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水彩画のサインについて

2016-04-30 04:04:08 | 水彩画

絵を描くと誰が描いたかの印として、サインを入れるのが普通である。学生の頃から何の考えもなく、そういうものだろうと---SASAMURA---と入れていた。その後---IZURU---に変えた。SASAMURAが長すぎるので、IZURUくらいの方が納まりが良いかと考えた。油絵を描いていた間はそれでもよかった。ところが水彩画を多く描くようになりローマ字のサインが絵に合わなくなった。どちらかと言えば日本画のような絵になっているのに、ローマ字では違和感がある。それで漢字に変えることにした。変えてはみたものの、笹村出と入れたのではこれがなんとなく、不自然な感じになった。何気ないしるしとして入り込んでほしかった。そこで、出という漢字だけでしばらく入れていた。ところがこの漢字でも重い。読めるという事が合わない。読めることで意味が出てくる。そこでいろいろ考え工夫して、三角形をふたつ重ねた出という字にした。出をそういう字体で描く先例があるのかどうか知らないが、三角の2段重ねは絵に納まる気がした。

これは筆で書いてみたものだが、上が開かないきれいな3角の時もある。微妙に言えば、上の三角の方が平べったくて、下の三角の方がとがっている。このサインにしてから落ち着いた。きっともう変えないことだろう。変えることはないだろうが、表面には書かないことになるかどうかである。今度このサインで焼き印を作りたいと、見積もりを取ってみた。なぜなら木鼓の楽器も作っているが、そこにもサインを入れた方が良いと考えるようになった。楽器もやはり作品だから作った印はいると思ったのだ。サインを入れるという事は、それなりの責任を示すという事になるし。自分という人間の存在証明ともいえるかもしれない。問い合わせたら字体を決めるから写真で送ってくれと言われて急遽書いて送った写真である。急いでいたので少し慌てたが、良いも悪いもサインだからあるわけではない。自分であればいい。自分が描いたのだからどんな字あっても、自分以外にはならないような気もする。3センチ角で価格は、印刻だけで12800円と返事があった。それ以外に数千円かかるようだ。悩んでいるが、頼みたい。

サインというものはそもそもいらないものだろう。アルタミラの壁画にサインはない。サインを見えるように書く、描くという事はどうなのだろう。サインを入れたことで絵が終わるという儀式のようなものでもあり、入れてバランスとして絵が落ち着くという事もある。中国画では賛とか、画讃とかいうものがある。書画一致ということで、詩の一節のような言葉と共に名前を絵の中に入れる。字は読めるものだから、絵をかなり変える。場合によっては後から見た人、あるいは所有者が自分の名前を加えたりする。ひどいものでは名前が並んで絵が良く見えないものまである。しかし、そこに皇帝の名前があったりして絵の価値が出たりする。影響が禅画にある。絵とは言えない。字ともいえない、妙な思わせぶりが起きて、たいていの場合は嫌味なものだ。武者小路実篤のものが良く見られた。しかし、中川一政氏の顔彩画には絵の中に詩が描かれていて、わざとらしくないいいものがある。真鶴で何点か素晴らしいものを見た。絵が良いとか、字が良いとかいう事を超えて、人間が素のままですごいという事でなければ、こういう絵は描けない。

サインに迷い、引っかかるようなところに、私の限界のようなものがあるのだろう。黙ってSASAMURAと入れていられなくなるところに、嫌味がある。さらに笹村出で納得いかなかった感覚に、嫌味がある。人目というものをどうでもいいと思いながら、誰かの目を忘れ切れないような、情けなさをサインという印が残している。昔、道玄坂にあった画廊で絵を売ってくれていた。加納さんという方で美人女優のような美女だった。美女だから絵が売れたのかもしれないというような方だった。画廊を止められて秋田に帰った。その画廊で飾られていた絵のサインをもう少し格好良く入れてくれという要求があった。そうしたら買うというのだ。すらすらとフランス人のようにというのだ。少しサインを変えた。確かに、わずかに売れるようになった。サインというのは販売のために必要なのかとその時に気付いた。

 

 

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松本文明内閣府副大臣

2016-04-29 04:06:49 | Peace Cafe

日本列島は災害列島である。地震の活発期に入ったと考えるべきだ。災害対応の専門家のチームを作ることだ。自衛隊を災害救助隊に変えるべきだ。テレビに出た子供が兵隊さんに感謝しますと感想を述べていた。これは間違ったことになるかもしれない。松本文明衆議院議員の批判が噴出している。私の高校の一年先輩の人だ。実はそれなりに親しかった人だ。私のことを覚えている可能性はある位の関係である。成績が良いというほどではないのに、生徒会長になった。世田谷学園では成績が良い人が生徒会長になる慣例のようなものがあった。成績は全国模擬試験結果のようなものが張り出されていたから、優秀者はわかる。そこに名前が載るような人が生徒会長になる。松本文明氏はそういう慣例を破って生徒会長になった人だ。都会議員になり、落選もしたが衆議院議員になる。高校の陸上部に松本氏は先輩として顔を出したことがあったから、知り合いになったような気がする。たぶん、生徒会長になる根回しだった。偉くなりたいとか、目立ちたいとかいう人ではないかと当時から思っていた。

人間には名誉欲のようなものがとても強い人がいる。そいう人が困るのは他の人も同じだろうと考え行動するところだ。その結果、すべての人が名誉の権威のようなものに従うと考えてしまうところだ。それで熊本で偉そうにしてしまった気がする。生徒会長は偉いと考えることがそもそも、理解しにくかった。誰もが生徒会長を尊敬しなければならないと考えるような人だった。その前の生徒会長は、桜井英光さんというお寺の方で、子供ながらに立派な人だと思った。先日お会いできたのだが昔のままの正々堂々とされた方だった。松本氏も先輩だから悪く言いたくはないので、このブログでも触れないできたのだが、さすがに今度のおにぎり要求副大臣では、評判の悪さが噴出したので、つい書いておく必要を感じた。災害本部長がで現地で嫌われ邪魔になったのではどうにもこうにもならない。

話が長くて迷惑をかけたらしいが、ホームページの冒頭に、その点を示す面白文章がある。「おそらく誰も知らないですよ。皆さん知らなかったでしょ?そういう話を。松本さんには自分が何をやったかという話を、しないという、問題点があるのですよ。」BY安倍晋三という文章が掲げてある。自分のホームページの冒頭にこの文章は何だろうか。恥ずかしくないのだろうか。気付かないところがこの人の特徴。当人は控えめで謙虚な人と思われるだろうと載せたのだろうけど、どう考えても、遠回しのこの自慢の仕方に、この人の本質が良く出ている。自分は自慢などしない人間だが、皆さんが褒めてくれるのでという趣向である。この人を早く変えた方が良いと考えた、官邸の判断が素早過ぎるほどだ。災害の現地の本部長は、組織をまとめるリーダーでなければならない。全体の流れを把握し、組織としての最善の動きを作り出す役目であろう。今回、なぜか激震災害指定が遅れた。現地の自治体から即座に指定してほしいという要求がありながら、何故か安倍氏が現地視察し、その後に指定するというやり方だった。安倍氏の主役としての役割を目立たそうとしたのか。

