地場・旬・自給

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格差社会

2006-05-31 05:47:29 | Peace Cafe
突然この言葉で、小泉内閣は叩かれ始めた。格差社会という言葉自体は、昔から使われてきた言葉だ。しかし、どちらかといえば、戦後、日本の社会に格差が無くなったという意味で、取り上げられる事が多かったように思う。若干弱り始めた、小泉内閣に対して、尻馬に載るように、水を得た魚のように、登場した「格差社会」。「言葉の力・言霊」を見る思いだ。

4ヶ月前ほどから、突然、この言葉が耳につくようになった。誰か仕掛け人がいたのだろう。
小泉内閣を叩こうとした者は、全て、逆に叩き潰され続けた。報道もこの力を恐れおののいたように、用心深くなり、身を潜め、様子伺いの状態に、陥行っている様だった。
イラク自衛隊派兵の頃からだろうか。反対勢力であることで、存在感を示そうとしてきた、マスメディアが突然、遠慮気味にしか物を言わなくなった。私の知るところでは、小泉首相の地元紙である、神奈川新聞が一人気を吐いているように見えた。マスメディアの不甲斐なさを、嘆く声をいつも以上に聞くようになった。

それが、待っていたように、噛み付き始めた感がある。「格差社会」この言葉の実感が国民の胸に、スーと入ってきた。構造改革の結果とは、格差社会の事だったのか。こういう事になっている。言葉は怖いものだ。こんなにも分かり易く、この言葉で、一くくり社会の状況が捉えられる事になった。

格差社会の意味するところは、所得格差のことだろう。不景気という事が言われて、10年以上が過ぎた。失業者が増えているということが言われて、10年以上が過ぎた。構造改革の結果、と不景気とは関係があるとは私には思えない。構造改革が言われる前から不景気だった。小泉首相が現れる前から不景気と言われていた。

「不景気が長らく続いたため、所得格差が生じた。」これが実態だと思う。批判する立場に立つものは、小泉憎しで、全て悪い事は小泉の責任にしようとする。正確さを必要にしない、そのとき、国民が一番実感している事を、一言で捉えるセンスが大事なようだ。

マスコミはどうしようもないと言う批判も、同じ感覚だ。マスコミは侮れるものではない。「マスコミはスポンサーの方ばかり見ていて、結果大企業の言い成りに成っている。」とかくこう言いたがる人が多いい。こうした一くくり論は、正確な力を備えた、批判勢力の成長にとって有害なだけだ。マスコミは国民を反映している。とだけは言える。国民の状況を先読みしながら、様子見の角を出している。

確かに、日本のマスコミに、強い主張を一貫して持ち、政府や国民の変化にも影響されない、哲学を維持している。こういうものは無い。これこそ、国民を反映している現われで、こうした国民は極めて少ない。こうした政党すら、少ない。

「格差社会」という時、私は所得格差にだけ目が行く、経済至上主義の方に、日本の社会の病巣の深さを感じる。格差というとき、気になるのは差別社会の傾向の方だ。この言葉が力を得た背景は、差別が生じ始めているからでは無いだろうか。「勝ち組」という言葉も聞くようになった。お金が全てに先立つ。この考え方も昔からあった訳だが、最近この考えが、恥じらいを失い、表面化してきたことは怖い事実だ。

金持ちである事に誇れるような空気への反発が、「格差社会」に込められているように感じる。
この言葉を仕掛けた人間が居るとしたら、すごい事だ。
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高病原性鳥インフルエンザ

2006-05-30 05:42:57 | 自然養鶏
茨城県を中心とした弱毒タイプの高病原性鳥インフルエンザについて

ア 今回の発生における処理羽数は合計約578万羽で、そのうち、家畜伝染病予防法に基づく殺処分羽数は約336万羽(38農場。農場監視プログラム下の抗体陽性農場5農場を含む)、農場監視プログラム下の抗体陽性鶏の処理羽数は約242万羽(8農場)であった。

イ 感染経路究明については、10月下旬以降、茨城県下で確認された32~41例目の検査結果、疫学調査結果等について検討を行った。その結果、一部の農場では、抗体とウイルスの検出結果に不自然な面がみられた。また、分離されたウイルスを用いた鳥類への接種試験の結果、本ウイルスの感染性は鶏で高く、アイガモに対してはないこと、本ウイルスは鶏に対する抗体誘導能力が高く、かつ、抗体持続期間が比較的長いこと等が明らかになった。今後はさらに、これまでに収集した情報の分析・検討、本ウイルスの性状分析、発生農場にみられる特徴的な要因の分析(ケースコントロールスタディ)などについて、引き続き進める必要があるとされた。

以上の2点が農水省から出された。このことが事実であるなら、不正ワクチン使用が、明確である事が、読み取れる。私が知る事を補足すると、野生のウイルスは鶏への感染力を持たない。それが、弱った感染しやすい鶏などに、たまたま感染し、感染の繰り返しが起こると、10代ぐらいの連鎖で、鶏から鶏への感染力を獲得する事になる。

今回の事件では、当初より、感染力が極めて高く、人への感染すら、90人に及んでいる。(このことは改めてまとめたい)これは、野生のウイルスでは考えられない事で、なぜこういうことが起きたのか。不思議な事だ。そこで、不正ワクチン説が浮上した。

ワクチンを使いたいと言う話は、養鶏業界から、繰り返し要望が出されている。しかし、これは禁じられている。何故か。2つ推測される。メキシコのように、10年間もワクチンを使っている国がある。こういう国を、日本は汚染国として、輸入を禁じている。日本でワクチンを使えば、この論理が通用しなくなり、鶏肉の輸入によって、日本が汚染される恐れがあると、考えている。肉や卵からの感染は無い、と一方で言いながら変ではあるが、輸入禁止している。

もう一つは、ワクチンというものの安定性に問題がある。今回、不正ワクチン使用が、発端であったとしても、なぜ、ウイルスの検出が、10以上の養鶏場で起きているか。これは、ワクチンを使ったために発病した、と言う事を意味する。こんな事はありえないとしていながら、現実には起きている。発病はしたが、病状は現れていないのは、弱毒タイプのウイルスであるためだ。これが、もし、強毒タイプのウイルス株であったら、眼も当てられない事態に進展していただろう。

ワクチンは抗病性を高めるため、ウイルスを不活性化し、対象の家畜に感染させ、抗体を作る方法だ。自然界の動物では、野外毒から、感染し、発病せずこうびょせいを獲得する。自然界で起きていることを、人為的に起こそうと言う事だ。家畜を飼うということが、どんどん野外毒から遮断する方法に変わる中で、家畜その物の持つ強健性が必要なくなり、産卵性や飼料有効性などばかりが着目される。

