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今を生きる 真剣に

あるお世話になっている方に前のような元気さがないと言われました。もしかしたら調度今自分は少しスランプ気味なのかもしれません。

でもそれは仕方のないことなのです。今までもすべてが順風満帆にいっていたわけではありません。どちらかというと浮き沈みが激しい人生でした。時には引きこもり、時には無口になったり、人間不信になったり。

しかし、その度に私はいろいろな人に助けられるのです。本当にありがたいことなのですがとことん落ち込んだ時ほどいろいろな方が手をさしのべてくれます。

調子のいい時は当たり前だったと受け流していたいろいろな方の厚意が今のような状態の時はすごく心にしみます。

皆さんには最近、こんな愚痴めいたブログしか載せれないことをお詫びします。

しかし必ず同じような体験を皆さんもするはずです。その時にこんな私の独り言を是非とも参考にしていただきたいのです。

私は今を真剣に一生懸命生きています。
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命がけの謙虚さ

人はいつしか自分のことが見えなくなってしまう生き物です。

最近、不祥事で解雇される監督が見受けられますが彼らは本音はこうだと思います。

「俺の何が悪い。これだけの実績をつくったのも、成績をのこせたのも俺が監督だったからだろう。なんでそんな少しのことを見逃してくれないんだ。そんくらいのことに比べられない存在ではないのか。俺は」

今でも半分は被害者のように思っているはずです。世間やメディアに俺はここまで追い込まれたと。

でも正直、簡単なことなのです。頑張っている、頑張っていないは関係ありません。謙虚さが大きく足らなかっただけなのです。

人間はどんなに素晴らしい人であろうと優秀な人であろうと謙虚さがなくなればもうそこで本来あるべき姿の半分以下になってしまっています。
知らず知らずのうちに言動が乱れ、温かさのない人間になりさがってしまうのです。

この世の中はいくつになってもどんな名誉や地位、名声をえることが出来たとしても修行を怠ればすべてが地に落ちてしまいます。

修行とは何か。滝に打たれたり、山駆けをすることではないのです。
今自分がすべきことを真面目に真剣にそして命がけで行うことなのです。

職場は行場です。油断大敵です。そこで輝けずしていつ輝くのか。いつ頑張るのか。そう思って真剣に打ち込まなければなりません。
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一番に選んだもの

うちの子供は古民家やお寺っぽい雰囲気の場所に行くと

「いーなー私こういうお家が好き」

と言います。現代的な綺麗な家でなく、どこか古い匂いのするそんな場所を好むみたいです。

もちろん、私も同じです。こうして今はまるっきり違う環境にいますがそんな場所をどこかで求めています。

私は思うのです。この世は望んでいることとは違うからこそ修行になるのではないかと。私は若かりし頃、僧侶になることを夢みました。しかしそこまでたどり着くにはある意味死にもの狂いの自分との闘いがありました。

そうして25歳の時にようやく僧侶になりました。まるで後にも先にもないギリギリ滑り込みセーフみたいなタイミングでした。
ただ夢がかなってからは今度は違う目標が自分の中で芽生えました。

お寺の住職になりたい。結婚したい。

お寺の住職にはなれませんでしたが結婚し家族を持つことができました。
よく言われたことがあります。

婿養子でなければお寺になんか入れないぞ。

その通りでした。まるで私達家族が入れるお寺なんかはなかったのです。あるとすれば皆が行きたがらない遠い遠い地の小さなお寺。
そこでも住職になれるのなら行くべきだったのかもしれません。しかし私はそこに行くことはしませんでした。

あまりにも理想と違っていたし。子供はまだ一歳にもなっていませんでした。
私にとって大切だったのは家族の方だったのです。

本当にほしがりというかなんというか。
自分で結婚せずにどこかのお寺に入ると決意していれば確実に道はあったのかもしれません。けれどそれはいいと思ったのは私自身だったのです。

私は毎日のようにお寺を求めています。もしお寺を背負って今の仕事が出来たらもっと活躍できるかもしれない。
その環境がほしい。

今日、あるお宅でこんな笑い話をしました。

「和尚さんみたいに霊柩車運転して葬祭ディレクターやって提灯や仏壇を売っているお坊さんなんか世の中にいないのではないか」

私もそう思います。自分で自分を褒めてあげたいです。

私の本職をもっと生かせる場所に行きたいけれどそうはいきません。家族がいるからです。

私はこの世の中で一番大切だと思った家族の為に今日も頑張ります。
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変化の時期

ついこの間までの自分はやはり何かがおかしかったような気がします。とにかく忙しく動いていましたが何かがなくなっていました。

それは何か。私が今まで大切にしていたもの。

もともと不器用なのでそれほどテキパキと物事をこなせるタイプではありません。それに元来、クソ真面目なところが短所でもあり自分の長所でもありました。

今まで僧侶として生きてきた自分には普通にしていれば見逃すこと。それをくみ取れる何かがあったのです。

普通の人ならそこまではしない。そこまでやれる。そこまでエネルギーを注げる。

それが自分の良さでした。でもこの間までの自分はそれを失くしてしまっていました。忙しく業務をこなすことは会社にとってはありがたいことかもしれません。
しかし、そうなって僧侶としての自分のレベルが落ちてしまうのなら何の為の仕事なのか。

もう働き方を変えなくてはいけない時期に来ました。

スタッフ業務もきちっと自分の出来る範囲でこなしながらお坊さんの仕事に集中したいと思います。
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鍛錬で慣れさせる

今日はお休みで久しぶりに長い距離を走りました。35キロくらいだろうか。暑かったのでやはりきついです。

これは不思議な感覚なのですが人間の身体はなんでも徐々になれていくみたいです。

いつもよりも20分長く走っただけでいつもよりも余計に疲れます。30キロはもう休みのたびに走っているのでそんなに疲れないのです。あー走ってきた。じゃあ何今度しようか。そんな余裕があります。もちろん最初のうちはとても疲れました。それが何十回とかさねると身体にインプリンティングされるみたいでそうでもなくなるのです。普通になってしまう。

今日はたった5キロ追加しただけです。それでも普段とは違うと身体が反応します。そのせいで「疲れた~」と余分な感覚が残るのです。少しバテました。

約、4年前に走り出して最初は2キロ、次5キロ、10キロと毎日の負荷を上げていきました。そのたびにタイムは約一分くらい速くなっているのです。2年前にはどうしても勝てなかったランナーが知らず知らずのうちに一緒に競うことのないまったく別の存在になっています。

ただここからもうワンランク上げるには練習メニューを追加するしかないのです。
前から指摘されたようにスピード練習を朝のランニングに10分追加しました。これにより身体がすぐにダッシュすることを嫌がらなくなりました。
10月の大会が楽しみです。絶対にタイムを更新したいと思います。

なんでも慣れです。今の自分の状況も慣れてしまえばそんなに苦ではなくなります。最初だけ驚くのです。慣れてないから。しかしそれを重ねれば時期に普通になっていきます。

目指しているものは何か。そのゴールポイントだけわかっていればある程度のことは慣れさせておいて後は努力と鍛錬をし確実に伸ばしていくしかないでしょう。
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