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昭和の色

私はもちろん昭和生まれですから、まだ今と違ったゆっくりとしたあの時代をとても懐かしく思います。テレビなどで昭和の名作の映画なんかをみると、俳優の着ている物から髪形、建物や電化製品まで今と違ったレトロの感じがなんとも言えません。それにどうしてでしょうか。けっして良いことばかりの時代ではないのに今よりも絶対によかったと思ってしまうのです。
携帯電話なんかは、先日私突然故障してしまったのですが無いだけで異常に不安になりました。無かった時代が嘘のようにどのように連絡を取り合っていたのかその手段が限られた不便さが推し量れます。でも無ければ無いで不便とは思ってなかったはずです。震災の時も、計画停電によって不便な生活を強いられましたが、電気が無ければ無駄な動きを省いてすぐに就寝しようとするのでかえってゆっくり休めたのを憶えています。
今、芸能人でも高倉健さん、菅原文太さん、愛川欽也さんのような昭和から平成にかけて私達を魅了した俳優さんが次々とこの世をあとにしています。もう少しと思っても時代の経過には皆さからえません。今の私達の生活も数十年後は良かったと思われるのでしょうか。出来うれば、今よりも精神の荒廃が加速しないことを強く願います。
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お寺と私

私には信仰に目覚めた頃から、不思議と感じる思いがありました。それは神社・仏閣に対して強く惹かれる身体の感覚、それはまるでスポンジ状の私の身体に霊気がどんどんと吸収されるかのようなものです。当初はとにかく、精神の異常を治したくてお寺に通い座禅をくましていただきました。それが意外に吸収率が高いというか、どんどんと自分の心身があらためて開発されいくというか、導いてくれた先生が「不思議だね。あなたはお不動様のパワーを普通の人よりも異常に吸収するのね」と仰ってくれたのを憶えています。しかし、このスポンジ体質にはもろ刃の刃ではないですが危険性もひそんでいました。少し油断すれば意に沿わない霊気も吸収してしまう為、精神のコントロールが難しくなってしまうことです。慣れないうちは、お墓の前や事故現場、なんだか暗い場所を通り過ぎるたびに気持ち悪くなったものです。やがてそれは神仏に対する修練が積み重なるとそれは克服されました。しかしいまだもって霊気に左右されやすいことは確かです。そんな自分を象徴するように、この前こんなことがありました。
私はお寺を辞してからは自分自身がお寺を背負っているかのような感覚がなくなってしまいました。お寺に勤めていた頃はその背負っている感覚が自分の霊力のバックボーンになっていたので、実際今の自分に慣れるまではまだ時間を要しているところです。それでもお寺好きは根っからなので自宅の近くの無住のお寺に奉仕作業で掃除に定期的に通っています。(そのお寺は市の管轄になっていて、市もそうしてもらえると助かるとのことです)朝出勤前の草刈を終えて朝日に輝く境内とご神木が目に入りました。その瞬間、私の身体にまるで光の粒子のようなものがどんどんと吸収されていき、まるで音をたてて細胞が活性化され悦んでいくのがわかりました。「あーこの感覚。これが私の本来の姿」ふとそう思いました。
どうも私は、生まれもってお寺と自分は一体になるような体質からの脱皮は難しいみたいです。その難しさの中、今現在のおかれた環境で使命を全うしたいと思います。
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共感応

バリデーションとは 認知症の高齢者の介護法で共感することを基本に,一般の人に理解できない行動などもすべて受容し,コミュニケーションをとろうというものです。療法の内容は

・真心を込めたアイコンタクトをする。かがんだり、座ったりして、認知症の人の目を直接見つめる。信頼を築く。言ったことを繰り返す(リフレージング)認知症の人は、相手が自分の言うことを繰り返して確認すると安心する。声の大きさや抑揚も出来るだけ同じようにする。
・極端な表現を使う最悪、最善の事態を想像させる。 例えば、「この食事はまずい」と文句を言ったら、「今まで食べた中で最悪ですか」と聞く。
それが感情を発散させる手助けになる。
・身体に触れる(タッチング)指先で、ほほの上部に軽く円を描くようになでたり、両手で肩と背中をさすったりして、気持ちを静める。
・お年寄りの好きな感覚を用いる視覚的な表現が好きな人には視覚的な表現で聞く
・お年寄りと同じしぐさをして安心させる(ミラーリング)
・グループを作り、それぞれ役割分担をになわせ責任によるやりがいを感じてもらう
・思いで話をする
以上のような治療を心がけるだけで劇的に変化が現われることがあります。
ニュースの番組で知ったのですが、その治療による変化にはとても驚きました。今まで表情一つ変えなかった方が笑い、自分を表現しようとするからです。そして不自由な身体でも生きていることへの不満が消えた瞬間でした。