その結果、自然界ではありえない人類にとって危険な状況が作り出された。極めてウイルスに弱い、生き物が、100万と言う単位でまとまって存在する。ここにもし、ウイルスが混入すれば、感染の連鎖が始まり、ウイルスは変異し、人への感染まで可能性が出てくる。こうして訳の分からない、恐ろしい病気を、畜産業は生み出すことになる。

私はこのことを恐れて、自然養鶏の本を書いた、鳥インフルエンザ問題が起こる前、ワクチンで病気に対応する畜産の危険を指摘していたが、今だこのことが理解されていない。確かにワクチンの有効性はある。しかし、家畜が野外と遮断しなければ生きられないほど弱くなっている中で、ワクチンで対応する方法がエスカレートして行くとしたら、最終的にはどんな事が起こるか、人類が滅亡するような手に負えない、危険な病原菌の出現に繋がるのだ。

ワクチンを一切使用しない養鶏は可能だ。私は20年間それを証明するため自然養鶏をやっている。家畜は小さく、自然に飼育できる範囲で飼うしかない。

不正ワクチンの使用問題だ。これは相当に包囲網は狭まってきた。ここで終わっていいと思う。問題は犯人探しではなく。ワクチン万能と考える事の危険が今回の事件で、充分身に沁みたはずだ。身に沁みてないか。
今回これほどの感染力を見せたウイルスが、自然養鶏を行う、放し飼いをしている養鶏場には、感染しなかった。
このことに着目して、その理由を検討する事が、次の対策であるはずだ。
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悪い景観100景

2006-05-29 05:28:38 | 環境関連
美しい景観を創る会が悪い景観100景を作った。これを、3年ほど前に、足柄地域でやろうと言う話があった。

足柄地域のこれからの方向を考えている中で、あっていいものと、あってはいけない物を、話し合っていた。「小田原の市民会館はよそに比べて、古くなっているけど、古いものをすぐ建替えないで、何とか使っていると言う事で、貴重な存在じゃない」とか、「ウイロウヤさんの、例のお城風の建物、あれは、要らないんじゃない」「なんかあの建物評価されて、賞をもらっているそうだよ」「最悪は西湘バイパス」「ソリャー、私も一票」大変盛り上がった。

景観権とか言われる事もあるが、風景をいつも描いている者としては、日本の風景を台無しにしてきた、高圧線と言うのには、実に腹が立っている。折角の場所に来ると、巨大な高圧線が、展望をさえぎり、不愉快な気持ちになることは、ままある。でも高圧線が好きだって言う人だっているのだろうから、景観と言うものは、主観的なものと言う面もある。

昔、桂林で、漓江(りこう)という河を描いていたとき、ホテルのいい位置に陣取って、七星岩と言う山を1週間ほど描いた。この場所は日本兵が住民の虐殺をした場所だ。水墨でやってみた。惹かれる場所で、飽きずに、描いていた。所がどうも、河の手前に、都合の悪い家があって、川がもう少し広いと、いいのにと思って、描いていた、朝窓を開けると、実に描こうとしていた様に、風景の方が変わっている。慌てて描いていたら、なんと、いらないと思っていた、家が流れてゆく。洪水だったのだ。家を取り除いて描いた。勝手な物だ。

眺めなど、大したことじゃない。大切なのは便利な暮らしだ。経済合理性のある社会だ。こう思う人も多いいだろう。電気の無い暮らしより、高圧線を眺めて暮らす。高圧線に慣れて、又いいもんだ、と思うようになれば良い。過去にこだわって、居るなんて、おかしいんじゃない。環境派のいうことは、経済的な観点が欠落しているんだ。こんな意見もあると思う。

私の宇都宮に住む、トンチンカンの叔母が、たまたま、箱根に来た帰りに、小田原に寄ったのだ、そうだ。何で家に寄ってくれればいいのに、と言ったら。小田原城には寄ったという。それがすばらしかったので、時間がなくなったと言うのだ。
あのお城が出来たのは私が子供の頃で、東海道線で、小田原を通る時は、必死で、窓から見たものだ。最近銅門というのを再建したので見たか。等、話していたら、城内の売店がすばらしい。並んで、薬を買った。と言うのだ。ういろう城に行ったのだ。

景観は実に主観的だ。好き嫌いの問題だ。
本当にそう言えるのだろうか。
東京都美術館が出来た時に、なんと情けない物ができたと思った。使い勝手も悪く。絵を飾る環境とは到底いえないもので、あんな物じゃ、貸し画廊なら誰も借り手は居ないだろう。
日本の建築のレベルと言うのは、こんな程度なんだなぁー、と感じた。もう、建て壊しをするらしい。なんで、40年持たない、美術館を建ててしまうんだろう。今六本木に建てている、国立美術館は大丈夫なんだろうか。せめて、200年ぐらいは使えるものじゃなければ、美術館の価値が無い。

江戸時代の日本の都市の美しさは、格別だったらしい。農村も、自然も、すばらしかったのだと思う。多分私の中にある、美しさの原型はそこにある。外に広がる事の無い社会。閉じた社会の中で、同じ価値観で、生きている社会。景観の統一も生まれたのだと思う。
隣が、ロココ風のホテルを建てたから、私は、コロニアル風の、住宅を建てよう。こうやって、個別にやって来たのだ。その結果が、今の足柄の景観だ。自分の家もでたらめなのだから、行政が、海岸を滅茶苦茶のする、とんでもない道路を作ってしまっても、仕方が無いのだろう。
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地域自給圏の構想

2006-05-28 05:49:16 | 里地里山
私が一人の自給の達成から始めた事は以前書きました。
一人が出来るなら、もう少し広げてみようと言う事が、あしがら農の会になりました。ここでは、自給の地域と言うのは、どのように考えるのが自然なのか考えて見ます。

昔から言われるのが、三(四)里四方の物を地の物というらしい。身土不二(しんどふじ)という考え方から来ている。中国から来た考え方のようで、身体と環境は不可分である。仏教的な考えのようだ。歩いて移動する前提で考えると、歩いて、3,4時間かかれば適度かと言う気がする。子供の頃、街まで行くと言って、朝出かけて、甲府まで行き、デパートなどを見て、親戚に寄り、お茶を呼ばれ、時には昼ごはんを頂き、家に帰るのが夕刻。泊りがけの距離は、どうも地域とはいえなかったとすれば、3,4里、自給圏の範囲はこんなものだろう。

これは私の暮らす地域でいえば、足柄平野、酒匂川流域と言う事になる。これを一地域と考えてみるようになった。そう考えて、過去のこの地域を調べるて見ると、「あしがら」と言う一くくりが、上手く出来ていて、物の流通や、生産は足柄を地域自給圏として、みていたことが分かってきた。勿論行政的な範囲というものも、あっての事だろうが、自然発生的に成立した物として、見たほうが、見えてくるものがある。

