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地場・旬・自給

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大麦の播種と大豆の脱粒 

2020-11-30 04:00:52 | あしがら農の会

 小田原の家の脇の畑2畝を麦の会の畑にした。ビールの為の大麦作りである。右側にあるのがソーラーパネル。原発事故後に作った。エネルギー自給である。坂の向こう側の高いところにあるのが、鶏小屋。下側の天窓が見える家が小田原の家。渡部さんに使ってもらっている。どうしたらいいのかもお任せしている。

 今家の中に大豆が干してある。こういうことに使ってもらえると嬉しくなる。渡部さんには負担をかけるが、農の会の活動に利用できれば、これほどうれしいことはない。

 農作業は人が集まると言っても、野外で広がってやっている。間違っても感染するような条件ではない。それでもみんなマスクをして集まっていた。20人ぐらい集まったのだから、気を付けなければならないないのはお互い様だ。

 28日のあさから、早速穂田さんと打ち合わせをした。穂田さんに仕切ってもらわないと、いけない。黒柳さんの田んぼを出来る限り改修したい。畔直しについては私もずいぶんやってきたので、どうすれば水を止められるかは知っているつもりだ。

 小田原に27日に来て、28日には農作業が2つあった。1週間前の大豆の収穫の時に少し乾燥が遅れていて、脱粒が出来なかった大豆が機械小屋に干してあった。それを持ち出して脱粒して家の縁側に干した。30キロくらいあった。前から干してあった分と併せて、全体で250キロぐらいだろうという事だった。

 大豆の出来はかなり良かったのだが、収量としては一つの畑が鹿に食べられてしまって、残念なことになってしまった。小田原の獣害は年々深刻化している。イノシシや鹿の害は以前からあったのだが、柵があっても飛び越えてくるようになった。

 もう舟原辺りでは普通の農家ではできない状況ではないだろうか。一軒が止めると、他の家に集中する。柵の高さを倍に直さなければならない。畑が減れば、それだけ今まで来なかった村中の家の隣の畑にまでくるようになる。畑の配置を変更しなければだめかもしれない。

 欠ノ上田んぼの下2反の元みかん畑を今度借りることになっている。1反は田んぼにして、1反は大豆にするのだはどうだろうか。家の脇の2畝ほどの畑も、大麦の後は大豆にしたらどうだろうか。舟原奥の畑は、イノシシやシカにやられない作物だけにする。このまま引き下がるという訳にはいかない。

 大麦は大豆を収穫して、渡部さんがそばかすを撒いて、トラクターで耕してくれてあった。すぐに大麦を播くことができた。大豆の脱粒の後だから、10時30分ごろに始めて、1時までかかった。1反の播種に2時間半はかかり過ぎだが、30センチ間隔で密に播いた。分げつがとれないので、密に播かないと収量が少なくなる。分げつが多くなったならば、畝間を広げるつもりだ。

 土壌が良くなってくるまでは密に播く方が無難だと考えている。田んぼもそうだった。分げつがとれるような土壌になってくれば、素に撒いても大丈夫になる。これで総生寺裏の畑は4年目である。4年目の様子によっては来年は45㎝に変えてもいいかもしれない。

 大麦の播種量は1反で4,5キロぐらいだったと思われる。大豆播種器のベルトを1個置きにした。一か所から4,5粒落ちていた。今年どの程度カラスムギと、ネズミ麦の雑草が出てくるかである。かなり昨年取ったというから、少しは減ってくると思うのだが。

 大麦の播種時期としては少し遅れている。まだ暖かい日が続いているので、大丈夫だと思う。土壌の様子を見ると、以前とはずいぶんと違ってきた。畑は作り込んでこないと良くはならない。長年化学肥料でやっていた畑は砂化していて団粒が無くなる。

 家の脇の畑は確かに土が良い。もう10年以上畑をやってきたから、土が充実している。上野さんが丹精込めて作っていたことが良く分かる畑の土であった。総生寺裏の畑と較べることが出来るので、土の様子もわかることだろう。

 おとといは終日外作業だった。身体はそれほど疲れることはなかった。当然である、実際作業はやっていなかったと言える。見ているばかりだった。大勢の人が熱心にやっているので、出る幕もない。それでも30日からの田んぼの改修工事の身体慣らしぐらいにはなった。

 昨日は坊所林道の草刈りをした。8時半からの作業になる。久しぶりにたくさんの人と顔を合わせることができた。坊所林道の清掃もはじめて10年ぐらいにはなるだろう。皆さん熱心である。こうして自分たちの使う道は自分たちで管理してゆくという気持ちが、坊所には残っている。

 溜池の打ち合わせも出来たし。新しく農の会の仲間がやる坊所田んぼのことも、地域の人に挨拶をすますことができた。皆さん今年はやってないなと思って心配していたよと言われた。田んぼのことは目に着くから、気にされている。
 
 早く終われば、麹を仕込むかと思っていたが、お米を水に浸してないので、すぐには出来ないことに気づいた。ところが昼頃帰ってみると、渡部さんがお米を水につけて置いてくれた。それで午後から麹の仕込みをした。

 順調に仕込みは夕方には終わった。私の麹は3時に麹菌の植え付けをした。今36度である。いま、13時間目である。温度的には順調であるので、7時ごろに1番手入れをして、朝夕1回づつ手入れをして行こうと思う。温度調整は電気カーペットを使っている。

 今日は田んぼの土運びを始める。今日一日土を運んで、明日からは畔名をしをする。黒柳さんの田んぼの改修工事である。なんとか、1,2,3日で終わらせる予定だ。雨はなさそうなので、何とかなるだろう。身体の方がどの程度持つかの方が心配である。

 今回は1日だけ山梨に行って、藤垈のどこかで一枚絵を描いてきたいと思っている。もう一度向昌院からの甲府盆地を眺めてみたいと思っている。子供のころの目に焼き付いた空間を確認してみたいのだ。下に広がった空間をどう感じていたのかを見てみたい。今石垣島で描いている景色の確認である。

 タマネギの植え付けはやりたいが苗の成長が少し遅れているが、どうなるだろうか。出来なければそれも仕方がないと思っている。5,6日あたりで出来れば、参加できるのだが。聞いたところ5,6日を予定しているとのことで参加できる。
 

 
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第29回 水彩画 日曜展示

2020-11-29 04:29:06 | 水彩画
第29回 水彩画 日曜展示






90,「名蔵アンパル田んぼ・実り」
中判全紙 ファブリアーノ、クラシコ
2020,11







91,「崎枝、耕地整備あかど」
中判全紙 ファブリアーノ、クラシコ
2020,11






92,「崎枝のパイナップル畑」
中判全紙 ファブリアーノ、クラシコ
2020,11

 
 すこし、自分の絵という気がしてきている。誰かの絵ではなく、自分の目が見た景色だと思える。ただその世界の深さがそれほどでも無いなとは思う。しかし、それは仕方がないことだ。自分の見えるところまでしか描けない。

 まず、自分の見えているものを見えているように描くこと。その世界が人に伝えるほどの価値があるかないかは、生きてきた深さによって出来て来た世界観が哲学というような意味で、人類の共通価値にまでなっているかではないか。それにはまだまだと言うことのようだ。

 まだまだと言うことが分かっている以上、努力して深めるいがいにない。ここまでというわけにはいかない。修行である。ひたすらの修行が、只管打画と言うことになるが、本当にそういうものかどうかは、わたしが到達できた絵が示してくれると言うほか無い。

 
                                                                                                                                                                                                                                                                      
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水彩画の「自画自習」

2020-11-28 04:01:06 | 水彩画




 石垣島に来てからの二年間は水彩画を学び直している。水彩画の「自画自習」だと思っている。いよいよ「自画の確立」に進まなければならない。ここからが難しいのはよく分かっている。しかし一度ご破算にしたのだから、なんとしても自分の世界の表現を見つけるつもりだ。

 いい絵を描くとか、絵は何かとか言う以前に、水彩画というものを初歩の初歩から学び直してきた。そのつもりだったのだから、当然のことであるが、基礎ができたと言うことは嬉しい。水彩画の描き方は理解した。水彩画小学校は卒業して、水彩画研究所に入ったぐらいのところである。

 小田原にいた最後の頃は、人が作り上げた絵から学んで身についてしまった悪い癖のようなものを、どうやって捨てるかに専念していた。それもなかなか大変ではあったが、何とか拭い去ることは出来た。他人のいい絵に頼ることは無くなった。頼ったところで私絵画は始まらないと言うことばかり考えていた。

 石垣島に来てからはもう一度自分の目が見て惹きつけられる風景を、自分の何が惹きつけられているのかを考えてきた。見ているものの意味を考えながら、見えたように描こうとやってきた。見えたように描くと言うことは水彩画の学び直しであった。

 空ならこんな描き方をするという、身につけた描き方でやるのであれば、それなりには描けるわけだが、自分の目が今見ているように、なぜ空をそう見るかを自覚して表現するために、水彩画の方法を研究してきた。それは余りに多様であって、日々空は異なって行く。たぶん自分の見ているも動いているのだ。

 実に水彩画の表現も多様である。同じことでも違う方法でそこに至ることもある。同時にこれでなければ、この表現は出来ないというものもある。そうして、一つ一つ積み上げる事はできているようだ。もちろん絵画の表現が出来るようになる訳でもないが、表現する技術は身についてきた実感がある。

 いよいよ何を描くに向かわなくてはならない。大事なところに来ている。何が描きたいのかを見つめなければならない。見えていると言うことがどういうことなのか。何故、そこを見ると惹きつけられるのか。惹きつけられると言うことは、何故なのか。

 そして、自分の中にあるものを自分の絵画として表現できるのかである。ここからは昔に戻っていて難しいところである。ご破算にして、初めから学習して、見えているようにはある程度出来るようになってきた。そうなると、絵になるか成らないかは、自分の中にある絵画だけの問題になる。

 水彩画研究所の先生は目の前にある風景である。自然ほど良く出来たものはない。その自然に人間が生活のために農業という形で折り合いを付けている。この石垣島の風景は、その意味で私の求める世界観には理想的なものだ。この考えと、見えているを、どう結び付けるのかである。このすばらしい石垣島水彩画研究所であと10年なんとしても研究したいものだ。

 冬水田んぼを描いてみた。名蔵の奥の白水田んぼである。ベラ望遠鏡のすぐ下である。すぐ下なのだが、道は通じていない。まるでカフカの城塞のようだ。観光客が迷い込んでくる。初めて冬水田んぼを描いてみた。今年は何故か、あちこちで冬水田んぼにしているのだ。秋起こしをしてから、わざわざ水を入れている。代掻きもしたのかと思えるほど、きれいな田面である。

 水を溜めるなら、ここまでやった方が後が具合が良いかもしれない。なぜか、今年の冬の田んぼはどこも手入れが良い。これも、コロナ自粛の波及効果かもしれない。石垣の田んぼは冬水田んぼが良い。それは生き物の多様性にとって良いことだからだ。

