地」
中判全紙 ファブリアーノ、コールドプレス
2021.6





336「三本の赤松」
インドの水彩紙12号
2021.6








337「篠窪の耕作地」
10号ファブリアーノクラシコ
2021.6







338「八ヶ岳夕景」
5号 アルシュ手漉き 
2021.6






339「仙石原からの駒ヶ岳」
ファブリアーノクラシコ
2021.6






340「箱根西斜面」
ファブリアーノ 12号
2021.6







341「塩山桃源郷」
和紙 10号大
2021.6







342「小田原の海」
10号大 ファブリアーノ
2021.6







343「ミモザの花」
ファブリアーノ 10号
2021.6







345「篠窪傾斜地」
ファブリアーノ 6号
2021.6






346「仙石原からの駒ヶ岳」
ファブリアーノ10号
2021.6

 小田原の家にもまだかなり絵が残してある。すこしづつ整理している。その中から、続きを描きたくなったものも含まれている。ミモザの花の絵と八ヶ岳の絵がそうだ。後は今回描き始めた絵である。

 農作業の合間にすこしづつ絵を描いたことになる。それでも3週間だから、一日一枚とは行かなかった。実はもう少し描いたのだが、納得いかないので展示までは出来なかったものが二枚ある。

 農作業と絵を描くと言うことは相性が良いと思っている。絵だけ描いていると、不安になってくる。農作業をすると気持ちの収まりどころがある。今も石垣に戻り田んぼの準備をしている。田んぼの脇に車を止めて、田んぼの絵を描いている。合間に草刈りなどしている。これは案外に悪くない。
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人口減少は必要なことだ。

2021-06-19 04:22:33 | Peace Cafe


 人口減少を困った悪いことのように政府は考えている。全く世界の方角が見えないのだろう。世界の今の人口は地球という限られた場所に、人間が暮らすには多すぎる。当然日本も人口減少しなければ成らないのは当たり前すぎることだ。

 少子化を問題だとする今の政府は,経済にとらわれ過ぎていて、次の時代を見誤っている。次の時代はGNPを争うような時代ではなく。ひとりひとりの暮らしの充実を求める時代になる。GNPがたとえ今の半分になったとしても,人口が三分の一まで減少していれば、ひとりひとりは豊になっているのだ。

 実は日本はついこの前まで人口減少を願う社会だったのだ。1940年に出た人口予測は、全く今の現実を正しく予測して居るそうだ。2000年に人口減少に入ると考えていた。むしろその時点でのその予測は、だから大丈夫だという予測だったのだ。

 日本が満蒙開拓団を擁して中国に進出したのも、人口対策が背景にある。移民を奨励したのも、日本では生活が出来ない人が溢れるという不安からの政策だった。産めよ増やせよかけ声を掛けながら、海外雄飛を奨励するという、矛盾した帝国主義国家なのだ。日本民族が世界に広がり、軍事大国になれば良いという、世界が見えていない考え方である。

 現代の少子化対策の背景となっている考え方は、労働人口の減少を経済の国際競争力の低下と見ていると言うことに過ぎない。競争主義にとらわれている。人口減少を受け入れた上で、どのように考えるべきなのかを、国民的議論にするのが政府のあるべき姿ではないだろうか。

 なぜ人口減少した方が良いのかの方向を考えてみたい。一番重要なことは食糧危機である。食糧を自給して日本列島に暮らせる人口は6~8000万人と考える。

 その理由は江戸時代の鎖国した状況の日本を考えてみると見えてくる。人口はおおよそ3000万人である。その後明治に入り急速に人口が増えだして、100年間で7000万人になっている。その後、50年間で12780万人まで、爆発的に増えたのだ。そして、減少を始めているのが現状である。2100年の人口予測では大雑把に4~6千万人である。

 江戸時代の農業技術は生産性において決して現代より劣るものではない。農業という観点で考えると意外にも生産性大して変わらないのだ。食糧生産は江戸時代も今も自然環境に従うもので、それほどは変化がない。産業革命で目覚ましい変化をした他の産業とは別物なのだ。