現地の自治体もあまりよく動いていない様子が見える。ごみが片付けられないでいる。道路のことや、焼却場のこともあるが、何かが機能していないと見た方が良いだろう。自動車に寝泊まりする人が増加した。そして、エコノミー症候群が多発する結果になった。また、心の問題も大きなウエートを占めている。現代人がプライバシーのない形で、又障碍者や小さな子供を含めた避難は困難を極めるだろう。ボランティアの受け入れも、混乱しているようだ。従来の学校や体育館避難は1週間ぐらいが限度ではないか。1週の間に、近隣の空き部屋を仮設住宅として使うなど、機敏の動きが必要ではないか。災害は全く予測できない形で起こる。政府から送られる本部長は、こういう緊急事態に対応能力のある人材を用意しておく必要があるようだ。選挙が良くない。知事や市長や内閣府の副大臣が震災対応に有能とは限らない。日本列島は災害列島である。地震の活発期に入ったと考えるべきだ。災害対応の専門家のチームを作ることだ。自衛隊を災害救助隊に改編するべきだ。

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菊池桃子さんのPTA自由加入発言

2016-04-28 04:25:18 | 暮らし

菊池桃子さん戸板女子大の客員教授が、PTAの自由加入を主張した。この発言は嫌われる可能性が高い。よくぞ微妙なことを発言してくれた。アベ人形もびっくりだろう。自治会自由加入論と同じだ。正論ではある。一部の人たちに共感を呼ぶだろうが、我慢してPTAを支えている人には腹立たしいことにちがいない。どちらかと言えば日本社会の保守層が我慢して支えている組織である。大半の人が我慢して、努力して、無理をして、こうした役目を引き受けている社会の現状。正論として自由加盟というけれど、じゃあPTAはどうなるの、という反感が湧いて来る。PTAも子供会に入らない家庭もある。子供が差別される恐れはないのか。自治会に入らないという事で、差別的な扱いになる事例はいくらでもある。お前がそういう非協力なら、きちっと見返りは付けてやるという反応である。

その昔、戸板女子大の美術部の指導というのを何度か頼まれて出かけたことがある。絵の仲間に羨まれたのだが、ササムラなら問題を起こすわけがないという事が理由だったので自慢にはならない。予想の通りうらやまれるようなことは何もなかった。菊池桃子さんが生徒だったという事もそのころ聞いて知っていた。その菊池さんがアベ政府の肝いりで、「1億総活躍国民会議」の委員になった。あまりいい気持ではなかった。選挙に出る準備位に見ていた。他の委員より発言が注目を浴びる。今回、PTA強制加入が一般化していることに異論を述べた。この発言は評価できる。PTAはアメリカが民主国日本の為に作った制度だ。全く根付かず形骸化した。精神としては学校というものは、学びたいという人間が作り、そこに教師を呼ぶというアメリカ初期の精神が残っている。そのためにPTAというものは教育に大きな影響を持っのが本来である。PTAの役割の見直しに進んでほしい。形式だけのものに強制加入は無意味だ。

アメリカが良かれと考え民主的にという事で、押し付けで作ったものは日本の伝統文化に当然そぐわない。まあ、残念ながら憲法にもそういう批判があるのは承知している。封建的社会の打破が目的だった。子供会、青年団、婦人会、生活改善クラブ、そして自治会。どれも70年が経過してゆがみが目立つ。少しづつ形骸化した70年の流れである。一度できたものを改善できない前例主義というものが、地域社会の特徴でないか。お上社会。出る杭を敲く社会。今回のPTA問題で言えば、子供を持つ母親が会社勤めをしていれば、到底PTA活動に参加できるわけがない。それでも強制的に役員が持ち回りだったりする。個人が自立している社会なら、自分の意見を明確にできるが、日本のように顔色社会では、互いの内心を慮って、自由な発言を出来ないようになる。何度か書いたが、自治会の強制加入問題と同じだろう。自治会に入った方が良いが、その負担が嫌だという人も居る。そこに第3の道がないと、窮屈な嫌な社会になるだけだ。

自治会でもPTAでもその役割をまず見直すべきだ。そして前例主義を一度取り払って、本当に必要な活動を再検討する。行政は自分たちの仕事を減らしたい一心で、市民参加を呼びかける。小田原市の市民参加には行政の役割が示されていない。市民の役割ばかり強調されている。行政は大したことができないという形を作ろうとしているように読める。私が市民委員だった時に、議会、行政、市民のそれぞれの役割を明確にするのが大前提で、その上で市民が行う範囲を示さなければならないという事を再三主張した。しかし、行政の役割については全く無視された。市民の役割の協調に市民が利用されたようなものだった。こうした形式の強調では何も変わらない。PTAに出ることができない。自治会に出ることができない。そうした人とがいたとしても、問題がない仕組みを模索すべきだ。

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ヒットラー登場のこと

2016-04-27 05:31:06 | Peace Cafe

ヨーロッパのテレビ番組ではヒットラーの登場について、深く良く分析をしたものが放映されている。日本のテレビで日本の軍国主義の登場の歴史がめったに放送されないことと対照的である。近現代史の充実度の違いがあるのかもしれない。深い反省があるかどうかが違いなのだろう。日本人は敗戦すら反省をしない。原発事故も反省をしない。忘れるのを待つだけである。先日見たBBCのものだったとおもうのだが、ヒットラーの登場と当時の経済の状況をだぶらせて分析していたものが、とても興味深かった。ヒットラーがワイマール憲法という当時の時代状況の中では、民主的な憲法の中で、選挙で選ばれる。しかし、世界的な経済恐慌の中で、ヒットラーの経済政策は当初失敗に終わり、ドイツ人全体をさらなる生活困窮に進んでゆく。そこでヒットラーは国民の目を敵の存在に向けさせ、経済の失敗を乗り切る意図で、ユダヤ人を差別を強化してゆく。ドイツ民族優生政策をとることになる。ユダヤ人を諸悪の根源として、生活困窮の不満のはけ口を作ろうとする。

