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石垣島には円盤基地がある。白保ビッチムリ

2020-02-29 04:33:52 | 暮らし

 
 不思議な石積みが石垣島の白保にある。何なのかと思う。誰が作った物だろうか。何のための物だろうか。風景を描ける場所を探していて偶然ここに出てかなりびっくりした。ビッチムリと言うものらしい。円盤を呼ぶための着陸基地を誰かが冗談で作ったのかと思った。冗談ではなく本当にそう思った。

 おかしな集団がこの塔を列をなして登って行く幻覚を見てめまいがした。不思議な石積みであるがつい笑ってしまった。何かしら恐ろしげなのだが、ユーモラスでもある。隣の畑におじさんがいたので、これは何なのですかと聞いてみたのだが、返事がなかった。

 絵を描く良い場所を探して、島のあちこちを歩いている。白保の幸福牧場の当たりは海の見えるユナムリと呼ばれる丘である。丘の高いところにへそのようにある。へそは琉球石灰岩で積み上げられている。

 広い農地が広がっている。牧草地が多いのだが、牧場の周囲は石積みで作られている。琉球石灰岩の多い地層なのだろう。この石垣の柵は絵になる。構造物として美しい。

 この石垣が連なり、空間を区切る。白い石垣が牧草地の緑を際立たせて魅力的だ。グスクを取り囲む城壁も、実に造形的なのだ。強い陽射しの中に明確な沖縄的造形性。これはこのビッチムリにも当てはまる。

  どこか絵が描けそうな気がして、時間があるときに探している。幸福牧場の中に入るとここはいいという場所はありそうなのだが入ったことはない。しあわせ牧場なのか、こうふく牧場なのか名前に興味がある。随分と広い牧場であるがあまり牛は見ない。

 丘の上に行ってみようとぐうぜん、この渦巻き状に積み上げられた琉球石灰岩の山に出くわした。何を意味するのか、誰かがふざけて作ったのか。意味不明のものであった。これも石垣島の漫画文化で、近所の人がふざけて作ったのかと一度はそう考えて帰った。

 帰ってインターネットでびっちょむりを調べてみるとこれは白保の史跡とある。しかし、その由来などは表記されていない。あれこれ調べている内にこれが火番盛(ひばんむい)で有ることが分かる。


 鳩間島の火番むい

 先島諸島では、1644年頃に、琉球王国を付庸国としていた薩摩藩の要請によって遠見番所が設置された。のろしのための火を燃やして監視にあたったことから、先島諸島では火番盛と呼ばれる。火番盛では、中国への進貢船の航海状況や異国船の到来を監視し、のろしを上げて各地の火番盛伝いに番所や蔵元に通報し、琉球王府へ知らせた。


竹富島の火番むい

 火番むいでは有るが、形としてはエネルギーが渦を巻いて登って行くというような様子だ。そういう丘の畑がたしかシュタイナー農法にあった。安曇野のシャロムヒュッテにそういう丘の畑が作られていた。沖縄本島の読谷村の病院の庭にもあった。これは精神の安定の丘で花が咲いていた。どちらも一応登った。だからビッチムリの丘で三丘制覇した。

 しかし、この白保のユナムリの丘にあるビッチムリは実にボッシュの絵を見ているような不思議感がある。それは琉球石灰岩の白い色のせいもある。バベルの塔のようでもある。どちらかと言えば、有元利夫の花降る日を思い出した。



 有本利夫はビッチムリを見たかもしれない。私も同じような幻想を見た。異空間である。この絵の穏やかな不思議にも、笑いがどこか潜んでいる。こんな物はそもそもおかしな物だ。

 火番むりが実用性だけの物なら、何もこんな不思議な形にする必要はないだろう。沖縄の神聖は空の果てのなにもない空間である。だから御嶽(うたき)には火をたく場所の石以外何もない。ビッチョムリも火をたく。確かに隣の島への伝達ではあるのだろうが、それだけであったかどうか。

 ひときわ高いところから、空の果てに何かを伝えようとした場所でもあったのかもしれない。そうした神聖をこの場所に感じる。あっけらかんとした神聖。何もないという神聖。この明るいすがすがしさこそ、南の日本人の神聖の概念ではないだろうか。

 絵においても同じだと思っている。そこまで言っていいのかどうか迷いはあるが、私が描こうとしている物はどこまでも明るい風景である。まばゆいほど明るい神聖である。明るい祈りである。明るい願いである。明るさという希望である。

 光という物の意味を印象派は模索した。そして、日本人の光は精神であると私も思う。精神の印象派とはそういうことなのだろう。ゴッホやモネが明るい光を通して日本に感じたのはそういうこともあったのではないだろうか。

 暗いとか、悲しいと言う世界が気持ちにより添うと言うことがある。情感のような意味だ。しかし、明るい精神性は絶望を超越する。明るい光の輝きを描きながら、どこまで深い精神の世界を表すことができるか。これが課題だろう。

 心震えるような明るさ。明るさの向こう側にある世界観。笑いながら話す希望。世界が情けないような状況になればなるほど、真剣な希望を描く必要がある。今はそういう時代ではないだろうか。

 本当の大事なことは笑いながらしか言えない。本当のことを話そうとするとつい笑ってしまう。笑いになるような神聖が、大切ではないだろうか。びっちょむりを見ていてそんなことを考えていた。


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ダイヤモンドプリンセス号で分かってきたコロナウイルスのこと

2020-02-28 04:44:34 | Peace Cafe


 悲劇のダイヤモンドプリンセス号事件を目の前で経験した。このことをとおして、新型コロナウイルスのことがある程度分かってきた。感染した方やなくら成れた方に報いるためにも、この悲劇を今後の感染症対策のために考えて置きたい。

 現在までに3700人の乗船していた人の内、4名の死者が出ている。まだ重傷者は52名いる。そして705人が感染者として確認された。船から下りる時点では陰性であった人の中から、7名の感染者が出ている。45名が現在熱が出て経過観察中だそうだ。海外に帰った人の中では57人の感染者が新たに確認されている。

 降りた時点で陰性だった人の隔離は日本政府は行っていない。ところがその人から感染が広がる可能性も出てきている。このウイルスは想像以上に手強いウイルスと考えた方が良さそうである。

 また、船に感染症対策で乗船した、厚労省の方や医療関係者の人から、記憶だけなのだが、7名の感染者が出た気がする。対策を指揮している橋本岳副大臣も感染したのではないかと言われているがはっきりはしない。厚生省の職場不倫で有名になった大坪寛子審議官も乗船していたが、なんとマスクをせず行動し、飲食禁止区域で食事をしていたという。事実としたら、関係者の感染症認識に疑念が出る。

 対策に乗船した人達は一定の知識もあり、装備をした上で乗船して感染をした。その予想を超えたウイルスであったのではないか。あるいは感染症に関して甘く見たのか。

 少なくとも以上のことから分かったことは、感染力は想像以上に強いウイルスと言うことのようだ。飛沫感染ではなく空気感染すると思われる。クルーズ船に対応で乗船した一定の装備をした人が感染をした。知識のあるだろう医療関係者も含まれる。マスクや手洗いは当然していたのだろうから、予想より感染力が強かったのだ。していなかった疑いもでているが。

 クルーズ船船内は政府の指示でそれなりの対策をしていたにもかかわらず、5人に一人と言うすさまじい感染力でウイルスが広がった。と言うことは、クルーズ船という環境では部屋に閉じこもるという程度では防ぎきれないと言うことである。船内の換気システムを通して広がっていたかの可能性がある。ここはさらに調査して貰いたいところだ。

 しかも、このウイルスは一度回復し陰性になったひとも又陽性に戻るウイルスということが中国でも日本でも起きている。普通であれば、感染し抗体ができて、2度の感染をしないのがウイルスなのだが。何か普通ではない性格があるようだ。

 4名の死亡された方からするとやはり老人の肺炎は、負担の大きな重篤な病と言うことのようだ。重症化された人に対する薬がないと言うことは、対応策がないわけで深刻なことだ。今のところは各自免疫力の強化、体力の強化に励むほかない。

 初期対応が重要という意味も確認できる。一人の感染者から、705人まで1ヶ月で拡散している。対策をしている中でも広がる。2月1日の時点で正しい対応がとられていれば、全く違っていただろうことは想像される。政府を批判しても始まらないが、政府が先手先手で適格な対応をしていると弁解している点が一番気になる。国によって対応が違う。どんな対応をした国が良かったかを検討する必要がある。

 政府は新型ウイルスに対する対応力を持ち合わせていなかったと考えなければならない。そうしたときに即座に対応できる施設もなかったし、医療体制もなかった。ウイルス検査を3700する能力すら準備がなかった。韓国は初めから4000検体が可能であったが、集団感染が広がった。今政府の指示は、37,5度の発熱があっても4日間の間は、自宅で安静で療養してくださいと言うことなのだ。

 私もそうしようと考えている。インフルエンザに感染したという経験が何度かあるが、そのときは熱は38,5度まで上がった。三日目には徐々に下がり回復した。薬は使わない。

 沖縄県では3人の感染者がでているが、感染した時期は2月1日とみられている。タクシーの運転手がダイヤモンドプリンセス号の乗客を乗せて案内をしたためと思われる。最後の感染者は20日で三人目である。感染経路は不明だが、二次感染と思われる。

 そのご3人の患者からの二次・三次感染は起きていない。今月末までに感染の広がりが起きていなければ、少し安心ができる。中国からの観光客もほとんど来ない状況なので、沖縄で感染が広がる可能性は日に日に少なくなっている。

 特に石垣島では安心感が広がっていて、イベントなども普通に開催されている。島という場所はそこで感染が広がれば、大変な密度の感染になるが、ウイルスが来なければ、安全な場所になる。東京方面では八丈島に避難する人がいるという。

 台湾からの観光客はいくらかいないわけではないが、台湾のほうが日本よりも徹底した対応が行われていて、感染は抑えられている。台湾は日本への旅行は自粛している。台湾からも人は来なくなるだろう。

 台湾は徹底した対策をとった。経済よりも健康を選択した。この辺の判断は極めて厳しく、正しい。日本は学ぶ必要がある。台湾がさらに好きになった。実は台湾の蘭展に行くつもりで、予約をしていた。ところが予約した飛行機が飛ばないことになった。

 台湾の人を不安な気持ちにしかねないこの時期に、台湾に行くことはない。又時期を改めて台湾に行くことにする。それにしても石垣島にいることで、不安なく暮らしている。幸運である。
 
 また、台湾の新型ウイルスに対する対応は徹底した物で、日本政府が学ばなければならない対応である。たとえば、マスクは週二枚が国民の権利になっている。身分証明書を提示して買うらしい。外国人は購入できない。

