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ロシアによるクライナ攻撃の日本への影響

2022-02-28 04:00:17 | Peace Cafe
 

 ウクライナへロシアは軍事攻撃を継続している。武力によって石を通すことは許されない暴挙だ。ロシアはひどすぎる国だ。野蛮な体質が、未だに抜けていない。プーチンは狂気になるような権力抗争の中にいるのだろうか。旧ソ連邦の国がNATO加盟することが、それほどロシアの脅威になるというのだろう。

 世界は武力に頼る世界にまた戻ろうとしている。そんなことで問題が解決するはずが無いのに、人間という生き物のいつまで経っても、成長できない野蛮さに絶望してしまう。ウクライナを力で押え込んだとしても、何にも良いことなど無いのが分からないのだろうか。

 ロシアは原爆の使用まで示唆して、世界に対して挑戦をしている。これほど愚かな権力者が損沿いするのかと思うと悲しいし、怖い。プーチンは年密な計画の基にこの軍事侵攻を行ったにちがいないが、武力に頼るものの、大切なことを見ていない愚かさが際立つ。こんな人間に良いことなど無いに違いない。

 世界はこの暴挙に対して、何も手を打つことが出来ない。これもまた悲しいが、NATOが自制したことは世界戦争になることだけは防げた。このアメリカは動けないという状況判断がプーチンの戦略の巧みなところだ。世界は経済制裁をするだろう。

 しかし、石油に対してはむしろロシアの利益に成るだろう。資源大国のソビエトは戦争を歓迎するところがある。中国との外交関係は同盟国としてさらに連携が深まるだろう。中国経済の台頭で世界の武力の力学が変わりつつあるのだろう。

 こうした計算に基づいて2022年にロシアはウクライナに軍事侵攻を実行した。これは第2次世界大戦以後最大危機だ。悲惨すぎる軍事作戦である。世界中の見方の虚を突いたのだろう。やるかもしれが、まさかやるはずが無いという予測の裏を就いて、軍事侵攻を何の抵抗もなく実施した。

 世界はどこの国も傍観するだけである。経済封鎖でお茶を濁しているに過ぎない。どの国もよその国どころではないのだろう。これで世界経済は引き続き低迷することになる。経済制裁は抑止力には働かなかったのだ。経済封鎖はむしろロシアにとって有利な材料になりかねなかったのだ。

 これは世界が新しい自体に突入したと言うことだ。世界は狂気を相手にせざる得ない時代に入ったのだ。ウクライナの軍事基地がまずミサイル攻撃を受けたらしい。当然のことだ。まず軍事基地を叩いて、反撃を出来ないようにしてから攻撃するだろう。

 まったく人ごとではに。もし中国が台湾の併合を軍事的に行うとすれば、間違いなく、まず日本の軍事基地を攻撃する。日本の自衛隊基地からの、先制ミサイル攻撃どころではない。その前に石垣島がミサイル攻撃の標的になる。なまじの基地などあったところで何の役にも立たない。

 この情勢の中、石垣市長選挙では基地推進派の中山氏が当選をした。日本の未来も暗雲が立ちこめてきているのだろう。しかし、これも選挙の結果である。この苦しい状況を噛みしめて立ち向かわなければならない。諦める訳にはいかない。

 中国全土のミサイル基地を叩くだけの軍事力があるのならば、まだ抑止力に成るかもしれないが、日本のミサイルなど、知れたものだ。中国が本気で武力攻撃を準備したら、ひとたまりも無いのは目に見えている。ウクライナも、日本も同じことである。

 どうやって国の安全保障を行うかを、現実を見据えて改めて取り組身を見直すべき時だ。日本は何しろロシアと仲良くして、経済の共同開発を行い、何とか北方領土を返して貰おうとプーチンにへつらっていた。それがうまく利用されたに過ぎないことが明白になった。

 日本の経済はコロナ蔓延で低迷してきた。第6波の影響でもう一段の景気減速が言われている。そこへ、ウクライナで戦争が始まってしまった。ロシアへの経済制裁が行われる。ロシアは経済制裁の影響は小さいと考えていると見ている。

 これから起こることを考えてみる。すでに起きているエネルギー価格の上昇はすでに一バレル100ドルになり、さらに20%ぐらいの上昇は起こるだろうと予測する。エネルギーが上がれば物価上昇が起こる。特に食料品の上昇は目立ってくるはずだ。

 ヨーロッパはロシアからの天然ガスや石油の輸入が40%を占めている。これをロシアから輸入しないことになれば、その他の地域のエネルギー価格は上昇することになるに違いない。アメリカのエネルギー産業も息を吹き返すのかもしれない。

 ウクライナは降伏させられる。圧倒的な軍事力の差がある。その時からロシア軍の支配が続くことになる。ロシアへの経済制裁は短くても数年は続くだろう。すでにコロナで疲弊してきている日本経済は、大きな影響を受けて回復できないところまで行く可能性がある。

 世界での食糧問題が深刻化する。ロシアは小麦流通の18%を占めている。この分がたちまちに日本にも影響してくるはずだ。流通量が減少すれば、価格は上昇する。日本人の食料も貧乏人は米を食えということになるのかもしれない。

 中国は食料輸入をアメリカからロシアに徐々に変更するだろう。経済封鎖はロシアと中国の関係を活発なものにすることだろう。中国は漁夫の利を得ることになり、最も有利な立場に立ちそうだ。中国と世界との経済対立はより深刻になるのだろう。

 日本では株価の下落が起きそうだ。金余り減少で、投資先を失っているお金が株式にしがみつくことで、景気悪化にもかかわらず、株価はそれなりに維持されてきた。政府が株に投資していることがある。ところがいよいよ株の下落が始まる可能性が高まった。

 ウクライナへロシアの軍事侵攻をNATOは抑止できないで、簡単に侵攻させてしまった。このことから、中国は台湾への侵攻もとめることが出来ないと考えるようになる可能性が出てきた。世界の不安定要素が一気に高まってきている。

 日本経済は不況、物価上昇、金利が上がり始めるという、大きな試練を受ける可能性が出てきている。なるほど自助の国になった。自分のことは自分で守るほか無い。自給自足で行くほか無いと言うことだ。

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第97 回 水彩画 日曜展示

2022-02-27 04:14:41 | 水彩画
第97 回 水彩画 日曜展示






637「英太郎さんの田んぼ」
中判全紙2022.2






638「崎枝からの竹富島」
2022.2







639「白い花の風景」
2022.2








640「石垣の紅葉」
2022.2







641「一本の木」
2022.2








642「輝く田」
2022.2





643「たずら」
2022.2






644「宮良川」
2022.2






645「河畔の農地」
2022.2





646「加部島」
2022.2


 変わらずにのぼたん農園で描いている。のぼたん農園の絵も描くこともある。直接のぼたん農園のどこかを描いていないとしても、描いている風景にいつの間にか影響している。特に田んぼや溜め池の水面の様子は、描いている内にいつの間にか現われてくる。

 ほぼ頭の中をのぼたん農園が占めているのだから、これは仕方がないことだろう。しばらくはこの状況が続いて、とても他の場所で絵を描けない。今度1週間だけ小田原に行くが、一度くらいはどこか描きに行ければと思っている。

 特に英太郎さんの田んぼは石垣に来ようと考えるようになった田んぼだ。色々に描いてみているが、今回は2枚の絵で一枚になるようにしてみた。左右で独立した絵である。別々に描いていた。そして一枚にも成るように描いた。その方がこの場所らしいと思ったのだが。絵になったと思うわけでは無い。
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ロシアの状況を考えてみた。

2022-02-26 04:23:56 | Peace Cafe


 ロシアはウクライナに武力行使をした。許しがたいことだ。何でこんな暴挙をするところまで進んでしまったのだろうか。ロシアは利権が武力によって守ることができると考えているのだろう。そんなことはあり得ないのだ。国内によほど深刻な問題があるのだろう。

 武力行使をしなければ、ウクライナが西欧社会の一員になり、ロシアの孤立が深まると考えているのだろうか。それはジョージアも同じ状況である。ロシアは余りに孤立して、歪んだ思考に落ち込んでいるのかもしれない。
 
 ウクライナは旧ソビエト連邦の一国である。ロシアはかつて共産主義を目指す、ソビエト連邦を作っていた。その目標は現在放棄され資本主義経済の国になった。連邦を形成していた衛星国が次々にソビエトに反旗を翻し、独立しNATOに加盟し、西欧的自由主義国家を選択した。ソビエトの支配を快く感じていなかったとしても当たり前の事だろう。

 旧東ドイツはソビエト連邦の優等生と言われていた。オリンピックでも大活躍だった。しかし、1970年代に東欧のいろいろの場所を旅行して回ったことがあるが。EU諸国に比べてやはり生活が自由で無い苦しさという点がめだった。各国のウラ寂しい雰囲気は冷え冷えとした印象だった。ロシアは特に冷たい印象がつよかった。

 結局のところソビエトは経済が停滞して、衛星国の維持ができなくなっていき、東欧諸国やソビエト連邦内の離反が起きた。ソビエトは経済崩壊をして、食べるものにさえ事欠くという状態まで落ち込んだことがある。それを資本主義経済で再生させたのが、プーチン大統領である。

 1991年12月、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が崩壊した。 それから30年結局のところ産業と言うより、資源大国として石油輸出で経済を持ち直した。しかし2014年クリミア併合以来、世界各国から経済制裁を受けて、経済は良い状態とは言えない。ますますエネルギー輸出に依存することになる。

 ソビエトは戦争をすることで、エネルギー価格が高騰して、ソビエト経済が好転する可能性を見ているのかもしれない。すでにエネルギーは急速に高騰している。もしそんな地獄の鬼のような発想をしているとすれば、ネロよりもヒットラーよりも悪い独裁者になる。

 ソビエト連邦が崩壊して、資本主義経済に転換しようとしたエリチン政権は経済政策の失敗を招き、ソビエト時代に比べてさらにひどい貧困状態をもたらした。資本主義経済への移行に失敗をした結果である。一部の富豪が登場して、一般国民は食べるものさえなくなり、自給自足でしのいだのだ。

 そこに登場した大統領がプーチンである。国民の絶大な支持を受けて経済の再生を断行する。国民全体に富が行くように富豪に制裁を加え、国民生活は大改善されることになる。ところが、徐々に世界との経済競争において、エネルギー輸出に依存しすぎ、価格の低迷によって経済が立ち行かなくなる。