流域圏という考え方で、相模川、富士川、と考えてみるのも面白い、と思うようになった。その頃、神奈川県の広域化構想が出てきて、これが又同じような考え方で、驚いた。しかし、行政の単位とは別だと思う。小さい行政単位があり、これが連携するのが、流域圏であり、自然発生的生活圏である4里四方と言う事になるのだろう。行政は細かくするほど合理性のあるものと、大きくする事で出てくるメリットがある。これを上手く組み合わせるところが、大切なのだと思う。

酒匂川流域あしがら構想への思いは徐々に高まった。この地域を10ぐらいに分けて考えると、歩いて作業の出来る地域に分割できる。歩いて30分で田んぼや畑に行ける範囲。ここに、一つずつ共同の田んぼや畑が出来る事になれば、誰もが都合よく参加する事ができる。そう思ったのが、10年程前です。年に一箇所づつ増えてゆけば、いいと考えた。10年が経って、その下地は出来上がった。10箇所の田んぼはほぼ、地域に点在するようになった。

地域自給の機能の範囲と言うとどうなるのだろう。教育と言う事が大きい。特に高等教育を考えると、地域にはない。これを地域内に成立させる、仕組みが必要になる。教育の自給だ。地域に地域らしい高等教育を成立させてゆく事が、地域圏の成立に不可欠な事になる。文化的な地域の独立性の確保。これは営業的な大学が立地を求めて、進出すると言うのでは、これは大型店が、来たのとなんら変わらない事だ。むしろ、地域で学ぼうとする者が、必要な指導者を求めて、作る。高等教育機関では無いだろうか。

課題は街と言う存在だ。現在小田原の街が、この地域では大きい。しかし、形の崩壊が始まっている。街の意味の変化に、対応できていない故に、全国どこでも起きているように寂れてゆく。「中心市街地の活性化」ということが出てくる。
これほど愚かな考え方は無い。街の機能ということは、暮らしの変化とともに変って当然だ。各商業者の利害でだけ考えるから、活性化が前提になる。
行政の力がここに集中することになる。

地域自給圏を考えれば、地域の機能をどのように、分散してゆくかが、むしろ課題なのだ。暮らしの視線で、生活者の視線で、地域を見直す。これが地域自給圏構想には、不可欠な事になる。
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水彩人写生会

2006-05-27 05:47:06 | 水彩画
22日から、24日まで、志賀高原の木戸池で水彩人の研究会が行われた。
参加者は42名。内、6名が、水彩人同人の参加でした。
水彩画の研究会は、20回は主催している。その内の、10回もが、木戸池温泉ホテルでの開催だ。研究会を開く条件が、ここほどそろっている所は無い。そこで、研究会を開く、場所の条件をまとめてみる。

1、多様な景観がある。池、川、山、湿地、展望、平原、庭園、廃屋、ゲレンデ。無いのは海ぐらいだ。
2、雨の日も制作ができる。ボート小屋や、東屋がある。部屋や、ベランダから描く事ができる。
3、夜の研究会を行う場所がある。50人が集まり、絵が並べられる。スペースがあること。照明の条件がいい事。食堂で行うとなると、片づけが終わるまで時間がかかる。
4、安全の確保が、比較的楽にできる事。断崖や、危ない道路などが無い。
5、50人の人間が、一箇所に泊まれる。ホテルがあること。写生地から離れたところにホテルがあるのでは、無理がある。出切れば個室希望者には個室の提供ができる事。

以上の条件を満たしているところは少ない。それで、つい講習会を企画すると、木戸池になる。しかし、何度やっても木戸池でやって良かった。と必ず満足感がある。参加者から、不満が出たことは一度も無い。

水彩人の研究会は7回目になったと思う。水彩人は研究会を行う事が、規約で決まっている。普通の絵の団体で、研究会の開催が規約にあるところは無いだろう。それは、水彩人が、水彩画の探求を目的に出来た会だから、当然、研究会は始めから開く予定だった。

その前は、水彩連盟という団体で、講習会の開催を担当していた。ここで10回以上企画した。その経験を生かして、最高の研究会を開くべく努力してきた。例えば、指導する同人の存在。同人は制作を持って、制作の姿勢、姿によって、絵画する在り方を示す存在でなければ成らない。当然同人もそこで制作する。

参加者の絵を上手く解説して、問題点を気付かせる。こうした役割も当然あるが、絵画そのものによって、制作というものが何かを、気付いてもらう事が重要である。言葉では、誰だっておおよそのことはわかっている。問題は、何をどのように描くのか。むしろ、その人が何故絵を描いているかに、向かって行ってもらわなくてはならない。

技法的なことは、確かにある。こうしたことを教えるということもある。水彩画は、多様な手法が存在し、千変万化する中で、そのあらゆる可能性に自由に対応できる能力が、あることは、絵画する上で、大切な事になる。
しかし、そのことだけなら、どこかの教室で習えばいい。

私達は絵画そのものが、何であるかを、研究する場として、この研究会を開催して来た。だから、心の問題にぶつかって行く。大変失礼な、人格をきず付けているかもしれない発言が出たりもする。しかし、自分も同列に立って、絵画する真実を、探求してゆくという姿勢で、許していただいている。
参加者の絵が、どんどん変わってきた。このことだけは誰もが認めてくれるところだ。

さらに学ぶためには、何を行えばいいのか。その結論が、「しるべ展」と言う展覧会の開催でした。同人も含めて、描いた絵を作品化し展覧会として、並べる。そのことで、写生する。から、制作する。作品化するこのことに気付いてもらおうと言う事です。

その展覧会は、銀座月光荘で、6月27日から、7月3日まで開催する。
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9条の応援歌展

2006-05-26 05:38:32 | Peace Cafe
今日5月26日から28日まで、9条の応援歌展を開きます。日本橋の好文画廊です。92名の参加者だそうです。葛飾美術研究所が、主催した企画です。葛飾美術研究所の事は以前書きましたので興味ある方は、読んでください。9名の主に金沢美術大学出身の人がそろそろ40年続けている、共同アトリエです。

昨日は搬入と前夜祭がありました。貴重な時間を過ごす事ができました。前夜祭と言っても、皆さんそれぞれに、色々な形で平和について、思うところを語ると言う集まりになりました。お年寄りから、若者までいますし。活動の範囲もまるで違うので、どんな話になるのだろうと思っていましたが、おだやかな平和な集まりになり、学ぶところが沢山ありました。

平和を語り合う集まりでも、平和的で無い集まりは多々あります。昨日は、「平和を伝える困難さ」これが話題の中心でした。やはり、芸術分野の人達の集まりらしく、感性の問題が一番語られました。

Nさんがいつも一番の論客です。いつも鋭い論理を展開するのですが。この問題では、街角に立って、語ったりするのだそうです。高校生が立ち止って、つい聞いてみるように話さなければ、ダメなんだと、経験を言われていました。「九条あったっていいじゃん」ぐらいの調子だ。そうです。どうもテレビの流行の漫才師のような感じです。本当に伝えようとしたらこうなるのか、なるほど学ぶところ大です。