 私はマスクを持っていないし、石垣島では購入ができない。だからマスクをしてはいない。人と会うことはまずない。山の中で絵を描いている暮らしなので、マスクはまずいらないようなものだ。

 台湾は日本の少々ルーズな対応とは違っている。台湾で感染が広がるようであれば、もうこのウイルスは防ぎようのないタイプの物と考えるほかないと想像できる。それぐらい徹底した台湾の防疫体制である。日本からの入国も禁止するか現在検討されている。日本への旅行警戒情報。

 石垣島は幸いのことに感染が起きていない。島ではマスクをしている人は少ない。観光客とファミマなどの接客の人がしているくらいである。マスクが売られていないと言うこともあるが、多くの中国人が来ていた時期から、二週間が経過して感染者が現われないということで、一定の安心ができる状況になったと言うことがある。

 もし今後石垣島で感染が起こるとすれば、東京や北海道などの本土からの観光客からの感染になるだろうと思われる。そのリスクは確率的にかなり低いと考えて大丈夫である。むしろ今後石垣島が避難場所になる可能性はある。

 
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呼吸を鍛錬する方法

2020-02-27 04:01:58 | 暮らし


 毎朝、太極拳八段錦と24式をやっている。呼吸法としてやっている。そもそも呼吸器が弱いので、呼吸器鍛錬のつもりである。深い呼吸をするためには身体の動きに合わせて呼吸をきたえるというのは良いのではないかと思う。

 生命維持の基本は呼吸である。酸素を吸って、2酸化炭素を吐き出す。生き物はすべて呼吸をしている。酸素を吸い込み肺で吸収し血液に取り込む。同時に2酸化炭素を排出する。この仕組みは胸腔や横隔膜で肺を取り囲み動かしている。

 呼吸が止まるときが命が終わるときだ。呼吸は無意識に行ってはいるが、心臓のような臓器とは違い、脳が命じて行う活動である。努力して良い呼吸ができるようになれば、心肺機能が活性化してくる。

 激しく運動をすれば、呼吸も速く大きくなる。身体が必要として自然と早くなる。そういう意味では呼吸は身体的反応でもある。しかし意識して止めることもできる。意識が強ければ、呼吸を止めて命を終わりにすることだって可能なのだろう。

 良い呼吸を行うと言うことは努力で改善できる。禅でも、ヨガでも、太極拳でも、東洋の自己鍛錬は呼吸が重要とされている。西洋では呼吸という物はそれほど重視されていないらしい。

 東洋と西洋の違いは呼吸に対する考え方の違いと言ってもいいのかもしれない。東洋の医学では自己治癒力という物を重視する。その基本が呼吸にある。医師で鍛錬できる呼吸を整えることで、免疫力を高めることができる。

 絵を描いているのは瞑想とも違うのだと思うが、実践的にはよく似ている。絵を描いているときの呼吸法だって、絵に影響しているはずだ。絵を描いているときは半分寝ているような状態である。心拍数も56程度である。フィットビットを付けてみて分かった。呆然としているような感じで風景を見ている。

 絵は脳で描いているように見えるが、脳だけではないと思っている。それが東洋の美術である。精神からの反映を重んじるのが東洋の美術だ。私絵画は内部的な世界の表出だから、脳の意志だけではない。

 姿勢を整えるとか、足を組むというのも形から入る禅なのだが。気持ちが集中してくると、身体に力が妙に入ってしまい、安定しないからあの形になる。絵を描くときでもその形はとても重要である。私の場合、車の中というある程度取り囲まれた状態が良いようだ。

 車の中でゆったりと座っている。絵を描くと言っても実際に筆を動かす時間は10分の1くらいである。自然にやることが見えてくるのを呼吸を整えて待っている。

 毎朝の太極拳では、限界まで呼吸をするようにしている。八段錦には吸気と呼気の動作がある。動作を遅らせれば、呼吸が深くなる。動作の速度に合わせて、より深く大きな呼吸ができるように努力している。特に呼気が難しい、ゆっくりと長く引くように行う。

 そして呼吸を止める状態も大切である。どこで止めるかと言うことも動きの中で定めて行く。8段錦全体での呼吸を決めて行く。基本は開くときに吸気を行う。そして動きが止まるときには呼吸もとめる。そして身体を閉じる動きの時には呼気をはききる。

 呼吸と動きが定まれば、動きの速度で呼吸の速さも決まる。ゆっくり限界までゆっくり動く。呼吸は深く奥まで行われる。身体の動きで呼吸が永く、深くなるように後押しをする。

 きっとこれは、唄を唄うことにもいかせるだろう。唄を唄うのも半分は呼吸を深くするためである。生きているのだから、呼吸ほど大切なものはない。食べ物も大事だけど、一瞬たりとも抜き差しならないのが呼吸だ。

 年をとるにつれば、肺活量は下がって行く、それは生命の活力が下がって行くような物だ。呼吸を鍛えなければならない。大きな声を出すのもいい。時にはデモに参加して大声を出す。

 手のひらに見えない玉を乗せているつもりで八段錦をやっている。そうするとたなごころというか、手のひらの中が、ほんのり暖かく感じられる。不思議なものだ。わずかに暖かい玉は意識なのだろう。その玉は逆さにしても下に落ちるようなこともない。意識をすべてたなごころに載せる。

 呼吸だけに意識を集中する。八段錦はほぼ動作を意識しないでも動けるようになってきた。呼吸が無意識でできるのと同じで、動きも意識のないままに動けるようになりたい。そうなると、まるで動く禅のような物になる。

 まだ24式の方は意識しなければ動くことができない。70の手習いである。どこまで身につくかは分からないが、続けて行く内には覚えるのかもしれないと期待してやっている。身体の動作に意識が行くので、到底瞑想状態にはほど遠い。無意識で動けるように覚えるだけでも1年は必要なようだ。子供の時に覚えたラジオ体操はいまでも無意識に行える。

 ぼけ防止である。頭を使うと言うより、身体を動かすことで、頭を鍛えている感じがする。八段錦、二四式と一通り終わると、30分くらいである。その終わったときの感触は良い物だ。手を前で組んで座禅のような状態に入る。終わった開放感なのか、まるで座禅を組んでいるようだ。

 清々としている。頭の中を清流が流れ、掃除が済んだような感じがする。空という感じはこのときに訪れる物に近い。実に明瞭で開放感があり、すがすがしい物だ。座禅でも座るときには身体を動かし徐々に止めて、身体を止める。

 まだ絵を描き終わって清々したと言うことはない。できない物だ。に近い。

 
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石垣島では市長が市有地を自衛隊に売ろうとしている。

2020-02-26 04:18:32 | 石垣島

白保 ユナムイの農地

 石垣島では市長が独断で、市有地を自衛隊に売ろうとしている。許してはならない暴挙である。自衛隊を石垣島に受け入れるかどうかに、そこで暮らしている市民が一切意見を言えないというのは、信じがたいことである。石垣島の民主主義はどうなっているのだろうか。

 国は石垣島の積み重ねてきた民主主義を自衛隊のために破壊しようとしている。国にしてみれば、国防は重要と言うことなのだろう。それが分からないではない。しかし、住民を無視して国防を進め国の安全保障は成り立つはずがない。それが民主主義国家の安全保障のはずだ。

 石垣島の市民は、自衛隊是非のl住民投票を3分の1の市民の署名で要求している。それでも住民投票を市長は行わない。そのことは現在裁判で判断を仰いでいる。市長はその裁判の判決も待たないで、市有地を自衛隊に売ろうとしている。国の圧力があるのだろう。

 自衛隊基地を石垣島に作ることに対して市民は何も言えない状況である。市議会選挙においては自衛隊受け入れ派の議員は多数派ではなかった。中間的な意見だった公明党議員がいつの間にか自衛隊誘致派に説得されてしまった。公明党議員が何故自衛隊受け入れになってしまったのかが分からない。

 市有地は市長の物ではない。市民の物だ。それを売るか、売らないかは市民が考えるべき問題である。少なくとも市民は意見は言えるはずだ。市有地がミサイル基地になるのはイヤだという市民のほうが明らかに多い。それは自衛隊基地反対もあるが、於茂登岳の大切な場所が何故自衛隊基地に選択されたのかという怒もある。

 市長は反対が多いから、住民投票をやらないでいる。市民の意見は無視して自衛隊に売ってしまおうとしている。こんな民主主義国家はあり得ない。確かに住民投票の結果を無視して自衛隊誘致はできる。しかし、それでは次の選挙で市長が選ばれることはないだろう。それを恐れて、住民投票をしないのだろう。このように民主主義がないがしろにされることはあってはならない。

 この暴挙を止めるのが、市議会のはずである。ところがこの市議会が議論もせずに3月2日に採決がされると言われている。一体どうなっているのか。確かに現状では議会では自衛隊推進派の数が多い。危機である。

 それでも数の力だけで議論も残さないというのはないだろう。何故、自衛隊を誘致することが意味があるかを、市長も議会も議会で明言すべきだ。大切な於茂登岳の市有地を売るだけの理由がどこにあるのかを明確にすべきだ。国の専権事項に口を挟めないと言うことだけでは、石垣市民の代表としての市長の意見ではない。

 石垣島の緊急事態である。民主主義が無視された状況の中で、やれることは限られている。市長のリコールであろう。市長のリコールの請求は3分の1で行われる。
そして投票で過半数の得票があれば市長は職を失う。

 住民投票請求でもできたことである。民主主義を守るためには市長のリコール以外にない。3分の1以上の署名をもう一度集めることだ。石垣市市長は民主主義を無視している。ここで民主主義の原点に返る必要がある。

 1,市長は自衛隊ミサイル基地建設を国の専権事項として、十分な議論や説明すら行わない。2,市長は3分の1の請求がある住民投票を行わない。3,市長は市有地を理由の説明すらなく、議事録の作成すらせず自衛隊に貸し出し、売り渡す。こんな市長はいらない。

 この問題はここでまた、浮上している住民自治基本条例の改正案のこともある。議会は自衛隊基地建設のために、民主主義の息の根を止めようとしている。民主主義では自衛隊の基地ができないからだ。尖閣諸島を守るためには民主主義ではダメだと考えている。

 尖閣諸島のために石垣島を防人の島にしようとしている。石垣島の住民は防人になどなるつもりはない。武力主義だからこそ、尖閣諸島が守れないのだ。確かに中国は覇権主義的傾向はある。しかし、覇権主義に対して日本が武力で対抗すれば、戦争になりかねない。

 戦争になれば、真っ先に危険なのは石垣島である。石垣島にミサイル基地があれば、なおさら危険は増すだろう。そうでなければ、尖閣諸島が攻撃されたとしても、石垣島は無視されるはずだ。