 特に名蔵地域が鳥の保全地域に指定されると言うことであれば、田んぼはできる限り水が張られている必要がある。水鳥の飛来は間違いなく増えるはずだ。田んぼがいくらか沈殿効果となって、赤土の名蔵湾への流出も減るかもしれない。一ヘクタール近くある、谷間の30枚ほどの田んぼに冬水が張られている姿はすばらしい景観である。

 そのご苦労も思うと、描いてみたくなった。たぶん冬水の苦労はやってみたものしか分からないことだと思う。この感謝というか、苦労も含めて描くものなのではないか。それだから田んぼが美し見えるのではないか。風景を描くと言うことは自分にとってはそういうことなのだと思う。

 人間が関わる自然。人間と自然が折り合いを付けている姿。ここに惹きつけられる。手つかずの自然では、美しいとしても模様になるだけだ。人間の祈りのようなものがあって、思いがあって、その思いまで描くことが自画自習なのだろう。

 日本の自然の美しさは里山にあると日本人は知っていた。ところがもうその里山の風景はほぼ失われた。観光目的の人工で残された里山はあるが。国際競争力のある農業では土の畦など無理である。田んぼの土の畦の豊かさは自然との調和にとって貴重なものなのだ。コンクリート化すれば、失われてしまう自然がそこにはある。

 水で覆われた田んぼという空間とそこに残された島のような土の畦、これで生物の多様性が維持される。畦の昆虫が田んぼの虫を食べる。畦はバンカープランツである。白クローバーがいいと思う。白くローバーの緑はその理由が分かればどれほど美しいものに見えることだろうか。

 私の絵を見て白クローバーだと分かることは無い。そんなことが分かる絵はくだらないと思っている。しかし、田んぼと畦と、そこに育つ草とが織りなす美しさは表現しなければと思う。水が織りなす、人間の関わる自然。それが美しい自然だ。美は人間のための美だ。

 石垣島の田んぼはすぐ脇には人を寄せ付けない森が続く。この森がこの田んぼを豊かにする森となっている。海を豊かにする森なのだ。森と田んぼは響き合い息づいている。そういうことを描きたいものだ。ここを大切なものとして描いて行きたい。

 この大切さをわたし自身がよくよく感じていれば、目の前の風景もそのように見えてくるはずだ。その見えてきたものを描きたいと思う。それが石垣島で描くことになった役割なのだと思う。自分で見つけた道である。

 昨日から小田原に来ている。石垣島の家を朝9時に出て、3時には小田原舟原の家である。それでも小田原来てみると石垣で絵を描くという意味が再確認できる。これが2拠点居住の良いところだろう。2週間の小田原で農業生活である。短い期間だが、農業に専念しようと思う。

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木工の楽しみ

2020-11-27 04:04:04 | 暮らし



 アトリエカー用のイーゼルを作った。材料はカバザクラだ。工作しやすい材料なので、まるで松本民芸家具の作家が作ったかのようだ。高さは低い段と高い段の二段だ。50号までは乗せることが出来る。バンドは車が走っているときに動かないためのものだ。

 ゆっくり木工をやる時間が取れるようになった。これも石垣島に来てやっとというか、コロナで落ち着いたと言うことだろう。それでも石垣島に来てから、テーブルを4つ作り、収納を兼ねた書のためのテーブルを作り。陶芸作品展示棚を作り。そして、絵の具入れ引き出し、筆立てを作り、今度は画架である。イーゼルと言うより、画架という方だろう。木工はやはり好きなのだ。あれこれ作っている。

 持っている水彩用イーゼルではアトリエカーには適合しない。少し位置が高すぎて座って描くにはうまくない。残念ながらそれが使えないので、この際アトリエカーに最適なものを作った。少々木組みを凝って作ったところが自慢だ。しかし、ボンドとネジ止めもしているところが素人だ。

 組み立てたときに実にがちっと組まれて安定した。少し歪んでいたことがかえって幸いした。ゆがみを無理に組んだのでかえって少し空きが出来ていたので、ビシッと組み上がった。と言いながらも正確に言えば、そのために全体がひねれている。ただし、そのひねれは実用には差し支えが無い。

 道具が良くてもいい絵が描けるわけでは無いが、ダメな道具立てではろくな絵が描けないと言うこともある。周辺に気になるところが一切無いようにしないと、絵に専念が出来ない性格なのだ。もう木工もこれで打ち止めのようだ。材料が尽きた。

 小田原から運んだ材料はすべて使ってしまった。材料を無駄にしては申し訳が無いと言うことで作っていたこともある。小田原では木工の材料があると、いつか使おうと思い集めていた。随分集めたのだが、運びきれずにまだ小田原に残っているものもいくらかある。

 小田原は木工の街だから、木工所もあちこちにある。建具屋さんや樽屋さん、漆器屋さん、箱根細工と様々な職人がいる。そうした職人の作業は見ているだけで楽しいものだ。田んぼをやっていた桑原には木工団地という所もある。そこには木工所が集まっていた。

 そこの木工所が閉鎖されたときに、残っているものを廃棄する前にもらえることになった。そこで様々な材料を貰った。片付けと言っても焼却炉で片付けの業者が燃やしているのを横目にしながら、貰った。面白いのだけど使えないようなものばかりで欲しいのだが困った。

 もう一回はやはり木工団地にある大きな材木屋さんが、倉庫を壊すことになり、積み上げてあった材料が売りに出た。このときここで電気工事をしていた人が農の会の仲間で話を繋いでくれた。ケヤキの直径一メートル以上ある輪切りを8枚で確か一万円で買った。それは今回、陶芸作品棚になった一部である。

 テーブルもいくつも作ったのだが、暑さが15センチもあって、持っている電動のこぎりでは手に負えないで苦労した。そのうちの2つが今でも小田原の家に残っている。残っているテーブルと言えば、今小田原にある大きなテーブルはケヤキの大木を切り倒すところから、かかわってつくったものだ。

 下手くそなのだが、面白いテーブルである。もう30年も前に作ったものだが、一番有効に使ったテーブルかと思う。こうしてみると随分あれやこれや作ったものだ。生活のためには木工は絵よりは役立っているのかもしれない。そうだ、絵は役立たないからこそ良いのだ。

 木工が好きになったのは鶏小屋作りからだ。小学生の時には鶏小屋ばかり作っていた。たぶん何十となく作っては壊ししていた。兄と二人でけんかしながら作っていた。喧嘩がひどくなり、結局一人で作ったことも良くあった。その頃から、大工仕事にはそれなりの自信があったのだ。

 鶏小屋作りでは鑿で木組みまでやれるかと言うことが課題である。ただ突き合わせで釘でうつのでは、強度が出ないし、面白みも無い。そこで木組みに一日かけて準備をして、製作に一日かけるというのが定番である。扉作りとか、産卵箱は工夫をした。

 いつか本当の人間の小屋を作りたいと言う夢があった。それが小田原で檜を切り倒すところから始めて小屋を作ると言うことを実現することができた。最小限の小屋作りである。最近土台のところが腐ってきてしまった。それは床下にものを詰め込んだからだ。床下は高床にして、風通しを良くしていたのに、小屋を貸した人が、薪を積み込んでしまって腐らせた。

 タングドラムも随分と作った。これも木工と言えば木工である。木魚に音階を付けたようなものだ。良い音が鳴るドラムができて、一段落したが、20台は作った。気に入ったものを石垣にまで運んでいる。時々叩いてみると工夫して試行錯誤した頃が懐かしくなる。

 楽器で良い音を出すためにはやはり材料である。パドックと言うアフリカの材木が一番いい音になった。木琴の材料に使われるというので使ってみて成功した。黒檀や紫檀のものも作ってみたが、樹木から響く木霊のような音となると、パドックである。

 日本の材料でと言うことで工夫もした。堅い木なら良いかもしれないと樫の木で作ったものもあるが、作ってから、10年ぐらい経つが、未だ良い音にならない。堅いだけではダメなようだ。難しいものである。

 書いていて思いだした。美術教師をしていた頃には組木を授業でやっていた。平面にまず、どうぶつを入れ込む図案作り。猫を10匹とか、アフリカの動物たちとか、空飛ぶ昆虫とか、好きなテーマを決めて、平面の中に図案化して行く。図案はどうぶつなどで埋め尽くされて、隙間が出来ないことが条件である。

 その図案を今度は、糸鋸でくり抜く。一つずつが自立して立つような形であれば最善である。たとえば10匹の猫に色づけをする。並べても面白いし、組み合わせて平面にしても面白い色彩になるように工夫をする。

 美術の授業はすべて、自分がおもしろいというものでやっていた。今思えば良い授業案ではないかと思う。教科書会社の社長が是非取り上げたいと言うことで、進めたのだがその直後にその方が亡くなられて、その企画は没になった。

 世田谷学園では大理石モザイク、陶芸、印鑑作り、額縁作り、木工で輪を作ると言うものもやった。スプーンを彫り、その手元に輪を作り、その輪の中にもう一つ輪が通った形をくり抜く。割れないでくり抜き離れたならばAである。生徒と一緒に楽しんでやった。

 工作としての木工が面白い理由は木工が自分の生活に役立つものという点だろう。そも意味でもう木工はやらないのだろう。少し寂しい気がしてくる。
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イリオモテヤマネコを考えた。

2020-11-26 04:35:06 | 石垣島

 西表島浦内川沿岸の樹木

 イリオモテヤマネコのことを改めて考えてみている。どうすれば、この先も生きてくれるかである。イリオモテヤマネコを保全したいという気持ちは、誰もにあるだろう。特別天然記念物にも成っている。様々な組織が、保全のためにそれなりの調査が繰返し行われているが。未だ完全な把握には至っていない。

  2008 年 3 月までに行った総合調査がおおよそ100頭の推定になっているようだ。その後減少傾向にあるらしいと言われている。ヤマネ コがたくさんすんでいる低地部では生息環境の 消失、劣化、攪乱、これには交通事故死が原因していて、2018年にはなんと一割の10頭がひかれた。イリオモ テヤマネコは減少傾向にあると考えられている。

  観光客が増加している。交通量が増えている。島民もスピードを出す。道路の作り方がヤマネコには悪かったのだ。速度の出せない道作りを考えるべきだ。ヤマネコの生息地である澤の奥の方まで、カヌーやトレッキングが行われている。観光需要に伴う農地開発などによる生息地の消失も続いている。農業の形態の変化、電気柵の影響もある。

 環境省の野生動物センターでも今後どうすれば、保全できるのかと、というような確実な方向性は打ち出されていない。結局の所、人間かヤマネコかの論争の時代と基本的な意識は変わっていない。世界自然遺産になる以上、自然保護方向に意識を変えて行かなくては成らないはずだ。

