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懐かしい青春

最近、しきりに学生時代のことを思い出します。テレビドラマで同じころの番組を放映しているせいか非常に懐かしくなるのです。

少しつっぱっている方が恰好よく思われていた時代。私もパーマをかけて短ランでいきがっていました。しかし元来、平和主義なので喧嘩なんかはまるっきりせず、どちらかというと顔が目立つので自分に関係のない強そうなやつに目をつけられることがしばしば。

今思うとあまりにも幼稚すぎる精神状態と大人になりたいという思いのはざまでなんとも不格好な日々だったような気がします。
勉強もせず、バイトにあけくれてしまいには芸能界にあこがれる始末。

「夢っていったい何だ」

なんて心の中で叫んで尾崎豊の曲ばかりを聞いていました。

「歩道橋の上振り返り、焼けつくような夕日が」

まさに尾崎の曲そのままに青春していました。
もう少し、心が大人だったら上手に過ごせたかもしれない私の十代。

ただあのころのうまくいかなかった思いが私を仏門へといざないました。
人間、何が幸いするかわかりません。まさかあの頃が懐かしいと思えるようになるなんて。

若い人には今を思いっきり悩んでもがいて、そして乗り越えていってほしいと思います。
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永遠の私

もしこの世の中のすべての人々がまるで木の幹のように根底ではすべてつながっているのならどんなに心強いか、そう思います。

つまり他は自であり、自は他である。他人の喜びはいずれ自分の喜びになり、自分の悲しみも他人の悲しみになる。

そう、今生きている自分自身はけっして無駄ではないということです。そして自分がこの世の修行を終えてあの世に旅立ったとしてもけっして終りではない。

何故ならすべては個のよう思えてそうでないからです。

私達はもともとは同じ場所にいてそこから別れた存在である。よーく心を澄ましてたどっていくと皆、根底は同じ。同じ故郷から来たのです。

他人だと思っていた人が兄弟のように思えてきます。

私の頑張りも、血と汗と涙もけっして無駄にはなりません。自分のその結果がかえってこなくてもいずれ誰かがその思いを引き継いでくれます。

神仏は魂が永遠であるという最高の財産をくださいました。
自分がなくならないということはどんなに嬉しいことでしょう。

焦る必要はありません。出来ることを精一杯勤しめばいいのです。

私は永遠です。

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こだわりを捨てる

人はあまり最初からガツガツいくよりも少し足りないくらいの方が調度いいのかもしれません。

私は最近、自分の生き方からそう感じます。

普段は必要以上に無欲であること。そうすればへんなこだわりからは脱することができます。
悩むのは「こうあるべき、こうしたい、自分は」

という強いこだわりです。よーく考えるとどちらでもいいパターンがほとんどなのです。
しかし、自分の意見を通さなくては。これは一生懸命の自分が決めたことだから。譲ったら自分がなくなってしまう。

本当はそんなことぐらいで自分はなくならないのに、そうこだわってしまう。
それは自分の強さではなくて弱さなのです。

これから私自身もいろいろな自分の弱さをいやというほど見せつけられるでしょう。

しかし本当に譲れないもの以外は手放してしまえばこんなに楽な生き方はないのです。

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決心

あの日の海はとてもきれいでした。私達家族は願掛けのお礼に日本海側の有名な神社にお参りしました。

兄はあやまって橋から落下し頸椎骨折という大けがをしました。それでも命が助かり、こうして働けるようになったのは奇跡としか言いようがありませんでした。

私も大きな挫折から這い上がり、夢だった僧侶への道の一歩を踏み出した、そんな家族にとって大きな転換期だったのです。

私はキムタクのようなロン毛だった髪を丸刈りにしてバイトを辞め、修士論文をとにかく卒業する為にかきあげよう、そう決心しました。成績などはどうでもよかったのです。とにかく卒業して僧侶になるしか頭にありませんでした。

人は物事を決心すればほぼ90%のことは出来上がっている。そのように思えます。
私には決心するか、しないか。それが重要だったのです。遊びほうけていたわけではありません。自分が僧侶になっていいのか。こんなんでいいのか。この人格で性格で本当にいいのか。それがどうしても引っかかっていました。


皆、何かになろう。なりたい。と思っているはずです。
しかし、そうする為にはあらゆる苦難を乗り越えるだけの覚悟が必要なのです。
けっして恰好よくありません。むしろ無様といえるでしょう。そんな姿をさらしてもむくっと起き上がり歯を食いしばり、何でもなかったかのように前だけを見つめる。それが決心だと思います。


何でもそうですが現実は厳しい。それにつきます。私だけではなくこの世で暮らすこと、生活している人、すべての人達がその厳しさに耐えながら生活しています。見た目と現実は違うはずです。

あれからもう25年以上たちました。
今もこうして決心を遂行すべく生活しています。

ただ願わくばもう一度家族であんなふうにお参りが出来たら、そう思えてなりません。
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当たり前の幸せ

毎日が無事終えることにほっとしています。よく普通が一番といいますがまさしくその通りです。

普通なんて本当はなかなかないのです。今、こうして生きている間にももしかしたら自分は大きな罪をおかしているかもしれない。

まるでその先に大きな滝があるのにもかかわらずに川を下っているような状態かもしれない。これから何が起きるのか怖ろしい。


「三車火宅のたとえ」

ある時、長者の邸宅が火事になった。中にいた子供たちは遊びに夢中で火事に気づかず、長者が説得するも外に出ようとしなかった。そこで長者は子供たちが欲しがっていた「羊の車(ようしゃ)と鹿の車(ろくしゃ)と牛車(ごしゃ)の三車が門の外にあるぞ」といって、子供たちを導き出した。その後にさらに立派な大白牛車(だいびゃくごしゃ)を与えた。

信仰によってこそ、この三世の苦しみから脱することができるという譬えです。純粋に仏を信じ、念じ、そして自らと一体となる。すべての人には悟りを得る能力がある。だから苦しみから抜け出す一番の方法は仏を信じ、一心に念ずることである。



確かにそう思います。その通りです。しかし恥ずかしながら僧侶である自分自身がわかっていてもそのことが出来ないのです。
まさに火宅の中にどっぷりとつかっています。

苦しみの先に何があるのだろう。ただ言えることは今日も食事ができ、帰ったら寝る場所がある。そんな当たり前の幸せに喜びを感じられること、それは事実です。
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