 どうしても自衛隊基地が必要だと思うのであれば、他の無人島に作ればいい。何も平和な島である石垣島に作る必要はない。ミサイル基地が石垣島にあったとしても、石垣島が守れるわけではない。

 中国の覇権主義に対抗するためには、今こそ日本の平和主義である。どこまでも平和的な努力を行うことだ。日本国憲法に決められていることだ。平和的な努力をせずに武力的対抗から始めるのでは平和外交は成り立たない。

 国連において、尖閣諸島の帰属を問題にして貰うことだ。戦争をしたくないから、平和的な裁定をお願いすることだ。それでも進まないのであれば、国際裁判所に提訴すべきだ。そうした結果、どちらに帰属しようとも今の状態よりましである。

 現状では両国の間の火種になりかねない。尖閣の利権などさしたることはない。スイスはあんなに小さな国で、資源もないが世界有数の豊かな国である。戦争など長くしたこともない。


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「石垣島のお米作り」小学生作文コンクールで全農会長賞

2020-02-25 04:44:09 | 石垣島


 小学三年生のすばらしい文章が八重山毎日新聞に掲載されていた。この文章をこのブログにも載せさせて貰うことにした。余りにすばらしいので。新聞の記事でもブログに掲載する場合は、著作権違反と言うことがあるらしい。

 この文章は石垣の小学生が書いたもので、全国農協中央会会長賞を受賞し公開された作文なので、ここに掲載しても許されるだろう。全文を掲載させて貰うのでよろしくお願いします。


 登野城小学校3年 小濱 啓太さん

 ぼくの住む石垣島には、いろいろのでんとうぎょうじがあります。ほくは毎年家族と白保のほう年祭を見に行きます。いねの一生が唄や踊りで楽しく表現されていて、ぼくは好きです。お米とほう年祭のかんけいをもっと知りたかったのでお父さんに聞いてみました。
 するとお父さんが、石垣島は昔から米作りがさかんで、沖縄県の中で米の生産量が一番多いと教えてくれました。「なぜ石垣島でお米がたくさんできるのか」ぎもんに思ったのでお父さんにたづねました。お父さんは、「おもと山」がかんけいしていると教えてくれました。そこでぼくは、おもと山とお米作りについてインターネットで調べてみました。
 おもと山は、沖縄県で一番高く、526メートルあります。おもと山やその周辺の山の近くには、田んぼがたくさんあります。山があるおかげでキレイな水や空気が田んぼに流れてくるのです。田んぼには水がたくさんひつようなので、きれいな水がたくさんある石垣島は、米作りにぴったりの場所なのです。だから、うつくしい水で作られた「石垣島産ひとめぼれ」は、ふっくらしていておいしいとなっとくしました。
 ぼくは、自伝車に乗ることが好きで、家族と良くサイクリングにでかけます。田んぼや畑のまわりを走ることもあります。さい近気づいたことがあります。畑や森だった所に大きなホテルや高いたて物が次々にできているということです。だんだんぼくたちの周りの緑や畑がへってきていると思います。石垣島でとれるお米や野さいが少なくなってしまわないか心配です。
 ぼくはいつか家族といっしょにお米や野さいをそだててみたいです。自分でそだてたお米で、おにぎりを作ってみたいです。大好きな塩おにぎりにして、おなかいっぱい食べたいです。

 最後の、「かぞくといっしょにお米や野菜ををそだてて塩にぎりを作って食べたい。」と言うところが感激する。実感があってすばらしい。この子が大きくなる頃にも石垣の田んぼを残さなければならないと思う。それが今石垣島に生きている大人の役割だろう。

 私もできることがあれば協力したいと思う。学校田は是非やって貰いたいものだ。今の制度だとどうしても教師の負担が増える。これを地域の農家の人が協力することで、なんとかしているところも多い。

 種から蒔いて育てることが大切だ。一粒のお米がどれほど大切なものか理解して貰いたい。最初から終わりまで子供自身がやりきることが教育になる。石垣島にはまだその環境が残されている。是非取り組んで貰いたい。

 石垣の人達は論理性がしっかりしている。自分の考えを伝わるように表明できる人が実に多い。この作文はその良い例だと思う。子供を見れば大人が分かる。考えを伝えられる子供が石垣島にはいる。

 実は石垣島のおばあーのほうも家の光特別賞を受賞した。「空飛ぶパイナップル」である。パイナップル農家の体験談だ。5万人の島の連続快挙である。いつも思うことだが、石垣島の文化的レベルは高い。

 全国学力テストでは低いとされているが、そんなものは屁でもない。人間力は桁外れに高い。それは実生活があるからだ。小田原でいえば、久野の子供でも農家の子供は一人もいない。地に足のついた生活がなければ、地に足のついた考え方もできない。

 学力テストでは良い成績かもしれないが、それだけでは人間の総合力ははかれない。日本の力がすこしづつ後退している原因は知育偏重にある。知識など機械でどうにでもなる。大切なことは知識を正しく使う力だ。

 英語は知識であるが、英語は近い将来自由に翻訳される機能が完成する。機械で解決するような知識を覚えることに小学生を専念させれば、学力テストは高くなるかもしれない。しかし論理的な思考能力はその分下がるのだ。

 考える力のある石垣の子供達は、生きる力が強いのだと思う。これから日本は危うい時代を迎えると思うが、石垣島の子供達は大いに期待ができるのではなかろうか。

 一方先日の議会では驚いた。自治基本条例を廃止すべきという意見がでたらめであった。何の論理的根拠もなかった。ただ、議会が自治基本条例で軽視されている。代議員制度にたいする、自治基本条例は挑戦だと言うだけなのだ。

 これでは住民参加の推進はできない。これからの社会はそこで暮らす住民が自助共助で助け合わなければ、成り立たない。行政が何でもやると言うことはできなくなっている。

 議員の皆さんもぜひ、子供のまっすぐな心を思い出して貰いたい。そして、自らの頭で考えて、意見を言うようにして貰いたい。ここの議員にそれぞれの意見があるはずだ。是非それを聞きたい物だ。

 


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欧米で加速する東洋人差別

2020-02-24 04:55:58 | Peace Cafe

刈り取られた後のきび畑。

 新型コロナウイルスの流行で、東洋人差別が白人社会で起こっている。世界に不安が広がり、日ごろ隠されているものが表面化してきたのだろう。世界が行き詰まり行き場のない不安が差別となって表れてくる。

 白人の差別意識は相当に根強い物がある。人類は進歩したようでも、人間はそうは変わる事ができない。白人にはヒットラーに代表されるような優越意識が存在する。それは消えたように見えていても、内在化しているだけだ。

 フランスにいた頃、いろいろの形で差別をされた。日常的なことはどうでもいいが、絵画における差別には腹が立った。日本にはたいした絵がないと面と向かって主張するフランス人の学生がいた。

 当然のことだが、日本には日本の伝統的な美術が存在する。それは西洋美術とは違うが、劣る物ではない。フランスで西洋美術を学びたいと考えていたが、日本の美術を西洋美術の視点から考え直したいという気持ちだった。

 彼は正直だからそう言ったのだが、大抵の美術学校のフランス人学生が、日本に美術が存在しないと考えているのはおりにふれて分かっていた。その文化的な優越意識から、様々な絵画の場面で差別的扱いをするのは許しがたかった。

 こんなに沢山の日本人学生が、ボザールに来ているのにろくな絵描きがでないのは,そもそも日本には美術文化がないのだろ言うというのだ。そんな日本人が、フランスの美術学校で学ぶ意味がないというのだ。西洋美術の歴史しか学ばないのだから、どうしようもない。とは思ったが、根底にある差別意識は抜き差しがたい西欧中心の歴史観から来ている。だから、西洋美術以外の美術をフランス人が知ろうとしない。

 白人至上主義の美学である。ギリシャからローマへそしてルネッサンス。白人の美術の歴史をすべてだと考えている。東洋美術を文化として認識できない。人文主義だけを重要と考えている。東洋のように、自然のひとつとしての人間観を評価できないのだろうと思えた。

  日本ではフランスの文化相だったアンドレマルローが日本の文化芸術を高く評価した。と言われていた。あるいは印象派の絵画には日本の浮世絵画の影響があるとも言われる。そんな日本の文化の評価はフランス人学生の中にはまず感じなかった。東洋美術という考えは眼中になく、特殊な物のようだった。

 中国の文化を評価するのは日本は中国の文化で育てられた国だからだ。文化的には日本は中国のおかげで成長できたと思う。西洋の近代絵画から学んだ物は大きいが、絵を描く意識は東洋的な考え方に近いと思う。

 一番ショックだったのは、白黒黄色というレッテル付けだった。フランス人にしてみると、黒人は旧植民地からたくさん入っている。親しみがあり感覚的に阿夫利あの美術は理解できるらしい。私には正直アフリカの美術のことはよく分からなかった。フランス人にしてみると、縁遠いい、黄色人種は何を考えているか分からないので、気味が悪いという調子だった。

 はっきりとそういうことを言われて、下宿のおばさんから出て欲しいと言われたこともあった。その頃、赤軍派のハーグ事件があり、日本人に対する反感がすごかったこともある。いくら下宿の引っ越し先を探しても見つからなかった。

 ナンシーには元日本大使だったドランデールさんという方がいて、日仏友好協会があった。その助けでやっと下宿先が見つけていただいた。マダムフィリッツさんという歯科医の方の家に下宿させてもらえた。その方は絵の好きな方で、絵を描く人間と言うことで下宿させてくれた。一部の方が、日本に対して好意的であった。10年後にナンシーに再訪したとき、とても喜んでくれた。

 思い出せばきりがないほど差別はあった。それが今再燃しているのだろう。コロナウイルスが怖いと言うことを東洋人は怖いと言うことにつながっている。全くとんでもない話だが、ありそうなことだと思う。下宿など出て行けと言われている人もいるかもしれない。

 イタリアも1月31日に、世界保健機関(WHO)が台湾を中国の一部とみなしていることを理由に、台湾発着便の禁止を発表した。台湾にはここ半年中国の政治的判断で、台湾へは中国観光客は入国していない。WHOは判断ミスの上に、差別行為を行っている。

 有名なイタリアの国立音楽学校が「東洋人の学生のレッスンを中止する」と発表した。どういう関連があると言うのだろうか。コロナウイルス以上に差別の方がひどいことになる。異民族はどうしても不気味である。慣れがないからだ。

 テレビでは日本礼賛物が良く流れる。日本人の自信の喪失を補おうと言うかのようだ。世界で日本人は評価されていると思いたいと言うことだろうが。日本人は特別に評価などされていない。残念ながら、蔑まされていると考えて置いた方が近い。

