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見えない恐怖:北朝鮮の攻撃

2010-11-30 04:15:01 | 身辺雑記
パソコンの前の足の下には、セアカゴケグモが這いずっている、かもしれない。天井裏には、すでにアライグマがいる、ようだ。守護霊だか、背後霊だか、昔ここで死んだ人の霊も彷徨っている、らしい。北朝鮮のミサイルはいつおちるとも、しれない。テレビの占いでは近く大地震やら大津波が来るという、話。大隕石の落下も、すでに計算されている。壁に貼られている壁紙からは、身体に浸透してくるような化学物質の発生がある、という。携帯電話からは有害な電磁波が発している。昨日食べた、レストランのサラダには残留農薬が相当にあった、かもしれない。町内にはすでに元オウムの信者が入り込んだという、噂。性犯罪者も市内には、相当数が存在する。エイズの蔓延も油断できないレベルになった。テレビで流れるコマーシャルでは、あたりには見えない細菌がうようよいるので、ジョキン、除菌。口の中には虫歯菌。お腹の中にはピロリ菌。

「渦巻く不安」との付き合い法。現代人は安心立命からは程遠い所で暮らしている。科学的に正しいとか、論理的に考えればとか。もう杞憂の領域どころではない。すでに空は落ちて来ることになっている。心配というものがこうも切りなく増幅された原因は、衣食足りたためのようだ。資本主義社会は現状に満足したら終わりだ。今のテレビは良くないのだ。今の車は問題があるのだ。原子力も問題だし、石油は枯渇する。今の現状を良しとしてしまえば、商売にならなくなる。見えない敵のイメージを増幅、蔓延させては、物を販売する。「渦巻く不安」不安。すべては、実のところ、考え方感じ方。簡単にいえばデマ情報である。不安情報の裏にあるのは、競争である。テレビでいえば視聴率競争。商品でいえば販売競争。要するに欲望の世界では、不安をあおることは儲ける手口である。そう北朝鮮の砲撃を考えている。

大洪水があるが、信仰に入れば、箱船に乗れる。大洪水があるということを信じさせないことには商売にはならない。その時は溺れるからいい。という覚悟がある人間は困るのだ。不安の増幅を起こさない限り、信者獲得にならない。北朝鮮の爆撃は違うだろう。確かに違うが、結局はたどれば同じことになると考えている。互いに疑心暗鬼を増幅させている。米韓の軍事演習が強化されている。米軍が韓国に駐留を強化させる現実。溺れる不安の中で、原爆の製造。すでにオウムの末期のような状況かもしれない。病気で衰えつつある、独裁者。若い実績のない後継者。どんな心境に陥っているのかよくよく考えておかなければならない。原爆製造の公開の効果。そして爆撃。原爆製造を止めなければ、話し合いも持たず、さらに経済封鎖を強めるという大方の反応。そして、焦点の海域での軍事訓練の強化。

北朝鮮は追い込まれてきた。今までは、ひっくり返ってめちゃくちゃをやれば、周辺が話し合いを持った。また話し合いを中国は提案している。そしておかしな経済支援。所がオバマ政権は対応が違う。中国の経済的自信も状況を変えている。中国も北朝鮮を一つのカードと考えている。韓国が抑制的に対応できるように、日本政府としてサポートする。それが日本の行う一義的な役割。韓国はとても我慢強い国だから、堪えてくれるとは思うが、仕返しの連鎖に入らないように願うばかり。北朝鮮は自滅に向かっている。このことに対して、中国とロシアはどう判断してどう動くのかである。中国だってそうは違わない。戦争すら商売にする人がいる。アメリカの経済状況を考えると、こうした人たちの動向に十分注意しなければならない。そして北朝鮮に対しては、かかわりを持たないこと。中国も、北朝鮮も核爆弾を持ったということは、武力で防御はできないということである。
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いきごみフェスティバル2010

2010-11-29 06:10:12 | 環境関連
昨日、生ごみフェスティバルが開催された。久野のフラワーガーデンである。2か月前に配布されたキャベツとブロッコリーの苗をみんなで持ちよりコンクールを行った。皆さんの出来が素晴らしく。私のキャベツもブロッコリーも、見事にうれしい落選であった。上位三番までは加藤市長から表彰状をいただいた。生ごみ堆肥がいかに優秀なものかが、確認できた。参加賞は50用意されたのだが、すっかり無くなり、私と代表の笠原さんは後日役所にもらいに行くということになった。皆さんの出品作と私のところのものが、違っていた点は2つあった。一番虫に食べられていたこと。いかに手抜き栽培であることが明白になった。青虫は良く見てとること、講評で言われてしまった。肥料が効き過ぎで、虫を呼んだということもある。畑に置いたのがいけないのか。

しかし、自慢できることは、自慢ではないか。すでに球が出来ていることだ。葉っぱも明らかに寒さにやられ、糖がたまったように赤くなっている。早く劣化が近付いているのか。大きな球にはならないか。多分舟原が、小田原では寒いのである。実は畑に植えた方は、そろそろ食べられるほどの大きさになっている。寒さにも強い。虫もさして食べていない。プランターで育てることがいかに難しいかである。参加者の皆さんが丹精込めて育てられたことに、感銘を受けた。こうした多くの人の思いがこもってきたのことが、小田原意気込みプロジェクトの画期的なことだ。この不可能とも思われた企画が、いよいよ成功するように感じられて来た。花を配り育ててもらう。野菜苗を配り育ててもらう。こういうことが小田原全体に広がれば、街の空気も変わってくる。川口市では堆肥を作り、花と交換してもらうという活動がある。小田原方式では、自分で作ったたい肥で、自分で花を育ててもらおうという、一歩前進だと思う。

とにかく財政の厳しい中、予算を使わず、何が出来るのかである。行政にやってもらうのでなく、自分たちに何が出来るのか。市民がそのように変わらない限り、良い町にはならない。「生ごみクラブ」もまだまだ小さなものである。生ごみプロジェクトもまだ軌道に乗ったとは言えない。しかし、この小さな炎を育てて行く、地道な努力以外町が変わるということはない。行政と市民協働という理念はある。しかし、現実には行政批判、行政がいけないから町は良くならない。この声ばかりである。この姿も実のことろ、行政依存の体質である。自分には何が出来るか。そこから以外何も変わらない。しかし、一人ひとりが変われば、すべては変わらざる得ない。ごみはその良いきっかけになっている。理念だけでは「花」は育たない。自分の出す生ごみで「花」を育てられる人が、新しい小田原の町を作って行く人である。