一番みんなの、信望のあるTさんは、時間をかけることの必要性を言われていました。「相手の話を聞く事、説得しない事、指導しない事、自分のほうが知っているような姿勢をとらないこと。ゆっくり心を開く事。」
とにかく上から教えるような、態度では、平和を伝える事は出来ない。そう経験を語っていました。

当然美術9条の会に参加している人も多いいのですが、事務局として活動されている人もいました。平山郁夫東京芸大学長の話をされました。「公務員だから、美術9条の会に参加できない」と、語られたそうです。しかし、公務員は憲法を守る責務があるのだから、むしろ「公務員だから、9条を守りたい」と発言してくれる。このぐらいの感覚があったらすばらしいのに。と話していました。

Iさんがこの企画の中心で、日曜日には、九条改正派として、議論をするのだそうです。つまり、改憲派と、九条派に分かれて、討論会をやるのだそうです。と言っても、Iさんは本当は九条派なのに、あえて、日曜の討論会のために、改憲派を研究したんだそうです。なぜ改憲を必要と考えるのかを、徹底して知る事の重要性を言われていました。どんな討論になるやら、つい、九条派になってしまうことがおもしろかったです。

私とは一番付き合いのある、Yさんは芸術を志す感性でこのことを捉えたい。と言われていました。平和の問題で一番大切なのは、平和と言う物を感性で捉えて、いるかどうかだ。だから、私達こそこの問題で、主張して行ける。平和を、制作の上で捕らえていれば、その感覚を伝えて行ける。感覚は論理よりも伝わるんだ。

9条を守ると言う事は護憲ではなく、新しい、平和な憲法、国民が選択するんだ。国民投票をやるというなら、世界に日本人の平和主義を示して、世界から戦争を失くす為の第一歩にする。守りじゃなく、新たな平和を作り上げることである。このことを確認しました。
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日本有機農業研究会

2006-05-25 21:24:35 | 自然養鶏
先日、本当に久し振りに、農業仲間のOさんから電話があった。電話の中で、日本有機農業研究会の話が出た。あしがら農の会でも、入会している人が何人かいて、理事の人も複数いるので、かかわりは深いと言えるかもしれない。やはり日本の有機農業のことを考えた時、有機農研のことを抜きに考える訳にはいかない。
政府の諮問委員会などにもこの会から、有機農業関係の代表のような意味で、人が出ている。それだけの見識を持ってもらわなくてはならないのは、当然の事だろう。

私も10年位はこの会に入っていた。その頃は、少しは会の活動にも出さしていただいた。入会したのは、高校生の頃から、共に歩んできたといっても言い、織座園の窪川眞が前から入っていて、誘われたからだ。彼は突然、死んでしまった。彼が死んだ事もあって、この会に自分を引き止めるものが無くなったとも言える。

この会で驚いた事はいくつかあったが、最初の驚きは、種苗交換会でのことだ。私は、アシタバと山ウドの種を、50袋づつ用意して参加した。交換と言うのだから、何か持ってゆくものだ、と考えたのだ。所が、これが全く違って、種が適当に置いてあって、それぞれが勝手に持ってゆくという形式だった。封筒には各自が、名前と住所を書くように、ということだったので。一人二人はその後の報告があるかもしれない、と思っていたが、ついに何の音沙汰も無かった。この礼儀の無さに先ず驚いた。普通人から物をもらえば、何らかの反応をしてもいいのだが、どうした訳だか、何も無かった。

次にこの種苗交換の会が、登録制と言うのを提案したので、早速登録し、私の作出した「笹鶏」を種苗登録した。この件でも、ついになんの、音沙汰も無かった。しかし、自家繁殖を続ける事は、日本の有機農業にとって、大切な事だと考えていたので、登録について、問い合わせと、鶏を保存してゆく意味を力説した物を、書き送ったが、さらに返答が無かった。多分、誰一人こうした努力をしている人がいない会なので、反応の仕様が無かったのだろう。
その頃から、この会がどんな仕組みで動いているのか、全く見えなくなった。活動に対し、どこの誰が責任を持って動いているのかが見えないのだ。

多分種苗登録を頑張って立ち上げた個人には、問い合わせや、その枠を超えた内容には対応は出来ないし、理解も出来なかったのだろう。そう考えた私はさらに、会員として、理事会宛にその旨を出した。しかし、これにも何の返答が無かった。不思議には思ったが、何となくこの会の実態のような物を感じ始めた。

その後有機畜産の基準つくりを、農水省が進めた。これに併せて、アンケートが会から送られてきた。このやり方には、期待が持てると考えて、アンケートには日頃考えている、有機基準について、意見を書いて送った。
私には、有機畜産基準については、この会の中では一番学んできたし、有機基準に一番近い形で、実践もしてきた者、と言う自負もあった。有機農業研究会においては、有機基準に適合した、養鶏を行っている人は一人もいない事もよく知っていた。

所が、ある日突然、有機農業研究会から、農水省に要望書が出されたと言う事が分かって、驚いた。
その内容が、農水省の言う放し飼いの義務づけが、厳しすぎるから、小屋飼いでも有機基準として認めて欲しいという、実に情け無いものだ。今でも、放し飼いと小屋飼いでは違いが無い、こんな認識ですから、放し飼いをしたことの無い人のレベルの会と考えるしかないのだろう。

会員に対し、こうしたものを出す了解も、意見の聴取も無く。会の名前で要望書が出されてしまう。この会に所属する以上、私も同じ見解を持っていると、世間には見られるわけです。一体この会における民主主義はどこにあるのか。このことではさすがに、腹が立ち、抗議書を送った。このことを書いた、理事個人や、理事会宛に送った。いつものように、何の返答も無かった。
さらに、会計担当者には、会費の請求が来たので、こうした不当な運営が行われる中で、会費だけ徴集しようとするのは、おかしいのでは無いかと、意見を聞かせてもらいたいとの、意見が無いなら、退会する。こう書き送ったが、その後も会費を払い込めの督促は来るが、この件には何の見解も示されない。

こうしてこの会を退会せざるえない事になりました。色々の会に入りましたが、これほど民主主義からかけ離れた会も他には知りません。しかし、この会が良くならなければ、日本の有機農業は不幸なことになります。若い人達で、根本からやり直すよう、期待します。
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色彩について

2006-05-24 18:18:38 | 水彩画
子供の頃聞かれた事に、「何色が好きなの」こういうのがあった。そのつど、真剣に考え込んで、青と応えた事が多かった。緑という時もあった。本当は好きな色など無かったのだけど。何か返事をしないといけないような気がした。