 2014年クリミアの併合が起こる。そして、世界から経済制裁を受けることになる。これでロシア経済はますます苦しくなる。特に、コロナ蔓延以降のこの2年間はエネルギー価格が下がり、国民の不満もかなり増してきた。結局のところ期待はエネルギー価格の上昇である。

 本来であれば、新しい産業の創出であるが、それは日本でも同じで、新産業の創出はできない。貧困層がどのくらいいるかといえば、それでも日本よりはるかに良い状態で、10%程度とされている。日本は貧困率16%である。

 貧困層を社会的セーフティーネットで救済するためには多額の税金を必要とするが、それが厳しくなっているのが、現状のロシアのようだ。日本は膨大な量の借金をして穴埋めをしている状態。もちろん日本は戦争をしたところで、何の解決にもならないのは当たり前のことだが。

 ロシアはそうでもないのかもしれない。エネルギー価格が上がれば、そこそこ国民の生活は好転するのかもしれない。すでに最近のガソリンの高騰はソビエト経済には悪くないことなのだろう。資源大国ロシアは経済のために戦争を仕掛けている可能性がある。

 ロシア経済の好転のためには本来であれば、産業構造の転換である。外資を導入して技術革新を図る必要がある。ところがクリミア戦争によって外資はロシアから撤退したままになっている。日本も極東シベリア開発を約束して反故にした。アラスカの天然ガス共同開発は継続。北方領土の返還はお預け。新産業の創出ができずロシア経済の脱皮は難しい状況にある。

 資源輸出依存から転換しなければ、結局のところ経済の展望は生まれない。それは中東の石油依存国すべてに言われているところのことだ。プーチン大統領としては、ロシア経済を立て直すためには、ぎりぎりの地点にいたのかもしれない。

 ロシアは経済制裁を踏まえて、中国との接近を図ることになった。中国とは以前は社会主義の路線の違いもあり、対立する関係であったが、両国とも資本主義になった。中国ロシア双方が欧米諸国から経済制裁を受ける状態になり、経済関係を深め貿易額も大きくなっている。

 ロシアではある程度公正な選挙が行われるようになり、プーチン大統領の支持率は徐々に低下をしている。20年も権力を維持し今後も維持しようとすれば、何か経済に変わるべき求心力の強化を図る必要があるのだろう。それはやはり、外敵を作ることである。

 国民の団結を図るためには、悪いのはNATOだという構図が必要になる。ロシア国内では反政府デモが起こるような状況も生まれている。反政府的な報道記者が暗殺される。半プーチンの政治家も殺されるような事件が起きている。求心力を再びと考えるプーチンはこの点でも戦争を行うしかなかったのかもしれない。

 翻って考えてみると、日本の客観的情勢はロシアよりもひどい状態である。今のところは国民の不満は抑えられている。日本人の平和主義的な性格と、あきらめてしまう国民性のために、この生活の低下を仕方がないと今のところ受け入れているのだろう。

 それがこれほど社会状況の悪化が続き、期待できるような展望も打ち出せない政府に対して、支持が続いている不思議である。確かに戦争をするよりはましだが。日本もこのところ、中国を仮想敵国に仕立てて、国民の目をそちらに向けようという誘導が目立つ。

 ロシアが戦争が必要と考えるように、日本にも敵が必要な社会状況と考えているのが日本政府なのだろう。ロシアに必要なことは戦争ではなく、生産構造の革新的構築であろう。日本に必要なものはそれこそ放たれなかった第3の矢である。

 そうだ、今の、今もロシアはウクライナをミサイル攻撃しているのだ。何とか止めて貰いたい。

 
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ウクライナ、ロシア軍が攻撃開始

2022-02-25 04:02:32 | Peace Cafe
 23日に水牛コロバシャを行い、24日に水を抜いた5番田んぼ。26日に直播きを行う予定。品種は「とよめき」

ロシア大統領府はプーチン大統領が21日、ウクライナ東部ルガンスク、ドネツク両州の一部を実効支配する親露派武装集団が一方的に独立を宣言している二つの「人民共和国」を、独立国家として承認する大統領令に署名したと発表した。

 ウクライナに対して、ロシアはその領土の一部を独立国家として認め承認した。そして、その地域の平和維持軍としてロシアが軍事力を介入させた。ロシアのやり方は、軍事力による現状変更だとして、G7において強い抗議声明が出され、経済制裁が打ち出された。

 G7各国がそれぞれに経済制裁を行った。日本はいまのところ経済制裁はしていないという程度の反応。日本はエネルギー価格の高騰で打撃を受けるだろう。そして、もし実際にロシア軍のウクライナ領内への軍事介入を行えば、さらに強い経済制裁を行うと言うことを主張している。そして、24日ついに軍事侵攻を始めた。今のところもう一つ対応が不明確である。

 すでに、ロシアは抵抗なく軍事侵攻を宣言し、実行をした。それは親ロシア派勢力とウクライナ政府との軍事衝突があり、その停戦状態が破棄されたと言うことである。ロシアの主張は親ロシアは勢力の主権を守るための平和維持軍と言うことである。

 こうした軍事侵攻はイラクでもアフガニスタンでも、ベトナムでも繰り返されてきたものである。世界は軍事力では何も解決ができないということを少しも学ばず、自国の都合と利益のために怒りに任せて武力を行使する愚かさから抜け出ることができない。

 これ以上の軍事侵攻と言うことはウクライナ全体に対する、NATOの加盟を望むを臨む地域にもロシアが軍事侵攻すると言うことなのだろうか。確かにそういうことが起これば、それが武力による現状変更と呼べるだろうが、住民の意思というものを国際社会はどのように見ているのか。どうも住民希望よりも自分の利害を各国が主張しているように見える。

 そもそもロシアの主張は、独立を住民投票によって決めたウクライナ内の一部地域の親ロシア系住民が、ウクライナから武力攻撃を受けているという主張だ。その住民の危機を守るための平和い維持の為の軍事侵攻だと言っているのだ。何故そのことにG7は見解を表明できないのか。

 この主張が正しいものとは確かに言いがたいとはいえるが、この地域の親ロシア勢力をロシアの傀儡政権と一方的に決めつけて良いのだろうか。朝日新聞はそのように決めつけている。ウクライナがこの状況下、独立派に対して軍事攻撃を仕掛けて、ロシアのウクライナ侵入を促すような馬鹿はしない。そもそもNATOにはいりたいというのは、ロシアの軍事圧力に対抗したいからだろう。

 ウクライナ国内で、親ロシア派というものが存在し、独立運動が続いている。クリミアがその最たるものであった。そしてクリミアは住民投票の結果圧倒的に独立を希望して、独立した。その後ロシアに編入される道を選んだ。これは香港とか台湾とはまるで違う状況だ。

 しかしクリミアはロシアが一方的に占領したかのように報道されている。現在も新ロシア地域の独立政府は実態はロシアなのだと根拠なく主張されている。もしそうであるなら、現在のクリミアの平和な状態をどのように分析するのだろう。

 こうした一連の動きに対して、ジョンソン英国首相はこのロシアの暴挙を許せば、台湾でも同じことが起こると発言していた。つまり台湾も軍事力による現状変更が中国によって行われると言うことだ。日本政府も同様な主張で、尖閣をそこに加えている。確かにリスクは高まった。

 何故、台湾とウクライナを連動させるのかに、基本認識をわざと間違えて主張していると思われる。ウクライナでは住民投票の結果、ロシアになりたいという地域があると言うことだ。これを朝日新聞がロシア傀儡と断定する根拠はどこにあるのか。

 中国は香港の民主化勢力を反国家活動と決めつけている。台湾は中国になりたくないという選挙結果があるにもかかわらず、中国が軍事的に併合しようとしているのだ。台湾人の意思は尊重されなければならない。何故ウクライナ親ロシア派の住民の意思は無視されて仕方がないのか。

 状況としては住民の意思は逆の状態である。いまウクライナで起きていることまでは、ロシアの主張は一定の筋が通っている。但し、ウクライナがNATOに加盟することをロシアが遮る理由は一つも無い。ロシアが武力で平和維持だと称してウクライナ国内まで一方的に軍事侵攻する隣で、安心して暮らせるわけが無い。

 NATOに加盟して、ロシアの攻撃を出来ないようにしたいというのは当然のウクライナの判断だろう。ロシアが軍事対立を高めるほど、ウクライナはNATOに依存する。クリミアが独立したときからそうした国民の気持が徐々に高まった結果である。NATO軍がウクライナに進出することはロシアにとって、深刻なことだとプーチンは主張しているが、ロシアがその状況を作り出している。

 そんなことはお互い様のことで、軍事力で国際紛争を解決できることなどひとつも無い。それぞれが住民の意思を尊重して、国家としての独立をしてゆけば良いだけのことだ。台湾もまったく同じことだ。台湾の歴史を考えれば、中国に併合されたいと考える人は極めて少ないはずだ。

 台湾は独立国家として認められるべきだ。日本もアメリカも一定範囲で台湾を支持はしているが、あくまで中国との経済関係を重視して、台湾を承認はしていない。しかし、軍事的にはアメリカと共同して、対中国の防衛戦として台湾沖縄が重視されている。

 あくまでアメリカの世界戦略にとって台湾と沖縄が最前線としての意味があるのだ。ウクライナがNATOの軍事拠点になることを嫌うロシアと同じことだ。中国は沖縄、台湾がアメリカの軍事基地最前線である事を中国の安全保障の障害と考えている。

 アメリカは一国主義を主張しながら、すこしも沖縄の基地を縮小しない。沖縄の基地こそアメリカの利権だからだ。ウクライナにも前線基地を配置したいという、軍事的な戦略と同様のことだ。ウクライナは基地を提供する代わりに、ウクライナという国の独立に対する、ロシアからの軍事圧力を防衛したいと言うことだろう。

 アメリカの圧倒的軍事力が相対的に弱まっていると言うことだろう。中国はさらに軍事力を強化し続けることだろう。こうした武力で自分の利権を主張しようと言うことが出来ない世界を作らなければならない。もし、強いものが権利を主張できる世界になれば、日本は中国やアメリカの圧力の下に、永遠に存在せざる得ないことになる。

