地場・旬・自給

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新型コロナウイルスとBCG

2020-03-31 05:49:55 | Peace Cafe
大隅典子                東北大学大学院医学系研究科教授。

 このブログは朗報かと思う。情報だけでも拡散したいと思いました。
結核予防のBCGワクチン注射が新型コロナウイルスの重症化を止めているかもしれないという話である。研究者の集めた情報なので、とても興味深い。

 特に免疫というものの考え方が変わってきている。特定のウイルスをへの免疫力が、他のウイルスへも効果がある場合があると書かれていた。この仕組みは少し難しくて、私には説明できない。

 自然界における免疫と言うことを考えれば、そういうことはありうるのではないかと、考えてきたことだ。

 70歳以上が重症化しやすい。と言うことも70歳以上と70歳以下ではワクチンの種類が変わったのだそうだ。そのために起きている可能性もあるという。もしこのことが正しいことならば、早く70歳以上はBCGを受ける必要がある。
 

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裁判員制度での死刑判決は7回も高裁で覆された。

2020-03-31 04:40:53 | Peace Cafe


 裁判員制度は止めるべきだ。裁判は専門の司法関係者で行うべきだ。日本独自のやり方でいいと思う。裁判員制度は作られるときから反対をしてきた。その後もいいことなどなにもない。むしろ、裁判の悪いところが表現されている。

 裁判員は一審の地方裁判所のみで行われる。結局、裁判員の意見は表明されはするが、決定的なものではない。お茶を濁しているようにしかみえない。裁判員制度は民主主義制度を育てるものだとなっている。日本全体が志を失い、民主主義が捨てられて行く中、形式的な裁判員制度は意味をなしていない。

 民主主義は地方議会で一番反映されなければならない。ところがその地方の議会では、自治基本条例の廃棄案が上程されるような事態である。民主主義は理想主義であり、つねに理想の民主的自治の実現を模索して行くなかでのみ成立する。現状はそうした戦後社会が目指した民主主義社会の理想は挫折したと思わざるえない。

 議会が代議員制度としてあるのだから、直接民主主義的な自治基本条例などいらないという議会になっている。議員に任せておけ、住民は黙ってオレ。と言うことになり始めている。それで不都合もないから、若い人達から政治への関心を失い始めている。

 そういう政治状況が反映しているのが裁判でもある。沖縄の米軍基地の裁判を見ていると、政府が米軍基地の建設を進める。それに対して住民は投票で反対を示している。そして、地方政府は国に対して訴訟をしている。ところが、話はかみ合わず、話し合いもできない状況になっている。こうしたときに裁判所は、国の代弁者にしかならない。

 こんな司法を信頼できるかといえば、むりだろう。現在、石垣市では三分の1の住民の署名を持って、自衛隊基地の是非の住民投票をしたいと要求している。ところが市長は、自衛隊は国の専権事項だから、住民は口を挟めないとして住民投票を拒否している。

 そのために市長には自治基本条例に基づき投票を行う義務があるとして訴訟を起こした。ところが、中々裁判が進まない間に、市長と市議会は市有地を自衛隊に売ってしまった。そして建設工事が進められている。

 こんな状況は法治国家とは言えない。裁判所も何故いつまでも裁判を長引かせているのか。全く裁判が機能していない。こんな状況の司法の状況で、裁判員制度と言われて、民主主義の推進と言われても、全く馬鹿馬鹿しくなる。

 裁判員制度で裁判が早くなると言われたが相変わらず時間がかかり、裁判員に負担が大きくなっている。これではやり手がないのは当たり前だ。いくら国民の義務だと言われても、自分が判事をさせてもらえるわけでもない。お飾りの参加である。

 裁判員制度での死刑判決は7回高裁で覆されたという。これでは裁判員を任された人は、7回も不当死刑判決をしたことになる。これは裁判員をされた人にとってつらいことではないか。耐えがたいことではないか。苦渋の選択で死刑を選択しても、覆されるのでは、命の選択をした身になれば辛すぎる。

 裁判員制度は一日も早く止めなくてはならない。何のために一般の市民が裁判員を行っているのか私には訳が分からない。裁判員の判決は尊重されるはずではなかったのか。何も死刑にした方がいいというのではない。死刑などしない方がいいに決まっている。

 裁判員制度は司法関係者の社会参加である。世間から無視されたくないので、裁判という物を社会的な物にしようとしているのでは無いか。社会は見たくない物は見ない。君子は厨房を遠ざく。これを受け入れた上で公正さを専門家として探求するほかない。

 それでも問題のある現行法の下、裁判員が素人ながらに一生懸命考えた末に出した結論である。それが7回も覆されたのだ。なんとも言えない、不愉快がある。それくらいなら裁判員に任せなければいいだろう。

 死刑判決は重いものだ。それをあえて選択せざる得なかった裁判員の思いはどこに行くのだろうか。私がその立場であるなら、耐えがたいものを感じる。もちろん、引き受けることはないが。イヤだからと言うことを理由に拒否する権利はあるのだろうか。

 裁判員制度ができて何か良いことはあったのだろうか。、2009(平成21)年5月21日、裁判員制度が始まった。この制度は「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」とされている。

 裁判員の死刑判決が7回も覆されていると言うことは、信頼を損なうと言うことだろう。死刑の判決を受けた被告は、大変な衝撃であろう。それが間違いだとされるのだ。7回もこんなことが起きて、裁判への国民の理解など少しも進んだとは思えない。

 そもそも裁判員にくじで当たってしまった人がドンドン拒否するようになっている。私も拒否するつもりだ。偏向した判断をするに違いないからだ。死刑廃止を信条とする人はかなり多い。こういう人が裁判員になった場合どうなるのだろうか。今度は判決を覆して死刑ということになるのだろうか。

 あるいは現行法に従い、自分の思想信条は捨てろと言うことになるのか。くじ引きというものは公平なようでそうでもない。偏りが出ることはあり得る。一般には世間の空気を反映する結果になるのだろう。裁判長は担当事件の報道は見ない聞かないでいる。裁判員にはそういう制限はない。世論の空気の影響は大きい。

 死刑の可能性のあるような裁判はそもそも悲惨なものだ。許されがたい内容の犯罪だ。世間は大いに批判しなければならない。冷静に諸事情を勘案などしない。リンチ的な空気だって湧いてくる。

 民主主義を育てるためには司法への住民参加が必要とされている。それが裁判員制度の根拠である。しかし、今のような形の司法参加が民主主義を育てているとは到底思えない。お茶を濁しているに過ぎない。司法関係者の意識と、住民の意識の乖離が目立つだけである。

 


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なぜ、アベ政権の支持率が下がらないかの理由

2020-03-30 04:33:56 | Peace Cafe


 アベ政権は繰返し、繰返し国民を愚弄してきた。上級国民らしい思い上がり政権としか思えない。これほど下層国民を踏みにじる政権が何故支持率を下げないのか不思議でならない。これはかつてない現象である。

  アベ政権は最長の政権である。良い政権だから長いのでなく、最悪の政権であるにもかかわらず、随分と長い。この不思議がどうしても分からないできた。アベ氏に変わる人材が自民党に見当たらない。野党が頼りない。小選挙区制のためにアベにこびる議員だけになった。

 様々にアベ政権が何故続くのか、政治分析が出されてきた。わたしも似たようなことを書いてきた。しかし、いまいちすっきりと分かった感じがしないでいる。分からないためにアベ政権を作り出している鵺の存在を感じてきた。

 それでもすっきりしない理由の方は少し分かってきた。若い人が私ほどに政治に関心がないと言うことなのではないか。それとアベ政権がどうつながるのかはまだ分からない。政治に関心がないという以上に社会に関心がないという方がもっと正確かもしれない。多くの若い人の中に社会のことを考えたところで始まらないという見切りができたのではないか。これがアベ政権がいつまでも続いている理由ではないだろうか。

 我々までの世代は社会は、構成する人間が努力をすればなんとかなると考えていた。あるいはできないとしても精一杯主張し努力することが、いくらかでも社会をよくすることになると考えていた。ところが社会はそういうことでは変わらなかった。

 その証が1970年以降50年の歴史だ。頑張ったから、戦争が起きなかった。と言う人もいるが、若い人にはそうは見えないと言うことだろう。戦争は抑止できたというより、戦争の性格が変わったと言うことだと思う。

 反アベも、親アベも結局の所一緒である。一緒というのは政治的姿勢は対立である。しかし、アベ政権が何かしてきたわけでもない。ただ押し流されているに過ぎない。自民党だけでは格好がつかないので、一応共産党もある状態とでもいえばいいのか。この50年本当の意味で政治などなかったのだ。特にアベ政権には国会というものもない。

 国会は形としては開かれてはいるが、何の意味もないと言うことが続いている。これでは野党が政権を取っても同じこととしかみえない。悪夢の民主党時代というのは確かにその通りなのだ。そのように分析するアベ氏の自民党の、この50年間の政治全体で何か政治と言うことはあったのかとすら思う。あったのだろうが、政治と言うよりもう少し違うところで日本は動かされてきた。

 何故国会が無意味であるのかと言えば、政治そのものが無意味になっているからだ。民主主義が形骸化したと言うことでもある。民主主義は志である。志を失えば、民主主義は失われる。志のない行政と官僚だけで国が運営されている状態が続いている。自民党もいなければ、共産党もいない。国会議員はいなくてもいてもほぼ変わらないという感覚。

 具体的な政治というのは税金の集め方と、使い方だとすると。消費税は誰が考えて、誰が決めたのだろうか。世界の流れにしたがったと言うことぐらいで、消費税を行う政治的理由、つまり日本の方角は議論されていない。仕方がないぐらいしか言われた気がしない。

 この間唯一政治と言える動きはアベ政権の憲法改定の主張だろう。憲法を変えて明治帝国主義国家に戻すというのは確かに政治の動きである。しかし、この提案は政治が行われていない中、現実離れしている。これは関係ないとは次の若い人でも言えないことなのだが、判断のしようがないのだろう。

 軍国主義になれば、軍隊に行かなければならないかもしれない。これこそ政治が人の生き方に影響すると言うことだろう。本当のところは今日の朝食だって、政治の結果が回り回ってきたものだ。ただし、そう言うことは感じられない飽食の時代だ。