どの色が好き。これは実は大問題だ。根本的なこと過ぎて、抽象的で、今でも手に負えるようなものではない。難しい事じゃない、感性の問題だ。こう言いたいのだろうけど、誰もが、何でも安易に考えているとは限らない。
これが、小学校3年生ぐらいになったら、何色といえば、問題が少ないかの方に、気持ちが行った。好感がもたれるかの方に、意識が行っていた。この場合。「青」だった。必ず、青の好きな子はああだ、こうだ、と占いのような事を言う、者がいたからだ。青が当時無難だったのだ。今ならなんと言えば無難なんだろう。人の好みはこうして、外からの枠に応えるように作られていくのかもしれない。

今でも好きな色など無い。単色で、例えばピカソの青の時代のように、一色で絵を描く人がいる。墨絵のように、黒一色の濃淡だけという絵もある。それはそれでありなんだろうけど、私の描く意味とはあまりに違う事になる。私が行っている、絵画する作業に、色の関係は抜き差しなら無い状態で絡んでいる。色は端的にいえば、組み合わせだ。単色がどうのこうので無く、あの色とこの色が、隣り合い、そこにもう一つの色が出会い。一つの内容を表現する。たとえ墨一色で描くとすれば、それは黒という色彩の絵である。墨絵に無限の色彩を感じるとか言うが。私には信じがたい事で。目が悪いんじゃないの。としか思わない。

絵画をそうした思い込みの強い、意味ありげな作業にしたがる人が多いいのは、情け無いことだと思う。事実を事実として、受け入れるところが原点だ。黒は黒なのだ。それで何を表現するかを正面から考えるべきだ。
色について、もう一つの意味は大きさのことだ、1c㎡の赤より、1㎡の赤の方が赤い。これはすごい見識だと思う。だから、好きな色といえば、5c㎡青かもしれないし。5㎡の青かもしれない。さらに言えば、そこに緑の点が入っているのが、一番好きな色なのかもしれない。だから、マチスの赤が好きだというのは、色では在り得る。ボナールの黄色が好き。これもあるだろう。

絵画の画面においては、一面の黄色の菜の花畑が、緑とのなかの赤として表される事も充分にあるということだ。画面が、たとえ100㎡あったとしても、決して現実の空間の中の色を再現している訳ではないのだから、現実の色に近づくという努力は全く馬鹿げた努力ということになる。沢山落ちている落ち葉の中で、最も落ち葉らしい落ち葉を探した事がある。これが無いのだ。私の思う落ち葉はどこにも落ちていなかった。
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開田高原

2006-05-23 21:37:23 | 水彩画
木曽福島から、御嶽山の方に西に登ると、開田高原がある。1000メートルの標高があり、農村風景が展開する。独特の場所だ。多分相当の古い時代から、開かれた地域だと思う。石器時代の遺物も出るし、縄文時代の遺跡もある。何となく、日本列島は海の方から開発されて、山の方は後になったような意識があるが。むしろ山の方が早く人が住んでいて、徐々に平野部に降りてきたということが、本当らしい。山のほうが暮らしやすく、平野部のコントロールは大きな土木工事ができるようになってからの事だろう。

530年には、木曽駒の産地として、記録があるそうだ。それが、丁度仏教が渡来した頃の事だ。馬は大切なもので、軍事にも、農耕にも、重要なものだった。だから、当時から重要な地域として、日本中に意識されていたと、見なければならないだろう。そうした歴史の深さが、開田高原にはある。これが写生地として、この場所を深いものにしている。

もうひとつは、そうした風土を形成している御嶽山の存在だ。御嶽山は北アルプスから飛び地のように離れて存在する。立山・槍穂高から、乗鞍までを、北アルプスの雄大な繋がりと考えれば、一つ離れた状態の、御嶽山の3000メートルの独立峰としての、存在は群を抜いている。その広い山ろくを形成するのが、開田高原だ。これが景観を雄大な、際立った物にしていて他に類を見ない大きさだ。

開田の名の示すように江戸期にこの高原に田んぼを開いた歴史がある。志賀高原の田ノ畑湿原もそうだが、田を開く日本人の思いは、信仰といえる格別な物がある。このことから、日本人の祖先は、稲を持ってこの列島にやって来た人々であろう。と推測する人もいる。本来南方の植物である稲を、なぜ寒い青森、秋田まで、稲作を広げていったのか。栽培法の工夫。稲の品種改良。様々な思いをこの稲という植物一点にかけたような所が、日本の農業にはある。稲が作れないところというのは、即、悪い土地、劣る土地という意識がされた。納税から、土地評価まで、全てが稲の耕作に準拠している。

開田高原では、血のにじむ思いで、水路が引かれ、田が開かれた。このことがこの土地の思いの深さになっている。開田高原で絵を描くとき、いつもこの事に取り巻かれる。この土地で生きてきた、この土地が育んできた、様々な命の連なりが、私の絵を描く気持ちを取り巻いて、今肉眼で見えている、風景をただならぬ物に、実現してくれる。

歴史が視覚化されると言うと、お地蔵さんや水車があるとか。昔の街道があるとか。具体的な何か拠り所がある、というのではない。ある意味神秘主義に受け取られかねない危険がるのだが、明らかに視覚が捉えるところが違うのだ。この視覚は絵画する視覚で、生活する視覚では無い。

なぜ同じ山でも信仰の対象になる山があるのか。拝みたくなる絶対的な存在を、強く感ずる場所がある。これは写生を続けていると、見えてくるものだ。何か力が湧き上がっている場所がある。同じ山でも、ムーブマンのある山と無い山がある。あのセザンヌのように、こちこちの即物的な人間でも、サン・ビクトールを描き続けている。あの山はサンと付くのだから信仰の山だろう。

開田高原に人が築いた歴史と、御嶽山という存在が、あいまって、私にはかけがえの無い写生地となっている。
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5月21日ー日曜日ー晴れ

2006-05-22 04:00:49 | Peace Cafe
小田原駅で、教育基本法の改定反対のビラまきを、2時から1時間半やった。
思ったより取ってくれた。13人で配ったけど。用意した1000枚ぐらいは手渡せたと思う。私学の教員組合が、音頭を取ってくれて、神奈川全県的に10箇所ほどで、一斉ビラまきということのようだ。何でもやりたかったので、飛び入りで参加させてもらった。

立川では、ビラを自衛隊官舎に入れたというので、逮捕され拘留が、3ヶ月に及んだ事件がある。日本は既にアグネスティーの対象国になっている。立川ビラ事件は地裁では無罪、高裁では有罪。今最高裁で審議が始まったところだ。ちょっとの間に、日本も治安国家になってきた。盗聴法や、共謀罪と。戦前の社会に戻りつつある。大げさじゃなく、こんな風に、変わってゆくのだと危機感が強い。

この位なら、まだ我慢できると、大したことは無いと、ちょっとかいくぐっていれば。と思いきや、じわじわきつくなった。すこし、言いたい事言うのさえ、やばいような空気が漂ってきている。
近所の人に、「あんまりやんない方がいいよ。お年寄りも見ているから。」したり顔で言われた。こういう圧力が一番怖い。