そう確信が持てたのは、昨日のグループでの話し合いだ。皆さんの意識がきわめて高い。私自身、学ぶことが多かった。すごい人がたくさんいる。段ボールの中は20度で続いているが、毎日300グラムから、500グラム入れ続けている。一度温度を上げて見たが、上げなくても問題はない。管理を完全に自分のものにしていた。その方の話から、家でも同じに20度で続けているが、そこに魚を入れたらば、すごい臭いになったという方がいた。さらに他の方から、常に30度移住で管理していれば、魚を入れても臭いは出ないと言われた。なるほど。その通りである。微生物が違うのではないかという話に発展した。まさに徳は無尽蔵である。人間力が発揮されている。それぞれの知性、感性が、生ごみ堆肥に反映されている。生ごみをごみ袋に入れて、ごみの日に出してしまえば、それまでだったことが、こうして多くの発見につながっている。何が何でもこのプロジェクトを成功させたい。12月5日には堆肥研究の第一人者の藤原俊六郎先生に来ていただき「段ボールコンポストの中で、何が起きているか。」の講演会を開催する。
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舟原の秋

2010-11-28 06:37:34 | 地域
舟原の秋、である。右手が鎮守の森である。奥に見える山が箱根明星岳だ。こうして広がる耕作地が何より美しい。農作業が風景を作る仕事だということが良く分かる。見えるのはお隣の畑だ。大地に絵を描いている。80歳を超えたおじいさんとおばあさんで、一町歩の畑を作っている。朝六時三〇分には作業を始める。今の時期は、早生ミカンの収穫である。その前が、里いも掘り、サツマイモ、栗と何でも沢山作っている。農作業は一年中、途切れることはない。と言って、農業で生計を立てて利用でもないし、もちろん市場に出荷する様子もない。多分『ふれあい市場』という地域にある、直売場に出しているのかとも思うのだが、はっきりはしない。いずれこうして素晴らしい景観を作り出している、大事業なのだがもちろんそういう意識はないだろう。

この場所を毎日犬を連れて散歩させてもらえるのだから、恵まれていると思う。里地里山が美しかった時代は、この山のすべてが薪炭材の林や、カヤ刈り場になっていたのだろう。この地域の場合、杉檜を植えるより薪や炭を生産することが、大きな産業であったはずだ。尊徳の話を読むと、そうした山を入札して受けて、薪炭を生産する。こういう事業を試みたようだ。いわば江戸に対するドバイである。エネルギー資源の方が、杉檜による建築材の生産より、経済性が高かったのである。木曽や秋田では建築材が生産される方が、経済性がある。江戸期の都市近郊の経済の循環である。またそういう時代が来るのかもしれない。もしそういう時代が来たとしたら、江戸時代の知恵に加えて、様々な技術革新がある。日本は随分豊かな社会が形成されるはずである。


「ホロホロ朝市の様子」


「まるしぇきんじろうの様子」
最近こうした物産市に出ることが多い。実は今日も箱根地産カフェとまちなか市場朝市が2つ開催されている。
午後にはフラワーガーデンでいきごみフェスティバルである。先週は、農業まつりも盛大に開かれた。沢山の市が開催されることは、素晴らしいことなのだが、それに出店すること自体が、負担になってきていることも事実だ。開催者側は地元の生産者の為に考えて、市を開催する。確かに有難いことだが、市に出てその労賃まで稼げるということはない。農産物も通常ルート以外に確保しなければならないのだから、それなりの工夫が必要となる。このあたりを今後どう調整することが出来るか。常設の市場を作るということが、一つの方向なのだろうが、今度はその施設の維持費ということも出てくる。いずれにしても、小田原の無尽蔵プロジェクトは始まったところである。
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北朝鮮の砲撃

2010-11-27 04:33:52 | Peace Cafe
理不尽な、許しがたい野蛮な行為である。突然の砲弾で亡くなられた方、怪我をされた方。家を焼かれた人。申し訳ない悲しい思いでいっぱいである。日本にも関係が無いとは言えない。北朝鮮の蛮行はあまりにひどい、人の命を軽く考え過ぎだ。北朝鮮の独裁政権は末期的状況に陥っているのだろう。現独裁者は病で判断能力も低下してきている。統率能力も危うくなっているのだろう。加えて後継者は余りに若い。世界情勢を理解する事がまだ出来ないようだ。独裁者のもとで甘やかさされて育った、単なるわがままものにすぎないように見える。とてもこの2人で国家を運営することはできないだろう。こうして、突然の理不尽な民間人の暮らす集落へ、砲弾を打ち込むという恐るべき行動をとった。世界はまたいつものように、このでたらめの国の計算に乗ってしまいそうで怖い。計算高く、日中、日ロの不協和音に反応しているがする。

世界は全精力を持ってこの独裁国に、これ以上の殺戮をさせないことである。必要以上に恐れてはならない。狂いはじめている彼らを調子づかせることは避けたい。なんといっても中国の対応が重要。中国に対し、まともな対応を取るようにあらゆる外交的ルートから、要請をする。圧力をかける。また、ロシアを含め、関係5カ国の強い連携と確認をとらなくてはならない。喧嘩をしている場合ではない。北朝鮮の末期的暴発はないとは言えない。窮鼠猫である。今のいまも中国はあいまいな態度を取っている。北朝鮮寄りである。韓国の軍事訓練が、領海侵犯であると思い込んだとしても、平時に暮らす一般の人たちに向けて、砲弾を撃ち込むなど、許される訳もないことだろう。中国の躊躇いは何なのか。アメリカの進出を抑止したいのだろう。ここは十分検討の余地がある。中国は北朝鮮を利用できると考えているのだろうか。どう利用しようというのか。アメリカと戦わしたいのか。

日本がやるべきことは、韓国とアメリカの軍事演習の停止を要請することだ。もし、軍事演習が北朝鮮の主張する海域で行われるとなれば、北朝鮮はまた砲弾を打つ込む可能性が高い。北朝鮮の武力的脅しに屈したという結果を示すことも良くない。両国の立場が損なわれない形を日本が提案することはできないだろうか。国連の安保理での緊急に、北朝鮮砲撃問題を取り上げてもらい、当面演習も止める。国連の緊急対応として、米韓の軍事訓練の一時停止を含む、北朝鮮への警告。中国とアメリカの対立は、想像以上のようだ。日本に対する中国の強硬姿勢も、背景のアメリカへの意識の方が強い。北朝鮮の砲撃はアメリカと中国の代理戦争なのかもしれない。米韓両軍は28日から4日間の日程で、韓国西方の黄海で米原子力空母やイージス艦などを投入した合同軍事演習を実施する。中国も反対の声明を出している。

