地場・旬・自給

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テレワーク時代が近づいた。

2020-04-30 04:02:33 | 暮らし

 このような形で車を止めて描かせて貰っている。とても落ち着いて描ける。こんなすばらしい場所で毎日絵が描けるというあまりの幸せがどうしてきたのかと思う。石垣島の人の親切な気持ちのおかげだと思う。これで絵が進まないのではさすがにまずい。

 世の中簡単には変わらないものだが、今回はさすがにテレワークだけは進むはずだ。コロナ事態でやむえず取り入れた会社の中にも、今後もテレワークを続けるところが出てくるはずだ。もしテレワークが取り入れられれば企業にとっても有利なことがあると気付かざるえないだろう。

 中々踏み出せなかった理由は指揮系統だと思われる。ダメな上司はテレワークだとその無能ぶりがあからさまになるからではないか。テレワークは能力差が明確にされる働き方だ。働く人も何時から何時までと言うより、このくらいの仕事量という形になるのではないだろうか。そうなると能力次第である。ゆっくりの人もマイペースで仕事が出来ていいのではないだろうか。

 テレワークは「地場・旬・自給」の考え方の推進になるだろう。家で仕事をしていて、気分転換に畑に出る。朝4時から働き始めて、夜8時まで仕事が出来る。合間合間に農作業を入れる。仕事もはかどるし、身体も健康になる。東京の会社に居たのでは空を見上げる事すらできない。絵を描いていても、息継ぎは必要なものだ。私は木の片付けをしながら、絵を描いているがすこぶる調子がいい。

 会社には週一回ぐらい行けばいいという仕事がきっと出てくる。業種にもよるのだろうが、そういう態勢をとったところが生き残る会社ではないだろうか。次のウイルスの流行にも対応力がある。給与は少し安くても、そういう会社なら良い社員が集まるはずだ。テレワークは能力次第だから、テレワーク向きの人財という人が居るような気がする。

 一人でやれる人だ。監視されなくても仕事が出来る人だ。仕事が少し奴隷労働ではなくなる。一人でやれる人であれば、仕事の効率が上がるはずだ。日本の労働の生産効率が悪いと言うが、テレワークを取り入れればこれも改善されると思われる。通勤手当も、オフィース面積も、有利になるはずだ。同じ家賃で良い場所に本社がおける。

 しかし、多くの会社がテレワークに変更できないで脱落することだろう。しかし、この壁を乗り越えた会社が次の時代を担うことになる。それはテレワークの方が明らかにすぐれたシステムだからだ。本来ならばコロナがなくとも取り入れなければならなかったわけだが、変わると言うことは中々難しいのだろう。

 テレワークを早く、うまく、安く、取り入れた会社が生き残る会社であろう。例えば弁当の宅配であっても、各地域にキッチンを設けて、ネットの予約があれば、一番近くのキッチンから宅配する。そのキッチンは社員の家でもある。こういうのはどうだろうか。

 実は弁当屋のことなどで考えたのは、企業がテレワークするというようなことがよく分からないからだ。働いたことがないのでもう一つ分からない。丸の内に本社があるような会社の機能がテレワークで分散されていてどうやって運営されるのかはほとんど想像が出来ない。

 出版社であれば、どのくらいが家での仕事が可能なのだろうか。なんとなく全部出来そうにも思えるが。大方針を決める編集会議などだけに集まって打ち合わせれば、後はすべて個別の仕事のようにも見える。今一番必要とされている本は何かなど、会社に居ようが居まいが同じであろう。

 たぶんテレワーク可能な仕事と不可能な仕事があるのだろう。病院の診療がテレワークになったとしたら、実際の手術のような治療は無理だろうが、診断のかなりの所まではテレワークで可能なような気がする。患者のデーターの集め方さえ機能すれば、離島であってもそれなりの医療が遠隔操作で可能になるような気がする。

 目の前に海が広がっている。海からの風がここちよい。テラスに出れば、明るい日の光がある。きっと良い仕事が出来るはずだ。発想が良くなるに違いない。通勤時間に費やしていた1時間を農作業に当てれば、食糧の自給は解決だ。日本の未来にも展望が出てくるのではないか。一時間で出来る農作業をテレワークで教えたいぐらいだ。

 教育もテレワークに向いているのではないか。生徒が先生を選択する方がいいに決まっている。先生と生徒の相性というものがある。イヤな先生に教わらなければならないほどつらいことはない。週に1回ぐらい学校に行けばいい。あるいは一定期間だけ共同生活をしながらの教育。これなら、波照間島でも高校に行ける。通信教育の進んだ形が考えられる。その場所はアメリカでも、中国でも可能だ。こう言う大学こそ次の時代の高等教育のはずだ。

 学費が高いと言うこともあるが、都会の生活費の方がさらに高い。例えば、イリオモテ山猫のフィールドワークを西表島でしながら、大学の授業を受けるというような生物学科はすばらしいではないか。酒蔵での醸造を体験しながら、大学の醸造学の講義を受けられる。

 養鶏だってそうだろう。自然養鶏を私が指導しながら、専門の畜産を大学の授業として受ける。こう言う新しい時代に早く対応した大学が次の時代の大学になるのではないだろうか。それこそ仕事の現場体験が授業にある。

 世界中の大学のネットワークを使えることになる。最先端の学問が講義として解放される。それを選択しながら、自分の方角を見つけることになる。それこそ通過試験は厳しくすればいい。能力が達しないものは繰返し学べばいい。一単位ごとに費用を払って受ければいい。単位がそろったところで卒業になる。生涯学習にも発展して行き、経営難の大学には新規顧客の開拓になりそうだ。

 次の世界が本当の意味で地方の時代になる。地方の有利さがテレワークで出てくるはずである。美術大学はすべてテレワーク可能だ。沖縄の古典芸能の演者が芸大の古典芸能の講義を受けることが出来る。ピアノのレッスンが一流のピアニストから受けることが出来る。システムさえ完璧にすれば、かなりのレベルの指導テレワークで可能ではないか。ザバロの授業を日本で受けられたら、又私も違ったのかもしれない。

 絵はどうだろうか。私の経験した大学の授業から考えれば、テレワークの方が良いくらいだ。ザバロの指導は週2回だった。同じ課題を家で設定して、それを描くところを映像で観て貰う。完成したところで又指導を受ける。他の生徒の描いた絵も見ることが可能になる。月に1度ぐらい実際の絵を見てもらえるのであれば、十分な気がする。ああそういうカルチャーがすでにあるか。

 そして、合宿の授業がサマースクールのように行われれば、いいだろう。あれこれ考えていると希望が湧いてくる。あのときのコロナの感染で少しはいいことがあったという結果になって貰いたいものだ。

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当たらなければいい、経済破綻への道

2020-04-29 04:39:15 | Peace Cafe

 この風景をとことん描いてみようと考えている。出合った日本一の田んぼの風景である。左側の下の木を切らして貰っている。地主さんが片付けてくれた方がありがたいと言われているということなので、すこしづつ切っている。運動不足の解消になっている。ここの田んぼがなくなることが一番の心配である。あと10年はせめて描きたい。

 日銀は27日、金融政策決定会合を開き、追加の金融緩和策を決めた。新型コロナウイルスの感染拡大で経済が急速に悪化するなか、長期金利の上昇を抑えるため、国債を制限なく必要な量を購入する。社債などの買い入れ枠は合計20兆円と従来の3倍近くに増やす。市場に供給する資金を増やし、財政や企業の資金繰りを支援する。

 IMFは世界全体の2020年の実質GDP予測を-3%に下方修正。アメリカは-5.9%、中国は1.2%、日本は-5.2%となっている。

   にもかかわらず株価は又上昇している。いよいよ経済破綻が近づいていると言うこととしか思えない。誰が考えても戦後最大の世界経済の非常事態である。実体経済に大きなブレーキがかかっている。これで株価が上昇すると言うことは、お金が行き場を失って、迷走して居ると言うことなのか。

 マネーゲームの一種なのであろう。お金が行き場を失いもてあそばれている。金儲けだけが目的の人達が、実質経済は破綻しかかっているにもかかわらず、行き場のないお金をどこに向けたら、儲かるかだけに必死である。株価にあがきの姿が浮んでくる。本来の企業活動のための資金としての株式投資とはかけ離れたものだ。

 企業の可能性を見定めて、ここに投資すればお金が生かされるだろうというのが、本来の株式投資ではないのか。ところが、このところの株価の動きはこの株の買いが集中しそうだというような、変動にだけ反応して売り買いが行われているようだ。企業活動の可能性とはほど遠い株式相場なのではないだろうか。それを支えているのが、日銀や日本政府系のファンドである。

 国債を政府が発行し、いくらでも日銀が買い取る。これはお札を印刷する権利は政府にあるから、無尽蔵にお金を作り出す方法と言うことである。お金の発行が金本位制の時代とは多く変わっている。国民に10万円づつ配るのだから、その分お金を印刷しましょうと言うことだ。お金はないのだから、赤字国債を発行し、それは日銀が買い取ることにすればいい。これをいくらでもやってかまわないという経済理論があるらしいが、私には理解不能である。

 必ず財政赤字が増大して、そのお金を返済する将来の人達の負担になる。こんな馬鹿げたことを繰り返しているのが、アベノミクスと言うことだろう。これが正しい経済政策だという、経済学理論があるというのだが、理解不能。政府は物価上昇を目指すとしている。当然のことで、国債の利子よりも物価を上げれば、負担がなくなる。

 しかし、現実には物価は上がらないし。政府の財政赤字は膨らむ一方である。ドンドンこれをやれば景気が回復するという主張をする人さえ居ることが余りに不自然だ。私には意味不明である。借金生活を今日本人はしているのだ。今の10歳から生まれたての子供達から、一人10万円ずつ借りたのだ。しかもそれを返すのは今の子供達なのだ。こんなにひどい大人はない。子供が生まれないわけだ。

 日本ほどひどい財政赤字の国はないのだから、日本から逃げ出す人が、どこかで出始めるのではないだろうか。私が10代であれば、移民を考える。あるいは自給自足生活に入る。この2つしかない。今の時代のつけを未来に回して良いわけがない。今苦しくとも子供達に苦労をかければいいとは到底思えない。

 もう政府など当てにしない、無政府のつもりの生活を目指した方がましだと考える。なぜ、自分が使ったのでもない親の世代のだらしない生活の付けを負担しなければならないのか。どういう理論でごまかそうというのだろうか。

 これだけの財政赤字を解決するには消費税しかない。これが消費税賛成の考え方だった。消費税は弱者の負担が大きい問題のある税である。しかし、そんなことも言ってられない状況だと考えたのだ。ところが消費税どころではない出費である。

 そしてついに日銀がたがを外した。将来のことどころではないとして、なりふり構わずである。今破綻したら元も子もないと言うことだろう。日本の経済は追い込まれたのだ。これでもアベノミクスは買いか。どう考えても売りだろう。海外の投資家が日本株を見捨てるときは遠からず来る。そのときに起こるだろう悲惨な状況が、目に浮ぶようだ。

 これが経済など分からない、素人考えの間違いなら幸いである。間違いだと私も思いたいが、他に考えようがないのだ。それほど遠くないうちに、経済破綻が起こる。地方銀行の破綻ではないかと想像している。一行1000万円以上は預けないことだ。あればの話だが。

 今回の日銀の手段は最終手段なのだろう。破綻を先延ばしにしたに過ぎないはずだ。コロナがどこで収束するかにもよるが、長引けば破綻は近くなる。その日に備えなければならない。やはり自給生活と言うことだろうか。
 
 老人の私はまだいいが、若い人達はいよいよ困難な時代に向かうのだと思うと、申し訳ない気持ちだ。私たちが残した借金を若い人に返して貰わなければならない。出来るのかどうかも分からない大変なことになっている。
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私的:水彩画の描き方

2020-04-28 04:01:02 | 水彩画

 4月10日に描き始めた絵。この後もう1日描いてほぼ完成した。この絵は後戻りせずに、終わりまで進んだ。だから明るい絵になった。明るさは水彩画の特徴の一つだ。このところの絵は詰めすぎて描いたかと思う。

 絵は見ている世界を、紙の上に置き換えているのだと思う。置き換え方がその人の世界の見方であり、絵と言うことになる。だから人がやっていた置き換え方を踏襲した方法をとると言うことはありえない。自分が観ていると言うことに気付けば、他の人とは違うように見えている。観るというのはちがっていることだ。

 水彩画は技法が重要である。又多様な技法が存在するところが良い。実に幅広い表現方法があり得る。絵を見る人はその人らしい置き換え方をみて、なるほどこんな置き換え方をする人なのかと思ううわけだ。表現方法で、描いた人の考え方まで分かる。人間性まで分かり感動する。



 4月12日に描き終えた絵。

 絵を描くと言うことはかつてないような置き換え方を見つけると言うことにある。新しい発見を出来ないかと描いている。自分が観たという感じが画面にそのままに出て欲しいと思うだけだ。こうすればどうなるのだろう。ここの表現は何かあるはずだ。こう思って描いていると終わることがない。やればやるほど面白くなる。だから絵が終わると言うことはなくて、休止符を打ったうよなものだ。

 それでは自分の置き換え方を持つのかというとそれも違う。置き換え方はその絵その絵で発見しなければならない。いつもの置き換え方を使うというような発想になることはそれは職人になったと言うことで、芸術ではなくなったと考えている。自分の絵を模写しているようなものでは、絵を描くということからはほど遠い。だから前にやった方法をいつも忘れなければならない。

 一枚の絵を描くと言うことは一つの発見があると言うことだ。新しい風景の見方を見いだしたときに一枚の繪が出来る。新しい見方であるから、新しい方法が必要となる。だから一枚の繪ができると言うことは新発見をしたと言うことになる。そう簡単なことではないのは当然のことだ。


 
 この絵は13日14日と描いた絵だ。かなり柔らかめに描けた。おかしな所も多々あるが、柔らかさと詰め方が気に入っているので、ここで終わりにした。問題が残っているのだが、それがいい場合もある。
 
 私自身のことで言えば、細部を追わないで、どうやって筆触やタッチで風景を捉えることが出来るかである。ああこの点を打てば出来るのかと発見することもある。この線を引けばいいのかと言うこともある。この辺が絵を描いている面白さである。

 こうして一枚一枚の絵で、新しい方法を発見している。だから、絵を描くことはきりがなく面白いのだと思う。子供の頃早く海に行きたくてうずうずした感じを今も思い出す。あの感じとまるで同じくらいに、いつも絵を描きに行きたい。


 4月14日に描き始めた絵。午前中だけ描いたところだ。続けてもう少し描くつもりだ。田んぼの所の描き方は下塗りのつもりである。ここはかなり書き込もうと言うつもりで、絵の具を重ねている。水彩画では10回以上も重ね塗りをして出てくる調子というものもある。

 始めて塗ることでしか出ない色もあれば、同じ色を濃度を変えながら重ねて行くことで出てくる色もある。上の方から描いている。中央から描くことが多いのだが、この絵は上の方から描いている。

 下の方はまるで描いてない状態である。上を描いているときから、下の方に木が来るとは考えている。まだ描いていない木が見えている。


 下の方に木を加えて絵を進めた。この紙はファブリアーノの手漉きの紙で、10枚だけ購入した貴重な紙だ。色に潤いを感じる。紙は時間が経つと良くなる。最初は実に手強い紙だったのだが、今は色に潤いが来る。

 田んぼが9葉期ぐらいになったのだろうか。随分と分ゲツも増えた。このイネの初々しい成長期を描きたい。それでも水が一部見えている。水は俯瞰なら見えると言うぐらいである。

 一面の緑の田んぼもやはり光を反射している。緑が反射している緑なのだ。これをどう描けるのか、あれこれ試行錯誤している。何度も色を重ねて書いている。重ねながら暗くならないことようにしている。ここが難しい。



 4月22日に描いた絵。緑に変わって行く田んぼを描いている。もう少し描くつもりだ。絵として見栄えがするというような意識を捨てようと考えて描いている。自分の目の観ている世界を描けるようにと願っている。

 この絵は24日、25日とさらに描いた。それでもできないでいる。左上の山がいらない。消してみようと考えている。水面でいい。水平線を斜めにしたくなった。それが山にまで影響をしている。

 それで最初はなかった山で左側を切ったのだが、それがやはりまずかった。斜めのままの水平線だと絵としてはおかしいのだが、おかしくても良かったのだ。ついおかしくないえにしようとするのがいけない。おかしいことはおもしろいことだ。下手なことは自分の絵に近づくことだ。
 
 もう少し描いたならば、又絵の写真を載せたい。

 もう一息である。水平線をまっすぐに斜めに切ってみた。おかしなことだが、このことで絵は分かりやすくなった。この写真を撮った後もう少し描いた。
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軍隊ではない安全保障に変わる。

2020-04-27 04:18:48 | Peace Cafe



 東京のコロナの感染の拡大が止まらない。死者数はかろうじて抑えられている。すごい医療現場の努力なのだと思う。日本の安全保障の最前線は医療関係者だった。不足する医療資材の中、感染の危険の中で努力に頭が下がる。

 人口過密地域の感染拡大は都市封鎖をするしか納まらないのかもしれない。そして、今回の感染症が治まったとしても、必ず次のさらに深刻なウイルスの感染が起こるはずである。そのことに早急に備えなければならない。緊急に行うべきことは都市機能の分散である。

 もし、東京が武漢市のような都市封鎖になれば、日本は崩壊につながりかねない。中国にとって、感染拡大が北京や上海でなかったことは不幸中の幸いであった。最悪の場合、今回のウイルスはある程度の弱者と老人の死を覚悟すれば、何とか東京を封鎖せずとも乗り切ることは出来るだろう。

 死者を覚悟しなければならない状況とは、人工呼吸器を老人には使えなくなると言うことだろう。70歳以上の人は人工呼吸器を遠慮して貰うというような政治判断が出来るのだろうか。それが日本という国家の生き残る道だと言うことで、そういうことの選択が必要になる可能性すらある。

 私自身も老人として切りすれられれば、日本の崩壊にはつながることはないと自覚している。そういうことを考えている人害なければ国家の安全保障はない。老人は10数年で死ぬ人のことだ。しかも働くことも出来ない。割り切ラザルエナイ事態だって想定しなければならない。若い人が死ぬよりは私であろう。

 今回はそれでいいとしても、ウイルスによっては若い人から死ぬウイルスもある。そうなれば日本の存続すら危うくなる。今回こそ次の事態に備えなければならない。東日本大震災とそれに伴う原発の事故の時も、抜本的な循環型のエネルギー社会への転換は行われずにここまで来てしまった。

 今回の新型コロナウイルスも、2、3年もして収まれば何事もなかったごとく対策など考えないことだろう。日本人の悪い性格である。敗戦すら忘れた。原発事故ですら忘れた。コロナも忘れるだろう。忘れてはいけないこともあると言うことに気付かない国。

 今回の政府のコロナ対応をみると、対応の場当たり的なことはひどすぎることである。感染症の専門家による災害対策とは到底言えない。病気に対して政治家が対策を練るようなことではない。ウイルスとの戦争だというのであれば、その専門家が当たらなければ、ウイルスの殲滅など不可能であろう。台湾、韓国、中国、とそれぞれの形でウイルスに対抗し、成功を収めた。日本との違いはITに関する全体のレベルが高いことだ。日本もここから学び次に備えなければならないだろう。

 ウイルス戦争の専門家である。防衛省にはそういう研究をしている人は居ないようだ。一体日本の防衛省は、時代おくれの軍事力消費団体になっているのではないのか。アメリカが買えという武力購入団体では日本の防衛にはならない。アベ氏の言うところのウイルスとの戦争に役立たない無駄な防衛省である。

 防衛省は今からでも変わらなければならない。まず東京に防衛省を置いておくのは最悪である。何故都市機能の分散が出来ないのだろうか。すぐ困ったことを忘れるからに違いない。岩手県が良いかもしれない。特別な防衛意識があるのかもしれない。

 岩洞湖当たりにあればいいだろう。すばらしい広大な場所に人が少ない。こういうことを書くと、防衛省をないがしろにしていると思う人が居るのだろうが、東京に居るとエライと思うような感覚が、すでに無用化している。東京を分散することが日本の防衛なのだ。当たり前すぎることだ。ペンタゴンも大統領府もニューヨークから離れている。

 重症者に対する器具の不足、人員の不足。病院の不足。これは必ず備えなければ、国防とは言えないだろう。次の戦争も、外国軍が攻めてくるのではなく、新型ウイルスの襲来である。自衛隊は国土防衛隊になり、医療班を数百倍の能力に高める必要がある。

 東京における重症患者の受け入れ能力が不足している。死ぬほどではない人は、隔離だけで仕方がないが、重症化した人は酸素吸入等の手立てを徹底しなければならない。東京の人口であれば、石垣に3床用意されていたとすれば、1000床の準備がなければならない。石垣島では3床を急遽9床の準備を整えた。東京を3000床に変えることは出来ないだろう。

 一極集中ほど、感染症には弱い。次の戦争はウイルスゲリラかもしれない。感染した人が敵国に紛れ込むテロだ。対応は都市機能の分散であろう。一都市がやられても、機能が止まらない社会の構造を造る必要がある。

 それは地方の消滅を食い止めることにもなる。江戸時代の藩制度の見直し。最近このことを時々目にするが、江戸時代は発展するのでなく、現状を維持するための優れた仕組みを作り出している。

 冷静に考えれば、外国の攻撃よりも次のウイルスの攻撃の方が、間違いない現実である。中国はイタリアの要請により、医療班をイタリアに送った。世界中に中国以外にはイタリアを助けるだけの余裕がなかったのだ。これはまさに、友好親善であり、戦争の回避である。

 もし日本にそうした医療隊の準備があれば、武力的な整備よりもはるかに実際的な国民の命を守る安全保障になるだろう。日本で備えていて、世界の医療部隊になる。これは新しい力であろう。平和主義の防衛力であろう。防衛省予算のすべてを医療部隊に向ければ出来る話だ。

 台湾は200万枚のマスクを援助してくれた。台湾だって余っているわけではない。石垣市には友好都市である宣蘭から援助があった。この緊急事態に助けてくれた。これで医療関係者のマスク不足の緊急事態はいくらかしのげる。台湾の方に足を向けて寝ちゃダメだ。

 台湾の人の温かさに目頭が熱くなる。生きているうちには台湾の方々にかならず、恩返しをするつもりだ。東日本大震災の時も大きな支援をしてくれた。日本人であれば、この恩を忘れてはならないと思う。台湾のために出来ることがあれば何かしたいと心より思うっている。

 早く石垣にも台湾から遊びに来れるようになって欲しい。そのときには台湾の人の石垣案内を買って出たいものだ。台湾の人が来れるようになるときに親切な中国語の石垣島案内を作り、配るようにでもしようかと思っている。南山舎か松田良孝氏にでも相談してみようかと思う。

 日本は台湾の国際社会への復帰のための努力をしたらどうか。確かに、中国との関係は悪くなる。第3の道を探る努力だ。対立ではなく、中国と台湾の歩み寄り出来る関係を、日本も含めて探せないだろうか。そうしたことの実現が出来れば、日本の安全保障にもつながる。

 東アジア全体の友好関係の構築の中で、日韓関係の改善も。北朝鮮の安全保障も含めて解決の道は探る。このきっかけを新型コロナウイルスが教えてくれているのではないか。災いを福に転ずる方角である。

 日本と台湾の間では戦争は起きない。友好関係とは人間同士の心の通い合いである。日本が近隣諸国の困難に協力して手助けできる国になることが、一番の安全保障である。
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 アプリのみんなの囲碁をやっている。

2020-04-26 04:00:39 | 身辺雑記
 オガサワラタコノ木の実

 タブレットで「みんなの囲碁」というアプリをやっている。このアプリは2段レベルだという。この2段は昔の初段ぐらいだと思う。待ったありでやっている。待ったをすると勝つことが多いがあたりまえのことだ。勝たないと気分が悪いから、勝つまで待ったをするからだ。別段勝ってどうだと言うことでもないぐらいの私の囲碁のレベルだ。

 学生の頃囲碁を少しやったことがあって、3級くらいだった。大学に囲碁室があった。そこに行って打ったことが何度かある。下宿の隣の先輩の人が囲碁部の人で教えるからやれと言うので無理矢理やらされて始めた。たぶん、打つ相手が欲しかったのだろう。

 アプリだから何度待ったしても怒らないでくれる。待ったしているうちにどの考え方が悪いのかが分かるのかと思っている。待ったしないでも勝ったことは一回だけである。ただ、勝っているはずなのに、地の数え方がおかしくてどうしても負けと表示されることがある。アプリも時々間違えもするが、待ったをしないで投了をする。アプリにも待ったをして欲しいのだが、そういう機能はないようだ。

 こう言う囲碁の勉強法にはあまりないだろう。別段他の人と囲碁を打って強くなりたいとおもって居るわけではない。人間と囲碁を打つのはやりたいとは思わない。人間と打つだけの時間もない。頭の体操と言うか、気分転換にはとてもいい。

 気分転換に実に良い。コロナのことを考えていると滅入る。滅入るのは免疫力低下になる。考え込んで笑いを忘れたらダメだ。そういうときにみんなの囲碁をやる。集中して打っていると、イヤなこともどこかに忘れている。

 何故、無料で使えるのかよく分からない。宣伝が入るからその広告費ということがあるのか。あるいはだんだん強くなるとこの無料のアプリでは物足りなくなり、一段強い有料のアプリでやりたくなると言うことなのだろうか。

 たぶん有料アプリと言うより、もう少し強い無料アプリを探すと言うことになるのではないか。私は必要がないので探したことがないが、探せばあるような気がしている。実はその昔、そういう囲碁ソフトを買ったことがある。

 ところが有段の実力とか言う宣伝で騙されて買った。日本棋院認定というようなことがあった。ところが打ってみたら弱い。私が弱いと思うのだから、5級以下だと思う。それで苦情を言ったのだが、棋譜を送れという。棋譜を送ったがこんなものだという。これを有段者だと言うのでは騙されたと言うことだが、結局騙されて終わった。

 将棋にもみんなの将棋というものがあるが、これはアプリの指す手が同じミスを繰り返す。弱点が分かってしまうので面白くない。勝つための手段が分かってしまったので、それをあえて避けて指すというのも面倒くさいので、まずやらない。もっと強いアプリもあるようだが、ダウンロードする方法がこれはよく分からない。

 もちろん無料だからやるのだか、この仕組みが分からないから少し不安がある。有料なら強いものはいくらでもある。将棋でも囲碁でも、プロの棋士より強い。こんなことが生きているうちにはないと思っていたので、衝撃的であった。韓国の最強棋士イセドルがアルファー碁との戦いで負けた。世界最強のイセドルなら勝つだろうと誰もが思っていた。少なくとも日本ではそう言われた。

 そして、さらに驚いたことはイセドルがアルファー碁に敗れて、囲碁棋士を止めてしまったことだ。李氏は「囲碁AIが登場したことで、必死に努力してナンバー1になっても、自分はトップではないことが分かった」それで36歳で引退したのは衝撃を受けた。イセドル氏にとって、囲碁を打つと言うことは最強でなければならなかったのだろう。

 イセドルはアルファー碁に唯一1勝をあげた棋士である。何しろアルファーゴは他の棋士には負け知らずのまま引退した。イセドルからの1敗だけでアルファー碁も引退をした。囲碁界は、アルファー碁という最強の残していった一手一手を分析している。人間が自分で作ったコンピューターが残した情報を人間が分析し、人間が高い次元に行く。いつかは、人間が再度アルファ碁を上回る日が来ることはあるのだろうか。あるだろうと予測している人が居る。私はないと断言する。

 もしあったとしても、コンピューターはそのときにははるかに強くなっているに決まっている。そのうち、無料のアプリでもプロキシが負けるようにすらなる可能性の方が高い。アルファーゴの思考方法はディープラーニングと言う思考法だという。その考え方を医療分野で生かすと言うことだったが、成果は出ているのだろうか。がんの診断で、画像を見て人間の判断できない状態でも判断できるようになるというようなことらしいがどうなったか。

 自動運転の認識装置などで生かされているらしい。しかし、ディープランニングの思考法では、人間には役に立たない。人間が囲碁を打つときに使う思考方法は論理である。ああなればこうなるという計算である。それに加えてひらめきである。コンピューターのようにすべてを読んだ上で判断するのではない。

 囲碁が強いからと言って、他のことに役立つわけでもない。将棋を指しても強いかと言えば、そんなことはない。囲碁が強いというのは囲碁にしか役立たない。囲碁好きは彫刻家に多く。将棋好きが絵描きに多い。と言われていた。たぶん梅原龍三郎が将棋が好きだったからだろう。

 日本将棋連盟には幽玄の間という部屋がある。その幽玄という文字は梅原の字だと思う。調べたが確認できないが見た目そうとしか思えなが。梅原の字はすばらしい字だ。豪華な字だ。ああいう字は他の人にはかけない。梅原の油彩画もあるらしい。よほど将棋が好きだったようだ。

 思い出したので梅原の絵の良さはたぶんもうすぐ誰にも分からなくなるだろう塗想像している。梅原龍三郎という人間の大きさにある。人間の大きさなどというのは実に曖昧な、東洋的な判断方法であるが梅原大人なのである。だから大人の風格が絵にある。としか言いようのない魅力なのだ。人間が絵に出ている魅力だ。絵が堂々としていて、まっすぐなのだ。うまく描こうというようなところがまるでない。

 ピアニストの中村紘子さんを描くテレビ番組を観たことがある。弾いているところではない。軽井沢だったか、別荘の庭である。あの絵はどうしたのだろうかと思う。似ても似つかない下手くそな絵なのだが、堂々と描いている。升田幸三氏によると梅原氏の囲碁は実に豪快だと語っている。将棋にまで人が表われていたというところが梅原の絵の特別なところだ。

 ディープランニングの囲碁はどんな性格と呼べばいいのだろうか。計算ずくの碁と言うことだろうか。囲碁のプロによると神のようだという。機械の打つ手に感動すると言うことが出来るというのもすごい。しかし、コンピュターが登場して、消えて行く職業に一つが棋士だとおもうが、どうなのだろうか。


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持続可能な社会を考えている。

2020-04-25 04:01:17 | 石垣島


 石垣島では外出自粛が要請されて、10日が経過した。その後の感染者は出ていない。毎日固唾をのんでニュースを見ている。その後受付希望者総数が311名で29検体のPCR検査が行われたが、感染者はいない。心配されたほど感染にひろがりはないことがはっきりしてきた。

 行政は厳しい来島自粛を求めているにもかかわらず、3名の患者の行動履歴は公表しない。それが方針なのかもしれないが。そのてんがいくらかの不安を増幅している所ではなかろうか。情報公開は故人のプライバシーの問題もあるが、自粛には正しい情報が必要である。

 いつもあまりお客さん集中しない昔からの商店があるのでそこに、卵と、牛乳と、納豆をまとめ買いに行った。残念なことに納豆はなかった。納豆を作らなければならないのかと考えている。石垣島では余り納豆を食べる習慣がないのか。それで昔からこの商店には置かないのかもしれない。

 お店にはお客さんは他に1人しかいなかった。レジは若い女性が疲れたような様子で一人だけいた。確かにお店の人は気分が悪くもなるだろう。何で買いに来たんだという怒りが感じられた。食料はそれなりにはあった。野菜なども並んでいたので、この際買い足して置いた。お店があり、食料品が買えると言うことのありがたさだと改めて感じた。

 いつでも2週間ぐらい籠城できる食料がないと安心が出来ない。それはどこか外に行けば食料が売られているという前提があればと言うことだ。食料が買えないとしたら、畑を200坪借りなければ安心はない。幸い石垣島は食糧自給可能な島だ。今のところ、観光客が減少した分食料は充分過ぎるくらいあるようだ。

 レストランはほとんど閉じているので、市民すべてが食料はスーパーに買いに行くしかない。その割にスーパーがいくらか空いているのはどういうことなのだろうか。いつもの台風時の経験でまとめ買いになれていると言うことなのだろうか。みなさんが2日に一回来ていたところを、1週間に一回にしたとすれば、スーパーはがらんとするだろう。観光客が少ないと言うことも空いている理由なのだろう。

 石垣島というある程度閉じられた地域社会に暮らすようになり、改めて持続可能な社会とはどんな社会なのかを考えている。持続可能なというと経済発展のためにどうバランスをとればいいかという視点から語られている。経済発展と言う発想がすでに持続を不可能にする考え方なのではなかろうか。

 暮らしに必要なものが満たされた社会では必需品の消費だけでは、経済は停滞である。新しい製品の開発と言っても日本では無理なようだ。再生可能エネルギーの分野に日本が踏み出せなかったという姿を見ると、日本の社会の限界のようなものを感じる。

 コロナウイルスの流行で日本が世界の進歩の流れから取り残されていることがわかった。意外なところもあったのだが、PCR検査の体制が感染者の拡大傾向に追いつけていない。検査の実施が滞っており、検査から陽性が確定するまでの期間が1週間と長期化し始めたという。

 日本は日本人が考えているよりかなり後退していたのだ。アジア諸国のどこでも出来たことが、日本では出来ないという国になっている。このことに正直に向かい合うことが必要だ。遅れ気味の国になっているという意識改革。アベノミクスは成功しているどころではない。日本は遅れた国になったという意識を持たない限り立ち直ることは出来ないだろう。

 より豊かな社会を求めると言うこと自体が持続不可能なことになる。足るを知ることがなければ、社会の持続はできない。例えば日本では人口増加が政策にあげられている。38%の食糧自給率の国が人口増加どころではないだろう。

 食料など輸入すればいいだろうと言うことが、いかに国民の生活を軽んじているのかということになる。確かに平常時であれば、輸入すれば食料はえられる。しかし、人間が生きるという原点はものを食べると言うことだ。国家を運営するに当たり、食料は外国から買えばいいという安易さは間違っているだろう。そんな余裕のある考え方は、先進国の考えだ。

 工業製品を外国に販売する見返りに、国民生活の基本を売り渡している国。プランテェーション国家が食料を生産せず飢餓に陥ることと同じである。綿花をいくら生産しても食べることは出来ないのだ。自動車がどれだけあっても食べ物には困る。

 こんかい、マスクが極端な不足に陥った。石油が1980年頃輸入できなくなった。オイルショックと呼ばれた。それで日本は石油の基地を作り、備蓄を始めた。石油など買えばいいだろうとは誰も言わない。エネルギーが切れたらば、自動車が作れないからだ。

 マスクの不足も実は自動車生産が出来なくなったのだ。マスクを輸入に頼る国であれば、備蓄が必要だったわけだ。少なくとも医療関係者のマスクが充分にないなどと言うことはあってはならない。政府の油断である。政府が国の安全保障を軍事力中心に考えてきたことが間違っていた。

 世界各国で医療崩壊と言われている。アメリカほど豊かな国でさえ、医療が不足というのだ。しかし、台湾や韓国では医療崩壊などなく乗り切ることが出来た。それは感染防止策が優れていたからだ。アメリカは感染防止の出来ない国である。それは国民性もあるだろうし、極端に貧富の差の生じている階級社会だからだ。

 国籍もない不法労働者が感染を広げる。医療にかかることの出来ない貧困層が感染を広げる。アメリカという豊かな社会を支えるためには貧困な下級国民が必要になっている。感染症は貧富の差など超えて広がる。生活水準の格差の大きな社会も持続が難しいと言うことなのだろう。

 競争社会の方が持続が難しい。人間の生きる目的が金持ちになるという社会は持続できない。金持ちであると言う意識は貧乏人がいて始めて意識される。誰もが車を持つ社会であれば、車の所有は金持ちの気分ではない。金持ち意識には限界がないから、持続が出来ない。

 どこかで社会を安定をさせることが人間の幸せになると言うことだろう。食べるものが不足しがちな社会は持続できない。食べ物を効率的に作ろうとして、化学物質や大型機械や、大量の農薬が必要とされるような収奪的農業であれば、それは持続可能とは言えない。

 食料の生産には循環型の農業でなければ永続性がない。農地を永遠に使えるような農業の方式である。化石燃料を大量に必要とするような農業も永続性がない。大きな機械力がなくとも、シャベル一本で自分の食料を作れるような農業は永続性がある。

 幸い日本には豊かな国土がある。この土地で自分が耕せば、自力で生きることの可能な国土がある。その原点に戻れば日本は持続可能な国だ。

 人間が生きると言うことは確かに食べるだけではない。一生を生き切る充実というものがなければ、永続性がない。真理の探究ではないか。それぞれの人生の深まりをどう作り出せるか。やりたいと思うことを持ち、その探究に生涯を費やせる社会でなければ、永続性があるとは言えない。

 人間の豊かさは精神の豊かさである。アメリカでは今ピストルの売れ行きがすさまじいらしい。不安になるとピストルに頼るという社会の精神の疲弊。安心立命のないという社会はいつ崩壊するかわからない社会だろう。

 人生の夢を描き、その目標に向かい全力で生きる。そういう社会こそ持続可能な社会である。目標が金儲けで何が悪いというような社会は持続不可能である。健全な倫理観のない社会は持続できない。人間が健全に育つためには倫理が必要である。

 人間は他の人のためになることが出来たときに喜びがある。私は確かに絵を描いていれば満足である。しかし、その絵がもしかして人が喜んでくれるものであればその喜びは倍増する。自分のために生きると言うことに、人のためが加わったときに人は本当の力を発揮できる。

 
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新型ウイルスが現われる理由

2020-04-24 04:23:31 | 暮らし


 今回の新型のコロナウイルスの登場で世界中の人にとって、ウイルスが何故登場してきているかの理由は、人ごとではなくなったはずである。一言で言えば、人間の暮らしが自然から逸脱したことにある。

  誰もがいつかは新型コロナウイルスに感染する。そのときに備えて、肺の強化体操をしている。スワイショウと8段錦と太極拳24式と蹴り上げ肝心体操のセットである。45分で一通り出来る。筋力を高めることは免疫力の向上である。

 家に居る時間が長いのだから、その分余分に体操に当てている。小田原に居れば、自然に1万歩以上歩いているのだが、石垣では中々1万歩歩けない。その分体操に当てている。後は明るい気持ちで暮らすように心掛けている。この機会に暮らしを見直した。

 人類がこのままの暮らしを続ければ、必ず数年おきに新しいウイルスが登場してくると思わなくてはならない。さらに深刻なウイルスが登場して来ると考えておかなければならない。

 人によってはインフルエンザウイルスでも日本でも例年3000人ぐらいは死ぬから、コロナウイルスぐらいで騒ぐな。一通り感染すれば終わるのだ。と言うような人がいる。新型ウイルスの登場を理解できない人である。いつまでもこう言うその場しのぎの考えで居れば、さらに深刻なウイルスの登場がかならずやってくる。

 インフルエンザでは健康な人はまずは死なない。インフルエンザで死ぬ人は他の病気を持っている人が大半である。ところが今回の新型コロナウイルスはどんなに健康な人でも死ぬ。80歳以上であれば致死率が11%である。70代であれば5%である。

 もしコロナ肺炎になれば、人工呼吸器がなければ必ず死ぬ。人工呼吸器を付けて、ICUで完全管理して何とか助かると言う重い病気だ。だから、今の日本の医療体制では重症患者がこれ以上増えると、医療崩壊が起き大量死が起きる。今日本はギリギリの所だ。インフルエンザではそういうことはない。

 もう一つ今心配なことは感染し回復しても免疫が出来ない可能性が出てきたと言うことだ。これはワクチンの開発が極めて難しいウイルスと言うことになる。この点はまだ分からないが、ワクチンのない感染症は別段特殊なわけではない。ヘルペスウイルスのように、どこかに隠れていて、身体が衰えると又発病するというようなウイルスもある。

 ウイルスに関してはまだまだ未知の領域のものなのだ。今回のコロナウイルスもセンザンコウやコウモリが持っているものだとか言われているが、それがどういう形で、ヒトヒト感染するウイルスに変異したかはまだ分からない。

 この変異の原因には野生動物の暮らす環境へ化学物質や薬剤が蔓延を始めたと言うことが想像される。環境汚染の進行である。そうして野生動物の体内のウイルスが変異をした可能性もある。ビニールのような今まで食べたこともないものを野生動物が食べてしまう。

 当面今回のウイルスでの対応を反省して次に備えると言うことがあるが。本当の解決策は新型ウイルスが登場しないような世界に、人の暮らしに変えて行くと言うことも必要なのだろう。

 かつての未開地にも人類は分け入り、暮らすようになった。そして化学物質を多量に使う農業や畜産が効率を求めて行われている。食料生産が経済競争の元に行われるようになり、巨大化し、機械化し、自然の循環から離れてきた。この地球環境の変化が新型ウイルス登場の大きな要素に違いない。

 自然の摂理を超えた農業生産はどこかで破綻する宿命にあったと思うしかない。化学肥料を使う。大型機械を使う。化学農薬を使う。遺伝子組み換えの農産物が登場する。日に日に農業生産が自然の営みとはかけ離れたものになって行く。その結果何が起こるのかはまだ見えないが、新型のウイルスを生み出している可能性は高い。

 環境破壊が進み、オゾン層の破壊が進んでいる。それは生き物全体の循環を狂わし、人類の免疫系を弱めている。一方海洋汚染が進み、食料の循環の中に化学物質の混入が増加する。これも免疫力を低下させているだろう。食品の中に入り込む化学添加物の増加も免疫力を低下させている。

 人類は様々な医療の進歩で淘汰されることがなくなったことにより、弱い遺伝子が淘汰されることなく、人類全体に残ることになっている。平均寿命が急激に伸びて、老齢人口の増加も免疫力の低下につながっている。
 
 人間はひっきりなしに世界中を行き来している。情報も世界中を同時進行で交差している。一地域で収まるはずのウイルス感染もたちまちにして世界中に広がることになる。今回のウイルスの感染拡大をみると、人間の出入りが想像以上に大きくなっているのかを実感した。

 又、マスクの生産が国内で行われていない国ではこうしたときに緊急事態になると言うことも身にしみたことであろう。物流が世界を駆け巡っている。このこともウルスの感染拡大の要因であった。従来のレベルの水際対策ではウイルスの防御はできないと言うことがよく分かったわけだ。

 アメリカは日本よりも早くから、防疫体制をとったが、日本以上に早くて大きな感染爆発が起きてしまった。対策が成功した、台湾と韓国と中国の事例は世界が学ぶ必要がある。個人情報や国家統制の是非とは別に考えることだ。

 1970年大阪で開かれた、万国博覧会は「人類の進歩と調和」をテーマとしていた。あれから50年確かに世界は進歩はしたのだろうが、調和は失われたのだ。意図できないような進歩という危うい方角に世界は進んできた。豊かになる競争が実は必ずしも幸せな暮らしとは言えないと言うことだったのだ。

 原子力発電が人類の進歩だと考えた時代もあった。農薬や化学肥料が人類の進歩だと考えた時代もあった。科学技術の進歩が人類を豊かにするはずであった。新型ウイルスで世界中が恐怖に陥ったこの機会に、どこで何を間違えたのか考え直さなければならない。

 大都市というものがダメだということもはっきりした。通勤するという形も問題が大きいと言うことが分かった。これから本当の意味での地方の時代を模索しなければならないのだろう。

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ふるさとに帰ってはいけないのか。

2020-04-23 03:56:17 | 石垣島


  都会に出た人がふるさとに戻ってはいけないという風潮が私には受け入れがたいものを感じる。コロナに感染しているかもしれないから、帰省しないでくれという。これにはどうも違和感がある。ふるさとの実家に戻った若者が、居辛くなって東京に戻るということが報道されている。

 石垣島でも観光客だけでなく、都会の学校に行っている息子が戻ることがなんとなく拒否されている。市長の談話では明確に帰省しないでくださいとあった。一体そんな言葉を発するふるさととは何だろうか。ふるさとはそんなに冷たいところなのだろうか。

  さらに石垣市中山市長は八重山諸島からの石垣島への来島も来ないようにお願いしたいと発言している。全く科学的な根拠がない。西表や竹富の人はごく普通に石垣に買い物に来て生活している。高校生など通っている人も居る。八重山の他の島に感染者がいるわけではないのに、石垣島に来るなとはないだろう。何か異常を感じる。

 感染症の全く出ていない島から、お隣の石垣島に買い物に来ることまで拒否するという市長の発言は石垣市民の声を代表しているとは思えない。是非とも撤回して貰いたい。感染は科学的に考えなければならない。3密にならなければ感染は起きない。

 ふるさとに戻るなと言われた人はどれほど寂しい思いをしていることであろうか。都会で外出さえ出来ない下宿先でどれほど辛い思いをしていることであろうか。こんな非人情な世界が来るとは、あまりにも情けない。そんな身勝手なふるさとでいいとは私には思えない。

 ふるさとに戻ることは許されることだ。戻っていいと考える。戻って感染が広がったらどうするんだという声があることは分かる。しかし、困っている自分の息子や娘を戻れと言えない社会はおかしいと思う。もどり、2週間待機していればいいではないか。むしろ困った家族を温かく迎えるのがふるさとではないか。ふるさとという所をそういう暖かい場所と思いたい。

 戻っても感染を広げない道はある。それを作るのがふるさとで暮らす人の役目ではないだろうか。それが市長の役目だ。観光客の来なくなったホテルで2週間暮らして貰う。それから家に戻る。その費用はふるさとのみんなで負担する。そうした努力をしないで、ただ帰省するなの言葉はなんとも聞きづらい。

 自分が感染が怖いからと言って、都会で困っているものを排除するようなことは違うのではないだろうか。ともに乗り切るという気持ちがふるさとには必要な気がする。最終的には全員が感染しなければ終わらない感染症なのだ。排除的な考え方はわずかでもあってはならない。

 今回戻ることが出来なかった人達は、戻るなと言われた人達は、もう冷たい石垣島に戻らないかもしれない。ふるさとの人達が、感染を恐れて自分を排除したと言うことは忘れられないことではないのではないだろうか。ふるさとに戻ってはいけないなどと主張する人は移住者にも多いような気がする。

 親が子供には言わない言葉だ。私にもそういう言葉が耳に入り、まるで自分が排除されたような気持ちになった。東京で下宿にこもっていなければならないと言うことは精神的にも厳しいものがある。戻ってこーいよ。

  21日中山石垣市長は島外在周の出身者にも「ウイルスを持ち込む可能性があるため、絶対に帰省しないようにお願いしたい。」と述べた。これは2度目のことだ。市民に対して、潮干狩りも含む外出の自粛を要望。バンナ公園の施設の閉鎖。ほぼすべての観光施設の閉鎖を行うと言うことである。

 これは間違っている。何故潮干狩りが行けないのだ。名蔵湾で潮干狩りをしている人が居たが、まばらなものである。10メートル以内に人は居ない。何故それが行けないのか、神経を疑う。日光に当たり、明るい気持ちで身体を動かす。これは外出を控える人達に必要なことだ。運動をしないで、室内に居ればたちまち身体は衰える。

 年寄は2週間家の中で動かなければ歩けなくなると言われている。感染症を恐れる余り、寝たきり老人になれとでも言うことになる。バンナ公園を散歩するのは悪いことではない。毎日公園の脇を車で通るが、ここが密集になるほど人が居たことなど、過去例がない。

 市長は余りにおびえて大切なことを見失っていると言わざるえない。ふるさとに帰るれるように仕組みを作るのが市長の役目である。何ら努力をしないで、来島の拒否だけでは、ふるさとの心を失うだけである。

 お茶には一期一会という言葉がある。お茶会の席ではあらゆる人を同じに扱うと言うことである。たとえ前の人が、感染症の人であってもお茶を回して行くと言うことだろう。今実際のお茶会は開かれていないと言うことかもしれないが、感染症で互いを排除する社会になって良いわけがない。

 お茶会において、前の人がライ病であったので、耳がお茶に落ちてしまったのだそうだ。すると次の客はそのお茶を普通に飲んだという。これが一期一会だと、東北福祉大学の学長であった萩野先生から教えていただいたことだ。

 確かにコロナ感染を広げようなことはやってはいけないことである。できる限り避けなければならない。都会に止まって感染を広げるのであれば許されるのか。石垣島が医療機関が不十分である。年寄も多い。それならばどうしたらいいか考えることが必要だと思う。

 都会から実家に戻ることを排除する社会は変えた方がいい。納得がいかないところがある。2週間暮らせるホテルをふるさとが用意したらどうだろうか。もしそういうことが出来れば、ふるさと石垣島が世界から見直されるだろう。

 東京には帰国者が2週間滞在できるホテルが存在する。石垣にもふるさとに戻る人を受け入れるホテルを準備することは不可能ではない。そうした暖かいホテルなら、これからお客さんが来るときには利用させて貰う人が増えるはずだ。

 ホテルも空いているはずだ。感染しているわけではない。用心のために2週間待機する場所だ。温かく迎えることは将来の石垣島に必ず役に立つ。感染者のためには沖縄県がアパホテルの協力で場所を準備してくれたという。まだ一人もそこには居ないのだから、そこに入れて貰うのもあるのではないか。

 それは出来ないかもしれないが、他のホテルでもふるさとに帰ろうキャンペーンなら協力してくれるところがあるかもしれない。もしそうした活動が始まるなら、私が政府からいただく、10万円はそれに回したい。収入が減少しないのに、10万円いただくという必要はない。他にもそういう人が居るかもしれない。そういう人が10人居れば、10人がふるさとに帰れる。

 感染が起きているのに、来た観光客が悪いというようなことが言われる。しかし、観光客から、感染が起こることは想定できたわけだ。そこで観光客と接触していた人がどう注意していたのか、どのような行動を行ったのかと言う問題もある。感染は必ず起こリ得るものだ。それに対してどう対応するかを考えるしかない。

 観光で地域経済を活性化させて行く石垣島の経済の姿勢を考えれば、観光客が来ることは喜ぶべきことだ。受け入れながらどう対応するかを考える方向に変えなければ、島の経済が成り立たなくなる。その道はあると思う。その道をどこかで開かなければ、この先何年でも自粛生活と言うことになる。

ふるさとに帰れる体制を作ろうじゃないか。そういう温かい石垣島の方がいい。
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水彩画の見ると言うことについて

2020-04-22 04:15:52 | 水彩画

 遠くに見えているのは竹富島である。まるでニラカナイのように見える。理想の世界である。20日に行われた、感染検査では14名全員が陰性であった。一番濃厚接触と思われる人だから、まずは良かった。

 コメントに「自然を飽きることなく見つめている」と言うことを書いてくれた人がいる。過分なお言葉であるが、当たっている。好きな風景を見ていれば飽きることがない。考えてみれば不思議なことである。みる喜びと言うことなのだと思う。

 絵を描くという前にその場所をよくよくみたいと言うことは確かに強い。では見る喜びと言うことは一体何なのかと考える。これは大学の時の美術部の仲間だった、Uさんが言ったこととして今も記憶に残っている。見る喜びを深めると言うことを言われた。

 何十年も考えてきたことだ。見ると言うことには3つあると言っていた人がいる。みるには「見る。診る。観る。」の3つがあるというのだ。絵を描くときのみるは観るである。これは思想を持ち対峙してみていると言う意味になる。たんぼをみるのは診るである。

 カンと言う言葉にはもう一つの側面として、「感、勘、観」の意味の違いがある。絵は感じて描くという意味では感であるが、感じただけでは十分でなく、それが世界観というような観念にまで高められなければならない感じ方になる。

 絵を描くためにはみて、理解して、それを思想にまで高めなければ描けないと言うことになる。勘で絵を描いている人から見れば、随分ややこしいことを言う奴である。そんなことを言っている間に描けばいいんだというのが、勘でやっている人の主張だろう。

 いっぽう感じたものを表現すればいいという人も絵を描く人には多い。感性の優れた感覚派である。感性が図抜けているので、理屈がいらないというタイプである。ボナールなどそうなのだろう。ボナールは一瞬みただけで再現出来る特殊な能力があったという。

 風景を見て美しいとは誰もが感じる。しかし、この美しいというものには人それぞれであり、同じ人でもその人の成長によって、美しさの内容が変わる。美しいと思うないようには各個人の人間が関わっている。

 絶景と言うことが最近よく言われるが、ここでの美しさは自然の驚異的姿を現している場合だろう。絶対的な風景。他には類を見ないほど超絶的な風景という意味になる。これは絶景という言葉を厳密に言う場合である。最近はとても美しい景色と言うぐらいの意味で絶景という言葉を使うことも多い。

 今は絶景を描きたいとは少しも思わない。風景を描き始めた頃、美しいと感じたところを描くことにした。美しいと何故感じるのかが不思議で、それが分かるまでその感覚に従ってみようと考えた。自分の美しいに従おうと思った。その頃描いた場所は大体写真家が良く写真を撮るような場所だった。

 描いていると写真の愛好家が3脚を並べるのでびっくりしたことが何度もある。どうもその場所は写真雑誌に風景写真を撮る良い場所として紹介されているというようなことだった。簡単に言えば、通俗的な場所である。風呂屋の絵のような場所だ。

 通俗的であろうがなかろうが、美しいと思う気持ちに従うだけにしていた。そうして全国を歩き回った。北海道から沖縄まで、日本の美しい場所で行ったことがないところはないくらいになった。国立公園シリーズという絵があり、国立公園のすべてを有名画家が描いたものがある。

 そのすべての描いた写生地を探し歩いた。そしてその場所で描いてみた。そうしたことを20年ぐらいは続けた。40代から50代はそんな感じであった。そのうち、描きたいという場所に変化が産まれた。自分がやっている田んぼが美しく見えるようになってきたのだ。

 田んぼの生育の観察を続けているうちに、イネをよくよく診ると言う習慣になった。葉の色を診ておおよそ根の状態を想像できるようになった。土壌の状態、水の様子。今イネは何を欲しているのか。そういうことを観察し理解をした。

 毎日毎日イネを見続けているうちに田んぼというものがよく見えるようになった。すると、その美しさは自然の美しさとは違う、自然と関わるものの美しさのようなものが見えるようになった。ああこれを描いてみたい。美しさを感じる何かが変化をした。

 美しい田んぼや畑を探して描くように徐々に変わっていた。それが意識が明確になったのは原発事故で、一度絵が描けなくなった後のことだ。海が怖くなり診ることが出来なかった。今度のコロナ非常事態では絵はドンドン描ける。むしろ今描かなくてはならないという気持ちがわいてきて、絵を描く勢いが強い。

 見ると言うことを確認するために描いてみると言うことがある。私が描いている場所は畑か、田んぼがあり、そこを俯瞰できる場所である。俯瞰してみることで大きな耕作地を取り囲む自然との関わりが見えるからだ。この空間の醸し出すモヤモヤしたものを捉えたい。

 美しい風景が発する炎のような力満ちる感じである。何なのかと思う。どこにでもあるわけではなく。ここぞという場所に見えてくる。この見えてくる何者かを描いてみた。つまりこの描いてみたいは診ているものを確認したい。あるいは自分のものにしたいという気持ちなのだろう。

 空間の形が俯瞰のようになるのは生まれ育った甲府盆地を見下ろす、藤垈の向昌院からの空間の感覚のような気がしている。グアーンと意識がグライダーで空間に飛び立つような感覚である。

 こうした特別な場所にであうと、見えているのだから描けるはずだと思う。見えているものが描けないはずがない。ところが絵にしてみるとかなりの部分が抜け落ちている。技術的な問題も大きいというのが、ここ1年でわかったことだ。大分水彩技術を練習した。

 描くと言うことで、自分のみているを深めていると言ってもいいのかもしれない。見ているだけではいられないところが、私という人間の浅ましさなのだろう。観ているだけに至るのが道である。ところが乞食禅の私は観たものを記したいのである。

 そんなことが出来るのかどうか。あと10年描けば画面に出来るかもしれないと。今も前の絵よりはましだと思える。前より進みながら描ければ、たいした能力がないとしても、絵に生きたと言う証にはなる。絵を描いていれば、天性のものに差があることが分かる。

 ただ、私ほど田んぼを診たものは居ないだろう。自給自足の標としての絵というものが出来れば本望である。道は遠いいが底に向かっている意識はある。

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石垣島の状況

2020-04-21 04:38:43 | 暮らし

  石垣島はうりずん「潤い初め」の季節を迎え草が勢いを一段増したようだ。草地の緑も目が覚めるように色鮮やかだ。行くたびに草量が増えて行くことが分かる。石垣島の一番好きな季節だ。

 絵の方はすこぶる快調に描いている。この調子で行けば、ちょっと良くなるような期待をしている。コロナのことで、気持ちが定まったような感じかもしれない。これは原発事故の時は絵が描けなくなったのだが。むしろ描いておかなければという気持ちは強い。


 石垣市ホームページより、
4月16 日には、さらに1名の感染者が確認され、その方については先の感染者と同じ 飲食店の関係者で、4月1日に発症後も市内の飲食店等において会食されていたことが、同席した複数の 方に確認が取れており、濃厚接触者が数十名から百名以上にのぼる可能性が高いことから、石垣島内にお いては、クラスター感染が起こり、無症状の方なども含め、既に多くの未確認の感染者がおられる可能性 があります。 
 石垣市においても緊急事態を宣言いたします。全市民の皆様につきま して、病状の有無にかかわらず、明日より2週間の自宅待機を強くお願いいたします。 食料品・必需品の入手や、急を要する医療機関の受診、どうしても外出を要する仕事などの必要な場 合を除き、外出を厳に慎んでいただき、外出せざるを得ない場合には、密閉、密集、密接の三密の回 避、他者との適切な距離の確保、マスクの着用、手洗い、うがい、手で顔を触らない等の感染防止策を 徹底してください。

 石垣島で感染者が出たのは4月13日。1週間経過して現在3人の感染である。4月初めに感染したと考えられる。3例目の患者が最初の感染者であったことが後で分かった。5月1日までは外に出ることは出来なくなった。食料も買いに行くことは控えなければならない。

 その後濃厚接触者を中心に19人のPCR検査を行っている。その結果は20日以降に出るとされていた。そろそろ出るところだ。中央公園にコロナ相談外来を設けてある。そこに52名の方が相談にみえたそうだ。

 石垣島はどことなく緊張感が高まっている。外出の自粛は都会よりも徹底しているのではないかとおもう。3密はかなり避けられていると感じている。先日眼科へ行ったらば、3密であった。予約でなければ行かなかったのだが、仕方がなく出かけた。その後電話診療で良いことになった。

 ファミマもいくつかは閉まっている。ほとんどの飲食店が店が閉まっている。普段はレストランだけのお店も、テイクアウトを始めて、30軒ぐらいのお店がお持ち帰りできますの登録がされた。夜の歓楽街である三崎町も8割の店が閉めたそうだ。それは2割の店は営業していると言うことでもある。ラジオでは相変わらず路上寝込みを放送していたから、飲む人は変わらずのようだ。

 車からみるスーパーの様子は結構車が止まっている。大丈夫か少し心配なくらいだった。市は買い物を5回を1回にしてくださいと呼びかけている。市の広報車が喚起のために巡回している。

 まずは感染がどのように広がっているのか。クラスターが起きているのかどうか。充分調べて貰いたいものだ。感染者のバーの従業員20代の一人の方は情報がある程度公表されたが、もう一人の60代の女性の感染者の方はどういう状況なのだろうか。行動は充分把握されているものと思いたいが、なぜ情報が公表されないのだろうか。その後も一切の報道がない。

 2例目の感染者として発表された人は実は3例目の感染者から、感染した人であったことが分かった。当初本島から来た人から、1ヶ月前に感染したとされていたとこうひょうされていたが、このことはまちがえであった。やはり潜伏期間が1ヶ月というのはあり得ない。4月に入ってから感染が起きたことが確認された。
 
 現在、濃厚接触の関係で11名が検査を受け、結果待ちである。今日あたりには分かるのかと思う。前回一度目の濃厚接触者の検査が行われたときに、8名の検査を行い、1名が実は最初に感染していた人であると分かったのだ。

 石垣市ではPCR検査機器を現在取り寄せているそうだ。島ですぐ検査が出来るようになる。島ではマラリアの記憶があるので、かなり自粛は徹底しているように見える。とはいえ、完全な外出禁止は無理なので、感染機会がないわけではない。

 ますます、行政への信頼性が重要になる。行政が信頼にかけるものならば、国民は何を信じたらいいのかと言うことになる。台湾のコロナ対策の成功の背景には台湾国民の政府に対する信頼がある。石垣市で言えば、市行政がどこまで信頼していいものかである。当初感染を3月半ばとしていた点は頼りない感じだ。台湾とは姉妹都市もあり、交流があるのだから、是非とも指導を仰いだらどうだろうか。

 80代の老人だと致死率は11%。40代以下では死んだ人はいない。この違いを考えなければならない。結局の所ほとんどの人が感染せざるえない病気なのだ。病院の機能が継続できるように、徐々に感染する。そして、老人でもある程度回復できる薬の出来るのを待つ。

 感染者の行動情報が公開されなければ、疑心暗鬼が広がり社会はさらに差別と混乱が起こる。しかし、信頼できない政府が個人情報を把握すると言うことは、日本では余りに不安が大きい。緊急に政府から独立した組織を作り、コロナ情報公開の仕組みを作るべきだ。

 当初石垣で感染が起きたのは1ヶ月も前のこととされていた。つまり今回の感染者は1ヶ月経過してから発病したと言うことになってしまう。あり得ることとは思えなかった。こうした間違いは行政の信頼を損なう。感染者と1ヶ月前に接触した以外に、今月に入ってからも他の感染者と接触したと考えた方が自然だ。

 中国の調査では一度感染した人が、回復して抗体ができていない場合があるらしい。抗体ができていた人の事例は過去のコロナ系統の免疫の交差免疫ではないかと言うことである。これはどういうことを意味するのだろうか。間違えなのか。抗体ができないウイルスだとすると、ワクチンは開発できないと言うことになる。まだまだ疑問が出てくるウイルスだ。

 中国からこの病気のことをもっと教えて貰わなくてはならない。武漢では一旦外出禁止が解けはしたが、相変わらず多くの人が感染を恐れて外出はまだしないようだ。外出を控えながら、生産を再開しなければならない。

 韓国では感染者が利用した場所に近づくと、スマートホンに注意信号がなるようになっているらしい。そうやって感染の拡大を防いだ。個人が出歩かないように徹底しなければ感染は止まらないだろう。石垣島では相変わらず、レンタカーは走っている。どういう人なのだろうか。観光客なのだろうか。仕事なのだろうか。

 石垣島のFMラジオサンサンラジオも生放送でない日も設けることになった。観光客は少ない。しかし、レンタカーもそれなりには見かける。川平公園には30台が一日に来たと言うことである。工事現場では大半の場所で、作業はいつもどおり行われている。

 ウイクリーマンションのような所に、レンタカーが止められているから、観光客はそれなりには来ていると思われる。ホテルよりそういう所の方が、人との接触はないので避難してきた人なのかもしれない。自転車で走っている人もいる。ドライブ観光なら感染のリスクもない。

 いずれにしても前例のない経過である。今一番注目すべきは最初に感染が広がり、収まりを見せた中国の経過である。武漢で経済活動が再開されて、一体どういうことが起きるのかである。中国政府は再開に自信を持っているようなので、日本が今後どういう経過をたどるのかを中国から学んで貰いたい。

 アメリカのカリホルニアではウイルスの抗体検査を行ったところ、相当数の免疫を確保した人が存在することが判明したという。感染に気付かず、抗体をえた人が把握されている感染者の50倍以上いると言うことだ。

 これは希望のある情報ではある。感染しても発病をしない人の方がはるかに多いのだ。マイナス要素はその人が感染を広げてしまうので、感染の広がりは止めがたいが、若い人であれば特異例を除けば重症にはならない。

 かつてないタイプのウイルスだとすると、ともかく情報が必要である。日本が感染のピークを先延ばしにする作戦できた。それは一定成功してきたように見えるが、その場合感染のピークがこの1,2週間先になるのかどうか。そう期待はしているが、そこで果たして収まるかどうか。

 アメリカはピークを過ぎて収まるとして、経済活動の再開をトランプ大統領は発言している。期待して良いものなのかどうか。例えば台湾のように集団感染しないで収まった場合、この先どんなことが起きるのだろうか。世界からコロナが消えるまで海外と交流ができないと言うことになるのか。ゆっくりであるとしてもコロナウイルスがある以上、ほとんどの人は感染すると言うことであろう。

 あるいは感染した人も免疫が出来ないとして、いつでもコロナ感染が再発すると考えなければならないのか。いずれにしても各国情報を公開すべきだ。このウイルスを金儲けの材料にして、公開をしないのは最悪である。
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アベ政権は統制を失っている。

2020-04-20 04:10:48 | Peace Cafe


 アベ政権の批判を今はすべきではないと考えてきた。今は文句を言うより自粛だと主張しても来た。新型コロナウイルスに対するためには、感染をできる限り先に延ばすことだ。そうしなければ医療崩壊になる。ともかく一定期間人間の接触を止める以外にない。そのためには日本中で心をそろえる以外にない。

  (この先はアベ政権の批判である。悪口を読みたくない方はここで止めてください。)

 ところが、あまりのことである。ここに来て国民の心を乱しているのはアベ氏の存在なのだ。緊急事態宣言して、最も重要な場面である。台湾、韓国、中国、良い結果を出している国は政策が明確である。日本がそこから学べないのは、アベ政権の思い上がりである。国民の問題より、政府の方針がゆれていて、気持ちの求心力を失い始めている。コーチが悪いのでワンチームになれない。

 アベ政権を中心にして心をそろえようとしても、もう難しい状況ではないだろうか。これは書くべきようなことでないことも承知はしている。もう我慢が出来ない。一番がっかりしたのは、アベアキエ総理大臣夫人である。3月15日に大分県の「宇佐神宮」に50人でお参りしたというのだ。

全国4万600社の「八幡さま」を束ねる総本宮。この日、昭恵夫人は朝7時ごろに宇佐神宮の元宮・大元神社を訪れた後、車で移動し、午前10時半ごろに宇佐神宮へ。医師の松久正氏が主催するツアーの一行。〈神ドクター降臨 in Oita〉と銘打たれたツアーを主催する松久氏。〈不安と恐怖が、ウィルスに対する愛と感謝に変わった途端、ウィルスは、目の前で、ブラックホールから、突然、喜んで、消え去ります〉ーーー文春記事

 週間文春の記事である。このツアーに行くのを安倍総理は知っていたというのだ。一体どういうことだろう。知っていたら止めるべきだろう。小池知事は不要不急の外出の自粛をその直後に国民に要請をしているのだ。この状況下東京都民が50人のツアーで大分までお参りに行くなど正気の沙汰ではない。韓国での新興宗教の集会での感染爆発を彷彿とさせる。

 確かに家庭のことは難しい。我が家でもアベさんのお宅と同じで、一切行動は自由である。しかし、さすがにこのツアーに参加すると言えば、なんとしても止める。これは個人の自由とか、女性の自立とか、人格の尊重とか言うこととは別次元のことだ。どれほど大分県の宇佐市の方に不安を与えるかである。総理大臣夫人としてそれが国民の目にどう映るかが分からないということが情けない。

 突然アベ政権は豹変して日本に暮らす人に、ひとり10万円配ることになった。すでに予算案を出して審議に入ろうとしている最中の変更である。予算案の組み直しに1週間かかるという。10万円配布は散々野党が要求したとき出来ない、無理だとしていたことではないか。一世帯30万も矛盾はいろいろある。いずれにしても欠点はあるのは当たり前だ。最終判断は政治が行うのだ。

 私は世帯30万円の方は関係がなかったが、今度は20万円もらえることになる。別段現状では収入の減収はないから、棚ぼたである。そうした年寄世帯は多いことだろう。予算案作成の段階では財務相の反対で、一律10万円は行えないことになっていたはずではなかったか。

 消費税の減税の方がコロナ対策として適切ではないかという。野党の要求も財務相の反対で出来なかった。そもそも30万円給付に賛成だった公明党は今頃になって何故覆したのだろう。もう泥船アベ政権にはのってられないと言うことなのか。

 財務相に公文書の書き換えまで忖度させて、迷惑をかけたアベ氏である。財務省には逆らえないはずだった。アベ氏は消費税の10%もそうであったが、財務省の言いなりにならざるえないのだろう。財務相の忖度は総理大臣を言いなりにするためだったように見えた。学校の休校。大型イベントの中止要請。いずれも内閣の内部にも事前の連絡もなかったという。あのマスク2枚も独断専行と言われている。

 中国からの入国禁止が出来なかったアベ政権である。その後の日本への渡航制限も遅れに遅れた。そして徹底してPCR検査を行うことが出来ない。各国が何千という検査を行う中、それが出来ない日本に唖然とした。これもアベ氏はすぐに出来るようにすると言いながら、ずるずるときてしまった。

 しかも、まだ日本は最悪な数の患者数ではないにもかかわらず、もろくも医療崩壊が言われだした。医療物資が全く足りないというのだ。まさかこれほど日本の準備が足りなかったのかと驚くばかりである。一体アベ政権の国防意識はどこにあったのだろう。国防は武力だけではない。現代の国防は経済、医療、食料と多岐にわたる。絶望的な気分になる。
 
 石垣島に自衛隊基地を作る前に、やるべきことが山ほどある。何もやられていなかったのだ。地方の病院の統廃合が提案されていた。地方再生と言いながら、暮らしの基本となる病院を閉鎖するというのだ。全く日本の非常事態への準備は欠けている。

 習近平国家主席来日への政治的配慮での中国人入国禁止が出来なかったこと。オリンピック開催にこだわりすぎて、ウイルス検査の対応が遅れたこと。残念なことにこの状況ではオリンピックの開催が危うくなり始めている。その上にこの状況下でも憲法改正を発言するアベ政権なのだ。すべてはアベ政権のデタラメな、政策のために国難は深まっている。

 国難はコロナウイルスではなく、アベ政権である。それでもアベ政権の支持が40%はある。この状態も国難である。どれほどでたらめをやろうが、アベ政権を正しいとする人が、40%も変わらずに存在する。それほど社会不安が強いと言うことなのだろうか。

 日本の衰退が始まっていると言うことだろう。このまま行くと、コロナが収まった頃の日本は東アジアの劣等国になる。アベ政権はアベノミクスで経済をごまかしてきただけだ。アベノミクスは実質経済を伴わない。この間明らかに日本の基礎的な産業は衰退を始めている。

 夫人の大分行きに意見のない総理大臣である。星野源さんの楽曲「うちで踊ろう」を聞きながら家でくつろぐコラボ映像は一体何だったのだろう。こんな逆なでする感性の人が国家を運営できるわけがない。それでもアベ政権を支持する人というのは一体どういう人なのだろう。野党がダメだからと言う言い訳はもう通用しない。

