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勇気を出して

今日、法事で「この前のお葬式に参列したんですが和尚さん声があまり出ていませんでしたね」と言われてしまいました。声が大きいという指摘をうけたから小さめで丁寧にあげたのですがそれがある人には物足りなかったみたいです。

このように物事は多面体でいろいろな角度から見て感じることができます。
ある人には悦びが違う人には苦痛であったりある人には悲しみがある人には勇気に思えたりします。

まさに人生は自分の考え方次第なのです。

どうして誰もがうらやむお金もちが不幸そうな顔をしていることがあるのでしょう。

どう見ても裕福でなく家計がその日を暮らすのに精一杯なのに幸せそうな笑顔で生活している人もいます。

人は旅立てば皆同じです。この身体は土に帰り、魂は昇天するのみです。

皆、最後が平等に与えられるのだからこの世的な幸不幸はそれほど大したことではないはずです。

唯一、あの世にもって帰れる心=魂という財産だけしっかり貯めておけばまさに生涯設計に成功したと言えるでしょう。

勇気を出してしっかりと生きましょう。
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逃げてもいい

ただ人はやはり弱い。心は臓器と同じ。病んでくればその機能が低下します。

まだまともに動いているうちはいいのです。それが不全。つまり機能しなくなるといずれ手術が必要になるか長期の休養と安静が必要になります。

元気だった方が心を病んだせいで別人になってしまったのを何度も見てきました。

どうにかならなかったのか。そこまでいくまでになんとか防げなかったのか。

やはり未然に防ぐことは直すうえではとても必要なことです。

そこまでになる前に。


人は自分を大切にする権利と義務があります。いくらこの世的にはそうあるべきといえども心を壊してまで続けなくてはいけないことなどないはずです。

逃げる。

本来、逃げるなと私達は教わってきました。努力すれば必ず超えられると。逃げるのは自分が弱いからだと。

ただ逃げてもだれも文句を言う権利はありません。自分の人生。他人にとやかくいわれる筋合いはないのですから。

逃げてもいいのです。いつでもいい。再び力をつけれるまで退避です。

自分の身の安全は自分にしか守れません。
人を傷つけたり、蹴落としたりしているわけではないのですから逃げることは十分に許されるはずです。

何も問題なしなのです。
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正しいことを貫く

いじめの構造。

それは明らかにいじめる側が悪いのはあきらかです。しかし問題はそんな単純なものではありません。

何故かというといじめられる側にもいじめを改善させる力があるからです。

無責任なことをと責められるかもしれません。しかしいじめている側がいじめているという意識が薄いのにはそれが普通と思われているふしがあるのです。

たいていいじめられる側は優しく、内向的な性格が多いと思います。

ここに美味しそうな食べ物があります。だれでもお腹がすいていてすぐにでも頬張りたいぐらいです。

もしそれをいじめる側の人間が俺がたべると独り占めしようとしても誰も文句はいわないでしょう。何故ならそれは普通だからです。

逆におとなしいいじめられる側の人間が我慢できずに食べたとします。そうするとお前が食べているんじゃないよと周りから非難を浴びるのです。

同じ行為なのにやっていいことと悪いことがある。どうして同じ人間なのに勝手に物差しで決められてしまうのか。

「うるさいよ。黙れ」

そう言い返したなら相手は少し驚くかもしれません。何故なら誰ならよく誰なら悪いというのは真理ではないからです。


真理をつかれると正しくない人間は弱い。


難しい。確かに難しいのですがそこです。
自分が正しいと思えることを貫けるか。そこが重要なのです。

ほとんどの人間は逃げたいはずです。怖いし、何かされるのも嫌だし。死にそうに苦しいのにもっと攻撃されるのは本当に避けたいのが事実です。

しかし相手がそうしてもいいと自分は悪くないと勝手に思うのには腹がたつはずです。

「ふざけるな」

この思いは本心です。間違ってはいません。隠す必要はありません。

自分の心を固めましょう。頑丈で簡単に責められない城をつくるのです。そして反撃できるだけの武器も。あくまでも攻撃された時の為に。
そんなことを自分はしてはいけないなんて誰が決めたのでしょうか。
良い子ぶる必要はありません。

自分のことは自分で守るのみです。

どうしてこんなこと難しいことを言うのかというとあくまでも相手が自分のことを悪いと思っていないからです。それだけは避けなくてはなりません。

正しいことを貫く。

難しいことだとつくづく思います。私でも正直、出来ていないかもしれません。

しかしこれは私というより仏様がそうお話していると聞いてもらいたいと思います。
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うまくいくはず

たとえ一粒の種でも環境が整い無事成長すれば何百年も生きる大木になります。

私達はすぐに結果を求めすぎてその仕組みを見失いがちなのです。

たとえ今は結果があらわれなくても自らの信念の種を植え続けることが必要です。その種がもし無事育たないことがあってもそのうちのひとつがきっと大きな葉を広げて成長していくに違いありません。

やがてその大木は沢山の種を地面に落とすことになるでしょう。それは自分という魂の分身をより多くの人の中に生かすことになるのです。

肉体にも遺伝子があると同じように魂にも遺伝子があります。

その意味ですべてにおいて自分という存在は一人ではなく、涙を流し耐えた今世の行も無駄にはならないはずです。

こんな自分でも必要としてくれる人がいる。今までもこれからの未来も。

嬉しいではありませんか。

必ずうまくいくはずです。そんな気がします。
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今の時期が好き

もうすぐ3月も終わろうとしています。この時期は何だか心が春らしくうきうきするのです。

何が変わったわけでもなく何か良いことがあったわけでもありません。普段通りなのですが少しづつ変わる陽気に自分のテンションも上がってきます。

寒い土地で過ごした私の少年時代は三月に雪解けでグランドがぬかるんで靴の裏がどろだらけになりました。その中を春休み中必死で遊んだ記憶が忘れられません。

思うようにならないグランドで薄氷を踏んで割ったり、乾いている土地を探して野球をしたり。

もし四季で一番好きな季節はと尋ねられたら3月と答えます。特に3月の今の時期と。


花粉症も今年はなんとか例年よりも軽めです。体質改善効果ありかも。


今日のお経はあげ方を少し変えました。歌を歌うようにメロディーが綺麗に流れるように唱えました。ある方に声が大きすぎると言われたのと大きな声でお経をあげている他の住職の声の響きがわたし的に耳に気持ちよくなかったのもあります。

またもとに戻るかもしれません。前のお経のあげ方は大きな声ですが感動される人も多かったので。

4月になるとまるっきり春になってしまうのが寂しく感じます。まだ寒さがのこった中途半端が好きなのかもしれません。

お休みなさい。
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