この間の日本政府の対応は国会でも批判されている。日本は国際紛争の解決に武力を用いない決意をしているのだから、情報の把握。迅速な対応は必要不可欠である。所が管総理の言い訳は、テレビ報道で知ったとか、テレビを見ていたとか、前回の北方4島のロシア大統領訪問と同じ発言である。たとえそうであっても、そんなことは日本の総理大臣は公言してはならない。嘘でもいいから、テレビ報道以前の時間に官邸に連絡が入り、対応に集まったとか言っておいてもらいたい。この辺が正直なのか、間が抜けているのか、今起きて切る危機に対する認識が弱い。情報収集能力もあまりに拙い。武力を使わない決意は、情報能力を高めることでもある。韓国政府との連携。アメリカ政府との連携。再構築が必要だ。

昨日の自給作業:六条大麦播種1時間 累計時間:21時間
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遺伝子組み換え作物は何故いらないか。

2010-11-26 04:39:59 | 自給
遺伝子組み換え作物は、日本では今のところ作付されていない。日本の消費者はまともだからである。アメリカは遺伝子組み換え大豆や、トウモロコシの方が、普通の作物より多く作付されている。アメリカ人の愚かさが良く表れている。日本人は日本で作るのは拒否しているが、結局味噌や醤油として、食べさせられている。大抵のものには混ざってしまっているのだ。ヨーロッパ人は食べていない。さすがである。日本人もなんとかより賢くなりたい。アメリカ人の農業は食べるための農業でなく、プランテーション農業を行っているから遺伝子組み換えを使う。儲けることが第一で、法律にさえ引っかからないなら、目先の利益だけが判断基準だ。突き詰めて考えて見れば、砂漠で作れる麦を遺伝子組み換えで作る。なかなかの良いアイデアに見える。食糧不足のアフリカ等では、期待されそうである。所が長い目で考えると、やはりいらない技術なのだ。

地球には地球の歴史があり、何万年かけて今の調和に至った。砂漠は砂漠になる要因があり、そこに育つ植物はその理由を持って存在している。もし、砂漠が広がっている現実は人間の行為が原因している。原因を問題にせず、結果を捜査しても最後は行きづまる。砂漠にならないように努力をする以外ない。砂漠に育つ小麦は当面良いように見えて、次の段階では、大きな調和を崩し、人間を襲うことになる。それは人間だけでなく、すべてのバランスを急激に崩すことになる。その落とし穴は取り返しのつかない深刻なものになる。今人間が分かっていることなど、ほんの一部のことにすぎない。人間は奢ってはならない。地球の循環を崩すような人間のあり方の方を正すことしか、地球に生き残る道はない。すでに、植物と動物の遺伝子を組み替えるような、恐るべき領域に踏み込んでいる。

遺伝子組み換えなどしないでも、充分に今ある作物で人間は生きてゆける。むしろ、その方が健康で暮らせる。冬にトマトを食べたい。こういう人間の欲望が、農業を歪めて行く。その土地で出来る旬の作物を食べる。この昔のままの世界に戻るべきだ。珍奇なものを求める人間の欲望は、一つをかなえたとしえも、欲望は増幅されるだけだ。人間の方が変わって行く。自給自足に戻れば、そういうことは身体が感ずるようになる。冬場にトマトが食べたい身体は、現代の歪んだ暮らしが生み出した、間違った嗜好である。普通に暮らせば、普通のものが一番おいしく、そう身体が感じるように変わるものである。遺伝子組み換え作物が、身体に直接的に悪いとまでは思っていない。そこまでするべきでないと考えている。そんなことをしていれば人間は滅びると考えている。

と言っても、アメリカは止めないだろう。せめてヨーロッパ並みに入ることを制限してもらいたい。知らず知らずに食べさせられていることは、実に不愉快だ。消費者に分かりやすく混入を示すべきだ。明確に表示すれば、遺伝子組み換え作物混入食品を買う人は減るだろう。売れなくなれば、販売元もとも考えるだろう。日本人にはこの徹底する姿勢が不足している。民族的な性格かもしれないが、政府がアメリカに対して弱腰であるということもある。弱腰の良さもあるから、国民が賢くなるしかない。加工品を購入するときは、表示を良く良く虫めがねで見ることだ。もちろん自分で味噌も醤油もビールも作ればいい。当たり前のことだが、それが一番である。

昨日の自給作業:六条大麦の播種1時間 累計時間:21時間
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水土の再生7、腐食物をどう考えるか。

2010-11-25 04:55:21 | 自給
土壌を耕作できる豊かさにして行くとは、腐食を増加して行くことが基本である。耕作土壌は耕作に向いた土壌であり、人間が人為的に作り出すものである。自然林が交代して行く姿をみて、山の腐植層がはぐくむ、循環の姿を理想として考える向きもあるが、それは山としての循環の姿であり、耕作地の成り立ちはまた違うものである。山の樹木も遷移しているのである。作物を作り、持ちだしてゆく循環は、人間が作り出す土壌である事を、明確に認識しておく必要がある。自然林の姿は、栗やクルミやぎんなんを作るのであれば、参考になるかもしれない。それがリンゴとなれば、そのままの再現をするのでは方向が違う。現代の果樹は改良が進み、その果実は自然とはすでに言えないものになっている。自然界で行われる何千年、何万年単位の作業を、耕作地では、せいぜい10年くらいの中で行うのであるから、自然に従うという意味を取り違えないほうがいい。

畑の土壌を作り出すということは、相当に人為的な作業となる。堆肥を持ち込む。これがまず一番の方法である。自然農法では堆肥もいらないと考えがちだ。それは堆肥というものを一辺倒に考えているからである。堆肥と言っても多様なものである。落ち葉堆肥、草堆肥、藁堆肥などを大量に入れることは大きな意味がある。樹木チップ堆肥も良く発酵させると良いものである。あくまでこれらのものは肥料として入れるのでなく、腐食を増やすために入れるのである。こうしたたい肥であれば、反年間10トン入れた所で問題はない。しかし、堆肥を入れることで、かえって窒素飢餓に陥ることがある。未熟であれば余計に土壌中の肥料分を消費してしまう。表面の土壌に蒔いて行くくらいがちょうどいい。自然に耕作するに従い、下の土壌と混ざって行けばいい。つまり土壌は耕さない。必要な時必要な作業として耕すのみである。イメージとしては、堆肥の積んである間で作物を作る。