国家の為政者と言うのは、いつの時代でも、自分がやりいいようにと言う事で、様々国民の権利に触れてくる。当然のことで、この辺は誰が上に立ったとしても、そんなところだろう。組織と言うものの必然と考えて置いた方がいい。問題は、国民が押し返すかどうかにかかっている。
韓国やフランスの最近の動きを見ると。まるで、日本と違う事が分かる。権利と言うのは勝ち取る物だと言う事がよく見えてくる。

時々はビラ配りに参加するが、これが効果が少しでもある、などと、思っているわけではない。何かやらずとおれないだけだ。効果も少しはあるだろうが、反感もかっているので、結局いい勝負だ。
私が歩いている時、こういう正義を振りかざす連中に出会ったら、厭だろうなぁー。と思っていながらやっている。どこか、屈折した気分だ

厭な思いさせた人には申し訳ない。

午前中は、お茶畑の草取りを皆でやった。驚くほど草が減っていた。去年は真剣に草取りしたので、かなり減ってきたようだ。お茶畑をはいずるように、お茶の下側に入り込み、つる性の草が、生えているのを根こそぎ取る。つる性の雑草が4種ぐらい、生えている。勢いは弱まっているので、今年頑張れば、さらによくなるだろう。

土の状態が、すばらしく良くなった。ふかふかで、ミミズの数がすごい。ともかく、土のにおいがいい。どういいかというと、山の土のにおいだ。荒れ果てた、お茶畑がす晴らし状態に変わってきた。時間がかったが、年々自然の雑木林の土壌に、近づいているような感じだ。お茶も気持ちがよいだろうが、私達も半日気持ちよい作業をさせてもらった。

ビラ配りの後はそのまま、9条の応援歌展に出す絵を描いた。
分かれ道の絵だ。根府川の丘の上で、海とミカン山を描いたものだ。風が吹いてきて、海はかなり荒れているが、もう春のようだ。ミカン山の方は、随分荒れてきている。まだ冬の状態だが、少しは春めいてきている。農道が、やけに目立つようにある。少し登ると、この道は分かれている。その辺りが、切りとおしになっている。削られた地表に草がへばりついる。ミカンが盛んだった頃を、思い起こさせる辺りだ。

やっと完成させた。
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世田谷学園のこと

2006-05-21 06:55:05 | Peace Cafe
先日突然、世田谷学園で大学出て以来教師をしている。友人が訪ねて呉れた。彼が、言いにくそうに、同窓会で何か話をしてくれないか。と言う事だった。友人に頼まれては、断れない。それで、「農業に進んで」と言う事なら、ということで話しをさせてもらった。小田原周辺の卒業生の方から電話があったり、わざわざ来てくださる方がいらしたりで、それなりに楽しかった。

私は東京の世田谷学園の卒業生だ。そして、父兄だったこともある。さらに、講師としても7年少し、働いた。宗内生として、授業料も免除されていた。
この学校は曹洞宗の宗立校として、スタートした。歴史は400年を越える。日本でも最古の学校のひとつだろう。駒澤大学と同じで、栴檀林という寺院の中にある、教育機関だった。

世田谷学園も随分と変化している。校名も私がいた頃は世田谷中学、と世田谷高校だった。私が生徒としていた頃の事、その後の事など、状況が違いすぎる。一くくりに書くことは出来ない。
しかし、教育と言う事を考えた時に、この学校での経験を抜きに考える事はできない。それほどこの学校には深く、係った気がする。最近はこの学校は、柔道や空手が強くて、古賀、吉田の金メダリストで有名になった。そのほうで名前を聞いた事のある人も多いいかもしれない。

この学校の、私の中での重さは、生き方を決定した。3人の人との出会いだ。
山本素峰先生、萩野浩基先生、そして、友人の窪川真。
素峰先生は私が高校に入学した、時に。この学校に仏教の講師として見えた。それまで、永平寺を始め全国の禅堂で延々と修行をされていて、この時、久方ぶりに俗世間に戻ってきた。本当の坊さんというものは、これほどすごいものか。と、畏敬の念を抱いた。それから、私も坊さんになろうと考えたのだから、教育は人だということは、私にとっては変え難いものがある。素峰先生の事は改めて書きたい。

萩野浩基先生は現在自民党の衆議院議員をされている。このことはよく理解できないのだが、私の命の恩人だ。私のために1年間の時間をかけて面倒を見てくださった。このことも改めて書きたい。

2人の先生、そして、友人の窪川真のおかげで、何とかカンとか、やってこれた。だから世田谷学園の事を考えると、どこまでも人ということになる。人との出会いが用意されていた。多分これが、私の幸運だと思う。
その舞台を、状況を用意してくれたのが、世田谷学園と言う学校だった。

同窓会で、話をするなど、真におこがましく、そんな人間ではないのだが、東京の学校と言う事で、農業に進んだ人など他にいない。ものめずらしい。と言う事だったと思う。荷の重い役目で、恐縮しっぱなしの話だった。
驚いた事には、自分もその道を考えているので、と言う人が、数名おられたことだ。わざわざ話を聞きに来て呉れた。それで、話の後には就農相談になった。

団塊の世代の、「定年帰農」は嘘ではない。同窓会では世田谷での教育と、農業に進んだ、関連を話したのだが。話の後の質問からすると、はじめから、就農の条件など話せばよかったと思った。それなら、私のいつもやっている事なので、しどろもどろにならずに済んだのに、後の祭りだ。



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人口推計

2006-05-20 05:52:31 | 環境関連
多分全国で、問題化していると同様に、私の住む足柄地域でもゴミ処理の広域化の問題が出ている。国の方針が広域化で処理してゆく。こう決まってしまい、補助金で縛りを掛けている。各自治体の専権事項であるにもかかわらず、国の方針に従わざるえなくなっている。

足柄地域は、当初は範囲が広く、県西地区が一つだった。これは合理性が無いということで、2つに分けられ。私の暮らす小田原は、湯河原、真鶴、箱根、が一括処理となっている。1県1つと言う方針の所も聞いた事がある。さすがに確かダメだったと思うが。1市3町は、そう広いとは言えないかもしれない。

範囲を広げる事に、合理性があるかと言うと。難しいところだ。
小田原の人口はおおよそ、20万人。3町を加えると。25万人。小田原は単独で続けてゆけるが、箱根など無理になるのではないか。こういう心配がある。小さい自治体では、何が無理かと言えば、大きな焼却炉の設置である。今のダイオキシン対策など、完全装備した物、特に溶融炉を考えれば確かに無理だ。

その辺の事は又に置くとして、ごみ量の予測を考えてみたい。
先ず人口の推移だ。日本もいよいよ、減少し始めた。これは間違いなく今後加速して減少するはず、と考えなければならない。どの統計もこれについては、同様の考えを示している。問題は各論だ。大きく言えば、都市はそう減らないが、地方が激減すると言われている。