 江戸時代に近い自給農業をしているのだが、近隣の農家よりも多い収量を上げている。化学肥料の登場、農業機械の出現。農業革命が起こると思われたが、そうしたものは限定的な効果のものである。結局のところ、自然に従う循環農業が一番永続性がある。

 農業は機械化したところで、生産速度が速まる訳ではない。農産物の成長は江戸時代と何ら変わらない。お米は5月に種をまいて10月に収穫する。おおよそ半年かかる。機械は労働力の節約にはなっているが、日本の国土における生産力を上げるという意味では限定的な効果となっている。

 干拓事業や水利事業が行われたことで、生産可能な地域は広がったわけだが、それ以上の人口増加による住宅の増加、様々な生活関連施設が増加した。工業用地の増加も著しいものがある。結局は農業用地は江戸時代より劇的に増えたとまでは言えない状況に戻ってしまった。

 現状で農業用地は400万ha その内耕作放棄地は10%となっている。江戸時代が300万haという事だから急激な人口増加にもかかわらず、農地はそれほど増えたわけではない。それでも30%ぐらいは農業用地が増えているが4倍になった人口増加に比べれば、全く追いついていない。

 食糧生産を考えると、農地の増加で30%ぐらい増産できる。そして農業技術や品種の改良等によって倍くらいの生産性になったと考える。機械化農業は労働力の削減にはなっているが、国土の生産性という意味では、大きな影響はない。

 あれこれの推定で、日本列島の現状での食糧生産力を考えてみると、江戸時代の2,5倍ぐらいではないかと思われる。そして、もし食糧自給が可能な国という事が健全な国家という事であれば、日本列島に人間がまともに暮らせる人口はどうしても、6~8000万人という事になる。

 工業製品を輸出して、食糧など輸入すればよいという考えは、国の安全保障上問題が大きすぎるという事が見えてきている。日本の国力が低下してゆく中、高額な食糧の輸入など不可能になる。さらに、世界の人口は地球そのものの食糧生産力の限界に達している。

 食糧不足の国が年々増加している。こうした中いつまで食糧輸入が可能なのかという事である。中国が国力を上げ、食糧輸入国になっている。日本の10倍以上もある人口の国が、大量に輸入すれば価格が高騰する。世界の食糧不足は一気に高まってゆく。

 地球全体では自然破壊を続け、農業用地を広げている。人口増加に対応するためと経済優先である。それが温暖化の原因にもなっている。こうした方向も歯止めをかけなければ、地球が人間の暮らせない環境になることは目に見えている。

 日本が食糧自給を目指さなければならないことは、世界の状況の変化や、国の安全保障からも、当然の結論である。その点日本政府も一応、食糧自給率の増加と主張はしている。ところが、国際競争力のある農業であって、農業の方向は主食の食糧自給からは遠のいている。

 綿花やゴムの植民地における農業はその国食糧生産地である農地を奪った。プランテーション農業である。農業にかかわりながら飢餓に陥ったのだ。日本の農業の方向は全くこれと一緒で、菅氏の施政演説では「牛肉やいちごをはじめ二十七の重点品目を選定し、主食用米から高収益作物への転換、を 推進する。」

 農家出身の菅氏が何故主食用米を終わらせようと考えているのか、まったく情けない限りである。稲作の持つ優れた永続農業を、収奪的農業に変えてはならない。国際競争力に惑わされて、国の未来の方向を見失ってはならない。

 人口が8000万人以下にまで下がれば、自給的国家として日本は豊かに立ち直れる。少子化を困ったこととしてとらえるのではなく、自然の成り行きであるとして、8000万人以下の国づくりを考えるべきだ。その為には江戸時代の暮らしは大いに参考になる壮大な実験国家である。
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シャンプーも石けんも使わない。