 住民の意思が最も重視しされなければならない。それが民主主義の基本原則である。住民が自衛隊基地があると、生活に危険が生じるから、自衛隊基地が出来ることに反対するとすれば、そこには自衛隊基地は作ることが出来ない。アメリカ軍も進出は出来ない。それが民主主義国家である。

 国の安全保障といえども、住民の意思を無視して行使は出来ない。それが民主主義国家の憲法に保障された権利である。その意味からも、ウクライナの一部地域の、親ロシア住民の独立希望は尊重されなければならない。それが民主主義である。もしG7が民主主義を標榜するなら、新ロシア派の意思はどう考えるのだろうか。

 
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石垣島の田植えが終わって

2022-02-24 03:59:01 | 楽観農園


 2月23日のぼたん農園の田植えが3番まで終わった。34名の参加だった。強い風雨の中子供も10人も参加してくれた。ひとまず良かった。残念ながら報道は2社以外は来てくれなかった。市長選挙で手一杯と言うことだったのか。雨に負けたのかもしれない。

 正月明けから種まきをした。5週間苗を育てて準備を進めてきた。そして、23日にみんなに呼びかけての田植えが終わった。一段落した。残りは4番田んぼに最後の田植えをして、5番田んぼには種まきをする。

 この苗作りの間晴れた日は数日しかないという、厳しい天候が続いた。一月の日照時間が54時間。2月25時間。余りに成長が滞るので、不安で仕方がなかった。苗床の苗は徒長気味であった。ただ、直播き田んぼの苗がそこそこのできだったので、何とかなりそうな気がしている。

  農地をお借りできたのが、12月半ば。田んぼを作り始めたのはそれからだったから、まだ二ヶ月しかたっていないのことになる。田んぼの土木工事をしながらの苗作りだった。正直、溜め池作りを始めた頃には、一反以上の田んぼの耕作が出来るとは思わなかった。

 それでも苗代に4枚の田んぼに田植えが出来るだけの種は蒔いたのだから、4番まではやるつもりで居たと言うことになる。現在田んぼは6番田んぼの土木工事が終わりかかっている。一反以上耕作できることになったのだから、何とか参加者がお米が食べれるくらいはあるのではないだろうか。

 牛の放牧場のあとの、何も無い雑草の茂った入ることすら大変だった。水牛を繋いで草を食べさせるところから始まった。溜め池を作り、田んぼを作り、苗を育て、ついに田植えまで来た。心からほっとした。安堵した。まだ冒険は続いてゆくわけだが、ひとまず最初の目的地には到達した。

 毎日楽しくて仕方がなかったのだが、出来るのかという不安も無いわけではなかった。食糧自給と言うことは命がけのことだ。だからおもしろいわけだが、趣味の田んぼは楽しみで良いなあと、農家の方には言われるが、実は自分で作ったお米しか食べないと決めれば、趣味の田んぼも命がけのものになる。だから自給の田んぼは農家どころでない本気のことになる。

 この最悪の天候の中、何とか田植えが出来る苗に成長してくれたことは、イネの強健さに感謝しなければならない。主食作物はこれくらい丈夫なもの出なければならないのだろう。そして、熱研で紹介してくれた、「トヨメキ」がやはり成長が良い。品種はやはり重要なことになる。

  熱研の小林先生が紹介してくれたトヨメキの様子を、お願いして見ていただいた。直播きの苗はそこそこ色が濃くよくできていると言うことだった。初めての土壌なのに、何故色が黄色くならないのか、色々理由を考えてくれた。いずれにしても腐食も少ないし、肥料分も不足するだろうから、追肥のタイミングを考えるといいと言われていた。

 水生植物による緑肥栽培と言うことならば、やはりアゾラだろうといっしょに来てくれた斉藤先生が言われていた。八重山に自生していた、アカウククサをどうしても探したいものだ。また、見に来て下さると言うことで、とても嬉しくなった。

 みんなに田植えして貰った苗は4葉期から5葉期の苗であった。いくらか分けつの出ている苗があったぐらいで、24,5センチの背の高さだった。茎は細く十分とは言えないものであったのだが、病気が出たりはしていなかった。

 石垣の農家の方で育苗をされている人はイモチが出てしまったと言われていた。消毒をしていてもそういう状態である。早く一月中に田植えをした田んぼを見ると、一ヶ月経過しているのに、ほとんど成長していない状態に見える。

 やはり、昼間の時間の短い1月の田植えでは、日照時間が雨ばかりで極端に減少すれば、生育に遅れが出るのはやむを得ないだろう。例年の半分位の日照時間と言うことである。例年雨の多い1月2月である。それがさらに半分と言うことでは、厳しい。得に自然に従う、伝統農法だから厳しい状況である。

 それでも、直播きの苗はなかなか健全に育っている。苗代の苗よりも色も濃いし、がっしりしている。分ゲツが出始めている。根の張りも良い。背丈は低いが悪くはない5葉期まで来ている。そこで直播きの田んぼを急遽増やすことにした。6枚の内、3枚を直播きにすることした。今年は初めての田んぼなので、草がほとんど出ないと言うありがたさがある。

 田んぼの土は田植えをしていると、赤虫がかなり現われていた。田んぼの土作りが短期間にもかかわらず、それなりに成功したのかもしれない。期待できる兆候である。土が何故か悪くなかったのかもしれない。地下の掘り起こした土を使っているのに悪くないのは、水が良いのかもしれない。

 田植えをしていると田んぼはやはり石が多く、足にあたる。随分取り除いたつもりだが、まだ石が田んぼの中にゴロゴロしている。これからも根気よく取り除く以外にないだろう。

 田植えは2畝を6人で行って、1時間少しだった。それほど時間はかからない。初めての人には短い横向きの6メートルだけを植えて貰った。往復できる人は往復。無理な人は一方向だけでも経験して下さいということにした。もちろんどんどんできる人は植え終わるまで。

 今回まだ、4番田んぼは線を引いただけで田植えは出来ていない。その線も雨で消えてしまった。つまり予定通り進まなかった。こういうことは初めてのことなのだ。なんとなくこれでいいと思っている。以前なら、やりきらなければならないことは、何があっても終わりまでやった。

 いまはなんとなく無理をしないで、これで十分だと思った。こういうことが歳をとったということなのかも分からないが、少し妥協的になったということだろう。昔は豪雨の中雷が落ちる中でも田植えをしていた。やりきらなければ居られないところがあったと言うことだろう。

 いまはまあ最善で無くとも、ほどほどで良いだろうと思うようになった。良いのだから悪いのだかは分からないが、突き詰めないようになったということだろう。それでも苗取りをしてあるのだから、出来れば今日の内に4番田んぼは田植えをしたい。

 そして、土曜日辺りには5番田んぼの直播きをしたい。6番田んぼももう一息で完成するから。6番の直播きも可能かもしれない。ユンボがまだ借りられているなら、三月中には10番田んぼまで完成させることが出来るかもしれない。

 果樹園や畑の予定地には、向日葵を蒔くことにした。緑肥作物と景観作物を兼ねてのことだ。上手くゆけば田んぼの風よけにも成るかもしれない。果樹の苗も購入する必要がある。さらに一番下の策の辺りには風よけの扇芭蕉が必要になるだろう。2頭になった水牛についても、放牧場所や水場の整備を考える必要がある。

 
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北京冬期オリンピック

2022-02-23 04:11:27 | 暮らし


 北京冬期オリンピックが終わった。やはりスポーツは素晴らしい。人間の可能性が存分に発揮されていて、見ていて眼を洗われるようだった。良くあれほどのことが出来ると、良くあれほど頑張れると感銘を受けた。こころから楽しませて貰った。

 東京オリンピックもコロナ下で行われ、様々な問題点があった。それでも無事開催できて良かったと安堵したのだが、北京オリンピックはさらに見事なコロナ下の運営だった。中国のコロナ対応はすごいものだ。日本の報道はあら探しのような報道姿勢が目立ち見苦しいところがあった。

 危惧されていた中国と世界が険悪にならずに、むしろ友好的な気持ちが生まれたように思う。スポーツによる親善が充分に出来た。日本選手も精一杯それぞれに頑張り、素晴らしかった。特に高木美保選手の活躍は心に刻まれ忘れがたいものになった。

 それは1000mで金メダルを取ったと言うこともあるが、それ以上に高木選手の歴史を思い出す。最初に中学生で出たオリンピックでて、多くの期待を集めたにもかかわらず惨敗に終わったときからはじまった物語である。人間の生きる素晴らしい姿を感じた。

 競技者としての図抜けて強い生き様から教えられるものがあった。あのときの期待感とそして最下位になっての世間からの冷たい対応。そして何年もの選手としての絶望の期間があったはずだ。社会というもの対応の変化を若い頃からしみじみと味わってきたはずだ。

 そのどん底から立ち直り不断の努力をして、自分の持てるものをすべて出し尽くせる選手に成長した。その姿こそ人間の修養の究極の姿に見えた。苦難を乗り越えて生まれた強さである。自分の努力などまったく至らないと言うことを、改めて感じた。ここまでやり尽くせる人間がいるのだと感動した。

 オリンピックは素晴らしいものであるが、今回は昼間の競技は見ることが出来なかった。昼間はのぼたん農園の作業をやっていた。時差が1時間しか無いことがむしろ不都合だった訳だ。それでも充分堪能させて貰った。今回改めて思ったことは、もうメダル制度は止めた方が良いのでは無いかと言うことだった。

 メダルなど無くても十分魅力があるのがオリンピックである。順位というものはあっても良いだろう。しかし、金メダル金メダルとメダルというものは強調のしすぎだと思う。メダル授与など無くても、勝者は充分に賞賛されている。そして、選手自身が勝利することで充分にすでに得るものを得ているはずだ。

 メダルなどあるから、かじるような名古屋市長まで現われる。できるだけ静かに讃えようでは無いか。それは出場選手全員に言えることだ。頑張って出場したことが尊いことだ。終われば順位など忘れて良いことだ。まあそうはならないと思うが、少し行き過ぎだと思う。

 称えるのはクーベルタンの考えたように、参加した競技者すべてであろう。1番は立派である。それでもう終わっていいのだと思う。全員に参加メダルがあればそれでいいだろう。オリンピックが国威発揚の場になるようでは、むしろ平和の祭典が政治的祭典になる。充分なっているのだろう。ベルリンオリンピックにならなければ良いが。

