のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

2013年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム

 妙に生暖かい2月の初旬になりました。

 インフルエンザから復活したばかりの知人が関節痛に苦しんだ話題になりました。私も風邪でだるくなったなと思ったらあちこちの間接が痛みだし、指の関節痛など今も続いています。

 リウマチになったのか?と不安にもなりましたが、リウマチになったらプリンたいのもつ等を食べられなくなるので、夕食はホルモン焼きとデザートにプッチンプリンを食べました。

 この知人が明日の節分のイベントでやることになっていた鬼の役を私が代行することになりました。

 鬼は「おぬ」が転じた言葉で。いないと言う意味ですね。存在しないけれどどこかにいるかもしれない。人の心の中の邪心のようなものです。しかしながら、世の中では争いごとに敗れた敗者を「鬼」と呼ぶこともあります。

 中国の鬼は完全な「悪」以外の何者でもなく、日本の民主党並みの薄汚い連中。そりゃもうけちょんぱんにやっつけられる対象で、連中は日本人を「小鬼(シャオグイ)」と侮蔑します。 

 日本人は鬼の中に悲哀や気高さを見つけようとする美意識の高い国民なので、鬼がもたらした文化や文明も多々存在します。

 京都の北部、丹後半島近くにに大江山という山があります。酒呑童子はじめコブ取り爺さんや一寸法師の鬼たちが在住していた由緒ある鬼の山です。

 これがまた鬼の山とは思えない風光明媚な景観で、京の都のほうがよほど邪悪が漂っています。

 大江山は鉱山がある山で、たぶん、タタラなどの山の民族を「鬼」と呼んで怖れたのでしょう。

 まあ、鬼の皆さんもわれわれと同じ偏狭の民ですからたまに都会に出てもどこまでやっていいのかわかりませんわな。電車の自動改札にいまだに対応できずに腹を立てている私のようなもので、「このやろう!」と腹が立つことも多々ありますわな。90年代ロシアじゃないのだから、ラーメン食うために並ぶ心情など理解できませんわな。

 そんなわけで「鬼」と呼ばれる意味もわかりますな。

 明日は鬼の心境に立って鬼を演じてきます。

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