2021-06-18 04:01:16 | 暮らし
 


 石垣島では飛行場に入るとき北からと南からの二方向がある。今回は北からの白保と大里の間の採石場付近を飛行機が降下して行った。

 もう何十年も石けんもシャンプーも使わない。そもそも子供の頃から、体を石けんで洗うなどと言うことは母親に使うように言われてた時だけだった。どだい天邪鬼の子供で、言われるとやりたくなくなるのだ。しかも屁理屈ばかり言う子供だから、石けんなど使わない理由をあれこれ考えた。

 最近石けんでウイルスが除去できて、洗えばきれいになるとコロナで盛んに言われるが、それでも石けんで洗うことはし無い。ウイルスが無くなるくらいだから、皮膚の大切な物も失われていると考えている。皮膚には様々なものが体の中から染み出てくる。油のようなものは老廃物と言うことでは無い。皮膚を保護するものだ。その脂を何度でも取り除いていれば、皮膚のバリア能力はなくなるだろう。

 シャンプーなどと言うものは,合成洗剤と言われるようなものと同じだろうと思っている。ママレモンで頭を洗うのはどうかと思うわけだ。シャンプーは何かでよほど頭が汚れたとき以外使ったことがない。だからといって病気になったことは無い。むしろ使わないから免疫力が付いたのではないかと思い込んでいる。

 しかし、この事実はいままで余り書いてこなかった。それは汚らしい人間だと人から思われるだろうと恐れていたからだ。臭い奴だとはさすがに思われたくは無い。世間では石けんを使わない奴など、エンガチョだと思っているに違いない。人からどう思われようが余り気にしない方とは言え、あえて頭をシャンプーで洗わないというようなことは口にしないで来た。

 ではどうしているかである。風呂にはよく入る。石垣島にいるときには朝晩2回は入る。小田原にいるときでも夜には必ず風呂に入る。サウナに行ける頃にはサウナに行くのが,楽しみであった。風呂に入れば半分解決である。

 あとの半分は風呂に入り、お湯で濡らしたタオルで体はゴシゴシこする。頭もお湯でゴシゴシこする。これだけである。何故石けんやシャンプーを使わないのかには理由がある。汚れを落とせば保護膜も落とすと考えているからだ。昔の人は体など滅多に洗わなかったのだ。体を洗うと言うことの方が特別のことだ。

 人間の表面は体の中から染み出てくる油脂分で覆われている。これが体を保護している。この保護膜を洗い落としてしまうなど馬鹿げたことなのだ。そういうことが皮膚の炎症を起しているかもしれない。もったいなくて出来ない。しかし、そのままにして置くわけにも行かない。そこでお湯で流れ落ちるぐらいは落とす。

 今日は随分汗をかいたと思う日には,お湯タオルで何度もゴシゴシやる。別段これで臭くなるわけでも、痒くなるわけでも、薄汚れて見えるわけでも無い。頭が痒くなるとか、脚が痒いとか言うのは石けんやシャンプーで洗いすぎるからだ。まあ、そもそも見た目の清潔感などない方だから、汚く見えるのは地だからこれは仕方がない。

 歯磨きも一緒だ。そもそも歯磨きと虫歯は関係ないという説すらある。しかし歯磨きはしないよりした方が良いが、しかし歯磨き粉は無駄だし、不用だ。どうしても使わ無ければすっきりしないというような、悪い習慣が付いてしまった人は、もう米粒以下の歯磨きをつけてみがけば良い。

 歯ブラシは電動歯ブラシにしている。これで丁寧にみがいている。歯磨き粉などつけなくともすっきりする。何故、世間では石けんやシャンプーや歯磨きを使うようになったかと言えば、テレビの影響である。何の意味のないものを騙して売るのがCMである。

 報道にとってはスポンサーが神様で、視聴者は金の種だから、騙そうが何しようがかまわないと覚悟を決めている。テレビや新聞では間違っても歯磨き粉は無駄とか、シャンプーは頭皮を傷めて、ハゲになるなどと言う情報は流さない。神様の逆鱗に触れるからである。

 しかし、一億総白痴化現象だから、大半の人はシャンプーは髪に良いなどと思い込まされている。自分で考えてみるというようなことが無い。少し頭を使えば、頭が痒いのはシャンプーが皮膚の油脂を取るからだくらい分かりそうなものだ。



