一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
葬祭ディレクター
今日、私がディレクターを担当したお宅は昼の軽食と精進落としのお弁当がだいぶ余ってしまいました。
昨日のお通夜から考えるとそのくらい頼んだ方がいいという判断をしたのですが予想がズレたのです。
コロナで火葬場まで行かない人がいたこと。お通夜の昨日は日曜だったの平日の今日は当然少なくなっていたこと。
もちろん当家が最終判断をしたのですが、自分が少なめでいいと強く推して言っていたらと思うと後悔の念がのこるお葬儀になってしまいました。
自宅にあと飾りの花と盛籠を設置してお宅を後にした時にふっと故人の声が聞こえてきた感じがしました。
「いいのよ。ありがとう」
一度も会ったことがないし、声だってもちろん聴いたことがありません。でも私の心は急にそこから楽になりました。
ディレクターの仕事。なかなか奥が深いです。当家に寄り添い、ご親族、ご遺族の皆様がなるべく満足して故人様を送れるように導く。儀式を無事に執り行うお手伝いをする。
今日の反省を明日以降に生かし、もっと自分を磨いていこう。そう思いました。
身軽
仕事が忙しくてなかなか休みがとれません。気持ちが張っているからですがエネルギー切れになるのが怖いです。
それと事故やミスがないように気を付けなくてはなりません。
どんなに頑張ってもたった一回のミスで人間は崖から落とされることがあります。そうなると今までの頑張りは何だったのかと思いたくなりますがそれは仕方ありません。
だからもう少し冷静にならなくてはとも思うのです。
身体を壊すほど働いていないか。
頑張りすぎて実力以上のことをしていないか。
どこか、忙しすぎて本来のサービスを怠っていないか。
たぶん、会社も周りもそこまでは望んでいないはず。だから過ぎたるは及ばざるがごとしを肝に銘じなくては。
本来、社会は多くの人のつながりの中で回っています。自分もその中で大切な役割りを担っていますが自分で抱え込んだとしても誰が損するかというと自分なのです。
どうしてもうまくいかないという人には真面目な人が多いです。その人にはすごくいい面があるのに抱え込んで自分を全否定してしまっていて本来の実力が発揮できないのです。
自分がいなくてもうまくいく事実は寂しいかもしれませんがそれを認めるとどこか楽になれます。
ならば自分がいてもうまくいくとも言えるのです。
そのぐらい身軽になってこの世を満喫すれば意外に楽しいことも見つかるかもしれません。
真宗
寒い中の納骨、もう日が暮れていました。私が今日担当したお葬式のことです。
浄土真宗のお話は丁寧でお坊さんらしいと思いました。どこか私の宗派とは違い、一般の人と同じ立場で寄り添う教えみたいです。
戒名とは言いません。戒をさずけるという考え方がないからです。私たちが授けるのは法名といいます。
と話されました。
釈〇〇、三文字。釈はお釈迦様のことをいいます。塔婆もいらない。自宅のお仏壇にはお位牌もおかない。過去帳のみ。
阿弥陀如来様にもうすでに救われているのだから必要ない。お坊さん毛髪。
なんだか日本仏教でも少し特異なところがかえって好ましくおもえました。それに確か信者数も檀家数も寺院数も日本で一番多かったと思います。
どこかキリスト教的な唯一神を思わせる信仰です。
今回は後継ぎの方がお勤めをされましたがそこのお寺の住職は87歳の女性です。とても品のある優しい方です。
なんとも言えない雰囲気があります。
私たち僧侶はこうあるべきとあまりにも考えすぎかもしれません。
親鸞聖人はあの時代に肉も魚を食べ、妻帯もされました。優れた僧侶としてとても勇気のいる行動だったと思います。
今の僧侶のほとんどがそれが当たり前になっている現状を各宗の御祖師様はどう思っておられるだろうか。
そう考えると親鸞聖人は時代の先駆者です。
仏教に対して純粋だからこそ、その道を開かれたのです。
今の赦された時代に甘んじず、精進しなくてはなりません。
不幸ではない
なんだか急に電池切れみたいになってしまっています。毎日が忙しいと昨日も今日も明日もというわけにはいかないみたいです。
今日お勤めのご住職さんの法話に「苦労はしたけど不幸ではない」という文句が耳にささりました。
確かに人は生きているかぎり苦労しっぱなしです。今日、幸せの絶頂期にあってもその人は何年か先には必ず苦しみを味わうことになります。それが人生というものです。
私の人生は不幸だったのか。
苦しみだけが脳内でクローズアップされるから良かったことを忘れがちなのです。
よーく思い出せばいいことも沢山ありました。
うれしくて涙をながしたことも飛び跳ねたこともありました。
心をときめかしたことも興奮して眠れなかったことも。
ギリギリのタイミングで助かったことも。
誰かが自分の手を強くつかんで救ってくれたことも。
よーく思い出せば数えきれないくらいあるはずです。
間一髪で救われることだって誰にでも経験があるはずなのです。
苦労はしたけど不幸ではない。
いい言葉です。私も自分の人生、不幸とは思いたくはありません。
せっかく多くの人と出会い、助け合い、築いてきた人生。
不幸だなんて言わせません。
父親の背中
この前、娘が一緒にお風呂に入っている時にこう言いだしました。
「パパ、後ろ向いて。背中あらってあげる。ママにしたらすごく喜んでくれたから」
小さな手で私の背中を洗ってくれました。涙が出そうになりました。
思い出したことがあったのです。
学生時代、友達の家族と父と伊勢神宮にお参りに行ったことがあります。そこで泊まったホテルで私は父の背中をはじめて流しました。父の背中はどこかひろく、長年仕事をしてきた雰囲気するものでした。少し照れながらの私に父はありがとうと喜んでくれました。
不器用な親子関係だったのでなかなか本音は言えずじまいだったけれど一緒に霊場巡りをした時には父の本心が感じられたような気がします。
父と一緒に仕事をしていた兄が兄弟で一番愛おしいとも言っていました。普段は仲悪そうにしていたけど「やはり」とも思えました。
自分が一番でないことが寂しいとは思えませんでした。
私はどうも遠くから家族を応援する役目をその頃から心得ていたみたいです。
娘は肩もたたいてくれました。そのやさしさに疲れが吹っ飛んだ気がしました。
私のいい思い出になります。
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