  夜間に道路を走る車種(観光客か、島民の車か、ナイトツアーかなど)の調査によると、走っている車の8割は島民の車で、走行スピードもレンタカーより速いことが分かっている。

 これは石垣島でも同じで、レンタカーがスピードを出すとすぐ言われるが、実際は島民の車がスピードを出している。わたしはカンムリワシ共生の表示をして、絶対にスピードを出さないので、どんどん追い抜かれて行く。

 2016年西表島は全域が国立公園に指定された。島全体が大きな建物は建てられないというように、一定の開発は制限されている。一方で観光客はさらに増加して、毎年倍増してきた。エコツアーと言う形のエコツーリズムが少し歪んだ形のエコツアーが増えている。中には自然を荒らしてしまうような業者も登場している。業者の数は140と言われている。

 世界遺産に指定される前に、進入制限をする人数を川ごとに決めるようなことが現在提案されてきている。観光人口が増加することはどうしても島への負荷が増加することになる。どうやって島民の生活の確保と自然環境の維持が繋がるかを現実的に考えなければならないのだろう。

 野生動物が絶滅する一番の原因は人間が持ち込むものである。家猫もある。犬の問題。家畜からの病気もある。野良猫は最大の問題であるはずだ。西表島にはかなりの野良猫がいたことがある。現在はかなり駆除されてほとんど居ないだろうとされているが、10匹程度入るという記事もある。この点は徹底しなければならない。

 イリオモテヤマネコは遺伝子的にはベンガルヤマネコの亜種であると言うことのようだ。20万年前の地殻変動で西表島に孤立したとされている。20万年この小さな島(面積283km2)に100頭からせいぜい200頭で生き続けてきたと言う奇跡のようなヤマネコなのだ。現状が50頭であれば、危機的であろうが、100頭居るとすればかろうじてしのいでいるのだろう。西表島のエネルギー総量から計算すると、ヤマネコが生息できる限界数が、上限250頭程度とされるという。

 人間が西表島に現われたのは早くとも3万年前だから、それまでの間人間の影響も無く、17万年生きていたわけだ。そうして孤立してしまい細く長く生き続けていたヤマネコは、存在そのものが奇跡的なものと考えるほか無い。

 猫と言えばネズミだが、西表島にはネズミは居なかったらしい。いたとしても、猫が増加した時期があり、猫に食べ尽くされたかもしれない。現在人間が持ち込んだクマネズミは居るらしいが、ヤマネコの糞の調査からはそれほど多くのネズミ数では無いとされている。クマネズミが取り尽くされない程度のヤマネコの数と言うことだろう。

 ツシマヤマネコのエサは80%のねずみだと言うことだから、クマネズミが増加すればエサが確保されると言うことはあるのだろうか。ヤマネコは80種の生きものを食べていることが確認されている。
 
 ヤエヤマオオコウモリ、クマネズミなどの哺乳類の他、シロハラクイナなどの鳥類、キノボリトカゲ、キシノウエトカゲ、サキシママダラなどの爬虫類、ヌマガエル、ハラブチガエルなどの両生類(カエル類)、マダラコオロギなどの昆虫類、エビ・カニなどの甲殻類と幅広い分類群の動物を食べていることが確認された。

 何でも食べることで、ヤマネコはこの小さな島で暮らせる数百と言う、本来であれば生き残ることは無いという限界以下の数の中で、20万年の間、まさに奇跡として生き続けていたわけだ。その意味では現在の、100頭という推測値は減ってきて危機的な状況と言うことと考えるより、環境が整えば、またすぐにも西表島の適正値250まで増加することも可能と言うこととも言えるのだろう。

 人間が来て以来五〇年前までは、西表島の西表島のヤマネコは食料として普通に食べられていたものだ。それでも絶滅をしなかった。現在はそうしたことはなくなった。猫も江戸時代頃からは当然野良猫化していただろうが、それも何とか克服してきている。現在家猫の管理はかなり徹底されている。

 西表島の人口を見ると減少傾向であるが、観光客は増加している。島の農耕地の面積も増えている。農地になる場所は昔はヤマネコの生息地だったと思われる場所だから、影響はかなりあるのだろう。特に田んぼについては昔は生息地であったが、現状では電気柵で囲われてそうではなくなっている。

 西表島はほぼ全体が国立公園である。山間部につては国有地となって開発行為も制限されていて、むしろ炭鉱や林業開発行為がなくなり、原始の状態に戻り始めている。入山は登山道に限定されている。実際登山道を離れて動くことは沢筋以外には無理なようだ。

 とすれば、これ以上人間が増加して猫の生活区域に進出するようなことが無ければ、ヤマネコはこれからも生存できる条件はある。西表島が世界自然遺産になれば、社会的環境が大きく変わる可能性がある。今からヤマネコを守るための制限を設けることでは無いだろうか。

 1,自動車道路死を0にすること。方法は様々ある。
 2,ヤマネコの生活圏に立ち入り禁止区域を儲けること。
 3,ヤマネコ生息域への観光客の立ち入り人数を制限する。
 4,入島金にヤマネコ保全費用を上乗せする。
 5,猫を放し飼いにしないこと。
 6,宿泊観光客を現状で抑える。新しいホテル建設の制限。
 7,農業の形をヤマネコと共存できるものにする。
 8,人間が新しい哺乳動物を持ち込まないこと。
 9,住民の暮らしの向上がヤマネコの保護に繋がるようにする。
 
 農業について具体的に考えてみる。田んぼは猫の良い餌場になり得る。佐渡島のトキや豊岡のコウノトリの保全のために行われたような、環境保全型農業にして、ヤマネコの餌を増やす。田んぼはできる限り、冬期湛水型のものにする。

 電気柵についてはイノシシは入れないが、ヤマネコなら通れるように工夫する。猫なら乗り越えられる丸太のブリッジを作るのはどうだろうか。これを行政が提供する。設置した農家には礼金を出す。

 ヤマネコ保全に冬期湛水などで協力してくれる田んぼには、田んぼを維持する負担を協力金として支払う。同時に協力してくれた田んぼのお米をヤマネコ米として、高い価格でホテル等へ販売する。そうした仕組みを協力して構築する。
 
 
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西表島二日目

2020-11-25 04:01:46 | 石垣島


  マリュウドの滝。 上流に小さく見える白いところがカンピーレの滝。

 二日目は浦内川を遊覧船でのぼり、マリゥドの滝、カンピーリの滝まで歩く。イナリゾートの方に、8時30分に送ってもらう。途中スーパーに寄ってもらい、昼のお弁当を買う。ホテルの方が、スーパーにまで連れて行ってくれる。とても親切な人だ。

 9時の船で軍艦岩まで連れて行ってもらう。そこから、30分歩くと屋根のある展望台があり、滝がよく見える。ここで絵を描くことにするが、まずは上のカンピーレの滝まで行ってから戻って描くことにする。

 カンピーレの滝まで行くと、この場所が神が宿ると感じたことがよく分かった。滝のもつ神聖があたりを覆っている。1時間半ほどで一枚描く。緑の魔境を以前は怖くて描けなかったが、今回は何とか描ける。怖さに慣れたのだが、怖くなくなったわけではない。

 展望台まで戻ると、ちょうど12時。お昼を食べて、また描き始める。写真風景である。この緑もすごくて、遠くの滝の感じがなかなか難しい。2時間ほど、描いてみる。描けたものかどうかわからない。

 また、30分歩いて、船着き場に戻ると2時30分の船が来る。素晴らしい場所だった。こんな場所はめったにないだろう。カンピーレの滝の神が宿る場ということが格別なところだ。西表島というところがどんな場所なのか、少しづつ感じ始めた。

 西表島が世界遺産になり、どう変わるのだろうか。この圧倒的な自然の力が、緑の魔境として残されてゆくのだろうか。西表島まで押し寄せてきている、帰化植物はこの西表の圧倒的な自然にどう影響するのだろうか。気になるところだ。

 稲葉集落のあった平地は自然に飲み込まれて、人家があったことも、田んぼが200ヘクタールもあったことが、本当のことかと思う。なにしろ、稲葉集落のほかにも、炭鉱では何千人もの人が働いていた。台湾から多くの人が来ていたらしい。学校や病院まであったということが、信じがたいことだ。

 熱帯の自然の復元力の強さに驚く。それがイリオモテヤマネコを守ってくれていないだろうか。西表島の十条製紙の伐採事業も道路を作り、ケーブルを張り、大きな集落を作ったらしい。それでもイリオモテヤマネコは生き残っていた。

 50年前までは誰もが普通にイリオモテヤマネコを食べていたのだ。それでも、生き残ってきた素晴らしい生命力を持つヤマネコである。人口だって今の方がはるかに少ない。車の事故さえなければ、共生できるのではないだろうか。

 私がそれにわずかでも役立てることができれば、うれしいことだ。なんとしても餌場づくりに、参加させてもらいたい。もう少し、ヤマネコのことを勉強して何が、共生に必要なことなのか考えてみたいと思う。

 場所場所で入山数の制限を設けることになるらしい。この日は修学旅行の中学生が来ていた。200人ぐらいだろうか。こういうことはできなくなるということだろうか。
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西表島一日目

2020-11-24 04:02:20 | 石垣島
 
 西表島大原港に到着。上原港が着岸できなかった。見た目はそれほどの風でもないのだが、この程度で上原港は着けないのかと驚いた。大原からバスで祖納に向かう。一時間余分に時間がかかった。石垣から2時間かかったことになる。船もバスも空いていたが、窓は開いて乗った。

 石垣島から西表島に2泊3日で来た。竹富町島々応援クーポン券を利用している。売り出されたのはもう半年ほど前のことである。これは竹富町の島々を活性化するために石垣島市民向けに売り出されたものだった。西表島は竹富町の島なのだ。どこかの島に行きたいと思っていたし、島々を応援もしたいということで、購入した。

 ところが石垣島でもコロナ感染が広がってしまい、簡単には他の島には行けない状況になった。いつになっても感染が続く、いよいよクーポン券の期限が近づいてきた。思い切って、この機会に西表島に行くことにした。目的はイリオモテヤマネコの保護活動に協力が出来るのかどうかを知りたいからである

 イリオモテヤマネコは間違いなく日本で最も貴重な哺乳類である。絶滅危惧が強く心配されている。そもそも、西表島ぐらいの面積の島に固有種の肉食の哺乳類が生き残っていたと言うことが奇跡的なことなのだ。アマミノクロウサギ、ツシマヤマネコとどの種も島という、天敵のいない中で起きた奇跡である。

 イリオモテヤマネコに関して一番の危機は交通事故である。毎年交通事故死が起きている。現在の推定生息数は100匹と言われている。ずいぶん昔の調査の数で実数の確認はいまでは誰にもできない。交通事故死がない。これがヤマネコ減少のためか、コロナで観光客減少のためか。ヤマネコ安全対策が効果を上げているのか。意見は分かれている。

