改めて昔を偲ぼうと 故郷を訪ねたわけではないのだが、留まっているうちに、見る物・聞く物、何事につけても、昔を偲ぶよすがとなってしまうものである。故郷ってそんなものでしょう。橘の香りに一層想いを深くする と。感情の機微を捉えた歌と言えようか。
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[歌題] 故郷(フルサト)の盧橘(タチバナ)
いにしへを しのぶとなしに ふる里の
夕べの雨に にほふ橘 (『金槐集』 夏・139、『続拾遺集』547)
(大意) 昔を懐かしく思うというわけではなしに古里にいて、夕方の雨に
「昔を思わせる」という橘の花の匂いがすることよ。
註] 〇橘の花の香:古今集以来、“昔を思わせるもの”とされている;
〇ふる里:“ふる”は、由緒ある古い里の“古”と雨の“降る”との掛詞。
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<漢詩>
故郷盧橘 故郷(フルサト)の盧橘(ロキツ) [下平声七陽韻]、
無意緬懷昔, 昔を緬懷(シノ)ばんとの意(イト)は無くて,
欲留暫在郷。 暫(シバシ) 郷(フルサト)に留まらんと欲す。
霏霏夕暮雨, 霏霏(ヒヒ)たり夕暮の雨,
籠罩橘花香。 橘(タチバナ)の花の香 籠罩(タチコメ)てあり。
註] 〇盧橘:ナツミカン、またはキンカンの別名; 〇緬懷:追想する;
〇霏霏:雪や雨が頻りに降るさま; 〇籠罩:たちこめる、漂う。
<現代語訳>
故郷の橘
特に昔を偲ぼうとの思いがあるのではなく、
しばし故郷に留まるつもりでいる。
しとしとと五月雨が降る夕暮れ、
橘の花の香りが漂ってきた。昔の事どもが思い出されるよ。
<簡体字およびピンイン>
故郷盧橘 Gùxiāng lú jú
无意缅怀昔, Wú yì miǎn huái xī,
欲留暂在乡。 yù liú zàn zài xiāng.
霏霏夕暮雨, Fēi fēi xī mù yǔ,
笼罩橘花香。 lóngzhào jú huā xiāng.
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北宋の政治家・詩人 蘇軾(東坡、1036~1101)に 秋の橘の実のある景色を賞する次のような詩がある(「贈劉景文」;七言絶句であるが、その転・結句を示す)。
一年好景君須記、 一年の好景 君 須(スベカ)らく記すべし、
最是橙黄橘緑時。 最も是(コ)れ橙(ダイダイ)は黄に橘は緑なる時。
木の葉が落ち始め、枝に霜の降りるころ、橘の濃い緑の葉の茂る中、黄色に色づいた橙の実がたわわに実って 微風に揺れている。一年の内で最も素晴らしい景色の時であるよ、君 覚えておけよ! と友人に説いているのである。
実朝の歌は 初夏、橘の白い花が開き、香ばしい薫りを周り一面に漂わせている頃である。いずれの時期のあっても、生気を蘇えさせてくれる、故郷の情景ではある。
実朝の歌の“本歌”として、次の“よみ人知らず”の歌が挙げられている。
五月まつ 花橘(ハナタチバナ)の 香(カ)をかげば
昔の人の 袖(ソデ)の香ぞする (よみ人知らず 『古今集』夏・139)
(大意) 五月のころを待って開く橘の花の香りをかぐと 昔親しかった人の
袖の香りがするよ。
※ 平安時代には 貴族は男女ともに 衣服に自ら好みの独自の香を焚き染め
ていたようで、“香”によって“個人”を判断・識別できるほどであった
ようだ。なお、この歌を機に、“橘の花の匂い”は 昔を思わせるものと
いうのが 古今集以来の常識となった由。
一方、加茂真淵は「……後世、千万の橘の歌が詠まれているが、未熟
だよ」と厳しく評している と。