小田原は現在どう見ているか。わずかに減ると言う見方だ。H30年の予測で、今より5000人の減少と考えている。
所が、国立社会保障・人口問題研究所のデーターでは、小田原で、2030年には84.8%まで減少する。と見ている。他の町は60%台である。総数20万5千人と予測している。簡単に言えば、併せて今の小田原程度の人口に成ると、見ている。

先ずこの予測の違いを、市民の理解を得なければならない。行政の公共事業の基礎データーは全てこの数字の操作で、間違ってきた。これから人口減少社会では、発想は逆転する必要がある。ではなぜ、予測を大目に見たがるのか。大きい事がいいことだと思っているからだ。色んな手立てをして、人口を減少させないことが、行政の役割だと、考えているからだ。私はこのことが既に間違っていると思う。

結果、色々努力をして、人口が減らないようにするので、そうは減らないはずだと考えて、焼却炉を計画するということになる。

もう一つに世帯の年齢構成がある。これも同じ機関のデーターがあるが、老齢化することだけは確かだ。これまたゴミは減少することになる。若い人ほどごみ量が多いい。年寄りはゴミを出さないのだ。子供がいればどうしてもゴミは多い。

次にゴミの減量努力だ。今事業系ごみといわれているゴミを、精査すべきだ。自治体が行うゴミを、厳密に家庭ごみの処理と考えるべきではないか。
例えば、箱根のように観光地を抱えている自治体では、人口の割りにゴミは多いい。当然だ。観光客が置いてゆく。これは、産廃と考える事もできる。今事業系ごみといわれているものには、相当量産廃と言っていいものがある。これは、ゴミの総量のトリックだ。ゴミが減らない減らないと、家庭ごみの減少が起きてないような事を、言いながら、個人の努力不足を攻める。一方で事業系のゴミの混入を増やしている。事業系ゴミの処理責任は、事業者に負わし、その処理は、改めて考えるべきではないか。

市町村が行うべきごみは、あくまで、家庭ごみに加え、一定の枠の中の事業系ごみだ。

最後に大きな要素は、ゴミ処理の企業責任の徹底化が行われる。これをやらない企業は次の時代生き残れないと、考えたほうがいい。日本の企業が国際競争の中で経営している以上、否が応でも、ゴミ処理の企業責任は問われる。又国内の消費者の意識も、ゴミ処理費の有料化などにより、ゴミの出る製品、ゴミを引き取らない企業の製品の不買などが、起こると思われる。企業責任は取らざる得なくなると考えていい。

以上の結果。私のゴミの総量予測から、焼却炉の規模は、今の半分で充分と見ている。
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自給自足の規模

2006-05-19 06:00:37 | 自給
自給自足を行おうとした時、どのくらいの面積があれば、可能かと言う事がある。
そもそも、可能かどうか、の疑問もあるのではないかと思う。
私も20年前そう思っていた。できないだろうと、不安の中、はじめた。やってみて失敗したと言う話も良く聞く。

私の体験を残しておく事は大切だと思うので、何度も話したり、記録したことだけど、又、少し違う角度から書いて置きたい。

自給自足と言っても、私がやってみたのはあくまで、食についてだけの事だ。しかも、その頃は3人で暮らしていたが、私の分のみと言う意味だ。私一人のことで、家族3人の自給は出来なかった。お米など60キロぐらい採れたが、計算すると私の分であると言う意味だ。食べさせなかったわけではない。

では生活はどうするかと言うと、勤めに出ていた。当時は学校に勤めていて、東京まで行っていた。週3日美術の講師として、世田谷学園と言う学校に勤めていた。しかし、東京まで通う生活は、限界に来ていて、何とか切り替えたい。そういう思いで、養鶏を業として、取り組み始めていた。

始めた場所は、山北町の高松山の山麓。標高330m。北傾斜の杉の植林の場所です。条件はよくなかったが、沢水と舗装道路があった。条件として、機械力は利用しない事にした。当時は運転も出来なかったし、歩いて暮らせると考えていた。
田んぼが30坪必要と考えた。それで、50キロのお米は採れる。裏作に麦をやって、30キロ。これだけあれば、穀類は充分だ。田んぼの造成法は別の機会に書く。

次に大切な事は、鶏を飼う事。自給には不可欠な事になる。2,3羽のエサなら、食べ残しや、米ぬかなどを使えば、何とでもなる。卵は大して産まないかもしれないが、肥料は出来るし、肉も食べる事ができる。食べる事ができればの話だが。いざとなれば、出来るもんですが。鶏は自分でヒヨコを抱卵するもの。エサも少なくていいので、チャボがいい。チャボを飼っている人に、捨てるのでいいからくれと言えば、もらえると思う。

野菜の類は30坪もあれば、一人分なら充分にできる。こまめに行う事が何よりで、自分が食べる物を作るなら、丈夫な品種を選び、味などこだわらずにやった方がいい。狭い畑はサイクルが、一番の問題なので計画のたて方が大切。欲張らず、同じ物ばかり食べる覚悟で、やらないといけない。大根ならできると言う人は、切干を作って、一年中大根の覚悟でやればいい。その内なんでもできるようになる。始めは、サトイモと芋茎ばかりなら、誰だって出来る。美食にこだわるような人の、菜園趣味とは、ちょっと違う覚悟がいる。

私の経験では、農法にこだわると言うのも、止したほうがいい。はじめは普通にやる事。自然農法だとか。不耕起農法とか。コントロールが難しいので、慣れたらやればいいので、先ずは草はとり、堆肥を入れる。堆肥は鶏小屋の中で作ればいい。鶏小屋の床を堆肥置き場と考えて、どんどん落ち葉や草や、残飯を入れたらいい。鶏は、堆肥の上で暮らすのが一番いいのだから、合理的だ。

ハウスがいる。狭い畑を有効利用するには、苗を作る必要がある。直播は場所をとる。ハウスはビニールで否かもしれないが、10年以上大切に使うなら、許されると思う。苗作りが、全ての原点なので、これだけは慎重に行う。出切れば、鶏小屋の床と米糠をハウスの一部に積み込み、踏み込み温床で苗を作る。

自給で困るのは端境期だ。3月4月はどうしても野菜物が切れてくる。逆に言うと、他の時期はさして考えなくても何かある。2月から5月を中心に考えた方がいい。そうだ。これは足柄地域の話で、寒いところでは全く違うので。ハウスが一つあれば、この端境期が乗り切れる。これは。広い方がコントロールがしやすい。小さくて2間・3間の6坪ぐらいは必要です。

最後の手段が、採取だ。毎日一品の覚悟で、集めれば。山や川原には端境期は、山菜の季節だ。
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自宅出産

