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とんでもない時代

ウクライナの人たちのことを思うと心が締め付けられます。同じ地球上で起きていることとは思えないぐらい脳がついていけません。

あのマリウポリの町がほとんんど破壊された映像。平和の祭典のオリンピックが閉幕したこんな戦争が起きるなんて。

第二次世界大戦以降、このような世界の秩序がくずれてしまった状態になったのは初めてではないでしょうか。
そして私の住む国、日本が同じような危機がやってこないともかぎりません。

国民総動員で兵士になる。

ウクライナ国民のように私は戦えるだろうか。すぐ目の前に死がある状況でいったいどのような行動をとるのだろうか。
国を守る。その精神を貫けるだろうか。戦争とはそのようなものだろうか。もっと残酷で理不尽で恐ろしいものではないのだろうか。

国を守るために人を殺す。

そんなことが正しいなんてどんな教えにも書かれていないのに。

私にはできない。

これから世界はどうなってしまうのだろう。本当にとんでもない時代になってしまいました。

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脳に化かされる

今日は朝から怠くて仕事行くのもつらくて。
昨日、休みで気が抜けたのか、花粉症なのか。疲れがたまっていたのか。

そう思いながら出勤して働きだしたら、案外動くのでそのままガッツリ霊苑に除草剤をまいてお通夜のお勤めをして今にいたります。

自分の身体は思ったよりも動くものだとつくづく感じました。だから脳に化かされているのかもと。

昨日休んだからいつもよりも疲れが抜けているのは事実だったから、やっぱり身体は動く。

そう思うと定期的に身体を休ませることはやはり必要なのだとつくづく思います。

今は花粉症もたいしたことなく身体も快調です。

だから次のお休みまでこのまま頑張ります。
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さくら

なんだかあっという間に4月になってしまいます。さくらが綺麗にさきだしました。


百人一首の一句。

花の色はうつりにけりないたずらに
わが身世にふるながめせし間に

桜の花の色はすっかりあせてしまった。同じように私の美しさも衰えてしまった。
むなしくこの世に身をおいて、春の長雨を眺めて物思いにふけっている間に

小野小町が愛する人を思い歌った一句ですがいつの世も出会いがあり、別れがあることが感じられます。
百人一首の多くの歌はこの世の無常を題材にしていると思うと時代がかわったとしても、ひととしとしての基本は変わらないと思えてくるのです。

大切な人を思う気持ちは時や空間を超越するのかもしれません。
同時に失う悲しみも、無常として悲しみを背負う人に諦めの諭しになっていくでしょう。
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自分劇場

なんだかうまくブログが投稿できなくて。

パソコンが調子悪いみたいです。

さっき、書いたものがなくなってしまいました。二回も。

私、結構入り込みやすくて。テレビ見ていても集中しすぎて周りの声が聞こえなくなります。
ブログもあっという間に書けるのですがスマホだと流れるように打てなくて。今苦戦中です。

自分劇場、て書いていたのです。
悩みごとも自己嫌悪も実は自分で自分を裁いている。

自分を正しく評価できない人は他人のいいところも見抜けない。

だから自分の良さを見抜くことが大切。

自分の良さは同化しやすいこと。
入り込める。感情をシンクロできる。

逃げないで、そこの部分は全力で力を出し切ろうと思います。

パソコン治るといいな。

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法力

故人がどのような人生を歩み、そしてどのように旅立ったかで私自身の受け方も変わってきます。

朝のマラソンが顕著にそれが表れます。もうまるっきり重くなった場合はうまく走れないのです。疲れた、身体は訴えています。
しかし一日経てばだいぶ調子は戻ってきます。

ただこのように疲労がたまっていくと大きなミスを出しがちなので気を付けなくてはなりません。それに忙しいと判断力がにぶり、周りにも迷惑をかけてしまいます。

見えない世界のことなので単なる肉体が疲労しているのとは違います。スッキリしないというか。自分にもっと法力があれば違うのですが。

学生時代にお世話になった先生のところで気功をしている青年とパワーの入れっこをしたことがあります。
先生が疲れているからじゃあ、僕らが気を入れると。

そしたらどっこいどっこいなのですが私の方は法の力があると先生は言いました。

つまり仏教という教えの法力は自分の想像を超えて働きかけるということです。自分が多少微力でも法力は強力。

やはり体調を整えてミスなく法力を発揮しなくてはいけません。それが僧侶の使命だと思います。
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