 合成洗剤が頭の中まで染み込んでしまい、頭がやられているのかもしれない。手も洗わなければ、だんだん丈夫になる。今啄木のようにじっと手を見たところ、特別に問題など起きていない。71歳の当たり前の状態である。嫌もう少しましかもしれないと思っている。これは60年間石けんを使わないで来た御陰だろう。
 
 皮膚のために何していないかと言えば、ニュートロジーナという塗るものを風呂から出たら月に一回ぐらいはつけるときがある。泥仕事で手がカサカサになったときだ。これは面倒なでついでに髪の毛にも二ヶ月に1回ぐらいはつけることがある。別段意味は無いがついでだからだ。その結果ハゲにはならないし、抜け毛がひどいとか、痒くて仕方がないなどと言うことは全くない。

 ニュートロジーナなを何故使うようになったからと言えば、使って悪くなかったからだ。ノルウェーのバイキングが北極海の吹きさらしの海仕事の荒れた手に使っていたという、効能書きにやられた。多分そうかもしれないが、現代のニュートロジーナにそんなたいそうな成分が入っているとも思えないが、使って悪くないのでこれだけは使う。

 結果については鏡というものを見たこともないのでよく分からない。ただ、手については今確認してみたが、使うようになる前より良いようである。ともかく長年の石けん不使用の効果はある。コロナでも石けんを使わなかった代わりに、家の外では何にも触らなかった。

 触らなければ入れないような所には基本行かなかった。体で押して入るとか、タオルで触れるとかしてきた。知らないところではそれくらい用心した。タッチパネルは本当に困った。もうそう言うところには行かないことにした。石けんを使わないのだから、必要な注意である。アルコールが置いてあれば消毒は仕方がなくした。回りの方の安心感のためである。あれもしたくは無い。

 汚いはきれい。きれいは汚い。・・・マクベスに出てくる言葉らしい。コロナで汚いは汚いになることを恐れている。汚いをただ汚いにしてしまえば失われるものが余りに多い。美とか正しいとか言うものは,対照的なもので一方から見ると失われるものがある。

 汚れているということは実は保護していると言うこともある。ほどほどに汚いくらいが良い。こんな考え方はコロナの時代では危険思想と言うことになる。土壌は植物にとっては母なる大地である。土壌は汚いを含んだ総合であるから豊なのだ。土壌には病原菌が無数に存在する。土壌だから豊なのだ。

 何でも絵に結びつけてしまうが、絵というものは美しいものを美しく描くようなものではない。汚いきれいを越えたものを描いている。きれいにとらわれてしまうと、自然界の総合性が見えてこないと言うことだ。何でも一面的にとらえるのはつまらない。
 
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石垣島で田んぼが見つかりました。

2021-06-17 04:39:35 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」


 5月16日田んぼを貸してくれることが決まりました。2期作目1回だけ貸してくれると言うことです。私たちが探すことで苦労していることを見るに見かねて、貸してくれることになりました。有り難いことです。

 4月18日田んぼの地主さんから、田んぼを貸せないことになったという連絡があった。こういうことは時にあることだ。貸すことに一度しても、家族内や親戚筋から異論などが出ると言うことは珍しくない。田んぼという物はただの農地ではないのだから、仕方のないことである。

 他を借りるために、午後歩き回った。農業委員会にも出かけてみた。田んぼを貸すと言う話が無いわけではないようだ。今度は少し時間をかけて行うことにしたい。石垣の田んぼに関する貸借の感覚がまだつかめていない。確かに耕作放棄地があるが、不在地主であるとか、石垣島特有の事情もあるらしい。

 田んぼの基盤整備がほぼ完ぺきに進んでいる。これは小田原周辺とは大違いである。農業関連の整備費が神奈川県よりもかなり潤沢なのだろう。どこの田んぼも弁を開ければ水が出るという状態である。その分水の費用は反当り1万円ぐらい必要と聞いた。

