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まあ、いいか。

最近よく思うことがあります。それはまあいいかという思いは大切なのではないかということです。

意外に人は皆頑固です。私もですがほとんどの人がこだわりがあります。まあ、それが人間ですが。

私の性格上、一点集中でそれしか見えなくなるので余計です。仕事も趣味もどうしてもとことんしたくなってしまいます。


そうしなければ気持ち悪い。

そうしなければ生きている感覚がない。

そうしなければ頑張っていると思えない。

でもこれって全部自分を基準としていることなのです。大まかにいえばどちらでもいいことも多々あるはずです。

それって今日中にやらなくてはいけないこと?
それって絶対にそうしなくてはいけないこと?
それって私でなくてはいけないこと?

まあ、いいか。

これも処世術としてはとても必要です。

まあ、いいかと思いつつやはりやってしまう私。

それでもまあいいか?
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あしたに道をきかば

一日が無事終わることがいかにありがたいか。何気ない一日でもその一日は二度とない一日。

もしかしたら自分の一生にとって本当に大切な一日になるかもしれない。

あしたにみちをきかば、夕べに死すともかなり

つまり朝、人生の極意を体得できるのであれば夕方には死んでもいいということ。私の
大好きな言葉です。

お釈迦様の過去世の物語

昔、マハーラトナという王がいた。そして三人の王子がいた。ある日三人の王子は森の中で遊んでいた。その森の中に二頭の子をつれた母虎が住んでいた。長いこと獲物にありつけなかったので二頭の子を食おうとした。三人の王子のうちに二人の兄王子は逃げ去ろうとしたが末のマハーサットヴァ王子は「永い輪廻転生の間に私は無駄に命を捨てたことが限りなくある。それは貪欲のため、或いは怒りのため、或いは愚痴のためであって尊い教えのためであったことは一度もない。尊い教えのために身をささげる絶好の機会だ」と考え、虎の前に身をささげました。飢えた母虎は王子に食らいつき二頭の子虎は命を救われたのです。身を投げ出した王子こそお釈迦様の過去世になります。

また次の話。

昔、雪山で修行する童子がいました。帝釈天が羅刹の形をして現れてこの偈の前半を説きました。後半を知りたいのであれば自分に食われろという要求を受け入れ、さらに後半の半偈を知るために童子は鬼に身を捧げました。

諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽

この世界のすべてのものは一つとして永遠であるものはない。これが生滅の法という。
生滅無常への執着を滅しればそこに平穏なる寂滅の悟りが開かれて永遠の楽になる。


二つとも法の為に命を惜しまないお釈迦様の前世の生き方が示されています。

今の時代にそれをもとめるのは極端かもしれませんがそのうち、いつかはでチャンスを逃し時間を無駄にしている可能性もあるのです。

今日の一日はそんなドラマチックで劇的な一日ではないかもしれない。しかしいつ訪れるかわからないその時が来た時に覚悟が出来ている自分でありたい、そのように思います。


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新しい方向に

人の人生とは不思議なものです。いつまでも同じようにはいかないといえるでしょう。

たしか道元禅師が「柳の下の泥鰌」の譬えをしていたのを思い出します。

柳の下の泥鰌はいつまでも同じ場所にはいない。それと同じように人は考えを流動的に対処しなくてはいけない。つまり物事に固執してしまっては真理がわからなくなる。

ということです。昨日あげた手柄はいつまでも賛辞されず、今日のミスものちに挽回可能なのです。

考えすぎるといつも袋小路にぶつかります。そしてそこから再び出たとしてもまた行き止まり。

つまりは考えても答えがないことを考えてしまっている可能性があるのです。

私はいつも何かの答えを探す癖があります。

あれはこうだ。こうすればよかったんだ。もっとうまくいったはず。

しかしそのような答えは所詮なかった可能性があるのです。それは自らの器がまねいたことであって、それ以上もそれ以下もないということです。

ただこれからはそれ以上にできる可能性があります。すべては本人の努力次第です。

やってしまったことは仕方がない。なってしまっていることも仕方がない。

今を変えようとすれば自ずから新しい道がひらけるでしょう。

昨日は久しぶりに眠れませんでした。いつもは秒殺なのに。

時々、眠れないという娘の気持ちがわかったような気がします。

何もかもすべては新しい方向に。

だから答えのみつからない今でも前を向いて生きようと思います。
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山に魅了される

昨日久しぶりに近くの霊山まで走ってきました。往復30キロ。娘が自宅待機になってから休みはなるべく家族中心と思っていたのでようやく解禁しました。

思ったこと。

やはり山はいい。そして長い距離を走るのも、汗だくになるのも、心臓が痛く苦しくなるのも、内臓が疲労するのもやはりいい。どうしてだろう。生きているという感覚がする。

帰宅しても身体が動きます。脳も冴え、テンションもいい。どうしてだろう。


スマホを見ていると無料で読める漫画があって「岳」という山登りを題材にしたものをふと読みました。主人公はボランティアの山岳救助隊。豊富な経験から多くの遭難者を救っていきます。もちろん命を落とす人も多く山の恐ろしさと自然の魅力がうまく伝わるストーリーです。

読むとやはりどうして人は命がけで山を登るのだろうという疑問にいきつきます。何故、過酷な雪山に登るのであろう。命をかけてまで。

ネタばれですがでネットで確認したら最後は主人公も救助中に二次遭難にあい、命を落とすみたいです。そこまで読んではいないですが。


私が走る山は日本アルプスのような山ではもちろんありません。しかし同じ距離を走るにしろ何故だか山を登ると達成感が違います。全身の毛穴が喜ぶのを走りながら感じるのです。

それが自然の魅力。山の魅力。

命をかけて山登りをする人同士は一見して似た者同士をしゅん別できるそうです。

背後に同じ匂いを感じるのだろうか。

ストーリーの中で遭難した人の遺体の居場を親族は感覚で当てる確率が高いと言っていました。

見えない何かがはたらくのでしょう。

山に魅了されるのは自分の感覚が研ぎ澄まされて自然と一体となれるからだと思います。

これからも仕事に無理のない程度で自分のこの行を続けます。
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リセット

そのプライドは本当にいるのでしょうか。本当に何よりも大切なものなのでしょうか。

いや違うはず。本当に大切なものは一番近くにいるのです。どうして近くを大切にせず、それほど親しくもない遠くを気にするのでしょう。

すべては幻しです。虚にすぎません。

本当ならばそこから多くのものが生まれるはず。しかしそのプライドは多くの人を不幸にしました。そんなものが本物だといえるのでしょうか。

悔しいです。そんな小さなものの為に・・。

何よりも守らなくてはいけなかったものは違っていた。それが気付くことができたのならまだいいのですが。


時々、思います。もう時代は個人を土地や家族に縛り付けない流れになっていくのではないかと。何百年もそこで生活を守ってきたその場所が一度リセットされる。そんな時代になるのではないかと。

それがいいのか、悪いのかはわかりません。しかしそのように思うのです。

その中でも一番近くにいる人だけは大切にする、それだけは真実です。
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