 日本もオリンピックに対して、外交的ボイコットをした一国である。これは恥ずかしい政治選択だ。何もオリンピックに際して、総理大臣が出掛けて行かなければ成らない決まりは無い。選手が行けばそれで充分だろう。オリンピックの尾ひれの方が大きくなりすぎている。

 オリンピックはスポーツの祭典であれば、それだけで良い。競技者すべてがもっと大切にされるオリンピックであって欲しい。国という枠組みさえ無くなることが目標のはずだ。敗者も勝者も等しく尊敬される場になって貰いたい。どの国の選手もその国の代表になり、出場していることがすでに並大抵のことでは無い。

 確かにスポーツは順位を付けるものである。勝者と敗者があるから見ていても興味が倍増する。しかし競技が終われば、もうそう言うことは別にして、精一杯競技を出来たことを喜ぶべきだろう。争うことは人間の習性のようなものだが、それを乗り越えられるのも人間である。

 オリンピックを煽っているのは、商業主義である。IOCというところはオリンピックの興行主として、利益追求にこだわりすぎるように見える。勝者を称えれば称えるほど、盛り上がるという人間の愚かな一面を増長しているのが、商業主義である。

 テレビや新聞が無反省にその商業主義に乗っかっている。少しは、敗者になったとしても、その頑張りの姿に注目するとか、とるべき報道の姿勢はあるはずだ。スポーツを芸能にしてしまっている。報道が品格というものを失っているのではないか。

 見事な敗者が沢山いた。どれほどの選手であれ、すこしづつ勝てなくなる。小平選手は見事な敗者だったと思う。敗れても臆すること無く平常心を保っていた。そして勝者を称えていた。見事な競技者の姿だ。金メダルを取った前回以上に、敗れた姿のすがすがしい小平選手から学ぶものも大きいものがあった。

 限界を超えた修練を積んだ競技者の姿は勝者も敗者も、それは素晴らしいものだ。いつもそこから学ばせて貰っている。そして勝者も敗者もやがて競技者としての1線を退き、生きて行くことになる。そのこれからこそ、それぞれの競技者としての修練のあり方が問われる。

 例えばドーピングをしてまで勝利するようなことであれば、生涯苦しむはずだ。精一杯の努力をして敗れたのであれば、潔く次の道を努力して行けることだと思う。表面的には勝利者だけがちやほやされる世間であるだろうが、人間が生きて行くという意味では又別なことになる。

 翻って自分にはどれだけの努力が出来ているだろうかと思う。精一杯努力をしているか。もっとやれることがあるのではないかと思う。ほどほどの努力で自己満足していないか。とうていオリンピックの選手ほどの努力ができてはいない。

 まして、才能など乏しい人間である。自分の絵に到達するためにはまだまだやるべき事があるだろう。もう一度、新たな気持ちで絵に向かいあいたいと思う。努力だけではオリンピック選手と同じくらい頑張りたい。そしていつかもう一段奥にある絵の世界を見てみたい。

 
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絵画とスケッチの違い

2022-02-22 04:10:48 | 水彩画


 雨に濡れたのぼたんの花。心が洗われると言うがこの花には、新鮮でどこか素朴ななものの品格が宿っている。のぼたん農園の中で絵を描き始めて、すこしづつ絵が変化してきているようだ。いつかはこの花にあるようなものを描くことが出来るのだろうか。

 のぼたん農園は建設中だから、土の地肌がむき出しである。剥がされた土の色に影響を受けている。土の色は実に微妙でまだ描くだけの技術が無い。出来ないと言う事は絵にとって問題と言うことでは無く、その難しさに向かい合えると言うことが大切だと思っている。

 目の前の景色を見て描いているわけでは無いのだが、見えている色彩は絵に表われている。見えている風景を直接に描くときも当然ある。それでもせめて風景を背中にして描いている。直接見ないようにして風景を描く。自然というものが余りに良く出来ているので、ついつい目の前にあるものをを画面に写すのが一番だと言うことになる。ただそれは絵画ではないと考えている。

 私絵画は自分の世界観を表すものであり、見ている自然を画面に再現しているものではない。ここは間違いやすい岐路だ。そして極めて重要なことだ。自分の内側のことになると、絵は困難を極める。成果も無い。評判も悪くなる。それが私絵画の覚悟のようなもの。

 いくら自分の世界と似ている自然であれ、ただ写すえらしきものはスケッチであり、絵画とは言えないと考えている。絵画とスケッチとは似て非なるものなのだ。スケッチと絵画は違うと言っても、分かりにくいのかもしれないが。

 スケッチはある場所を瞬時に描きとめる描写のことだ。感覚による反応である。感覚的反応だけでは、その人とはいえない。人体を描く場合で言えば、クロッキーのことだ。そこに作者の反射的感覚は表われるだろうが、そのひとの感性とその人の世界観は領域が違うと考えている。

 いわゆる水彩画と呼ばれるものの場合、スケッチで終わっているものが多い。それは油彩画や日本画を専門にする人が、現場で書き留めてから、本画としての絵画を描く、その準備の下書きのようなものとして、水彩画材料を使うことが多い為と思っている。

 またそうした下書きというか、肩の力を抜いた水彩スケッチ日本画より魅力があることがままある。そのために水彩画というものがスケッチだと認識されている。その結果、水彩画のスケッチというものが、一つのジャンルのように存在する。

 それは水彩画材料が手軽に使えて、現場に持って行き制作するのに便利だからである。多くの場合、それはせいぜい30分ぐらいで描いたものである。水で紙が濡れてゆくから、濡れている内に重ねて描く事ができない。一度塗りで描ける範囲で描くのがスケッチである。あとでせいぜい、アトリエに戻りちょこちょこっと手を加える程度である。それがスケッチだ。

 多くのスケッチはまず鉛筆で下書きというか、当たりを付ける。その上に着色するように、水彩絵の具で色を付ける。鉛筆の線が風景をデッサンされていてる。線描でまず意味の説明はしている。漫画と同じ仕組みである。そこに色彩で説明を加えて行く。

 そもそも自然に線は無い。ないはずの線を使い、ものの意味を明確にするために、鉛筆の説明のための線でとらえる。ここからは海だ。ここからは空だ。これは木だ。これは家だ。説明をしているのが鉛筆線である。そもそも絵画に説明はいらないのに、線描での説明で絵画の方向がそれて行く。

 むしろ鉛筆だけで描く素描は絵画といえる。色彩をなしにして、対象に直面する。それは絵のことだ。色が無いとしても充分絵画としての深度がある。素描が説明の線では無くなり、一つの黒色の表現として使われている素描がある。

 瞬時に描かれた風景スケッチを良しとする水彩画を描く人もいる。水彩絵の具の持つ、紙の白さを生かした明るい透明感が美しいと感じるのだろう。それも水彩絵の具の美しさではある。しかし、水彩画の描法の多様さのそれは入口の一つに過ぎない。絵画としての水彩画はその先の水彩技法に進んで行く。

 さらに水彩画の多様さに踏み込んで行くのは、その最初の淡い薄い水彩画では自分の世界としては、物足りないと感じる人なのだろう。表面性では満足できない人だ。油彩画の人や、日本画の人であれば、自分の世界観を探求する絵画制作は本画の方でやるから、現場での水彩スケッチはあくまで参考と言うことになる。

 水彩画の世界はそのスケッチや、淡彩画と言われるものの奥に、いまだ探求しきれない未開拓な世界が広がっている。やればやるほど水彩画の多様さに驚かされている。水彩画は何でも出来る自由な表現の奥行がある。水彩画は奥に入れば入るほど、その人らしい世界観に迫れる材料ということになる。

 水彩絵の具の紙に薄く着色された美しさが、余りに美しすぎるためにその美しさを乗り越えるのは感性の人には難しい。そのために水彩画が絵画という世界よりも、その手前の淡彩画とか、スケッチの世界に止まることになりがちなのだ。たぶんこんな考え方をしている水彩画を描く人間は少ないことだろう。

 水彩画における制作は、水彩画の多様な描法を踏まえる必要がある。水彩画の表現は多様で奥深いために、3000年も使われていて、いまだやり尽くされているとは言いがたい。それぞれが自分の手法を見つけ出している段階なのだろう。この先私絵画の時代になれば、水彩画の世界はさらに広がって行くに違いない。

 淡彩スケッチと言われるところで止まれば、その通俗的な様相にはまってしまって、その作者の世界観まで深まることが無い。淡彩スケッチが美しいだけにその工芸品的な美意識から抜け出ることが難しい。絵画は美しいとはまた別物なのだ。絵画は総合的なものであり、工芸品では無い。

 絵画は人間を表現するものである。人間は美しいだけの単純なものではない。苦しみも、汚れたところも、悲しみある。生と死を明らかにするのが人間の生き方だと道元禅師は言われた。この人間の本質に迫るためには、水彩画の持つ多様な表現に踏み込む必要がある。

 これはある意味美しさを否定しなければならない、困難さがある。美しいものに惹かれるという気持ちを乗り越えなければならない。どうすれば自分の世界が画面に現われてくるかである。このことをつき詰めるものが私絵画であり、水彩画の本質である。

 水彩画は表層の美しさの奥に、実に多様な思いがけない表現が横たわっている。それは日本画でも、油彩画でも出来ない美しさなのだ。水彩画はいまだその可能性を十二分に発揮されていない。私は水彩材料のあらゆる方法を探求するつもりだ。これぞ水彩画というものに向かって行きたい。

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田植えを23日に延期した。

2022-02-21 05:12:22 | 楽観農園



 2月20日の田植えを23日に延期した。田植えの予定を変えるのは初めてのことである。20日21日にこの冬一番の寒気と暴風雨が来ると天気予報が伝えていたからだ。現在13.2度になっている。雨だけなら田植えを決行したいのだが、寒気を伴う強風は苗の活着を悪くするし、枯らしてしまうこともある。致し方ないので延期することにした。

 そして予定日であった20日には、2番田んぼにだけ直播きをしたてみた。線引きで線を引いてそれに沿って、溜め池に漬けてあった種籾を播種した。田植えが延びたので、いまやれることを進めておこうと考えた。種籾や発芽一週間くらいの期間は寒さにも日照不足にも影響されない。

 延期した23日も雨が予想されている。雨の中の田植えになり、参加者も少ない可能性がある。その分一カ所の田んぼだけでも先に進めておく事ができれば、助かることだろう。直播きの部分は現在遅れて4葉期辺りだ。早く日照に戻って貰いたい。