認知症は身体の病気なだけであって魂が病気になったわけではありません。本人は魂として自らを不甲斐なく、悔しく思うので自分の殻に閉じこもって心を閉ざしてしまうのです。そんな自分をそれでいいんだよと認めてくれることが何よりの処方箋になります。人は生れて小さい時も沢山の手助けが必要です。そして死ぬ時も同じように周りの手助けがなければ、あの世に安心して旅立つことが出来ません。そうして私達は生まれ変わり生まれ変わりして魂を磨いていきます。お釈迦様のような真に悟りを開いた方以外のほとんどがこの輪廻転生のサイクルから逃れることが出来ないでいます。介護する方もされる方も魂の浄化にとって必要な修行かもしれません。


































































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同じ自分・違う自分

私は自分自身にいくつもの多様性を感じています。例えば昨日の自分と今日の自分。ひと月前と今月。去年と今年。まるっきり同じ環境で肉体も精神もすべて同じなのになんだか違う自分であったような気がしませんか。これが良き方に考えれば失敗をしても反省し心機一転頑張れば、成功者にもなりえるだろうし、反対に罪を犯した、失敗した自分は過去の存在だからと自分勝手に割り切って省みようとつゆもしなければ。人間としては失格であります。
余程注意深く考えなければ、そんな絶えず変化を繰り返す自分に気付かないのですがよくよく考えても今日大丈夫だったから明日も大丈夫と、そんな簡単にはいかないのが人生だと思います。
私のような世界の人間であれば不変性であることを拠り所として突き詰めるのが正しい道かもしれません。しかし一日一日、こうしてみると大きな流れみたいなものに自分自身も知らず知らず乗っていて限られた環境、そして能力でやっとこやっとこ生活しているのが事実です。夢そらごとを並べるよりも現実に生きていかなくてはいけない、ただそのことだけに精一杯生きています。
どんなに善人でも悪しき思いを思い浮かべればそれはそれで悪です。どんなに悪人でも一寸の仏心が輝けば善人と同じと言えます。
出来売ればそれら自分があまり浮き沈みなく、心静かに生き得たら良いと思います。

話は連動しますが、こんなことを時々感じます。普段、会わない所で知人とたまたま会うときに「あれーこの人こんな感じの人だったけなー。もっと雰囲気が違っていたような気がしたけど」というように同じ人なのに記憶の中で重ならなくなるのです。また芸能人とかがたまたま普段着で外出していてもオーラが違うからだれも気付かないことがあります。あれはやはり芸能として創りあげられているからこその輝きなのです。意外に芸術方面や運動などに第二の才能を開花させる芸能人が多いのも、そうでなければ自分自身がなんなのか分からなくなってしまうからでしょう。

私達に動かす能力があるのはこの今だけです。過去の栄光も未来の挫折もその前ではすべて幻に過ぎません。役者のように自分が自分を演じ続けているのが人生です。本当の自分を知りたければ、自分から今を変えるしかないのです。
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知っている

私は知っています。意志が薄弱故に初志からすぐ離れてしまうことを。それなのでもともとの目標からはいつも遠いけど大きく離れすぎないように用心します。また欲深く自分のことがいつも優先の性格を。欲深いのが人からばれないようになるべくいい人になります。それでもいざ自分の容量の範囲を超えたらどうなるかわかりません。普段はうまくできるのですが。私は知っています。元来、面倒くさいことを嫌いすぐに楽をしたがる性格なことを。それなのでまじめにコツコツを装います。そうでなくてはまともから外れてしまうからです。また判断力が欠如していて優柔不断でもあります。わからないことが多いので、判断力の優れた人に委ねあたかも自分の判断のようによそおいます。私は知っています。一度たがが外れると自分の欲望をみたすことばかりに執着することを。そうなると日常の生活に支障をきたすのでなるべく生活に娯楽の環境をもちこまないように気をつけます。またうっかりが多すぎてとんでもないミスを時々犯します。不思議といつもぎりぎりの所で回避されます。
そしていつも恐れています。自分のこの性格で周りに迷惑をかけてしまわないかを。自分だけがどうにかなるかはまだ仕方ないのですが、皆の生活が私によって乱されてしまうのはとても忍びないです。こんな自分の性格だからこそ、仏門に身を投じて初めて人並みになれます。私が僧侶である為、周りはとても好く思ってくれるのがなんだか恥ずかしくも思えます。神仏に感謝しなくてはいけません。
私は知っています。自分よりも周りにすばらしい人がたくさんいることを。こんな自分でも神仏に守られているだから、世の中は見えない世界に深く関係していることを気付けばオセロゲームが裏側るように変わっていきます。そのことを伝えたくて私は生きています。
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