しかし、ドイツ経済が好転する。これはドイツの経済政策が良かったからではなく、世界経済の好景気に救われるのだ。この分析がなかなか深かった。そこで、ヒットラーは軍備の強化を推進する。そして強大な軍事力を背景に、フランス領であったライン地域を奪還する。国威発揚の国境紛争である。ナンシーに留学していたので、ドイツ国境地域の空気は少し感じられる。領土を奪還したヒットラーに対して国民は熱狂し始める。ますます、野望を高め、世界制覇まで考えるようになる。経済の好不況が独裁政権を生むという姿。日本においても、アベ政権が支持をされているのは、不景気の不安からであろう。原発事故以来の不安感もある。さらなる不景気が来ては困るので、保守的なものにしがみ付きたい気分から、過去の成功体験に戻ろうとする。アメリカとの軍事同盟を強化し、TPPを結ぶ。TPPなど日本にとって何の良いものもないにもかかわらず、アメリカの軍事同盟にしがみ付く代償として、TPPを容認してしまう。

今、国境問題を深刻化させ、中国を仮想敵国にする姿は、ユダヤ人差別を開始したナチス政権と似たようなものを感じる。悪いのは中国だからという、外敵を作る事にアベ政権は必死である。この背景にあるものは日本の経済の苦境だ。結局のところ日本人のレベルに、日本のレベルに日本の経済は適合するだけなのだ。戦後ひたすら、わき目も降らず、必死に暮らしを立てようとしてきた状況は終わった。日本人と日本の経済的衰退による企業の苦境を、アベ政権は企業優遇政治で乗り切れると躍起となっている。国民も今のところそこに期待しているようだ。期待している割に、自分の暮らしが良くならない。それを個人の、農業で言えば国際競争力のない農業をしていてはだめだという事にされている。その為に国内には格差が拡大して、不満が広がり始めている。その不満を外敵に向けさせようとして、中国の覇権主義をことさら強調している。もちろん中国がまともだとは思わない。中国の国内は破たん寸前である。その破たんから逃れようと、独裁的政治が覆い始めている。

日中互いに問題を抱えている。結局のところ世界中で格差の拡大である。両国民の不満は徐々に高まっている。これを抑え込むには、日中両政府ともに敵を作る必要があるのだ。今こそ国内の格差を解消することに全力を挙げるべきだ。日本自身が安定することこそ、戦争回避の唯一の道である。それくらい危うい状況に日本は進み始めている。しかし、楽観かもしれないがアベ政権はそうした日本の保守の塊の最後のあがきとも見えてきた。中曽根氏や石原慎太郎世代のような、狂信的な日本主義信奉者は老齢化している。安倍人形に託されたものは、最後の叫びのようなものだ。その次の特に目立つ右翼層の女性議員などは、老人たちのお飾りのような泡のように軽く見える。旧勢力が消えれば、すぐに日本主義を捨てると見て置いて間違いがない。日本は敗戦から学ばなければならない。

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報道の自由

2016-04-26 04:13:32 | Peace Cafe

国連のデービッド・ケイ特別報告者(米国)が19日、暫定の調査結果を発表した。「日本の報道の独立性は重大な脅威に直面している」として、メディアの独立性保護や国民の知る権利促進のための対策を講じるよう政府に求めた。

日本の報道の自由が委縮していると、国連の特別報告者が調査結果を示した。たぶん多くの日本人がそれほどでもないと感じているような気がする。そして、国連は余計なことを、また言いやがってという感じの受け止め方が多そうな気がする。自由の制限は不自由と感じる人以外には感じられない。言ってみれば、産経新聞は全く自由に制限なく報道が出来ていると感じているだろう。政府の広報活動のような報道姿勢であれば、何の制限も不自由も感じていないはずだ。日本人の多数が政府の報道規制に、強い疑問を感じなくなって来ている気がしている。それは日本人がすでに萎縮をしている結果と思われる。団塊の世代までの日本人は敗戦後、全てを0からやり直すつもりで、挑戦的な心境で生きるほかなかった。しかし、一定の生活が安定した高度成長期以降、挑戦する心が失われ始めた。そこで起きた格差と貧困の社会。自分の状況を守ろうという意識になって不思議はない。目標を何か未知へ挑戦するという姿勢を持ちえない。長い物には巻かれよ。他人のことどころではない心境で生きている。

次に起こることは、ネットの制限ではなかろうか。テレビ報道はすでに顔色報道になった。あまり本当のことを言わないのが当たり前。ネットにもテレビが登場して、そこでの情報に期待するものが増えるはずだ。特に反政府的な情報はネットには溢れている。そこで何らかの方法で、ネットでの制限が始まる気がする。それも見える形ではなく、自粛させるやり方である。そんなことをしていると、社会で損な扱いを受ける可能性があると意識させる。まずは政府としては、ネット情報を収集しているところだろう。ビックデーターとかいうやり方かもしれない。テロリストの摘発という理由かもしれない。注意人物一覧のようなものを作る。そして、特定された注意人物には圧力がかかるように、次なる手段が講じられるだろう。その圧力は、見えない形である。ヘイトスピーチやネトウヨを制限するという名目で、情報収集から圧力へ進むいう事になりそうだ。そして、暗にあなたは監視対象です。子供の就職には影響しますよというような雰囲気による圧力。多分そういう見えない陰湿なやり方が行われる気がする。

もうそんなややこしいことにはかかわりたくない。どうでもいいと言うことだろう。保守的気分の蔓延。どのように個人の小さな既得権を守ってゆくか。どうやって自分が上層階層に割り込んでゆくかが、最近の日本人の主目的になっているように見える。だから、私への批判も、上層階層に割り込めなかった僻みという判断されることが多いい。報道は批判精神を失い、問題意識を持てなくなっている。今あるものをぶち壊して、次なるものを作ろうというような、革命的な精神は失われつつある。こういう社会になれば必然のことかもしれない。守りに入った人間は権力を畏れる。問題意識のない報道など、百害あって一利なしである。たぶん国連の心配するように、政府が弾圧をするから報道の自由が阻害されているというのではなく、日本らしく真綿で首を絞められているのだ。報道自身の用心深さが、問題意識のような厄介なものに、気付かぬ世界が広がり始めている。こんな分析は被害妄想だと考えられればいいのだが、怪しい状況が広がっている。

 