 たしかに、国会というものを空洞化させた主役がアベ長期政権である。桜を見る会の姿はまさにその結果である。前夜ANAホテルで接待を受けたアベ後援会一同様が新宿御苑に場を移して、タレントやスポーツ選手を国の予算で招き歓待を受けたのだ。証拠があるなしにかかわらず、そんなものだ。何が悪いんだというのが今の日本の社会なのだ。

 もちろん年寄は違う。とんでもないといきり立っている。あるいはそれぐらい何が悪いんだと居直っている。40歳以下の人の意識は勝手にやってください、どうせ関係ないでしょ。こんな風になっている。それどころではないのだ。感ずるか感じないかは別にして、この先資本主義が崩壊して行く予感の中に生きている。あまりの深刻さに、思考が停止せざるえないのではないだろうか。その予感に気づけば、就職どころではなくなる。

 そうすると、どうも資本主義をなんとしても維持しようという姿勢が、アベ政権が支持され続ける理由だ。だから、アベ政権のやることは既得権益を守ることに専念している。もちろん、誰がどうやっても資本主義は終わらざるえない。ここにアベ政権が続く理由があるらしい。それは10年後か、20年後かははっきりしないが、そうした予兆のようなものは次々に現われている。

 しかもこの現実には向かい合うことすらできない矛盾に満ちた現実である。可能なことは逃げることだけだ。ひどいことになったものだ。文明が転換しようとしているのだ。私が自給自足を考えたのは結局のところ、70年代に社会の限界を見たからだ。

 あの時代をなかったことにして生きることができなかったからだ。逃れようとして絵を描こうとしたのかもしれない。あるいは絵を描くことで政治ではない解決があると信じたかったからかもしれない。いずれにしてもついに資本主義が限界を迎えはじめた時代を見ている。

 これがアベ政権が支持率が下がらない原因である。もう政治の力などではどうしようもないからだ。それが誰がやっても一緒という無気力を生み出している。資本主義を継続させるために、修正して新資本主義のような調整が行われようとした。ところがそうした修正主義ではどうにも収まらない。

 国家資本主義の登場。一国資本主義の登場。いよいよ寡占化が強まっている。弱いものを食い尽くそうと資本は行き場を求めている。私などにはこの緊急事態を経済学的に説明する能力はない。しかし、感覚としてはひしひしと資本主義の終わる匂いを嗅いでいる。

 この文明の転換期を自分はもう70歳で迎えたのである。戦うことすらやれた気がしていない。正面から戦うことは避けたのだ。正面から戦ったとしても無駄だと分からされたのだ。これも政治的無関心であるが、新しい生き方を身をもって示すことも意味がある。

 それで自給自足を始めた。世の中どうなろうとも絵を描いて行ける道を見つけた。絵に自分のすべてを表現しようと考えた。他にできることもない。そこに安心立命を見つける以外にない。これも敗北主義と言うことだろう。

 しかし、これは文明が変わるのだから、全員が敗北するのだ。敗北をうまくやるのは難しい。いささか抵抗しているのがアベ政権だとしても結局は敗北するのだ。上手な敗北か、ひどい敗北かの違いはたいしたことではないのかもしれないが、阿倍の負け方ではひどいことになる。

 沖縄に自衛隊基地を作っている。米軍基地の軽減の代わりに、自衛隊基地を配備している。こんなことは無意味どころかより困難を増すだけのことだ。退却戦では捨て石にされる地域が出てくるのだ。

 こんなことを書けば、ひどい妄想と読めるに違いない。別段正しさを説得できるとも思わないし、人それぞれでかまわないことだ。そんな馬鹿なと考えて、脳天気に極楽トンボに暮らせばいいだろう。私は緊急事態のサイレンを鳴らすだけだ。

 そのサイレンを聞きつけて、山の中にでも逃げた方がいいかもと思えば、山の中での自給の暮らし方はお伝えしたい。一応2冊の本に養鶏と田んぼのことは書いた。文明が変わろうと可能な自給の方法である。一切のエネルギーがなくなってもできる自給の方法である。これから生き残るためには自給の技術ほど重要なものはない。

 実践に基づく自給方法は誰にでもできるように説明できた。あとは私の思想を表す絵が描ければと言うことだ。絵は自給に生きる人の応援ポスターだ。これにはまだ10年は少なくともかかりそうだ。一年が経とうとしている。この絵を見ていれば、自給生活の元気が出るという絵が描きたいものだ。

 転換期に生きると言うことは、難しいことだ。疲れてしまうかもしれない。一人では乗り切れないかもしれない。だから、同じ志の仲間を見つけることだ。脱出して生きようと言うことだから、仲間は難しい。しかし、自給が一人でできるようになった人は次の人につないで欲しいと願っている。

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阿倍昭恵夫人の花見騒動

2020-03-29 04:00:32 | Peace Cafe

 石垣島では道ばたに蘭が咲いている。コウトウシランである。この時期どの家々も花が咲いて、散歩が花見と言うことになる。デイゴも赤花も今が見頃である。ただし、桜はまず見ない。

 よほどアベ政権は桜の花にたたられている。桜チャンネルというのがあるらしい。そのたたりなのかもしれない。アベ氏のご家族はよほど花見が好きらしい。後援会を花見に招待したり、奥さんはジャニーズのニュースと花見というか会合を行ったらしい。

 アベ氏は花見の何が悪いと国会で答弁したらしいが、この国会中継は残念なことに聞き逃した。確かに今年は新宿御苑の方の花見は中止になった。それで個別に奥さんがやったということか。花見は私も好きだ。石垣島では今うりずんで花の季節である。

 確かに花見に行ったぐらいで騒がれることは、さすがにおかしいと私も当初思った。しかし、昭恵夫人は公人である。その名前を公文書から削除させられて、その苦しみで赤木さんという財務省の方が、自殺された。その遺書が公開され、財務省に対して賠償請求の訴訟が起きている最中である。当事者と言ってもいい立場の方だ。

 良く花見をしている心境になれるとは思った。よほど太い神経の方なのだろうか。そういう意味では昭恵夫人の「私的花を見る会」は、残念な事件ではないか。それよりも問題が深刻なのは、総理大臣が答弁で「東京都が自粛を要請している公園での花見の宴会ではない」と釈明したうえで、「レストランに行ってはいけないのか」と反論したアベ総理大臣にある。これは違うだろう。昭恵夫人だって花見してるじゃんと自粛しないで秋葉原を出歩く人がいるのだ。

 アベ氏は自分が国民に「お願い」していると言う立場と意味を理解していない。あくまで国民への総理大臣要請という形で、お願いをしている。法律で禁止行動を示した訳ではない。感染を広げないように、それぞれ考えて自粛をお願いしますと言うことだろう。日本を忖度してくださいとは少し違うが。

 自分がお願いしている以上、夜な夜なの宴会は問題だと言われて、自分は控えたはずではなかったのか。宴会が禁止されているのではない。とあのときも居直ったのだろうが、結局の所止めたようだ。どうも総理大臣が国民に対して「お願いをする。」という意味がアベ氏には理解できないらしい。セリフと行動が一致しない。緊急事態なのだから、誰か教えてあげて貰いたい。

 お願いをする以上、当然自分や自分の奥さんがその模範になるような生活態度を示さなければならないだろう。さすがにこの時期に関係者がレストランで花見をしてはだめだ。いくら高級レストランで環境が良かろうが、国民の気分を逆なでするだろうぐらいは分かりそうなものだ。それが分からないというのがアベ氏ご家族だ。

 総理大臣たるものこういうときに素直に謝ったらまずいものだろうか。「家に帰ったら、花見には特に注意するようによく言いますので、お許しください。」こう言うと何かまずいことがあるのだろうか。総理大臣役者の台詞ならそうすべきではないか。

 場所が上野の公園でないくらいだれでも分かっている。誰もが花見をしたいが我慢しているときなのだ。自分が高級な料亭で花見ができるとしてもさすがにこういうときはそれは避けるべきと考えそうなものだが、さすがの昭恵さんだ。馬耳東風。

 誰だってレストランに行きたいときもある。大いに行けばいい。しかし自分が当事者たる裁判が起きたそのときに、ジャニーズ事務所のタレントとの会食では聞いた方が気分が悪くなる。国民のみなさんには自粛をお願いしておいて、その奥さんがどうなのとも言いたくもなる。

 どうしてもこうも無神経な人なのかと。だから「レストランに行ってはいけないのか」との総理大臣の答弁は見当違いなのだ。あんたが自粛を要請したのではないのか。国民はそれぞれ良識ある判断で我慢しているんだ。総理大臣も昭恵夫人に我慢させろ、こう言いたくなる。

 国民一人一人がどうすれば、感染が広がらないか真剣に考え行動すべき時なのだ。その模範となるのが政治家なのではないか。その意味でどうも今の国会の様子が全くおかしい。あれは密閉空間で唾を飛ばし合っている。

 アベ氏は立憲民主党の杉尾秀哉氏に対して「大きな声で唾が出るようなことは避けなければいけないと言われている。お互いに気を付ける必要がある」と述べたという。正しい答弁である。

 確かに総理大臣のヤジも行けないし、大声で総理大臣に唾を飛ばすも良くない。しかし、どうだろうか。国会の予算委員会は密室のようだ。随分立て込んで人が集まっている。密集なのにマスクをしている人も少ない。しかも大声で叫び合っている。あれで感染は広がらないのだろうか。あれで大丈夫なら、花見も大丈夫だと思う人はいないか。いるから秋葉原が人混みだったのではないか。

 国会は国民の模範になるべき場ではないのだろうか。総理大臣のヤジはまずいと思うし、大声で唾を飛ばすも模範にはならない。まず、国会が感染を防ぐ模範を示して貰いたいものだ。お見かけするところお年寄りも多いようだ。そもそもお年寄りの集会は禁止すべきものではなかったのか。

 韓国では感染爆発が一度起きたにもかかわらず、現状では鎮圧した。しかも中国のように、完全な封鎖もしなかったのである。韓国は世界から評価をされている。韓国では感染拡大阻止のために、国民のプライバシーを制限した。感染者の行動を公開して、拡散を防いだ。

 それができたのは、政府への信頼があったからだろう。総理大臣が信頼されていない国では、プライバシーが何に利用されるか分からないという不安が起こる。コロナを理由に、反アベの監視をするのではないかと穿鑿をされる。この点で問題がある。

