一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
精神の医学
何故、完璧主義になるか。それは自分に自信がないからです。自分というたしかなものがどうしても実感できないのです。
それは自分を見ればわかります。何かしていないと不安で動きまくる。決めたことを毎日やらないと気が済まない。
一度やりだしたらなかなかやめない。周りが見えなくなる。自分の意見よりも他人の意見を尊重する。その割に人の意見をあまりきかない。我が強い。変なところで強く、変なところで弱い。努力家。神経質。
まあ、自分のことを書き出してみたらこんなふうになりました。
先日、もし私が僧侶になっていなかったら結構サラリーマンで出世できたのではないかと妻が言いました。どうしてと聞くと、とにかくよく働くからだだそうです。
なんだか内心、少しうれしい気もしましたがそれはないだろうとも思いました。
それは先ほど書いた性格が生き方の限界を作ってしまうからです。もし、サラリーマンをしていたらたぶんやめていたと思います。
私は僧侶でいることでこうして普通にしていられるのです。
そう考えると恵まれていると思います。仏教は精神の医学ですから。
もし悩んでいる人がいたら少しでも力になりたい、そのように思います。
シートベルト
今、真面目で頑張り屋な人ほど自信をなくしがちです。いったい何を基準でそうなるかは本人にしかわかりませんが今の世の中の流れの中で自信満々に生きれる人なんかはそうはいないのではないでしょうか。
つまり時代の流れが加速してきたといえるのです。
皆さん思い出してみてください。一年前の自分を。世の中を。社会を。
誰が今のこの状態を想像できたでしょうか。
総理大臣が安倍さんから菅さんに交替しました。あれだけの長期政権で世の中で活躍していた安倍前総理はもうすでに後ろにさがってしまっています。何も大騒ぎにもならずに。
自分たちの脳裏の記憶と習慣が今の時代の速度に追いつかないのです。だから、
真面目な人ほどこんなはずではなかった。もっと自分はできるはずなのに。自分はもうだめではないか。限界。
そう思ってしまいます。そもそも去年までできたことができなくなったのは自分だけのせいではないということが脳に浮かんでこないのです。
よーく考えてください。これからもっと時代は加速していきます。前のようにいかなくてもただ生きているだけでもそれでもいいのです。振り落とされないようにつかまっていることしかできなくても赦される時代です。
とにかく一年後はどうなっているかわからない時代です。皆さんシートベルトをしましょう。
無理せず
今日はお休みで妻とお不動様のお寺にお参りに行きました。
秋晴れの中、気持ちよくお参りできました。
お寺はいつ行っても心が落ちつく場所です。
静かな時の流れが自分の日常のあかをリセットしてくれます。
何気ないこのような習慣が自分にとってはとても大切なのだと思いました。
人はもしかしたら自分で思っているよりも強くまた弱いものかもしれません。
なるべく、自分にとって合う生き方を選択することが大切です。
皆さん、無理せずにいきましょう。
この世は修行の世界
また人気俳優が自死を選びました。残念で仕方ありません。
ある記事に三浦春馬さんの死にこうコメントしている人がいました。
三浦さんはストイックで役に対して真摯に向き合ってとてもまじめないい人。それをメディアではさかんに報じがちだけどあまり悪く言う人がいない。
しかしそれはとても危ういこと。三浦さんは自死という間違ったことをしたのです。その事実を隠したままいいイメージだけを報じていると自死しても悪く言われないんだと勘違いしてしまう。
確かにそのように思います。真面目な人ほど自分を追い込んでしまうから仕方ありません。
私は毎日生きていて死にたいと思うことがあります。僧侶の私がそのようなマイナス思考でどうするのかと思われるかもしれませんが実際、生きていて楽しいと思えることがなかなかないのでそういう思考になりがちなのかもしれません。それはコロナの時代になってから余計にそう思うようになりました。
しかし自分ひとりならいくらでももういいと思えます。しかし家族のこと、特に子供のことを考えるとそのように思ってられないと心がキューンとなるのです。この子の為に頑張らなくては強い自分になります。
勝手にそう決めつけるのも違うかもしれませんが世の中の人で私のように生きていて楽しくないと思っている人はたくさんいると思うのです。
その時は一度、考えをまるっきり違う方向にむける必要があります。最初から高望みしなければいいのです。今日一日をそれなりに目の前のことをただ必死にこなしていればそれでいいのです。
楽しくなければいけないみたいな前提があるからつまらないと思ってしまうだけで人生にへんな期待をもたない方がかえって楽しくいきられるはずです。
何度も言うようですがこの世は修行の世界。修行は楽しくないものです。そう考えればこのぐらいでいいのだらまだましと思って今日を生きた方がなんだか楽しくなるように思えませんか。
師とは
努力や根性では越えられない壁がある。
私もそう思います。まず精神的に追い込まれれば努力してもそれが効果的なものにはなりにくくなります。
本来人は頑張れば頑張ったぶんだけ何かしらの効果を感じ、それを喜びとしてまた努力をするという循環を生むことができます。
しかしそれは心身が効率よく機能しているときであってもしそこにズレがあればまるでボタンを掛け違ったようなものになってしまうのです。
あれ、おかしい。なんかうまくいかない。
そこで必要なのが師といえる人の存在です。その存在はまるで灯台であり、羅針盤になってくれます。
私も学生時代、それを強く感じたことがありました。まるっきり信仰がどういうものかを知らなった頃。
精神の悩みに追い詰められて死を覚悟していました。
しかし運がよく私は人生の師ともいうべき存在にその時に出会ったのです。
もちろん努力するのは自分です。それには怠りがありませんでした。その上で今、自分がどのような状態であるのか、そしてこれからどのようにしていけばいいのかを示してくれたのが師だったのです。
人生においてそのような出会いを繰り返して私は今まできました。私に特別な能力があるとするならば直観で誰の言葉を信じればいいのか、誰に導いてもらえればいいのかが分かったことです。
もちろんそれも自分の努力あってのこと。
今、もしそんな師の存在を希望している方はまずは我慢し、努力することです。その過程の中で必ずこの人だという存在を見つけることができます。
今を怠ることなかれ、神仏は見ています。
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