耕すことは腐食を消耗させることになる。土壌と腐食物が撹拌されることで、腐食はたちまち消化されてしまう。近代農法のいう10トンたい肥とは、トラクターで土壌と深く撹拌して、腐食を消耗する方法である。腐食を豊かに維持するためには、耕転は必要最小限にする。いずれにしても、充分の期間、出来れば一年間以上堆肥として積みこんでから入れなければんらない。いわゆる消耗した堆肥である。実践では、こうした完熟たい肥を畑の上で作って行く。草を刈り畝から外して、一列に摘む。あるいは畑の使わない部分に積み上げる。作物の残渣も同じである。摘みあげた上に養鶏場の床材を蒔いておく。その下の土壌が良くなるのである。一年もすると、姿を無くして行く。これを繰り返してゆく。田んぼや麦の藁なども作物の周辺に敷いて行く。その量は、2反5畝の田んぼの藁が結局5畝の野菜畑と果樹5畝に使われる。それでも足りない気がするので、そばの製粉カスを米袋で年間200袋くらいは入れる。あくまで表面に入れて、耕作する際に混ざって行く。現在、3年目であるが、豊かと言えるまでにはまだ10年はかかると思っている。

田んぼでは冬の間に緑肥作物を育てる。緑肥作物は現在はクリムソンクローバーを育てている。イネ科作物を田んぼに入れることは良くないと考えている。稲藁はすべて持ちだす。イネ科作物は腐食するために時間がかかる。それを田んぼに漉き込むことは土壌を悪くする。菜の花でやることもある。レンゲでやることもある。いずれ十分に生育させることは難しい。田んぼの条件もある。ある程度生育してから、12月頃に、田んぼに養鶏場の充分に発酵した床材を入れる。緑肥作物を育てるためである。ミネラル分の補給にもなる。田んぼでは代かきやアラオコシが行われ、腐食の消耗が激しい。良い堆肥を入れることは効果が高い。私が考えている腐植は土壌学でいう腐食とは少し違うのかもしれない。もし、腐食がローム層も腐食であるという意味なら、全く意味が違う。微生物と連携している、新鮮な腐食でなければ作物を育むためにはならない。

昨日の自給作業:六条大麦の畑の準備1時間 累計時間:20時間
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若く見える法

2010-11-24 04:07:21 | 身辺雑記
歳を取るということはどういうことなのか。最近、広告の言葉には、若返るとか、アンチエイジングいう言葉がある。永遠の青年とか、美しく年を取る。こう言う領域の話は不気味で嫌いである。何故若く見えるのがいいのか。年相応に見える事が一番普通で、立派だと思っている。普通を認めない。普通でなく若く見える。若いということが価値あることで、年をとるということを悪いこと。としてはいけないのでないか。若く見える価値は、美しくということを、誤解している。確かに美しいは時代の価値が影響する。韓国ドラマを見ると、美男美女が登場するが、映像としての実在感から、遠く離れていて耐え難いものがある。若く見える法は、もう若くはないという意識を抱えた人に働きかける。だから、化粧品とか健康サプリメントの広告に多くみられる。もちろん、衣料品やファッション雑誌のテーマでもある。若く見えた方が有利である社会。日本もそういう社会なのか。

偉そうに見えるより、幼そうな方が受けがいい社会。上から物を言うより、下手にでる社会。昔、俺を幾つだと思っているのか。こう怒られたことがある。ちょうどこういう価値観からの、離脱が起きているのだろう。お年寄りを尊敬する。こんな儒教的価値観は、風前の灯である。だから、お年寄りは時にこんな場違いな爆発をして失笑をかう。昔は、年配者に見えることを誇っていた人がいた。この効用を利用していた人達が結構いた。仕事などで年配だから有利に働くと言う事があった。年寄ってきたので、こう言う事を復活させようという訳ではない。年寄りの方が知恵があって役に立つという時代ではない。年寄りの知恵など、役に立たない事ばかりである。

人間若いと美しいが、連続であるかどうか。実はこの背景には、美しく年をとれないという哀れがある。年をとって、人間として少しは増しに、良くなってゆく、当たり前のことだ。若いころの方が良かったというのは、日々無駄に過ごしたということである。良く生きてきたという、確信があれば、若く見えたいというような、哀れなことを考えやしない。一方変に若く見えるという人がいる。研究に没頭したような、学者に居る。全く20ぐらいから年を取らない。研究に忙しくて、年をとるのを忘れたのだろう。立派なことではあるが、やはり大切なものが欠け落ちている。生きる切実感の喪失。生きることの身を切られるような本気が、消えている。流転の人生。どうでもいいようなところに、むしろ生きるすべてが集約されてしまう社会。日焼けサロンで、黒くなるような人生は寂しくないか。酔っ払いの高田わたるさんの年寄りぶりは美しい。

高石ともや氏が主婦のブルースという恐ろしい歌を作って歌った。うちの母親もドキッとして、こんなものじゃないと怒っていた。こんなバカな歌詞を書いたのは中川五郎さん。きっと今ごろ、後悔しているだろう。若気の至りである。しかし、ちょうどこの歌通りの「若く見える」なのだ。見えるのであって、あくまで幻想である。本質に向かうのでなく、表面に向かう時代の傾向。今中川氏はこんな歌詞を書いている。

13人の原告が立ち向かう 国のやり方は憲法違反と訴える
賠償のためでなく真実を明らかにして
二度と同じ過ちくり返させないため
ハンセン病の回復者が立ち向かう
大きな世界を変えるのは 一人の小さな動きから
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11月の畑

2010-11-23 04:19:40 | 自給
11月に入ると、日に日に寒くなってくる。寒さが来る日の日和見こそ、大事な11月の作業である。あたりの草の伸びは日に日に弱まってくる。それは作物の生育も同じである。冬の作物が寒さに強いと言っても、春の日ごとに生育するような旺盛なものではない。そう書きながらも、片づけから始まるのが、冬作である。まだ採れると粘っている夏の果菜類をいつ見切るかである。自給ではこの最後の粘りが、重要である。だから、トマトの隣に玉ネギを植えるというようなことになる。当然、苗を作ることになる。こうした遅れて実るものは売り物にはならないが、食卓ではとても重宝である。最後のゴーヤの野菜いため。最後の茄子の美味しいこと。まだ、サツマイモは土の中である。掘りながら食べている。サトイモも一株ごとに掘っては食べている。霜はもう降りているが、土中の芋が凍って腐るようなことはまだない。何時もなら、12月までは大丈夫である。