 専門家の意見では減少傾向では無いかと推測されている。このまま世界遺産にでも成れば、イリオモテヤマネコは絶滅してしまうのかもしれない。もし絶滅すれば、日本オオカミ以来の後世に語り継がれる悲劇になる。不安に駆られている。

 この状況の中、クラウドファンディングでイリオモテヤマネコの保全活動をするという企画が立ち上がった。西表島で植物の研究をしておられる高相さんという方の立ち上げた企画である。高相さんは元琉球大学におられた先生のようだ。植物の方が専門の方らしい。

 早速応募したのだが、残念ながら300万円の資金が集まらなかった。まさかと言う結果である。日本人のイリオモテヤマネコの保護意識は300万円のお金が集まらないレベルなのだ。テレビ局や報道機関は応援をしてくれなかったのだろうか。意識の低いものだ。

 そもそも、300万円では何も出来ないだろうと思っていた。祖内から浦内川を登った当たりに、昔田んぼだったところがあり、そこを整備してイリオモテヤマネコが給餌できるような場所を作ることが構想のようだ。田んぼの周りに周回道路を作るらしい。そこからは道路の方に出てこれないようにもしようと言うことらしい。もちろん人にもその場所はわからない。

 もう一つの疑問は公的機関との連携は取れているのだろうかということ。西表には国の野生生物保護センターがある。そこで必要だと考えるものであれば、300万円ぐらいの費用は出るのではないか。事務所の方に質問を出してみたが、このクラウドファンディングには反応なしである。反応なしは公務員の取る態度としては良くあることでおどろかない。

 そこで、ともかく高相さんにお会いして、どのようなことなのか現状を教えていただきたいと考えて、11月23、24,25日と西表島に行くことにした。西表島は石垣島から45分である。往復の船賃が4000円ほどである。

 朝一番の7時10分の船ならば、8時には西表上原につける。上原からの最終の船は17時30分である。つまり、一日の作業を日帰りで可能だと言うことになる。道具はどうすれば良いかとか、現地まではどうやって行けば良いかなど、課題はあるが、月に一度ぐらいはイリオモテヤマネコのために作業をするのも悪くない。

 その作業予定地はイナバ林道のそばらしい。イナバ林道とは今は廃村になった祖内集落から稲葉集落への道である。稲葉集落は仲良田節の生まれた今は失われた集落である。祖内集落は数年前旅行できた場所だが、時間が静止しているような静かなである。田んぼが熱心に耕作されていたことが印象に残っているが。どの田んぼも電気柵で囲われていた。

 24日25日はニライナリゾートに泊まる。前に来たとき泊まったニライカナイホテルは今はホシノリゾートに変わり、予約が取れないほど満杯である。前とまったく変わらないのに、星野の名前は絶大である。ニライナは小さなホテルであるが、こちらの方が気さくで気分の良いホテルである。ホシノの作られた自然は気持が休まらない。

 24日の夜は初枝というお寿司屋さんを予約してたべた。とてもおいしいお店だった。なぜホテルで食事がないかはよくわからない。ニライナリゾートでは夕飯が無く、食べるところまで送迎してくれるというシステムである。ちょっと不思議だが、これはこれでいい。

 高相さんから祖納周辺を案内していただきながら、どういう保全をするのかを教えていただいた。まずは計画を縮小してもう一度クラウドファンディングをする。今度は100万円だそうだ。これができたら、来年には活動を開始するという。

 昔田んぼだったところで、げんざい原野に戻っている場所を昔のように水がたまる場所を作る。そこをイリオモテヤマネコがえさ場として使えるように維持する。それは人間を防ぐことを含めて、監視カメラのようなものを設置するということである。かなりすごい場所で、見つからないところだ。

 これなら私も草刈りぐらいなら協力できそうなので、日程を合わせて参加できると思った。実際の大きな作業はクラウドファンディングで集めた費用で、現地の専門家に重機による作業はお願いするのだそうだ。田んぼを整備するというなら、何度も経験があるから、周辺整備ということならそれなりに役立つだろうと考えた。

 なんと、こうした池については刈部さんも見えているという。連絡を取ってみて、西表に見える時には会いたいものだ。刈部さんの広い行動力には驚かされる。

 むしろ緊急事態はアオウミガメだといわれた。この話にはびっくりしたのだが、アオウミガメが急速に増えていて、西表島周辺の海藻を食べつくしているのだそうだ。そのためにほかの魚への影響が出てきているらしい。その理由に驚いた。

 アオウミガメはそもそも石垣島では専門の食堂があるほどの食材であったそうだ。その専門の漁師さんがいて、年間400頭から500頭は捕獲していたそうだ。ところがその方が亡くなられた後、ウミガメ漁がなくなった。そのために急増した。どう考えればいいのだろう。

 急増したら、海藻がすべて食べつくされてしまい、日本中の山でシカが増えて困っているのと同じような状態になっているのだそうだ。現在一部をカメが入れないように囲って、海藻が再生できるのかどうかを調査しているところだそうだ。海藻がなくなれば、カメが減少するというようなことは起きないのだろうか。

 初めてうかがう、希少生物に指定されたアオウミガメが、増えすぎて淘汰しなければならないという話だそうだ。そのほか、西表の帰化植物のことなどいろいろ教えていただいた。話はまだまだ合ったのだが、それについてはまた次回。

 
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あしがら農の会持続の理由

2020-11-23 04:50:22 | あしがら農の会


 あしがら農の会は緩やかな共同作業の農業グループとして旨く回っている。その理由はいくつかある。稲作農業は極めて危ういところに来ている。経済に振り回された無い、市民的な自給農業こそ、日本の安全保障になるのではないだろうか。何故あしがら農の会が成立しているかを書いてみたい。

 「お金」というメジャメントがない政治や非営利組織は何をベースに組織運営していくか、といえばカリスマ性あるリーダーや創設者の理念や信念、あるいは社会的要請に応えるということだと思います。しかし、組織のメンバーは時代の変化もあり、組織全体のベクトルを一方向に保つのは異様に難しいのです。ーーー世間の考え方。

 日本の社会がおかしく悪くなってきているので、世間の考え方が当然とされるようになっている。世の中全体を良くするなどと言うことはもう到底無理と考えるほか無い。それでも、自分の周りだけは何とか良いものにすることは出来る。食糧自給することは自らの自立になる。

 この周りだけでも何とか出来る事例が増えて行けば、もしかしたら社会の方角を変えられるようなことにならないとも限らない。大それたことだが、あしがら農の会にそうした希望を抱いて活動をしてきた。活動は27年続けたことになり、現在150人前後の仲間が居るとみて良いのだろう。

 この会の良さはカリスマの先生がいないことである。とかく人間は偉くなって、回りを指導したくなるものだ。私が始めたものであるが、私自身がどう指導者にならないかを注意して活動してきた。ここまで来たならば、私が身を引いた方が旨く進むだろうと考えたこともあり、小田原を離れた。

 あくまで全員が作る会である。入会金もない。会費は実費を人数割りして作られている。会は資産を持たない。脱会の抵抗感も全くない。あしがら農の会という場所でやりたいことのあるひとが、やりたいことのやれる場と言うことに過ぎない。

 世間の一般論に反して、他には無い人の集まりがどうして成立したのか。そして未来に続いて行きそうな理由を書いてみたい。農業の仲間を作りたいと考えたどこかの誰かに参考にして貰えるかもしれないので、私なりにうまくいっている理由を書いておきたい。

 何故あしがら農の会は旨く活動が続いているかの理由。

 1,自己負担をいとわない人が一割いるからである。田んぼグループが10人で形成されているとすれば、その中のひとりは自分の負担を乗り越えられる人がいるからである。ひとりのたいした人がいれば、何とか10人ぐらいの人はカバーできるようだ。

 そう言う人がひとりもいないグループは立ち消えになってしまった。負担感を感じる人は、公平とか平等とか言う話になる。ところがそうなると、世間的には合理的に見えるシステムになるのだが、いつの間にか継続が出来なくなる。それまで黙って支えてくれた人が馬鹿馬鹿しくなり離れるのだ。要するに黙って、支える人がいるかいないかである。

 2,誰もがやりたいことを出来るようになっているのかどうかである。ジャガイモが作りたいと思った人が、ジャガイモを作れるかどうかである。そのための畑という場。ジャガイモの栽培技術。農業機械。そして、一緒にやろうという仲間。こういうものがそろっているかどうかである。

 どれ一つ欠けても農業は成り立たない。やりたくてやったとしても収穫が出来なければ次は無い。農業は自然に左右される。極めて不安定である。例えば天候が読めなければ、作業は困難になる。いつ種を蒔くかを間違えれば、収穫が半減することもある。

 農業はすべてに臨機応変である。下準備が万全な上に、あらゆる変化に対応して行かなければならない。それには技術を熟知している人がいて、農業機械がそろっている。そしていざというときに集まれる人がいる。こうした条件が無ければ農業は続かない。

3,ひとりでやれる人が、一割居るかどうかである。150人のグループであれば、ひとりでも自給農業をやり抜ける人が、15人居なければならない。ひとりではやれない人がどれほど集まっても、上手くはゆかない。

 私は自給農業を5年かけて開墾から始めて達成した。そのことで、仲間10人ぐらいに広がった。仲間の中からひとりでやれる人がだんだんに増えて、今の形になった。又ひとりでやっている人に仲間にも成って貰った。やろうと思えばひとりでやれる力のある人が、仲間とやろうと思うかどうかである。

 ひとりで自給農業をやろうという人は、自立心が強く、他人と関わらない人が多い。それくらい根性が無ければ、ひとりの自給農業はできない。ひとりの自給は実は倍の負担がある。大勢の仲間でやれば、自分の自給も楽になる。まして仲間のために頑張れるという喜びが倍増する。

 このことをひとりでやれる人に分かって貰うことだ。ひとりでやれる人は農の会でやるのでは、実は負担が増加していると言うことにも成る。しかし、10人のひとりでやれない人の助けになる。そのことの重要性を理解できるのは知性であり、能力である。

 4,人間を信じられるかどうかが重要である。どこのどんな人でも受け入れる組織で無ければならない。志の高い人だけというようなものは継続できない。とんでもない人が参加していい。

 おかしな人を含めて自由な参加にしなければならない。それは人間を信じることである。どんな人も農業を行うと言うことにおいては、一緒だと言うことになる。一緒に労働をしているうちにわかり合えることもあるということ。心ある一割の人が、思惑のある妙な人を受け入れて、許せるかである。

 同類だけで出来て居れば楽ではあるが、継続はむしろ出来ない。様々であることにこそ力成る。農の会はひとりの人を助けてくれる組織である。

 5,自分から一切の宣伝をしない。宣伝をすると言うことの背景には何らかの思惑が存在する。利益がどこにも無い仕組みにしてあれば、あえて宣伝をする必要は無くなる。会員が増えると言うことはどちらかと言えば、心ある一割の人の負担が増えると言うことになる。