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アベ政治、終わりの始まり

2016-04-25 04:17:24 | Peace Cafe

アベ政治によって安保法案が強化された。戦争は遠ざかったというより、一層近づいたように感ずる。それはアベ政治の害悪と言ってもいいものだろう。いつか日本でもテロが起こりそうな予感を消せないでいる。そして、北朝鮮が崩壊し、混乱し、もしかしたら原爆が日本に飛んでくるのではないかという不安も消せないでいる。世界情勢の緊迫度が進んでいるという認識の点では、安倍政治を動かしている人と私は変わらないようだ。しかし、中国との関係を悪化させ、イスラム国との緊張を高めた責任はアベ政権にかなりある。アベ政治は、日米同盟を強化し、日本の自衛隊が海外のどこででも、アメリカと一緒に戦闘のできるようにした。これで日本の安全が確保できるという、馬鹿げた判断に基づいている。むしろアメリカとつるんでいるとみられることは、日本の危険が増すだけだろうと考えている。日本は米軍にただ乗りしていると言われたとしても、お金を払ってアメリカの船に乗船するのは、戦争へ向かう船に乗船したように感じられて仕方がない。

日本はアメリカの船から降りた方が、まだましのように思えるのだ。アメリカも世界の警察をつづける力はないのだから、アメリカ一国主義で行こう、という意見が強まっている。アメリカの傘の下をただでは貸さないぞ、という考えだ。どうぞ、日本や韓国には、自分で核兵器という傘を作ってください。とまで言っている。基地を自由に使わせるぐらい条件は受け入れろとの主張も強い。そのアベ政権の見返り方法が、アメリカ軍の基地の撤退を表向きで行い、空白地域の自衛隊基地強化の主張を始めた。安保法案による同盟強化である。自衛隊基地を同盟国としてご自由にお使いくださいという事になる。北朝鮮にも核兵器所有を許そうという事なのだろうか。こんなことで世界平和が来る訳がない。核兵器を拡散しない方が、まだ平和は保たれるというのは、世界の共通認識ではなかったのか。このくらいアメリカは揺れている。こんな船に乗り込んで大丈夫な訳がない。

イスラム国や、北朝鮮はまともな常識が通ずる相手ではない。イスラム国の暴虐は過去の歴史をたどっても最悪の国家に匹敵するほど、ひどい狂人国家である。こんな国に恨まれたら、何をされるかわからない。出来るだけ遠かり自滅を待つ以外にない。北朝鮮の危険は、崩壊の瀬戸際という事にある。周辺の重要人物の粛清という姿から想像されるものは、キム大将は政権内の不安定要素におびえる日々であろう。いつ何かよからぬことが起きる可能性は、常に抱えている。その時、その日に何が起こるかである。殺されるよりは、日本に向けて原爆を発射した方がましだと考える人間が現れるかもしれない。イスラム国にしろ、北朝鮮にしろ、日本がアメリカとの軍事同盟は、敵対する心情を盛り上げるだけであろう。軍事力による抑止力の軽重など、破滅を進んでいる人間に意味がないという事だ。いつでたらめの行為に出るかだけである。

それではどうすれば日本の安全が確保できるかである。国際社会での安全というものには絶対はない。すべてどちらがより安全かという程度である。北朝鮮と対話を開始することだ。そして普通の国に近づけることしかない。そして世界中の格差をなくす努力をすることを地道に行う事だ。少なくとも日本がその努力を止めれば、世界は一気に次の世界大戦に向かう可能性が高まる。日本国憲法の理想主義から発露した平和精神以外に、世界が戦争を回避できる道はない。この信念を堅持することだ。これほど高い理想を掲げた国は日本以外にはないと言える。そしてこの平和主義を高く掲げることによって、日本の安全は一定確保される。もちろんそうはいっても、この安全の道も絶対のものではないとは思う。それでも確かなことは、軍事力で対抗する安全よりは少しマシだと思う。アベ政治の仮想敵国中国政策に幻惑されてはならない。

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稲の播種

2016-04-24 04:27:42 | 稲作

機械小屋で播種をしているところ。手前が覆土する場所。左下に種籾が広げてある。右側の窓の外で、土を詰めて窓から搬入をしている。

4月23日播種を行った。24日朝7時の入水口での水温は14,6度外気温が16,5度。入水する場合は午後に行いたい。籾洗いの3月21日から1か月が経過した。この間例年にない久野川の水温の上昇で、種もみは2週早く、鳩胸状態になった。このままではよくないので、そこで冷蔵庫に引き上げて、8度から9度くらいで保存した。種籾は播種に適当な状態で維持できた。来年は川に浸けるのを4月の初めにしないとならないだろう。苗土は1反分で土嚢袋10袋準備してある。山土に糠を混ぜて、良く発酵させて、2度攪拌し8ミリの土振るいを行ったものである。燻炭を30%くらい混ぜた。苗床は1週前に代掻きをして3日間水を貯めて、そのあとは水を止めてあった。雨もあったが、23日にはほぼ水を引いたという状態。土のひび割れはない。

セルトレーに苗土を混ぜているところ。窓から機械小屋内部に送り込んでいる。セルトレーがずいぶん壊れていた。100枚でも壊れたものを多数使用した。

播種は今年は3種類である。従来通りのセルトレーによる播種が100枚。例年200枚だった。苗箱が50枚。昨年は20枚だった。そして3分の一の4キロが直播。2人が土入れを担当した。種まきは10名。

外で苗箱への播種の様子。50枚並べて同じようになるように蒔く予定だったが、おおよそになった。90グラムから80グラム蒔きのつもり。

きっちりと並べて、右側の短い列の直播も終わり、穴あきビニールで覆ったところ。残ったレンゲがきれいであった。苗箱、セルトレーは苗代にめり込むようにしっかりと押して密着させる。下に空洞ができると根がそこで止まる。土が乾いて発芽しない場合もある。出来る限り全体が水平になるように置く。

水管理は、最初の1週間の発芽するまでは特に水やり程度で水没をさせない。水没すると種が腐る。芽が出てきたら徐々に水位を上げてゆく予定。

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三菱自動車の不正

2016-04-23 04:15:59 | Peace Cafe

三菱自動車では、燃費の数値を不正に低く届け出て、エコカーとして販売していた。あのパジェロまで不正燃費表示だったそうだ。ホルクスワーゲン社と同じ不正を行っていた。人を笑っていた日本の企業も同じことをしていたのだ。日立不正経理、化血研の許可外の製造方法。東芝不正経理、旭化成建材杭打ち偽装、雪印や日本ハムや伊藤ハムでの牛肉偽装、東洋ゴムの免震偽装、タカタのエアーバック問題、思い出すだけでも日本の大企業がぞろぞろとおかしい。もう日本の一部は腐り始めていると言わざる得ない。金もうけの為には手段を択ばずという事が始まっている。始まったというか、増大してバレるようになったのかもしれない。どうも、大企業の悪事が露見する都度、外部委員会による調査となる。分析の結果再発が防止できるかというと、その兆しもない。自浄作用が働かない状況。金もうけと不正行為の境目などないという気がする。