今年はタマネギの作付けに力を入れている。タマネギは重宝な野菜だ。一年保存が効く。風通しの良い日陰の軒下がいい。ネットに少しづつ入れてつるしておけば、腐りが少ない。保存には栽培も影響する。固く育てることだ。ブヨブヨ大きな奴はすぐ腐る。窒素の効いたタマネギは駄目だ。サイズが小さくても、我慢すれば日持ちは良い。そう言っても、今まで大きいタマネギは出来たことが無い。寒さがいけないかと、去年は黒マルチをしたが、効果はなかった。むしろ腐るタマネギが多発した。タマネギは雑草が嫌いだ。ということはタマネギ同士でくっついていたいのだから、狭いところに押し込んで、そこだけは草を取る。今年はそういう方針で始めている。気になるのは不耕起と耕運したところで違うのかどうか。これは比較調査するつもりで同じ苗を植えてみる。苗は苗箱で作った。案外うまくいった。現在20センチくらいである。近い内に植えるつもりだが日和見をしている。葉物をハウスに蒔いた。これが寒い間に役に立つ。

肥料というものが作物にどういう影響があるのか。とくに冬作では大きな影響がある。化学肥料というものは、日照不足や気温不足も補い、生育をさせる。今年は伸びが悪いのか、2度目の追肥をした、ご近所の畑は素晴らしい勢いである。これをたい肥で行う、あるいは無肥料で行う。とどう異なるか。初期生育はむしろ農鶏園の畑はいいのだ。今年は堆肥の実証実験をしているので、良く分かる。菜花の苗を6つの畑に植えて見てある。植えてから1週間は無肥料が具合がいい。次の1週間では差がだんだん無くなってきた。3週目では差がない。この後どう変わるかだ。同じ苗を自分の畑にも植えた。実証圃場は残土である。私の畑は3年作ってきている。少しは良くならなくてはならない。例年素晴らしい出来の本物の農家の田中さんのところでも、同じ苗が少し早く植えてある。較べて見ているだけで、いろいろ興味深いことが分かるものである。

今年は鶏の緑餌のカラシナの伸びが遅い。まだ与える訳にはいかない。と言ってあたりの雑草は取りつくした。そこでイネ科の雑草の若い葉っぱを与えている。いつもは食べないくせに仕方が無いので、食べている。田んぼのクリムソンクローバーはある程度は発芽したようだ。一面という訳にはいかないが、少しは出ている。後はどのタイミングで追肥をするかである。田んぼの腐食を増やすためには、充分緑肥を生育させることだ。田んぼに肥料をやるのでなく、緑肥を育てるために肥料を与える。今年はあちこちの田んぼの稲刈り後のひこばえを見て歩いている。自然農法と、有機農業と、慣行農法のひこばえがどう違うかである。舟原の田んぼではあまり伸びていない。伸びるほど窒素肥料が残っていないということも想像できる。

昨日の自給作業:キャベツ苗、タマネギ植え付け1時間 累計時間:19時間
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政治家の報酬

2010-11-22 04:23:17 | Peace Cafe
名古屋では議員報酬の半減が提起され、議会のリコールが問われている。先日小田原の市会議員の一人が、倍もらわなければやっちゃられないと言っていた。それぐらい忙しいというのだ。確かに議員を本気でやれば、切りが無いほど忙しい仕事だろう。問題は何で忙しいかである。見るところ選挙運動で忙しいのである。政治にお金がかかるは、選挙にお金がかかるという意味と考えておいた方がいい。報酬は選挙の為と、本来の議員の政策活動の分を分けて出すべきだ。市会議員は当選すると次の日から、次の選挙の為の選挙運動だけをしているようなものだ。どこまで小田原を良くしようなどと考えているのか疑問な議員も多い。この点ではどの党の議員も違いは感じない。議員の活動を見ていると、大半が顔見世か、地域の住民サービスともいえる。それはすべてが選挙運動につながっているのであり、政治活動のつもりなのである。

議員報酬というのは実に、現状を良くあらわしている。倍も欲しいという人は、倍に相応しい仕事をしているかを、胸に手を当てて考えて見てほしい。またそれを市民に証明する必要がある。市民が納得すれば、倍にすればいい。この1年。何をやったのかを、公表し、これだけやっているのだから、いくらはもらいたいと言える議員はいるだろうか。いるなら、是非選挙前に堂々と公報でやってほしい。選挙にばかり時間と金がかかり、全く政策など関係が無いというのが現状だ。市民が気がつかない。まだ見えない段階で、先見的に小田原の未来を予測し、方向を提案する。そういう仕事をしてほしい。仕分けではなく、議員の仕事の査定をすべきだ。

たとえば、ごみの処理だ。広域ごみ処理が提案されている。ごみで地球は滅亡するかもしれないほどの重要問題だ。他人事のようでは、給与は払えない。溶融炉の導入は談合と天下りの世界である。国が大規模溶融炉以外には補助金を出さないことにした。それが、広域ごみ処理のスタートである。行政の本音は大手5社への仕事の集中である。日立造船、三菱重工業、タクマ、JEEエンジニアリング、川崎重工業は焼却炉受注で談合していて、5年間で28か所の焼却炉での談合が最高裁で判決が出ている。自治体に現在250億円が返還されている。それはたった5年間のことである。小田原の焼却炉もそうした目で、見ておかないといけない。この問題では行政側は責任が問われていない。ここに天下りや癒着が背景に無いとは到底言えない事件だ。日本では海外焼却炉は排除されている。なにしろ海外メーカーは半値で作るという。こうした闇を監視しを、市民の先頭になって明らかにしてゆくのが、市議会議員の役割のはずだ。

所が、どこかで癒着しているのか。接待を受けているのか。市会議員の声が聞こえない。証拠もないのに何を言うのかと怒りまくるだろうが。今こそ大事な場面と考えているが、実に静かになっている。議会で溶融炉にすべきという意見はあった。市民は良く見ておく必要がある。ホール問題ではないが、後から騒ぐのでは話が違う。お城の樹木の伐採問題でもそうだ。市民が気づかない、早い時期に問題を明らかにして提起するのが、報酬に相応しい議員の役割である。そういう未来を見通した議員は情けないが、居ないではないか。議会などなくても変わりやしないというのが、阿久根市市長の言い分である。正直にいえば、そんな風に考える市長は多いだろう。議会制民主主義でやって行くことになっている。是非とも、議員の各位は選挙運動以外もやってもらいたい。