 仲間になる人は必ずどこかで出会うことになる。共鳴する。そして会を支える一割の大切な人が増える。そうなるとつまり10人の会員が自然に増えることになる。今そういう紆余曲折があり、15人のそうした頑張れる人に出会うことが出来たのだと思う。

 これは人生の幸福でもある。良い人に会えたと言うことほどの喜びは無い。しかし、そうした心ある人こそ、実に多様である。その多様さを受け入れる、農の会という器の大きさが良いのだろう。参考にどこまで成ったか分からない。ともかく人間の集まりほど難しいものはない。相談したいことがあれば、いつでも尋ねて下さい。
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第28回 水彩画 日曜展示

2020-11-22 04:09:18 | 水彩画
第28回 水彩画 日曜展示






87,「睡蓮の咲く名蔵川」
大判全紙(70×87センチ) ファブリアーノ・版画紙
2020.11







88,「フサキ岬・牧草地」
大判全紙・パミス
2020,11








89,「崎枝田んぼの水張り」
大判全紙・パミス
2020.11


 大判全紙の作品三点である。大きさが変わると又調子が変わる。時に大きさを変えた方が良いと思って描いてみた作品だ。中判全紙ばかり描いているので、固まってきたものがあるような気がした。まだ描ききると言うところまで進めない。やはり大きさのせいかもしれない。

 中判全紙がの大きさは56×70。大判全紙の大きさは71×90。わずかな差であるが、少し違ってくるのは確かだ。こうした中判全紙というような呼び名は、紙が手すきで行われていた時代の残存でアル。これは一般的なサイズであって、紙の種類によってかなり大きさに違いがある。

 大きくなると繪に余裕が出来る。絵の中に訳の分からない遊びがあっても収まる。ダメなところがある方が良いことも良く起こる。と同時に構成がしっかりしていないと収まりがつかないことになる。

   睡蓮の絵は水面を何とか描こうとして、行き詰まった。まだまだ描くことに難しいものはある。水面の光の反射と睡蓮に当たる光。これを筆触で描いてみたかった。モネの眼ではなく、わたしの目で描いてみたかった。

 田んぼの絵は畦が作り出す線の面白さを描いてみた。まだ納得したものにはなって居ないか。薄い調子で描こうとしたわけでは無い。ここ以上進まなくなった。これ以上やると水面がおかしくなるように思えた。4枚描いてみて、どれもダメになった。かろうじての1枚である。

 フサキ岬の絵はいつもと同じものを大きさを変えて描いてみた。小さいものより良いところも出てきた。この絵ももう少しという気はするが、ここまでだとも思った。
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日本に田んぼはなくなる。

2020-11-21 04:01:34 | 暮らし
 
 嵩田排水路 奥の山が石垣島で一番高い於茂登岳である。この上流部に名蔵ダムがある。石垣島で神聖とされる白水神社もある。正月には必ずお水取りに行くことにしている。その時寒くないので不思議な感覚である。

 名蔵ダムは過去の記録的な干ばつで稲の収穫が出来なかったことで、造られたダムである。名蔵ダムが出来て、もう石垣島で水の心配はなくなったそうだ。水は導水管で、崎枝にも運ばれている。今度川平まで導水管が延ばされる。

 日本に稲作農業はなくなるかもしれない。あと30年ぐらい先のことだろうが。よほどのことでない限り。このままではたんぼは無くなるはずである。(昨日の尻切れ文章の続きである。)農業を取り巻く状況を考えれば考えるほど、稲作農業はなくなるように思えてくる。

 アベノミックスの次は総括の無いまま、スカノミックスでは、稲作農業が産業として余りに不利なのだから、無くなるほかないだろう。農家出身の総理大臣なのだから、稲作農家の実情は知っているはずだ。何とか田んぼを残してくれないものだろうか。

 企業が稲作農業を担うと言うことはあり得ない。企業であれば、儲からないことはやらない。株主の反発になる。企業が農業をやれば日本の農業は国際競争力が生まれるという竹中平蔵氏のアベノミクス農業論は間違えである。間違えの理由を書く。

 もし、企業が稲作農業を本格的にやるとすれば、労働力の安い、農地負担も安い、気候も水利も稲作向きの国に進出して、そこで大農場をやるだろう。それがプランテーション農業である。輸出を目的にした農業である。それがアベノミクスの主張するところの国際競争力のある農業に成るはずだ。

 抗して新自由主義経済は、国という枠組みを超えて行くものである。一国主義を主張することは実は国家という枠組みを変えて行くことになるのだと思う。経済競争に勝つために移民を行わざる得ないと言うことも同じことなのだろう。

 ヨーロッパのプランテーション農業が経済後進国を食料自給の出来ない国にした。胡椒を作り、綿花を作り、ゴムを作り、換金作物に偏った農業に主食の農地が奪われることになる。本来の食料生産地が失われた。奴隷的な労働者として働らかされるだけの国になった。日本もプランテーション農業をやれというのがアベノミクスである。

 国際競争力のある農業生産物を作り、輸出しろというのだ。その労働力は労賃をの安い外国人労働者を使えば良いというものだ。換金作物だけが成り立つ農業にしろという方針である。アベ氏の主張した瑞穂の国の稲作はどこに行くというのであろうか。アベ氏自身はそんな本を誰が書いたのかと思っていることだろう。

 経済性のないものは無くなる。稲作をただ自由競争に任せれば、一部の企業的大規模稲作以外は成り立たたない。企業がやれる稲作は一定残るだろうが、大半の条件不利地域の稲作は無くなる。それは地方の消滅と言うことでもある。余りに自明の理であるから、これ以上の説明はいらないだろう。

 問題は稲作を残すべきかどうかである。主食作物は自給できなければ国家とは言えない。国の安全保障が無ければ国民は安心して生活が出来ない。明日の食べ物を確保するのが最低限の国の役割である。しかし、経済優先の政府は食糧自給率を高めることができないでいる。残した方が良いとは考えても、もう経済が沈没状態で無理というのが実際の所だろう。

 農業は決して経済のためだけにあるのではない。芸術や文化は経済的合理性が無いから、止めた方が良いというのではないのは当然である。芸術や文化の伝統こそが、その文化圏に暮らす人の豊かさに繋がるものだ。人はパンのみに生きるにあらず。稲作農業はただの生産方法では無い。日本人の文化を培ってきた、源泉とも言えるものだ。伝統的稲作農業を捨てては成らないのだ。

 国際競争力、大規模農業、企業経営となれば、条件の不利農地は放棄されて行く。耕作放棄地はさらに増えている。農業者の老齢化は進み、農業者人口の減少も歯止めが無い。こうして、条件不利で放棄されて行く農地は、小さな自給農業で維持して行く以外にない。

 農地がただ放棄されてしまうと、時間が経てば自然に戻るというようなことはない。その結果はどこの地方に行っても無残な耕作放棄地の実際を見れば分かる。耕作放棄地が自給農業で維持されることは環境保全にも繋がる。特に山間地域の水田の維持は地域の防災や、環境保全にも役立つ。法律的な制限を加えるような理由は全くない。むしろ奨励されるべきことだろう。

 自給農業は難しいものでは無い。日本人が何千年もやってきた伝統農業を行えば良いのだ。大きな機械は不要である。化学肥料や農薬も不要である。自然に沿って行えば、一日一時間の労働でひとりの自給は可能なのだ。私の生きた一番の誇りは、そのことを我が身で証明できたことである。そして今も仲間と共に続けていることだ。

 こうしたやり方でやる自給農業はどうせ遊びだろうと思われるかもしれないが、そうではない。田んぼでは畝取りをしている。稲作農家の目標でもある、一反当たり10俵、600キロのお米を取るという畝取りを達成している。専業稲作農家よりも多収なのだ。昨年は天候不順であった。私も離れた。困難ではあったのだが、それでも9.5俵を実現している。

 経済性から言えば、参加者に120キロのお米を昨年は分けたのであるが、会費は9000円であった。随分安いお米である。労賃はただであるから、経済合理性があるわけでは無いが、田んぼに行く方がデズニーランドより楽しいという人もいるのだ。

 あしがら農の会の自給農業方式以外には、日本の中山間地の水田を維持する方法は無いと思う。先ずはひとりで始める以外にない。ひとりで出来るようになったならば、仲間を受け入れることだ。次のひとりに繋がる。そうしてつなげて行く以外に日本の伝統的稲作が残る道はない。

 政府は目を向けないどころか、そうした自給農業の芽を摘んでいる。邪魔者扱いしているのが現状である。農地法の壁がある。法律には法律の出来たときの必要性はあったのだろうが、今その農地が放棄されているときに、法律を変えなければならないのは当然のことではないだろうか。

 国というものは食糧の自給ができると言うことが第一義である。人間が生きると言うことは、食糧を自給できると言うことからである。そしてその食糧を作るという行為が、その国の文化を育むものである。日々の暮らしから文化が生まれてくる国が幸せな国だ。日本もかつてはそうした幸せの国であったことがある。

 あしがら農の会がどうして、旨く回っているかを書いてみたい。月曜日に掲載する。
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中国は日本をどう見ているか。

2020-11-20 04:10:33 | Peace Cafe


 日本の民間団体「言論NPO」と中国の「中国国際出版集団」が行った世論調査の結果が、NHKニュースに掲載されている。対象が2700人くらいと言うから、それほど精度の高いものでは無いと思われるが、ある程度お互いの見方が表われている気がする。

 現在の日中関係について、「悪い」「どちらかといえば悪い」と答えた人の割合は、日本は54.1%、中国では22.6%でした。また、相手国にどのような印象を持っているか聞いたところ、「良くない」「どちらかといえば良くない」と回答した人は、89.7%に上ったのに対し、中国は52.9%にとどまりました。

 日本人が中国に対して良い感情が無いことはアンケートの結果を見るまでもなく分かっている。その悪感情の大半は誤解に基づいていると考えている。例えば、中国は覇権主義的だと見られているが、日本人は中国の覇権主義を、かつての日本の大東亜共栄圏のような侵略思想と同類に見ているのだろう。これは違っている。

 中国には民主主義が無く、国民は自由な精神で自分の生活を行うことの出来ない社会である。ウイグル弾圧のようなことが日常茶飯に行われている。北朝鮮と同類の国だと見ている人が多数なのだろうが、これも違っている。

 アンケートから2014年アベ政権になってから、中国の印象はさらに悪くなっていることが分かる。その原因は中国を日本の仮想敵国にしたと言うことにあると考える。日本の防衛を琉球列島を中心に自衛隊を配備し、敵基地攻撃ミサイルを配備する方針に変わった。そのために尖閣諸島をあえて問題化するように進すめられているし、世論の誘導も行われている。