 アベ氏は赤木氏の命をかけた告発遺書に対して、新しい事実はないと突っぱね、再調査をしないとした。こんなことでは政府への信頼は得られないだろう。明らかに新しい事実である。栄転した佐川局長を名指しで書き換えの責任者としているのだ。

 テレビでも大相撲が終わり、スポーツ中継はない。ボリショイ劇場は過去の公演を無料公開しているそうだ。家にいなければならない人の慰めである。どうだろう政府は公演中止で苦しんでいる演劇人。試合ができないプロスポーツ選手。税金で公演や試合を行い、テレビで中継をする。

 美術展も中止が相次いでいる。政府がビデオ撮影をしてくれるて公開するというのはどうだろうか。家で楽しめることを政府が積極的に提供する。それが文化スポーツ芸能の支援にもなる。

 教育も春休み後も休校と言うことなら、テレビ授業を始めるべきだ。小学校1年から高校3年まで、きちっとカリキュラム通りに授業を開始する。全国から名高い先生を集めて、すばらしい授業をテレビで公開するチャンスでもある。

 インターネットを利用すれば様々なことが可能だろう。ネット環境がないとすれば、政府がその準備を手助けする。こういう所に税金を使うべきだ。

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資本主義が終わる風の匂いがする。

2020-03-28 04:13:33 | Peace Cafe

 石垣島大里の田んぼ、去年今年と同じ場所で描いている。いつも思うのだが、このすすきは、昨年同様に全く間違っていない。人間はこんな見事な線は引くことはできない。自然というものは、誠にすごい。

 そう思いながら、実は間違った線というようなものはどこにもないとも思っている。間違っていると考えているのは、自分の判断というものに過ぎない。自然は受け入れるだけだ。自分が引いた線は人の意図である。自分の考えが気に入らないというに過ぎない。自然は摂理であるから、意図がないことになっている。

 人間というのはどうしてこうも間違うのだろうか。株価の正当なところまでの下落を、日銀と政府はひたすらつり上げようとする。するとそれに便乗しようと多くの投資家が群がる。この浅ましさは何なのだろうか。競争の果てという場所はそういうものだろうか。国家資本主義と国を超えた巨大企業の競争。コロナに便乗した経済の戦争が激化するだろう。

 資本主義がいかにも苦しげなのだ。コロナで人間の生産活動が鈍った。一見一事休戦のように見るが、下り坂であればあるほど、人間の本音がむき出しになる。ここで大切なことは世界の経済がどう変わるのかの、正しい予測をすることである。

 この様相は資本主義の終わりを感じさせる風だ。資本主義が永遠のものだと思ったら大まちがいだ。能力主義競争を是とする時代は遠からず終わる。当たり前のことだ。この当たり前をきちっと予測して、自分の生き方に反映する。コロナもそうだが、自分が予測をできれば、受け入れ準備することができる。

 世界は株価同時安が起きている。リーマン危機以上の規模だと言われている。今回は資本主義の終焉への歩が見えるような、深刻な事態に突入してゆくのだから、相当のことになるだろう。世界は一度停滞期に入る。その停滞は先進国の方がより深刻なことになるかもしれない。資本主義が徹底されているからだ。

 そして、又この次に訪れるだろう、新型ウイルスの登場にはもう現代文明は耐えられないのかもしれない。文明というものは一度崩壊しなければ戻ることができないものなのかもしれない。そう原発事故の時にも考えたが、あのとき日本人は何もできなかった。今になれば、新型ウイルスは予測されていたと言うことが分かる。しかし、その予測を受け入れられないのだ。

 豊かさを求めて、強いものが有利な競争が激化している。敗者は能力がないのだから、隷属することも仕方がないという文明。廃棄処理法がないままに、原子力にしがみつく姿をみれば、競争に勝つためには将来の行き詰まりは棚に上げざるえないという判断であることが分かる。世界の深刻度はいよいよに高まっている。

 今回の株価の暴落は新型肺炎のためと考えられているが、これは無理矢理つり上げられてきた株価が、コロナショックをきっかけとして暴落したと考えた方がいい。政府はあらゆる手段で株価を高止まりさせている。今や株式投資は政府の動きを見る便乗である。

 以前から16000円くらいが実体の株価だろうという意見は多かった。アベ政権はアベのミックスを成功していると見せかけなければならなかった。何も新しい産業が創出できない現状を隠してきた。資本主義の、競争主義の限界なのだ。日本が国際競争について行けなくなった現実を認められないだけだ。

 日本人の意欲のようなものが失われてきているのだろう。もうむりな競争の中でやりたくなくなっているのではないだろうか。世界の経済先進国に生きる人達はみなそうだったのだろう。もうこういう競争は沢山だという思いが充満してきている。

 国家資本主義の登場と、国家を超えた企業の登場。個々の人間の生活の範囲を逸脱している。経済戦争と呼ぶような状況が世界で起きている。相手を潰すところまで行こうとしてしまう愚かさ。互いに成長するという環境ではなくなっている。

 新型ウイルスの登場もこうした経済競争の結果である。畜産は経済競争に勝利するために、巨大化されてゆく。中国は大きさという物に際限がない。規模がすごい。この限度を超えた畜産は閉鎖的な環境で行われている。当然、ワクチンを使い、化学薬剤を大量に投入し行われているのだろう。

 自然界にはあり得ないような生き物の限界を超えた飼育法である。どこかで破綻が起きても不思議ではない。どれほどウインドレスで防御したとしても、畜産の環境は完全ではあり得ない。ネズミ一匹、ゴキブリ一匹が何かを起こすかもしれない。

 巨大化した畜産の方が競争に勝利する可能性が高いからだ。勝つためなら何でもありの世界である。こうした畜産が野生動物にも影響を与えているのかもしれない。コウモリやセンザンコウが飼育場に侵入している可能性もある。巨大養豚場が危ないのではないかと想像している。豚はウイルスにしてみれば、人間と似ている。

 アフリカ豚コレラが流行している中国ではブタが半減したと言われていた。それに対してどのような対応が行われているのか、心配していた。たぶん限界を超えた消毒であろう。その中で新型のウイルスが登場して来る可能性はある。検証は難しい所だろうが、大きな不安がある。

 次にはさらに深刻な人間を半減させてしまうようなウイルスの登場だってないとは言えない。今ならまだ間に合う。大規模畜産を禁止すべきだ。人間の肉食はほどほどにすべきだ。たぶんそれができないということが、資本主義は限界を迎えていると言うことなのだろう。

 巨大なプランテーション農業の登場が、収奪的な農業をおこない農地を疲弊させた。循環する地域に存在した農業を競争で追いやり、食糧自給を行ってきた既存の農業を淘汰してしまった。巨大企業農業によって健全な国家の成り立ちを捨てさせたのだ。

 日本も国際競争力のある農業と言うことに政府は力を入れている。その結果ますます食糧自給はおろそかにされている。こうした資本主義競争が農業分野や畜産分野にも、徹底されるようになったきた。これは循環する、永続農業が終わると言うことだ。日本でもそうした農業は政府の国際競争力で潰されている。

 競争力のある果物を生産するということで、品種改良が進んで行く。甘いとか、柔らかいとか、農薬を使わなければ、作れないような品種が増えて行く。国際競争力が品種のあり方まで変えてしまう。

 その結果、化学肥料や化学農薬を大量に使う農業に変わった。そして畜産でも同様にワクチンで病気を抑えるような、自然の摂理を超えたような飼育法が広がった。そこにもし、今までにない病気が生まれる環境が広がっている。

 家畜間の病気の間は大事にはならないが、それが人間へ感染し、ヒトヒト感染へとウイルスは変異して行く。野生動物由来の病気と言うことが言われるが、そこに大規模畜産の影響が加わっていると考えた方がいい。

 人間の文明は曲がり角に来ている。気候変動による大規模災害・環境汚染特にマイクロプラステック・人口増大と人口減少こうしたことは資本主義を選択した、人間の欲望際限なくしたがった結果だろう。

 特に日本はすべてに対して、これから起こる可能性が高い崩壊とも言える事態に向かい合おうとしない。たとえば人口減少をまともに対応しようとしない。何とか人口減少に歯止めをかけるという、できもしないことにしがみついてまともに向かい合おうとはしない。

 崩壊を先延ばしにして、自分は責任をとらないで済まそうと言うことだろう。みんなまだまだ肉が食べたいのだ。しかし暮らしを変える以外にない。こうして資本主義が終わるであろう、文明的危機は近づいている。

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絵はどうすれば完成するのか。

2020-03-27 04:26:44 | 水彩画


 絵で一番苦しいところは絵を完成させるということである。一応の完成の判断は前に描いた絵より良くなっていなければ行けない。これが難しい。そういうことはまずないから、いつもできたという気になれない。

  完成したとすれば、それが自分だと言うことになる。それが怖い。そんな程度の自分と思いたくない。本当は何にもない自分なのだけど。だから、まだできていないと言うこととにしておくのだ。いつも途中で終わりになる。

 結局一年もひたすら同じ場所で描いていて、前より悪くなっていたりすることが多いのだ。年をとると言うことは情けないが、そういうことである。普通誰しもそんなもんだ。自分を例外と考えたいが、そうも行かない。

 絵はダメだということさえも、完成しない限り分からない。完成していないと言うことはその判断の範囲にさえ入らないと言うことだ。判断したくないから、完成ではないと言っているようなものだ。期待が残るところで止めている。

 完成してしまえば大抵はつまらない。だから人の絵はダメに見えるのだ。人の絵は可能性部分を見ないからだ。情けないことだが、自分の絵ではまだ描けていない部分にしがみついている。止めてしまう勇気もないと言えばそうなのだが、やはり自分の一発逆転に期待をしているのだ。


 こうして描いてきた絵を並べてみている。額に入った絵は先日一応できたと考えて、一枚の繪の水彩人展に出品したものである。自分なりにできたと考えたものだから、これより良くなればできたと言うことでと言う、物差しである。

 内田樹さんのブログを読んでいて、つい学生時代ひたすら絵を描いていた感覚を思い出した。三島由紀夫と全共闘の討論の話を読んだからだ。どこか腹が立ってきたのだ。腹が立つ理由はあの時と同じだ。たぶん自分はあれから曲がったまま、いろいろに脱落してきたことにだ。

 あの頃は自分の役割に正面から向かっていた。ダメな世の中だと思うなら、自分がなんとかしなければならないと思っていた。そして、絵を描いてダメな世の中を何とかしようと思っていた。なんと馬鹿げていたか。こう考えてしまうことが情けない。