 ペストの流行と同じである。文明の転換期は病気がきっかけになると言うことはある。人間が膨張だけを続けて行くことはできない。新しい状況に落ち着くまでは様々な克服されたと思っていた差別が、表面化してくることだろう。
 


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石垣島での制作と壁観と言うこと

2020-02-23 04:10:20 | 水彩画


 アトリエの入口に鎮座する、シーサー様 まるで粘土のままのように見える。そこが気に入っている。そういえば万古の急須の色に似ているか。最近下に粘板岩のような座部石を置いた。地べたでは申し訳がない感じがしたので。

 虎の穴にこもって絵を描こうしている人間にとっては、菩提達磨大師の教えは大切なことだ。江を下って面壁9年す、とある。海を渡って石垣島で何年間絵を描けることだろうか。だるまは碧観と言うことになっている。

 私は俗物だから、絵を描いているのであって、壁に向かっているような心境ではない。ただここで言う壁観は壁を見ることなのか、壁のような見方なのか。碧観と言う考え方は参考になる。どうもそこから面壁と言う言葉はできたと考えていいだろう。

 石垣島はわたしの参禅道場である。絵を描く場である。絵を描くと言うことは実に面白い。終わりがないほどおもしろい。日本の洋画が獲得した様式のような物を払拭することに専念してきた。その上で自分という物を表現するつもりなのだが、これがいつまでも払拭する方にとらわれている。その後のつもりが、またまねっこ乞食である。

 座禅は無念無想で行うということになっている。空になるとも言う。そういうことは私ごときには極めて難しい。それらしき妄想を経験したこともないではないが、まずは雑念が湧いて止まるところがない。仕方がないので、次善の策としてだが雑念にとらわれないと言うことが第一義である。

 ここでもとらわれないとつい考えている。自分と言う物は何だろうかと思う。自分が学んだ物が自分なのか、学んだ物をらっきょうの皮のように剥がしていっても、何物かがその内側にあるわけではない。

 絵を描くと言うことは雑念ばかりである。技術がなければ絵は描けないのだが、技術にとらわれている間は絵にはならない。弓の名人にならなければ、弓を忘れることはできない。筆を何に使う物だから、分からなくなった頃には、指で指し示すだけで絵は終わっているようになるらしい。

 これは岡本太郎が書いていたことなのだが、芸術は最終的にはここだと指さすだけでいいというのだ。言葉としてはなんとなく分かる。風景を見ていると、ここだと指さしたくなる状態はある。しかし、それは指さした物を画面の上に描けるというわけでもない。

 絵を描いているというのも、形から入ると言うことに近い。絵を描いている形がある。ただ海を見ていてもいいのだが、私にはできないから、絵を描いていると言うことなのだろう。形から入るというのは、えせ物であることを認めたような物だ。

 丸一日風景と向かっていて、飽きることがないのだから、絵を描くことはすごいことだと思う。釣りをしていても飽きることがないらしいから同じことだ。釣った魚までリリースするということは、釣るという行為そのものが面白いと言うことだろう。面白さは成果ではなく、行為にある。セザンヌは描いた絵を現場に置いてきてしまったという。

 そして又朝になると絵を描きに行きたくなる。不思議なようなことだが絵を描くと言うことが、それほど私の次を開くような、未知の世界に踏み込んでいる感じがする。

 先日、NHKラジオで鎌倉の禅寺の住職であり、精神科の医師でもある方が、座禅と瞑想のことを語られていた。本来空になることを修行するのが禅である。しかし、3年半修行した自分にもそれは難しいことであった。そこで、むしろ一点に集中することで、瞑想状態を作リ出すことを、普通の生活の中で取り入れるべきではないかと言われていた。

 確かにひとつの考え方である。禅の修行は並大抵のことではない。実は千日回峰業よりもはるかに困難である。全身全霊で何もないものに取り組まねばならない。人間に最も困難なことだ。行為そのものがないのだ。空という意識もしてる。と言うのだから難しい。

 生活の中で瞑想を行うというようなこととはある意味次元が違う。次元は違うのではあるが、座禅に似て非なる物ではあるが、一点に集中することでも、全く無意味とは言えない。えせであることを承知の上で、暮らしに生かすというのもないわけではないのだろう。

 山本素鳳先生は呼吸に集中しなさいと言われていた。数を数えると言う人もいるが、数を数えていると数を間違えることに気をとられる。それよりも呼吸そのものに集中しろと言われた。

 呼吸は腹式呼吸で行えと言われた。おなかで空気を吸い込むような気持ち。吸い込むのだから、吸気の時にはお腹はへこんで行く。排気の時にはお腹は膨らんで行く。この呼吸に集中して行く。そうすると雑念が湧かなくなると言われた。

 これは初心の私に対する指導であったので、本来の座禅とは違うのだろう。座禅は一人一人の問題で、正解はないに違いない。座禅に興味を持ったのは、座禅修行を長年された、山本素鳳先生にすごい人間力を感じたからである。先生が世田谷学園で禅を指導に見えたとき、まるで人間が違って輝いていた。後光が差していたと言うことだろう。

 ごく普通の人であるのだが、根底から力がみなぎり輝いている。坊さんというものはどうやってこの力を得るのだろうと思った。立派な人間になりたいとあがいているような高校1年生だったので、たちまち魅了された。

 それから座禅というものをひたすら行うと言うことに努力をした。そもそも禅寺で産まれて、寺院で育った。祖父も叔父も修行を積んだ人であった。しかし、出会う僧侶のすべてがくだらない人間であり、敬意を払うには値しないと思っていた。

 しかし、三沢先生にお会いして少し考えが変わった。長野の頼岳字に三沢先生を尋ねて、坊主はお布施で生きているインチキだとわざわざ言いにいった。先生はそのときお布施をいただけるような坊さんになりなさいと言われた。

 その直後山本先生にお会いしたので、坊さんのすごさのようなものを実感した。ここに何かあるとすれば、それは座禅修行しかないと思えた。それからまねごとを始めた。しかしまねごとのせいもあり、お布施をいただけるような人間には成れなかった。

 そこで絵を描くようになった。形のあるものでなければ、私のような俗人には修行は難しいと思えた。形があれば、弓の名人になることはできるかもしれない。これは俗人の考えである。俗人はただ何も無い所に向かって座っていると言うことにはできない。

 絵を描いているとすぐさま空白の状態に陥る。これが座禅の空と同じなのか、違うのかは分からないが、向かい合う風景を見ているだけになる。呼吸に集中して行きなさいと言われた、山本先生の言葉を思い出す。見ることに集中して行く。

 ただみている。そのただ見ているものを画面にあらわそうとしている。この感じは座禅の空の状態と言うより、瞑想状態に近いのかもしれない。それで何というわけでもない。私に後光が差してくるようなことは全くない。それでいいのだが。

 絵を描くと言うことは、見ていると言うことに入り込むことだ。そのみている状態を絵にすることができれば、それは私絵画であろう。それは碧観に似ている。その世界がどんな絵になるのか確かめるためには、ぼけずに長生きしなければならない。

 

 
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石垣水彩画生活

2020-02-22 04:09:45 | 水彩画


 制作途中、もう少し


 この場所で描いている。

 この文章は一度公開したが没にして、先に延ばして書き直した。じぶんの日々描いている状態を文章化してみることは必要だと思っている。絵を描くことと同じくらい大切だ。

 絵を描くと言うことは、考えることだと思っているからだ。自然の美しさの表面をなぞるなら、きれい事ですむ。見えていることを掘り下げる必要もない。美しさを写し取る機械になればいい。自然という物は美しいだけではない。複雑怪奇で、恐ろしい物でもある。その全体に迫るためには、美しいと言うことの奥にあるものを見なければならない。

  絵を描いているときはただただ描いている。見ている風景を参考にしては、描こうとする色・濃度・筆触。そういう画面上のことに反応しているだけである。思いついて描こうと思ったことを一通り終わると、しばらく絵を眺めている。そうして絵の具の乾くのを待つ。

 そのときいろいろのことが浮んでいる。絵空事ではなく、現実を作り出したいなぁ、と良く思う。自分の絵を描く目で見たい物だと思う。一体何を見ているのかとそちらのほうがきになる。絵を良くするために何か問題点を探すようなことはしない。それが一番悪い方向だからだ。

 ファミマのカフェラテを飲みながら何となく思うのだから、そう深刻にではない。絵には見ているすばらしい風景以上に、真実として、存在して貰いたい。そうではないか。絵は風景とは全くの別の創造物であると言うこと。

 中川一政氏のユリの花を描いた絵は、ユリの花そのものとはまるで違う魅力がある。ユリと字を書いたとしても、ゆりとは違う創造的魅力がある。このようにものとしての魅力を作り出したいと言うことなのだろう。

 その作品の魅力とは中川一政氏の魅力なのだと思う。ここに創造と言うことがある。制作ということがある。描く人間の深い洞察が作品にあふれてくる。作品から、ユリの花を通して作者の人間が示される。そういう絵に何とか近づいて描きたい。

 それがまだできないのは、絵が下手だからではなく、人間がダメだと言うことが大きい。カフェラテなど飲みながら描いているからダメなんだとも思わないのだが。絵が人まねの匂いがするのが一番イヤだ。

 人間以上の絵などないわけだ。人間はひどいのだが、絵はいい等と言うことはありえない。絵が創作であれば当たり前のことだ。創作するというのは自分を絞り出すと言うこと。自分を別にして絵だけ何とかしようとしても無駄なことだ。自分を深める以外に絵は深まらない。

 何もない人間であるのなら、カラの絵でなければならない。くだらないない人間であるのなら、くだらない奴だなあーと言うような絵でなければならない。絵を見て描いた人が現われてくるようなものを描きたい。

 自分を深めると言うことは生きている限り続くことだろう。少なくともぼけて訳の分からなくならない以上、修行は続くと言うことになる。ひたすらに努力を続けるということのみ。それが絵に出てくるはずだと思っている。

 絵は自分の意思を示している。風景をこう見ているという意志的な物だ。特別に意識をしないとしても、いつの間にか絵は自分そのものである。絵がダメなのは自分がダメだからだ。絵がどうしようもないときは自分の状態がどうしようもないときだ。

 時々偶然のように絵が輝くことがある。自分の充実が高まっているときである。絵を描くためには描くときの状態が重要になる。毎日描いていて、ある日そういう暁光が来た様な感じがするときがある。それがあるので絵を描きに行く。