 ダメになってから、ここはどうかという話もいくつかあったのだが、今は信頼できる方から、次の2期作の間だけは使ったらどうかという話になった。あまりに探してはダメになるので、見るに見かねてともかく2期作の期間作らせてやるという、親切な申し出を頂いた。

 人が32名以上参加したいと言っているのに、やらない訳にもいかないだろうという状況を察してのことである。その後もぽつぽつ申し込みがあるので、ともかく一度顔併せての打ち合わせをして、参加者の最終確認をしなければならない。

 小田原に居て少し歯がゆかったのだが、石垣島の田んぼのことを頭の中で構想した。かなり不確定な予定表であるが、次の田んぼでも使えることでもあるし、新しく田んぼを始める人に、田んぼを始めるのは田んぼ探しでもあると言うことで、参考になると思うので、考えていることを公表して行こうかと思う。

1,6月19日か20日、田んぼ参加者の決定と方針のとりまとめ。
現状では自給には人数が多すぎる。田んぼを広げるか。今回の2期作目は自給までは行かない試行の田んぼとして、有機農業の田んぼ勉強会としたいと思う。

2,お米は反収4俵(石垣島の二期作目の平均的収量)が目標として、1反であれば、240キロ。30人であれば、8キロとなる。二期作目なので、先ずは田んぼの様子を知るための耕作になるのではないか。

3,来年春からの1期作の耕作が本格的な取り組みになると考える。

   毎年かかる消耗品費用として
地代、年15000円2分の1でいいのか。 作業委託した場合、荒起こし・代掻き、稲刈り。4万円。種籾4キロ2000円、米ぬか10袋 3000円、ビールかす2000円?、ガソリン5000円
 75000÷30人=2500円・・・勉強会参加費としたらどうだろうか。

 備品費用、購入品は10年で分割して負担予算20万?(笹村立て替え)これは本格的な田んぼを借りて、活動が始まってからのことにする。

田んぼ整備費10万円。田んぼグループとしての 必要な備品・・・コロガシ除草機18500円×二台、鳥追いカイト3600円×二個、ダンポール25本2500円。鳥よけネット50メートル8226円。水牛による耕耘の器具50000円くらいか。ブルーシート1500円×2枚。コンバイン袋50枚10000円。トンボ2台5000円。物置をどうするか、材料費は。土壌調査費2000円?
1年2万円×10年償還と計算する。半期1万円。

 個人の持ち物・・・田んぼ靴あるいは靴下2枚重ね(長靴不可)、作業手袋、帽子、日射病予防、水筒、タオル、長袖服、長ズボン、いずれも汚れても良いもの、マスク、サングラス、日によってはお弁当,お菓子。

現在想定している作業の日程
 最初土曜日を設定しましたが、日曜日で無ければ参加できないという方がおられたので、日曜日に変更しました。

①6月15日石垣に戻る。可能な人がいれば15日から田んぼ準備始める。すでにぼかし肥料を作り始めている。水牛の代掻きの道具と鞍の制作をしている。

②6月20日(日) 9時から 一回目の作業日にする。周辺の整備 草刈り、水の取り入れ口の整備など。苗代を作る。苗代部分の荒起こし。畦作り。1メートル幅。長さ20メートル。シャベル、あるいは鍬など。草刈り機。ある道具を持参で参加して貰う。

③6月27日(日)肥料撒き田んぼ水入れ。苗代畦作り、水を入れて苗床の代掻き。川の水に,ネットに入れた2キロの種籾を漬ける。

④7月4日(日)苗床の種まき。1メートルに100グラム。20メートルで2キロ。蒔いたならば、防鳥ネット張り。ネットとダンポール

⑤7月25日(日)田植え予定。23日(金)に苗取りと田んぼ代掻き。24日田んぼ線引き。水牛を使うので、やってみないと分からない部分がある。苗の生長によっては8月1日に成る可能性もある。鷹の凧を飛ばす。