 三島は日本の未来をあきらめて自殺をしたわけだが、全共闘の我々わぁーとさけんでいたあの人はここまでどう生きて、革命を続けてきたのかと思う。たぶん、どこかで体裁良く生きたような想像をしてしまい、腹が立ってきたのだ。何も内田さんがそうだという意味ではない。

 全共闘にも死んで至った奴もいる。ぬくぬくと生きてきた私はどうなのかと。それに答えられるように絵を描いてきたかと言うことである。絵が完成できないなどと泣き言を言っている場合ではない。もうあと少ししか時間はない。



 すごい色の海なのだが、まだこれが描けない。写真にもその感じすらない。絵が描けたと言うことは絵が私の言いたいと思うことを、言ってくれていなければならない。結論はあり得ないのだが、結論めいて言えば、私の絵を見た人が自給的に生きる勇気が湧いてくると言うことだ。

 勇気づける絵だ。資本主義は終わりが近づき、悲惨な状況が近づいている。人間は自給自足で生きれる。それが最後の場だと言いたい。自給自足で生きることの豊かさと安心立命を私の絵は伝えるものでなければならない。

 三島由紀夫も全共闘の人もひとしく考えていたとおり、日本はどうにもならないところまで来た。あのときの怒りや絶望を、生きてきたものはどう返せるのか。言葉はドンドン絵の完成の話から外れて行くが、そういうどうしようもないことをなんとしようということをあの頃は絵に託していた。


 もう田んぼは水面が見えなくなり始めた。この場所で描けるのももうしばらくである。田んぼには自給という意味がある。そういうことも表現したい。

 
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山本太郎の消費税議論で抜け落ちているもの。

2020-03-26 04:25:25 | Peace Cafe

いつも描かせて貰う名蔵湾を立て構図にしてみた。面白いところがある。

 最初に書いておくが、山本太郎に期待するところはあるが、消費税には賛成である。消費税を議論しているのか、税金を議論するのかと言えば、まず税金というものに賛成である。国というものを成立させるためには税金は必要なものだ。税金を否定する人の消費税論は無駄である。

 税金の必要性を認めたとして、もう一つは使い方の議論がある。何に使うかによって、払いたい税金もあれば払いたくない税金もある。それは国民一人一人の立場で、使い方の希望は異なる。国の予算については、わかりやすい公正な議論が国会でされていなければならない。

 その意味では使用目的を限定できる税制はとりいれて欲しい。石垣島の街や海岸ををキレイにする費用であれば喜んで払いたい。田んぼを続けて貰う費用ならぜひ払いたい。小学校に学校田をする費用であれば払いたい。

 税金の使い道の証拠である公文書もできる限りすべてを記録して、永久保存しなければならない。現代ではそれくらいの文章量は、当たり前に保存できる。手書きの時代とは違うのだ。桜を見る会の参加者名簿を捨てる必要がない。保存管理は税金を使う以上行政の義務である。非公開や公文書の書き換えなどするから、税金が払いたくない人が増えるのだ。

 防衛費を削ってと言う議論はいつも共産党は主張する。私も同じであるが、医療費を削ってとか、公共事業費を削ってとか、要するにどのようなバランスで税金を分配するのが、すべての国民に公平であるかが問題なのだ。この公平が担保されていないと税金の集め方の議論は混乱する。その話に戻れば消費税の議論も成り立たない。

 税金はどういう使い方をしたとしても、納税者の3分の1は税の使い道に不満がある。三分の一の人は大いに満足であろう。そして、三分の一の人はそんなものかと言うことになる。つまり全員が満足とは絶対にならないと言うのが税金の使い道である。

 こんな行き詰まりのある税金ではあるが、それでも税金が必要と言うことを合意した上で書く。税金をどういう形で徴収するのが良いか。基本原理は多様であるほど良いと言うことだ。多様な方が公平性に近づく。例えば酒税ですべてをまかなえば、酒飲みだけの負担になる。まさかと思えるが明治には三分の一が酒税という時代があった。

 国の借金を考えると、税金は足りなくなっている。主たる原因は老人が増えたからである。老人は税金の払いが少ない割に税金を使う。税金が足りないのであれば、若い人に厚くして、老人は我慢するしかない。その意味で消費税は老人も払う。

 消費税は所得の高低にかかわらず均等に課税されるから、低所得者には負担が大きくなると言う税制である。問題は10%と言う税率が行き過ぎかどうかである。なくすという山本氏の考えは少し無理がある。

 一方で所得税は累進課税であるので、高額所得者には累進性を高めれば、重い税金になる。その累進課税の程度が問題なのだ。累進課税をもっと大きくして、課税最低限を上に上げるべきだという議論と、消費税を低くすべきという議論は連動している。所得税をなくすという議論も無理がある。

 山本太郎氏は消費税は廃止だと主張している。それに対して、経済学者の高橋洋一氏が猛烈な否定の論文を書いている。この両者の全く相手を理解しようとしない、互いを全否定の消費税に対する考え方を読んでみた。

 この議論は面白い。ある意味消費税が議論として取り上げられる機運を作っていて悪いことではないと読めた。結論として山本太郎氏の消費税否定論には賛成できない。税金は多様に集める方がいいと考えている。税金は誰にとっても好ましくない、嬉しくないものだ。だから広く薄く集めて貰う方がいいと考える。税金を下げる政策の方が、票にはなる。

 どうでもいいのだが、高橋洋一氏資本主義がまだまだ行けると考えているところがおかしい。どう巧みに修正したところで、経済の必然な流れはこの先滝が迫っている。

 国の方針として、国際競争力のある企業を応援するために、法人税を下げた。下げ続けている。消費税で増えた税金の75%は法人税の減少分で消えたと両者は認めている。自民党が企業から支持されている理由のひとつである。

 法人税を下げたくらいでは、今のところ日本の企業に国際競争力がどうしても復活しない。問題は国際競争力のある新しい産業が創出できるかの方にある。

 政府は大企業を優遇して、世界で競争可能にしなければ日本の経済全体が衰退すると説明している。これを正しいとするかどうかが、消費税がどの程度がバランスが良いかの議論に不可欠になる。

 法人税だけで世界を比較しても矛盾が生じるのだが、政府の主張としては日本の法人税は高すぎるというのが政府の考えである。つまり、企業寄りの自民党政権への支持が大きいから、法人税はかなりの勢いで下げられたのだ。復興特別税すら法人は免除されている。

 もう一つの理由は大企業が国に縛られなくなり始めている。外国で作り、外国で生産している。何も日本に縛られていたくない。タックスヘイブンの国に本社を置くという可能性もある。

 それでは自民党政権に優遇が進められた日本の企業が日本のためになっているのかと言うことになる。残念ながら、日本の大企業は人ごと所ではないと、自分の身を固めるために躍起となっている。だからこの間企業の内部留保が増大を続けている。これを考えると法人税の下げは間違っている。法人税は元に戻して、それがイヤなら日本を出て貰う。それが日本がダメになっても全くかまわない。日本のことを考えないような企業はいらない。

 企業が良くなり、設備投資を行う、あるいは従業員に給与として還元されていけば、消費も増大して景気がよくなるという循環は起きなかったのだ。法人税を下げた分は企業が内部留保に当てただけだ。これをおかしいと考える人は自民党には投票できないだろう。

 企業というものの位置づけを議論すべきだ。中国のような国家資本主義国では企業の利益と国の利益が一体化している。そして韓国のように10社に満たない大企業に集中して国際競争力を高めたあげく、国の階層化が極端に進んだ。いずれも良くない。

 日本の企業はこの間、企業利益に翻弄されるようになったと思う。土光さんや松下幸之助さんに象徴されるような企業は国というものを前提としていた。その国民全体が良くなると言うことが、企業の使命でもあった。ところがそうしたことはリーマンショック後の日本企業には国というものを尊重する企業理念は失われたように見える。

 企業がホリエモンに象徴されるような、能力があるものが儲けて何が悪いんだというような代物に変わった。国とか社会とか言うものから見れば、この能力主義は迷惑なものだ。そういう能力主義こそ資本主義なのだというなら、もう資本主義は終わりが近づいている。

 国に税金が足りないにもかかわらず、法人税を国際競争力を理由に下げると言うことは、一部既得権を持つ企業を優遇すると言うことになる。これはアベ政権の実体だと思う。その負担分が消費税に置き換えられてきたのは確かなのだと思う。

 日本の社会は税金でまかなわなければならないことが増大している。それが日本の財政赤字の膨大な金額になっている。日本は北欧型の福祉国家を目指してきた。医療や社会福祉の充実と言うことが行われてきた。それが老人国家になるに従って限界を超えてきた。

 労働人口は減少を続け、将来さらに減少するだろうことが目に見えている。働く場が確保されるという意味では心配が少ないのだが、老人一人を若者一人で面倒を見なければならないようなむりな負担社会になり始めた。

 税金は以前より沢山必要になっている。税金が足りないから、病院を統合せざるえないという案が出ている。特に地方の病院の統廃合をすべきというのである。これからは感染症はさらに深刻化する。こうしたときに病院を減らすことが得策だろうか。社会の安定のためには病院は減らせない。

 税金は多様に集めるほかないというのが私の考えである。つまり消費税も必要だと考える。しかし同時に法人税も下げた分は元に戻すべきだと考える。

 そして消費税議論に抜け落ちている、良い面はある。1,集めやすい。2,海外からの観光客もヤクザも払う。3,自給生活者は払わないですむ。

 消費が奨励される社会から、自給的社会へと文明が転換して行く契機になる。人間が自分の食べるものを自分の手で作り出すという原点は大切なものである。人間の暮らしが見えなくなって行く中で、食糧自給は大切にして行かなければならない。マスクだって自分で作る人を大切にすべきだ。これを消費税は応援してくれるものである。

 自給生活者は消費税は払わないと言う観点が山本太郎氏も高橋洋一氏にも抜け落ちている。国民が消費者から抜け出ることが、次の文明では重要になる。そのためにも消費税は存続すべきだ。