はっきりと不正がわかるものだけで、これだけあるのだから、その背景にはグレーゾーンが相当に広がっているに違いない。行きすぎる金儲け主義なのだろう。ワタミの渡辺社長がブラック企業裁判でついに、非を認めて謝罪し和解した。しかし渡辺氏はなんで悪かったのかは、本当の所では理解はしていないと思う。ラジオで5年先の自分を語ろうというような、健全番組をやっている。悪いことを言っているわけではない。前向きに、5年先の目標を掲げて、努力しようというようなことだ。少し、思い込みが強いとは思うが、成功者が、自分の成功したやり方を他の人にも伝えたいという事は、よく分かる。私は自給生活が子供の頃からの夢だった。その夢を実現できたから、そのやり方を残しておきたい、人に伝えたいという気持ちになっている。自分が始めるときには、何の参考書もなく、全くの手探りだったからだ。それは自然養鶏を書いた時も同じ気持ちだった。

問題は企業という資本の原理の枠の中で、社長が社員に対して、5年後の未来に向かい、がむしゃらに努力しろという事になると、社員の中には過労死で倒れる者も出てくるという事になり、それはブラック企業という事になるのだろう。これが自分の養鶏場で養鶏をやっている以上、過労で倒れて死のうが自業自得で終わる。誰を責めることもない。自ら過労死に至らなければできないような目標を立てたことが間違いだったのだろう。企業においては、社員の頑張りというものが、企業の利益になる。だから、社員の一定の労働条件という枠内で頑張れということ以上は、社長は主張してはならないという事になる。しかし、能力もあり頑張る社員が出世するのだろう。出世したいというのは、会社員であれば多数派の希望であろう。となると黙っていても、業績を上げ、認められようと頑張る。その結果不正が行われる。

三菱にも車の燃費を向上させたという事で、ボーナスをもらい、出世した社員がいたはずである。企業が国際競争に負けてはならないという事もある。正しいことだけやっていて、競争に負ければ元も子もないという意識もあるかもしれない。少なくともぎりぎりのことまではやるだろう。ぎりぎりが、つい限界を超えても分からない人間になる。せめて、フォルクスワーゲンの不正が騒がれたときに、告白すべきだった。まだごまかしとおせると思っていたのだろう。今もごまかしていることが、日本の企業には山ほどありそうな気がする。大企業に勤務するような、優秀な日本人こそが、そんな人間が増えてきている。つまりそういう競争を要領よく勝ち抜く人間が、負けそうになった時には、不正行為も選択肢に入るのだろう。そういう能力競争が日本の企業風土になってきているようだ。これが国際競争力の裏側に横たわっている。負けてもいいじゃん。だめでもいいじゃん。これが自給生活の精神である。

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TPP後の稲作

2016-04-22 04:05:21 | 稲作

政府はTPPによってお米の価格には影響が起きないとしている。これは根拠のない宣伝である。農業は100年先を見据えて行うものである。関税もいつかは撤廃される。米の価格はたぶん今の半分まで下がる。政府は攻めの農業、国際競争力のある農産物という事を主張しているが、これが間違っている。農業は自国の食糧自給を行うことが主目的である。農業は自然条件と労働単価に大きな左右される分野である。日本国内においても、条件有利地区と不利地区が存在する。稲作は価格保証をして、田んぼを継続してもらう道を選ぶか。田んぼがなくなっても仕方がないかを、論議すべき時に来ている。いつまでもTPPを進めたいがために、稲作に関する正確な展望を考えようとしないのは、卑劣な政治と言わざる得ない。日本では可能性は低いが、大規模化、高品質化、外国人労働者の雇用。そういう条件の下であれば、競争して行ける所もあるのかもしれない。しかし、神奈川県の稲作は間違いなく国際競争力はない。

稲作は食糧自給という国の政策の根幹である。一つの商売が上手く行くかどうかとは重みが違う、国の未来がかかっているのだ。大半の稲作農家は私と同じ不安を持っている。やっているがために見えない未来というのもあるから、政府の予想を悪質宣伝呼ばわりだけではだめなので、この点を考えてみる。大規模化すれば国際競争力があると思われる田んぼがあるならばその具体的な地域を確定する必要があるだろう。八郎潟であるとか、北海道の道東地区であるとか。そして軌道に乗せるための具体的な分析をする必要がある。今の半値でも稲作がどのようにすれば可能になるかである。現状では極めて手のかかる、小さな田んぼで行われているような付加価値のあるお米の方が輸出されている。魚沼産コシヒカリが高値でも売れるという話とは別のことだ。大規模農業のお米もそれに続けというのは筋違いである。この辺の生産方法の整理のないまま、国際競争力を主張したところで、矛盾が広がるだけになる。

一方に価格が存在しない稲作というものも存在している。特殊例なのであろうが、その地域のお酒を造るための酒米など、生産コストが割高で有っても、お酒の希少価値からして構わないという事はある。与那国島の焼酎に与那国のお米で作ったという事を信条にしているものがあった。コウノトリやトキの保存のための田んぼもあるだろう。洪水が頻発する場所で、遊水地としての田んぼ等災害対策としての田んぼもある。観光価値のある景観としての棚田も全国に点在する。市民が自給のために行う田んぼというものも一つの形であろう。教育としての学校田なども同じである。参加することが対価を必要とする労働ではない。ある意味こうした特殊な田んぼに対して位置づけをが必要である。田んぼは点在しては存在しにくいものだ。一定の規模でまとまっている必要もある。

いつまでも関税障壁で稲作を守ることは不可能になる。そして、今普通とされる稲作は大半が辞めざる得ないだろう。そして生き残る稲作は2分化するという事は、やはり考えて置いて間違いない。条件不利地域では、特殊な付加価値で生き残る稲作がある。稲作大規模化可能地域では、企業的な稲作という事になる。言い方を変えれば、伝統稲作と企業稲作の両極だけが残る。この2つの枠に基づいて、税金や農地法を変えてゆく必要がある。大規模化を推進するための法改正。企業の稲作参入を促す必要がある。そして一方で農家以外の人にも農地を利用できる地域を決めるべきだ。同じ枠の中で議論しても良い結論は出ない。現状では農地を使える農家に成る為には、一定の条件が必要になっている。農地を守ることを使命とした世代が消える。販売目的でない者が農地を使うのでなければ、確実に田んぼ自体が失われる地域が増加していく。議論を整理して、未来の日本稲作を考える時だ。