 それでも、苗代の稲よりも直播きの稲の方が色も濃いし、がっしりしている。苗はやはり密よりも素であればあるほど良くなる。ということは苗代で苗を育てるよりも、直播きの方が良くなるはずだ。そもそも自然農法に田植えはおかしい。

 2番田んぼ2畝に直播きした種籾は「とよめき」である。20日の田植え予定だったので、そのあと5番田んぼに蒔くつもりの種籾だった。家に持ち帰り、冷蔵庫に保存しようかとも思っていたが、2番田んぼに直播きしてしまう方が良いだろうと考えた。

 5番田んぼの種籾はすでに溜め池に沈めてある。種籾を多めに準備してあることがこうした場合生きてくる。種籾はもう一回やり直しができるだけいつもとってある。まだ種籾は別に何キロか準備がある。もしこの後、6番、7番、8番と直播きすることになれば、充分播種できる分が準備してある。一段落したあとまた蒔くことは可能である。

 それでも、5人いなければならない。幸い5人の人が10時に集まった。すぐにお願いして、線引きを組み立てて、線を引きをして直播きを始めた。12時頃には直播きが終わった。線を引いてから種を蒔くという調子で、始めてやる人がいたのだが、要領よく終わった。

 この調子であればぜんぶ直播きでやるとしても、25人がいれば、午前中ですべて終わると言うことになる。直播きで上手くゆく公算が高まってきた。あとは雑草の対応である。数年は雑草は無いから大丈夫が、そのあと同雑草を抑えるかである。

 雑草対策が何とかなるのであれば、直播きは楽で良い。雀がのぼたん農園にはいない。ネズミはいるのだが、水があるからか今のところは食べられていない。ただ、2畝で一キロの種籾が必要である。播種に慣れれば減るのだろうが、どうしても多く播いてしまう。

 田んぼは深い部分があって、かなり歩きにくかったが、2時間に満たない時間であれば、何とか耐えられる作業のようで、すこし安心した。20日に延期した23日の予行演習が出来た。線は雨で消えるとすれば、その日に引きながら、田植えするのであれば見えなくなることも無いだろう。

 今回圷さんが作ってくれた、線引きはかなりの優れものだ。50㎝のボルトを一間の板に、きっちりとドリルで穴を空けてとめてある。しっかりしていて線がはっきり引ける。しかもかなりの耐久性があり、10年くらいは使えそうだ。

 今日田んぼに行ってみて、昨日引いた線が雨で消えていないかどうか、確認してみる。見えないようであれば、思い切って線引きは当日の朝やりながら、田植えと言うことにする。線引きをする人には9時からすぐ作業に入ってもらう。30分説明をして居る間に最初の田んぼの線引きが終わるだろう。

 23日の田植えには3枚の田んぼの手植えの田植えと、5番田んぼの水牛コロバシャと言うことになる。雨が降るとしても20人は少なくとも人が集まる。7人ずつで2畝の田植えだから、雨の中、ゆっくりやっても2時間で何とかなるだろう。

 水牛コロバシャの方は福仲先生と干川さんにお願いして、できるだけ子供達にやってみて貰いたい。水牛のワカバはコロバシャ、サクラは出来れば乗って貰う。水牛のコロバシャは絵になる。伝統農業を表している。報道の人等もそちらに集まるだろう。

 雨の中取材も大変だろうから、のぼたん農園の活動内容を説明した、簡単なチラシを作り、みんなさんに配りたいと思う。報道の皆さんに来てもらえない場合は、各社に写真を付けて送れば報道して貰えるところもあるかもしれない。

 23日は午前中に終わりたいと考えている。雨の中、午後までやるのは初めての人には無理だと思っている。できるだけ多くの人に参加して貰い、「のぼたん農園」を知っていただくのが、今回の目標である。

 特に崎枝周辺の方に参加して頂き、こんなことを始めているのかと言うことを知ってもらいたい。説明と連絡先の案内文を作って手渡したいと思っている。何をやっているのだろうかと不安な人も多いのではないかと思っている。食糧自給のための体験農場というものが、どんなものなのかを知ってもらいたいと思っている。

「のぼたん農園」開設の案内         2022.2.23

 「のぼたん農園」は自給のための体験農場です。稲作農業は今後日本全体で生業としては継続が難しくなると考えています。しかし、石垣島におけるSDGs の観点からも田んぼはとても重要なものです。ラムサール条約では田んぼを湿地として認めているところもあります。自然環境の保全と食糧自給が出来るのが稲作農業です。

 特に伝統農業としての稲作は、石垣島の文化とも深く結びついているものです。石垣島の田んぼを残すためには、2つの方向があるかと思います。一つは流通まで考えられた、大規模、機械化稲作です。すでに石垣島でもその方向は始まっているようです。そして、もう一つがその対極にある、販売の必要の無い手作業中心の伝統農業による、自給のためのイネ作りと考えています。

 「のぼたん農園」では200㎡の田んぼと、100㎡の畑を組み合わせて、100坪の自給農業を提案して行きます。人間一人は100坪の土地で1時間働けば生きて行けます。これは私の40年の体験から出て来た結論です。食糧の自給は仕事の気分転換の時間でも可能なものです。これから、様々な仕事がリモートワークとなり、遠隔地でも可能になることでしょう。石垣島の素晴らしい自然環境の中で、働きながら食糧自給する人が現われてくると期待できます。

 そのためには自給のための農業技術の習得が必要です。自給農業を共に実践し、学ぶ場所を「のぼたん農園」で提案して行きます。3.6㏊ある農場が完成するまでに5年間がかかると考えています。熱帯果樹園と水牛牧場を併設します。また、石垣島で有機農業による稲作を始めるための人が利用できる、一通りの稲作機械と脱穀機や精米機を準備して、小さなライスセンターを作ります。今年中に完成するために、現在設計をし申請を準備しています。

 
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第96 回 水彩画 日曜展示

2022-02-20 04:01:18 | 水彩画
第96 回 水彩画 日曜展示

 ちいさめの作品である。出来ているのか分からないものもある。良いとも思えるところがあるので展示してみることにした。






628「輝く海」
2022.2








629「四角い田んぼ」
2022.2







630「のぼたん農園」
2022.2







631「のぼたん農園」
2022.2







632「のぼたん農園」
2022.2







633「三角山」
2022.2







634「赤い花」
2022.2







635「塩山桃源郷」
2022.2







636「月桃」
2022.2


  なんとなく良いと思うのだが、結論まですすめたのかどうか。このところこんな調子が多いい。同じ調子で出掛けてはアトリエカーの中で絵を描いているのだが、波があるようだ。低調と言うことでも無いが、結論が遠のいている感じはしている。

 絵は分からなければ分からないほど、本質に近づいている。そもそも分かるはずもないものだ。ただ、見る人には結論だけが分りやすく提出されたものでなければ、完成品と言うことには成らないのだろう。未完成のものを絵として良いとは言えない。

 修行というものは未熟だから行う。人間は生涯修行であるとすれば、人間にも絵にも到達点などは無いのかもしれない。そういうことは考えても始まらない。ともかくその日どこまで全力で描けるかが大切である。その点ではそれなりと思うのだが。
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新聞の読み方

2022-02-19 04:02:41 | Peace Cafe


 今は八重山毎日新聞一紙だけ届けていただいている。朝、5時に届けてくれるので実に有り難い。といっても日によって遅い日もある。今はすぐに新聞を広げて、昨日のコロナ患者数を確認する。石垣島では昨日は46人の感染者。一向に減らない。本当に危機的状況にある。にもかかわらず、20日に蔓延防止を解除と言うことである。

 コロナ対応が失敗している。沖縄全体では減少してきているが、石垣島では一向に感染者が減らない。減らないどころか増えてきている。失敗しているにもかかわらず、市長は十分な対策によってコロナが抑えられていると、選挙カーで街宣していた。このままでは選挙でさらに増えるだろう。前回市長は宮古島の汚職で逮捕された前市長の選挙の応援で宴会に出て批判されていた。

 小田原に住んでいたころも、八重山毎日新聞は定期購読していた。新聞を読んでいると、石垣島の情報がよく分かり、このコンサートに合わせて石垣島に行こう。熱研の研究発表会に合わせてゆこう、などと計画を立てて夢を膨らませていた。これが何とも楽しいもので、石垣島に引っ越す決め手になった。

 御陰で、石垣島に引っ越す前から、石垣島生活での必要な知識は充分に持つことが出来た。「視野は世界 視点は郷土」というのがこの新聞の方針として一面上部に書かれている。確かにその通りで、日本中の新聞がそういう物であって欲しい。八重山毎日新聞が無ければ、石垣島は指針を失うだろうとさえ思う。

 地方に移住を考える人は、まずその地方の地方紙を購読すると良いと思う。その地方の空気が新聞から伝わってくる。石垣島に良い新聞があったことは幸運なことだった。残念ながら市長がこれほどひどいとは来てみて分かったが。何しろこの市長は小田原市の加藤市長の市政演説を丸写ししたぐらいの人だ。

 島の行政というものは汚職をしやすいものだ。その監視が充分されないと必ず汚職をすると考えておいた方が良いくらいだ。島という小さな世界に大量に公金が流れ込んでいる。多くの島が公共事業で成り立っているからだ。人間関係が濃いから、汚職が起こりやすい環境の中にある。市長は汚職を生み出す業界から選出されている。

 今回、隣町の竹富町の町長が汚職で逮捕された。石垣島市長とは盟友である。1年前には宮古島市の前市長が逮捕された。この3人は自民党の同じ穴の狢では無いか。私は石垣市でも同様のことが起きていると想像している。なぜならば、あり得ないような自衛隊の誘致や、あり得ない自然破壊のゴルフリゾート、あり得ないスーパーシティー構想、あり得ない珊瑚礁の海へのポンツーン浮島の建設。

 次々に民主主義を逸脱した形で市長が先導して、誘致が行われている。問題なのはその理由の説明が一切ないことである。古くさい手法の土建的観光開発。そして市有地が勝手に提供されている。こんな馬鹿な話はないと、住民の若い人達が立ち上がり、住民投票をしようと言うことになった。ところが、3人に一人が署名して要求しても、これも拒絶である。そして、その根拠となった住民投票条例を削除してしまった。