 消費税は図らずも次の時代への後押しをしている。搾取する資本家にならないとしても、消費者にならないですむ道が、次の時代ではないのか。


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ギヤマンの水彩画を模写してみた。

2020-03-25 03:52:47 | 水彩画

ポール・ギヤマン(Paul Guiramand)の水彩画の模写。

 ギヤマンの水彩画を見て、学ぶところがあった。水彩画の描き方と言うものはこういうものだと思えた。絵画としていいというのではなく。失礼な言い方で申し訳ない。、水彩というのはこういうものだと思えたのだ。それを確認するために、模写をさせて貰った。

 これはいつも水彩人の松田憲一さんの言われていることだと思う。水彩画は音楽であり、調和だということ。和音ともよく言う。説明はそれ以上ないので、何を言っているのかは松田さんの水彩を見て想像するほかないのだが。

 水彩らしい描き方をしている奴は水彩人にはいないとも言うことがある。これは言い過ぎであるが。彼が言っていたわけがギヤマンの絵を見ると少し分かる。ギヤマンの絵の洗練された作りは、水彩技法として学ぶところが多かった。

 ここにありそうな水彩画技法を学ぶにはやってみるほかない。絵の塗り方なのだと思い、模写してみることにした。絵を模写するなどと言うことは、実に久しぶりなことだが何度かやっている。この前にやってみたのは松田正平の三角島、その後が須田克太の棚田。その前がモランディーの静物。そうかロスコーの色面の絵もやってみた。

 こうしてみると結構水彩画の模写をしてみている。水彩の技術はそれぞれの作家が独自に開発している。どの絵も多様で思わぬ技術が潜んでいる。ロスコーは簡単そうで実は一番難しかった。技術を超えないとマチスのような素朴な成り立ちには至れないという意識がある。

 以前水彩人だった小野月世さんの絵は私はいつでも描けると話したら、誰も信じなかった。いつもの私の下手な絵を見て、小野さんのような上手な絵が描けるはずがないとみんな思っている。案外器用に描ける。洋蘭の植物画を描いたこともある。これはリアル絵画のようなものだ。

 仕組みで描く絵は難しいことはない。もちろん手先の技術は別物であるので、小野さんが人物画自由になればさすがに真似はできない。だから人物を描くべきだといつも言っていた。最近白日会に出すようになり、人物画をやっている。こうなるともう描けるとは私には言えない。

 技術を学ぶと言うこともあるが、やってみることで仕組みが分かるということがある。特に水彩画の場合、技術的要素が複雑でやってみなければ分からないということが良くある。ギヤマンの水彩画はやらない限り分からないものがあった。

 安野光雅とか、いわさきちひろとかの場合は技術的には簡単な成り立ちでやってみなくても手順が分かる。こういう絵は手先の技術がいかにも巧みで、何度も練習しなければああ描けるわけではない。手先の器用な絵は描きたいとも思わないので余り興味がない。手先の下手な絵でありながらと言うところが面白くなる。下手も絵のうち、上手いは絵の外。

 ギヤマンの絵はビリジャン、コバルトグリン、コバルトブルー、アイボリーブラック、ローズマダー、チャイニーズホワイト、。この6色で描いている。難しい筆遣いなどもない。

 サイズはF10号である。絵が描かれているのは森の馬である。芸術的な絵画と言うより、代表的なフランスの商業絵画のひとりであろう。アメリカン水彩と呼ばれる一群の作品より、その技術はかなり深い。リトグラフで鍛えられている。模写をしてみて、その技術はすべて可能なものだった。

 カトラン、ギヤマン、カシニョールが流行した時期がある。私が学んだ、パリのボザールのザバロ先生も同じ傾向の人であった。たぶん戦前のブリアンションの教室で、ギヤマンはザバロ先生と一緒だったのではないだろうか。ザバロの教室にはギヤマンが来たと言っていたことがあった。

 この水彩画はリトグラフのシリーズの原画ではないだろうか。描き方は画面は寝かして描いていること。絵の具は相当に薄い。薄いものをリトグラフのように、7段階ぐらいで重ねてできている。7班刷りのような構造になっている。

 原画でないとすれば、リトグラフを作るための実験として描いたものかもしれない。7判刷りになるとしても一回描いたらば、乾くまで待たなければならないから、この絵は2日は最低でもかかる。フランスは乾燥しているときもあるから、そういうときならば丸一日でできる可能性はある。

 推測するにシリーズもので同時に沢山描いたのだろうと思う。だから、数日かけて、同時に10枚以上ができたのではないだろうか。それをリトグラフの工房でリトに直す。フランスのこの技術はすごいものがある。

 筆は太めのコリンスキーである。たぶんラファエロのものだろう。絵の具は印刷物なので決定的なことまでは分からないが、ニュートンに思える。紙はファブリアーノの粗めと思われる。

 舌を巻くほどの技術的な深さがある。一見そう見せていないところがすごい。リトグラフで鍛えているという気がする。同じ色を濃度を変えて重ねて行く表現法は参考になった。

 想像していた以上に薄い色を重ねていた。筆遣いがすばらしい。巧みさを見せずに、水の動きを筆で制御しているくらいの扱い。この技術は卓越している。なるほどAquarelle 水である。

 こうしてみると私の絵がいわゆる水彩画ではないと言うことがよく分かった。水彩という材料を駆使して、油彩画的な作品を描こうとしている。小野さんに言われた、笹村さんの水彩の考え方はおかしい。今更ながらその意味もよく分かった。

 模写をしてみるとより自分の絵というものを考えることになる。どこまでも私絵画に入り込む以外に道はないと言うことだ。私絵画に入り込むために模写をしてみたくなるのかもしれない。

 模写をしていてもう一つ気づいたことがある。私の絵の模写は不可能と言うことだ。私自身が私の絵の模写はできない。どうやって描いたのか、不明な点がいくつも出てくる。制作過程を撮影してみているのも、そういうことがある。

 完成してしまうと、どういう経過を経てそういう絵になのかが分からないのだ。そのこともあって、撮影してみて手順を確認してみている。ところが、あれこれ飛躍や試行錯誤がある。技法がない。手順というものがバラバラである。

 もちろん模写するほどの価値がないと言うこともある。ギヤマンの水彩画は模写をする価値があった。ギヤマンさんいろいろ教えていただきありがとうございました。大いに勉強になりました。



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手作りマスクの作り方

2020-03-24 04:16:12 | 身辺雑記


 写したタブレットは何せ自撮り機能がない。当てずっぽにシャッターを押してみた。マスク制作途中である。前のカーブや耳の引っかかり具合など,この後調整していった。だんだん顔の形にしっくりきて具合良くなった。

 背中にあるのが、針箱。その脇に白いちょっと見えているのが、ミシン。何を縫うのも私はミシンが好きだ。小学校の頃からミシン好きだった。あの頃は足踏みだった。今は電動だから簡単に縫える。

 昔も足踏みのシンガーミシンだった。大切にされていた。今は格安でシンガーの電動ミシンをウエッブショップで買った。性能は悪くない。したいとの準備も簡単である。今回のマスクでもの折り返し部分は8枚重ねであるが。全く問題なく縫える。



 マスクを作ってみた。何でも自給するのが面白い。どうせ作るなら最高のものを作りたいと思い作ってみた。マスクの作り方は意外に簡単なので驚くぐらいだった。下図を描くところから2時間かからなかった。ギアマンの絵の模写をしていたので、絵の具が乾く合間につくった。

 素材は持っている布の中で素朴な感じのものにした。結城紬の手織りのものを選んだ。時々、文字を書いている布である。スカスカはまずいので4重にした。少し大きめに作った。どうせならお医者さんのように顔を覆う方がいいかと。ここにコロナ退散とか書けば効果が高まるか。

 やる前はある程度伸び縮みのある素材でなければ、顔にぴったりとしないのかと思ったが、意外にそういうことでもないようだ。顔に合わせて調整して行けばだんだんぴったりとしてくる。



 紙サイズはA4である。最初に型紙を作り、布を4枚重ねにして、カッターで切った。縫い代を幅広く最初にとる。顔にあせてて、顔との隙間を考えながら、だんだん小さくして行く。

 手順の写真を撮れば良かったのだが、絵を描く合間だったので写真なし。それでも簡単なので、誰にでもすぐできる。

①布の準備は手拭いぐらいのサイズで良い。
②布は4枚に折って使う。
③マスク半分の形に縫い代を加えた型紙を作る。
④型紙に合わせて、4枚重ねの布をカッターで切る。
⑤8枚の同型の布ができる。
⑥4枚の回りをぐるりを折り返して縫って行く。中央の合わさるカーブは縫わない。
⑦次に耳のひもが通る部分を1センチほど空けて筒状に縫う。
⑧そして4枚重ねの左右の2枚が縫い終わったら、それを合わせて裏返して顔の曲線に合わせて8枚重ねで縫う。
⑨耳ひもを通して試着してみる。顔との間に緩みのある部分を2度、3度と顔に合わせて小さくして行く。
⑩最後に洗濯をして形を整えて完成。
追記、毎日使い終わったら熱湯で三分間煮沸消毒。

 布は手ぬぐい一枚ぐらい使ったが。節約すれば、巾33センチで長さで60センチ有ればできるかもしれない。布はどんなものでも良いようだ。ウイルスを通さないと言うより、唾を飛ばさないと言うことになるのだろう。

 すばらしいのはやはり絹地である。特に紬の感触はいい。ぬくもりというか、人間が手織りした味わいがなんとも言えない。手紡ぎであればなおさらである。何という贅沢なマスクなことか。

 絹の布は肌に優しい。敏感肌の人にもいいはずである。肌着には絹が一番と言われている。保湿性が高く、マスクには良いかもしれない。4枚重ねでもそれほど息苦しいものではない。4枚重ねでもかさばる訳でもない。

 案外布目は粗いのだろう。見た感じではかなりつまっている印象はある。ウイルスは飛沫なら防げると言うことだろう。しかし、マスクは有効である。WHOのマスク無用論に従ったヨーロッパの感染拡大を見れば分かる。

 絹布を織った方のご苦労を思えば、マスクでは申し訳ないようだが、使わないよりは有効に使えば許してもらえるだろう。今の時代こうした布は利用されていない。しかし、織物が好きで今でも続けている方が沢山いる。

 石垣島にも八重山上布の研修施設があり、大勢の方が通われている。研修後に織物で暮らしを立てることを思うと、大変なことだろうと思う。それでも志す方がいると言うことは、それだけの魅力があると言うことだろう。

