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夢物語

私の実家では宴会の席での最後には必ずうどんを出しました。そのうどんの汁は味噌ですが熱々にしてそこにうどんの束を入れてフウフウしながら食べるのです。あと七味唐辛子をたっぷりっかけて。

父親は美味しそうにいつも食べていました。その食べ方をいつのまにか受け継いでいる自分に時々気づきます。

また鏡にうつる自分の姿。とくに上半身なんかはどこか色白な肌が父親そっくりです。

二人で伊勢神宮に行った時に父の背中をお風呂で流しました。たぶん今の自分くらいの年齢だったと思います。

人生あっという間です。

いまだに一緒にお風呂に入っている娘もいつか私のしぐさや姿を懐かしむ時がくるのでしょう。

世界情勢が大きく動く中、私達のような一般市民はとにかく家族と幸せに暮らしたい、それだけを望んでいるはずです。
ロシアとウクライナの国民も。

なんだかいつのまにか願っていない方向に世界は向けられているように感じます。

世界中の人が幸せに暮らせる戦争のない世の中というのは夢物語なのだろうか。
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課題

これだけインターネットがひろまり、情報化の進んだ時代。手に持つスマホひとつでまるで便利な図書館のように見たいもの、知りたいものが即座に手に入ります。

ただいくら情報を頭に詰め込んでもそれで智慧が授かっているとは言えないのが現実です。
もし文明がこれだけ発展し、人間も進化したというなら今のような世界ではあまりのも未熟すぎる、地球に神といえる存在が宿っているのなら必ずそのように思うでしょう。

森林伐採による自然破壊。二酸化炭素によるオゾン層破壊。天然資源の枯渇。国同士の争い。戦争。地球を何度でも破壊できるほどの核爆弾の保有。
貧富の格差。人間の身勝手な理由のために絶滅していく動物たち。

地球上で生かされ生活しているのなら「地球にやさしい」生き方が一番のぞまれるはずなのにまるで逆を行っている現代文明。

よく金星や火星は未来の地球の姿だといわれます。古代文明が戦争により生物がすみにくい今の形に変貌してしまったのだと。

今のロシアの暴挙をみると西欧諸国、アメリカとの資源対立に直結します。ロシアは世界中から非難されたとしても自国の利益を失いたくなかったといえるでしょう。
結局は民族の対立なのです。

日本もそう。尖閣諸島を中国が自国と領土だと強く主張するようになったのもその周辺の海底に地下資源があるとわかってからです。つまり自国の利益が優先という考えは古代から今までまるっきり変わっていないといえます。

今後、どのように世界は動いていくか。

それは多くの尊い命の犠牲のもとに共同意識と利益中心からの社会からの脱却を目指さなくてはなりません。

もうこんなことは第二次大戦後からずーと言われてきたこと。でも出来なかったというのが事実です。

人類の存続という究極の選択を迫られてはじめて動きはじめるのでは遅すぎる課題なのです。
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余裕がない

ついこの間まで平和の祭典、オリンピック一色だったのにどうして。

全世界が今のロシア軍、ウクライナ進行を驚きと恐怖と不安で受け止めていると思います。ましてウクライナ国民は国が他国によって蹂躙されているのです。自分の命の危険もふくめてまったくどうなるかわからない状況です。

しかしよーく考えるとこれだけの戦争、もう相当前から準備していたはずです。私たちがコロナ禍の中で日々を生きている中、オリンピックに一喜一憂している中、多くの人の命が奪われる戦争が計画されていた。

私達、日本国民はここで何を考えるべきでしょう。
それは自分たちの国がこのような戦争にまきこまれるはずがないという安易な妄想から、これが現実、国を守り、家族を守り、平和を願う気持ちを強く抱かなくてはいけないという思考にシフトすることだと思います。

ミサイルがウクライナの首都、キエフにうちこまれる様を見るとあまりにも自分たちの今までの世界観とのギャップに思考が混乱するばかりです。

まだ幼い子供が「まだ死にたくない」という映像を見た時に何もできない大人の自分の無力感に胸が締め付けられます。

もう何もかもが大丈夫、なんとかなるという時代は終わりつつあります。ロシア一国の暴挙だと断定するほど簡単なことでもないでしょう。

世界が新しい価値基準を作り上げ、ある一定の国のみ栄えていくような縮図から脱却するべきなのです。

私達の日本も同じです。もう余裕がない。そのように感じます。
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ねこものがたり

くるねこ大和さんの「やつがれとチビ」と「やつがれと甘夏」を娘が図書館で借りてきて読みました。

すぐに読めてしまう本ですがなかなか感動させてもらいました。

一人暮らしのやつがれ(おじさんネコ)が竹藪で子猫をひろう。その雌ネコがなんともかわいくて大事に大事に育てるのだが・・・。
針灸の先生も毎日通って楽しみにしていた子猫の成長。しかしせっかちな性格のチビは突然あの世に旅立ってしまいました。

男やもめの生活にぱっと咲いた一凛の花を突然失う悲しみ。墓前で泣いて泣いて泣き暮らすやつがれ。

宙をとぶ屋形船にあの世に旅立った子猫たちが乗っています。そしてそこからやつがれをみつめるチビ。
浮かべた涙がぽつんと落ちてやつがれにあたります。

温かくて切ないストーリー。どこか「竹取物語」にも似た感もありますが性格のいいやつがれに涙します。

甘夏はその後、やつがれと結婚する肝の座った美人猫。自分をひろって育ててくれた恩人のために(会社が倒産)花魁になりもうすぐ年期明けというところに甘夏の錦絵を見てひとめぼれしたやつがれが現れるのです。

三年かけて貯めたお金を花魁に会うためにつかうのですが甘夏もその真面目で不器用なやつがれに惚れてしまうのです。この時はいつもの針きゅうの先生とチビが亡くなった後に再びひろった子猫のチビ太も一緒。

このチビ太がとても味があってやつがれと甘夏を結びつけたともいえます。

甘夏はやつがれの人の良さを恩人に重ねたのです。(恩人もすでに他界していて二人が結ばれたのを屋形船からながめ安心する)

この後のストーリーもあるのでぜひ読んでみたいです。

それにしてもくるねこ大和さんはすごい才能があると思います。人気ブロガーで人気作家。それもねこちゃんで。

皆さんも機会があれば読んでみてください。
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逆算

仕事上、サイネージと言って個人様の思い出写真をモニターにスライドでながす作業を行います。

だいたい20枚から30枚なのですがそこにうつる個人様を見るとその人の人生を少し垣間見ることができるのです。

若かった。

自分も20年前とはまるっきり違うから当たり前なのですがその時代その時代にいきるその姿は生き生きしていて。

やがて年老いて腰もまがり髪の毛も抜けてしわだらけになっていき旅立つ。

誰もが通る道です。それにしても60歳からの無事に平均寿命まで生きられれば幸せなのかもしれません。


この世で生きることは「生きているんだ」という証を体現し続けることだと思います。

実際、こうして息をすることができることさえも奇跡なのかもしれません。

奇跡の連続がこの今です。

どうやってこの身体は細胞分裂をくりかえしているのだろう。その動力に源は。

脳なのか、心臓なのか。

いや、やはり魂です。この光の玉があるかないかでただ存在しているのではない、生きることの意味がそこにあります。

老いることも、やがてこの世を旅立つことも魂の修行ということから考えれば必要なことなのです。

やがてすべての人が体験するこの世との別れ。

そこから逆算してこの世をどう生きるかを考えればこの世を生きるすべを正しく理解することができるのです。
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