一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
本質は変わらない
私の学生時代には携帯電話なんかなかったから突然の事件もどう連絡したらいいか。連絡したくてもとれない。ちょうどポケベルが普及しはじめた時でもっている友達がやけに格好よくみえました。
でもないからこそそこまで不便にも感じていなかったのも事実です。
パソコンを購入して論文を書いている友達も急に差をつけられたように感じました。今ではパソコンもスマホも持っているのが普通です。
車も洋服も今では時代を感じさせるものでしたが当時は最新で楽しんでいました。
何がいいたいかというとこれからどんな便利な世の中に変わっていっても人間の本質はあまり変わらないのではないかということです。
お釈迦様の時代もソクラテスの時代も孔子の時代もイエス・キリストの時代も聖徳太子の時代も弘法大師の時代も、各時代、活動した場所はまるっきり別だとしても人間の本質は変わらない。
何か脳内にある自分の記憶のページをめくっていっても当時呼吸した空気と今呼吸している空気が同じように感じます。
自分を照らす太陽の光も同じ。ただ自分の肉体が老化していっているだけで。
このままあと数十年、この世界に生きてやがて旅立つのですがごく草木が春夏秋冬を繰り返して芽吹き、繁茂し、枯れて、土に還るのと似ているような気がします。
人間の死は特別でないことは事実です。人の命は地球よりも重いかもしれませんが命を終えることは人が最終的に必ずむかえるごく普通なことなのです。
でもないからこそそこまで不便にも感じていなかったのも事実です。
パソコンを購入して論文を書いている友達も急に差をつけられたように感じました。今ではパソコンもスマホも持っているのが普通です。
車も洋服も今では時代を感じさせるものでしたが当時は最新で楽しんでいました。
何がいいたいかというとこれからどんな便利な世の中に変わっていっても人間の本質はあまり変わらないのではないかということです。
お釈迦様の時代もソクラテスの時代も孔子の時代もイエス・キリストの時代も聖徳太子の時代も弘法大師の時代も、各時代、活動した場所はまるっきり別だとしても人間の本質は変わらない。
何か脳内にある自分の記憶のページをめくっていっても当時呼吸した空気と今呼吸している空気が同じように感じます。
自分を照らす太陽の光も同じ。ただ自分の肉体が老化していっているだけで。
このままあと数十年、この世界に生きてやがて旅立つのですがごく草木が春夏秋冬を繰り返して芽吹き、繁茂し、枯れて、土に還るのと似ているような気がします。
人間の死は特別でないことは事実です。人の命は地球よりも重いかもしれませんが命を終えることは人が最終的に必ずむかえるごく普通なことなのです。
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