 前よりはいいぞとおもう。まだまだだけど、前よりはましではないかと。これだけである。前よりはいいというのは、新しい発見があると言うことだ。絵は前の物の踏襲では少しの充実もない。絵面がどうしようもないものでも、前の絵と違うと言うことが大切である。良くなっているのかどうかは、判断できないが確かに変化している。

 未だかつてないものを発見しなければ、絵は一歩たりとも深まらない。一枚の繪ができると言うことは新しい発見があったと言うことだ。同じと言うことは深まらないだけでなく、後退である。何かないか。どうにかならないか。そういう試行錯誤の先に新しい発見があるときに、自分の深まりがあるのではないかと思っている。

 過去を否定しなければ、次には行けない。昔の自分にしがみつくと言うことは、すでに心が衰退していると言うことになる。新しい発見に向かう。次の冒険に向かう。未知に立ち向かう心がなければ、自分の絵を深めることにはならない。

 自分の確立したものを日々壊して行くこと。前やったやり方に頼ってものを見るなどと言うことは弱い心の表れだ。ただ問題は自己否定の仕方だ。これを間違うと自己本位になりかねない。自分だけが満足することになる。

 どこまでも客観的な目を持って、自己否定を続ける。これができれば必ず自分には近づいて行く。そう思って絵を描いて行く。絵がそれを証明しているかどうかを冷静に見なければならない。絵は生きて行く指針のようなものだ。絵は生きる羅針盤だ。


 これは先日見つけた新しい場所である。ここで一枚だけ描いてみた。すばらしい場所である。力がある場所だ。石垣島は私の楽園である。次から次に描きたくなる場所が現われる。

 数えてみると、石垣島に始めてきて以来、今までに10カ所描いた場所がある。それはどこも家から30分有れば行ける場所だ。今日もどこに行ってもいいし、思う存分描けばいいだけである。これで行き着けないというのでは、なんとも情けない。やり尽くしてみる覚悟だけはある。

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ダイヤモンドプリンセス号の悲劇

2020-02-21 04:44:05 | 暮らし


国立感染症研究所によると、感染者のうちの23人は感染を広げないよう、乗客の客室での待機が終日で始まった今月6日以降に、感染が確認された同室の乗客から感染したとしています。とくに今月13日以降について見ると、発症したうちの13人は乗員で、5人は同室の乗客から感染したとしています。---NHKニュース

 ダイヤモンドプリンセス号で起きたことから学ばなければならない。3700人の乗客乗務員の内、621名が新型コロナウイルスに感染したのである。菅官房長官や加藤厚労大臣からは報告はあるのだが本当のことのような気がしない。感染症の専門家に状況を伝えて貰いたいものだ。

 今のところ十分な情報が開示されていない。次に起こる感染症対策のためには何が起きたのかを検証する必要がある。政府は自己弁護的で責任逃れになっている。外面はそれで仕方がないかもしれないが、ダイヤモンドプリンセス号の教訓は極めて重要である。緊急に検証委員会を作り、調査の必要がある。

 クルーズ船の中で感染が広がった背景には対応の失敗がある。失敗の証拠に対策のために入船した職員が複数感染している。その原因には不手際があるのは明確である。立ち上がりにウイルス検査を全員にできないという驚くべき事態があった。お金を惜しんだという話もあるが、理由が分からない。

 ウイルス検査の態勢が、1ヶ月の間に準備できない国に日本はなったていたのだ。本来であれば、中国で起きた状況を察知し、1月中に検査態勢は整えられたはずだ。

 2月1日に香港の下船した人がコロナウイルスに感染したことが判明した。そのときに誰が、クルーズ船の感染阻止をしなければならなかったのか。たぶん船長なのだろう。そのままにして置いたことで二次感染が起きたと思われる。

 3日に横浜に到着した。5日に10名の感染者が確認されるまでは、政府はクルーズ船にたいして、感染症対策を指示していない。これも621人の感染、重症患者28名。亡くなられた方2名という事態に追い込んだのではないか。

 初期段階に対応を考えれば、5日までの間に感染を広げることはなかった。横浜着岸時点で下船させて全員を収容する準備も可能でなければならない。それができなかったのは政府に決断力が欠けていたからだ。外国船籍と言うこともあったかもしれない。政府に,官僚に危機対策能力がない。

 もちろんそうしたことはすべて仮定のことであり、できなかったことは誰の責任と言えない状況だったかもしれない。次に起こるだろうことのために、何故今回こんな事件になってしまったのか調査と反省はしなければならない。

 ウイルス検査が手間取り、数にも制限があったようだ。政府は国立感染症センターのウイルス検査をいまから強化を計ろうとしている。ウイルス検査は民間検査機関が行うべきではないのか。一説によると民間機関ではすでにウイルス検査を一日二万件こなしているそうだ。そこを強化すれば、この程度の検査はたちどころにできるという。

 一番気になるのは何故、船内隔離を選択したかの判断である。そして今になって何故下船させたのかである。どのような科学的な根拠で下船させなかったのか、又させることにしたのか。判断の根拠が良く理解できない。

 科学的見地ではなく、世論に流されての政治判断のように見えるが。現時点の結果を見れば専門家の判断とは思えない。社会不安を増幅させてはならないとするような政治的判断が加わっていないか。政府はクルーズ船の感染者数を日本に入れないというような外交交渉をWHOとしている。

 ウイルス検査を即座に行い、陰性の人から下船をしてゆく。あるいは地上の施設に隔離すべきではなかったのか。船内は窓もないような、ウイルスが蔓延しやすい環境だった。ウイルスを除去できるような空気清浄機はなかった。飛行機にはあるそうだ。

 下船して3700人を受け入れる施設がなかったとすれば、次回のためにはどんな準備をしておけばいいのか。あるいはできないというのであれば、今後どうするのかも明確にすべきだろう。そもそも、クルーズ船の責任の所在が不明確などとコメントしている。いつも悲劇が起きてから、想定外と言われて済まされる。

 もし、下船させないで船内で二週間待機して貰うのであれば、クルーズ船には感染症の専門家チームを送り込み、感染症病院のような態勢を作らなければならない。感染症には不慣れな看護師や医師や厚生省の職員が対応して自ら感染を起こしている結果では問題を深刻化したのではないか。船で指揮しているDMATは災害医療のプロではあるが、感染対策のプロではないという。

 船内は感染危険区域(レッド・ゾーン)と安全区域(グリーン・ゾーン)が区分されていなかったというが、あったと言うことを厚生次官は主張したが、正確にはどうなのか。マスク・手袋などの感染防止対策がまちまちなこと、患者の隔離がなされておらず通路で何の気なしにすれ違うことなど、乗員・乗客のみならず医療従事者すら身を守る体制がなかった。と言うが本当だったのか。クルーズ船スタッフが感染を広げた疑いがある。

 船内を指揮する指揮系統がでたらめのようだ。持病のある乗客に薬が届かないと言われていたが、話にもならない。食事の配膳などもサランラップもかけられず行われていたという。そもそも炊事場のウイルス対策はできていたのだろうか。乗務員にも感染者は複数出ている。

 崎陽軒がシュウマイ弁当を4000個も差し入れをしたと言うが、これは乗客に届かなかったという。指揮系統がなく混乱した状況だったと思われる。洗濯物も自分で行うしかなく、代えのシーツもなかったと降りた方が言われていた。

 下船が開始された。アメリカからは救援の飛行機が派遣され、それで帰るという。しかし、あと数日でウイルス検査の結果が出るというのに、その前に感染状態が分からない人達を混成で飛行機に乗ってしまうと、さらに二週間隔離されるのではないか。だから救援機には乗らないという人もいた。

 数年おきに新種のウイルスによる感染症が世界各地で発症し、なおかつ日本は観光立国で世界から旅行客が訪れている。こんな曖昧な態勢では、対応できない状況ではないだろうか。日本が頼りなくなっているように思えてならない。

 こうした新型感染症の頻発はやむ得ない人間の暮らし方になったと言うことなのかもしれない。人間が暮らし方を変えなければならないときにきていると言うことに気づくべきだ。その教訓にしなければならない。

 
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石垣島は私の虎の穴

2020-02-20 04:27:59 | 水彩画


 車の中で描いている途中の絵である。この後大分変わった。海辺の水田の風景だ。海の色を何とか描こうとしている。すごい海の色なのだ。この後変わったのは海ではなく、空と遠くの半島のあたりだ。たいていの場合、そのものではなく、それ以外の物に原因がある。

 それでもできたという感じにはならず、諦めた感じで終わった。そしてもう一枚描いてみた。そちらの方がまだいいところまでいった。描く位置を少し変更ことが良かったかもしれない。

 ここは初めての場所だ。いぜんからかきたいとはおもっていたところだ。サトウキビ畑があって、海のほうが見えなかった。サトウキビの収穫が終わったので今はよく見える。そういう場所はもう一カ所有る。そこは工事をして見えるようになった。

 「虎穴に入らずんば、虎児を得ず。」と言う言葉がある。不思議な言葉である。『後漢書』班超伝に有る言葉だそうだ。西域である匈奴やクシャーナ朝を攻めて後漢の勢力域を広げ、西域都護として長く西域を守った班超のことを意味している。

  虎の子供がよほど価値のあるものだったのだろうか。そうではない。虎の最も大切な我が子である。相手の大切にしているものを得るためには、自分を犠牲にしても相手の懐に飛び込まなければならないと言う意味だろう。相手が一番大事にしている領土を奪うために敵地に暮らしたと言うことになるのか。感心した話ではない。

 孤児院出身のタイガーマスクは虎の穴という、悪役レスラーの養成機関で過酷な訓練を受けた。そのプロレスジムはそもそも、イギリスにあったスネーク・ピットジムのことだ。プロレスラーの神様、カールゴッチやビルロビンソンの在籍した、ヘビの穴養成所のことだ。

 原作者の梶原一騎さんが虎穴に入らずんばと絡み合わせて、タイガーマスクのプロレスラー養成機関を虎の穴と改名したと思われる。確かに、カールゴッチのレスリングはヘビのような寝技が多く、執拗に絡んでくるものだった。ヘビより虎の方がいい。ヘビではかっこいいマスクが作れない。

 58歳近くなってからの藤原喜明との試合をテレビで見たが、勝つことはないが負けることもないレスリングだった。いわゆるストロングタイプのレスリングである。

 アントニオ猪木の卍固めは、日本で指導していたカールゴッチ直伝である。カールゴッチは力道山や吉村道明と引き分けている。当時の日本で英雄の力道山と引き分けるということがどれほど大変なことかが分かる。カールゴッチは当時はドイツ人と言うことだったが、ベルギー人である。アメリカで悪役レスラーを長年やった。当然だろうが、無冠の帝王と言われた。正義のアメリカ人にやられるドイツ人というわけだ。

 プロレスの話を思い出して長くなってしまったが、虎の穴は敵地のことである。虎の巣に入って、虎の子供を連れ出すなど正気の沙汰ではない。しかし、そのくらいの覚悟で物事には挑まなければダメだと言うのは正しい。

 私にとっての虎穴はどちらかと言えばモグズリ込む絵を描く穴蔵である。だからタントの中が虎の穴。虎の穴の中で、ひたすら絵を描こうと言うことだ。と言うことは石垣島は虎の穴ということになる。石垣島では絵を描くだけに生きている。

 ありがたい虎の穴だ。つらい修行の穴ではない。絵を描くこと以外ほとんどない環境で暮す事ができている。きれいさっぱりである。これから12年虎の穴で絵を描くことができれば、何者かに変貌できるかもしれない。虎に変貌すると言えば、中島敦の山月記を思い出す。が、私の修行は愉快な虎の穴だから、変身してもパンダぐらいだろう。

 穴に中に閉じこもると言うことでは、井伏鱒二の山椒魚も思い出す。出られなくなる前に、時にはもぐずり出てなければならない。穴の中で山椒魚のように頭でっかちになるのは怖い。水彩人や農の会に出て行くぐらいがちょうど良いのかもしれない。

 毎日絵を描きに行きたいという心境はどういう物だろうかと思う。かなり技術的な興味に動かされている。このところは海の色を表す方法を繰り返し探っている。明るい青から緑の変化がどうすれば出るのかをいろいろやってみている。

 自分の絵を探求しているというようなことよりも、目先の様々なやり方のほうに気をとられている。自分の絵に直面することが怖くて、眼前の技術的なことに逃げているのかもしれない。そうだとまずい。

 それにしても水彩画の表現は奥深い。全く新しい方法に気づかされる毎日である。そういうことがあったのかと思う。しかし虎の穴で学ばなければならないのは、表現方法で解決できることではない。生き方に違いない。

 70歳の今になって水彩画の技法の探求に入ってしまうのは、私の絵の描き方が技術を避けてきたからだと思う。技術から入る人はこういうことはないのかもしれない。やりたいようにだけやってきて、技術を学ぶと言うことは避けてきた。今更のことだ。

 石垣島に来て、新しい色にで会っている。新しい色を出すためには新しい方法を見つけなければならない。出ない色ばかりで困るのだ。それはやっと色が見えてきたと言うことでもあるなと思う。

 旅行できて描いていた頃は自分の色で描くことができたような気になっていた。ところが、同じ所を何度も描いている内にこれでは違うと言うことになってきた。新しい色を見つけ出さない限り描けない。そこで新規に水彩画をやり直しているようなじたいだ。

 その意味ではまだまだというところで有る。あの色に、あの感じに、ほど遠いのだ。あの空の色に、あの海の色に、あの草の色に、あの森の色に、なんとしても近づきたいと思う。

 もう一息の感じまではきている。それでついつい絵を描きに行きたくなる。家で並べて眺めていると、やってみたいことが出てくる。家では描かないことにしているので、あれをやってみようという課題が見つかる、又虎の穴で出かけて行く。
 

 
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テスラの蓄電池が普及価格に近づいた。

2020-02-19 04:02:11 | 暮らし

石垣の田んぼの土は代掻きをした後、三週間ぐらいは濁ったままである。珊瑚礁で浸透性が良いように見えて、そうでもない。

 アメリカの企業のテスラの蓄電池は、日本での価格は蓄電容量13.5キロワット時で99万円としており、1キロワット時あたり7万円台前半となる。容量の小さい国内メーカーの製品は同20万円弱から30万円強が多い。ーーー日経新聞

 実際素暮らしの中でどうなるのかは分からないが、日本の価格の3分の1である。競争にならない価格差である。間違いなく電力の自給に一歩近づいていると言うことだ。太陽光発電を行い、電気自動車に乗る。電気の軽トラもある。エネルギー自給が中山間地の山の中でも可能になると言うことだ。

 蓄電池の開発は再生エネルギーの利用には重要な課題だった。この技術が化石燃料電気と遜色の無い所まで来たと言うことである。蓄電池が実用化のめどがついてきたと言うことは、ここ数年で再生可能エネルギーは全く違う局面を迎えると言うことになる。

 太陽光発電や風力発電は蓄電池の価格を下げることが重要だった。こうした電力は山の中で孤立していても可能だ。送電線がいらない。停電に対しても対応ができる。自立した、自給の暮らしには朗報である。

 テスラは電気自動車への供給が有るので、一貫した大量生産のシステムが整いつつある。直売方式で価格が下げられたのかもしれない。アメリカの大企業では、化石エネルギーや原子力エネルギーを使わない会社が出てきいるそうだ。

 環境に対する姿勢を示すことが、企業の姿勢を示すことになり、企業への支持を広げることにつながっている。つまり、そうした消費者の意識が企業を変えているのだ。日本の企業が進取の気性を忘れ、企業理念を失ったかのように見えるのは、環境を大切にする企業を支持する国民の意識が弱いからなのだろう。

 日本の企業は地球環境の未来に対する責任を感じていないと見えるところが大多数だ。目先の競争しがみつき、既得権益の死守に翻弄されているように見える。原発事故の後、日本企業は自然エネルギー開発に死に物狂いになってくれるだろうと期待をしたが、裏切られた。

 脱原発の意欲をアベ政権は根底からそいでしまった。原発輸出などと馬鹿げた方針を打ち立て、原発村社会を維持しようとしたのだ。原発事故を起こした日本の原発を導入するような国はあり得ないだろう。誰もが考えた、予想通りの無駄な政策に終わった。もちろん反省の弁解も聞いたことがない。

 しかし、こうした政府の姿勢のためか、再生エネルギーの開発競争では日本は世界の趨勢から完全に遅れてしまった。新しいものに挑戦しようとするものを、既得権を握っているものが邪魔をするのだろう。アベ政権は既得権集団の代表だから、あたらしいエネルギー産業が育つことができないようにしたとしか思えない。

 アベ政権が脱原発を宣言していたら、否応なく日本は再生エネルギー開発に必死になったはずだ。確かに、日本の経済は停滞したかもしれない。しかし、原発事故からの復活という意味では、日本人が我慢できた機会を逃したのだ。

 文明の方向の転換があのときならできたのかもしれない。多くの日本人が苦しい中で願ったはずだ。重要な転換の機会を逃したのだ。原発が安い電力だ等と今でもひとつ覚えで呪文のように唱えている政府では、新しい国の方向など生まれるわけもない。これがアベ政権の罪深さだ。

 新型コロナウイルスで世界の不安は広がっている。これは終わりの始まりである。さらに深刻な感染症は必ず登場する。今回のウイルスの展開はそのときのための予行演習のようなものだ。人間は原発事故を忘れたように、何でも忘れる。今回のことを忘れないように見ているひつようがある。

 日本人が忘れていても文明の転換は迫っている。この転換に日本は遅れようとしている。今中国は苦しいだろう。大変だろう。頑張って貰いたいものだ。ここでの頑張り方がむしろ次の正しい方向への展開につながる可能性もある。中国も覇権主義などやっている場合ではない。

 日本は原発事故を良い方向への転換に生かせなかった。それは日本人というものの限界だったのだろう。中国がこのウイルス蔓延を機会に方向を変えれば、世界の方向だって変わる可能性がある。経済競争だけでは必ずもっと怖いウイルスが登場して、こういうことが繰り返される。

 テスラの蓄電池は文明を変えるスタートの技術なのかもしれない。テスラ製の蓄電池が大きな注目を集めるのは、電力会社から電気を買うより蓄電池を活用して自家発電した方が安くなる節目である「ストレージパリティ」損益分岐点の一歩手前の価格水準だからだ。

 ドイツ貿易・投資振興機関によると、再生可能エネルギーが同国では18年に損益分岐点に到達した。現在は太陽光などの分散した発電所をまとめて運用する仮想発電所(VPP)事業が急拡大している。ドイツは脱原発を宣言して、新しい方向が生まれている。日本は学ぶほかない。

 残念ながら、日本は国の方角を間違えてしまった。いまさら間違えを改めることはできないのだろうか。世界が変わって行けば人間の生き方も変わる。日本という国に又黒船が来てくれるだろう。それまでは自分の暮らしを造ることだ。国の方向で自分の生き方を間違えないことだと思う。
 
 日本の自然環境は豊かだ。エネルギー自給の時代になれば日本ほど優れた場所はないと思われる。ウイルスが出現するとしても、豊かな自然環境が抑えてくれる。都市環境がウイルスの蔓延の一因である。豊かな森の中で暮らしていれば、ウイルスは収束する。

 江戸時代の暮らしを材料にして、現代の科学的進歩を取り入れ未来に生かすことだ。すべてを循環して暮らすことができる日本列島で、日本人は300年前に3000万人の社会を構成していた。その倍くらいの人口が日本列島で完全自給で暮らせると思っている。又そのくらいの密度が健全な人間の暮らしである。

 その暮らしにはステラの蓄電池と中国製の太陽光パネルが使われているのかもしれない。残念だけど、すばらしい暮らしがそこにはある。

 

 
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新型コロナウイルスの個人的対処方法

2020-02-18 04:01:12 | Peace Cafe


 これから書くことは自然養鶏を通して学んだことである。鶏で考えたウイルスに対する対応方法である。人間の医療には素人である。その前提で参考にしてもらえればと思う。

 新型コロナウイルスの流行は文明の行き着く先を暗示している。その意味で、原子力発電ともおなじ道である。楽な暮らし、自由な暮らし、欲望を無限にを求め続ける現代文明の限界なのだと思う。

 新型コロナウイルスは日本での感染のリスクがかなり高くなった。幸いなことに健康な人であれば、深刻な病気ではない。インフルエンザに感染しても、薬を使わないで克服してきた人間としては、同じような対応で乗り切れる病気と見ている。

 そもそも免疫が強ければ、感染しない確率の方が遙かに高い。同じ条件でウイルスに接触しても感染する人の方が少ない。何故感染する人と感染しない人がいるのかと言えば、自然免疫力が弱くなっているか、強いものであるかだ。

 新型のウイルスだから、誰でも始めて遭遇する。そのために自然免疫力はほとんどの人に備わっていない。しかし、感染しにくい人は様々なウイルスに感染しながら、幅広く免疫を広げている。始めて遭遇するウイルスにも感染しにくい、または感染しても重症化しにくいと考えている。

 それは鶏に対する飼育法の中でワクチンを使わないで、どうやって健康な鶏を飼育できるかを試行錯誤しながら、研究した結果の考え方である。鶏と人間は違うだろうと言えばその通りであるが、生き物であるのでにたところもある。

 鶏の中には高病原性の鳥インフルエンザの蔓延した大規模養鶏場の中でも全く感染しない鶏もいたという。同時に自然養鶏の養鶏場は大規模養鶏場に比べて発病がほとんどなかった。そうした観察の中で、新しいウイルスに対しても,ある程度免疫力が発揮できる可能性がある。交差免疫と名付けている。

 日ごろ、無菌状態の中で、徹底した消毒の中で生きている大規模養鶏場の鶏であれば、未知のウイルスの侵入でたちまちに感染が広がってしまう。ところが、自然養鶏場で、様々なウイルスと感染し、克服する、を繰り返して生き残った鶏であれば、未知のウイルスにもかなり抵抗力がある。それが自然界の仕組みで、生き物が現在まで生き残ってきた姿である。そうした力を持てなかった生き物は消えたのであろう。

 人間もインフルエンザワクチンで免疫をえた人間より、インフルエンザウイルスに感染して、克服した人間の方が強い免疫力をえると言うことは充分考えられる。その強い免疫力があれば、未知のウイルスにもある程度免疫が存在する可能性がある。と推測している。

 自然養鶏では全くワクチンも薬剤も使わないで行っていたが、家畜保健所の血液検査ではニューカッスルやマレック等、様々な自然免疫を獲得していることが判明した。自然の病原菌の侵入が繰り返され、病気にならない鶏が確立していたのだ。

 人間も同じだとは言えない。現代の人間には自然淘汰というものがない。自然養鶏では自家繁殖を繰り返しながら、弱い系統の鶏は淘汰が繰り返される。その結果、生き残っている鶏は強健種になって行く。人間は弱いものが生き残っている。

 人間というものの暮らし方が、新しい病気を生み出しているということがある。ひとつには自然淘汰のない人間。幼児期で死ぬことが少なくなった人間。それは良いことであるのだが、その結果新しい病気の蔓延と言うことが起きやすくなる。

 新型ウイルスの登場は文明の問題なのだ。人間の暮らしが自然界に踏み込んで行く。大規模畜産が薬漬けで行われる。人間は体質が弱くなって行く。大幅に寿命が延長され、本来なら死んでしまう年齢の老人も生きることができる。物資や人間の交流が爆発的に増えている。

 こうした状況では新しい病気が世界的に蔓延する可能性はいつでもある。今まで以上に広がっている。人間の暮らし方が限界を超えているとも言える。人間は暮らし方を慎ましくすべきと言うことだ。自然を恐れぬ、人間の人口爆発がこういう状況を生んでいるのだろう。

 日本の人口減少は全く自然の摂理に従ったことなのだ。日本は6000万人ぐらいが暮らす面積だ。自然に順応しての暮らしを取り戻すべきことだ。幸い地方の中山間地は消滅し始めている。人が来ることを望んでくれている。

 そうした中山間地で暮らしていれば、簡単に新型ウイルスに接触することも起きないだろう。日本人は暮らしを変える時期に来ていると言うことだ。日本人だけでなく、人類が進むべき文明というものを考え直さなければ、悲惨なことになる。

 長期的に見れば、暮らし方を変えることも重要ではある。が、当面はどうするかである。まずは人混みにはできる限り近づかないことだ。特に密室状態にいることは感染リスクを高める。普通のマスクをして街ですれ違うぐらいではさしたるリスクはない。

 人混みに近づかざるえない人は手で何かに触ることが一番危険である。できる限り触らない。触った場合はその手で自分に触れない。手を消毒できる場所では消毒する。洗えるならば石けんで良く洗う。接触感染の可能性が高い。

 健康的な生活を送る。免疫力を高めるよう努力をする。身体を冷やさない。よく眠る。発酵食品を食べる。水分を良くとる。不安で暗くならないように、明るい気持ちになるよう努力をする。適度な運動をする。特に太極拳八段錦は良い。心拍数が90ぐらいになる運動を毎日30分おこなう。

 マスクをする。怪しいと思えば寝ているときもマスクをする。マスクはのどを守る。マスクは無駄ではない。マスクを通り抜けたウイルスがあったとしても、のどが潤い、健全であれば感染しない可能性が高まる。

 今後世界中でウイルスは広がるだろう。それはインフルエンザと同じことである。残念ながら沢山の人が亡くなられるだろう。そして、夏になれば収束すると期待している。その頃には対処法もはっきりとしてくる。しばらくの辛抱である。

 日本でまず起きているのは中国と関係のある人からの感染である。そして、今起き始めたのは、感染した日本人からの二次感染である。この後の広がりは2月末には様子がはっきりしてくる。

 たとえば、二月末に感染が起きてない地域はかなり安全とみていいだろう。感染が広がるものであれば、二月末には感染者が目立っているはずだ。ワクチンがあったとしてもインフルエンザだって流行して、数千人は亡くなっている。同じことである。しばらく辛抱の時期が続く。
 
 
 

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アベ氏の頭は空洞のようで、恐ろしくなる

2020-02-17 04:49:07 | Peace Cafe



安倍晋三首相は13日の衆院本会議で、共産党が破壊活動防止法に基づく調査対象になっている理由について「1951年から53年ごろにかけて、革命の正当性、必要性を主張し、各地の党組織や党員が殺人や騒擾(そうじょう)などの暴力主義的破壊活動を行った疑いがある。現在においても暴力革命の方針に変更がないものと認識している」と述べた。 ーー毎日新聞

 アベ氏はいよいその本性を現してきた。今までは木偶人形として、動かされてきた。ところが偽物を長く演ずるうちに、木偶が木偶を忘れるようになったのだろう。演じさせられていることを忘れて、自声でしゃべり出すとこの有様である。

 アベ氏人形は木偶人形なのだから、頭の中が空なのは仕方がない。しかし日本の頭の頭の中が空洞ということだから、本当に恐ろしいことだ。木偶人形一座を演出している人はコロナウイルスをどう考えているのだろう。どう操ればいいのか判断ができないらしい。

 いまどき、共産党が暴力革命を目指しているなどとは、アベ氏とその周辺の右翼集団ぐらいしかそんなことは考えている人はいない。ばかばかしいこんな話は久しぶりに聞いた。国会の総理大臣の答弁でこんなことを語るようになれば、世も末である。何の益があって維新と木偶芝居をするのだろうか。

 総理大臣としての品格有る姿とはほど遠いことになっている。まるでその辺のヘイトスピーチのようだ。立憲の辻本氏の質問が終わった後、大きな声で「意味のない質問だ」と叫んだ。これはマイクにもはっきりと入っていて、全く驚かされた。吉田茂氏が、馬鹿野郎と罵倒して衆議院を解散したことを思い出したが、そんな威厳はなく、なんかチンピラの捨て台詞のようできいている方が恥ずかしかった。

 国会を政策論争の場にしてほしいのであれば、総理大臣が質問者に不規則発言をするようでは、到底無理だ。総理大臣は誰よりも良い議論を作り出す責任がある。アベ氏のように、わざと意味の違うような回答を延々と語るのでは、到底政策論争にはならない。

 確かに意味のない質問であるかもしれない。何しろ、アベ氏は明確な説明を一切しないのだから、意味のある質問に進むこともできない。説明をしないのでは無く、説明をできないのだろう。議員には説明責任があると繰り返し口先では言いながら、桜疑惑の説明もできないでいる。

 いつものことだが、これで押し通せるところがすごい。アベ氏が何か説明をしてくれて、桜疑惑の真相を理解ができた人はいるだろうか。回りの取りもち人間だけが、お殿様をおだてているに違いない。

 説明すると言う意味は聞いている人が理解できなければ、説明したことにならない。国会が芝居をやっていても、コロナウイルスは黙ってはいない。確かに同じ意味のない、答えのない質問を繰り返していたのでは一歩も進めない。意味がない原因はアベ氏の説明責任回避にある。

 日本人は様々な意味で劣化をしていると思う。総合的な判断力が薄れてきた。行動力がない。決断力がなくなっている。粘り強さが見られない。正しい勘が働かない。クルーズ船のことを見ればよく分かった。

 武漢からの引き上げ飛行機の時も随分ずさんだと思ったが、それどころではなくさらにひどい。病気で助けを求める人に対して、有効な手が打てないていたらくである。恐ろしい監禁事態になった。これは政府の責任だろう。世界に恥をさらしている。

 その一因は経済優先である。どうも検査費用すら出し惜しんだと言われている。今は暗い不安の中にいるので、あえて触れないでおくが。日本の衰退の姿は、この愚劣な安倍内閣に対して、おべっかばかりの国会議員、官僚達。検察官。裁判官。この面面の忖度の結果だ。政治の劣化は悲しいばかりである。

 たぶんどの分野でも骨のある人物は割を食ったのだろう。まともな人間が登用されない社会になったようだ。その結果優秀と言われた官僚まで劣化した。原発村妄想だった。今度は感染症対策で次々に愚かさが露呈している。新規産業の創出ができない日本という結果になっている。なにしろ、アベノミクスは成功だとしている愚鈍なアベ政権である。

 石油確保のために自衛隊が中東に派遣したという。そんなことは何十年もまえから言われ続けたことだ。手を打つべきなの自衛隊派遣ではなく、日本のエネルギー自給への転換である。何故、日本の安全保障のためというなら、日本の自然エネルギーの開発に目を向けないのだ。日本は自然エネルギーなら宝庫である。太陽は平等性の高い資源だ。

 循環型エネルギーはコスト面で原子力エネルギーを超えた。世界的に見ると化石燃料利用の電力とほぼ同じ価格になったという。東大の女性の教授がそのようにテレビで話していた。循環型エネルギーの分野では日本の技術は完全に後れをとってしまった。原発にしがみついているためである。原発輸出と方針を決めた、蒙昧なアベ政権は反省をしろ。

 目先の利益に拘泥、既得権優先、上級国民優遇。これが日本の劣化の原因である。目先の欲得を我慢して、未来のために頑張ると言うことができないのだろうか。アベ政権の利権主義ために日本の機能は停止しかかっている。

 まずアベ政権が交代することだ。それしかない。人心一新である。身内を優遇するようなことのない人であれば、この際はアベ氏よりはいいだろう。アベ氏以外なら誰だってましだ。このまま行けば日本崩壊になる。

 もうすぐ次の桜が咲く。新しい気持ちで桜を見たいものだ。

 
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日本の農業を再生する道

2020-02-16 04:21:38 | 地域
 遠くに田んぼが光っている。この田んぼから湧き上がる力は、絵でなければ描けない。

 日本の農業は危機に瀕している。政府が力を入れるのは、国際競争力のある農業と言うことになっている。ますます小さな農家は未来の展望を失った。そして農業を辞めて行く。その結果は中山間地の地方集落の消滅を促すことになっている。