 今度は調子に乗って、大島紬のマスクを作ってみる。自然の藍染めの良い布を持っているのだ。何に使おうかと大事にしていたのだが、使わないままになりそうなのでこの機会に使ってみる。藍染めには抗菌作用があるとも言う。案外いいのではないか。

 今ならおかしなマスクをして歩いても笑われないだろう。布鞄も同じ布で作り、鞄とマスクのコーディネートだ。書いていて急にやりたくなった。今日の午後やってみて、経過写真も撮る。完成したらこの後に写真を載せることにしよう。



 バックを作った。1時間でできた。ものを作るのは何でも面白い。紬の紺の絹地を2重にして作ってある。サイズは35センチ×35センチぐらいだ。ノートパソコンが入るサイズにした。

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石垣島真栄里公園で太極拳を毎週やります。

2020-03-23 08:06:23 | 地域
 太極拳を石垣島でやります。 

 指導 笹村 カヨ子 楊名時太極拳師範
 場所 石垣島真栄里公園 舞台付近
 日時 日曜日 朝7時30分から8時頃まで
 費用 無料
 基本的には毎週行います。悪天候などで中止もあります。
 始めて参加される方はメールで事前に連絡をください。
 sasamura.ailand@nifty.com

 散歩の途中での参加も歓迎します。

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大相撲無観客開催、テレビ中継

2020-03-23 04:11:07 | 身辺雑記



 大相撲の無観客取り組みを15日間テレビで見た。そもそも実際に相撲は見たこともないので、テレビで見る分には大きな変わりがない。解説の人やアナウンサーは盛んに違うと強調しているが、テレビで見る分にはたいした違いもなかった。

 かえって相撲が神技であるという意味がなんとなく漂っているではないか。これは案外に良い試みをしたのかもしれない。力士はお客さんがいないからと言って、手抜きで相撲を取るような人は一人もいなかった。

 特に横綱の白鳳と鶴竜は中々良い相撲を取った。白鳳の真剣さはいつもの場所を越えていたのではないか。白鳳には大相撲を支えているという自覚がある。その自覚がおかしく出てしまい、万歳三唱をやらかしたりはする。これはモンゴル人と日本人との違いの問題ではないかと思っている。悪意はないのだ。

 鶴竜は3場所連続休場明けで、当初は例のごとく引いてしまい簡単に負けた。しかし、ここから立て直したのは見事なことだった。鶴竜らしいスピード感が後半戦には戻った。特に上り坂の朝日富士を立ち会い勝ちしたのはすごかった。

 無観客場所の千秋楽は12勝2敗同士の横綱対決であった。案外鶴竜が勝って、主役の座を白鳳から奪うのではないかと予想したのだったが、やはり白鳳は強かった。これで44回目の優勝。まだまだ優勝できる力はある。

 大相撲が神への奉納という意味で行われる物であれば、そもそも観客という存在はない。神技を建前にした興業であるわけだから、観客を必要とはしているのだが今の時代主たる観客はテレビ観戦である。

 その意味ではオリンピックは無観客では開けない。オリンピックは平和の祭典なのだ。祭典に参加しているのは競技者でもあるし、観客でもある。テレビで見ている人も含めて、世界中の人が平和のために集まるという所に開催の意味がある。

 特に日本では東日本大震災と原発事故からの復興五輪である。観客がいないのでは、復興を示すどころか、日本のオリンピックが世界の暗い予兆を示すことになってしまう。

 大相撲の場合はそもそも神社で神の前で相撲を取るという儀式であろう。行司さんは神官である。誰もいない場所で行司と呼び出しと相撲取りが、黙々と取り組みを行う。大切なところだけが、コロナ阻止の意味で祈りが伝わる。

 むしろ相撲という物の原初的な形を呼び覚ますような感じがある。誰のためでもない、人間の暮らしを守るための奉納の相撲。コロナウイルスの沈静化の祈りと思えばありがたいことだ。

 今場所の開催と力士のひたむきな態度を見ていると、相撲が持っている他のスポーツにはない素晴らしさを再認識した。日本人はすばらしいスポーツを作り出したと改めて感じた。プロボクシングやプロレスリングではこんな無観客試合はあり得ない。

 観客がいないと言うことで、むしろ相撲の本質がにじみ出た。相撲取りの真剣な度合いなど、いつもの騒ぎの中では見えない物であった。見ていると負ける力士がいつもより分かるのだ。取り組み前の様子で、どっちが勝ちそうか観客の騒ぎがない分見えてくる。

 あの競馬のぐるぐる回っている状態を見て勝ち馬を当てると言うことに似ている。勝つ力士の光のような物を当てるのは面白い。それが力士という肉体を鍛えきった者だけの裸の姿だ。なるほどと思わざる得ない。尻の張りが一番調子が表われるという説があるが、なるほどそうかなど見ている。

 そんな感じがしてきたのだ。何か土俵のしたには大金が埋まっているというような物の見方が強い力士を作り出すという世界観は俗でわかりやすいが、案外に人間というのはそれほど安手なものでもない。これが現代社会の間違えだというようなことが、どことなく感じられるのだ。

 始めて大相撲の興業ではない側面が見えた。力士の真剣さはよく見える。いつもの場所よりも実力が表面化している。上がるとか、緊張するとか、興奮するという要素が少ないようだ。いつも堅くなって力の出せない碧山(あおいやま)は稽古場横綱と言われていたが、今場所は優勝争いである。ところが、いよいよというところで緊張してしまい引いて負けてしまった。

 もしかしたら、どんなスポーツでも観客はいらないのかもしれない。無報酬で自分のために行う武道のほうがひとつ世界が深い。こういうことは通用しない世の中ではあるが、無観客試合という形で、少しそういう世界が垣間見られた。

 自分自身のために行う。大多数の人間にとって、運動とはそういう物だ。それが武道となり精神の鍛錬が加わる。千日回峰行には観客はない。テレビの300名山塔踏破番組はプロ登山家とある。観客がいないでも彼は歩くのであろうが、それを職業として、番組を作り生活をする人。

 その登山家は千日回峰行以上に歩くかもしれないが、修行にはならない。何かのために行うと言うことが伴えば修行ではない。無報酬であるからこそ到達できる世界がある。相撲取りはお金だけのようなところが有る。しかし、そうでない力士もその中で現われる。

 双葉山はそうだったらしい。人間の究極を求めて相撲を取った。強いことを超えていた。私は先々代くらいの東京農大出身の大関豊山がそうだと思った。引退して時津風理事長になったのだとおもう。特別な風格を感じた。

 どこの世界にもエライ人はいるとおもった。双葉山が部屋の横砂鏡里を差し置いて、遺言で親方を大関豊山に譲った。お金など無頓着で、礼に始まり礼に終わる双葉山道場を継承した。真面目な豊山を応援していた。

 無観客で行うことで、相撲取り自身も大相撲のすばらしさを確信できたのではないだろうか。最後に幕内力士と親方衆が整列して威儀を正した。この真剣な取り組みをしたことを忘れてはならないとおもった。

 大相撲は祈りがこもっていた。コロナに負けてはならない。力士の気力あふれた取り組みで、コロナ疲れを吹き飛ばしてくれた。無観客と言うことで、財政的には厳しいものがあるだろうが、多くの人が大相撲をテレビで見て、励まされた。この恩は忘れない。すばらしいボランティアだった。

 オリンピックも是非万全な形で取り組めるように、1年なり、2年なり、延期をして世界平和の祭典として、見事に行って貰いたいものだ。


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森友問題 自殺職員の妻が国と元国税庁長官を提訴 

2020-03-22 04:07:16 | Peace Cafe


 男性職員は、近畿財務局の上席国有財産管理官だった赤木俊夫さん(当時54歳)。訴状などによると、赤木さんは国有地売買の交渉・契約を担当する部署に所属。大阪府豊中市の土地が大幅に値引きされて学園に売却された問題が発覚した17年2月以降、何度も指示を受けて改ざん作業をさせられた。手記には指示に抵抗した経緯が記され、「経験したことがないほど異例な事案」「財務省が国会等で虚偽の答弁を貫いている」などと書かれている。赤木さんは体調を崩し、17年7月から休職。改ざんが報道で表面化した直後の18年3月7日、自宅で命を絶った。遺書には「手がふるえる 恐い 命 大切な命 終止符」などと記されている。

 森友問題で自殺職員の遺書が公開された。何という痛ましいことがおきたのか。つらかったと思う。国家公務員として、公文書を改ざんさせられると言うことがどれほど異常なことだったかが分かる。やってはいけなかったことをやらさせてしまい。心身ともに追い詰められてしまった。

 公開されるまで時間がかかったのは、遺族が財務省に対して、尊重する気持ちがあり、財務省が反省してくれるのではないかという、期待があったためらしい。ところが財務省はまともな対応はしてくれなかったため訴訟に踏み切ったということらしい。

 公文書書き換えは安倍総理大臣を忖度して守ろうとした、佐川局長の指示である。その佐川氏はその功績で栄転したのである。これを認めない。総理を守ろうとした佐川局長は立派な官僚なのだ。こういうアベ政権の忖度支配構造は耐えがたいものがある。

  公文書に安倍昭恵夫人の名前が記録された原因は、昭恵夫人の保証で公有地の払い下げが行われていることを明確にしておきたかったからだろう。どこかおかしいと感じて、昭恵夫人の名前を書かなければ、不正な値下げを自分がしたと思われる不安があったからではないか。

 公文書に記録して置いてやると言う意志が感じられる。総理夫人の名前をわざわざ記録した気がする。たぶん、公文書に書いてあるとは思わなかった、財務省幹部は驚いたのだ。総理夫人秘書の公務員は財務省に問い合わせをしている。このかたも在外公館に配置転換になった。

 自衛隊の報告書も戦闘があることを記載していて、問題になった。今は戦闘があっても書かないようになったに違いない。財務省ももちろん名前など書かないことになっただろう。

 つまり、事件が起こるたびに公文書が公文書の役割を果たさなくなっているのだ。都合の悪い下手な公文書をかけば、出世ができなくなる。

 この遺書を読んだ安倍総理は平然と「真面目に職務に精励していた方が自ら命を絶たれた。大変痛ましい出来事であり、本当に胸が痛みます。改めてご冥福をお祈りしたいと思います」とコメントした。
 
 その上で、「財務省においては麻生大臣の下で、事実を徹底的に明らかにしたところでありますが、改ざんは二度とあってはならず、今後もしっかりと適正に対応していくものと考えております」と述べた。