 その流れを見ていると、何か背後に利権構造の後ろめたいことが存在しているとしか思えない。証拠も無いのにこういうことを書くのはいかがかとは思うが、やましいことが無いのであれば、住民に詳しくその事業の恩恵を説明をすると思うのだ。ところがどの計画も説明は一切無い。国の専権事項に口は出せないなどと、デタラメな言い方で説明もしない。

 新聞は大抵の新聞を一通りネットに出ている範囲で読む。最近は記事の前半だけが読めるようにしてある。おもしろくなってくる辺りで、有料読者のみになる。最初はこれが不愉快だったけれど、今ではそれくらいが丁度良いと思っている。肝心の所は自分の頭で考えることができるからだ。

 お金を払って読むのは八重山毎日新聞だけで十分である。あとはネットの新聞の見出しをちょっとを読めば、十分すぎるくらいである。ネット新聞では報道は現在何を着目しているのかが分かる。新聞が関心を持っていることが分かる。これは確認したい。調査報道を探している。

 この興味を引きそうな前半部分を書くという妙な文章構成が新聞の今時の文章になっているのだろう。こういう文章の書き方では、調査報道どころではないだろう。ネットとお金が結びつくと、何もかもゆがめられてゆく気がしてならない。必要な良いものが歪まないですむ社会にならなければならない。

 新聞が本当の意味で調査報道をしているのであれば、警察とは違う形で問題を取り上げることが出来るはずだ。沖縄列島に自衛隊基地の配備を進めていることと、アメリカの対中国の軍事戦略の関係である。必ずアメリカに指示をされて行っていることだ。それが日米安保条約である。この闇に光を当てるが、調査報道では無いか。

 沖縄列島に敵基地先制攻撃ミサクルを配備して、沖縄を犠牲にしてアメリカを守る軍事作戦である。離島の住民の命を人間の盾として使う作戦である。こんなデタラメな作戦に宮古島市長は汚職をして従った。石垣島市長中山氏も同じではないかと、そうでなければ市民の命をこれほど軽視するはずがないと思う。

 今どんなことが新聞には掲載されているのかが分かればそれでいい。コロナ報道で、新聞というものはコロナに関して主張が無いと言うことがよく分かった。科学的な知識と見識が不足しているのだろう。日本が鎖国を未だに溶かないことは非科学的なことである。新聞には鎖国は終わるべきだと、科学的に指摘する能力がない。

 資本主義経済の限界がこの辺りで現実化している。アメリカでも民主主義がトランプ主義に変わった。さすがに余りにひどいので揺り戻しが起きたが、アメリカの民主主義もかなり危ういところに来ている。競争主義の限界が独善政治になったのだ。

 一方、ロシアのプーチン、中国の習近平は権力を一人に集中させ、民主主義を後退させている。報道を見てみるとよく分かる。権力批判をすると逮捕されたり、殺されたりしている。どれほど良いと思われる政策であるとしても、かならず3分の1くらいの人は反対するのが、人間社会の普通のことだ。

 反対意見がどのような形で尊重されるかが民主主義の大切なところだ。反対意見を言えないというのは一番悪い。反対意見を取り合わないというのは次に悪い。反対意見をこそ十分に審議するのが、民主主義だ。賛成意見はそもそも議論する必要が無い。

 新聞のことだった。今の新聞は見出しぐらいしか読む価値がないものが大半である。調査報道がほとんど無い。多くの報道が保守化している気がする。少数意見の権利を報道が保障しなければならない。ところが、少数意見を採り上げていては商売にならないと、報道まで考えているのでは無いだろうか。

 報道にも経営はある。たぶん新聞も、テレビもその経営によって間違ってゆくのだろう。社会を先導する役割を失うのだろう。行き詰まる競争主義社会は経済競争で何もかもをだめにしていく。自分たちでその枠の外に行くほか無いのだろうか。


 
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月刊やいまに絵と文章を載せてもらえる。

2022-02-18 04:01:56 | 水彩画


 今度南山舎の「月刊やいま」という雑誌に隔月で絵を載せてもらえることになった。この雑誌はイエローブック八重山という内容のものである。普通のタウン誌というよりは、八重山の文化情報誌と言う感じである。南山舎は出版社としても充実した本を多数出版している。

 石垣には文化的な活動が根付いている。文化が生活に根付いていて、石垣の文化を守ろうという意識の方が多数存在する。そして地道な文化活動が長く継続されている。金沢と小田原と比較することが出来るが、石垣の方が地域文化に対する思いがみんなの中に強いと思う。

 ここに石垣で描いている絵を掲載させてもらえないか、南山舎にお願いをした。材料をそろえて提案させていただいた。その間にのぼたん農園を始めることになり、ただの石垣の風景を載せていただくよりも、八重山全体の田んぼを中心にした農業の風景を載せていただけないかと考えている。

 石垣島で農業の風景は美しい。日本全国農業の場面を描いて歩いてきたが、石垣島ほどの美しい農業が作り出す風景の場所は少ない。石垣島という美しい場所に、織り込まれるような農業がまだ残っている。といっても危うくなっているのは、他の伝統産業と同じであるのだが。

 この美しい農業風景を何とか残すことが出来ないか、あれこれ考えてきた。まず、石垣島の人達に石垣島の農業の風景は、どこよりも美しいのだと言うことを知ってもらいたかった。石垣島の田んぼはとても美しいと。ところが、出会う島の人に特別な田んぼだと話してきたが、そう考えている人にあったことがなかった。

 他の地域のたんぼとどこが違うのかと、かえって驚かれるのが普通だった。他と同じでは無い。石垣島にしか無い、独特で貴重な田んぼがある。それは田んぼを長年やってきて、全国の田んぼを描いて歩いたから、こそ感じられることなのかもしれない。

 そんな田んぼは与那国島にも、西表島にも、小浜島にもある。湧水で作られた田んぼというものは湧水を生かして溜め池がつくられる。そして田んぼは地形に沿って作られて、少ない水が最大限に利用されている。その水の最大限の生かし方が特別な田んぼを作る。3000年前も今も少しも変わらないことだろう。その古い時代の形が残っている。

 合理的に田んぼを作ろうとすれば、昔ながらの棚田になる。大規模農業の大型機械利用の都合という、田んぼ側の耕作の都合で大きな土木工事をして、耕地整理をしてしまえば、風景を壊すことになる。実際にこうした耕地整理の工事が石垣島でも進んでいる。

 残念なことに、自然に織り込まれたような田園風景は日本全国では惜しまれることすら無く、急速に失われている。かろうじて棚田が観光名所になり、残っているところはあるが、残念なことにそこには生活との繋がりが失われている。都会からのボランティアに支えられた田園風景では空気感がどこか異なる。

 農の会で田んぼを作っていると、こうした美しい田んぼが出現する。自分たちの作りやすいようにやれる範囲で田んぼ作りをしていると、何故か美しい風景が出来上がる。この美しい風景には何かがあると絵を描いてきた。そして、農業風景を描き続けてきて、見えてきたのは、農業は風景を作り出すと言うことだった。

 最初は耕作放棄地に惹かれた。人間の営みが自然に戻りながら、自然に溶け込んでゆく姿だ。ところがだんだん放棄地を描いている内に、農耕地の中には充分に耕作されて美しい田んぼがあると言うことが分かってきた。それから全国の農地を描くようになった。

 田んぼを作ると言うことは自然の条件に人間の側があわせると言うことである。しかも田んぼは何千年も同じ場所で継続できる農業の形なのだ。だから田んぼがあれば人間はその場所で生きて行ける。人間の営みが自然の中に織り込まれると言うことが、どれほど素晴らしいことなのか。

 太古のままの自然ではなく、人間の暮らしが自然の中に織り込まれて出来る、その場所の生かされた自然こそが、田園風景である。人間のいる風景。今後も何千年もこのまま暮らして行ける安心立命の景色である。人間が暮らすという原点の景色が田園の風景。

 八重山にはまだそんな風景がいくらか残されていた。それで石垣島でこの後は絵を描こうと考えた。そしてのぼたん農園を作りながら、自分も何千年も続く風景を作り出そうと考えた。実はそれは後水尾上皇が江戸初期に作った修学院離宮に習った、常民による自給のための農園である。

 巧みな徳川政権による日本統治により、天皇としての権威も権力も奪われ、危機感を持った天皇が文化を持って日本を表し、残そうとしたものが修学院離宮だと考えている。今日本の稲作農業は危機を迎えている。大規模機械化農業になり、まるで工業品のようなお米になりかかっている。

 稲作文化により生まれた日本人というものが、完全に失われつつある。日本文化を尊いと考える一人として、何とか本来の田んぼを残したい。自給することで生きて行けるという原点を残したい。食料は工場で作られるものではなく、自分の手で自然と折り合いながら、作るものである。この自給の思想を自覚できる場である。

 自給のための田んぼは風景を美しく作り出すものでなければならない。その意味を絵にしているのだと思っている。だから、南山舎に絵を載せていただけるようにお願いした。幸いなことに載せていただけることになった。精一杯やらせて貰いたいと思っている。

 心配なことはある。私の絵を見てこんな場所があるのかと探されても少し困る。こんな場所は確かにあるのだが、心眼で見ないとその風景は見えない。石垣旅行から帰り、心の中に残っている風景と私の絵は近いはずだ。私の描いた海の方が、写真でとった石垣の海よりも、きっと石垣の記憶の海に近いはずだ。

 西表の半分自然に飲み込まれた耕作地の姿、小浜島の祈りの場に連なるような田んぼ。石垣の牧草地の光の満ちあふれる緑。与那国の湧水で作られる天水田んぼの貴重な姿。そこには人間の営みが見える美しさがある。行ってみてその姿を見るためには心眼が必要になるが。

 そうした風景をその美しさを知ったものは、そこは指さすだけで良い。ここが美し場所だと指させば十分である。そこにある美しさの本質は、海を描くだけでも伝わるのが絵である。空を描くだけでも良い。そこにある1本の木を描くのでも良い。

 そこにある人間の暮らしを反映した何かが伝わるものを描きたい。のぼたん農園を作りながらそういう思いを強くしている。多くの方との出会いで、のぼたん農園を作らせて貰っている。自分が始めたことではあるが、このように進むことは何かに従っているような気持ちがしている。