 世論調査でも日本では中国の悪印象の原因は尖閣問題が第一に挙げられている。中国側での日本の悪印象の原因は侵略の歴史を認識せず、謝罪をしないと言うことになっている。これは両国ともに、政府の方針によって作り上げられた悪感情だと言うことが分かる。

 中国で反日教育が何故必要なのかを考えなければならない。習近平政権の不安定さがある。香港に対して議員の資格剥奪まで行う背景には、国内への見せしめ効果があるのだろう。国の経済を国家資本主義として進めるためには、企業をどう国の言いなりにさせるかにある。いつか企業は国を超えるものだからだ。香港の経済体制は、不都合な真実なのだ。

 日中関係の重要性について聞いたところ、「重要」「どちらかと言えば重要」と回答した人は日本では、去年と比べて8.5ポイント減少して64.2%となり、2005年の調査開始以来初めて7割を下回りました。中国では逆に、去年と比べて7.7ポイント増え、74.7%となっていて、両国の国民感情の隔たりがうかがえる結果となりました。

 この結果が一番気がかりなところである。中国にとって日本の重要度がいくらかでも高まっているという所には希望がある。背景には米中関係の悪化があると思われる。アメリカと対立する中で、他の国との関係を改善させたいという気持ちが出てきているのではない。

 一方で、中国が重要とは考えない人が増加しているという日本人の感じ方を見ると、日本人が客観情勢では無く、感情的に外交関係を捉えていることがよく分かる。尖閣問題などで脅かしに来る中国人は嫌いだから、外交関係もできるだけ疎遠にしたいと言うことになる。

 世界情勢から見れば、日本にとって中国の存在の重要性は年々高まっている。お隣にある日本の10倍もある国が、世界一の経済成長を続けているのだ。そして、アメリカとの関係を悪くしている。中国を重要視しないと言うことがあるはずも無い。

 本来であれば、平和外交が日本国憲法で決められたことなのだから、尖閣問題があるからこそ、中国との関係を重要と考えるようになら無ければならない。ところが政府も国民も平和外交など空念仏と考えているので、外交を絶って軍事力の強化以外にないと考えるようになる。

 ところがその軍事力となると、すべてがアメリカ頼みである。アメリカの核の傘以外には隠れ蓑が無い。そして、そのアメリカが中国との関係を悪化させている。日本は依存するアメリカの軍事力だけが頼りにするために、アメリカが中国と対立すると言うことは必然的に中国と対立させられてしまう。外交は軍事力などと関係なく、友好関係を模索しなければならない。

 今こそ平和外交が重要になるのではないだろうか。中国とアメリカの間に入る日本という立場を外交手段として使う。韓国文政権は北朝鮮とアメリカの間に入り、外交的平和を進めようと努力はした。結果的には成功はしなかったが、北朝鮮の危機的状況は一時よりは後退した。

 日本は中国とも、アメリカとも経済関係が大きい。両国との健全な関係無くして成立しない関係とも言える。中国の経済成長は日本の為にもなることだ。アメリカとの同盟関係も存、中国を仮想敵国に想定する政府の間違った構想が、中国との関係を悪くしてきた。アメリカから距離を取ることが、日中関係の改善には唯一の道だろう。

 現状では軍事力強化以外に国の安全保障を考えることの出来ない政府がある。これは過去の間違った考え方である。この間違った考えで日本は戦争をしてしまい敗戦をしたのだ。ところが、それにも懲りること無く、敵基地先制攻撃ミサイルの配備などの妄想を抱いている。

 国の安全保障には自然災害もあれば、エネルギー政策もある。食料の安全保障。感染症を見ると、細菌攻撃など今や明日の暮らしに直結する安全保障である。サイバー攻撃は、国の経済に直結する深刻な安全保障問題である。もう軍事力だけを国の安全保障と考えていたのでは、国民の暮らしを守ることは出来なくなっている。

 間違いなく戦争は経済から始まる。第二次世界大戦も経済封鎖から始まっている。強大になりすぎた軍事攻撃がますますためらわれる状況の中では、経済戦争、あるいはサイバー攻撃が現代の戦争になる。そして、対立国の企業活動の制限である。

 米中対立も経済でせめぎ合っている。これから日本が関わる国の安全保障問題は、軍事力が出てくる前に、経済が出てくることは間違いが無い。経済的対立が深刻化したときに、様々な日本企業への圧力が行われることだろう。日本の輸出規制と韓国の不買運動などが一例である。

 敵基地攻撃ミサイルでは無く、日本国の自立した経済状態と、経済の多極化の方が効果的であることは明らかである。食料が封鎖されれば、明日をも困るのが日本である。日本を動かそうと考えれば、必ず食糧を封鎖するだろう。日本が韓国に特殊な資材の輸出制限をしたようなものだ。

 この食糧問題は、日本も自給率40%を切る国であるが、中国の将来の食糧危機も予測されている。アメリカは中国に経済的圧力をかけて、アメリカの食料を買わせている。アメリカ依存した食料を輸出禁止するのが次の攻撃になる。食料は世界的に見れば、不足の度合いは年々増している。世界の人口増加に、食料生産は追いつかなくなっている。

 日本の安全保障は食糧自給であることは明らかである。ミサイルどころではないのだ。食糧不足はマスク不足どころではないことになる。政府の農業政策は国際競争力のある農業を作ることに躍起になっている。その一方で根幹となる主食である稲作農業が危うくなり始めている。

 目先の米余りに目を奪われては成らない。米は備蓄して、飢餓国への食料援助に回せば良いのだ。稲作農家が採算の取れる価格を維持することも政府の役目である。米の自給さえ確保できれば、基本的なところでは日本人の暮らしを守ることは出来る。主食の生産をどうやって維持するかの構想を立てる必要がある。

 そして、次なる経済封鎖はエネルギーであろう。どうやって自給エネルギーを確保するかである。再生可能エネルギーである。再生可能エネルギーの関連機器の開発は国の安全保障でもある。太陽光パネルを輸出する中国はエネルギー輸出国でもある。

 
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移民と外国人研修生

2020-11-19 04:10:36 | Peace Cafe


 日本の大規模農業は外国人研修生の労働力が前提となっている。安い労賃ときつい肉体労働をいとわないでやって来てくれるからだどうしても依存する。肉体労働を日本人は嫌うほどに衰えた。石垣島にもそうしたろう外国人労働者が立派に働いてくれている。余り都会が合わないという各国の地方から日本に来る人の中には石垣島の環境は向いているらしい。

 石垣島の人は外国人達との交流に、日本の中では慣れている方だと思う。戦前は、台湾に働きに行くと言うことは普通のことだったという。又、沖縄から海外への移民も多かった。そして、日本に戻った人も多数おられる。そういう環境だから、日本の中では外国に慣れている方だろう。

 逆方向として台湾から石垣島に入植もしている。台湾の農地が日本の大規模農場に買収されて、新天地として石垣島が選ばれたのだそうだ。そうした歴史を踏まえて、石垣島は都会より給与は安いかもしれないが、労働環境としては悪くないのかもしれない。

 なんと言っても、外国で働くと言うことは差別が問題なのだ。私が聞く限り、どこで働いている海外からの労働者も、何らかの差別を受けたと話していた。我慢して働いているという様子だった。こう言うことはいつか日本と本国との関係を悪くすることだろうと思う。朝鮮人問題のように。

 畑で働いている外国人の人を見かけると、つい話しかけたくなる。そしてお礼を言ってしまう。暑い陽射しの中一生懸命働いている姿には打たれるものがある。そうした海外からの労働力無くして日本の農業は成り立たなくなっている。労働人口の減少が日本生産力を下げている一番の原因だと言われているとおりだ。

 日本は移民受け入れに関してどうあるべきか。正面から議論すべき時に来ているのでは無いだろうか。技能研修制度や、日本語学校等へ入学資格を得て、実際には日本で働くというようなまやかしの労働力の導入は間違っている。そうした不安定な労働条件が悪質な仲介業者の餌食となる外国人を生み出している。日本に来て、嫌な思いをして帰国する人が多いに違いない。

 日本軍従軍慰安婦問題も、根深く恨みを残した。様々な言い訳が言われるが、植民地差別が根底にあることは間違いが無い。又中国では日本の歴史認識問題が、反日感情の底にある。私が中国の鎮江市に自然養鶏指導に言ったときも、このことを私が率直に話し、謝罪したときから、中国の人達の気持ちが全く変わった。

 日本が本当に労働力を受け入れなければならないとしたら、日本に移民を入れた場合、どういうことが起こるかを具体的に検討すべきだ。今のような曖昧で、覚悟の無い受け入れ方をしていれば、必ず大きな禍根を将来の日本のもたらすことになるだろう。

 今、コロナパンディミックで外国人労働者が途絶えている。受け入れを再開する前に、この間の外国人労働者の状況を洗い直を行う必要がある。外国人労働者が特に不法に入国して働いていた人達が、大変な事態になっていると言う話もある。もちろん合法的に来た人達も、最初に解雇されたと言われている。

 日本人の賃金がどうなるのか。日本人の就職先は確保できるのか。賃金の低下は起きないのか。社会福祉制度は移民の人達とどのように整合性をとれるのか。家族の問題。教育の問題。そして差別問題はどういう状況になっているのか。日本社会に起こるだろう山ほどある問題を先ずは検討すべきだ。

 それこそ日本の移民受け入れの是非と問題点を学術会議に諮問したらどうだろうか。日本人移民が海外でどういう結果をもたらしているか。また、日本に来た外国人労働者がその後帰国してどういう生活をしているか。日本に残った人達はどういうことになったか。

 正直なところ、日本人には無理だと思える。今起きている朝鮮との関係を見れば、未熟な日本人がどんな差別問題を起こすか想像が付く。また、中国残留孤児の子供達が、日本で半グレ集団になったという話もある。日本が抱えている問題が、悪い形で表面化することになる側面が大きいのでは無いのか。

 女性差別でも一向に改善できない上に、日本の右翼層は杉田議員のような人達なのだ。移民問題にどんな対応をするかおおよそ想像が付く。そうした日本の未熟な保守主義者達は、一体移民をどう考えているのかも把握しなければならないだろう。日本にも移民をきっかけに極右集団が表われるかもしれない。

 日本人社会には過去に外国人を受け入れて失敗した、朝鮮人差別問題がある。百年経ってもその恨みと憎しみは消えることが無い。日本人は外国人との関わりに不慣れであったこともあり、現代では想像できないほど朝鮮人差別が深刻なものになった。

 江戸時代には朝鮮人は外国の使節団で丁重に扱われた。一定の距離を持って付き合っていれば、良い関係を持てたのだ。ところが労働者がたくさん入ってきた結果、極めて悪い関係になった。関東大震災の時の虐殺事件を考えて見ればよく分かることだ。