 何という白々しさか。こんな人間が総理大臣で有ることを思うと、全く情けない。そもそもはアベ昭恵夫人が幼稚園生の教育勅語暗唱に、大感激したところから始まった。感動してしまったアベ夫人は安倍晋三記念小学校の設立に協力を申し出たのだ。

 今時幼稚園生に教育勅語を暗唱させるとはおかしなことだ。しかもこの異常な状態に感激してしまうと言う安倍昭恵夫人の人間性が特殊だ。たぶん、安倍周辺の人達はこうした感覚なのだろう。

 そこにつけ込んだ詐欺師籠池泰典氏の罠にはまったのだ。どこを押せばキューというか、どこ抑えればピーというか。今は反アベで悪く言っているが、要するに自分に得になるようにだけ動く人なのだ。

 後にアベ小学校の名前は安部氏当人から取りやめて貰うことになったのだが、回り回って、小学校は認可され敷地は格安に払い下げられた。安倍昭恵夫人案件として、財務省で特別に扱われたことは間違いがない。そのように公文書に記載されていたのだ。

 その証拠となる公文章を佐川局長の指示で削除したのである。この公文書書き換え事件に、アベ氏は関係がないとは言えないだろう。法律的に有罪かどうかは分からないが、昭恵夫人の暴走がもとで、一人の公務員が自殺したのである。今でもアベ夫人がテレビで写ると、怒りで正視できない。良くもシャーシャーと気持ち悪くなる。政治家の妻というものはこういう図太い神経の人なのだろう。

 そのことに対する、当事者であるアベ氏の言い草は白々しすぎないか。まるで他人事である。「わたしとしては、知らなかったこととは言え、妻の出過ぎた行動から大変なご負担をおかけしてしまいました。公文書書き換えという犯罪行為までさせてしまったことを、心よりお詫びいたします。お許しください。」これがまともなコメントだろう。

 そういうことが言えないのであれば、白々しいことをぺらぺらと軽く言わないで貰いたい。自殺という痛ましい事件が起きたのは自分の国会答弁が影響しているのは事実であろう。自分や昭恵夫人が関与していたら、国会議員を辞めると答弁したことからすべては始まっている。

 怒りはこの安倍内閣を支持する多数の日本人に向かわざるえない。今でも反論さえできない自民党議員の面々に向かわざるえない。こんな鉄面皮が日本の政治の与党だと思うと、情けない。つらい。どうしてこんなことになってしまったのだろう。いつも日本人はこんなであったのだろうか。

 まさかと思う。思想の違いは置くとして、日本の政治家にはもう少しまともな人間が居た。若い頃から反政府的ではあったが、人間の品性という意味では田中角栄氏でも別段気にならなかった。アベ氏ほどの薄汚い人間は前例がないと思う。

 アベ氏を守ることで、忖度することで、自分の立身出世を図る高級官僚の姿。こうして昭恵夫人の名前を公文書から削除されたのだろう。その指示は国会で、嘘の答弁ばかりしていた佐川局長がしたものなのだ。しかもその功績で栄転までした。こんな状況を見て、改ざんをさせられた部下は耐えられなかったのだ。

 まともな人間であれば、恥ずかしくて議員を続けていることができないはずだ。こんな状況を知りながら、アベ批判ができない議員は同罪である。アベ氏の生き様はすべてがこのような嘘で塗り固められている。恥というような意識はどこにもない。総理大臣が自ら日本という国の品格を落としている。

 もういい加減にして貰いたいものだ。こんな総理大臣の国の国民であることがつらい。検察は調査して不起訴妥当を判断している。しかし、遺書という新証拠が出てきたのだ。

 新証拠の登場で検察の判断も変わるはずだ。そのときは麻生財務大臣はどう申し開きができるか。アベ総理大臣はもう逃げられない。約束通り、国会議員を辞めて貰おうではないか。



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名蔵の田んぼと崎枝半島を描く

2020-03-21 04:35:56 | 水彩画
 
 いつも描かせて貰っているバンナ公園下の牧場からの風景。タブレットの写真に変えたら、写りが悪いようだ。最近絵の写真も写りが悪い。新しいタブレットが悪いのか私の取り方が悪いのか。近いうちに絵の写真は、ちゃんとしたカメラで写そうかと思っている。思ってはいるができるのかどうか。たぶんできないのだろう。

 この場所で描くようになって、3年は経つ。たぶん50枚くらいは描いたのでは無いかと思う。石垣島を描きたくなった最初の場所である。バンナ公園の北斜面から名蔵湾を見下ろす位置である。田んぼの水面が見えている。2月から3月が一番魅力的な風景になる。

 描き終わることはいつもない。描くことが無くなってしょうがないなと、そのまま絵の保存ダンスに入れてしまう。捨てることもないがまず見ることもない、絵を選ぶことさえできないでいる。絵はドンドン溜まっては行くがどうする物か。死ぬと言うことで一番困るのが絵だ。

 描くのは良いのだが、後どうなるのか、せめて記録ぐらいしなければと思いながら、それもできないでいる。それでいいのか、仕方がないのか。考えると少し気が重くなる。


 ①描き出しである。休むたびに撮影してみた。前に撮影して参考になるところがあったからだ。中央下に田んぼが広がる。写真では田んぼはわずかしか見えない。この絵では一面の田んぼにするつもりで描き始めた。

 その田んぼの所はなかなか描けない。描けないと言うこともあるが、できるだけ描かない方が、田んぼの反射する様子が描ける。とこの時点では考えている。

 田んぼは海とは違う。人間が作り出した水面である。その水面の広さは日本すべての湖の面積より広いだろう。人間が作り出した湖は気候を変え環境を支えている。


 右下のヤエヤマヤシはいつも描く。右下あたりに欲しいという感覚がある。自分の描いているという位置がわかるためには必要になる。一番手前がどこであるかは示す。空間意識をはっきりさせたいのだろう。

 この絵では空を少し広くとった。いつも空が狭いからだ。田んぼが画面の中央まで来ると言うことだけは最初に決めたことだ。そして空は広く、それは松波さんの言われたことが頭に残っているためではないかと思う。


 色を徐々に置いてい行くが、田んぼは描かない。描けない。まだこの段階では分からない。画面は全体が同じ進み具合で行きたいので、遅れているのでは困る。ともかく色を置かないと、どうしても描き残しの白と着色した部分の色との関係で絵を見てしまうために、絵が進んだときにおかしくなる。

 この段階で重要になるのはどこまで自由度があるかだ。どうとでもなる状態で進まないと、つまらないことになる。特に色彩は後戻りはできないのが水彩画である。自由に、でたらめに進めながら、後戻りできないのだから難しい。

 田んぼについては白で終わるのでこの段階で色をおく必要はない。と思っている。水彩では重ねて色が暗くなって行くので、全体に淡い状態で進めることが多い。


 田んぼに空の色を入れた。空よりも田んぼの方が明るくなる。画面で一番明るいのが田んぼでなければならない。田んぼの持つ輝きが一番描きたいものだ。

 空は自由を表し、田んぼは人間の営みを表す。そう言ってしまえば実も蓋もないのだが。そこにアンパルの手つかずの自然が広がる。遷移である。人間の営みとのせめぎ合い。


 この辺で今までの流れが行き詰まる。さてどうすればいいのか。一時間ぐらい考え込んでいただろうか。もうこれでいいとも言えるし、今回もダメだったとも言える。

 考えているのは個々を突破するためにどう壊して行くかと言うこと。たいていの場合どこか強められないかと思う。


 大分強めたところ、すぐメリハリを強くしがちである。しかし、さらに強めなければならない経過。絵を進めるに当たり、このダメにして行く過程が、一番苦しいところ。

 しかし絵はプラスだけに進んでいってできるものでもない。どうしようもない状態を踏まえて進む事もある。

 わずかずつ何度も塗り重ねながら、色を調整している。ここで一日目が終わる。家に持って帰り、1週間ほど眺めていた。中間の名蔵アンパルの色をもう少し濃くしたいとだけ思った。



 その後もう一度持って行き描き進めた物。できあがり感は確かにあるのだが、失われたものも結構ある。それでも最初の意図した田んぼが描きたかったようにできている。

 それで良いかどうかは別であるが。空がいまいち曖昧であるかな。しかし、雲に表現を入れると煩わしくなる。ここまでのものか。次では空をもっと大胆にやってみよう。


 もう一度今日の午前中描いて来た。どうだろうか。進んだと思うのだが。
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新型コロナウイルスの判断は死亡者数

2020-03-20 04:40:11 | Peace Cafe


 コロナウイルスでは報道機関が各国の感染者の状況を並べて比較している。この見方だと誤解してしまう可能性がある。スクリーニング的にすべての人のウイルス検査をしようという国もあれば、重症者だけを検査しようという国もある。

 日本は後者である。これはひとつの考え方であり、間違えではない。80%の人はすぐ直るのだから、直る人は気にすることはない。20%の人のうち、重症化してきたとき、つまり37.5度以上が3日続いたら、保健所に電話をする。このやり方は合理性がある。医療体制を守るためには必要なことだ。

 イギリスのジョンソン首相やドイツのメルケル首相は大多数の国民が感染をするまで収束しないと主張している。それも確かにあり得る考えだろう。しかし、年寄は別に考える必要がある。年寄や持病のある人には致死率の高い病気なのだ。

 今回の新型ウイルスはそれほど怖い病気ではなかった。人類の大半が感染して、普通の風邪になるには、2年はかかるのだろう。近い将来にさらに手強い新型ウイルスの登場の前段階のような物と考えて状況把握をした方がいい。

 特徴はかかっても8割の人が影響を受けないから、感染を広げやすいと言うことだ。熱さえ出ないので、本人も自覚できない。しかし、ほんの一部の感染した人の中に、特に老人の場合が多いのだが、重症化して死亡する肺炎でもある。

 何故老人が重症化するのか。理由は有ると思っている。老人は肺の機能が落ちる。年をとれば、100メートルを20秒でも中々走れない。筋力が落ちたのだ。同じことが呼吸を司る筋肉でも起きている。もちろん肺の中の衰えもある。

 高血圧とか、糖尿病とか、成人病の人は血液の問題がある。肺の衰えが加わり、肺炎が重症化してしまう。やるべきは肺の筋肉体操である。私には八段錦である。そもそも肺は弱い。結核もしている。その点心配なので、肺の強化は毎日続けている。

