野草(イエツァオ)なくらし!

文京区改め金生町で草をアートし売り、食べています

三宅島の事

2006-07-07 13:58:03 | 日記・エッセイ・コラム

客船で八丈島へ行時、途中寄港する三宅島に興味がわき年一回のペースで通いはじめた。

その頃は、米軍基地移転問題が持ち上がっていた。

わりと地味な感じが肌にあった。

何回も通い、清里は山教室、三宅島は海教室として訪れていただけに、

2000年噴火で全島避難という状態は人事はおもえなかった。

2005年避難解除になったとき、一人でも観光客として行くことが、

島のためになるとの思いで行った事を新聞に投稿したのが載りました。

《硫黄のにおい残る三宅島で

        美しき「永遠の一瞬をみた》

5年ぶりにミニバイクと共に三宅島に渡った。

いつでも春で花々の香りと鳥の声が聞こえ、天国とはこういうところかと思った記憶があるが、

今回はいやなにおいがした。

草の葉先が赤茶けていたり、

所により硫黄のにおいもする。

怖いところへ来てしまったと思った。

大路池は以前のままで自然の小道をいくと、

木々にくるまれるようにアカコッコ館もたたずんでいた。

催されていた絵画展で木々の緑、打ち寄せる波、今はない八丁平のススキなどが描かれた絵の題が

「永遠の一瞬」。

都会生活では見過ごしてしまう言葉だ。

老夫婦が浅瀬で貝を拾っていた。

うれしくて仕方ないように見えた。

道路を掃いている人もコンテナからバイクを出してくれた人も、優しくてうれしそうだった。

民宿を出るとき、おもいきって女主人に聞いた。

「おばちゃんはお元気でいますか、」

「はい元気です」

「よかったですね。おいくつですか」

「95歳です」

「よく帰れましたね」

「おばあちゃんがいるからかえれたんです。」

彼女が言った。「帰島して以来,なにもしなくてもうれしくてしかたないんです。」

ガスで立ち枯れた木々は恐ろしいとおもったが、

それなりに美しかった。

人が住めなくなり朽ちていく建物は悲しい。

帰りは海原に浮かぶ島が見えなくなるまで眺めたが、

今回は灰色がかった緑だった。

だが、また来ようとおもう、

「永遠の一瞬」に

感謝して暮らしている人たちの島へ。

以上デス (2005年11月5日東京新聞)

先日島の子供達が3ぶんの一になり、3つあった学校が一つになる話しを聞きました。

まだまだ復興には時間がかかるでしょう。

三宅島は流木、貝他素材の上でも、気持ちの上でも

物を作るのに、とても大事な場所です。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする