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擬死再生

私が大きく変わったと感じたのは高校三年の時です。この時期の私は進路への不安、自分への不信感、挫折などで精神的に追い詰められた時期でした。この時期、私は仏教に出会ったのです。

この教えの素晴らしいところは学校では教えてくれない、どんな人でも救えない、私の心を苦しみから解放してくれたことでした。
もし魚が濁った水の中で生活すれば病気になるように私という個体は自分を含めた生活環境に限界を感じていたのです。

仏教はまるでそんな自分に新しい風、新しい空気を吹き込んでくれました。
私の心は苦しみから解き放たれて再び自由を得られました。

そして私は変わりました。同級生が驚いていました。
「お前どうしたんだ。なんか変わったな」
急に言葉使いか丁寧になり、きれい好きになりました。以前のように自己主張を無理してしなくなったのです。

私はどうしてこうなったのかはわかりません。
ただ毛虫がさなぎになり蝶に成長するかのようにいったんある程度の自分がくずれて原型をとどめなくなり、そこから新しい自分が形成されたような気がしたのを覚えています。

ただこのような時期は私の人生の中には幾度かありました。そのたびに擬死再生を繰り返しあらたな自分を形成してきたような気がします。

この擬死の時期は以前の自分を一度否定しなくてはいけない期間でもあります。それなので肉体的にも精神的にもかなり追い込まれていきます。
「どうして」
という心の叫びが多くなるのです。そして心のキャパシティの限界点を超えた時に一回精神は仮死状態になります。
もう生きているのが嫌になるのです。
そんな状態の時はとにかく目の前のことをこなすことだけに集中して余分な迷いを追わなくしなくてはなりません。
ただ生きていればいい。そのくらいに構えるのです。

やがて自分でも気づかないうちにその仮死=さなぎの時期は終わり、蝶になっています。これは自分でははっきりとはわからないのが特徴です。でも何かが違う。今までと。
生活習慣が前より改善される特徴があります。
「今までなんでできなかったのだろう」
そんなことを思うはずです。そんなに難しくないことができない。それが自らがもつ因縁だと思います。
気付きたくても気づけないことが。わからないからこそ周りのせいにしてしまうのです。

もちろん新しい自分になったとしてもそれでいいとはいきません。再び越えなくてはいけない自分の因縁の壁がやってくるからです。
しかし明らかに自分という存在は次のステージに移行したことは確かです。
つまりは本来の自分により近付いたといえるでしょう。この世での自分の存在意義が高まったのです。

皆、この世で生きる人は多かれ少なかれこのようなサイクルを繰り返しながら成長し生活しています。

ある意味人間は変われる存在だといえるでしょう。だからこそ重要なのは他ではなく自分です。自分さえ変わればそれに付随して周りの環境にも変化が訪れます。

そこに誰かとかかわり、この世で生活することの喜びがあると思えてなりません。

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当たり前の自分

あるテレビのコマーシャルで大人になるということは無駄をなくすということと元サッカー選手が述べていました。
ベテランの選手になるほど無駄がなくなると。

確かに人は経験を重ねるごとに生き方に無駄をなくしていきます。
若ければ若いなりの良さがあると思うのですが、今の年になってようやくわかることもあるのです。

すべきことがいい意味で限定される

人はさまざまな経験から自分の実力を思い知らされるのです。

自分はもっとできる人間だと思っていた。これは私の正直な自分への感想です。

若い頃は可能性がもっとあるのではないかと思いがちなのです。しかしどうでしょう。今の年齢になり冷静に自分を見渡してみるとわかります。これが自分の実力だったのだということを。

そして反対にわかることがあります。ならばすべきことは何かということを。

マラソンをしていて苦しいのは半分を過ぎてからです。しかしゴールへと近づくにつれて苦しさが限定されます。
それはあとどれだけでいいのかがわかるからです。

もちろん自分の人生のゴールはまだまだ先だと思っています。ただそれまでに今の自分から何ができるのかがおおよそわかるのです。

こうなると人間は強いです。せっかくだから実力を出し切りたい、そう思うからです。

今の自分は50歳を過ぎていい意味で無駄がなくなり、自分にしかできないこと、自分だからできることが明確にわかるようになりました。

あとはより集中力をたかめてすべきことを一つ一つクリアするのみです。

特別でない当たり前の自分がどれだけできるかがある意味楽しみです。
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今度は自分の番

人はいつでも変わることができます。中身さえ変えてしまえばいいのです。

最近のドラマでもありましたが中身が入れ替わってしまう話。でも周りからすれば外見どおりに見るのが当たり前だと思います。だから中身が誰だかなんてやはりわからないのです。

ただ中身が変わるとそれと関係する周りも変わってきます。よく誰かを変えたい。わかってほしい。
そう思っていてもなかなか人は変えられません。

自分が変わる。それが一番の近道です。

最近、自分は自分で変わったと思います。そうしたら急にいろいろな人から連絡が入るようになりました。不思議です。自分の考え方、行動が変わっただけで関係する人が敏感にそれをキャッチする。

私の中の根本的な部分はもちろん前とはほとんど変わりません。だけれども今まで忘れていてしまっていた部分を取り戻しただけなのに大きく変化しました。

それは僧侶として一貫として目指してきた生き方、姿勢です。

人様のお役に立ちたい。立てさせていただく。

そんな思い。まるで大好物の食べ物にありつけるようにウキウキします。
また恋人にでも会うかのようにワクワクするのです。

それが私の中の仏教、密教、仏様です。

もともと大好きだったのです。その延長で僧侶にまでなりました。
口に真言を唱え、印を結び、仏を観想する。

普通の人がやらないそれらのことが私にはまるでプレゼントでもいただいたような気持ちになるほど嬉しく、楽しいことだったのです。

今は忘れていたことを思い出した状態です。自分が変わったというよりも目からうろこが落ちたような感覚です。

今の状態でもいくらでも仏様との結びつきを強くすることができます。
正式な僧侶の修行をした自分が、ありがたい教えの神髄に直にふれた自分ができないはずがないのです。

もっとやれる。もっと深められる。そのように思います。

先人たちの思いを受け継ぎ、今度は自分が後世にそれを伝える番です。
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夢落ち

今日は桜が満開なのに花冷えで冷たい雨が降っています。

私は雨の日も好きです。どこか静かで寂しくて、それでも温かくも感じる。

いつでも雨の日に思い描く光景はに水たまりと濡れた落ち葉です。何気ない光景だけれどそれが自分の雨から浮かぶことの意識の入り口みたいな感じがします。

潜在意識の扉を考えると以前にハリウッド映画でレオナルドディカプリオと渡辺謙が共演した「インセプション」の内容が時々浮かんできます。

夢を見ている間に潜在意識に侵入し、秘密、アイディア、思い出までを盗む。ただそれが夢の中かどうかを確かめるものを一つ持っておかなくてはいけない。主人公のレオナルドディカプリオは確かコマだったと思います。コマの回り方で今、現実世界にいるのか潜在意識の中にいるのか判断するのです。

この前、夢を見ていた時に最悪のミスで右往左往している自分がいました。お塔婆を荷物と一緒に置いたら割れてしまって「やってしまった」と悔やんでいるのです。

でも今回は冷静なもう一人の自分がいて「そんなことが起きるわけがない」と。案の定、これは夢だと思いながら目が覚めました。

人生もある意味長い長い夢を見ているにすぎないのかもしれません。よくある小説や漫画の最後は全部夢だったの結末。

あの世に旅立った時にこの世とはどのような所だったのかがはっきりとわかるそうです。

そうした時に必ず思うこと。「もっと人に対してあーしておけばよかった」
これが一番だといいます。

自分が「あーなりたい」ではありません。あくまでも大切な人やその他おおぜいにしておけばよかっただそうです。

近くにいると当たり前すぎてわからないことが多くあります。当たり前でなくなった時にそのありがたみがよーくわかるということ。


この世界は過ぎ去ってしまった後に「やっぱり夢だから」みたいに都合よく落ちがやってくるわけではありません。

あくまでも最後までこの現世という夢を精一杯見続けてこそ最後にあの世でいい目覚め方ができるのです。

ゆめゆめ侮るなかれ。
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すべきをする

今電話で知り合いの僧侶と話をしました。
彼もサラリーマンからお坊さんになった方で今も二足のわらじを履きながら僧侶として活動しています。

凄いのが自分の貯金でお寺をたててしまったこと。頭がさがります。

臨床宗教士の話をしていました。ガンなどで余命わずかな方を宗教者として導く資格だそうです。

今の社会の仕組みではなかな生前にそのような縁をつなげることは難しいかもしれませんが頭にはいれておこうと思います。

まずは今の環境でどれだけ、人のお役にたてるかです。
皆、形にこだわりすぎです。

以前、新潟の良寛禅師の庵を訪れたことがあります。小さく、粗末な家です。そこから素晴らしい作品が後世にのこされました。そして、良寛禅師は生前はほとんど無名でした。

そう考えれば私にもいくらでも可能性があります。今の世の中は志次第でいくらでも自分を高められるのです。

まずは本を読むもよし、実際に能力を試すもよし、やることです。

行動しなくては何もはじまりません。

贅沢に多くがみたされすぎているから見えないのです。

出来る人はすべきことが見えています。

私もすべきことをするのみです。
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