 移民も遠からずアジアからは来てくれないことになるだろう。そうなれば、アフリカからとか、中近東の人とかが対象になってくる。文化的にも距離がある。日本人がすんなりと受け入れられるとは思えない。もう少し時間をかけなければ無理では無いだろうか。

 アメリカでも人種差別は一向に解決されない。解決されないうちに、21世紀半ばにはアメリカでは白人が少数派になって行くらしい。南アフリカのような国になると言うことなのだろうか。民族というものや人種というものがどういうものであるのかは様々な観点はあるのだろうが、これからの日本人も外国人に差別的であるだろうと思う。まだ解決されていない問題がそこにある。

 それでも移民を受け入れなければ日本の経済がさらに衰退すると言うことなのだろう。経済のために移民を受け入れると言うことよりも、日本の経済を縮小安定化する方が良いのかもしれない。少々コロナが蔓延しても、経済を重視せざる得ないという、せめぎ合いが日本で今起きている。

 本当に経済というものは絶対のものなのだろうか。もしかしたら違う生き方もあるのかもしれない。日本がどこに向かうのかをみんなで話し合える国になって貰いたいものだが、もう国がどうするというよりも、経済が国を超えて動き始めている。

 政治も、国家も、企業に従わざる得ない時代に変わろうとしているのだろう。中国の国家資本主義も、企業に従う一党独裁の共産党に成るのかもしれない。そのことはとても気がかりなことなので、又書いてみたい。
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「世間とは何か」阿部謹也著

2020-11-18 04:20:46 | 


 一度こう言う道を描いてみたいと思っている。歩いている内に出来たような道である。この道は海に続いているように見える。そしてその海の先には竹富島が見える。この雲も良い。生えている木も悪くない。

 でもまだ道は描いたことは無い。道という意味合いがどうも、タオのようでもあるし。繪にしたとき嫌みな意味が出てきて恥ずかしい気がするのだ。そういう意味が好きな人がいる。絵手紙のもっともらしい言葉などよくもまあと思う。繪はそういうものに近づいては成らない。

 「世間とは何か」阿部謹也著講談社現代新書を読んだ。思い当たることばかりで面白かった。日本には世間はあるが、社会は無い。そう言われるとそんな気がしてきた。世間様にしたがって言えばそれなりに生きて行ける。長いものには巻かれろの、長いものはお上では無く、世間だったようだ。

 そのことは社会という言葉が出てきたときに、世間と置き換えてみると分かる。社会と言いながらも実は世間に過ぎないと言うことの方が多いようだ。日本ではこの世間というものをよく考えないと道を誤りかねない。

 私には社会はあっても世間は無いつもりで生きてきた。智に働けば角が立つ情に棹させば流される 。とかく人の世は生きづらいと漱石は「草枕」で書いている。漱石の人の世は世間のようだ。

 世間という意味は、まわりに生きている人にどう思われるかによって、自分の行動を決めるという意味と考えれば分かりやすい。世間様に顔向けが出来ないというようなことだろう。社会という意味は社会的共通価値が存在すると言う意味と考えている。

 日本にはあるのは世間であって、社会では無いというのは、日本人の暮らしの規範は社会的ルールよりも、世間的な判断が重要と言うことなのだろう。回りの目を気にして生きる日本人と言うことである。社会的ルールとしては正しくとも、世間では通用しないという日本にある特殊な社会。

 憲法とか、法律とか言うものもは社会的なものである。世間で通用している規律は文章として定めるようなものと言うより、不文律というようなもので、無いと言えば無いのだが、あると言う意味では法律よりも思いしがらみ的なものである。この見えない抑止力のようなものが、日本を形成する世間である。

 世間をあえて無視するように生きてきた。世間が出来る前に引っ越しながら生きてきたとも言える。小田原久野で自治会長を引き受けたときの条件は、自治会規約を作ると言うことだった。舟原自治会費の領収書が無かった。「領収書はないのですか。」と徴収に見えた組長に聞いたらオレが信用できないというのかと怒られた。久野に存在する世間様を、少し社会に近づけたかったのだ。

 世間の方はそんなものを作ったところで、無視すれば良いのだからと仕方なく受け入れてくれた。しかし、仕方なくであるとしても、一度出来た規約は世間の思惑を越えて、存在する。必ず役に立つときがあると思っている。もちろん役立つような問題が起きないことが一番良いのだが。

 私の自治会長の時には、自治会に加盟しない人がいて、ごみを出して良いのかどうかが問題になった。裁判の事例では、自治会に加盟していなくともごみは出して良い。となっているこれが社会だ。ところが自治会という世間様では、とんでもない奴だと言うことで村八分である。しかし、今の時代村八分も有り難いという人が多い。

 この世間が嫌いなものなので、田舎社会を出るという人も多い。都会には世間がほとんどないと言えば無い。それでも東京の商店街の中に住んでいたことがあるのだが、そこにも世間は存在した。意味不明な非難を受けることも少なくなかったが、社会の規範で押し切っていた。

 そういう世間の空気が読めない人間なので、山北の山中の開墾生活に入ったとも言える。発達障害の人間は空気が読めないと言われるから、それは仕方がないとも考えてきた。世間から離脱して、ひとりで自給自足で生きる。そうできれば世間の目が無くなると思ったのかと思う。

 その頃考えたことは世間は理不尽なものだから、もし世間で生きて行くならば、なんでも7対3を五分五分と思っている他ないと言うことだった。対等と思えば、やって行けないのが、世間だ。

 対等と思うことは世間的には私がひどく得をすると言うことらしいと思っていた。そのころは社会の中で生きたいと考えていたので、この7:3を処世術として受け入れることにした。それを損だと思わないことにしたのだ。ひどい話だと思わないことにしたのだ。このくらいが世間の五分五分だと受け入れることにした。

 その結果世間からは遠ざかることが出来た。世間から大分遠のいた頃に、社会が表われた。それが、酒匂川フォーラムである。あしがら有機農業研究会である。ここでは世間は存在しない。社会としての普通のルールで動いている。社会的な集まりには世間的なものを持ち込まないことだ。

 そのルールを受け入れた人だけの社会である。そのルールを違うと思う人は離れて行く。そうして、暗黙のルールをルールとして理解できる人が残って行く。ここには何一つ命令されたり、世間的な配慮が必要なことはない。やりたいことをやっても良いだけである。やりたくないことはやらないで、止めて行けば良いだけである。自治会が困るのは世間的なものであるのに、自由に止めることが出来ないところだろう。

 価値観の近いものが残って行く。この自然淘汰がとても大事なのだ。自然淘汰が起きないで、異質のものが残って行くと軋轢が生まれ、世間が誕生する。この生まれてくる世間が、なかなか手強いのである。世間的な常識という形で、自分の主張を押し付けようとする。

 社会には世間がないと言うことを理解できない人もいる。私を何歳だと思っているのかと怒った人がいた。年齢の上のものの意見は、批判をせず聞けと言うことらしかった。当然新参者が何を言うのかと言うことでもある。

 残って行く人はここの連中は世間的でない変わり者だから仕方がないと思い、ここでは世間を持ち出しにくくなるのかもしれない。この曖昧さがとても良いのだが、曖昧だからルールがないかと言うと実は厳然とルールはある。むしろきついルールはある。

 例えば平等というルールがある。公平という考え方がある。ところがこれが実に難しい。先日欠ノ上田んぼで作ったクン炭が不足してしまったらしい。早く持ち去ったものは多く確保できて、後からのものはなかったようだ。それで、クン炭の分け方を平等にする案が出ていた。

 平等なぞあるのだろうかと思う。何が平等なのだろう。必要な人が必要なだけ使うのが一番の平等である。その必要の意味はそれぞれに違う。均等に分けるのが平等だという人はいるだろう。労働に応じて分けるという平等もあるだろう。その分け前を販売する人がいたたばあいどうなるのだろう。

 神様がいて、必要に応じて分けてくれるのが平等なのだとおもう。みんなが神様になれば、どのように分けても平等である。お互いを神様と思えるかどうかが世間と社会の違いなのかもしれない。世間はお互いを対抗するような、序列のある存在とみている。社会はお互いを対等の存在とみている。

 世間の方が都合が良いと考える人が多々存在する。自分の理不尽のような押しつけが世間と言うものだと言えば、通るとと考えるからだろう。世間の名の下に自分の都合を主張しようとする。
 
 
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水彩画を描く時の構え方。

2020-11-17 04:05:18 | 水彩画


 水彩画は描き出すところが、なかなか良いものだ。水彩画ほど描き出しの気分の良い画法はないだろう。下描きから始めるわけではない。画面はどこで止めても、その時点で出来上がったと言っても良いような状態のまま進んで行く。純白の紙に薄い一番きれいな彩色がおかれて行く。

 水彩画の描き出しは余りにきれいだから、この先に行けなくなる。気をつけているのはこの時点での美しさは、水彩画素材の持つ材料的な美しさであって、決して自分というものが見ている美しさとは違うと意識する。素材の魅力を損なうことは良くないが、自分の絵になるまで描かなければ絵ではない。

 描き出しの調子は、まだ自分の美しさでは無いので、自分の見ている何物かに向けて、壊されて行く。壊すことを通して、自分の見方、見え方を画面に持ってこようとするのだが、これがなかなか進まないことになる。試行錯誤している内に、水彩らしくも無いゴテゴテのもになる。
 
 ところが絵はもうダメだと思う先に、わずかに光が見えている。この光を頼りに、何度も絵の良いところを壊して行くという、矛盾に満ちたような行為が制作というほかない。そこそこまで描いたところでどのみち自分の絵とは言えない。やれることをやりきったというのではまだなのだ。やれないところまで上り詰めて描かなければ絵には成らない。

 絵を描くとは自分を越えたときのことなのだ。自分をぶち壊し、次の自分に進めるために絵を描いているとも言える。芸術としての絵画というのはそうして出来た残存のようなものではないか。たとえ天才であっても自分の絵を模写するようになったときが終わりなのだ。

 と言うようなことを何度でも書くのは、自分がそこまで出来ていないからだ。観念的な学んだ知識を持って、それらしく描くことは出来ないわけでは無い。そんな絵は知識のまねごとばかりやってきた。それではとうてい私絵画とは言えない。

 岡本太郎なら、「芸術は爆発だ」と言うところだろうが、確かに芸術という行為は、学んだことを巧みに整えたところで、何も新しいことが生まれないのは当然のことである。学ぶことは過去の集積であって、芸術はその先にあるはずだ。分かった範囲の仕事は職人仕事であり、商品絵画と言うことだ。芸術は未だかつて無い地平に立つと言うことだ。

 過去にないものと言っても、奇妙奇天烈なら良いというのでも無い。自分にとって切り開いた世界は通俗な様相をしているのかもしれない。絵画はその線、色、調子でその人間の有様を表しているものだ。取り繕ってきれい事をやったところでこれも芸術では無い。