昨日の自給作業:大豆収穫3時間 葉物播種1時間 累計時間 18時間
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電気自動車の新しい利用法

2010-11-21 04:19:48 | 環境関連
電気自動車を住宅・工場の電源に…三菱が実験三菱自動車は11月17日、電気自動車(EV)「アイ・ミーブ」を住宅用やオフィス、工場の蓄電池として活用する、大規模な実証実験に乗り出すことを明らかにした。アイ・ミーブを改造して施設に電気を供給できる放電機能を加え、太陽光発電の発電量が落ちた時などに施設に電力を供給する。アイ・ミーブへの充電は、電力料金の安い夜間のほか、昼間は太陽光発電などを利用し、電気代を安く抑える効果も期待される。

これは実に良い発想である。なにしろ費用がかさむのは蓄電池とコンバーターである。エコ発電はここがネックになってきた。結局自家発電の広がりをさえぎる壁であった。電力会社が独占的に電力政策を運営してきた。極小が極大に並べる。それに風穴を開けられる発想である。もし、車の蓄電池が、家庭電源につながることが出来るなら、エコ発電の発電ムラを調整できる。風が吹かない。太陽が照らない。あるいは渇水。そうした日にも車から最低限の電力がとれる。これならエネルギーの自給に一歩近づく。車の場合量産の効果は大きいはずだ。今のところ電気自動車は1車種何千台のレベルだが、一ケタ違う何万台にはなるだろう。そうなれば価格もぐんと安くなり手が出るだろう。それまで今の車を大事に使うことにしよう。バイクの方は電気だからと言ってそれほど価格的には変わらないものが、販売されている。田んぼの水を見に行くときに使いたいと思っているのだが。荷物が積めないなら無駄だと言われて、買わないことになった。バイクでは無理か。

もし、自動車が蓄電装置化したら、水力発電も是非とも試みたい。田んぼに車を駐車して、蓄電する。そういうのは駄目かな。久野川の舟原付近には5台の水車があったそうだ。水車は一つの投資的事業であったらしい。財力のあるものは水車はどころか、水力発電を試みた時代があった。今の時代、電力会社の独占保護のために発電行為は、自由にはできなくなっている。第一に川というものは、ほとんど実質は使えなくなっている。子供のころ山梨の芦川では村営の発電所があった。全国的にも珍しいことではなかった。マイクロ発電の世界は、あの時代より発電効率が格段に良くなっている。発電方式も様々な新しい試みがある。自家発電した電気を自動車に貯める。これが出来るならばエネルギーの自給がそこまで来る。

蓄電池は日本は技術的にも生産量でも先端をゆく。リチウム電池の登場電気自動車やハイブリットカーは実用化された。電池の世界は今技術革新が目覚ましいようだ。もう一段進めば、家庭用の蓄電池も可能かと考えていたが、自動車で可能なら、一挙に解決が近付く。自給生活の一つのネックになる、エネルギーがエコ発電と蓄電池で1歩前進しそうだ。CO2削減と電力というと、どうしても原子力発電という発想になる。これをとどめるためにも自然エネルギーの見直しとともに、蓄電池の利用と開発。十年後は電気自動車が一般的になる。その一番の技術革新は蓄電池のはずだ。一台あたり、10万円ぐらいになるだろう。そうなれば、車価格もガソリン車と変わらないはずだ。急速発電が一番に言われるが、家庭での充電方式の良さもある。家に駐車している夜間に充電する。車を使わないときは、その電力を利用する。電力の使用量の平準化も図れることになる。
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TPP農業の抜本改革2

2010-11-20 04:20:41 | Peace Cafe
TPPに関連して、農業者批判も目立ってきた。
「守るべき日本の農業とは何か」財部誠一 TPP(環太平洋経済連携協定)やFTA(自由貿易協定)の議論が起こるたびに、日本では農業関係者から「絶対反対」の気勢があがる。既得権死守にしがみ付き、国益などおかまいなしで自己保身にだけ走る農業関係者たちのいつもの光景だ。なんの驚きもない。■既得権益にしがみ付く農業関係者だが世界中が先を争って貿易自由化による自国産業の競争力強化にしのぎを削っている時代状況になど目もくれず、ひたすら自己保身にだけ走る農業関係者は醜悪であるばかりか、国益に対してその無責任さは犯罪的ですらある。

こんな意見が代表的なものであろう。分からないではないが、こういう人の日本農業の認識というものを読んでゆくと。結局、国際競争力のある農業論が解決策として想定される。工業製品は生産拠点を海外に移せる。農業は日本の国土の問題である。農業を考えた時に同列に考える荒っぽさ。展望のない批判は意味が無い。北海道なら広いだろうと福井から、出作りする農家の事例を挙げている。小田原の農業法人でも茨城の方に出作りする事例がある。企業なら、関税が無くなれば、日本向けにベトナムあたりで生産するところだろう。それの方が儲かるからである。儲かれば何でも正義になるのが、資本の論理。

手に余るが、国際競争力と食糧を整理してみる。国際競争力のある農業と言えば、プランテーション農業である。プランテーションが経済途上国の農業を根こそぎ崩壊させたことは、歴史的な事実である。植民地主義と帝国主義の結果、本来その地域に存在した、環境に応じた農業は、意味のない経済効率の悪いものとして、排除された。食糧自給生産とは全く違う農業の登場である。経済効率だけを主眼とし競争に農業を巻き込んで行けば、飢餓の国民が、輸出目的の農産物を作るという、悲惨な状況が再現されてゆくだろう。もう一つが新大陸の輸出目的に開かられた大規模農場である。これも奴隷労働力を、背景にした、国際競争力のある農産物である。奴隷制度は廃止されるが、安い労働力の為に、不法移民などが利用された。農産物は果たして、貿易すべき商品なのだろうか。