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桜咲くの花便り

2016-04-21 04:58:42 | 暮らし

久野川沿いの桜

東京の桜が咲いたというので、気象庁の担当官がお待たせしました「開花です。」と嬉しそうだった。あまのじゃくの私でもうれしくなる。舟原でも、一寸木さんの所のシデコブシが満開である。このシデコブシはちょっとないという大木である。植木屋さんのまごのりさんもなかなかと言われていた位のりっぱな木だ。うちのシデコブシも遅れて満開である。早い桜は舟原でも満開で咲いている。うちの桜は今年は思い切って枝を下したので、花は少しだけになった。見事なのは夏ミカンである。立派な大木に満作に実っている。もうどの家でも花見が家の庭で出来るほど見事だ。梅、アンズ、桃と順番に咲いた。これこそ里地里山に暮らす嬉しさである。山でも芽吹きが始まった。日ごとに山の色が変わってゆく。春は山の色で分かる。春色の風に乗って新緑が始まる。良い季節である。今年は雨も多く、川もたっぷりと流れている。家の湧き水も途切れことなく豊かだ。

庭では桃が咲いている。昨年は一つも食べれなかった。病気が出た。花がそれなりに良いので、実の方は我慢。三つ葉つつじが咲いた。つつじの中で一番好きだ。花が良いというより葉や木の姿、がいい。明星岳の登山道には三つ葉つつじを植えた。昔は山中にあったのだそうだ。しかし花が咲くと目立つものですべてが取りつくされてしまった。そこで山に少しでも返そうとしているのだが、その上たものが掘り起こされたりしている。それでも根付いて残っているものもある。もう少ししたら登ってみたい。シャクナゲも丁度咲き始めた。田んぼにあったものを移植した。あれ以来シャクナゲの花が咲くと、私に久野に来ることを進めてくれた小林さんのことを思い出す。馬酔木も見事に咲いている。頭が刈れている木なのだが、枯れた姿が悪くないのでそのまま、にしている。この木も箱根にはたくさんある。

桜は満開が長かった。10日でも花見が出来る状態なので、例年よりだいぶ遅い。それにしても、何処に行ってもソメイヨシノである。この一辺倒は頂けない。桜は山桜が緑の中にひっそりと咲いているのが一番美しい。ソメイヨシノの美しさが格別であるのがわかるが、それだけではつまらない。今年は初めて盛岡のお城の桜を見た。盛岡の兄の所に用事があってのついでである。

                                                                                         

 

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苗代づくり2

2016-04-20 04:04:40 | 稲作

苗代の準備をしている。昨年からの流れを確認しておくと、秋にソバカスを撒いてから耕す。そしてレンゲを蒔いて、その上から藁を敷き詰める。そして、苗床の予定の場所には、春になって、鶏小屋の床を4袋撒く。予定通り進んでいる。まず、苗代になる場所の草刈りを行う。9日1時間ぐらいで草刈りは完了した。むしろ周辺の路の草刈りの方が手間取った。草は1週間枯らしておいて、16日の朝から漉き込んで耕す。苗床では生草の漉き込みは避けたい。

丁寧に3回耕してから、水を入れる。水が溜まるまで、10時から1時まで3時間くらいかかった。その間に水路の掃除や、水の取り入れ口の直しを行った。

昼から、水が充分に貯まった後代掻きを行う。まず畔際を代掻きして、畔塗をしてもらう。これでほぼ水漏れがなくなる。その間に、他の部分の代掻きを3回丁寧に行う。そしてトンボで平らに治す。出来るだけ平らにしないと、苗代は失敗をする。丁寧に代掻きをして土をとろとろにしておくと、苗取りが楽にできる。間の残っている島は耕してない部分で、現在レンゲが咲き、なかなか見事な景観になっている。やはり、見た目はレンゲが一番良いようだ。レンゲを残してあるのは、レンゲが結実して来年再生してくれることの期待と、苗代で歩けるようにするためである。ビニールトンネルの直しや、苗の観察のためには苗代の中に入りたい。苗取りの時も少しは楽になればと考えている。

今年は、セルトレー撒き100枚、苗箱蒔き50枚、直播を残る面積。と苗量として3分の1づつ行いたい。もち米は発芽が速く、今年はすでに発芽が始まり、冷蔵庫保存になっているので、直播部分にはもち米喜寿糯2キロはすべて蒔くつもりだ。サトジマンも2キロは蒔きたい。それで3分の1の4キロになる。4キロがセルトレー。苗箱が4キロで、ひと箱80グラム撒き位になる。50枚の土を入れた苗箱を並べ、種もみを均等に播種する。その後覆土する。セルトレーは4キロで100枚になると思うが、蒔けるだけの枚数でいいかと思う。今年の苗作りはこの3種類の苗の作り方のうちどれが良いかを、再点検するつもりだ。

 

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消費税賛成論

2016-04-19 04:48:39 | Peace Cafe

最近消費税の再値上げを、アベ政権が取り下げそうだと言われている。しかもそれをネタにして、衆参同時選挙を画策している。それが有利だからだそうだ。私は以前から消費税賛成である。珍しくアベ氏と一致していたのに残念なことだ。但し、私の消費税賛成には2つ条件がある。TPPに於いても死守すると言っていたお米には消費税を無くすことである。そして法人税を元に戻すことである。お米を守ることは、日本が瑞穂の国であるという国柄を守ることだ。私はお米を購入しているわけではない。販売もしていない。お米を自給して暮らしている。よって消費税とは関係しないが、日本の社会が国柄を守ってゆく為には、何が何でも田んぼが必要と考えている。日本の水土は田んぼという仕組みで作り上げられてきた。この災害列島に暮らすためには田んぼは不可欠なものだ。日本人という属性も田んぼによって生まれた。田んぼにかかわることで、日本人である何かを育むことができる。観察力や忍耐力、仕事や地域の共同の意味。義務教育にも田んぼ科を入れた方が良いと思っているくらいだ。

税金の徴収法は多様であることが、公平につながる。例えば明治初期は酒税というものが中心だったらしい。酒飲みの税金が日本を支える構造であれば、下戸は得をする。消費税であれば、泥棒さんも治めるだろう。所得税、法人税と、ありとあらゆる方法で多種多様に徴税した方が抜けがなくなる。それほど日本の財政は借金まみれである。不健全この上ない。しかも改善するどころか、年々悪化している。借金がここまで多くなれば増税以外にない。国が破たんする前に何とかするのは当たり前のことだ。そこで集め方は公平でなければならない。その一つが消費税である。使わなければ税金を取られないという選択も、悪いことばかりでない。その為には、生活の最低限を保護する意味で、お米を無税にする必要がある。食料品全般を8%にとどめる手法など、複雑化するばかりである。シンプルにお米は無税の方がわかりやすい。