 要するに、アベ氏は官僚の御神輿だろう。野党に変わると官僚と持ちつ持たれつの支え合いがなくなるという不安にすぎない。確かに官僚の劣化もひどい。忖度のうまい奴が出世をしているような世界では、力のある官僚が育たない。アベ忖度官僚が官邸に長年居座り、アベ氏に政策提言をしている。それが世間とアベ氏が遊離している原因である。

 こんな無能な官僚が上層部にいることになったのはアベ氏が忖度官僚をばかり、重用してきたからだろう。この状況を苦々しく考えている、心ある官僚がいる。そうした農水省の方にお会いしたこともある。アベ氏がここまで世間ずれしてしまい、自民党とも意思疎通がなくなっている。アベ政権でなければ、日本は非常事態を乗り切るはずだった。

 できる限り今は批判を止めようと思っていたが、我慢の限界である。書かない方がいいような罵詈雑言である。失礼だとは思うが、さらに厳しい事態になることを覚悟しなければならない。黙っていたのではさらにおかしなことが行われるだろう。もうみんながおかしいと言わなければならないのではないか。

 政府が何もやってくれないのであれば、自分のことは自分で処理するしかない。まあそれが自給自足の精神であるから。暮らしを転換すると言うことになるのだろう。悪口を書くのは気分が悪いが、総理大臣は国民の運命を握っているのだから、言わざるえない。


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石垣島にアカショウビンがやってきた。

2020-04-19 04:01:21 | 石垣島


 崎枝のアカショウビンがやってくる写生場所。アカショウビンを昨日も今日も来てくれた。タブレットであわててとったので、どこにいるかもわかりにくい。ガラス越しでしかも写真機が悪い。ガラスを開ければ逃げて行く。車を止めている場所から5メートルほどの枝に止まっていた。大きな赤いくちばしが印象的である。

 今日も同じ場所に来て、又飛んでいった。飛び方がまるで空の中をゆっくりと泳いでいるかのように緩やかに、優雅に大気の中をすり抜けていった。時間が止まる。毎日この場所に来ると言うことは木を整理する前はアカショウビンのすみかだったのかもしれないと少し心配になった。

 悪いことをしたかもしれない。調べてみると太い木のうろのような所に巣を作るらしい。片付けた太い木はなかったので巣を壊したようなことはないのでほっとした。明日も又来てくれるといいな。この赤い色の鮮やかさは別格に見える。飛び立つと火が噴いたようだ。


 絵を描いている真上にあるのが、タコノキである。タコノキは6メートルほどある。丸いアダンの実と同じようなものがぶる下がっている。中々面白い姿で見事だ。タコノキの根は繊維質で根を叩いてほぐし、縄になって利用していたそうだ。崎枝の方がそのやり方を教えてくれた。

 タコノキの実はゆでて食べることが出来るそうだ。完熟するといくらか甘くなると記載がある。楽しみだ。雄花の木と雌花の木がある。確かにどの木にも実があると言うことでもない。小笠原島の固有種と言うことだから、石垣島には移入されたものと言うことになるのだろうか。そう言われてみると、植えられたような場所以外では見たことはない。

 クバの木もそうなのだが、与那国島ではクバの原生林がある。何故か、石垣では探したのだが、野生のクバと思われる木はまだ見たことがない。昔は山に木馬があったのだろうか。ヤエヤマヤシは山に生えている。与那国ではヤエヤマヤシは余り見なかった。島ごとに少し植生が違うのだろうか。

 赤く実ると見事なものなので、赤くなったら絵を描いてみようかと思う。ちょっと楽しみである。枝にぶら下がったところの方が描くにはいいか。葉の方はいろいろタコノキの葉の民芸品があるようだ。葉も根も、実もどれも役立つとは面白い木だ。

 アダンと似ているが同種の木である。タコノキ科のアダンと言うことなのだろう。防風林にはアダンが多いい。庭園木や観葉植物として、小笠原タコノキが使われるようだ。


 写生場所から田んぼが良く見えるように下の牧場の木を切らして貰った。牧場の方はもと農業高校の先生で、とても良い方だ。あっちも切る方がすばらしいよ。こっちも切ってあげなさいよ。言ってくれるのだが、すこしづつやらして貰うつもりだ。

 どうも木が生えていることで困ってもいたと言う風にも言われる。これは私に気を遣ってのことのようだ。本当に心優しい方だ。昨日は牛の世話にご夫婦で見えて、お土産にパイナップルをいただいてしまった。こんなに親切にして貰うのでは。

 絵を描くお布施だとすれば、よほどいい絵を描かなければ申し訳が立たない。私の絵ではどこを描いたか分からないようなものなので、きっと納得はして貰えないだろう。ここが残念なことだが、これはどうにもならない。

 この田んぼを「トウマタダー」と言うのではないかと思うのだが、違うのだろうか。松の木がある田んぼと言う意味だとお話を聞いたのだが、松の木も確かにある。もう2カ所崎枝には松の木のある田んぼはあるので、どの田んぼのことだかはまだ判断は出来ない。

 どの田んぼも実に古い時代の田んぼの姿を彷彿とさせている。上部に湧き水の水源にある。そこから、複雑に水が広げられている。その水が行き尽くす所までが田んぼである。水をうまく回すために複雑な形が出来上がったのかと思う。またとないほど見事な形の畦である。


 2日間描いたのだが、木を切る合間に描いたので、余り時間はかかっていない。色が黄色く写ってしまった。髪はファブリアーノのロール紙である。紙目がスムースである。海に浮んだように見えるのが、竹富島である。沖縄にはニラカナイと言う思想がある。ニラカナイ天国のように竹富島が見える。

 大分イネが育ってきたので、その面白い畦は大分見えなくなってきた。今は何とか緑になった田んぼを描いてみようとしている。初めてのことだ。難しすぎて今まで避けてきたことだ。やらなければいつまで経っても進めないので、出来ないと思いながら描いている。

 その意味では絵を描く意識が変わったのだろう。田んぼをいつも描いているのだから、絵になるのは田植え前後だという意識を捨てた方がいいと考えるようになった。別段絵になろうがなるまいがかまわないという気になっている。絵になるというような考えは捨てたい。

 自分の見ているものに正直に向かってみることが重要ではないかと思っている。描く前から、絵になると言う判断はひとまず置いておく。緑で覆われ始めた田んぼも素晴らしいもののはずだ。緑一色であるから、描きにくいという意識は絵というものの先入観かもしれない。

 田んぼというものを描いて行くためには、緑の海になったときだって描くことだろう。実りの秋にも描くことだろう。自分のやりやすい得意に当てはめるというのではダメだろう。この場所であらゆる季節に描いてみたい。四季それぞれであろう。田んぼというもの全体を描くことだ。

 この写真では田んぼの向こうには丘があり、山に続いている。しかし絵では丘の向こうに海を描いている。海はこの右側には広がっている。広がった海が余りに見事なので、いつも描いている。

 
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非常時で重要なことは食料の安定供給。

2020-04-18 04:23:42 | 自給


 新型コロナウイルスの世界規模での感染拡大が深刻化する中、各国で小麦やコメなどの食料の輸出を制限する動きが広がっている。非常事態で一番重要なことは食糧の安定供給である。日本の食料は大丈夫なのだろうか。

 コロナとの戦いを第三次世界大戦であるとするなら、日本は食糧を増産しなければならない。食糧不足に陥る可能性がある。又、食糧が不足してから想定外では困る。戦争で一番大変だったのは、最前線の兵役よりも戦後の食糧不足だったと、常々父は言っていた。

 お米の作れるところはすべて作らなければならない。何しろ日本は食糧自給率38%の国なのだ。これから世界での食料の輸出余力が失われてゆく可能性がある。もし海外から食料が来なくなれば、ウイルスの蔓延以上に大変な事態になる。

 緊急事態であれば、第三次世界大戦であれば、まず食糧の安定供給である。そのためには日本では稲作である。お米が充分にあれば、後は何とかなる。お米を増産すべきだ。今ならまだ間に合う。世界が食糧不足に陥る前提で準備すべきだ。

 食糧不足になれば途上国の食糧不足が深刻化することになるだろう。人口急増の国々ではさらに悲惨なことが起こると思われる。日本も食糧支援の努力が必要になる。そのためには増産できる田んぼにはすべて作付けすべきだ。政府がふさわしい価格で買い取るのであれば、農家は間違いなく作付けをしてくれる。まだそれだけの農家が残っている。

 幸いなことに日本には稲作というすばらしい農業が存在する。休耕されている水田を今年の作付けに間に合うように政府が指示をしなければならない。今ならまだ間に合うギリギリの所だ。政府には検討を是非ともお願いしたい。今年は本気で稲作をしなければならない年になる。心より農水省にお願いをしたい。

 稲作は環境を豊かにする農業である。循環型の農業が可能な作物である。感染症時代には重要な食料生産方法になるはずである。新型ウイルスの登場の原因は、気候変動、化学物質の多量の使用、人口の増加、大規模畜産等が考えられる。

 人間が地球環境を極端に改変したことが、新型ウイルスの出現につながっている。もう少し戻り、江戸時代の日本人の暮らし方を再認識しなければならない。肉をほとんど食べない。お米中心にした発酵食品の暮らしである。

 日本の国土で3000万人が暮らすことが出来た。この江戸時代は方法は世界の参考になるはずだ。作物の品種改良や農業技術の進歩で、倍の6000万人は循環的に暮らせるはずである。

 幸い日本は6000万人ぐらいまで減少するという予測である。その当たりを目標にして、日本列島という類い希な豊かな場所に幸せの国を作ることが世界の良い事例になるのではないだろうか。それが国家の品格というものだ。

 6925万人というのは昭和11年の人口である。戦前の世界である。83歳の今のお年寄りが生まれた時代はまだ6000万人台だったのだ。この頃にはまだ健全な農業が存在した。

 食料輸入などしないでも暮らすことの出来た時代があったのだ。ところが国は世界に広がる帝国主義に対抗して、軍事国家を目指し、軍備の拡張大陸への進出と政策を誤る。そのためにみじめな戦争の末に敗戦となる。

 それが明治の日本帝国を目指した帰結だったのだ。競争主義の末路は常にそうしたものである。必ず勝者と敗者が存在する。もう一度日本が原点に立ち返り、この他に例を見ない豊かな国土を生かして自給的に生きることではないだろうか。

 もし6000万人の人が自給的に生きるとすれば、一人100坪だから、0,033ヘクタール。200万ヘクタールの農地があれば可能だ。実は日本の耕地面積は減少したとは言えまだ440万ヘクタールある。実は日本人全員が自給すれば、日本の国土で日本人は生きることが可能なのだ。

 この自給は一日1時間働けばいい。後は会社に行こうが絵を描いていようが、それぞれの生き方をすればいい。こんなに豊かな社会は無いはずである。江戸時代の3000万人の安定はそうした暮らしであった。江戸時代が良い時代というのではないが。参考にすべき良いところもあったと言うことだ。

 明治維新で帝国主義を目指した日本は、江戸時代のすべてを悪いものとするほかなかった。そのために江戸時代に開発された、循環型の農業技術も古くさい役に立たないものとして否定されて消えていった。この自給のための技術をもう一度見直すことが大事である。

 これはペシャワールの会がアフガニスタンで行った灌漑事業のように、江戸時代の技術を現代の資材を利用しながら利用すると言うことだろう。ビニール資材を利用しないで出来る農業技術はある。大型機械を利用しないでも可能な農業技術はある。

 油紙や障子を使って、苗作りがされていたのだ。まだかろうじて、そういう昔のすばらしい農業技術を記憶されている方は各地におられると思う。その土地土地におられるお年寄りから、お話を聞いておくことが大切である。

 自給のための食糧生産は商品経済とは関係のないものだ。どこの国もまず、主食作物は作る。主食食料を貿易の取引材料にしてはならない。今回のウイルスはどうも得体の知れないところがある。どんな展開をするか過去の事例では計り知れないことが起こるかもしれない。