 
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田植えまでの事前準備

2022-02-17 04:25:39 | 楽観農園


 田んぼを均している所、初めての田んぼで石もまだまだある。代掻きも充分に出来ていない。入水口から水尻にうまく水が落ちるようには成っていない。田んぼを平らに整備するのに苦労をしている。2本の鉄の角材を使いトラックターで引いて調整した。

 それでもまだ平らにならない。ガードレールを借りてきたので、それを畦から引っ張ってみるつもりだ。土が軟らかいのである程度ば動くような気がしています。もう少し平らにしたいと言うところです。それにしても連日雨で乾くことはなさそうです。

 私の体力がどうも落ちてきていて、トンボで土を動かすだけの体力が無い。他の人は初めての人なので、トンボで土を動かすという感じがどうもうまく伝わらなかった。今年は初年度だし、少し苦労する田植えになりそうだが仕方がない。

 連日の雨で水を抜いているのに田んぼが乾かない。乾かないと線が引けない。15日に水を抜いた。すこでも排水が進むように排水口を調整した。十分とは言えないが、できる限りの排水作業を進めている。雨がこれ以上降らないで貰いたいが、田植えまで雨続きとの天気予報。しかも、日曜日の田植え日は暴風雨の予報。これは苦戦。

 そこで緊急時の予備的な案として、紐を持ってた上をする方式を同時に準備することにした。一つの田んぼが6メートル幅だから、19本苗は植えられる。両端の人が縄も担当して、一回一回みんなが植え終わったら、前に30㎝移動する。大変だが線が引けない場合はこのやり方で行く。子供などは間に入って貰う。

 一つの田んぼに6人で並ぶ。一人3本平均植えればいい。これで33m進む。2時間30分あれば終わると思う。となると、田植えの参加者は24名と言うことになる。雨であれば参加者はそこまでいないかもしれない。今のところ何とか参加希望者が結構いる。初めての人がどこまで出来るかが課題だろう。

 何とかガードレールに期待している。あと5日間でどこまで田んぼの土が固まるだろうか。石垣島の土は乾けば、カチカチになり、代掻きをするとドロドロになってしまう。この状態に成れて対応力を高めないとならない。乾くことは雨続きで無い。土がどの程度硬くなるかである。

 苗取り後から、田植えまでは短時間で終わらせないとならない。苗取りを終わった苗は時間を空ければそれだけ弱る。短時間の内に田植えをしたい。昔は早朝苗取りをして、そのまま田植えをしたという事である。苗を抜いてから乾かしたら、苗の活着を悪くするばかりだ。雨ばかりだからその点はまだましか。

 田植えの事前の準備はとても大切になる。田植えに集中して良い田植えになるように、あらゆる事態を想定して万全なものにしたい。まだやれることはあるはずだ。田んぼによって、天候によって田んぼの土の状態は様々になる。石垣島ののぼたん農園土はなかなか手強い。まだ把握が出来ていない。

 石垣島の土壌は浸透性が無いから、どのように水を抜くかが、先ずは重要である。水を抜き、線を引き、田植えをする。田んぼの入水口と、水尻をもう少し差を付けなければならなかった。今回は仕方がない。そして田植えが終わりすこしづつ水を入れる。天候によってはすぐにも水を入れなければならない。苗が良い状態で活着するように進める。

 今回の苗作りは1月の苗作りということで、初めての経験である。温度を考えれば、石垣島では15度以下の日は滅多にないのだから、いつでも苗作りは出来る。ところがこの時期の石垣島は梅雨時のような天候になる。とくに、今年は苗が育つ五週間の間に、晴れたという日は数日に過ぎなかった。雨がともかく降り続いた。

 雨が多かったので、田んぼを作り上げるためには良かったのだが、その間苗床の苗は日照不足で弱々しいものになった。初めての苗代と言うこともあり、肥料が足りないと言うこともあるのだろう。直播きの方はまだ良いのだが、苗代の苗は不十分である。

 苗代の苗は不足気味の肥料の奪い合いが起きているのだろう。その上に雨が降り続いていて、日照が不足している。直播きの方が良いと言うことなのかもしれない。真剣に直播き栽培のことを考えた方が良さそうである。

 雨ばかりと言うことと同時に、さすがに南の石垣島でも1月の日照時間は短いと言うこともある。小田原の5月に競べて日照時間はどの程度短いのかを調べてみた。小田原の5月は14時間が昼間。石垣島の1月は11時間。これは問題にすべき3時間の昼の長さの違い。その上に雨ばかりであれば、苗作りは又別のことになる。

 これでは苗の生長が後れるのはむりもない。来年は六週間の苗作りにしなければ、5葉期まで進まないと言うことのようだ。むしろ全体を直播きにするほうが、気候に合っているのだろう。今年実験した直播きが成功している。もちろん初めての年で雑草が出ないためである。

 来年どの程度雑草が出るかが課題になるのかもしれないが、ある程度は草が出るだろうから、この点をどう克服するかだろう。条間に早めにコロガシで入れば何とかなるのかもしれない。苗取りと、田植えが無くなって、その分草取りが必要になるかもしれないが、それでも随分省力の田んぼになる。

 19日の午前中に苗取り。人数次第のところがあるが、10名の参加で、一部が午後にずれ込むぐらいになる気がする。苗取りが大変なのは直播き部分の苗を間引きすることだろう。残す苗の見方が分かりにくいから、ここは私が引き受けようと思う。

 苗は混ざらないように、田んぼ毎に苗取りを決めた方が良いだろう。苗が混入すると、種籾がとれなくなる。苗を入れる箱を分りやすく3つ作る。箱にマジックで、ハルミ、サトジマン、トヨメキと書いておく。苗取りには座る椅子が必要だ。

 午後から線引きになる。雨次第だが、場合によっては田植えの日の早朝から引くことにする。その方がまだ、雨で引いた線が消されることが少ないだろう。線引きはとても良いものを阿久津さんが作ってくれた。深く引けそうだから何とかなるかもしれない。

 線を引く前に田んぼをきれいにしなければならないかもしれない。ガードレールを借りてきたので、岸から紐で引っ張ってみた。これは今日やるだけやってみるつもりだ。土が軟らかいのである程度は出来るかもしれない。

 上にあるガードレールを外して使うというのはだめなのか。今度機械小屋を作るときにガードレールは外すことになる。そのガードレールはもらえないものだろうか。ガードレールほど田んぼをなめらかにするものはないと思う。あの形状が良いのだろう。

 
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魂を手の平に載せる

2022-02-15 04:35:07 | 暮らし


 「魂を手の平に載せる。」こんなことを書くのはちょっとおかしな奴だなと思われる。動禅をしながらそういう意識で動いている。特に太極拳から立禅は、手の平の上に脳が移動したような気持ちで動くように努力している。おかしな事と自覚してのことだが、どうもそれから気持ちの一歩前進を感じてきている。もしかしたら、老化現象か。

 こうした論理を越えたような考え方は嫌いなのだが、そもそも脳で動いている人間が、無念無想になるという状態が論理を越えているのだから仕方がない。脳に空の状態は無いだろう。脳が反応を停止した状態と言えば脳死状態である。生きていれば脳の活動は続いている。

 ボディービルダーが筋肉を鍛える際、鍛える部位の筋肉を意識して、動くと言うことを言っていた。そうしないとその筋肉が大きくなってくれないらしい。意識と肉体はどこかで連携しているのだろう。意識を手の平に移動することは出来る。意識を集中してゆくと脳が手の平にのっているかのように妄想できる。

 気の流れを巡らせるとか言われるともうそれだけで嘘くさいものと決めている、にもかかわらずである。手の平に意識を集中している内に、自分の魂を手の平に載せるような感じになったのだ。どういうことだろうという不思議を味わっている。

 手の平の感覚に集中して感じられるようにしてみた。手の平の皮膚感覚だけになる。そしてその手の平に球がのっているという感じを味わう。その球を乗せたまま両手を静かに動かす。球を手の平に載せたまま移動させている。載せたと言っても重力とは関係ないから、下向きの手の平にものっている。

 こんなことを始めた理由は動禅を、目を閉じて行っていることに始まっている。眼を閉じたまま動く理由は眼を空いていると眼に頼って動いているからだ。眼がバランスをとってしまうからだ。眼を閉じて動くと、身体の動きがよほど安定して動かないと、大きく揺らいでしまう。

 体操ではうまく出来ないと言う事がとても大切なことだと感じている。上手くゆくことよりも、上手くゆかないことに自分を深化させる何かがあると考えている。眼を開いてやるより、眼を閉じて行う方が意識の集中が増すと言うことも、大切だと思っている。

 眼を使わないで、身体の動きを身体の感じる感覚で、身体の安定した動きを出来るように努力している。その方が体幹が安定してくる。眼を開いてそれができる人は、眼は開いているが、見ていない半眼の状態を確立している人だ。これはすごいことだが、私には出来ない。絵を描いているときはそんな状態。

 動禅における半眼は出来ないから、眼を閉じて行いいつか半眼の状態にいたろうと努力をしている。眼を閉じて動くときに、脳の判断で、脳の感覚で当然安定をとろうとする。それを脳が手の平の上に移動して、身体の安定を計ろうとするように、意識をするようにしてみた。もちろん頭の中に脳は残っている。

 この辺りから、もう陽名時太極拳を離れたのだろうと思う。正直、太極拳ですら無いのかもしれない。太極拳も中国のものを見ると、もうその面影すらない。ともかく動きが速い。曲芸的動きが取り入れられていて、精神の集中という意味は薄く感じる。

 そもそも健康体操というものは自分が幸せに生きるためのものだ。自分にとって良いものは自分にだけ見付けられる。どれほど陽名時太極拳が優れたものであるとしても、私流の動禅が私に合う。私の身体がそう反応している。そのことは100まで生きて、素晴らしい絵を描いて証明したい。

 楊先生は大人だと思う。人間力の底知れない力が周囲に発散されていて、別格の人だったと思う。そうした人はたまにはいるが、凡人にはたどり着くことの出来ない、ある種の仙人だと思った。そういう人を見ることが出来たことは幸運だった。

 そうした別世界の無念無想の太極拳ができる人の真似をしてもとうてい無理なことだと考えている。真似だけしていているとおかしなことになりかねない。凡人は凡人なりにやれることがある。別格な人の真似をするよりも、凡人流を考えた方が良いという考えに至った。