2006-05-18 06:26:53 | 自給
昨夜午前2時15分無事出産しました。助産婦さんが家に到着して5分程のスピード安産。
今朝起きて、パソコンを開くとNさんからのメールが入っていました。前回の出産の時も、直前まで、田んぼの作業に参加していました。2人目の今回は、昨日は一緒に大豆畑の耕運と、畝立てをしていました。

昨日、一緒に鍬を振るっていたのですから、本当に嬉しい事です。農の会の仲間はどちらかと言うと、1949年生まれの、私は年寄りの部類です。若い人が多く、子供が生まれると、孫が生まれたような気分になります。集まりをやるときも託児のことを、考慮しないといけない状況です。

Nさんにも、自宅出産の気持ちを、ピースカフェに書いていてもらいました。その時少し調べたのですが。自宅出産を選ぶ人が増えているというのです。同時に、全国の市立病院産婦人科の維持が難しい。と言う報道がされています。
子供の数が減っている、と言う事もよく話題になり、法律や条例で、対策をしようという声も聞きます。

人口の減少を、悪いことでは無いと考えています。もちろん子育ての支援が、社会的に行われる事には賛成ですが。日本の人口はこの国土の状態から考えても、5000万人ぐらいが適正だと考えています。今の急激な人口の減少は、確かに社会のゆがみを生み出すでしょうが、一時の苦しみです。長い目で考えたならば、私は大歓迎です。自分の老後の社会保障の利害から、急激な人口減少を問題にする傾向があります。乗り越えなければならない、いたし方の無い課題です。

世界の人口増加はまだ、まだ続いています。中国が制御できて、よかったと思いますが、まだ人口爆発が続いている国が、後を絶ちません。世界人口の抑制をどうやって、達成するかの方が、大きな問題だと思います。世界の面積が増えることはありません。地球と言う、サイズをどのように、利用してゆくか考えれば、日本の人口も、他国に迷惑を与えない、5000万人規模が適正だと思います。

自宅出産の事でした。今足柄地域に助産婦さんが、ひとりのようです。とても少ないです。新しく立ち上げようとしている人が居られると言う事も聞いています。私の祖母の姉に当る人は、お産婆さんでした。すばらしい人で、生涯現役で、90歳を越えても、かくしゃくとされていて、当然私もその人に取り上げてもらいました。山梨の山村では、病院で出産と言う人など聞いた事もありませんでした。

産婦人科医の多くの方は、自宅出産に否定的です。不衛生とか。危険とか。マイナス面が強調されます。祖母の姉の経験と、観察力は、今のなまじの医師より正確だったと思います。この人の場合は、病院に行ったほうが、いいと考えれば、そのように配慮しました。診療所の先生との連携も、密に行っていました。最近言われるようになった、家庭医のような役割だったと思います。家庭の事情から、血縁の健康状態まで、今では考えられない情報の蓄積の上で、出産に立ち会うわけです。

日本も乳幼児の死亡率が大変高かった状況を、こうしたお産婆さんの努力で、一気に改善した歴史があります。
地域社会の力のようなものが失われ、いつの間にか、出産が、病院の役割になリました。産婦人科医の減少を、医師の拝金主義から来ているという、指摘がありますが。私が接したところでは、医療を目指した理想から、病気ではない出産をテーマにする事が、どこか違う。こうした気持ちから、産婦人科医を目指す人が減少しているように、感じます。

Nさんのような人が少しずつ増えているのは、自宅出産を経験をした仲間の力のように感じます。
赤ちゃんに希望を感じます。
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味噌作り

2006-05-17 07:14:55 | 自給
食の自給で、始めに取り組む活動が味噌作りでは無いだろうか。どの地域にも味噌を集まって作っています。と言うグループが多数存在する。この足柄地域でも、多分10以上の活動があるようだ。

この辺では、ちょっと前までは、味噌は家で作っていた。醤油も家で作っていたと言う話を良く聞く。屋号が、「みそや」「しょうゆや」という家もある。醤油屋さんが搾りに着てくれなくなったんで醤油はやめたんだ。そんな風に言われる。一日1件ぐらいのペースで、搾ってゆくのだそうだ。庭先で積み上げて搾っていた事に記憶のある人は多いい。所が残念な事に、私の育った家は醤油は作っていなかったので、その記憶が無い。

糀屋さんもなくなってしまった。これも相当の数この地域には存在したようだ。戦後、生活改善クラブの活動と言うものがあって、農家のお嫁さん達のくらしを中心に改善してゆく活動が、あった。詳しく記憶していないが、どうもアメリカ式のくらしを普及してゆく、ニュアンスがあったように思った。それは、パン作りの普及と言う事が、含まれていたからのような気がする。この活動を秋田で、普及員という形でされていた、90を越えた彫刻家の照井さんという、女性がいる。この方は50を越えて彫刻家を目指し、フランスに行き、勉強した。その事は別の時に。

照井さんから、当時の生活改善活動の話を聞いて、面白い事が分かった。そうして蒔かれた種が、今も継続して、この地域に残り、実は地域の核となっている気がする。朝市をやったり、味噌作りをやったり、祭りをサポートしたり、中には演劇活動が行われていたりする。婦人会とは少し違った、自主的なものとして、動いている。

味噌作りがそうした地域活動にもあり、又市民活動のほうでも起こってきている。生活クラブや、生協などでも企画を立てている。こういうところから生活を見直すということは、大切な事で、いい方向に向かう事を願っている。あしがら農の会では、この活動を農の会らしく自給の観点から、大豆の生産に目を向けてきた。味噌を作るなら、大豆の自給から、これは当然のことだ。しかし、中々進まなかった。
田んぼの畦で、作るグループは出てきて、10キロ程度はグループで生産できていたが、自給とまでは行かなかった。

農家的にはどうかというと、どうも生産者は積極的に作る気がしないようだ。キロ1300円と言う価格で、購入する事になっていても、あまり、気が進まないようだ。そこで、ついに味噌の会の畑が出来ることになった。味噌の会で、大豆を作ってみようと言うのだ。どうしても耕作せざる得ない畑が出来てしまい。味噌作りの中原さんにお願いして、やって頂く事になった。

中原さんには負担が増えて申し訳なかったのですが、味噌作りの参加者にトレーを配り、種を蒔きから、苗作りと、各自が自給の大豆作りを目指します。この辺りでは、7月7日が種蒔きと言われていますが、大豆作るは結構難しくて、毎年畑では苦戦するので、今年どうなるか心配ですが、成功を祈っています。まぁ失敗する事も大切な自給活動なのですが。

味噌作りの活動の農の会方式が出来上がれば、沢山生まれて来ている、味噌作り市民活動に、刺激を与え、自給の何たるかを、考えてもらえるのではないだろうか。
今日はその第1回目の活動だ。草刈とか。耕運機を掛けるとか。そんな事らしい。
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