農産物において競争するということは、そうした渦の中に日本の農業も巻き込まれてゆくということになる。大型機械の導入できる、50ヘクタール以上のまとまった農地。その為に無理じいされるだろう農家の廃業を促す政策。低廉な労働力としての、外国人労働者の研修名目導入。政府からのそうした農業企業への税金的優遇策。機械農業では技術力はおおきな問題ではない。一定のノウハウさえあれば、世界共通の水準に結局は集約される。そこで、差別化のため、コスト削減のために、遺伝子組み換え作物など、大いに推奨されることになるだろう。当然小さな農家は、生き残ることはできないだろう。そこまですることでやっと国際競争力は生まれる。それで日本の国家としての在り方が、正常な方向と言えるだろうか。

競争という以上勝者と敗者がいる。日本が勝つなら、どこかで敗れる国がある。テレビや車で勝とうと負けようと、命まではとられない。競争によってより合理的な効率のよい、製品が生まれ、人の暮らしの福祉に役立つこともある。しかし、破れて農業が消滅して行く国はどうなるだろうか。国によって、気候風土が違う。条件の違うところで行われる自由競争。おのずと先は見えている。競争に有利な自然・社会条件の国が、農業の競争の自由化を主張するだろう。日本が勝てばいいともいえない。冒頭の財部氏の意見の中には、工業分野に比べての、農家の努力不足を憂うる気持ちが感じられる。確かに農家は企業的努力は無いに等しい。それを農家に求めるのは、見当違いで酷というものである。農家は資本主義の競争で誕生したものではない。さらにいえば、国際競争力のある農産物は、農林省の研究所でも作れないのである。
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答弁は二つでいい

2010-11-19 04:30:42 | Peace Cafe
「答弁は二つでいい」発言の柳田法相の三つ目の発言は「すみませんでした」柳田法相が14日に地元の広島市で開かれた法相就任を祝う会合であいさつし、「法相は二つ(国会答弁を)覚えておけばいい。『個別事案については答えを差し控える』『法と証拠に基づき適切にやっている』だ」と強調。さらに、「(答弁が)わからなかったらこれを言う。何回使ったことか」と続けた。なかなかウイットに富む発言である。案外欧米ではブラックユーモア―で済んだかもしれない。なにしろこの発言まるで、管内閣の閣僚全員に差し上げたいような、素晴らしさである。柳田法相は尖閣問題が頭にあったのかもしれない。答弁はこの二つにしておけと指示があって、腹にすえかねていたのかもしれない。仙石官房長官は「自衛隊は暴力装置」呼ばわりの答弁。これでは「二つにしておけ」の指示を出したくもなる。法務大臣も官房長官も自分の思いを表現してはならない。という自虐的な表現なのだろう。

議会というものは、議論するような場にしてはいけない事になっているらしい。議員同士が、議会で議論しているところは見たことが無い。やっているのはテレビのなかだ。内閣政府に対しては、質問か、演説を行っている。答弁する側から、「あなたの質問はこの点では矛盾していないか。」など反問すらない。一方通行である。たぶん議論してもいいのだが、しないことにしようという慣習的なもの。そもそも議論の習慣がまだ日本の社会にはない。たとえば地域の自治会で議論をするということは、ちょっと空気が違う。議論したら恨みでもあるのかとか。お前は何様のつもりか。となり、変わり者と思われ無視されるだろう。議論をすることで互いの認識が深まり、より高い次元の合意が形成されるという議論は存在しない。結論がどこかで決まっている。そういう世界では、イエスかノーかしかない。それが議会の姿でもあるようだ。

議会という明治の翻訳がいけなかった。議会というから議論を戦わす会かと勘違いしてしまう。驚くことに、議員は個人の意見を述べてはならない。こういう考えの表明する議員も多く存在する。その会派の意見があるというのだ。小田原の市議会では個人の賛否も公表しないことになっている。考えが明確になるということを避けた方が無難という配慮らしい。賛成反対が戸別案件別に意思表示できない議会のシステムに問題がある。一括だから、説明抜きの賛否の結論表明は避けたい。こういう釈明を聞いた。それを変えるのは議員ではないのか。確かに、答弁は二つでいいのだ。議会では質問と言いながら、演説を延々と語る人がなんと多いことか。演説なのだから答弁など最初から期待もしていない。それで仕分けが注目された。仕分けでは議論がある。互いが意見を戦わせている。これは議論力が問われる世界だ。中継が結構面白い。しかし、仕分けをするには予算を勉強しなければならない。これで官僚を上回ることは大変だろう。

仕分けで評価を上げたのは蓮方氏。この人の野党時代の国会質問は鋭かった。このルールでもやりようはあるのだなと、風穴をあけるとはこういうことかと思った。「2番ではいけないのですか」は有名になったが。着目させる名せりふ。これでいいのだ。ここから起こった議論のうねりは、どういう結果であれ良い議論だった。ノーベル賞学者まで登場して、科学予算の重要性を強調していた。学者だって使っているお金について知らなければならない。しかし蓮方氏大臣になって受け身に回ると大したことはない。早くも管内閣は末期的現象に入った。「答弁は2つ」「自衛隊暴力装置」も実は本音ではないか。これを失言問題とか早速名付けてしまう報道の感度の鈍さ。鈍い以上に悪質。
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長寿の縄文人

2010-11-18 04:53:32 | 自給
縄文の世界には65歳以上のお年寄りが30%もいた、かもしれないという新説。これは縄文短命説を覆すびっくりした大歓迎の新説である。若い学者の主張らしい。この説は一般化するかもしれない。その方が腑に落ちるし。縄文人ファーンの一人としてうれしいからである。なにしろ縄文人の平均寿命は10代前半であり、60歳以上などまずいない。こんな縄文人の姿が言われて来たのである。実に単純なことで、骨の分析方法が進めば、この辺のことは科学的に明らかになる。どちらが正しいかはそう遠くなく分かることだろう。学問というのはこれだから面白い。こんな基本的で単純なことすら揺れているのが学問。不明瞭であっても一つの定説が権威から出ると、右に倣えでなんとなく縄文人短命説が流布する。実はそういうことはまだ正確にはわかっていない世界だ。何でも疑問を持つことは大切である。

縄文人は地場・旬・自給のスーパーモデルである。短命とかは信じたくない。まさに健康生活をしている。弱いものは淘汰される社会。長寿に違いないと昔から思っていた。多分縄文生活を野蛮人生活をしている、推測して短命に違いないと考えた近代学問の世界。学問も時代の影響をもろ受ける。日本は長寿国である。だいぶデーターが怪しげになってしまって、ホントかなという気もしないではないが。最近の届く、喪中の葉書にはご両親が無くなられた年齢がもう一息で100歳という方が少なくない。幼児死亡率が高い社会は実は平均余命は長い。縄文人は弱いものが淘汰されている。事故死も今より多いだろう。しかしそうした試練をかいくぐった人たちは、丈夫だったに違いない。70歳位は結構いただろう。寝たきりになって介護されるかどうかは、ちょっと疑問ではある。幼児の死者は手厚く葬られたらしいが、お年寄りの方はどうだったか。