 お米を作って無駄になることはない。もし幸運にも余れば食糧支援に回せばいいだけだ。世界の様子は今後変わって行くことだろう。
 

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アベノマスクはお断りしたいのだが。

2020-04-17 04:49:58 | 暮らし


 私の好きな台湾はコロナウイルスを撃退した。中国はコロナウイルスとの戦いに勝利したとして、経済活動の再開になった。今後の状況は注目に値する。両国に学ばなければならない。日本はもう1週間自粛すれば、感染が治まってくる。そう期待したい。

 沖縄県石垣市は16日、石垣島内で新型コロナウイルス感染のクラスター(集団感染)が起きた可能性があることを受け、市独自の緊急事態宣言をした。17日から全市民に2週間の自宅待機を求めている。

 国から小さいと評判の悪い、アベノマスクが送られてくるらしいがお断りしたいものだ。もっと使い勝手の良いマスクが、簡単に自分で作れる。どこに言えばマスクを断ることが出来るのだろうか。ごみになるとは言わないが、使わないで捨てるのでは、もったいない精神に反することは分かっている。

 断捨離の身としては、どうすれば不要のものを家に入れないか悩んでいる日常である。かなり必要なものでも、何とか買わないで済ませられないかいつも悩むのだ。そしていつか必要と思われる物まで捨てている。ただでさえものを捨てる罪悪感で辛いのに、明らかに家に入れたくないものが、国から送られてくるのではぞっとする。

 売っていたとしても絶対に買わないマスクだ。今もっと良い布マスクが石垣島では売られている。皆さんが手作りしている。それは500円ぐらいはするが、私の作るものと変わらない。アベノマスクは大分安そうだから、1枚100円ならマスクを止めて現金200円にしてもらえないだろうか。イヤそれも面倒なら、10万円給付の際に100200円にしてもらえないだろうか。いいや、200円は政府に寄付するので無視して貰ってもいい。

 私は長年布を持ち歩いている。古いものは100年前のものもある。捨てがたくて持ち歩いてきたのだ。別に保存して置くほど希少な布というわけでもない。それほどではない布を捨てられないのだから困る。確かにいらないものではあるが、いい布をみるとたまらなく手元に残して置きたくなる。それでも泣く泣く大半を断捨離した位なのだ。

 その手織りの布でマスクを手作りして使っている。これは中々いい。顎までかぶるようにした。ベンケーシーのようだ。石垣でもマスクをしなければ、歩けなくなっている。県知事の玉木デニーさんは日々手作りのマスクでおしゃれだ。奥さんが作られるそうだ。アベノマスクとは大違いだ。

 子供の頃、家が生地屋をやっていたことがある。子供の私の選んだ生地がよく売れるという伝説があった。それで、どれが売れそうか良く聞かれた。それが不思議に当たったのだ。当時はまだ、生地を購入して家で洋服を仕立てるということが当たり前に行われていた。昭和30年前後の話だ。既製服というものがほとんどなかった時代。出来合いの服は古着屋で売られていたのだ。

 生地を購入した人が、仕立ても依頼することがある。するとデザインを決めて服を作る、そういう仕事が家の商売だった。おばあさんが始めたらしい。その頃は銀座にお店があったので、銀座洋裁店という名前だった。いかにも明治時代の婦人という、すごい活動的なおばあさんだったらしい。有名人では淡谷のり子さんやコロンビアローズさんや画家の向井潤吉さんがお客さんだった。

 戦争から戻った父が、生きるためにおばあさんと一緒にその生地屋を始めたのだ。父は闇で、生地を仕入れてくる仕事をしていたらしい。織物の産地を周り、生地を探しては都会に持ってくると言うようなブローカー的な仕事だったのだろう。元々は柳田国男の門下生で民俗学を目指していたのだが、戦争での中断と戦後の生活苦のために学問をあきらめた。

 そんな環境で育ったので、布地というものには愛着ができたのだ。その上に家にはミシンが沢山並んでいて、大勢の人が縫っていた。岡村さんという女性の洋裁の名人がいた。つい最近まで付き合わせていただいていた。その人は子供好きで、子供の私にミシンの扱いを教えてくれた。

 足踏みミシンでまっすぐに縫うあるいはカーブに縫う。面白くて遊んで覚えた。案外そのミシンが役に立った。ズボンを自分で作ったこともある。それでついつい、良い布を準備しておきたくなった。ヤフーオークションでは私としてみるとすごい布が二束三文で売られている。何かに使えるとついつい買ってしまったのだ。特に白地の絹布は絵も描けるので、大分購入した。さすがに今は買わない。

 そこでマスク作りだ。マスクをつくることは実に簡単なものだ。簡単だけれど顔の前に付けるのだから、スゴク目立つ。女性はアベノマスクは使わないのではないだろうか。ご立派なお顔だちのアベさんでもお似合いとは言えない。いくら非常時の戦時中でもモンペのおしゃれをしたくなる。贅沢は(素)敵だったらしい。

 イヤ配られるのはかまわないけれど、約束したとおりどこでもマスクが手にはいるようにして貰いたい。確か3月になれば売られているはずではなかったのか。こう言う緊急事態で重要なのは政府への信頼感である。出来ないことは言わないことだ。今アベ氏を責めても始まらない。攻めているような文章に読めるが、グチだと聞いて貰いたい。

 みんなで心を合わせれば、一辺にウイルス感染は沈静化する。政府がいい加減なことをしていると、国民が自粛で心を合わすことが難しくなる。それでもマスクはいらない。どこに言えばお断りできるのだろうか。国民にはいらないという権利はないのだろうか。

 そういえば公明党の進言で10万円くれることになったのはありがたいが、これは首里城の再建資金に寄付させていただく。沖縄のアイデンティテーを考える上では首里城は必要である。間違いなく、首里城は琉球王国が存在した記念として伝えて行く必要がある。いつの間にか、琉球は日本の属国だったというようないい加減なことが歴史になる。

 コロナ騒ぎの最中でも、石垣島の自衛隊基地の建設は今日も進んで行く。カンムリワシの営巣時期の今も休まずブルドーザーが動いている。私の感触では名蔵方面でカンムリワシが増えたような印象である。逃げてきているかもしれない。

 自衛隊是非の住民投票の裁判は、コロナで延期になってしまった。辺野古の米軍基地予定地は今日も明日も埋め立てられて行く。明らかに政治が間違っている。知らない間にテロで細菌兵器が使用されれば軍事基地など全く無意味になる。暴力では暴力を防ぐことは出来ない。軍備の意味の変化を自覚すべきだ。

 
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絵は分からないからいい。

2020-04-16 04:12:04 | 暮らし


 科学は回答を求めて模索する。芸術は分からないままにうけいれる。こういうことではないだろうか。だから芸術と宗教は似ている。それでも地球は回っているとガリレオは言った。しかし、地球は回っていないという実感を誰もが知っている。

 芸術が探求するのは自分の内部世界である。自分というものはどこまでも未知なものだとして、その未知な状態を分からないまま表現しようとするのが芸術ではないか。

 分からないままでおいて置くのではない。何が分からないのかを見極めようとするのではないか。人間の内なる闇を闇として見続ける。人間の希望がどこから湧いてくるのかを探り続ける。これが絵を描くことだと考えている。

 いい絵を見て感動するのは答えがそこにあるからではない。同じように闇を見つめている人がいるという共感。同じように希望に向かっている人がいるという共感。絵を見て自分の感じ方、考え方、生き方の励ましになるから、感動するのではないだろうか。

 絵には回答が描かれたことなどない。宗教画においていかに信仰の姿を描いたとしても、それは生きる回答ではない。同じように苦しむ人がいる。同じように勇気を振り絞る人がいる。同じように悲しむ人がいるという共感である。そして、この世界観であれば、自分だって生きて行けるという感動なのだろう。

 絵画はその人の世界観を示すものである。世界観とは人間の回答ではないのだ。世界をこのように分からないものとして捉えているという断面を表現することができれば、それは世界観を示していることになる。崇高なことではないが、当たり前におのおのに尊いものである。

 分からないということを、分かろうとして直面している姿こそ重要である。分からないから、人の出した回答を借りてくると言うことが一番ダメなことだ。私も知らぬ間にそうした回答の仕方をしている。そして、それに自分自身も騙されてしまっている。

 自分自身の欺きに気づくことほど情けないことはない。しかし、そうしたした情けなさの繰返しが絵を描くと言うことでもある。もし自分のインチキが表われていればそれはそれでいい。ダメなのはインチキの自分を理想化した自分にしてしまうことだ。そのままであることができれば、許されるのが絵だ。

 これは絵が出来ない言い訳のようなものにもなるが、死ぬまでわからない絵を描き続ける覚悟である。回答のない問いに向かうのは辛い。しかし、それが芸術として絵を描くと言うことなのだと思う。それを私が私自身に向かう、私絵画と名付けた。

 回答のでない覚悟なのだから、人様の役には立たない覚悟がいる。どうにもならない、役立たずの絵を描く覚悟がいる。褒められない覚悟がいる。評価されない覚悟がいる。絵の良いところは、認められなくとも描き続けられるという所にある。辛いことであるし、人間として恥ずかしいことかもしれない。しかし、こんなダメなものだからこそ励みになるかもしれない。

 引きこもりが悪いことのように思われている。しかし、禅僧も、絵描きも、引きこもりのようなものだ。社会の役には立たない。むしろ役に立たないところが尊い。私は役に立たない絵を描くための、自給自足の確立であった。

 世間からはずれて、役立たずに生きるには、せめて食糧の自給をしたいと考えた。このときは絵を描くと言うこともなかった。役に立つ絵が描けない自分に悩んだ時期だ。売れそうな絵を描こうという自分の浅ましさに嫌気がさしたときだ。

 自分の食料をせめて自給すれば、後は絵を描いていても良いとも思えた。禅僧の暮らしもそうであったのだが、托鉢をするというのは自分が施しで生きていると言うことを自覚するためである。お布施を貰う自分を自覚するためである。

 絵はお布施だと言いながら、いかにも売れそうな絵を描いていることほど嫌らしいことはない。と言って売れる絵を描くだけを絵を描くことだと考えているのは職人にも困る。職人を目指している人が芸術に紛れ込んでくるから、絵というものがややこしくなる。

 世界は新型ウイルスで緊急事態に陥っている。当分の間続くことだろう。長い苦しい日常がこの先待っている。常に気がかりなことがある不快な状態が続く。これは現代文明の必然であった。どこかで人間が方角を変えない限り、繰返し起こることである。何故にと思いながら、耐えなければならない。

 トランプ大統領だって、病気になる不安は同じである。人間は必ず死ぬ。死を自覚することで人生を知るという意味では誰しも同じである。コロナで不安を感じたことを、次に前にむかって生きることに行かして行くしかない。

 又いつか来た道に戻るのであれば、学習できないと言うことである。どこの誰であれ、どれだけの世間的な成功者であれ、あるいは何の役たたずの私であれ、この新型ウイルスを生み出す世界を作り出した一人である。他人事にしてごまかすことは出来ない。これは自分が生み出した病気とも言えるのだ。

 この世界に生きている以上、関係のない人はいない。もちろん文明の恩恵をまるで受けないような暮らしを続ける人にしてみれば、単なる迷惑ではあろう。文明の恩恵を豊かさだとして、どっぷりとつかって暮らしている大金持ちほど、責任が重い。

 又そういう人ほど、責任など全くないと思って、こんな事態に陥っても金勘定だけにしか意識が行かない。株価は世界経済が、停滞し後退することが確実なのに、値上がりしている。火事場泥棒のようなものだ。まだまだ懲りていない。

 まだ文明の方角が変わるには時間がかかることだろう。世界は不安定さを増す。自分の穴蔵を掘る他ない。出来ればその穴はトラの穴のようであり、良い仲間と共に修行に生きる場であればいい。



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