⑥8月1日(日)からコロガシ。8センチ以上の深水管理。
⑦草取りコロガシを継続する。
⑧9月5日種まき9週目の生育診断。
⑨9月12日前後補肥の予定。

田んぼ参加者の皆さんへ
 改めて干川さんが新しい田んぼを見つけてくれました。場所はシーラ原の条件の良い田んぼです。今回、半期だけ特別な好意でお貸し下さいました。

田んぼ勉強会の参加者の条件
 今回は自給の田んぼとはしません。1反5畝に30人を超えた人数では自給には成りません。又半期だけと言うこともあるので、田んぼ勉強会とします。参加者は出欠表を付けて貰います。それによって出来たお米は配分をします。

1,真剣に田んぼに取り組むことが参加条件です。出来る出来ないではありません。農家の方の真剣な生産の場である田んぼです。農家の方に認めてもらえるような本気の気持ちのある方のみで行います。子供の参加もかまいませんが、親が自分が本気で働く姿を子供に見て貰うということです。子供に体験させたいので、自分は見ているという人は参加をお断りします。

2,作業予定日は土曜日を基本としますが、天候によっては日曜日に移動を行います。土日、無理な方も平日参加出来きるように、平日の作業日も設けます。また、天候と作業内容によっては,とつぜんやらざるえない場合も出てきます。

3,笹村は石垣にいるときには毎日必ず田んぼに行きます。勉強をしたい人はその時間に併せて田んぼに来て下さい。参加メンバーには田んぼの様子は随時メールで写真を送ります。

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コロナワクチン2回接種しました。

2021-06-16 04:01:13 | 石垣島


 コロナワクチンの2回目の接種を完了しました。これで一安心です。石垣島は日本で一番コロナ感染者の密度が濃い場所になってしまいました。ワクチンはインターネットで簡単に予約ができました。一回目から三週間後と言うことで、15日が2回目のワクチン注射となりました。

 実は14日が丁度三週間目と言うことで、この日の4時30分は飛行機の中です。それで一回目の接種の時に一日延ばすことをお願いしました。ところがこれが出来ないというので、ちょっと手間取りましたが、翌日保健センターに電話で事情を話し、15日に変えて貰いました。

 石垣島では基本三週間目と決められていると言うことでした。15日の接種でも何故14日に来なかったのかと、もういちどあれこれ確かめておりました。保健センターで変更を認められたと説明しました。名前と生年月日は3回聞かれました。確実性を求めてかなり真剣な対応だなと思いました。

 接種会場はかなり空いていました。待つことも無く、30分ですべてが終わりました。良かったことは接種会場にみるく節が流れていて実に雰囲気が良いのです。このヤエヤマ古典民謡を聴くとのどやかな気分にたちまちになります。先ずはお年寄りの接種ですから、みるく節はとてもいいです。いい唄だけれど誰だろうとおもっているともう注射を打ち終わっていました。

 上手なためか、少しも痛くない筋肉注射です。何千人に連続打ちですから、注射も上手になるでしょう。子供の頃お尻に打たれた筋肉注射を思うと、少しも痛くないのは歳をとって神経が鈍くなった性なのかもしれません。注射針の進化もあるのか、原因は分かりませんが、緊張するような痛みは全くないので、むしろ驚きです。

 気になるのはどうしても、副反応です。ワクチン注射ですから副反応が無いはずはないですが、どの程度かは気になります。1回目はいくらか注射をしたあたりの筋肉痛が一日ありました。2回目を打ってから、12時間経過現在、筋肉痛も無ければ熱も無い。
さらに24時間後になっても全く副反応がありません。36時間経過しても副反応は出ませんでした。この間アルコールは我慢しました。)

 インターネットではワクチン注射で死んだ人が居るというような、不安を煽るような情報を流す人が居ますが、とんでもないことです。滅多に副反応は無いし、死んだ原因がワクチンという噂ぐらいで、怪しい情報を流してはだめだ。ワクチンによる死亡と断定できる事例は一件もない。

 今回のワクチンは過去に無いほど安全なワクチンとみていい。インフルエンザのワクチンも打ったことは無い。効果とリスクを考えると接種するほどのことは無いと考えている。流行した時期にコロナ対策と同じように気をつければ何とかなっている。