世界で一番幸せに暮らしているのは、ニュ―ギニアの高地民族である。このように本田勝一氏が新聞記者時代書いていた。それに強く影響を受けた。小学校の担任の先生が、客観的に見て不幸という状態が、福祉の対象である。このように授業で言われた。この人は日教組の組合員で当時国会デモに参加していた。この整合性にとても悩んだ。小学生だから、どのように悩んだかは分からないが、自分はニューギニアに行ってみたいと思い込んでいた。そうしていたら、自分は戦時中ニューギニアに居た。という呉服屋の店員さんが近所にいて、話を聞きに行ったのだが、どうもニューギニアの様子が違っていた。そのあたりから、むしろ縄文人の方が幸せだったかもしれないと思うようになった。それは山村の暮らしを知っていて、東京に暮らすようになったからという、ギャップも影響したかもしれない。

30%もいたという65歳以上にはもう一息だ。62歳程度なら若者と一緒に働いていたことは確かだ。今の自分の身体の実感からして、ついてはいけないが、全く駄目ということもない。役割によってはいけそうな気がする。働けないものは負担な社会であろう。年金も貯金もない。あるとしたら知恵であろう。経験と伝承という知恵は、重要だったに違いない。私は自給自足の知恵を蓄積してきた。白菜とキャベツがこの舟原ではどう違うか。こういうことなら、分かってきた。狩猟と農耕は異なるということは当然だが。縄文人が狩猟採取だけではないということは、だいぶ証明されてきた。次の時代には、私が今溜めている知恵も、役立たないとは限らない。一日1時間100坪の自給。今年はタマネギを本気でやっている。もう一息である。

昨日の自給作業:タマネギの準備1時間 累計時間:14時間
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農業の抜本的改革

2010-11-17 05:18:43 | 自給
TPP加盟の前提として、「農業の抜本的改革をする。」このように管総理は発言している。農業関連の団体は、こぞって加盟反対の集会を行っている。いよいよ日本農業の正念場である。TPP加盟は、避けることが出来ない。せめて農業をどうするのか。真剣に討議してほしい。戸別補償で事足れりでは、話にならない。日本の農業は全農が主張するように崩壊するだろう。平均年齢が65歳を超えた産業分野である。今まで何とか農業が続いてきたのは、戦後の食糧難時代の農家の生き残りが頑張っているからだ。農地解放が行われ、食糧増産が叫ばれ、開拓、干拓がおこなわれた、農業の未来が明るかった、明るい農村世代の生き残りが、頑張っているからだ。TPPだけでなく深刻な事態は近付いている。今までの農業補助は既存農家を支援すればよかった。今も、農業団体が反対を叫んでいるから、政治的にはJAとの妥協策としては、既存農家への補助金を増やすことで済まされる可能性が高い。政治家は選挙以外は興味すらない。

戸別補償のような、既存農家保護の政策をいくら強化しても、農業者の減少は歯止めはかからない。今やらなければならないのは、農業をやろうという人間に対して、希望が持てる未来像を作れるかどうかにかかっている。いまある65歳以上の後期高齢者農家をいくら維持したとしても、お先真っ暗なのは当たり前だ。農業関係団体の声は一番高いだろうから、配慮はいる。と同時にその配慮の為に、農業がますます歪んだ産業分野になるのでは、抜本的改革どころではない。「農業人口が増加する政策。」ここに焦点を合わせるべきだ。自給率うんぬんなどどうでもいい。あらゆる角度から、どうすれば農地が拡大するかを目指すべきだ。企業であろうが、農業法人であろうが、専業の個人であろうが、兼業農家であろうが、ただの市民であろうが、農地を農地として維持できる体制を目指すことに尽きる。

戸別補償を倍にすれば、今の65歳の人が75歳になるまでは何とか農業をやるだろう。老齢年金のようなものだ。しかし、若い後継者がそれに続くことは考えられない。補償金だけでは展望が無いからである。職業を選ぶときに、生活保護を計算に入れる人はいない。国際競争力のある農業など、あり得ない。あり得ない理想論のごまかしはもういらない。生産は国外でというのは、今やどの分野でも当たり前になっている。労賃が違う以上、時給1000円と100円で競争しろということが、一次産業ではどう効率を上げても無理だ。農業を全く違う角度から、言葉通り抜本的に見直す必要がある。食糧は、人間が生きるもっとも基本的なものだ。これを他の生産物と全く一緒という発想が無理だ。しかし、食糧輸出国はそんなことは認めないだろう。そこで、TPPに加盟し、工業生産品の輸出で生きている日本としては、違う方策を立てる以外にない。

借りて農業をする人に対して、地代補償をする。やりたいと考える人には、地代なしでやってもらう。国が地代の補てんを行う。その前提として、市町村が遊休農地を強制力を持って借り上げる。農地は耕作したいという人に貸し出す。貸出先は誰であってもいい。市民であってもきちっと管理できる人には貸し出す。市民の自給である。自給には価格が無い。農の会の行う農業は、コスト計算したらバカバカしいようなコメ作りなのかもしれない。しかし、デズニーランドに行くより楽しく農業を行い、しかもお米が手に入るなら、是非ともやりたい。こうした人たちが、潜在的には相当数存在することが、ロシアやキューバの事例からもわかる。日本でも食糧生産の30%くらいまでは市民的自給で生産できるはずだ。またそういう国の方が、日本らしいではないか。その環境、状況を整えることが日本の農業政策の改革である。農地法の抜本的改革。全国どこにでも住める、産業の構造改革。通信手段の整備。情報の共有化。やることはたくさんある。
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笹村カヨ子彫刻展

2010-11-16 05:01:38 | 身辺雑記


笹村カヨ子彫刻展が来週にある。小田原のお堀端画廊である。小田原で個展をするのは、初めてのことだ。私自身は個展というものはやめてしまった。それに耐えられない。どんな気持ちかは想像できないほど、大変なことだと思う。忙しい中、入院したりで、その間ずーと制作を続けていた。どんな個展になるのか、作品を作ると、発表するは違うと思っている。楽しみである。
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