同時に法人税を元に戻す。法人にも等しく東日本大震災の特別税を払わせる。法人を優遇しなければ、海外に出てゆくという政府の説明は嘘である。そして出てゆきたいものは出て行けばいい。納税の義務は活動地に起こるものだ。日本という国は日本人が協力し合って作り上げなければならない。企業の利益のためには、日本を利用だけしようというような企業は日本に不要である。アベ政権は既得権益層を支持母体としている。その為に格差がこれほど拡大していても、法人税を下げる。法人税を下げて企業活動に余裕が出来れば、給与が上がるという循環を主張する。給与が上がれば消費も増える。そして日本の景気が良くなるというへ理屈を述べる。法人税を下げて恩恵を受けるのはもうかっている、大企業である。日本を支えている中小の企業には、恩恵が小さい。しかも税を下げた分が、従業員の給与になり、従業員が消費を増大させるという、仮定の循環は起こらなかった。

これほど未来に不安を抱えた状況で、無駄な消費をするような消費者は居ない。ローン金利が下がったとしても、ローンの借り換えは起こるだろうが、住宅の新築が増えるようなことはない。人手不足と言われている。しかし、非正規雇用が増えているのが実態。企業も先行きの見通しが立たないので、正規雇用を増やすことには不安を感じているのだろう。私の消費税で期待しているのは消費の縮小である。その点、政府の考えとは正反対のものだ。消費者から自給者に代わることだ。少なくとも自給を志す者への恩恵だと考えている。自給して暮すことを、国が奨励するという、思わぬ結果になるのが、消費税ではないかと期待している。少なくとも消費を控える動機になるのではないだろうか。江戸時代のように節約し、つつましく暮らすという事を美徳とする社会を目指す意味でも消費税は悪くない。子供の頃トランプのカードには特別な税金がかかっている、博打税というものだと教えられた。それが消費税と引き換えに無くなったのは、何か博打国家らしい選択である。

 

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土砂災害危険個所公表せず

2016-04-18 04:27:11 | 地域

新潟県加茂市では土砂災害危険個所が1年間公表していない。新潟県の調査内容について、地元加茂市が納得しないために公表が出来ないでいる。報道はその内容を確かめず、公表を抑えている加茂市を悪者扱いである。とんでもないことだ。この土砂災害危険地区の調査の実態を知れば、当然待ったをかけなければならない。何故調査報道をしないのだろう。神奈川県の調査の実態から言えば、県の職員の目視で間違った判断がされている。県の職員と言っても土砂災害の専門家という訳でもない。話を聞いていても専門的知識も全く不十分である。私は4回県土木の職員と土砂災害危険地区について話しを聞いている。例えば、舟原地区と同様の事例で、実際に土砂災害が起きた事例を教えてほしいとお願いした。3か月待った回答が、何と分からないという事だった。久野川上流部の雨量計の位置ですら、箱根という事で。私が指摘するまで何年も間違ったままだった。調査の実態を知れば、誰でも驚くような杜撰なところがある。

土砂災害危険個所の指定は実際に土砂災害が起きた時、指定がないと報道から批判を浴びるので、ともかく適当に指定をしておけという事が主目的になっているのではないか。指定の内容を問いただすと、基準は国が決めたものということで内容までは示さない。土砂災害が起こるだろう沢などの起こる扇頂部から角度2度という事になっている。これが傾斜角度を勘案しないために、全く実態を反映をしないのになる。地図上でそうしたところを探して指定している。その為に、どう間違っても土石流が流れ落ちるはずもない所にまで指定をしている。沢の深さを無視する理由については何度聞いても分からなかった。つまり流れ落ちる沢の深さと上流から流れ落ちるだろう土石流の量からして、私の家の高さまでどうして土石流が来るのかがわからない。私の家が、がけ崩れのほうの危険個所ではなかろうかと考えている、ところがこちらはそうではないというのだ。これもまた分からない。細かく問いただすと、分からないという回答である。土砂災害、がけ崩れの実態を反映していない。

加茂市は立派な対応である。住民に知らせる前に、県に任せるのではなく、自分たちの調査を行い、現地の細部を精査すべきだ。県に任せておくのは良くない。地域のことがわかるのは、まず地元の住民である。現地の聞き取り調査など十分に行い、実態に即した指定を行う必要がある。小田原市に至っては、県の言うことを精査もせず、従っているだけである。小田原市に質問しても県に聞いてくださいというだけになる。つまり責任は県にあるのだから、関係ないという態度である。神奈川県の態度は国からやれと言われたので、やってはいるが十分職員がいるわけではない、予算もないから、現地調査と言っても目視程度しかできないという事である。基本は地勢図から計算上の危険個所を探し出し、現地確認をするという程度のことだ。結果危なそうなところは広めにとっておけという事になり、状況から言って到底あり得ない指定がなされている。

土砂災害の危険個所の指定はやるべきである。災害列島に住んでいるのだ。徹底した土壌の調査を行い、がけ崩れ、土石流災害を十分に調査する必要がある。そしてやる以上最新学問の知見に基づき、科学的な姿勢で間違いなくやるべきである。科学的でない指定では、100年先に必ず笑いものになる。舟原の指定では杞憂である。天が落ちてくるという事を指定しておけば、もしかして天が落ちた時に責任を足らないで済むという事なのだろう。確かに災害が起これば行政は批判される。補償もしなければならない場合もあるかもしれない。だから危険個所の指定を出来るだけしておけという感覚になる。しかし、科学に基づかない対応をしていれば、オオカミ少年になる。現在行われている地域の防災は、本当に災害の起きた時の防災にはなっていない。

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井上義行参院議員の自民党入り

2016-04-17 04:27:54 | Peace Cafe

小田原を選挙区とする参議院議員である井上氏が自民党入りした。(入党ではなく、院内会派を同じくしたという状態だそうです。)井上氏の話を聞いたことはないが、小田原駅で朝の挨拶に立っているところは、何度か見かけた。参議院選挙前に、やっと自民党に入党できたというところでホッとしていることだろう。もともと、アベ氏の秘書として政治に志した人らしい。小田原の中学校で同じクラスだったという人が知り合いにいる。その人から、選挙に出るという事になった時に、どんな人だったかは話を聞いた事があった。クラスでは目立つような人ではなく、成績も特別のことはない人だったようだ。JR勤務を止めて、アベ氏の秘書になったという事を聞いて、まさかずいぶん努力をしたものだと、驚いたという。もともと自民党で立候補したかったのだろう。しかし、選挙区の事情でみんなの党から立候補したのだと思う。1度落選した。そういえばそのころ、桑原でやっていた田んぼの活動に来たことがあった。それで青年会議所関連人なのかと思った。2度目に当選したのではなかったか。その時は建設関連の家にポスターが張られているのをよく見かけた。

