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ちょっとしたことで

今日はとても忙しい日でした。大晦日というのもあって一応明日から私も連休です。しかし昨日の風でせっかく綺麗にした霊苑がすぎっぱだらけになってしまいました。

参りました。たぶんお寺や神社も困ったと思います。ただでさえ忙しいのに。

 

それで朝から掃除をしていたのです。今日も会館ではお葬儀があり時間に限りがあります。

もう血相変えてやっていました。新年におお墓参りに来る人はたくさんいますし、すぎっぱだらけのお墓にしておきたくなかったので。

それでマラソンをする気分でとにかく押しました。あー時間が足りない。疲れた。その時です。

私のお勤めした家に方がお墓参りにきていたのです。

「すみません、ライター忘れました。和尚さん貸してもらえますか」

私は車まで走って取りに行き、そのまま差し上げました。

忙しいのにとは思いませんでしたがそれから何故だか身体が軽くなったのです。

 

そういえば数年前にマラソンのトレーニングをしていた時に老婦人に道を尋ねられました。

参ったな。今追い込んでいるのに。

そう思ったのですが丁寧に教えてあげると感謝されました。

それからです。何故だか身体が軽いのです。

 

もしかしたら人はちょっとしたことで随分気分的に楽になるのではないかと思いました。

人はある意味きっかけです。

皆さん、良いお年を!

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正面突破

この世の中、良いことも悪いことも半々です。だから良いことがあったからと言って油断せず、悪いことがあったからと言って落胆しすぎずに生きなくてはなりません。

 

苦しい時はやはり自分自身から逃げずにどうにかまっすぐ生きるのです。正面突破は一番嫌だし、心が折れそうになります。しかし結局それが苦しみから解き放たれる近道になります。

 

 

関ケ原の戦いの時に負けが濃厚になった西軍にいた島津義弘は退却をするときに東軍の大将である家康めがけて突進しました。

捨て奸(すてがまり)という戦法です。

本隊が撤退する際に「兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする。そうして小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法。足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶な戦法。

 

義弘の身代わりになって甥の島津豊久や家老など多くの犠牲者を出しましたが無事に薩摩に帰れたのは勇猛果敢な島津勢だったからと言われています。

もしこのような戦法を用いていなければ義弘はとらえられ、島津軍は全滅していたかもしれません。

 

私たちも己れの苦難の時はこの戦法を用いることが一番の方法であるかもしれません。傷つき、痛い目に合うかもしれませんが生き残ってこそ次なる道も開けてくる可能性もあるのです。

実際、島津義弘は徳川方の武将に一目置かれその後、家康による島津征伐の時もその印象が大きく影響して最終的にはお咎めなしになりました。

 

できるかできないかは別として人生にはこのような境遇にさらされる時が必ず来る、そのように思います。

 

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励む

人の縁とは不思議なものです。まるでその人とこうして会って話をするのは運命であるようにつながっていきます。

 

私は仕事がら多くの人と出会い、そしてつながり、お話をさせていただいています。定期的にお会いする人や一年に一・二回お会いする人、さまざまですが共通していえることは深い縁を感じていることです。

 

私には多くの信者はいません。それはある有能な霊能者の方にも言われたことがあります。

「あなたは信者は少ないが僧侶としてしっかりやっていける」と。

 

ただ信者というよりも知り合いは多くいます。どう説明すればいいのかよくお話ができる人です。

お互いの近況や思いを語り合い高めあう。

 

こんな自分のことを慕ってくれている人がいると思うと頑張る勇気がわいてくるのです。

 

私にはお寺はないがこのような人のつながりこそが自分を僧侶としての生き方の原点だと思うのです。

 

スタンスとしてはやはり市聖といわれた空也上人。諸国を行脚した一遍上人。そのような僧侶としてこの世の中に溶け込み、なおかつ一般の方と仏様と橋渡しをする役がら。

 

おかげ様で人と話すことが好きですし、その人の人生を頭にインプットしてとどめ置き、そこから話をくりだすことも得意です。

 

50歳にしてようやく僧侶として自分がどう生きたらいいのかが分かったような気がします。

これからも励む、それのみです。

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すべきことをする

当たり前にできることを毎日コツコツすることは意外に難しいことです。それができるかできないかで人生は大きく変わります。

 

多分、成功する人はそれができる人です。突然、ラッキーみたいに幸運が舞い込んでくるようなことはこの世にはまずありえないのです。

99パーセントの努力と1%の幸運。

 

幸運を舞い込ませるにはあくまでも努力が必要です。そして己に対する謙虚さと誠実さ。

幸運も不運も本人の心持ち次第なのです。

 

小さなゆるみをカットし、単純にすべきことをする。

私の今はそれに徹しています。

あまり余分なことをしないようにするのもけっこう難しいのです。人はすぐにブレるので。

 

最近は体調もいいし、身体も軽くなってきました。

すべきことをします。

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即身成仏

人の人生は不思議なものです。

一人の個性はこの世で唯一。一人として同じ人はいません。これはやはり神様のすること。本当にすごいことです。

どうして違う人間をここまでつくれるのか。

よくテレビでそっくりさんは見かけますがどこか違います。中身が違うからです。それほど中に入る魂が重要だということでしょう。

 

そんな人もこの世での生は限定されています。ずーとはいられません。平等にこの世の生を終えます。

さてあの世に旅立ったらこの世の自分はいったいどうなってしまうのでしょう。そのままでいられるのか。

 

私は思うのですがもうこの世のままというわけにはいかないような気がします。もちろん魂は永遠ですがこの世の自分という存在の枠からも解放されるような気がするのです。

 

それなのでやはりもしやりたいことがあるのなら、この世の自分をもっと満喫したいのなら自分自身を一歩ずんと前に出して生きるべきなのです。

自分なんかと遠慮するだけ損です。その遠慮が自分自身にとって本当にそうあるべきなのか。否か。

 

有効期限がある自分。あーよく頑張ったと最後にほめてあげられればこの身このまま成仏したといえるのではないでしょうか。

 

私はやはりこの自分が好きですから。

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