 弱者や老人が死亡するという意味では人類の淘汰現象がわずか働いた。こんな考えが不謹慎と言うことは承知しているが。私が感染して死亡したとしてもその覚悟はしている。70歳というのは老後でありそういう年齢だと思える。死を仕方のないことと受け入れることが覚悟だ。最後の一枚だと、そう思って今日も絵を描きに行く。日々の絶筆。

 国によって年齢構成が大きく違う。日本の老齢化率は高い。老齢化率の高い国と低い国ではこのウイルスの感染状況、特に死亡者数は異なる。だから、韓国と日本と中国の現状をどう判断するかは、総人口と老齢化率を勘案した上での死亡者数で考えることが正確な判断につながると考えられる。

 医療環境の悪いアフリカで流行が始まったら大変なことになるという人がいたが、そんなことはあり得ない。70歳以上の人口がほとんど居ないような国では、インフルエンザのひとつに過ぎない。幸い若い人は重症化しにくい病気なのだ。アフリカにはもっと深刻な病気がいくらでもある。問題は老人国の死亡であり、経済の問題である。

 要約して言えば、中国の死亡者が100人であれば、日本の10人に当たる。韓国が5人であれば、日本の10人に当たる。医療の状況も違うだろうが、それを含めて感染の広がりは死亡者数で判断するのが一番間違いが少ないようだ。さすがに死亡者数のごまかしと言うことは考えにくい。

 3月12日。世界全体では4300人ぐらいの死亡者が出ている。18日で7800人である。これは始まりに過ぎない。日本での死亡者は一日に3名あった。まだ5名を超えたことはない。この程度の死亡者であれば、今のところ深刻な感染症ではないと見ていいのだろう。少し騒ぎすぎである。

 感染の状況は死者の数だけで判断した方がいい。通常のインフルエンザと変わらない。感染したところで回復するのであれば問題はない。今現在感染が静かに広がり、免疫が生まれ始めている。死者が出なくなれば一安心であるが、それは5月ぐらいになるのだろうか。

 イタリアでは死亡者が3000名。中国以上の問題になっていると見なければならない。中国では感染が始まってから、三ヶ月が経過している。この後のイタリアの経過は注目が必要である。中国の死亡者数はこのところ1日20人ぐらいになってきた。ピーク時には100名を超えていたから、峠は越えたと言えるだろう。

 日本での死亡者数はまだ少ないが、微増の状態。感染の拡大の状態の判断は難しいところもあるだろうが、死亡者数で見るのが一番妥当に思う。通常のインフルエンザであっても一日10人ぐらいが死亡していて普通である。新型コロナでもそれくらいまで上昇して不思議はない。まだピークは先である。

 老人の死亡者が多いので老人は不安だろうが。老人の方が若い人より先に死んで当たり前である。老人の都合を若い人の未来に押しつけてはならない。若い人には経済が生存を左右する。状況を正確に判断し、受け入れてジタバタしない方が免疫力は高まる。

 免疫力というものは精神の安定状態で大きく変わる。不安にさいなまれていると、ドンドン落ちてしまう。大丈夫だと確信して、愉快に爽快に暮らしていれば免疫力は高くなる。安心して熟睡できる状態に精神を持って行くことだ。

 病気と言うよう文字のように、気が衰えることが病である。免疫力の低下である。元気に明るい気持ちで暮らしていれば、感染を退ける。もちろん専門家会議の指導項目である3つはできる限り守る必要がある。感染を遅らせた方が普通はいい。

(1)換気の悪い密閉空間を避ける。
(2)多くの人が密集する場所に行かない。
(3)近距離での会話や発声はできるだけ控える。
の3つの条件である。これに加えて、
(4)外出したら物にさわらない。を実践している。

 感染を遅らせることは社会全体として意味がある。一ヶ月先に感染したのであれば、たとえ重症化したとしても、対処方法がかなり見えてきているはずだ。しかも多くの場合、感染が遅れた方がウイルスが重症化する確率は下がってくる。いつか感染するとしても、少しでも先の方が命の安全性が高まる。


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偶然を拾うのがわたしの絵の描き方

2020-03-19 04:55:38 | 水彩画




 伊南?牧場の中に入れていただき描かせて貰っている。牧草地の起伏のうねりに惹きつけられているのだと思っている。木々の向こうに見えるのが名蔵湾である。こんな見え方の海が面白い。

 何故こういう描き出しなのかと思う。考えがあるわけではなく、ここはこういう描き出しになっているとおもうしかない。この場所は素描をしようと思うと描きたくなる場所だ。

 ひとつの要因として空間構成が近い場所が素描をしたくなる。空間そのものを素描する能力がないので、広大に広がる場所の素描はできないのだろう。空間を表すためには形より色や調子のようだ。

 自分では空間が好きだと思っているのだが、案外そうでもないのかもしれない。空間が近い方場所の方が、初めから決めて色を置いて行きたくなるのかもしれない。空間が広がっていると無彩色でおさえておきたくなる。そんな気がする。

 絵を描いていると、常に行き詰まっている。いつも先がまるで分からない。どこに向かっているのかさえ分からない。何をやっているのかさえわからないという絶望的な気分に陥る。恐ろしい疲労感に押し潰れそうになる。それでも絵を描きたいという気持ちに支えられて、あれこれ思いつくままにやってみる。

 慎重になってしまい、挑戦ができずにいるときもままある。それでも自分がすでに獲得した物で、絵を描くと言うことでは満足できない。自分を空白に戻して、今まで描いたこともないような絵を描きたいのだ。それが面白い。もちろんそんなことはできないことなので、疲労する。

  自分という物を突破して、絵を進めるためには 好奇心、柔軟性、持続性、楽観性、冒険心の5つが必要なようだ。そんな文章を読んだ。なるほどと思う。創造的な仕事はそうでなければ不可能である。

 偶然であるのだが、たまには何か思いつきでやったことが、意外に何か次につながっていることがある。これを掘り下げてみる。すると意外に腑に落ちたような結果になる。全くの思いつきの結果だから、脈略があるわけでもない。

 しばらくするとその新しい段階を開いたかに見えた物が全く陳腐な物だったという気になる。どうにもならないような、こんな馬鹿馬鹿しい繰返しの中で絵を描く。その絵の先にあるのは「自分という物」だと言うだけが、よりどころである。

 自分に至ると言うことは他の誰にもできないことだから、私として生きている命の唯一の方角となる。だからどうなのかと考えれば、その先にはなにもない。訳の分からないような、不安定な心境の中で絵を描くことになる。好奇心、柔軟性、持続性、楽観性、冒険心の5つを支えにしよう。

 絵を描きたいのは生きる焦りのような物かもしれない。焦りと言わないで柔軟性でも、冒険心でもいいだろう。自分という生命を燃え尽きるまで楽観で行きたい。こういう始末の負えない我欲なのだろうが持続性とも言える。何かにとりつかれたような物だ。

 やっとたどり着くとそれを否定する自分が登場する。たどり着いてはいないと指摘する自分がいる。それでも又絵が描きたくなるのは好きだからに他ならない。

 具体的に言うと最近発見したというか、気づいたのは近い距離の風景を構成する角度と、遠くの風景の角度が違うと言うことだ。遠近法で言えばごく当たり前なのかもしれない。遠くに行けば、だんだん物は水平に並行に見える。

 これがどうも私の絵ではおかしいと言うことになる。俯瞰で物を見ると言うことは空から地上を見ているような物だ。風景を理解するにはドローンで見ているような認識の仕方だ。あの島はついたてのように見えるが、実はまん丸の島なのだと。そうなると水平線は水兵ではおかしいと言うことになる。

 山であれば、どんなに遠くとも平たい板のような物はあり得ない。どっしりとした量が存在する。頭はそういうことを認識する。となると遠くの物は並行に見えてはいるが、実は並行ではないと言うことになる。

 そうなると例えば一番遠いい水平線は水平ではなく角度があるはずだと見えてくる。私の見るというのは、視覚的な物ではないから、こういうように考えればそう見なす。それの方が収まりが良い。

 こういう思いにとりつかれてしばらく描く。しばらくするとなんと馬鹿馬鹿しい物の見方であるかと、水平に戻る。これは理屈で分かるようなことだからまだいいが、色でも線の引き方でも、いちいちがこんな調子で変化して行く。

 絵を描くことには無限の変容がある。その変容の意味を、ああ分かったと思うところに醍醐味がある。数学の難問が解けたような感覚になる。数学者だって難問に取り組んでいるときは苦しいだろう。しかしいつか解けるかもしれないと、苦悩する。その命題にとりつかれた以上離れることすらできない。

 絵も同じである。ここに風景画の問題があるととりつかれた以上離れられない物になる。絵を描くということには、問題が今にも解けそうな感覚がある。そうなのかもしれないと、一枚の繪で模索が始まる。近づく感じがあるから面白い。面白い模索だから、次々と描きたくなる。

 釣りにも似ているし、囲碁や将棋とも似ている。絵に惹きつけられるのは、そういう模索が画面として残ると言うことだ。魚拓や棋譜である。これが絵として残っている。ダメな自分の模索が絵の上に残っている。ダメと言うことが分かるだけでもすごいではないか。

 次の絵ではもうすこし模索だけはしっかりしなければと思う。できないとしてもちゃんと問題に取り組めという気になる。自己確認をしながらの探求ができる。


 これが描き進めた絵だ。もう一息の所まできているように見える。後何がいるのだろう。この琉球松が魅力的だ。こうしてみると描き始めの時から、この松を描こうとしている。つまりこの松が空に伸びて行く姿を描くために、地面のうねりや海の青さがある。

 絵は置き換えなんだな、と言うことも時々頭をよぎる。見ている物をどう正確に写し取ったとしても、絵の画面の上に置き換えている。その置き換え方に自分と言う物が絵に表われている。そう考えて良いかもしれない。

 その置き換え方が、他人の置き換え方をまねた物であれば、いやなものだ。どれほど好きなボナールであれ、その置き換え方を身につけたくはない。やはり自分のやり方を見つけなければ面白くない。

 この松の描き方は自分で模索した。誰かの木の描き方から学んだと言うことはない。下手な物かもしれない。それでも自分ではこのように自分が木を見たと言える。それは良いことだ。
 

 

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