 その昔、座禅が自分には出来ないと考えたことと同じ道である。どうしても無念無想になれない。命がけで座っても出来ない。無念無想がどこにあるのか、やればやるほど自分が情けないものに成るだけだった。これ以上続ければ鬱になると思えた。

 禅僧の中に無念無想の領域いると思えた人を見たこともない。自分の傲慢が眼を曇らせたのかもしれない。無念無想で座禅をしている人がいるのかどうかさえわからないままだった。つくずく自分がだめな人間だと自覚して座禅の世界を離れた。

 そこで、ちゃちなものでも自分流でやるほか無いというので、たどり着いたのが、目を閉じて行う動禅である。簡単に言えば太極拳の説明から「気」という言葉を取り除いてみた太極拳である。気という言葉を使えば大抵のことの説明がついてしまう。

 西洋科学の思考法で気というものを無いことにして説明しようとすると、なかなか難しいことになる。気を丹田に集める。こんな風に言えばなんとなく分かるような気になる。しかし、本当のところ何を丹田に集めるのか。そもそも丹田とはどこなのか。論理を越えていて曖昧模糊としている。

 丹田は臍の下の奥辺りらしいがそんな臓器はもちろんない。落ち着く意識の場所と言うことぐらいだろうが。想像の世界の丹田に、想像の世界の気を集める。これでは私には納得が行かないのだ。別段納得などしなくても良いのだが、気を止めたらどういうことになるのかと言うことは考える。

 手の平の感覚に意識を集中してゆく。目方のないソフトボールが載っていると考えても良い。ソフトボールよりもドラゴンボールの方がそれらしいかもしれない。自分の脳が載っていると考えてみた。そうしたら手の平に乗っかった脳は何も考える能力がない。反応だけのものに近づく。手の平の脳は思考できない。

 手の平の脳は左右に分かれて、あちこちに動く。動きながら身体の動きをつかさどり、安定化を図る。これは気を考えるよりは自分の身体的に納得したようだ。こうして我流インチキ太極拳をやっている。どうせ自分だけのものだ。どんなインチキでも自分のためになれば、人まねよりはいい。

 太極拳というものは、動画で見ても一体何なのか分からないものだ。生で見ない限り、太極拳の意味は分かるはずが無い。実は映像に映っているのはほんの一部のものに過ぎない。一部であるからむしろ誤解することになる。映像は危険である。

 海竜社判の陽名時八段錦・太極拳にはイラスト画がある。このイラストはすごいものだ。佐藤喜一という方が描かれている。その一つの動きのイラストはその時の動きの力の入り方がよく分かるのだ。この本でなるほどと理解できた形が多い。

 魂を手の平に載せたつもりになって動いたために、なぜか動きが安定したのだ。具体的に成果が生まれている。ここが大事だと思う。気持ちの持ちようは大切だ。特に健康で生きるためには気持ちが何より大切である。
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憲法裁判所の必要性

2022-02-14 04:50:00 | Peace Cafe
 

 立憲民主党は国会における憲法審査会論議に入らなければならない。ただ一つの条件は憲法裁判所の設置を議論することが約束である。憲法の議論を立憲民主党が避けているという報道各社の主張は、表面だけを見て政権に忖度している御用報道に過ぎない。この忖度報道を信じては成らない。

 現在の自公政権では、平和憲法は限界を超えた拡大解釈が政権の都合で行われている。どのような観点からみても、敵基地攻撃ミサイルの配備は憲法違反である。この平和憲法を完全に逸脱する拡大解釈があまりにもひどい。特に公明党は平和の党の看板を下ろせ。

 多数の国民が敵基地攻撃ミサイルはさすがに憲法違反だとは考えている。残念なことに、中国の覇権主義を前にしては憲法違反も仕方がないと考えているのでは無いだろうか。そこに自民党政権の世論に対する誘導がある。中国の危険を尖閣諸島を問題化して、わざわざ緊迫化させている。

 何しろ、石垣市長選挙では中山市長が自分の市長選挙を控えた時期に、わざわざ問題を起そうという尖閣諸島の調査と称する挑発を行ったのである。もし中国がこれに反応すれば、中国は危険だ軍備を強化するという、中山市長が選挙に有利になると考えている。

 この極右と言えるような人間を推薦する公明党は敵基地先制攻撃のミサイル基地を良しとしているのか。何というデタラメな公明党か。石垣市公明党は自衛隊基地にも、当初反対をしていた。ところが今は完全に自衛隊賛成はになった。一帯何が起きているのだ。

 憲法について、客観的に議論して判断する第3者機関がない。内閣法制局が一応その任務を行っているのだが、その人事は内閣総理大臣が行う。これでは法制局はただ内閣の意向を汲んで追認する機関である。この期間に憲法解釈を委ねるのは間違っている。

 最高裁が憲法違反を審査する機関ではあるが、憲法そのものの議論は充分に行っている状況では無い。消極的に憲法違反になるかどうかを訴えによっては判断している。この先憲法を改正するというのであれば、憲法を尊重すると言うことなのだから、憲法裁判所の必要性は明確だろう。

 現在の自公政権は、自分の意向をくんでくれる内閣法制局の人事を行うだけである。菅氏を見ればよくわかることだ。官僚の中にはどんな拡大解釈でも許容範囲とする人はいる。何しろ公文書の書き換えを命ずる局長すらいたのだ。そういう人が出世する誠治の風潮なのだ。

 官僚の一番の興味は出世である。そうでない人も当然いるが、今の時代そういう人は早々と官僚をやめるらしい。あまりの官僚世界のひどさに耐えられないのだという。我慢している人は出世をあきらめざる得ない。上に立たなければやりたいことがやれない組織が官僚の世界なのだろう。

 となると、内閣の意向をくんで、どんな憲法拡大解釈でもします、というような人が内閣法制局長官になる。そうでない人がなればすぐに変えられてしまう。だから、敵基地先制攻撃ミサイルが憲法違反ではないというような驚くべき解釈が出現する。

 さすがにこういう憲法解釈は90%以上の憲法学者が間違った解釈だとしている。しかし、今度はそういう憲法学者は学術会議の任命を拒否する。こんな歪んだ状況を認めていれば、日本自体が偏向した国になってしまう。

 大いに憲法論議はしなければならないが、その前提として憲法裁判所を作ることを約束すべきだ。約束までは出来ないとしても、憲法裁判所の是非を議論することは当然行わなければならない話だろう。個々で判断して正しいと言うことなら、受け入れる気持ちにもいくらかなるだろう。

 しかし、世間のほうも国際情勢から敵基地攻撃も必要なら仕方がない。憲法がおかしいならゆがめるしかないぐらいの感触のようだ。極めて危険な状況が迫っている。台湾有事は現実的な視野に入ってきている。敵基地ミサイル基地は石垣島の住民には命に関わることなのだ。

 今のままでは法治国家とは言えない。万引き犯人が生活ができないからこのくらいは、犯罪のお目こぼしが必要だというような拡大解釈をしているようなものだ。石垣島では市長が市民の要求の自衛隊基地の是非の住民投票を拒否して、住民投票条例を削除してしまった。

 憲法を改正したとしても、解釈がでたらめであれば、憲法という絶対的な法律が、安定しないものになる。憲法改正も必要ならばすればいい。しかし、憲法の拡大解釈などできないことにしなければ、そもそも憲法を審議する価値もないだろう。

 だから憲法をどうするかの大前提は憲法を絶対に守るという国民に対する約束である。政府は政治を憲法に従って行うと誓わなければすべての前提が崩れる。そのためには人事で憲法を操作するようなことではもう大前提が崩れているのだ。

 まず憲法裁判所を作り、憲法違反が行われていないか、客観的に複数専門家に判断してもらうことだ。その人事は内閣が操作できないようなものにしなければならない。もちろん憲法裁判所判事は国民審査が必要になる。

 日本は三憲分立の民主国家である。憲法裁判所がないこと自体がおかしいのだ。憲法を絶対的なものにするためにも、憲法裁判所を作る必要がある。この大前提なしに、憲法審査会どころではないだろう。なぜ立憲民主党はそのことを主張しないのか不思議でならない。

 もしこのまま、審査拒否をしていれば立憲民主党は存在価値がなくなる。私は立党以来期待して支持してきているが、この点最近不安を感じている。支持母体である連合もいよいよ自民党支持に舵を切りそうだ。野党各党もここは根本から姿勢を変えなければならない。

 大阪では医療体制がグタグタになってしまった。行政がコロナの最中にベット数の削減を進めているのだ。保健所も4分の1まで減らしたという。そのために職員の仕事がこなせなくなり電話確認も出来なければ、患者の記録への書き込みすら出来なくなっている。

 維新の党が行っていることだ。弱者切り捨てである。政治の今の流れを変えない限り、日本の貧困層は医療にもかかれないような国になるだろう。富裕層に支配される不愉快極まりない社会になる。野党が右翼である。公明党をふくめて、利益に吸い寄せられる野党が日本をだめにしている。

 こうした新しい自体に対して、立憲民主党は正しい方向を示して貰いたい。連合頼みではなく、市民組織を作り出さなければだめだ。組織を再編して行かなければならない。

 
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第95 回 水彩画 日曜展示

2022-02-13 03:57:47 | 水彩画
第95 回 水彩画 日曜展示






617「月の溜め池」
2022.2








618「のぼたん農園」
2022.2







619「月の溜め池」
2022.2







620「崎枝半島」
2022.2







621「雲湧く」阿蘇高森清栄山
2022.2







622「楽観園」
2022.2







623「仙酔島」
2022.2







624「向昌院の夜」
2022.2






625「鳥海山」
2022.2








626「傾斜地」
2022.2








627「のぼたん農園」
2022.2


 今回の作品はかなり冒険的なつもりだ。これでいいのかはよく分からないまま掲載してしまった。良いところもあるからだ。どこかまだかもしれないが、ともかく何か良いところがあるから、これでもいいのかもしれないとしたものがある。

 絵の終わりというものがどこになるのかは難しい。どの課程もその絵である。描けば描くほど近づくこともあれば、描くととんでもないところにすべてが消えてしまうこともある。だいたいは何度もだめにしながら、目的に近づいてゆく。

 経験的にだめを繰返しながら、良いかなに近づく体験をしてきたからだろう。今回はだめをだめのまま生かして描いているとも言える。もう一度自分でも眺めて、判断したい。絵が少し動き始めているような気もしている。大切なところかもしれない。



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