 もちろん、私にそんな大それた経験があると言うことでない。ただ私でも、なにか良いかもしれないというような、自分の描いた絵に衝撃を受けるようなことがある。このときの体験こそ芸術に触れたような喜びがある。一体何故、自分にこれほどのものが生み出せたのかという驚きである。無我夢中の結果である。

 自分を否定できたときにしか、芸術の領域の前進はないとすれば当然のことだし、自分を否定するというのは尋常なことではないから、爆発と言うしか他に言いようが無いのだろう。乗り越えたような体験を思い出すと、気付いたときにはそうなっていたという感じである。

 だから、それをどう描いたのかもだいたいの場合、分からない。どうにもならないで、メチャクチャやったらば面白くなったと言うことに近い。こうすればどうだろう、ああすればどうだろうと、身についた方法で突破しようとしても、突破できないので、もうどうとでもなれと夢中に、思いもしないことを手がやっていたとき、思いも寄らない所に出ているという調子である。

 絵を描いていていつの間にか眠ってしまうことがある。眠っている間にやるべきことが湧いてきて、眼を開けて思わず描いて突破できたことがある。何故眠れたのかは分からないが、何が次に進むものになるのかはまったく分からない。

 もちろんそういう経験があるからと言え、もう一度同じ穴に狢が居るかと言えばそうでもない。居眠りばかりしていてはどうにもならない。その都度その都度、思いもしないこと、例えば水をこぼしたとか、絵を倒したと言うことが出発点になり、すごいことが起こると言うこともある。

 ただ、確かなことは分かったことを分かった範囲で描いている間は、そこそこには成るが、自分の底の世界に至ることは間違ってもない。日々この程度の繰返しである。自分の絵とは収まりきれないエネルギーのようなものが湧いてくる絵だと思う。力のある絵が出来ることがたまにある。今はこれに期待しているぐらいだ。

 絵を描くというのは、ただひたすら静かに描きながら、そういう突破することをまっているような気がする。そうした突破が来ると、一段高みに登るような感じだ。領域が変わる。そういう体験を通じて、一段一段と描く領域が様変わりする。観ている世界も見え方が変わる。

 何か神がかり的なことのようだが、ごく普通にそういう現象がおきて、絵が一段ずつすすんできた気がする。始めて描いた絵も今描く絵も同じ私がが描いた絵だと分かる。そういう意味では絵には何も変わらないところもある。その何も変わらないものを純化させようと言うことかもしれない。

 絵を見て貰えば分かってもらえる。そう言えれば良いのだが、まだまだほんの序の口に居るわけだから、言葉が余りに大げさに過ぎる。大げさすぎるようだが、実はこれでも言葉の方が足りないような気分が、絵を描く構えである。

 水彩画でとくに大切なことを絵の描き継具時の心の構えである。描き継いでいかなければ、私絵画の水彩画には成らない。描き継ぐとは問題点を手直しするという気分は間違ってもあってはいけない。修正の手順に従っていたのでは、力の無い仕事になる。あらたな気持ちで絵に向かい、その先に行くつもりで描き継ぐ。

 現実の世界を目の前にして対決をしないと、小さな自分の観念の中での仕事になる。だから写生に戻ることをしている。現実は甘くは無い。いつもおまえの絵のような、そんなものではないと言っている。都合良く自分に引き寄せることを拒絶している。現実は自分という器を越えろといつも言っている。

 家のアトリエで見て、充分に考えたことを、風景を前にしてぶつけてみる。この描くことの引き継ぎ方が一番重要だと思っている。絵を直すのではない。絵の問題点を無くすというのではない。絵が次の領域に進むための爆発の方法を探すことだ。

 昨日の絵を今日描き継ぐ、このときに全く新鮮な気持ちで描くことを心掛けている。始めてその場所を見るような気持ちで、始めてその絵を見た気持ちで、先入観を一切捨てて、描き継ぐ。反応だけに自分が成るようにして再開する。

 成果は出ないとしてもこの方法以外に、自分に至る道はない。成果など無いとしても、自分を励まして、覚悟して絵を描いて行くだけである。

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コロナの中をどう生き抜くか。

2020-11-16 03:57:41 | 水彩画

 石垣島のパイナップル畑。先日まで耕地整備がされていたと思ったら、たちまちに植えられたパイナップル。1ヘクタールぐらいある広い畑である。この畑の方に絵を描かせていただく許可をいただくことができた。新聞で見たよと言ってくれた。有り難いことだ。良い絵を描いてお礼をしたい。

 最近は毎日この場所に行って描かせて貰っている。実に美しい出来上がった風景である。それがかえって難しいところなのだが、良い場所が耕地整理されてさらに良い場所になった。以前はこの道の際には木の茂みが続いていて、展望が無かったのだ。

 この畑の際に植えられた、ヤシやクバが石垣らしくて、大きな景観に溶け込んでいていいものだ。美しい景観にするために、木を植えている。こうした気持ちがすごいと思う。畑という自然。美しい場所を耕作すると言う気持ち。

 海と畑の関係はすこしづつ見えてきたのだが、空との関係がまだみえない。11月に入って曇り空ばかりで、どうも行けない。海の色はそれでも面白いのだが、空は自分の意志が入らないで困る。自分の描く空にならない。

 雨も多い。雨の日の海と畑もいいものだ。アトリエカーがあるので、雨の日は水彩画の日だ。乾きの遅い状態が自分の描く流れにちょうど良い。余りに早く乾くと黒ずむと思う。そんなことを思うのは私だけなのだろうか。雨の日は水彩の色が美しい。

 日本の敗戦は平和主義で行くことを日本人に教えてくれた。福島原発事故は人間にこのままの競争経済を進んではダメだと言うことを教えてくれた。そして三度目の今度はコロナパンディミックによって、人間の生き方と死に方が問われているような気がしている。

 絵を描くことだけの暮らしているので、絵に専念するには良い機会であった。コロナは私の人生には案外に良い機会になったのかもしれない。絵を描くこと以外はやりたくてもできるだけやらないようにと言うことになった。引きこもりなどと言われて、良くない暮らしとされていた孤独生活が、むしろ奨励されているわけだ。

 宅急便などがきても、インターホン越しにそこに置いていって下さいと言うことが、決して偏屈とは思われないで、むしろ相手からも感謝されるというような新しい日常になっている。何があっても人間はそうは変わらないものだが、今度ばかりは少しは変わるかもしれない。

 たとえコロナワクチンが出来て、今回は終わったとしても、次の感染症は必ず登場する。嫌でもきてしまう。世界はもう感染症の供えなくしては安心して暮らせない状況になったのだろう。戦争、原発事故、感染症の蔓延と不安な世界はどこまでも続く。

 感染症など恐れるに足らないとする人もいる。自分だけは感染しないと信じているらしい。感染しても発病をしないと信じられる人なのか、死ぬことを覚悟した人なのかどうもよく分からない。たぶん、命より経済が大事というだけの人なのだろう。

 一期一会と茶道では言われる。茶道の家元ではお茶会を以前と同様に行っているのだろうか。前にも同じことを書いた。禅堂の僧侶はマスクをして座禅をしているのだろうか。本堂ではマスクをして読経が読まれているのだろうか。マザーテレサならどうしただろう。

 石垣島では徹底して自粛生活である。小田原に行けば、不安ではあるが、外作業だから、大丈夫だと思うことにしている。コロナ生活は人間がどうしても内向きになる。それは悪いことばかりではないと思う。坊さんや修道士の修行などと言うものは内向きばかりである。

 自分の内側に確信を得ようとする。それはコロナがあろうがなかろうが何も変わらないものではないだろうか。絵を描くというのもそういうものだと思っている。少なくとも私絵画という、次の時代の芸術の形はそういうものだと考えている。

 コロナ時代の絵。コロナは私の絵に影響しているのだろうか。どうも影響は無い。むしろ、今のやり方をとことんやりなさいと言うことのようだ。

 いわば人類がコロナ教の修行僧になった。死を見つめてみろと言うことだ。キャバクラやホストクラブ遊びなどしている場合ではないだろうと言っている。コンサートやスポーツクラブもいけないということにも、それなりの意味はあるはずだ。自給農業はやりなさいと言うことでは無いか。

 絵をひとりで描くのは奨励されている。大きな展覧会は開催が出来ない。開催の準備が難しい。もし開催するとすれば、業者に一切を任せるほかないだろう。それは費用の点でかなり難しいことになるだろう。こうした費用の補助は日本にはないのだろう。経済の活性化とは関係がないものまでは手が回らない。文化とか芸術は、不要不急のものとしてこう言うときには一番に切り捨てられる。

 今まで以上に、描くことに専念しようと思う。こうした状況で気をつけなくては成らないことは、発表ができないと言うことで、おかしな方角に入り込んでしまうことだ。絵を孤立して描いていて、独りよがりになり、とんでもないことになる人は少なくない。座禅もひとりではやっては成らないと山本素峯先生に言われた。

 そこで、せめてものこととして、日曜展示を始めた。ブログのネット発表であっても、自分の気持ちは外の世界に一応開いている形である。ネットでは絵は分からないという人もいるが、分かろうと思えば充分に分かると思っている。ネットで絵を購入したことは何度もあるが、その気で見ればかなり分かるものだ。家で絵を取り出してみて、想像と違っていたなどと言うことはまずない。

 ネットの世界では毎日何千枚という絵が取引されているのだ。ヤフーオークションでは絵が売られている。いや、絵とも言えないものばかりなのだが、その中に本物がある。偽物が実に多い。しかし取引がされていると言うことは、ウエッブで良い絵が全く分からないわけでは無いとおもう。

 それでも、よく見れば絵であるかのか、絵でないのか。そういうことは分かる。絵の真偽についてはわからないが、自分に必要な絵であるか、絵で無いな、と言うことが分かるというだけだ。どうせ本物でも私には絵でないものばかりだ。その気になってみて見れば、そういうことはウエッブで充分に分かる。

 絵になっていれば、必要な人には絵に見えると信じている。ウエッブでの絵の展示をそのようなものと考えて続けている。ウエッブ展示はコロナ時代の羅針盤である。ブログを続けてきてつくづく良かったと思っている。

 現状を考えると、徐々に方向が出てきたのかというところである。これが独りよがりのことなのかもしれないという不安はあるが、ウエッブ場で自分の絵を確認してみると、そんな流れも見えるような気もしている。ウエッブで自分の絵を見ると、人の絵のように見ることが出来る。

 絵を描いている間はこうしてウエッブ展示を続けて行くことにした。石垣島に来て人とは離れて絵を描くことにした。そして今度はコロナで、只管打画の生き方をして良いということのようだ。何かが導いてくれているのかもしれない。と良い方に解釈をしている。    
                                                                                                                                                                                                                                                                      
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