一度この人のことを調べたことがあったが、どういう政治がしたいのかが、全くわからなかった。安倍氏の秘書でありながら、自民党から立候補できないという事情で、本音を言えないという事もあるのかと想像した。みんなの党というのが行政改革の党だったが、そういう事も特に主張しなかった。たまたま国会で質問したところを見た。その時は、すでにみんなの党ではなかった。質問をしたという事を、売りにしたような話が伝わってきた。小田原では自民党のもう一人の牧島衆議院議員も全く政策を明らかにしないから、それが小田原の土壌らしい、賢い政治家になる手法なのだと思う。牧島氏ポスターには責任世代の代表と書いてある。政治家の責任はまず政策を示すことである。政策を示さないという事が、責任世代のずる賢い逃げ口上という事なのだろう。井上氏の場合は、「国民の痛みがわかる政治家へ」とある。痛みがわかる人という事なら、格差社会のことや、子供の貧困、待機児童の問題、何か政策を示さないではいられないはずだ。

ただ、転職を重ねて、ついに念願の自民党に栄転したという事だろうか。故政策選挙にならないかと言えば、井上氏に見られるように、政策を語らないことが当選する道だからだろう。小選挙区制の結果である。政策には必ず、賛成と反対がある。安保法制でも賛成の意見もあり、反対の意見もある。この両方から票をもらいたいと考える、選挙に勝つためには、はっきりしたことを示さない方が得策と考えるのだ。そして、地域の地縁や、業界の関連を手繰り、人脈を張り巡らせる。そして顔出しである。安定した選挙地盤を作り上げることだけに、専念する。選挙をするのが政治家の仕事だと言った人までいる。

どうも政治家であることが、ステータスのように考えている節がある。良い大学に入ったとか、良い会社の社員である。それと同じように議員であることを自慢したいがために、議員になっているかのようだ。給与が良いというのもあるだろう。まさか考えが無くて、議員になる人ばかりでもないだろう。これが3人区ぐらいであれば、30%しか支持されない政策を明確に主張する人にも当選の可能性が出てくる。政策を支持しない議員の頂点にいるアベ氏も政策論議はしない。憲法改定ということは口にするが、個々の憲法の条文については、議論しないとしている。それでいて丁寧な議論を重ねることが大切だなどと、インチキを口にする。憲法は変えたいがここに議論をすれば、問題点が露呈するから、西部に触れてはならないという指示を受けている。指示された憲法改正は言え。しかしどんな改正か語ることはならない。それを語れば政策選挙になってしまうからである。

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子供の声の苦情で保育園断念

2016-04-16 04:21:00 | Peace Cafe

子供の遊ぶ声がうるさいというので、保育園開園断念するところが、各地にあるらしい。日本人はいよいよ、劣化が進んでいる。保育園開園反対の御仁が、テレビで堂々と顔を出して、反対理由を述べている。「静かに暮らしたと思いこの地に越してきた。子供の声が響き渡るようでは平穏に暮らせない。」当然の権利とばかりに述べていた。何という生命としての弱まりであるか。子供の泣き声が夜中に響き渡るというのならともかく、保育園が開かれている昼間のことだ。子供が少々騒いだところで、平穏に暮らせないほどではないのは当たり前のことではないか。子供なぞ居ない方が良いと考えてでもいるのではないか。人類は終わればいいという事になる。都市での人間の暮らしというものは、そう平穏なものではない。騒音に満ちていると言ってもいい。それに耐えられないような人間が増えているという事に間違いない。3%ぐらいそういう人がいても普通だろうが、そういう人が半数を超えるようになれば、その国は終わるのだろう。

保育園を増やすことは、緊急の課題だ。待機児童で本当に困っている人が、6万人もいるとみられている。政治が取り組まなければならない、第一の課題であろう。子供が預けられないがために、働きに出ることを諦めなければならないという事は、社会存立の危機である。昔は大家族だった。おばあさんやおじいさん、又その上の世代のひいばあさんが孫や玄孫の面倒を見ていた。私はおじいさんとおばあさんにずいぶん見てもらった。それも出来なければ隣のおばあさんが面倒を見たりしていた。現代社会はそうした家族や地域のゆとりが失われてしまった。孤立した若い夫婦が、子供のことで行き詰まるのは現実何処にでもあることだ。自分の子供を重荷としてしまう可能性も高まっている。この暮らしの困難な部分を緊急に解決する為には、それぞれがそれぞれの立場で協力してゆく必要がある。このことを考えれば、個人の権利も一定の範囲で制限されても仕方がないことである。それが社会の中で生きてゆく最小限の制限である。

鶏の声が騒音になり、鶏を飼う事が出来なくなった。私が養鶏を止める決意もそこにもある。自治会から、二度養鶏が困るという苦情が来ていると言われた。農業地域で、農業をしている以上、一定の騒音は我慢してもらう必要がある。騒音が法に触れるほど大きいならともかく、人家から距離もあって、飼っていることすら知らない人がほとんどである。それでも誰かが自治会に苦情を申し立てるらしい。さすがに私が自治会長の間は言ってこなかった。隠れて言いたいのだろう。これで嫌になって止める気になったこともある。子供の声がうるさいという事は、子供の存在に耐えられない人間が増えてきたという事だ。子供のいない家庭に違いない。鶏が好きなら鳴き声は悪くない。子供が好きなら、子供の声は賑わいである。忘れてはならない。誰しも子供の頃泣き叫んで、誰かに迷惑をかけたのだ。それを迷惑と考えない親がいてくれたので、大人になれたのだ。それが人間というものの当たり前の姿だ。

 待機児童の親御さんが日本死ねと悲鳴を上げた。当然の声である。それを、昼寝の邪魔になる程度のことで、権利を主張するなど許されるのだろうか。こういうエゴの権利主張に対して、今の行政は弱い。すぐに引っ込んでしまう。ごみ屋敷が片付けられないのと同じだ。きちっと説明をして、法律の範囲で、すぐにも結論を出すべきだ。もし、当該地区の自治会が反対という結論であるなら、その地区の子供達は他の地区の学校に入れなければいい。その地区内に自分たちの、保育園から、小学校や中学校と作ったらどうだ。権利だけしか見えない人たちには、勝手にやってもらえばいい。お互い、助け合わなければ社会は成立しないのだ。静かな住宅地に立派な家があることは、誰のお陰なのか、自分一人で生きていると思ったら大間違いだ。我慢し、譲り合う心に、助けられたのではないのか。それに気づかないようでは失格である。

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