 政府は地方再生などと政策としては掲げているが、具体的には地方が疲弊して行く方向だけが推進されている。大規模機械農業と競争できない、小さい農業は消えて行く。中山間地の農業は国際競争力があるわけもない。大規模機械農業にも生産性で劣る。海外に輸出できるような企業的農家は、競争条件の悪い中山間地のyとうな場所を選択しない。

 日本の農業が消えようとしている。これをかろうじて支えているのは、ご先祖から受け継いだ農地を守り、子孫に残そうという百姓の生きかたである。それがいよいよ失われつつある。そして、孤立した小さな農家は消滅するしかない状況になっている。

 小さな家族農業が消えていった後、大規模の企業農家が農地を維持できる場所はまだいい。しかしほとんどの日本の農村は経営的には成り立たない。産業としての側面だけではますます日本の農業は縮小されてゆくだろう。

 自給率が現在かろうじて37%となっているのは、確かに企業的農家の成長がある。輸出できるような果樹栽培や畜産等も大いに頑張り、食糧自給率を維持している。

 その一方で中山間地での耕作放棄地の増大は歯止めがかからない。それが地方社会の消滅の危機に拍車をかけている。それは日本の環境にも大きな影響を与えている。里山と呼ばれるような山は手入れがされない状況である。雨が降ればたちまちに土砂災害につながるような山になっている。

 日本の環境を一番形成してきた稲作が危うい状況にある。お米を食べなくなっていると言うこともある。それは日本の食文化にも影響を与えている。食糧自給率はこのまま行けば、バランスの悪い実際の食糧自給とは異なる、見かけの自給率に代わって行く。

 日本の農業は危機的状況はこのまま行けば取り返しのつかないところまで進む。例えば、小さな農家が大豆や小麦を作るとする。取り残されたような場所で作るのであれば、補助金の対象にはなりにくいだろう。手作業中心の農業と言うことになれば、当然国際競争力所ではない、非効率なものになるだろう。

 そんな小さな農家が維持される条件は、継続している人の意地だけのようなものだ。もう自分が生きているだけでいいのだからと続けてくれている。そうした農業を息子や孫にさせるわけにはいかないだろう。自分は頑張れるが、もう後継者では無理だと考えている。

 日本の農業をここまで継続してきたのは、こうした地方に定住する小さな農家の方々の努力であった。それがかろうじて2020年の今でも里地里山を維持している。それも、残念ながら風前の灯火と言うことだろう。しかし、こうした里山的な暮らしを見直さざるえない世界が近づいていると、見ている。

 農業破壊は別段日本だけではない。世界中で広がっていることだ。農業大国であるアメリカでも状況は同じだ。アメリかを支えてきた普通の農家が企業的農家殿競争に敗れている。追い詰められた農家は最後の手段として、トランプに投票したと言われている。

 アメリカの農家の窮状は農業というものは価格競争だけでは維持できないと言うことを意味している。アメリカほど国際競争力のある農業大国ですら、国内の農地の荒廃は進んでいる。

 まして日本のようにそもそも競争条件の劣る条件の中山間地の農業を維持するためには、地域全体を総合的に考えなければならない。農業の競争力だけでなく、地域を維持するために必要な形を見つけなければならない。

 農業は食料を生産する、人間の暮らしの最も基本となるものである。これを他の産業と同じに考えてはならないのだろう。自動車の輸出のために、農業を犠牲にしても仕方がないというわけにはいかない。

 自給のための農業生産は貿易とは別に考えて行く必要がある。自然環境を含めた日本という国をどうすれば維持して行けるかを、総合的に考える必要がある。地方の社会がどうすれば維持できるかの中に、農業を加えて行く必要がある。

 感染症の流行をみると、人間の暮らしが近代文明の限界に近づいたと言うことだ。原発事故でも目覚めることのできなかった人間は、今度は感染症というもので、現代文明を見直さざるえなくなるのだろう。

 現在の農業政策は農業に効率だけを求める結果、競争力のない小さな農家を廃業に追い込んでいる。そのことが地方の社会を崩壊させ始めている。この崩壊している、地方社会の暮らしこそ、もう一度日本人がとり戻さなければならない暮らしである。

 日本農業はどうすれば再生できるか。それは市民が農業を自給として行うことだ。市民の自給であれば、労賃が生じない。たとえ生産性が低くとも自給農業であれば続けることができる。

 農業を他の産業とは別に考えなくてはならない。農業の自給体制は外国が口を挟むことではない。国の安定には不可欠なことだ。世界中どこの国も自給をする特に主食に関しては自給は権利であり、義務である。

 日本はこれから中クラスの普通の国になる。それは日本がアメリカに次いで二番目と言われた頃から見れば、衝撃ではあるが。これから当分の間、世界の三〇番目くらいの国に落ち着けば良しとしなければならない。充分それでありがたいことなのだ。

 そうした国が堅実な国作りをするためには、自給農業は重要な要素になる。どれだけ産業が変化して行くとしても、食料生産だけは安定的なものにしなければ、小さな国として危ういことになる。軍事力以前に食料生産の安定こそ、国の安全保障になる。

 また、自給的な農業は生活というもののに安定をもたらす。日本人というものを形成してきた、伝統的稲作を通して日本の文化を再認識することができる。日本人の暮らしに安定をもたらす。

 具体的な方策としては、農地法を変える。農地の利用を自給のための市民にも可能にする。農地のなかに市民利用可能な新しい線引きをする。市民利用のための施設なども,公的に建設をして行く。ロシアやドイツにある自給農園の制度の研究をして取り入れて行く。
 

 
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新型コロナウイルスの対策をアベ政権はできない。

2020-02-15 06:18:11 | Peace Cafe


 不安をあおるようなことになりかねないので、新型コロナウイルスについても、もう書かないでおこうと思っていた。しかし、不安が的中してきた。今ならまだ間に合う、全力でウイルスの蔓延を食い止める必要がある。

 新型コロナウィルスは新しい状況に至った。日本国内で、感染経路のわからない感染者が多数確認され、また、初の死亡者も出た。中途半端な「水際対策」のために、日本国内にウイルスは蔓延を始めた。この責任は日本政府にある。判断を完全に間違った。たぶんだれも責任を認めないだろう。この言い逃れる態度が、ウイルスを食い止められないダメなところなのだ。

 横浜中のクルーズ船では感染者が急増している。下船した乗客の多数が重症となっている。乗員乗客を長期間船内に閉じ込める対応が最悪のものであることが指摘され、国際的な批判が相次いでいる。政府の対応は、クルーズ船監禁事件と言えるような、最悪の対応である。多くの専門家が歯がゆい思いをしていることだろう。これで良くやっているなどと言う、提灯持ちが未だ存在する情けなさ。この忖度が政府をダメにしている。

 でたらめなアベ政権のウイルス対応によって、国民は新型ウイルス感染の重大な危険と恐怖に晒されることになった。近隣諸国よりも明らかに後れをとっている。原因は官僚の劣化にある。自己保身のための忖度ばかりして都合の悪いことは隠蔽する姿勢がまかり通ってきたことにある。桜問題を見れば分かる。アベ政権の意向を忖度するだけの官僚が上に立つのだ。

 新型ウイルスが日本で感染を広げ始めた今、日本政府の適切な対応が行われなければ、多くの日本国民が生命の危険に晒されることになる。それでも責任を感じないアベ政権では到底的確な対応はできない。自分で判断できる有能な官僚が適切なポストにいない。

 アベ政権は、政権の維持のために、巧みに責任の回避を繰り返しているだけだ。国民もその方がいいとしている。問題の根本に目を向けようとしていない。すべての問題への対応が目先の経済優先である。何故か中国からの渡航禁止をためらった。その結果中国から大量の観光客が日本に訪れて、感染拡大を防げないことになった。国民の生命の危機にさらされている。アベ政権ではこれから起こるだろう大変な危機対応は期待できない。アベ政権は患者数を倍増させれるだろう。死者も倍増するだろう。

 このまま手をこまねいていれば、東京五輪開催中止せざるえない。状況はそこまで深刻である。日本経済に与える影響ばかり考えるアベ政権は、最悪の事態を想定できず、ウイルス対応の判断に失敗を繰り返してきた。今後の対応にも全く期待できない。

 今までの流れを断ち切るためには、新しい生きた組織に組織替えしなければならない。人心一新である。責任を押しつけあい、たらい回しにするアベ人脈ではこの危機に対応はできるはずもない。中国の初期対応のまずさ所ではない、日本政府のでたらめの方がさらにひどい。

 こん回のウイルスはインフルエンザよりも少し重い病気と言うぐらいのようだ。不幸中の幸いである。もしこれが重い病気であれば、もっともっとひどいことになる。今回のことを良い教訓にしなくてはならない。

 そもそもの日本人の危機管理能力は高かった。先を読んで的確な判断ができた。ところが、そういう日本人が的確な地位についていない。上を見て忖度している人間が上級国民入りである。まさに安倍晋三その人の姿である。

 日本人の劣化をアベ政権は急速に進めてしまった。以前の日本には自己犠牲的精神で、全体のことを考える人が要所要所にいた。下支えの場所で陰徳を積むというような日本人がいた。こうした日本人らしい姿勢の人々を消し去った。

 こんな自分だけ良ければいいという官僚組織に危機対応ができるはずがない。もし日本のためを本当に考えるのであれば、アベ氏は即座に退くべきである。自民党はアベ氏を即座に引きづり下ろすしかない。残念ながらそんなまともな議員はいないだろう。

 保身だけはどの政権よりも巧みなアベ政権である。日本はこのまま危機管理を失敗して、ずるすると行く可能性が強い。ここでも暗い不安が高まる。もし日本人に日本の社会を大切に思う気持ちがあるならば、アベ政権打倒以外にない。

 こんな風に書くと、共産党で暴力革命を目指していると、アベ氏なら言うところだろう。暴力革命など少しも思わない。どれだけ論理的にアベ氏の問題を指摘しても、アベ政権がいいという日本人なら仕方がないと思う。それが日本の運命である。

 しばらくは,虎の穴にこもる以外にない。虎の穴にこもり、絵を描いている。誰にも会わずに絵を描いている。面壁9年ということだ。若い仕事をしている人はとんでもないことだろう。電車で仕事に行かなければならない人は不安なことだろう。

 免疫力を高める。長時間眠る。バランスの良い食事をする。発酵食品を食べる。軽めの体操をする。太極拳、八段錦が呼吸器の強化に良い。明るい気持ちで笑って暮らす。幸石垣島は温かい。こういう場所ならば、流行は起きる可能性は低いとみている。


 
 
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