 何故インフルエンザワクチンは打たないかと言えば、弱毒株ワクチンは交差免疫が出来にくいうえに、それなりのリスクがあると考えている。インフルエンザはその年その年で流行するウイルスが違います。少しでも違えば、ワクチン効果がほとんど無くなる。ぴったりと流行に適合した年は無いほどだ。

 それくらいならば、ともかくインフルエンザが流行してきたら、気をつけた方がましだ。その結果インフルエンザにかかった経験がない。もちろん発病はしないでも感染経験が無いとは言えない。年齢のこともあるので、新しい形のワクチンが出来たら、考えようかと思う。

 インフルエンザのワクチンは平気で打つ人が多いいのに、コロナワクチンには特別な過敏反応が起きている。何か、世の中の不安を煽ってほくそ笑むような人が居る。ワクチンを人間に打たせているのは宇宙人の陰謀だというような人まで居る世の中だ。

 今回のファイザー製のワクチンは格段に安全性が高いと見ていい。実際に深刻な副反応が起きた人は万百万人に1人と言うくらいです。石垣島の規模ではまず副反応じたいがひとつも無くて普通。沖縄県全体で一人ぐらいでは無いだろうか。

 しかも副反応が出たからと行って、それほどの心配もない。特に年寄に副反応が出た事例がほとんど無い。副反応が心配でワクチン注射をためらう人が居たら、勇気を振り絞って打った方が良いと思う。打たない人の自由というのもあるのだろうが、医療機関の負担や、正常な社会に戻ることを考えるとできる限り打って貰いたいものだ。コロナに感染して、死んでしまう人の確率の方がはるかにはるかに高いのははっきりしている。

 しかも、ワクチンを打てば心が軽くなる。2回目を打ってばもうほとんど感染しないと考えても大丈夫。今までに185万人 のうち24人が2回目の接種後にも感染が確認されている。つまり、過去に無いほど有効性の高いワクチンである。

 人と会うことも出来る。ファミマでコーヒーも買える。まだレストランで食べる気にまではならないが。もちろん副反応と同じで、コロナ感染が無いとまでは言えないが、やはり何十万人に人一人というような低い確率になる。感染した特殊な事例が、報道される。するとそれだけが注目されることになるが、実際は滅多に無いことだ。

 その結果、2回ワクチンを接種した人はかなり安全な人と見なして大丈夫。お年寄りの家族などにも接することが出来るようになる。何事も確立、天が落ちてくることだって無いとは言えないわけだ。滅多に無いことは私には降りかからないと決めている。

 だから宝くじは買わないし、ギャンブルもやらまお。幸運も無い代わりに不運も無いと考えている。当たり前のことしか無い。アレルギー体質で無いと言うこともあり、持病もない、健康には自信がある。それで、ワクチンで副反応など考えられない。

 ファイザー社製のコロナワクチンは全く新しい方式の、副反応の起きにくいワクチンでは無いかと考えている。ウイルスを使わない方式で、これからのワクチンの主流になると言われている方式。

 ハンガリー人の女性の研究者が見つけた方式で、ノーベル賞確実と言われている。この方式は随分前に出来ていたらしいが、その価値がなかなか認められず、学者としては不遇だった。その技術を製薬会社が買い取って作られたワクチン。

 ファイザー社製ワクチンは、遺伝物質のメッセンジャーRNAを使っていて、メッセンジャーRNAワクチン、もしくは頭文字をとって「mRNAワクチン」と呼ばれています。
 新型コロナウイルスが細胞に感染するときの足がかりとなるスパイクたんぱく質を作るための遺伝情報を含む物質、「mRNA」を投与する仕組みです。
 「mRNA」はいわば設計図のようなもので、体内の細胞によってスパイクたんぱく質が作られ、その後、免疫の仕組みが働き、ウイルスを攻撃する抗体を作るよう促します。
 実際のウイルスは使っておらず、ワクチンを接種することで新型コロナウイルスに感染することはありません。ーーーNHKニュース
 
 
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